15] 罷業不安時代
一、この罷業はなぜ正当か?
東京市電気局は、市電営業による赤字年額八百万円を克服するために、今回主として市電従業員の整理を中心とする整理案乃至減給案を発表した。市会は無論之に承認を与えているのである。夫によると、第一に、従業員一万二百名全体へ一応解傭を云い渡し、之に退職手当二千万円(一人当り平均二千円)を支給した上で、全員を新規定賃金によって改めて採用するというのである。新規定の賃金というのは四割前後(最高四割五分に及ぶ)の減給に相当するのであって、之が適用される従業員数の内訳は、市電関係約七千人、自動車関係約二千人、電灯関係約六百五十人、工場倉庫関係約五百五十人である。第二は、市下級吏員の減員で、之は内勤外勤を合わせて百八十余名の整理となる。
第一の従業員大減給の結果、市財政から三百十万円が浮き、第二の吏員の整理で四十六万円を浮かせ、その他市債の整理で三百万円、電力自給によって二百四十五万円(但し之は五六年経たなければ実現しないが)を節約することが出来る筈で、合計九百万円程になるから、例の赤字は完全に克服されることになるというのである。退職手当の二千万円はどうして造るかと云えば、市債を新しく起こすのだそうだ、吏員は従業員とは異って労働者でなくその数も多くはないので(とでも云っておく他ない)整理されない人間は云うまでもなく、整理される当人達自身も集団的には之を問題にしていないから、世間も又吾々も、あまり之を気に病む義務を感じないのであって、問題はいつもこの市電従業員の方にあるのだ。
山下電気局長はそこで、この整理案によらなければ市電の経営は完全に行きづまり、結局は従業員諸君自身の不為めになるという点を慮って、親心になって整理を断行するのだ、今後は決して整理や減給はしないから、と涙を流して従業員に訴えた。併し東京交通労働を中心とするこの市電従業員達は、この「親心」という奴には余程懲り懲りしていると見えて、言下に之を拒絶して了ったのである。つい一昨年一千三百五十名の整理と一割二分との減給をやったばっかりなのだから、この親心に信用出来ないのは無理からぬことだ。
局長以下二千名の俸給はそのままで、従業員だけが約半額の減給というのだから、誰だってこんな親を本当の親とは思うまい。二千万円も退職手当を出す(場合によっては一人五千円近くにさえなる)のだから、文句は云わぬ方が良かろうと、それに退職手当を勘定に入れると、実は四割五分どころではなく、僅に四分乃至一割九分の減給でしかなく、場合によっては増給にさえなるから、良いではないか、グズグズ云うと退職手当を踏み倒すだけでなく、共済会で出す筈の金も半分ばかり踏み倒すぞ、と市当局はいうのである。併し冗談もいい加減にして欲しいので、退職手当は減給などとは無関係に傭員規定で決っている従業員自身の積立金で、自分の積立てたものを自分が受け取るのは別に変ったことではないのである。仮にそうでないとした処が、あと十年つとめれば十年だけの退職手当の増加もある筈の処、今の計算で之を貰うのでは何のことはない、年功加俸を踏み倒されるようなものだ。(而も噂によると、今渡すのではなくていつか退職する時渡すことを今から約束しておくに過ぎないということだ。)それから、仮に一時金として二千円貰った処で、之を今後の十年間で割れば年二百円でしかない。それと引きかえに日給が初任給より僅かに高い程度のものに引き下げられるのだ。だから、減給率が四割五分の代りに一割何分だとかいう市当局の弁解(之は新聞でも算出してあるが)は、一体何を根拠にしたものか、数学的に極めて疑問でなくてはなるまい。流石の警視庁も気が引けたと見えて、強制調停を見越して、市へこの点につき質疑を発するそうだ。
局長の親心には、こういう数学応用の手品があるばかりではなく、他に行政的な手品もあるのだ。一旦馘首して全部を改めて採用するというやり方が、仲々上手な減給法であるばかりではなく、もし万一之に多少とも困難が伴って従業員に不穏(?)な行動でもあった場合、それ等の従業員に限って再採用しないということにすれば、甚だ円滑に不良(?)従業員だけをピックアップして、平和に閉め出すことが出来るというわけである。
話しは変るが、東京市会が本年度の予算編成に際して、市会議員の歳費千二百円を三千円に増額お手盛りしようとした事実を、読者はここで思い出して欲しい。尤も之はいくら何でも外聞が悪いというので、その代りに市政調査費という名目で市議一人当り年八百円、更に今度は新設貯水池の着工促進に関する事務嘱託という名目で一人当り五百円、を分領することに、市議達自身で決めたという事実である、一事が万事この調子でいながら、傭人税とか倶楽部税とかまでを新設した勝手な市当局者である。或る人は、今に猫にでも税をかけねばなるまいと云っている。だから、市電の赤字は市電の従業員の責任に他ならぬと、この我儘な親達の親心は思っているに相違あるまい。それでなければ市財政全般に亘る緊縮の必要は一向顧ずに、相不変、従来通り市電従業員に全負担を転嫁するというような気にはならない筈だ。
尤も、市財政全般の窮状は主として市電の赤字に責任があることは事実で、市電は之までに約二億円の負債を稼いで来たのである。だが之は何も市電が悪いのでもなければ、況して市電従業員が悪いのでもない。大東京市の近代資本主義的発達に伴って、交通機関が極度に発達した。その結果、実を云うと路面電車程時代後れな交通機関はなくなったのである。之は処が別に東京だけの特別な現象ではないので、外国の近代都市にはいくらでも前例がある筈だから、こうした愚劣な電車を今時運転しているのは明らかに「市政調査」の好きな市議達の、怠慢だと云わざるを得ない。関東震災を期として、多分市電は一掃されるべきであったろうに、その折の五千万円の損害にも屈せず、ワザワザ市電を復興して了った責任は市当局にあるのだ。この時市電自身を整理しておいたら、今になって市電従業員の整理の必要などは起きなかったのだ。この市電従業員整理案、乃至之に基く従業員のストライキは、云う迄もなく資本主義発達の一矛盾の現われだが、夫が特に資本主義の技術的発達に於ける矛盾を最も直接に表わしている処に、この問題の特異な点があるのである。
だから、いくら山下局長が今後に於ける整理の打切りを声明しても、それが見す見す嘘になることは判り切っているので、実はそういう人為的な姑息な手段では、市電の運命の大勢はどうにもならないのである。市当局者の親心は無論この消息を知らないのではない。彼等は今度の整理で市の財政が立ち直るなどとは夢にも信じてはいない。だがいくらそうでも、とかく気休めと一時逃れというものは好ましいものだ。処が気休めや一時逃れのための犠牲とするには、自分達親心の所有者達の一身はあまりに貴重だ。そこで従業員の生活がこの気休めと一時逃れのモルヒネの注射としての犠牲に供されねばならぬわけとなったのである。思えば山下局長の心事誠に悲壮なものがあるではないか。
さて市電市バスの同盟罷業だが、争議団は東交幹部四十五名の解傭や、一般解傭の威嚇や、従業申し出での誘惑にも拘らず、一糸乱れず合理的に且つ合法的に罷業を行っていると伝えられている。尤も内部にも東交と日交との区別はあるらしく、市当局が最後会見を申し込んだ時、日交代表だけはノコノコ出かけて行ったし、又同じくこの日交の幹部三人が、争議の真最中に独立に警視庁官房主事を訪問などしていて、意味の通じない談話を新聞に載せるなどしてはいるが、争議団大衆は極めて組織的であるように見受けられる。だが問題は相不変今度も、各種の外部市民からのスキャッブだ。
電気局当局は争議団に対抗すべく市営のスキャッブ団を組織して電車やバスを予想外の数を運転しているらしいが、その過半数が市民からの志願者乃至義勇軍だということが問題なのである。之は例の防空演習とも関係があるのだが、東京市内外の都市には防護団というのがある。之は大震災当時は××××××××××××××××的行動を敢てした小市民小商人を主体とする団体の後身で、この前の防空演習には、×××××××××××たものだ。この間の防空演習では大分落ち付いて来て、×××××になったようだったが、之に眼をつけたのが市当局で、予め各区の防護団に、いざという際にはよろしく頼むと渡りをつけた。防護団とまぎらわしいものでは例の青年団というものがあるが、之は田舎だけかと思ったらこの頃は東京にもあるらしく今度は方々の区から制服を著たこれ等青年団員が出て、千数百名もの者が市電の車掌をやっているそうである。変っているのは板橋区議の九名がバスの運転を志願したことで、之等区会議員諸君は、この心掛けなら今に市会議員に出世するだろうという噂さである。
市電従業員の一部からなる修養団の代表者などは、警視庁の特高部長を訪問して、何とか早く解決して呉れないと困ると述べて来たそうである。市民としての修養にさしつかえるからとでも云うのであろうが、労働課や調停課に行かずに特高部へ行ったのは、多分修養団が特高と仲が好かったからに過ぎないだろう。それから新聞の伝える処によると、藤沼警視総監が、強制調停の見込みが立たない時は個人の資格で乗り出すかも知れないそうである。どういう意味なのか実はあまりハッキリ飲み込めないが、之も多分一市民の資格で乗り出すということだろう。
処が実はこの「市民」という資格が甚だ困りものなのだ。なぜなら防護団や青年団やの或る者、臨時雇ルンペン、其他其他の争議スキャッブが皆「市民」の立場から発生するのだ。変な税金を取り立てられ、市議の勝手な財政政策(?)によって自由にされていながら、その破綻を瀰縫するための市当局の無茶を見て、却って忽ち市のためとか公益のためとかいう「義勇性」を発揮する。そして市民が足を失うのはとに角不正で困ることだというのだ。こうした、オッチョコチョイな「市民」は一切の市内交通が思い切って杜絶でもして本当に痛い目に合って見ない限り、交通労働争議の本当の意義が判らないだろう。
「市民」がたよりにならないとなると、之に代る資格は「軍人」である。御承知の通り、吾々日本人は、凡て市民であると共に軍人なのである。軍部は今度は絶対静観すると称して、在郷軍人の軽挙妄動を厳に戒めているらしい。之は甚だ結構な当然なことで、折角の「軍人」までが「市民」になって了って貰っては困る。――だが、元来軍人と市民とは案外仲がいいもので、今日最も勇敢な「軍人」は他ならぬ八百屋の小僧や呉服屋の番頭で代表される「市民」なのである。尤も、市電従業員は火薬や大砲を造る労働はしないし、市電は国有鉄道や満鉄や北鉄と連絡はしないのだから、市電従業員の罷業は、仮に「市民」にとっては大問題であっても「軍人」にとっては静観の対象に止まることも出来るのだが、文部省は天下の形勢を観て取って、青年団が争議破りに関係することを戒めようとする意向になったらしい。処が青年団の或る代表者は、個人の資格でスキャッブに参加するのなら好いではないかと云っているが、その個人の資格というのが取りも直さず市民の資格のことで、之が一等困りものなのだ。
軍部を初め文部省、それから内務省、大蔵省、警視庁に到るまでが、今度の市電争議に就いては争議団の方に従来に較べて多少の同情を示しているように一見見えるということは事実だ。相不変オッチョコチョイに躍り始めた「市民」達はそこで、一寸拍子抜けの態のように見える。市電従業員の日給は元来可なりに高すぎたから減給するのは当り前ではないかとか、苟も公共事業である市電でストライキをやるなぞは非国民この上もないとか、相不変のヨタ捏ねてフラフラと立ち上った「市民」は、思惑が大分はずれたことに段々気づいて来たらしい。
その最も手近かな原因は、争議が秩序正しく且つ純経済的なので、口を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)む余地がないからばかりではなく、実は「市民」達が足の不足を大して感じる筈のない程度に、市電や市バスが動いている、という都合の良い事実にあるらしい。処が一方市民が大いに困らなければストライキの本当の効果はないのだ。この矛盾の兼ね合いに、今度の市電争議の特色の凡てが横たわっている。この一点を少しでも行き過ぎると、争議は「治安」を害したり「不正」なものになったりするのである。その時は軍部や警視庁の「同情」を失う時で、同時に「市民」が時を得顔に、スキャッブとして活躍出来る時だ。
争議団中の東交の在郷軍人達が集って、在郷軍人徽章をつけたり軍服を着けたりして、主として軍部関係者へ陳情に出かけた。この争議の特色である。世間から見た一種の「正当さ」は、この陳情風俗に最も簡単に現われているのである。この争議は単に、国憲的なものと実は之と一つである資本主義的なものとの間の、外見上の対立を特に象徴させるために、今度のように正当化されているものに他ならない。でそう考えると、この争議の価値は、それが模範であるだけに、争議自身としては大した価値のものではないと云わなければならぬかも知れない。――だが時は凡てのことが異状を呈する非常時だ。この非常時にとに角こうしたストライキが起き得たということは決して意味の少ないことではないのである。そして、市民が従来ストライキというものに就いて持っている各種のヨタ観念を清算すべく、市民に常識上の訓練を与える点では、この争議はまず満点だと云ってもいいだろう。
二、不安時代
満州帝国駐在日本大使館領事館の高田代理検事は、瓦房店警察署長以下十三名を、密輸問題にからむ涜職の容疑で召喚しようと思って、召喚状をつきつけると、警察側は之を開封もしないでつき返してよこした。検事は重ねて之を警察に送ってやると再び警察は之を営口領事館へ返送して来た。一体之まで満鉄付属地の警官は、関東庁の警察官であると同時に領事館の警察官であって、二つの資格が一つになって働いていたのであり、従って当然領事館の検事の手足として活動すべき筈の存在であったのだが、関東庁側と領事館乃至駐満日本大使館側とが対立した結果、警察官が検事と対立するという、治安維持の上から見て危険極まる奇現象を呈することになった。
云うまでもなくこの現象は、例の在満機関の三位一体に関する諸改組案の対立から来る一結果に過ぎないのであって、最近外務省案と陸軍案とは著しく接近して来、やがて陸軍案が中心となって現地案が出来上りそうな動きが判っきりして来たが、拓務省案は之に反して、全く尊重されないようになって了った。単に拓務省案が駄目になりそうなばかりではなく、××××××××××××××××××、すでに、拓務大臣の専任はなくなっている。そこでおのずから外務省に対応する駐満大使領事館の検事と拓務省に対応する関東庁の警察官とが原地に於て対立するわけになったのである。積極的に出て来たのは、無論改組案の優秀な方の検事側(外務省側)で、之に対して拓務省側の警察官がヒステリカルに喰ってかかっているのである、「警察官の召喚は、拓務省側関東庁側の排撃を意味するものに他ならぬ。今彼の涜職事件に関する限り、関東庁警官は絶対に潔白だ」と瓦房店署長は云うのである。
そこで陸軍省側に対応するものだが、関東軍司令部の憲兵隊司令官岩佐少将が、調停を買って出たらしい。調停の条件は正確には判らないが、今後検事の任命に就いては関東庁の諒解を求めることにし、例の高田検事による取り調べも関東庁と協力してやるということで解決したらしい。そこで検事は三度瓦房店の署長に召喚状を発することになるらしいが、署長がどういう態度に出るかによって、事実上問題はどうなるかは判らない。
だが実は事の真相はあまりハッキリしていないということを忘れてはならぬのであって、関東州法曹団約七十名は、検事の召喚を拒んだり憲兵が憲兵司令官の命令に従って検事の命には従わなかったなどの、一種の司法上の分解作用を不安がって、司法権擁護のために真相調査に着手したそうである。
で満州に於て或る意味で司法権と警察権とが喰い違いを来している間に、永遠の楽土満州には依然として匪賊の絶え間がない。王道楽土に匪賊が絶えないのは、つまりこの匪賊達が王道楽土反対主義に立っているからであり、従って必然的にそこから結論されることは、匪賊が「赤い魔手」に操られているに相違ないということである。併し之は満州の王道楽土のことで、資本主義日本が与り知ったことではないのだが、併し、あまり、日本がヤイヤイ横から口を出して、喚いたので、ソヴィエトは遂に感違いをして、日本に向って喰ってかかって来たのである。即ち満州帝国が北鉄従業員を「赤」の嫌疑(!)で検挙し、之が思う壺に[#「思う壺に」は底本では「思う壼に」]嵌って、匪賊をして列車顛覆掠奪等をさせる組織を造っているのが判ったと日本が云ったに対して、否実は誰もそんなことは云った覚えはないと思うが、ソヴィエトは、何と思ったか満州帝国ではなく日本帝国に向って抗議をして来た。日本側のこうしたデマは全く最近の日本の×××意図を物語るものだとユレニエフ大使はいうのである。まるで××××××××××ってでもいると云ったような口吻である。
広田外相がそこで之を反駁して云うには、第一満州がやったことの尻を日本に持って来るのは見当違いだし、それに匪賊によって顛覆された列車は軍用貨物列車に限られていたり、日満人がやられるのにソヴィエト人は被害を被らないなどの点によって見ると、之は明らかにソヴィエトの或る種の司令に基いているに相違ないではないか、と。――無論こうなれば水掛け論で、満州の背後に、日本がいるのは別として、もし匪賊の背後に(?)ソヴィエトがいるとすると、匪賊の活動と匪賊の討伐なども、もはや決して満州の問題には止まらない意味を持ってくるわけだ。そして×××××××××であることを希っているようだ。(ソヴィエトの方はあまりに×××いないと見えて之を否定しているわけである。)そうすると之は瓦房店の署長討伐どころではない大問題だ。
とそう思って幾日も経たないのに、又々北鉄本線ハルピン新京間で旅客列車が匪賊の手によって顛覆され、多数の死傷者を出し、邦人数名が人質として拉致されたという事件である。ソヴィエトの魔手もこう帝都のすぐ近くにまで逼って来たのでは、満州楽土の治安も累卵の危きにあると云わざるを得まい。
だが、よく考えると、顛覆したのは軍用列車でもなければ貨物列車でもなかったから、例の広田外相の論拠によると、恐らく之は例のソヴィエトの魔手という奴ではないかも知れない。でそうなら吾々はこの点却って、この事件のおかげでホットすることが出来るわけだ。まして拉致された日本人が無事に帰って来たと聞いて、満州の多難にあまり神経を嵩ぶらすに及ばないではないかと、考えが多少は楽観的にもなるのである。
処が列車顛覆事件のあった翌々日が九月一日である。この日は関東震災から丁度十一年目の日で、地震や火災の焼死は云うまでもないが、それ以外の×××××××××××××××××××××××××××××、凡そ忘れることの出来ない記念の日なのである。処で去年以来この多難の日が防空演習日に当てられることになったらしいが、之は非常に気の利いた比喩だと私は思っている。関東震災と帝都空襲とは甚だ直接な連想を有っているので、単に空襲が家屋の倒壊や焼失を惹き起こす点で震災を思い起こさせるばかりではなく、その他の×××××××××××させる点でも震災とそっくりだからだ。
今年のは念が入っていて、可なり強い風雨にも拘らず、東京川崎横浜の三都市は完全な燈火管制を実施し、高射砲の空砲の音までがラヂオで放送されたのであるが、そしてその合間合間に極めて雄壮な軍人や有志の講演が※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)まれていて私などは戦争というものが実に××××××仕事のように思えて来てならなかったのだが、それはいいとして、防空演習の想定なるものを聞いていると、問題は北鉄に出没する匪賊のことどころではなく、正に自分の頭上にあることが気になり出して来るのであって、又々不安に襲われ始めるのである。赤い魔手は新京の近くどころではない、東京の頭上に臨んでいると、ラヂオは悲壮な声で叫んでいるのである。
私は併し、防空演習のラヂオ放送を聞きながら、一種特別な心配に支配されざるを得なかった。と云うのは、又例の××××××がこのラヂオ放送などを耳にして、日本の軍部はこんなことを云ったあんなことを云ったと云って、愚にもつかぬことを×××××××しないかということだ。何も云わなくても云ったという男だから、ラヂオで聞いたことなら見逃す筈はあるまい。尤も仮に捻じ込んで来ても北鉄従業員検挙事件のように逆ねじを喰せることが出来れば心配はないが、こっちの方がそう行かないとなると困りはしないだろうか、というのが心配になり始めたのである。――吾々はこうやって、夫から夫へと不安に駆られながら、段々興奮して行くのではないか、という不安がある。
(一九三四・一〇)
[#改段]
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