2016-04-12

22] 大学・官吏・警察

22] 大学・官吏・警察

   一、杉村助教授の場合

 東京商大の哲学者、杉村広蔵助教授は、学位請求論文(商学博士の)「経学哲学の基本問題」を同大学へ提出した。同助教授は助教授とは云っても年配や有名さや何かから云って方々にあるかけ出し助教授(つまり昇格した助手)とは異って、云わば堂々たるものなのだし、それに学内に於ける評判と人気も大いに良い方なので、多分誰でもこの論文は教授会を通過するものと思って怪まなかっただろう。当人だって、そう思えばこそ提出したので、帝展や院展、二科の出品などでも多少はそうかも知れないが、大体を瀬踏みをしてからでないと、学位論文はウッカリ出せないものである。
 尤も杉村氏のような場合、生え抜きの商大人なのだから、特別の瀬踏みの必要もないように思われもするのだが、併し、仲々そうは行かないらしい。元来ブルジョア学者の学問が公平無私で「客観的」であることを以て、即ち不偏不党の中立主義であることを以て、「科学的」だと称されているのは、世間周知の通りであるが、併しその結果、それだけにブルジョア学者そのものの人柄に就いて云えば、主観的で分派主義的で、即ち非科学的な人物が少くない。公平無私で客観的で科学的な「学術論文」を、この私党的で主観的で超科学的な惧れのある学者から出来ている教授会の渦中に引っぱり出すのだから、「学術」なるものも決して安心してはいられないのである。
 論文の審査員は経済畑からの高垣寅次郎教授と哲学畑からの山内得立教授であり、この二人が之を「学術的」に学位に値する(即ち大学院卒業程度乃至夫以上の学力あることの証拠)と認めて、教授会にかけた処、不思議なことに、いや果せる哉、出席教授二十一名の内、賛成十四票、賛成でもなく不賛成でもなくそうかと云って棄権でもない処の白票が七つ、という結果になって了った。規定の四分の三の賛成者を得ることが出来なかったので、結局この論文は教授会を通過しなかったのである。
 そこで驚き且つ怒った杉村助教授は、一方辞表を提出すると共に、論文を岩波書店から出版するに際して、その序文にこの不通過の顛末を書くことにしたそうである。まだその序文を私は見ないから、どういう点に氏の忿懣が集中されているか判らないのだが、助教授団や先輩団が、この問題をキッカケにして教授団攻撃や佐野善作学長の辞職勧告に進んで行く処を見ると、恐らく学閥とか学内セクト対立とかが、氏の私かに触れたい要点ではないかと想像される。
 形式的な問題として見れば、審査員が認めても教授会で認めないということは、当然あり得て然るべきことだ。博士は単に学術優等だけではいけないので、思想的にも道徳的にも社交的にも品行方正でなくてはいけない。処が二人位いの審査員は他人のこの品行が方正かどうかを、審査することは事実上出来ない、之を審査するのがまず第一に、他人の噂を色々と知っている(釣や囲碁や談笑酒席?の間に)教授団に限る。その次は文部省のお役人が之を審査する。尤も文芸懇話会の松本学氏のような人を学長か総長にすれば、この学長か総長がよろしく工作を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)むかも知れないが。
 だから審査員が認めたのを教授会で認めないということは、元来少しも変なことではないのだが、併し他方から考えて見ると、審査員に選ばれた教授は云うまでもなく、教授達の内で一等その論文のことの判る人間なので他の教授は大抵の場合、他人の論文の詳しいことがそう一々判るものではない。そこで本当を云うと、論文提出者とその審査員との人物が気に入る入らないは別にして、論文そのものに就いて云うなら、審査員の学術的資格を信用して了って全員賛成するか、それとも之を信用する気にならなければ、賛成でも不賛成でもない白票を投ずるかの他はないのである。処がよく考えて見ると之も亦変なもので、教授会の権威から云って、あの論文の良し悪しは判りません、というような態度は許せないことだろう。では欠席するかというと教授会を勝手に休むことは官吏の服務上之亦許されないことだ。
 博士というものが学術優等で且つその上に品行まで方正でなければならぬと仮定する以上、右のような八方ふさがりに陥るのである。処がこの二つの資格は云うまでもなく日本では絶対に必要なのである。第一日本に於ては学術そのものが国家に(社会にではない)枢要なものでないといけないらしいが、その国家で建てた、又は之に準じている大学の学問と之を奉じる人物とは、云うまでもなく国家的見地に立って品行方正であることが必要だ。第二に、併し大学の教授団は、共同研究をする機関などではない、大学教授の研究は各自独立に排他的にさえやることになっているから、教授団乃至教授会は研究機関ではあり得ない。そうすると之は一種の同職組合、学術業のギルド組織に似たものだろう。このギルドの気質かたぎと仁義にかなわないような学問や人物は、「学術」でもなければ「学者」でもない。処がこの学術業ギルドは、東大は東大、京大は京大、慶応は慶応と夫々気質と仁義とを異にしている。同じ商大でも東京商科大学と神戸商業大学とは仁義は反対だ。処がこの同じ東京商科大学ギルドの内でも、仁義に流派があって、或る一方の仁義から見て品行方正な学問と人物だけが「学術」的となる資格を有っているというようなわけだ。
 さて事実、東京商大にどのような仁義があるか、私はよくは知らない。なぜ国立というような無人の荒野にわざわざ持って行って、教会かチャペルのような建築の商人の大学を造ったのかさえも、私には判らない。併し凡そ官立大学(帝大を含めて)や之に準じる公私立大学一般の、学術の優等振りと品行の方正振りとを、即ち大学の科学振りを、吾々は大体に於て知らないのではない。それから又杉村氏の科学上の研究を一々専門的に知っているのではないが、氏の大体の科学的な水準に就いては、あまり見当違いでない判断が出来るだけのチャンスを吾々は持っている。そこで大学のこの科学水準と、杉村氏のこの科学水準とをつき合わせて見ると、どう間違っても杉村氏は立派に博士に及第しなければならぬ、というような気がするのである。
 私は日本で出版された所謂経済哲学に就いての研究を、三つ四つは見ている。故左右田博士の論文集や故大西猪之介氏の『囚われたる経済学』、学位論文としては京都帝大の石川興二氏の「精神科学的経済学の基礎問題」と法政大学の高木友三郎氏の「生の経済哲学」など。之に比較して見るならば、まだ見ないのだが多分今度の杉村「博士」の論文は決して遜色あるものではなかろうと僣越ながら推測されるのである。
 杉村氏は人の知るように左右田喜一郎氏の経済哲学を継承発展させた所の学者である。処が左右田氏は銀行家としては失敗したが、ブルジョアジーの代弁的哲学者としては、とに角押しも押されもしない代表者であった。今日のブルジョア社会では、却ってああいう形式主義的な合理主義は流行らないが、それは云わば封建的要素と結合したブルジョア社会のファッショ化の結果であって、形式主義的ナショナリズムはブルジョア科学用のイデオロギーの一要素として、今日でも立派に国家的、「学術的」、大学的な通用性を持っている。この極端な代表物が杉村氏の哲学であり、その粒々たる苦心の結晶が、多分今度の論文だろうと思う。
 経済学と哲学とに両股かけていようと、経済学でもなく哲学でもないにしても、それから又、こうした苦心が結局は玩具製造人の苦心に類するもので仮にあったとしても、今日の大学がこの「学術的」労作を握りつぶし得る義理ではあるまい。――杉村氏や少壮助教授や学生達が「学術刷新」と「学園振粛」とのために起とうとしているのは、正にこの意味なのである。
 ブルジョア大学が、アカデミックに又恐らくギルド的に申し分のないこのブルジョア科学的労作を「学術的」なものと認めないとすると、一体今後大学は、どうする心算なのだろう。之はブルジョア大学がみずから墓穴を掘るものでなければなるまい。問題は所謂、「大学」(独り東京商大に限らぬ)自身の問題であって、杉村助教授の問題ではない。杉村助教授その人の問題としてなら、いくらでも途は開かれているので、氏がブルジョア・アカデミーの「学術」的なエクスタシーから、之を機会にして、正気に帰るということも、一つの手であるかも知れない。

   二、官吏道

 官吏の身分保障令が制定されてから、既成の上層官吏の異動が[#「異動が」は底本では「異動か」]少なくなったのはいいが、それだけ高等官候補者の出世が困難になり、内にはスッカリ腐ったり上官の失脚を喜んだり、政党内閣の再来を希望したりするものさえ少くないという。官吏の総元締である大臣にしてからが、誰かが死んだりすると、その後釜をねらう者が多くて、その結果岡田首相は一時でも逓信大臣を兼摂しなければならなくなる程だ。上官の失脚を喜ぶ下ッ葉の若い官吏があるのも無理はない。
 内務省の観察によると、高級官吏の若い候補者達のこの憂うべき傾向は、結局今の若い者に腹がないからで、腹を造らせるには、禅寺あたりで修養させるに限るというのである。そこで内務省では全国府県に配属してある見習属約百五十名を三班程に分けて、二週間位いずつ鶴見の総持寺にこもらせ、精神修養と時代の「認識」とを与えることにするそうだ。講師には云うまでもなく、僧侶と軍人は欠かすことが出来ない。教育家と財政家即ちブルジョアの技術的番頭も欠かせない。行く行くは官吏道場というものも造り、腹の出来た若僧役人達が、ワッハッハと豪傑笑いをすることになるじゃろう。
 だが、酒一つさえあまり飲むことを知らぬこの頃の若い者に、容易に腹などが出来るかどうか、可なり危っかしいのである。併し実は腹なんか出来なくても構わないので、いや下手に腹などが出来られては危険でしようがない。精々、出世しなくても不平を云わずにおとなしく働けるだけの腹が出来れば、それ以上の必要はないのである。
 之は官吏の話ではなく、従って本当のお役人とは云えないかも知れないが、この頃東京市の少壮中堅吏員が「市政研究会」という団体を造っている。市政浄化を目ざして吏道の確立を計るのだそうだ。市政を害毒するものを吏員自身の手によって芟さん除しようというのである。既に会員は千名を越えているし、やがて機関紙も発行するし、更に運動を全国の都市の吏員にまで拡げようという。――こうして中堅以下の吏員の横の連絡が出来上れば、心配になるのは〇〇〇〇市区議員や上級吏員や市長や助役ばかりではない。吏道の統制そのものが危殆に瀕するかも知れないのだ。すでに××××に於てこの現象は極めて著しい。文官官吏に於ても、外務省や司法省にこの悩みがなくもないそうだ。だから、内務省だって決して安心してはいられない。知事の卵の腹を造ることは必要だ。併しおとなしく不平を云わずに働く腹を造ることだけが必要なのだ。
 処が民間に能率連合会なるものがある。この能率主義者の一団が、お役人の暑中の半ドンは、晩まで働いている民間の労働者に較べて、甚だ社会的に不当だという考えから、官公庁の夏季執務時間を民間の銀行、会社並みに改めることの可否に就いて、各方面に賛否の問い合わせを発したものである。同会の理事は云っている、「私達のは勿論能率向上という見地からですが……非常時局の折柄指導的立場にあるべき彼等の夏季半休は時代に逆行するものではないでしょうか。」
 問い合わせの先は、特に官公庁を除外したのであるが、約四百通の問い合わせに対して最近までの回答、廃止すべしが二百六十通、従来通りでよしとするもの僅か五十通、という成績である。(尤もこの賛否には夫々の特別な理由が伏在しているのを忘れてはならないが。)そこで愈々官吏側でもこの問題を事務管理研究委員会に付議しようということになって来た。――例の知事の卵とかは、涼しい禅寺でユックリと二週間も修養させられるかと云うと、忽ち半休取り消しという眼に合おうというわけだ。非常時局だから大いに発憤して気勢を揚げようとすると、非常時局だから大人しく朝から晩まで働けと云われる。
 なる程官吏乃至一般にお役人位い社会的に優遇されているものはない。夏季に半休があるなどということは、その優遇の抑々末端である。身分保障、恩給、退職手当、年金、官舎、昇給、其他から云って、決して民間のサラリーマンの比ではない。それに官吏の背景には国家の権威が射している。身は××にぞくしているのだ?――併しそういうなら、民間のサラリーマンを一般の所謂労働者に較べて見たら、サラリーマンは何と社会的に優遇されているではないか。処が又この就職労働者を失業労働者に較べて見たら彼等は何と贅沢な社会条件におかれている事だろう。否、本工と臨時工との差だって実質的には大したものなのだ。失業者だってカード登録者と純然たるルンペンに較べたら、カード氏等は如何に贅沢な社会的厚遇を享受していることだろうか。話は段々細かくなり心細くなるが、社会的優遇の差は、主観の隣接した視界に於ては、その割に小さくはならないのである。
 社会人は誰しも、この社会的優遇(?)の差を不平等で不埒だと考える。この差を除くことが今日の社会人の常識である。処がこの差の除き方には、数学的に云って二つの方法があるので、一つはどれも之も云わば一様に社会的に優遇することによるものであり、他の一つは優遇されたものの「特権」をわざわざすべて廃止して了って、どれも之も最低の社会的優遇(?)に還元しようというのである。処で後の方のやり方を、能率増進とか能率向上とかいうのである。
 能率増進というと如何にも景気が良く、すぐ様輸出の増大とか産業の発達とかを連想するかも知れないが、何でも増進さえすればいいというわけではない。例えば血圧などは増進しては困るものの一つだ。それに能率と云うと如何にも頼もしいのだが、実は能率には二種あって、機械とか工場設備とかいう物質的技術的能率と、労働者の働かせ方とかその労働力の最後的緊張能力とかという人的能率とは別だ。一体エフィシェンシーというのは機械に就いての工学上の概念だったのを、何時の間にか社会の生産機構に持ち込んで来たので、遂に人間の能率(即ち使いべりのしなさ加減)のことにもなって了った。能率という観念の食わせ物である所以は之だ。
 日本の官吏も今や遂にこの工学的な能率増進の対策にされて了った。
 国家の権威を背景としていても、いくら威張っても、官吏は資本制社会機構での一勤労者で、被使用人であることを免れないということになった。こんな判り切ったことを併し、日本の官吏自身も日本の人民も、実は充分突きつめた形では、理解し得ない理由があるのである。名誉ある官吏道なるものがそこにあるからである。

   三、警察明朗化

 八月の上旬に溯るが、小原法相は検事の人権蹂躙問題が議会に於てまで問題にされたのを見て、検事事務調査会なるものに命じて、検察事務改善に関する答申をなさしめた。その答申によると、第一「職務を執るに当りては常に人権の重んずべきことを念おもい、その非違を匡正するは安寧秩序を維持するため已むを得ざるに出ずるものなることを忘るべからざること」、「被疑者其他関係人を取調べるに当りては、其言語動作を慎しみ、苟も取調べを受くる者をして、その名誉信用を毀損せられ侮蔑を受くるの感を抱かしむるが如きことなきよう常に慎しむこと」、又「未決拘留期間の短縮に努むること」、其他というのである。
 帝人事件に関する人権蹂躙事件は、主に検事局内で起きたことだったから、之を直接の動機にしているこの調査会の答申は、云うまでもなく直接には検事の取調べ方に就いての注意だろう。之によると、之まですでに人権蹂躙に近い事件が××側になくはなかったということを自白しているようなもので、国民は之を以て、××が人権蹂躙の事実を或る程度まで暗に承認したものと見做していいのかも知れない。
 それはとに角として、この答申は勿論単に検事取調べの場合に就いてだけ云っているのではなく、司法警察官の取調べ態度に就いても云っているのである。未決拘留期間の短縮云々は、だから警察署の場合では、検束・検束の反覆・拘留及びその反覆の警察官による司法乃至行政処分の期間短縮を含むものと見ていいだろう。拘留か検束か知らないが、左翼思想犯の留置場乃至保護室に於ける留置期間は半年位いは普通になっている今は、この点は大切なのだ。検事局がこの新しい方針? を取る以上、だから警察も亦この方針を取るべきであるのは言をまたない。
 東京地方検事局の猪俣検事正は、今度検事と司法警察官との連絡を密接にするために、検事の警察巡回制度を実施することにした。地方検事局の検事三四名が、一カ月に二回程度に、受持ちの警察署を[#「警察署を」は底本では「警察暑を」]巡回し、司法警察官の指導を行うと共に、他方では、司法主任を一年に一回十日間程この受持検事の処へつれて来て、検事局や裁判所の事務を見習わせようというのである。之によって、警察官の取調べに於ける人権蹂躙を防止し、事務をスピード化し、警察を明朗化出来よう、というのである。
 検事正はそこで、地方・区・検事局の検事を呼び集めて、次のような内容の訓示を与えた。検事と司法警察官との関係は、従来は命令服従という冷かな形式のみの結合であったが、併し両者の関係はもっと温情あるものにならねばならぬ。兄弟も只ならぬように情意投合すべきだ。この理解と至誠との上に立った和を以て根本精神とし、弟を指導する意味で警官に接しなければならぬ。濫りに欠点を挙げ論駁攻撃を加え無能を懲罰するような監督者としての態度は、断然改めなければならぬ、というのである。
 ××××にかけては、警察は決して検事局の弟ではないから、元来が兄たりがたく弟たりがたい関係だったのだが、それが愈々温情ある意気投合をすることになる。尤も幸にして検事側の被疑者に対する人権尊重が強調されるのは先に見た通りだから、この意気投合は大いに歓迎すべきものなのだが。
 かくて警察は追々明朗になって行くということだ。警視庁では管下の警察署を明朗化すために、追々「刑事部屋」の改造に着手することになった。「刑事室」の名に相応わしいように、椅子・テーブル・宿直用のベッドなどをそなえ、椅子に腰かけて被疑者の取調べに当ろうというのである。畳敷きが床板張りになった処で、大して警察が明朗になりはしないと云う人があるかも知れないが、併しそれはそうではないのだ。封建制度下よりも資本制度下の方が、何と云っても野蛮でなく残忍でないのだから、刑事の取調室が近代化せば、それだけ封建的な残忍さは消えて行くだろう。少くとも之はそのおまじないになるのだ。尤も一般に野蛮にも残忍にも、それ自身の進歩があるとすれば夫は又別な話だが。
 併し建築上のおまじないで警察が明朗化するというなら、少くとももう少し迷信的でないおまじないがあるのである。夫を警視庁では余り気づいていないらしい。というのは、建築上効果覿面なのは、留置場の改造と増設となのである。尤も増設の方は、大体あまり景気のいいことではなく、出来るだけ増設などの必要のないようにすべきであり又なるべきだが、少し今日までの警察官の警察技術と心掛けとから云って、増設を必要としないような状態は到底望まれないようだ。三畳敷き程度の処へ、多い時には二十人以上が言葉通りに鮨づめか刺身づめにされるのでは、大抵の留置人は身銭を切っても留置場増設を引き受けたくなるだろう。(そういう事実は調査して見たらば存在しなかった、などと云う勿れ。証人は日本の社会至る処からつれて来て見せる。)馬鹿々々しい牢名主制度などこういう物的条件から起きるのだ。之は少くとも近代化されねばなるまい。
 室の数や広さだけではない、昆虫衛生、入浴設備、排泄衛生、採光、其他に関する改造が必要なのである。この改造費は警察医の費用位いでしぼり出せぬとも限らぬ。留置場から出た国民各自の医療費の一部を喜捨してもらっても、予算は立つかも知れない。留置場を近代的に立派にするのでなければ、刑事部屋にどんな快適な設備をしても、日本の警察は決して明朗にはならぬ。私は敢えてこの意味に於ける警察明朗化を提唱するものである。
(一九三五・一〇)
[#改段]


 八大政綱の弁護


 四月十日林内閣は「八大政綱」なるものを発表した。すでに同内閣が組閣当時発表した有名な政綱があって、夫が祭政一致の宣言から始まっていることは、少なからず日本の民衆を刺※[#「卓+戈」、231-下-4]し、そればかりでなく甚だしく世界の人類を感嘆せしめたものである。処が七十議会を解散した政府は、四月末の総選挙に先立って、改めて政綱を発表するという前振れの下に、国民の注目を惹きつけていたが、遂に夫の蓋が開いた。
 その内容は後にするとして、同じ政府が幾月も経たない内に政綱を二度も発表するというのはどういうことだろうか。前の政綱が不充分であったがためなのか、それとも前のは間違っていたから訂正したという意味なのか、それとも今回政府が政策を変えることにしたというのであるか。だがそういう点には殆んど全く、新(?)政綱は触れていない。七大政綱でも九大政綱でもなくて、精密に八つの政綱であり、之が必要にして充分な数であるらしく思うのが正しいのかも知れないが、そうだとすると増々、前の数政綱の改廃の経緯を説明して呉れなくては困る。この調子だと今後又更に、例えば三大政綱や五大政綱が発表されないとも限らない。そうなるとこの八大政綱なるものの八の字にからまる権威はまことに怪しいものとならねばならぬ。内容を別にしても、その形態分枝自身が信用ならぬものとなろう。それとも八つということに何か神話的な意味でもあるのだろうか。大八洲おおやしまとか「八マタノオロチ」とかとでも関係があるのだろうか。
 察する処、七十議会の解散が国民から意外に評判が悪くて、新党運動さえも思わしくないのを見て相当狼狽した林内閣が、総選挙に臨む、ジェスチュアの一つとして、この八大政綱を声明したものと思われる。そう考えて見れば色々理解出来る点も出て来る。初めの第一回の政綱の方は祭政一致などを先頭にした一種爆弾的な声明であって、国民は恐れかしこむ他ないものであった。凡そこれ程国民の世俗的な生活利害を白眼視した政綱の表現はあり得ないと思われる程だった。国民生活の安定という、既成政党さえ少くとも御題目としては唱えることを忘れない民衆へのさし伸べられる手は、どこにも見えなかった。それが今回の方の声明ではどうだろう。社会政策の徹底とか国民生活の安定とか、農山漁村の更生とか、物価対策とかいう、甚だ神祇性に乏しい政策が掲げられている。之は祭政一致というような宗教的儀式とは凡そ縁のないような世界の自由主義国家や唯物論国家やファッショ国家の、常套語でしかない。こうした俗悪な、民衆的な、非神祇的な、内容が盛られているのである。
 慥かに、民衆は祭政一致論議の霊的儀式には感動しなくても、世俗生活の物的利害には動くものだと、政府は初めて見て取ったらしい。之は現内閣の進歩でないとすれば堕落であるという他ないかも知れぬ。ことに政党や議会を懲戒する程のあらたかな資質を持っている政府が、総選挙如きものに牽制されて、民衆の現実利害などに現うつつを抜かすとすれば、それはみずからその神祇的な権威を傷けるものと云わざるを得ないだろう。あらたかな政府と現を抜かした政府と、一体どっちが本当なのであるか、それが判れば国民の対政府所信もおのずから決って来よう。つまり前回発表の政綱と今回発表の政綱と、どちらが本当なのか、ということに帰するが、所がその二つのものの関係が、一見、一向に声明されていないというわけだ。
 仮に、神聖なるべき国家の祭祀的な政府が世俗の物的な交錯に、不覚にも現を抜かしたものが、今回の修正された改正政綱(?)だとすると、それに何等の特色がなく新味がないと云われるのも、初めから当然だろう。一体現内閣(寧ろ一般に最近の内閣がそうだが)が、何か新味か特色を存っている点は、社会民衆の物的生活利害に就いてではなくて、正にそうした民衆の社会的物質生活を超絶した高みからすることに就いてであった。それが民衆生活の世俗問題にまで天下って来たとすれば、羽衣を失った天女のように、まことに凡庸で取るに足りないものになることは当然だろう。たしかに新八大政綱は、可もなく不可もない(?)通り一遍のものと云わざるを得ないというのが、外見上の事実だ。
 だが、政府がどういう政綱を発表するかというような外見だけで、この政府の実力を推定してはならぬ。この外見からすれば恐らく気が向けば何べんでも色々な政綱を声明するようなダラシのない政府だろう。処がこういう隙だらけの発表やジェスチュアを通じて現われる政府の本質は、決してそんなダラシのないものではない。仮に林現内閣はダラシがないとしても、之に続いてバトンを受け取って走るだろう今後の諸内閣――国防六カ年計画の実施は今後の内閣の性質を客観的にそう規定するものだ――の本質には、国民の眼から見て何か淋漓たるものがあるだろうと思われる。だから案外、前政綱と新八大政綱との間には、一貫した或るものが客観的に存在するのである。この一貫した或るもの、之は実は正確に云うと例の祭政一致のことでもなければ、まして国民生活の安定其他の類でもない。夫が何であるかは、林首相などに聞くより陸軍大臣に聞くのが何より早途である――
 杉山陸相は八大政綱の発表に際して新聞記者に語っている、「決定した新政策は先に自分が師団長会議、東京在郷将官懇談会で述べた国軍の総合的能力の飛躍的向上発展を期するという趣旨と全く一致せるもので、今日ではこの考えは軍民一致、全国民の考えと一致するものと思う。いい換えれば狭義広義両方面の国防的見地から……」云々(東京日々四月十一日付)。陸相の体系によると、八大政綱の一切が、思想問題であろうと国民保健問題であろうと、産業統制であろうと、その他一切の問題が、この広義国防(とは即ち狭義国防のことであることを注意せよ)の見地から、系統的に演繹出来るというのである。祭政一致論議も国民生活安定も加味するの論も、この体系からの単なる個々の演繹に過ぎなかったわけだ。この体系を、今日世間では準戦時的体制と呼んでいる。林首相的表現に於ける八大政綱を如何につつき廻しても、こんな見事な体系を見つけ出すことは骨であるかも知れないが、陸相的表現を借りれば、一言にして明白になる体系だ。国民は、理論的首尾一貫と理論的指導性に於て、どっちの大臣の頭が優れているのか、眼が高いか、いやどっちの大臣の椅子の方が高いかを知るべきだ。
 展望台がどこにあるかが判った以上、之に登って下々の人民共の世界を観望すればよいわけで、そこに展開する蒼生の風のまにまによろめく姿は、八大政綱を以て表現しようが、九大政綱を以て表現しようが、新政綱であろうが、旧政綱であろうが、変りはない。つまりそんなことはのりとかお題目であって、どうでもいいことだ。この政綱の類を神宣やお題目だと云って政府そのものを非難する者は、心ない次第で神宣でお題目である程度のことこそが、偶々正に必要なことだったに過ぎないのである。神話だって題目だって何かの利き目があればこそ世の中に存在するのである。
 さて以上のような点を心得ておいて、八大政綱に一通り当って見ると、之は決してそんなに凡クラな声明ではない、特色があり過ぎる程特色がある。何等の新味がないなどと云うのは政党者流の浅見に過ぎない。抽象的であって何等の具体性もないというのも嘘で、世間がいやという程知っている具体的な内容を、単に抽象的な多少拙劣な文章で表現したに過ぎない。声明そのものというような外面的なものでこの政府の政策政綱をあげつらうことは、出来ない。ただ声明の内に含まれているらしい矛盾だけは少し困るので、声明が矛盾している時は心事にも何か矛盾がある時だが、併し自分の矛盾を気づかない体系も大いに存在し得るものなのだから、例の準戦時的体制という体系の首尾一貫には少しもさしさわりはないわけだ。準戦時的体制という首尾一貫した社会組織そのものの社会的な無理が、偶々まわり廻って、政綱のそこここの矛盾となって現われはしないかどうかは、別としてだ。第一政綱は「文教を刷新すること」である。説明として教学刷新、義務教育延長、学制改革、文教審議機関設置、国体観念の徹底、国民精神の作興、というのがついている。決して抽象的ではなく相当具体的なのだが、国体観念や国民精神というものがなおまだ抽象的だという心配があるなら、それが現政府に於て事実上何を指しているかを挙げて見せよう。文部省は三月末に高等学校并に中等学校の教授要目を改正した。国史や国文の類の時間を殖やし、教学刷新評議会は「国体の本義」の内容を決議し、更に教学局の新設も予定されている。文理大や一二の帝大には「国体学」講座が設けられるらしい。
 都新聞(四月十二日付)によると、政府乃至文部省による「国体の真髓」は凡そ次のようなものに要約される。一、「天皇は現人神であらせられ」「永久に臣民国土の生成発展の本源にまします。」二、「神を祭り給うことと政をみそなわせ給うことはその根本に於て一致する。」三、「天皇と人民は一つの根源より生まれ肇国以来一体となつて[#「なつて」は底本では「なって」]栄えて来たものである。」四、「天皇の御ために身命を捧げることは自己犠牲ではなく、小我を捨てて大いなる御稜威に生き国民としての真生命を発揮する所以である。」五、「我国憲法の根本原則は君民共治でもなく三権分立でも法治主義でもなくして一に天皇の御親政である。」六、議会は「天皇の御親政を、国民をして特殊の方法を以て翼賛せしめ給わんがために設けられたものに外ならない。」七、「西洋経済学説は経済を以て個人の物質的慾望を充足するための活動の連関総和なりとしている、我が国民経済は然らず。物資は啻に国民の生活を保つがために必要なるのみならず、皇威を発揚するがための不可欠なる条件をなす。」八、「人間は現実的存在であると共に永遠なるものに連なる歴史的存在である、又我であると同時に同胞たる存在である。然るに個人主義的な人間解釈は個人たる一面のみを抽象してその国民性と歴史性とを無視する。従つて[#「従つて」は底本では「従って」]全体性、具体性を失い理論は現実より遊離して誤った傾向に趨はしる。ここに個人主義自由主義乃至その発展たる種々の思想の根本的過誤がある。」――大体こう云ったものだ。(この引用は全部該新聞紙所載のものに限る。)でここでも判る通り、例の祭政一致声明とこの文教刷新政綱とは全く相一貫したものでただその一貫物が、ここでは準戦時体制からの演繹としてではなく、逆に準戦時体制自身が祭政一致体系からの演繹として現わされている、というに過ぎぬ。これ程よく今日の国民が「知って」いる具体的な内容は又とないではないか。
 第二政綱は「政治の刷新行政の改善を図ること」である。その説明には、議院制度選挙制度の改善、行政機構の整備、中央航空行政機関の新設、官吏制度の改正があり、「また一面、」「民衆の利便を図らんとす」とある。之もまた今日、日本の国民はいやという程知っている具体的なもののことを云っているのである。之をしもなお抽象的であり、要は実行如何にある、などと称する政党人がいるとしたら、彼等は大政綱と小政綱(?)との区別を知らぬものと云う他あるまい。特に、中央航空行政機関の新設という項目が大政綱の一部として挙げられているなど、如何に之が具体的であるかのいい例ではないだろうか。橋本欣五郎という大佐が自分で造った日本青年党とかいう政党があるが、その綱領の一つに突如として飛行機論が出て来るのであるが、私は今夫を思い出す。現内閣による「政治」の刷新の軍隊的な具体的面目が躍如としているではないか。ただ抽象的にひびくのは「民衆の利便」というまたの一面である。抽象的というのは、国民がまだ具体的に夫を知っていないからである。大いに切望はしているがまだ現実には一向打つかったことがないものが、抽象的だ。民衆の利便と云っても、決して民衆の便利を逆に行くという意味ではなく、軍隊用語では民衆の常識的用語を逆にする伝統があるからに過ぎないのだが、利便を便利に直しても国民にとっては依然として具体的にはならぬようだ。之が具体的でないということはつまり夫が例の準戦時的体制から論理的に手際よく演繹出来ないからである。「なお一面」たる所以だ。
 第三の政綱は「挙国一致の外交を具体化すること」であるが、具体化そうというのだから、「挙国一致の外交」そのものは抽象的なものでもいいだろう。実際之は国民がこの間まで充分具体的にはのみ込めなかったものであるが、準戦時体制に不可欠の要素でもあり得ることは、民衆は知らぬでもない。尤も民衆は挙国一致外交が必ずしも準戦時体制の一環に限るものではないことをも知っている。北支行動、其他が挙国不一致外交の結果だったというのが本当なら、北支行動の消極化が即ち現在の挙国一致外交であるかも知れぬ、というロジックも成り立つだろう。だが政府はこの政綱をあまり分り切ったことと思ったか、それとも云わない方が苦しい説明を免れる途だと考えたか、説明文をつけていないのである。恐らく、次の政綱が説明抜きである処を見ると、例の準戦時体制の体系のあまりに直接な結論だからなのだろう。
 次の政綱というのは、第四の「軍備の充実、国家総動員的準備を進むること」であり、之には何等の説明もついていないが、之は最も具体的に国民が知っていることだ。国民は増税や物価騰貴やその他で、色々な意味に於て之を充分「認識」している。説明の要らぬのは当然だ。この一項だけで八大政綱は代表されるのだからである。ただこの最も重大な項目をそ知らぬ顔で何気なくアッサリと中途に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)んであるなどと仲々面白いやり方である。だが祭政一致の体系から、準戦時体制を演繹しようという林内閣のイデオロギー的な順序から行けば、之でいいのである。
 第五政綱は「社会政策の徹底を図り国民生活の安定を期すること」とある。期するというのは正直な表現で、二階から目薬という感じを仲々よく文学的に表現する。だがその説明によると、実は、割合具体的だ。国民体位の向上、各種社会保険制度の確立、勤労者福利の助長奨励、労働力の維持増進、によって国民生活の安定を期そうというのだ。真中の二つは具体的に判るが、労働力の維持増進というのは何か一寸は判りかねよう。労働力は今日の社会機構では労働者のものではなくて資本家の所有である。少くとも役に立つ労働力(ゴロゴロ遊んでいる労働力でない限り)はそうだ。その維持増進が国民生活の安定になるというのは、少し変である。尤も労働力の維持というのは何か労働者の健康のことかも知れぬ、なる程健康ならば増進という言葉も常識的に判る。だがそうすると日本の労働者は不健康であるために失業しているということになる。社会の矛盾を生理的に解決する次第だが、この点最初の「国民体位の向上」を考え合わせて見ると、納得が行くものがあるだろう。ここで政府の目指す処は軍人たるべき壮丁の体位の下向を防ぐということだ。つまり体格優秀なる軍人が出来れば国民生活は安定を期し得るというわけになる。労働力というのも資本主義的に見た限りの壮丁(労働者)の体位のことだっただろう。労働者は今や、資本主義的壮丁として生活の安定(?)を期せられる。之は労働の軍事化の観念であり、夫が労働組合脱退の奨励ともなれば、やがて国家的報仕労働というシステ無にも発展出来る素しろ物である。――だが、準戦時的体制下に於ける労働である以上こういうものであらざるを得ないことを観念せねばならぬ。この点を予めはっきりさせないで、之を「社会政策」とか何とか呼んでかかるから、判らないことが出て来る。つまり、社会政策という言葉さえ除けば、この政綱項目は、実に具体的に明白になるだろう。従って国民生活の安定という言葉も、除いた方が安定で、その方が国民の非常時的覚悟を促すにも利便があろう。
 第六「産業の総合的振興を図り国力の伸張に勉むること。」之はごく具体的である。鉄及び燃料という戦時及び準戦時の活動及び経済に必要な重要産業原料の自給、産業の総合的振興(コンツェルン強化?)、生産力の拡充、中小商工業の助長、電力統制、通信施設の整備、と云ったように説明されているが、之は云うまでもなく、第四の国家総動員政綱の経済版に他ならない。中小商工業に到るまで、広義軍需工業と理解すれば間違はない。そして「国力」というものが何であるかも之で明らかだ。と云うのは、前項のどうも判っきりしない「社会政策」とか「国民生活の安定」とかいうものをこの国力の概念に[#「概念に」は底本では「慨念に」]混入すると国力という概念は[#「概念は」は底本では「慨念は」]大変不安定なものとなり、やがて夫は「国力」そのものを衰弱させることになるからだ。やはり前項の「社会政策」とか「国民生活の安定」とかいう不純な要素は、この八大政綱の祭政一致論的乃至準戦時体制的なシステムからは取り除いた方が、物事がハッキリと具体的になったろう。「国力」からもそういうものは取り除かねばならぬ。
 第七「農山漁村の更生を期すること。」しばらく忘れられていた農山漁村が出て来た。之は軍部の有名なパンフレットに出たので一躍有名になったが、それ以来すっかり黙殺されていたもので、大変なつかしいと共に、相も変らぬ語呂の良さを持って行くものである。農地政策([#「(」は底本では「)」]多分農地法案と関係のあるものだろう)、農業保険制度の確立、農村工業の普及、農林水産の生産改善、はまずよいとして、「と共に全村一体の思想を鼓吹し」て、その更生を期すという。農地法式な農地政策の支配者的な特色、農村工業のゴマ化し(かつて現農相は正直に之を告白した)は注意に値するがそれより面白いのは、全村一体の思想を鼓吹するという、その思想自身だ。準戦時体制主義が農山漁村の社会生活に及べば、こういうものになるわけであり、村に求める処を国に求めれば即ち「国家総動員」となる次第だ。それは判るが、それで以て村民の更生を期する一半の依り処とすると、咄しは甚だ抽象的と云わざるを得ない。国家総動員の組織の細胞として、全村一体が必要であるというのは具体的に明らかだ(日本中の村が一体になるのではなく夫々の村の村民が夫々の村で一つ一つにかたまるということならだ)、併し夫が村民の本当の更生になるかどうか、具体的には判らぬではないか。どういう性格の「全村一体」かが問題になって来る。すると、折角具体的であったこの「全村一体」までが抽象的だということとなって来る。やはりここでも村民の「更生」などという表現は使わない方が正確だろう。最後の政綱は「税制の整理、物価対策及び国際収支の改善を期すること」であるが、その説明は八大政綱中、一等長く従って一等詳しい。「国民負担の均衡を図り、国家の存立発展のために必要なる国費の財源を涵養するため、中央地方を通じ、税制改革を行い、物価の投機思惑による国内的騰貴抑制の方途を講じ、根本的に物資の需給関係を調整すると共に、原料資源の確保、貿易の伸展、海運の発展、移民の促進に勉め、以て国際収支の改善を図らんとす」というのだ。大へん善いことばかり並んでいるが、国民は国民負担の均衡のための税制改革では馬場財政の方に賛成し、国家の存立発展のために必要なる国費の財源の「涵養」(?)のための夫では結城財政の方に賛成する。そのどっちかが問題であろう。尤もこの「涵養」ということは、税金を安くする事とも高くする事とも解釈される。政府で涵養になることは国民ではその反対だが、総じてここに限らず、現政府は、国民も政府も、労働者も資本家も、一緒クタにして、物を考えたり云ったりするらしいから、読者は諒とされたい。
 国内的物価騰貴が投機思惑によるものであるかのような云い方は、忽ち揚げ足を取られる点だろう。蔵相は場合によっては暴利取締令を出してもいいとさえ云っているから、物価高の主原因の一つが投機思惑にあると、本当に政府が信じ込んでいるように世間は誤解するかも知れない。又政府は折角増大した予算なのに、物価に騰貴されては、実質予算(という言葉があるなら)が却って減るだろうという心配から、こんな経済学的財政学的な錯覚を産んだのだと、世間は邪推するかも知れない。だが物価騰貴が、急激に増大した国家予算と、それの実施に伴う大局に於て売買者の主観と独立な需給関係の結果、とそれから対外為替相場の下落とに基くという民間の説は、嘘なのだろうか。「根本的に」物価の需給関係を調整するということは、一体何か、思惑抑圧か、それとも軍事予算でも減らすことか。
 よって以て「国際収支の改善を図る」と称する「資源の確保」や「移民の促進」が、「貿易の伸展」や「海運の発展」を妨げることによって、却って国際収支を改悪しはしないかどうか、之は今日の国民が政府へ問い糾したい処だろう。――で要するに、八大政綱の最後の総花的政綱は、説明が他のより少し長いと思ったら、果して具体的に理解するには障碍だらけのもので、八大政綱の間を一貫する体系的で組織的な「矛盾」のはき溜めのような気がしてならない。私はここに来るまでの各政綱項目については、荷厄介になりそうな「民衆の利便」とか「社会政策」とか「国民生活の安定」とか、村民の「更生」とかいう塵芥を芟除して来たが、ここに到って遂に進退が谷きわまるのである。で準戦時体制という八大政綱、現政府、可能的政府、を貫くシステムが、矛盾のない首尾一貫したユークリッドの幾何学のように、演繹の利く体系であるかのように、私は初めに云ったかも知れぬが、それは最後に訂正しなければならない。
(一九三七・五)




底本:「戸坂潤全集 別巻」勁草書房
   1979(昭和54)年11月20日第1刷発行
初出:「文藝春秋」
   1933(昭和8年)年6月~1937(昭和12)年5月
※各評論の文末にある日付は、原則として「文藝春秋」の掲載年月号を表している。
ただし、改行した次の行にも日付が書かれている場合、前の日付は執筆時の日付、後の日付が「文藝春秋」の掲載年月号を表している。
※底本では目次の作品名と実際の作品名が違う例がある。その場合、目次の作品名を実際の作品名に合わせた。
入力:矢野正人
校正:Juki
2009年5月9日作成
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「卓+戈」   124-上-10、127-上-3、127-上-18、135-下-11、136-上-7、187-下-22、213-上-7、231-下-4
「義」の「我」に代えて「次」   136-上-20、159-下-24、185-下-4

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