2016-04-12

12] 武部学長・投書・メリケン


12] 武部学長・投書・メリケン

   一、武部学長

 日本教育新聞社長、西崎某なる人物を相手取って、文部省普通学務局長武部欽一氏が、謝罪要求の訴訟を提起した。『日本教育新聞』で「断乎武部打倒」を論じたからである。西崎某の検事調書によると、彼が一年程前に、社会教育局長関屋竜吉氏の許へ行くと、局長は、「武部が五十や百の金を出すと云っても妥協してはいけない、その位いの金なら私が出してやる」と云って、武部打倒の例の記事を書くように勧めたということである。あとで西崎は関屋局長から、多分謝礼としてだろう、二、三十円の金を貰って口止めをされたというのである。
 事件の真偽の程は判らないが、そして天下の文部省の局長が教育新聞社長などに恐喝されるのも意外だし、二、三十円でこの社長を買収したのも相当滑稽だが、併しとに角一方では武部他方では関屋の、省内に於ける深刻な暗闘がこの事件によって表面に出たわけで、更に関屋局長の背後には粟屋次官が控えているそうだということは、被告側の例の社長が粟屋次官を訟人として申請していることでも判るし、又最近粟屋次官の辞職説さえ出ていることからでも、見当がつくようだ。併し噂によると文部省のあの種類の暗闘は、古くからの伝統であって、何も驚くことはないそうである。
 大蔵省には黒田閥というのがあったそうだがそれが今度の××問題で動揺し始めて、大臣や内閣は青息吐息だが、世間では却って省内の事情に関して思わぬ知識をこの事件から提供されたので面白がっているようだ。大蔵省に較べれば仕事がズッと乏しくて、そしてズッと観念論的でお説教的な内容に富んでいる文部省では、益々閥や私党の対立が暇つぶしとしても必要かも知れない。官吏のウダツが上らず、最近までは、逓信省などに於ける放送協会などのような古手官吏の捨場もない、沈澱官吏の溜りである文部省にして見れば、例えば関屋閥というようなものがあったにしろ、少しも不思議ではないのである。そこへ内務官吏型の武部が登場して来たとすれば、衝突は先天的に必然的だろう。
 暗闘にどっちが善いも悪いもないかも知れない。訴訟事件に現われた限りでは関屋局長の方が不利なようだが、それは偶々そういう暴露が思いがけない天災のように落下して来たからに過ぎないので、之で烏の雌雄は決りはしない。だから当然「喧嘩両成敗」ということになる。まず関屋社会教育局長は、日本精神文化研究所員となり、そこの所長となることになった。
 文部省の古手官吏には捨場はないと云ったが、古手官吏の捨場はなくても、不良官吏の捨場は出来ているわけだ。日本精神文化研究所というのは今度出来た思想局の伊東局長が勢力扶植のための予算取りと、鳩山文相の議会に於ける答弁用とに造ったものだとさえ云われているが、名前は研究所でも之は必ずしも研究をする処ではない。少くとも日本精神文化などを真面目に研究する処ではないようである。その証拠には、今まで多数の有名な学者に所長になることを頼んだが、どれもハネツケられたり注文に合わなくて立ち消えになったりしている。研究機関ではなくて良く云えば教悔機関、悪く云えば思想警察機関なのである。この頃では各府県庁に支所めいたものが置かれているので、どこにどういう怪しげな先生がいるかは、掌を指すように判っているということだが、要するに研究と云えばそうした「研究」をする役所であって、少くとも日本精神文化を研究する処ではない。
 関屋旧局長が教育行政に就いてどんなに博学であろうとも到底日本精神文化の研究者の代表的な学者とは世間で認めないだろうが、別に研究家でなくても研究所員になれる「研究所」なのだから、この点不思議はないのである。だが文部省内に置いておけないような札付きの官吏だからして、ここの所長に最も適任だということは、どうも少し不思議な推論ではないかと思う。他のものはとに角、「思想」に限って不良官吏によって最もよく善導出来るのだとすると、善導の「善」という言葉には余程妙な、世間の道徳意識では一寸理解し兼ねる特別な意味があるのかも知れない。
 だがどの途お役所のお役人のことであるから、世間の普通の文化水準から見るのでは見当違いになるかも知れないと思っていると、今度は文部省は相手方のもう一人の「不良」官吏を田舎の大学の学長にすることに決めたということである。では矢張吾々は世間並みの文化水準から物を見、物を云わざるを得なくなる。例の武部普通学務局長は一躍広島文理科大学学長にまで昇格して左遷されたのである。一体帝大や官立大学の総長や学長は官等は局長などより上かも知れないが、余程の例外でない限り、局長級の呼び出しで文部省へ出頭して、局長級に軽く顎であしらわれるのが習慣になっている。今や武部局長はこうした不名誉極まる栄転を余儀なくされているらしい。
 無論武部局長は容易に広島赴任を肯んじない。そればかりではない、広島文理科大学自身が武部氏は御免蒙るというわけである。従来総長や学長は大学自身が推薦する人物を文部省が任命する習慣なのだから、文部省天下りの学長は困るという建前である。前から辞意を洩していた吉田学長も上京すれば、学生代表も上京して、文部省当局や武部氏自身と折衝を重ねたが、武部局長自身は寧ろ広島大学側の主張に賛成なわけで、両者が一致して文部省に当るという奇観を呈している。処が最近文部大臣と文部次官とは遂々武部局長を広島赴任ということに説得し得たというので、広島大学の反対を断乎として斥けて、武部学長を送ると号しているのである。大学にして見れば、文部省に置いて困るから学長にして送ってやるというのでは、全く腹の立つことだろう。
 処が学生代表の声明書なるものを見ると、「昨春の学生大会は、わが文理科大学の後任学長として西晋一郎博士を最適任と信じ吾等は是が実現の一日も速かならんことを熱望すと決議し、……実に西博士は創立以来わが学園のもつ我等が指標にして畏くも教育者に賜りたる勅語の『健全ナル国民ノ養成ハ一ニ師表タル者ノ徳化ニ俟ツ』と仰せられたる御聖旨に副い奉るもの、……西博士をわが学園の後任学長に任じて真に国民道徳顕現の源宗たらしめんことを冀ねがう」、という如何にも師範学校らしい内容のものである。でここに完全に教育勅語的な文学博士西晋一郎教授という存在が横わたっているということが、新しくつけ加えなければならない条件となるのである。――だがこうなって来ると、話しはおのずから別になる。問題は西氏の「人格」と西人格の一群の崇拝者のミュトス(神話)とに帰着するのであって、文部省のやり口の不合理性とはあまり関係のないことになる。
 問題はただ、文部省内部に於ける対立が、広島文理科大学に於ける、西閥(西教授の意志に反すると否とに関係なく)と反西閥との対立とが、偶々武部学長(?)を機縁として相応したまでであって、おかげで武部氏は如何にも反教育勅語的な人格に見立てられそうな破目に陥ったというだけである。日本精神文化研究所にだって、紀平正美博士が控えている。だがどういうわけか、紀平氏を押し立てて関屋所長赴任反対を唱えた所員の存在を見ない。だから不合理な点は、文部省の方針自身の不合理性にあるのではないらしく却って西博士の存在の不合理性にあるとさえ云えることになるかも知れない。否、文部省も文理科大学も日本精神文化研究所も、実は一つの方針の下に立っている、西晋一郎博士だけがこの方針とは別な存在だと考える処に、師範生の「純真」な錯覚があるのだ。
 例の声明書をもし本当に真面目に取っているのならば、敵は正に本能寺にありと云わねばならぬ。苟くも人類を教育しようと欲する処の大学やそこの学生は、本当に自由であるべきだ。そうでないと今度のように一文部省などから馬鹿にされるのである。

   二、投書

 陸軍当局は云っている、「金持の伜なら柔道何段という体格を持ちながら徴兵検査も受けずにブラブラしているし、小作人の伜だけが兵隊にとられるのは面白くない、という投書が頻々と舞いこんで来る有様である」と(東京日日五月二十三日付)。そこで陸軍では不就学の大学生約三百名を徴兵忌避で[#「徴兵忌避で」は底本では「懲兵忌避で」]告発する方針だと云うことである。
 内訳は日大七四、中大五〇、明大四八、法大二六、早大二六、慶大二四、関大一九、立大一六、東大一三、計二九六名だと伝えられる。単に徴兵を延期することが目的で大学に籍を置いている者は兵役の一部分を免れんとするもので立派に兵役の忌避であり、彼等が教室に顔を出さないのがその徴標と見做されるというわけである。
 だが問題は実際上はそんなに簡単には片づかないらしい。東朝や東日の投書欄によると、高等学校を卒業しても帝大や其他の大学に這入れないものが年々数千名にも上るが、そこで兵隊に採られては今後の学生生活にスッカリ、ブレーキをかけられることになるので、夫を避けるために、入学試験勉強期間中私立大学などに籍を置くのだから、之は相当同情されるべきものだ、というのが第一の種類の抗議である。第二には、出欠を取らない大学でどうやって就学不就学を決定出来るか、教室へ出なくても立派に勉強出来るということも考えて見なければいけない、というのがもう一と種類の抗議である。
 尤も陸軍では学生自身よりも、徴兵延期を看板にして入学者を吸引しようとしている私立営業大学を懲しめようとするものらしいのだが、もしそうならば学生は随分割の悪い道具に使われるわけだ。それに之が農民に対する一種のコンペンセーションとして行われるならば、学生は増々割の悪い道具になるわけである。無論この際損をする学生はどうせロクな学生ではないのだが。
 だが能く考えて見ると、別に学問や勉強だけが特に神聖なものでもなければ、特にそれだけが中断すると困るものでもない筈だ。農民の生活だって一年半なり二年なり中断すればそれだけ後の生活には支障を来たすし、労働者は又就職口の探し直おしをしなければなるまい。それに、研究が神聖で労働が不神聖だということもあるまい。否労働こそ神聖でなければならないのだ。だから卓越した日本の天才的な労働者達は外国の労働者などよりもズット長い最少労働時間を約束しているのだ。日本の製品が海外に勇飛して諸外国の羨望の[#「羨望の」は底本では「※[#「義」の「我」に代えて「次」、159-下-24]望の」]的になっているのも此労働の神聖さをよく吾々日本国民が自覚しているからなのだ。で何も学問や勉強をする学生だけが、徴兵上の特権に与かる理由はない筈である。もしいつまでも親の脛を噛って学問や勉強を続けて行けるということが社会の一種の特権階級の特権であるが故に徴兵上も亦そうした特権が必要だというなら、夫は由々しき社会の欠陥を合理化するものでなくてはなるまい。
 それに、大学に籍を置いて毎日教室へ出席している学生であっても、必ずしも学問や勉強をやっていると思ってはならない。まして彼等がそういう意志を有っているなどと決めてかかることは気が早や過ぎる。実はこんな楽な面白い生活はないのだから、大体之は一種の娯楽である場合が少くないのだ。少くとも学生という資格を有っている間は、大威張りで親から金も貰えるし、世間でも一人前の、いや一人前以上の人間として通用する。もしこうした特権に相応すべく、徴兵延期の特典が与えられる必要があるというのでない限り、逆に学生こそ徴兵のマイナスの特典に価するものでなければならぬと一応そういうことになる。
 だから学生に徴兵上の特典がある限り、農民や労働者にだって、徴兵上の特典が必要である。個人の一身上の生活の必要から云ってある限度まで徴兵を延期して貰ったり何かすることは、農民や労働者にとってこそ必要なことでなければなるまい。
 もし農民や労働者に、そうした特典が与えられれば、それはもはや特典でも何でもなくなって、極めて当然な当り前なことになるだろう。そうすれば又一々コセコセと「部分的な」徴兵忌避を気にする必要もなくなるわけで、それだけ少くとも、外見上の非国民は減って行くわけである。そうしてやっても尚進んで徴兵に応じなかったり徴兵を回避したりする人間があれば、夫こそ初めて本当の非国民なのだ。
 陸軍に例の投書をした連中は、その投書でどういう結論を得ようとしたのか私は知らない。金持の息子が遊んでいて自分達だけが兵隊に採られるのは怪しからんというのならばそれはただの直接感情としての不平の表現に過ぎないのであって、而も最も性の悪いことには、兵隊に取られること自身が何か損ででもあるかのように仮定しているような口吻をもらしているらしいことだ。それから俺達には特典がないのだから地主の息子の特典も取り上げて了えと云う積りならば、夫は嫉妬か意地悪るというものだ。実際、「不就学学生」を徴兵忌避で罰しても、農民は徴兵上何等の特典を受けるものではないだろう。一体農民達はどういう積りでああした投書を書いたのだろうか。その吟味は案外無雑作に片づけられているようだ。
 が云うまでもなくわが国の農民は皇軍の枢軸である。農民の満不満は皇軍自身にとって何よりも重大な利害のあることだ。農民の要求は丁寧に打診されねばならぬ。で再びあの投書だが。
 それはそうとして、最近陸海軍では、普通刑法に治安維持法(尤も之はあまり普通な刑法ではなくて寧ろ異常な刑法なのだが)の改正に平行して、軍刑法の改正(?)を企てている。
 審議委員会で逐条審議した際最も重点を置いて議論されたのは、反軍運動即ち反軍隊的言動、もっと詳しく説明すれば、軍の不利益になり軍の秩序維持を妨げる言動、に対する罰則を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入する件であった。治安維持法は少くとも資本主義の何らかの否定に対する罰則を規定したものであることは云うまでもないが、この治安維持法と、この反軍取締りの軍刑法との間に、平行関係があるということは興味のないことではない。だがそれはとに角、こういう法律が整備されねばならぬからには、反軍的な言動が現に旺盛になりそうな危険がある、ということを想定しなければならないのが遺憾である。
 で三度例の投書だが、あれは陸軍に向って投書したものだから無論軍の利益を慮って行われたものに違いない。だが、文章はどうにでも書き様があるのだし言葉にも色々の使い方があるのだ。同じ内容の事柄が別な言葉で別な個処で述べられないとも限らない。そして夫がもし忠告だとするならば、それが好意に出たものか悪意に出たものかは容易に見分け難いものだ。
 でそう考えて見ると、何が反軍的で何が反軍的でないかは、仲々ムツかしい問題になるだろう。
 軍の専門家の方では判っていても、同時に農民労働者勤労大衆も夫がピタリと判っているのでなければ、反軍取締りの法律も、その道徳的な権威に乏しくなるし、法運用の技術上の信用も薄らぐわけだ。
 如何なるナポレオンの法典も、解釈が問題になるようになっては、もうお終いなのである。夫はナポレオン自身がそう云っていることだから間違いはない。
 例えば、坂野少将という人がいて、海軍は政治に干与しないと声明したが、夫が何よりもの政治干渉と解釈されるというようなわけだ。

   三、メリケン

 東郷元帥の国葬の夜、アメリカのNBC放送局から、スタンドレー大将の弔辞の後で、「かっぽれ」や「六段」や「お江戸日本橋」などが、「日本音楽」の名に於て放送されたということは、何と云っても取りかえしのつかない打ちこわしで、放送内容もロクに打ち合わせず、スイッチを切る気にもならなかったAKの、最大の不祥事件だったと云わなければなるまい。
 一体東郷元帥は決して日本又は東洋の東郷大将ではないのである。世界の東郷提督なのである。
 日本海海戦の場処は日本海だったが、その頃は朝鮮民族はまだ日本民族とは別なものとなっていたから、名こそ日本海でも国際的な公海で戦ったのだし、相手は云うまでもなく帝政ロシアの軍艦であった。それに元帥の率いたわが軍艦はイギリスで出来たりアルゼンチンの手に渡るのを譲り受けたりしたものだった。そして元帥の武功は全く国際的に響き亘ったものだったのだ。
 多分元帥の大和魂を除いては、その語学や戦略戦術に到るまで、国際的なものだったのである。
 そこでアメリカなどもスタンドレー将軍が弔辞を呈するということが甚だ自然だったわけである。
 併しアメリカでは東郷元帥のこの国際性に対する認識が充分ではなかったようである。アメリカは東郷元帥の国際的な葬儀を弔するのに、国際的な哀悼の曲を以てすべきであった。然るに何事ぞ、わずかに「ニッポン」音楽を以て足れりと考えるとは。アメリカは一体日本に対する正当な認識を欠いている。単に日本の「特殊事情」を、理解し得ないばかりでなく、日本の国際性をさえ理解していない。
「メリケン」人は国際的でないということがニッポン的なことであり、ニッポン的でないことが国際的なことかと思っている。元帥の英霊に対しては失礼かも知れないが、フジヤーマやゲイシャやサムライやハラキーリは、他の国にはないからニッポン的だと彼等は思っているのである。
 音楽に就いても彼等はこの調子なので、音楽にも「西洋音楽」と「日本音楽」とがあって、西洋音楽は自分達のもので日本音楽が日本のものだと思っている。無論科学にだって哲学にだって、西洋のものと日本のものとが別々にあると思っている。日本には日本精神があり、西洋には西洋思想があると信じているらしい。
 彼等は日本人だって欧米人と同じ「精神」を有っているなどと云おうものならビックリして了うだろう。
 こうした無知なメリケン人に、今日の日本音楽は即ち取りも直さず西洋音楽なのだということを教えてやりたいものだ。わが親愛なる兼常博士の権威によると「日本音楽」は日本の音楽ではないということだ。日本の尺貫法だってチャンとメートルに基いて法定されているということを、無知なアメリカ人などは知らないだろう。
 尤もアメリカ人は一般に無邪気で、従ってユーモラスでもあり又悪戯好きでもあるようだ。それから彼等は日本人が考えているよりも案外利巧な処もあるようである。だから彼等は実は日本の国際性を、国際的な重大性を、相当よく呑み込んでいながら、わざわざ知らん振りをして、ニッポンにはカッポレが打ってつけだというような態度を見せつけたのかも知れない。

 もしそうなら彼等は無知どころではなく仲々の強したたか者であり、従ってもはや無邪気な人種だなどとは云えなくなる。
 併しそれならば誠に怪しからぬことで、特に東郷元帥の国葬の機会などを利用してそういうユーモアや皮肉な悪戯をするというのは、どこまで不謹慎な態度かと憤慨せざるを得ない。
 だが又考えようによっては必ずしもそんなに悪意に解釈する必要はないかも知れないのであって、現にNBC当局自身は「わざと陽気なものを送ろう等という気持は全くない、それこそ飛んでもない誤解である」と云って弁解している。それに「ニッポン」人にとって陽気なカッポレも国際的には可なり淋しい曲だというAK中山常務理事の説明でもある。
 強いて悪意があってのことでないなら、厳粛であるべき場合に巫山戯ふざけたり何かしたのでないなら、吾々は憤慨するのは止めようと思う。
(一九三四・六)
[#改段]

No comments: