試験地獄礼讃
田舎の或る女学校に勤めていた私の友人が、遂々校長と喧嘩をして追い出された。同僚の先頭に立って、校長排斥をやった処、校長はイッカな動こうとしなかったので、社会的な質量の軽い方の彼が、反作用によって追い出されて了ったのである。校長排斥の理由は彼によると数え切れない程あるのであって、どれ一つとして現在の公立中等学校、中でも女学校の校長という地位を特徴的に物語っていないものはないのであり、どれも必ずしもこの校長の人格だけに固有な特徴として非難されるべきものはないのだが、その内に一つ、次のような笑って済ませない理由が含まれていた。
県当局に対して万事ぬかりのないこの校長は、実は同時に仲々卓越した人間通だという結論になる。彼は部下の若い女教諭に命じて、卒業間近かの小学校の女生徒の家を訪問させて、自分の女学校へ入学することを勧誘させたのである。尤も近所には通えるような学校はあまり無いのだから、他の女学校へ行かずに自分の女学校へ来い、と云って勧誘するのではなく、娘さんをとに角女学校というものにお入れなさい、と云って勧めるのである。別に秀才や天才児の家庭を選んで勧めて歩くのではなく、四年間か五年間通学させるだけの学費の出せる家庭でさえあればいいのだから、その内には低能で始末の悪いのもいるだろう。それを承知で勧誘する以上は、入学させてから矢鱈に落第させたり何かは出来ない。でつまり落第はさせない、四年なら四年で卒業させる、という請負をして歩かせるわけである。それはまあいいとして、友人が一等憤慨したのは、校長がこの女教諭に対して、特にお白粉を塗って行くように注意したという点なのだ。
敏感な友人のことだから、この注意を何か特別に売笑的なものと感じて憤慨したのだろうが、併しこの程度の売笑性ならば寧ろ社交性や服飾道徳にさえ数えられるべきもので、美人であることは夫だけとして見れば秀才であることと同じ自然的素質なのだから、秀才にあやかるために、又は益々秀才振りを発揮するために勉強するのが良いことであるように、お化粧をすることは良いことなのだ。娘の両親でもお祖父さんでもお祖母さんでも、綺麗な先生に勧誘されれば、あまり綺麗でない先生に勧められるよりも、気が進むのは自然である。校長の奇知はそこを覘ったものと見える。
併し問題は、そうまでして浮身をやつしてまで入学志望者を募集しなければならない女学校又は他の諸学校の存在である。というのはもし入学志願者がいつも定員へ満たないようだと、学級の整理と教員の整理とは必然の結果なのである。その結果は又、その学校の社会的な資格が段々落ちて行くことだ。校長にして見れば、ジットしたままでいて、自然と左遷されていることになる。こうなるとだから入学志願者が学校を造るのではなく、学校が入学志願者を製造しなければならぬ。東京などの私立営業の学校にはこうした場合が極めて多いので、別に女学校に限らず又中等学校に限らない。客引きがなければ宿屋の主人も番頭も食えなくなる。偶々女学校だから女の先生をマネキンに使った迄であった、そして女のマネキンは綺麗なのが当り前だ。
思うに入学志願者の少ないこの女学校の校長は、入学志願者の多過ぎる学校の校長よりも、遙かに教育の名に於て苦悩していることだろう。他の校長達は自分の学校の入学志願者が多すぎることを喜び又誇りとしているだろう。之は鉄道省の役人が、いつも満員で乗客がウンウン云いながら詰め込まれている列車を見て満足するようなものだ。私が友人ならば、例の女学校の校長よりも、こうした名誉ある校長を排斥する心算である。
少くとも中等学校の数は、中等学校入学志願者の数を根拠として、与えられなくてはならない。と云うのは、入学志願者の大抵のものが無条件に入学出来るだけの中等学校数を用意するのが、一応当然なのである。況して今日の中等学校では一般人間として受けるべき程度の教育さえ授けられていないだろうから、殆んど凡ての入学志願者を入学させるということは無条件に必要なことだ。その意味で中等学校の実質は一種の義務教育だと考えていい。――処で義務教育ならば、単に自発的に入学を志願するものだけを受動的に収容するだけではいけないので、進んで入学志願者を開拓しなければならない筈である。(こういう点から云っても女の先生にお化粧させた例の校長の方が結果から云って良心的かも知れぬ。)併しそうすると、資産や学資の如何に関係なく、一切の社会層から入学志願者を開拓するのが理の当然となるだろう。それでは財政上の豫算が許さないし、又学校商売としても成り立たなくなる。そこで一等都合のよい入学志願者制限法即ち又学校制限法は、或る一定社会層以上に志願者を限定するように、万端施設することである。曰く相当高い授業料、就職の禁止、昼間学校の建前等々。
でこうなると、入学志願者と中等学校数とを均衡にせよと云って見た処で、その入学志願者数そのものに一向社会的な公正さがないのだから、無用な心配と云わざるを得ない。入学志願者が不足だということも、実は予め入学志願者を社会的に制限した上でのことで、入学志願者が多過ぎるということも亦単に、こうした入学志願者の社会的制限にも拘らずなお或る学校の受験者だけを取れば数が多すぎる、というに他ならない。事実上は、入学志願者総数と、入学し得べき中等学校数とは、それほど不つり合いではないらしく、単に受験生が或る特定の学校に偏在するに過ぎないのだから、社会の階級的施設としては、今日中等学校の数は却って理想的だと云ってもいいかも知れない。
だが丁度普通選挙の理想のような普通入学(一般入学)ではなくて、(階級的な)制限入学なのだから、すでにそれだけ普通教育=義務教育の目標からははずれているわけだ。そうすれば、どうせはずれているならば、普通教育の代りに秀才教育か何かを主義にした方が、教育の理想から云って合理的ではないだろうか。所謂中産階級層以上の子供を一様に教育する代りに、その内での相当の秀才だけを選抜して教育した方が、ブルジョア社会の幹部候補生養成としてもズット合理的な筈である。中産階級層以上の家庭なり子供自身なりが進んで中等教育を受けさせよう受けようというのを拒むことは正しくない、というなら、無産者がその子供にせめて形式的な中等教育(内容には随分歪曲された社会知識を注入するがそれは大人になれば訂正される)を受けさせようという気持になることを拒むことは、正しいことか。ブルジョア的有力者の馬鹿息子が中等以上の教育を受け得ないのは世道人心を害するとでも云うのであろうか。
さてこうなって来ると私は、一般に云えば寧ろ入学試験の讃美者とならねばならぬ。単に学校の収容人員に対して相対的に入学を制限するばかりではなく、寧ろ子供や生徒の知能の絶対的な一定標準に従って、入学を制限した方がよいとさえ考える。ブルジョア層や小市民層出身の出来ない生徒を相手にしたことのある教師は、これだけの数の生徒を無産者大衆から選抜したらば、どれだけ社会的に経済的だろうと、思わないものはないだろう。――だから悪いのは、入学試験そのものではなくて、一定の階級的入学志望制限統制を社会的に施しておいた上で自由競争的な入学試験をやることから生じる色々の結果にあるのである。と云うのは例えば、社会的に入学志望を制限するから、人類全般の知能素質から見て大した教育上の効果を期待出来ないような入学志願者がそれだけ割合を多くするので、入学志願者の間の知能の開きが大きくなり、之が自由競争をする結果「良い」学校と「悪い」学校とが出来て、入学志願者が多過ぎて困る学校と少な過ぎて困る学校との分裂が始まるのだ。少し考えて見ると、これが今日の入学試験地獄の根本的な遠因であることが判る。
「良い」学校というのは世間で往々考えるように教師と施設とが良い学校を云うのではない。男の子ならば、上の良い学校(又しても良い学校)へ余計入学出来るような学校のことを指すので、それが原因ともなり結果ともなって、沢山の入学志願者と高度の入学試験落第率とを有つ学校が良い学校なのだ。その他に学校の優良さの終局の意義はないのだから、良い学校と悪い学校との対立が一旦始まったが最後、良い学校は或る程度まで益々良くなり、即ち志願者が集中し、悪い学校は或る程度まで益々悪くなる、即ち志願者が減って行く、というのが原則になるのである。之は大きく云えばこのブルジョア社会の自然法則だから、家庭や子供に向って、虚栄心を捨てろ、自分の個性に応じた(?)学校を選べ、皆んなの行く処へ流行を模倣するように集って行ってはいけない、等々と世間の教育僧侶達がどんなにお説教しても、少しも効き目のないのは当り前である。誰が一体、見す見す損をすべく、「悪い」学校を選ぶ者があるだろうか。
つまり今日の中等学校は、相当優秀な子供を収容するにはあまりに数が多すぎるために、或いは相当優秀な子供の数が中等学校の数の割にあまりに少ないために、良い学校と悪い学校との対立の余地が生じているわけで、もし仮に無産大衆の圧倒的な多数の内から之だけの数の子供を選ぶと空想するならば、悪い学校を実現するだろう素質の劣った今日のブルジョアや小市民の子供などは、初めから問題になれないから、入学志願者の偏在などは、起き得ないだろう。つまり鈍才でも資本主義的市民権を有っている子弟だというので、社会が教育を志すことから入学難が生じるのである。――教育から階級的意味が消え失せる時には、所謂秀才教育からもその弊害が消え失せるだろう。今日の入学志願者の偏在は金や資本の偏在のようなもので、大きく云えば資本制自由社会の必然的な一結果だとも云えるのである。
尤も特に女の児の場合などになると之にもっと複雑な事情が加わる。と云うのは良い学校という意味にもう少し複雑なものが加わるのである。今日の処、女学校は普通、嫁入り仕度の一つに数えられているのは否定出来ないようだ。中産階級層以上の教育ある男の妻となるには、その知識はとも角として(女学校の授ける知識は大して社会的通用性から云って問題にならぬ)、その趣味やイデオロギーから云うと、どうしても少くとも女学校卒業者でなくてはならぬ。処が、男の方は少くとも先頃までは、主に頭の能力によって出世も出来世渡りも出来就職も出来ると想定されていたが(実は必ずしもそうではなかったのだし又益々そうでなくなりつつあるのだが)、女の方の出世であり世渡りであり又就職である、嫁入りは、今の処何と云っても、当人の知能的能力ばかりでなく容色や品や乃至は実家の資産や地位によって決定される部分が多い。そこで、自然と良家の娘が集まる学校が、結婚率が高くて結婚年度が低い学校となり、女学校を嫁入り仕度に数えている家庭にとっては、そうした学校が良い学校となる。知能上の素質の高い学校に這入れなくても、良家の子女の通う学校ならば、見栄から云っても女らしい野心から云っても満足だということにもなるのである。だがそうは云っても、同じ嫁を貰うならば頭のいい方がいいに決っている。処が女は女学校以上の学校に進む者が男程多くないのであって、仮に素質が善くて学資に不自由しなくても社会的な又家庭的な惰性で、上の学校を望まない者が多いのだから、この社会では女の頭の良し悪しを間接にテストする標準が甚だ不足なのだ。それだけ女学校の成績というものが見合の一部分となるのだが、それは結局女学校出身の出来る出来ないの評判に帰着するのが現状のようだ。そうなるとやはり入学試験落第率の高い出来る女学校が嫁入り仕度としても概して良いわけになる。無論そういう「出来る」女学校も嫁入り資格を閑却する筈はない。出来るだけ良家の子女の内から優良児を選ぼうと考える。
こうして一般に女学校では、入学志願者の父兄の資産調べには抜け目がないようだ。切角の卒業生も無産者の娘では碌な処へ嫁にも行けまい、卒業生夫人団に仲間入り出来ないような才媛は学校としてあまり利用価値はない。私立の女学校になると、事業家である校長先生は何のかんのと生徒に無心を仰せつける。女の生徒は男の生徒のように悪たれでなく批判的意志がなくて従順だから問題はないが、父兄母姉団に充分な資産がないと問題が起きるし、金が集まらない。之に反して父兄母姉団の大勢が有産者ならば、今度は父兄母姉も生徒も献金して呉れる。入学者の資産状態を厳重に調査する必要が益々あるわけだ。
男の特殊な学校でも資産状態や家庭の状態までを調査する。之は夫々の社会圏の幹部となるに相応わしい貴族としての資格を調査するわけである。帝政時代のロシアの将校はその殆んど大部分が貴族であって、この貴族という社会的支配権の尤もらしさを、軍隊の指揮権にまで利用したのであるが、それに似た現象はどこの国にも珍しくない。そして、「恒産なきものは恒心なし」という支那の聖人の唯物論を逆用しようとするこの現象は、今日では一般の中学校の入学許可に際してもなくはないようだ。例えば前科者の子弟は何と云っても普通の子供よりも入学に不利だろう。無職の父兄の子弟も亦そうだ。(悪い意味に於ける無職というのは社会的定位を占めないことで、即ち社会では可能的な×××を意味して来つつある。)思想傾向を考査するような場合も結局はこうしたものに帰着するのである。女学校などになれば愈々この点が深刻に又神経質になるので、現に、心中したり婦人関係で問題を起したりした有名な人物の娘は、体よく退学させられている位いだ。旧くは女優になったために同窓会から除名された人もいた。嫁入り仕度の最中に、こういう不吉なことは縁起が良くないに違いないからである。
さて今述べた事情は、今日の入学試験の一般的事情の上に、主に資本制社会の内部に於ける封建的家庭制度から来る一種込み入った条件が加わった処のものだったのである。そこで再び元の一般的な事情に立ちかえるが、例の入学志願者偏在という現象は、当然子供の非人道的な入学試験準備を呼び起こさざるを得ない。之は前に云った所のブルジョア社会の自然法則のほんの一つの結果に過ぎないのだが、特にそれが世間の親達の道徳的実感に直接に触れるものであるため、今日入学試験に対する問題と云えば、殆んど凡てここを中心にして提出されているわけなのである。この試験準備の浅ましさに面をそむけない者は恐らく一人もいないだろう。だがただ物の結果だけをどんなに矯めようとしても矯められるものではない。暫く前東京府の学務課では、小学校に於ける入学試験準備を厳禁して見たが、必然性あって産まれたこの入学試験準備が、ただ一通りの禁令で止む筈はない。潜行的な形で依然として行われたので、或る程度までの準備は大眼に見ようということになったと覚えている。今のままで入学試験準備を廃止するには、試験準備をしてもしなくても受験に大して影響を及ぼさないような試験の仕方を選ぶことだが、そうかと云って一頃試みられたくじ引きやインチキなメンタルテストは全くの不合理か或いは単に新しい種類の入試準備を強要するものに過ぎない。小学校側からの成績申告が殆んど無意味であることも亦云う迄もない。文部省が最近重ねて、入学考査に難問題を提出するのを禁止したのが、せめても合理的な対策だと思うが、之とても準備の量を制限するだけで却って質を重加する結果を招くに過ぎないかも知れない。
入学試験準備の軍縮会議が成立しないとなれば、残るのは府立とか市立とかいう「良さそうな」中等学校を新しく沢山造ることだろう。之なら問題は一応綺麗に解決するだろう。だがそれでもやがて又例の入学志願者偏在が始まるに相違ない。全受験者即ち全入学者の内に優良児と中以下の子供との間の大きな開きがある以上、或る学校には比較的優良な子供だけが入学するという可能性が、段々著しくなるというのが、ブルジョア自由社会の例の自然法則だったのである。
世間の人は入学試験準備の弊を試験施行者である中等学校教育家の罪に帰したり、或いは試験準備施行者である小学校教員の責任に帰したりする。だが色々の部分的現象に就いてはとに角とし原則としては夫は全く当っていないのだ。又之を母親や父親の見栄や流行かぶれに帰するのも何等の解決ではないのである。子供の父兄は一定の已むを得ない理由なしに、単に見栄をしたり流行を追ったりするのではない、それにはすでに述べたようなもっと実質的な根拠があったのだ。
だが次のような意味では、試験地獄の弊が家庭の親達の「責任」問題になるということを見逃してはならない。一体受験地獄という言葉は、受験者当人である子供達の気持ちから出た言葉だというよりも、寧ろ自分で子供に試験準備をさせている当の親達の意識から出た言葉なのである。年はも行かぬ頭の柔かい子供達を不自然な残酷な準備に駆り立てながら、そうすることが、不可避な必然性と、客観性とを有っているということを知っている親の目には、之は全く地獄の名に値いする。誰も地獄に墮ちたくて墮ちるものはないのだが、墮ちざるを得なくて墮ちるのが地獄の神学的な意味ではないか。で、受験者は当の子供なのだが、受験責任者は、受験の責任を最も直接に感じるものは、却って親達自身なのである。苦しめた者が自分であって見れば、それだけ成功させてやりたいというものではないか。
子供の方は場合によっては案外試験を気にしていないかも知れない。親達がある学校を受けろというから受けて見るので、受験責任者は親達の方だと思っている子供も少くないかも知れない。とに角一等心配しているのが親達だということは平凡なようだが見逃すことの出来ない一つの事実である。そうしてこの事実は年と共に著しくなって行く。この頃では中等学校の入学試験ばかりではなく、帝大の入学試験にまで、大きな子供(?)につきそってやって来る母親があるそうだが、之は何も帝大の入学試験が困難になって来たからではないので(以前は高等学校の入学試験でさえ、父兄がついて行くなどという珍風景は見られなかった)、それだけ受験責任者が、受験者自身から父兄乃至親達に、即ち又家庭そのものに移行したことを示すものであり、それが中等学校の入学試験から段々と高い処にまで及んで、遂に最後に大学の入学試験にまで現われたに過ぎない。こういう意味に於て、最近、試験地獄は、親達の責任に移行しつつあるのである。
従来は、男の子など、父親の社会的地位や職掌からは比較的独立に、子供は子供なりに新しい運命を開拓すべく入学を志望する、という意味が相当に活きていたのに、最近の社会ではそういう新しい未知の運命を開拓するなどということは例外な場合か空想としてしか許されなくなった。受験者たる子供の家庭の家庭的及び社会的条件が、自然と圧倒的に入学希望の内容を決めざるを得ないように、世の中がなって来たのである。重役の息子は重役に、平社員の子は平社員になるように稼業の程度がもう一遍世襲的(?)になって来るように見える、入学試験の責任者が親達へ移行したことの原因はここにあるのである。
社会の表面に現われた秩序が今日のように固定化されて来ると、今までは家庭が社会からの避難所であったと逆に又社会が家庭からの開放だったりしたのが、今度は家庭自身が社会秩序のただの一延長になり、或いは同じことだが、社会全般が云わば家庭主義社会というようなものになって来る。ここで親孝行と云ったような日本の身辺道徳が、社会道徳のイデオロギーにされたりするのだが、こういう社会では、社会へ向って伸びて行こうとする子供も、全く家庭化された善良な家族の一員として終始せざるを得ないように、段々なって来るのである。――そういう事情の一つの現われが家庭の親達を入学試験の受験責任者にするのであって、旦那様は外で働き、奥様は家庭の取り締り役に任じ、坊ちゃんやお嬢さんはママと女中とが育てると云ったような、中産以上の社会層に見られる所謂家庭らしい秩序の外面を保っている家庭では、子供の入学試験、試験地獄は、もはや子供のものではなくて、お産や病気と同じように、全く家庭の日常の主婦的な心配事と相場が決って来ている。
で、小市民層以上のパパやママが、試験地獄を気に病めば病む程、実は却ってそれだけ試験地獄は深刻化して行くことになるのだ。子供達がこの試験地獄から解放されるためには、彼等は入学試験から解放されるよりも先に、家庭から、家族の一員としての隷属から、解放されなければならぬ。夫はつまり日本の「家庭」というものが従来の魔術を失うことなのだ。(一九三五・二)
(一九三五・三)
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田舎の或る女学校に勤めていた私の友人が、遂々校長と喧嘩をして追い出された。同僚の先頭に立って、校長排斥をやった処、校長はイッカな動こうとしなかったので、社会的な質量の軽い方の彼が、反作用によって追い出されて了ったのである。校長排斥の理由は彼によると数え切れない程あるのであって、どれ一つとして現在の公立中等学校、中でも女学校の校長という地位を特徴的に物語っていないものはないのであり、どれも必ずしもこの校長の人格だけに固有な特徴として非難されるべきものはないのだが、その内に一つ、次のような笑って済ませない理由が含まれていた。
県当局に対して万事ぬかりのないこの校長は、実は同時に仲々卓越した人間通だという結論になる。彼は部下の若い女教諭に命じて、卒業間近かの小学校の女生徒の家を訪問させて、自分の女学校へ入学することを勧誘させたのである。尤も近所には通えるような学校はあまり無いのだから、他の女学校へ行かずに自分の女学校へ来い、と云って勧誘するのではなく、娘さんをとに角女学校というものにお入れなさい、と云って勧めるのである。別に秀才や天才児の家庭を選んで勧めて歩くのではなく、四年間か五年間通学させるだけの学費の出せる家庭でさえあればいいのだから、その内には低能で始末の悪いのもいるだろう。それを承知で勧誘する以上は、入学させてから矢鱈に落第させたり何かは出来ない。でつまり落第はさせない、四年なら四年で卒業させる、という請負をして歩かせるわけである。それはまあいいとして、友人が一等憤慨したのは、校長がこの女教諭に対して、特にお白粉を塗って行くように注意したという点なのだ。
敏感な友人のことだから、この注意を何か特別に売笑的なものと感じて憤慨したのだろうが、併しこの程度の売笑性ならば寧ろ社交性や服飾道徳にさえ数えられるべきもので、美人であることは夫だけとして見れば秀才であることと同じ自然的素質なのだから、秀才にあやかるために、又は益々秀才振りを発揮するために勉強するのが良いことであるように、お化粧をすることは良いことなのだ。娘の両親でもお祖父さんでもお祖母さんでも、綺麗な先生に勧誘されれば、あまり綺麗でない先生に勧められるよりも、気が進むのは自然である。校長の奇知はそこを覘ったものと見える。
併し問題は、そうまでして浮身をやつしてまで入学志望者を募集しなければならない女学校又は他の諸学校の存在である。というのはもし入学志願者がいつも定員へ満たないようだと、学級の整理と教員の整理とは必然の結果なのである。その結果は又、その学校の社会的な資格が段々落ちて行くことだ。校長にして見れば、ジットしたままでいて、自然と左遷されていることになる。こうなるとだから入学志願者が学校を造るのではなく、学校が入学志願者を製造しなければならぬ。東京などの私立営業の学校にはこうした場合が極めて多いので、別に女学校に限らず又中等学校に限らない。客引きがなければ宿屋の主人も番頭も食えなくなる。偶々女学校だから女の先生をマネキンに使った迄であった、そして女のマネキンは綺麗なのが当り前だ。
思うに入学志願者の少ないこの女学校の校長は、入学志願者の多過ぎる学校の校長よりも、遙かに教育の名に於て苦悩していることだろう。他の校長達は自分の学校の入学志願者が多すぎることを喜び又誇りとしているだろう。之は鉄道省の役人が、いつも満員で乗客がウンウン云いながら詰め込まれている列車を見て満足するようなものだ。私が友人ならば、例の女学校の校長よりも、こうした名誉ある校長を排斥する心算である。
少くとも中等学校の数は、中等学校入学志願者の数を根拠として、与えられなくてはならない。と云うのは、入学志願者の大抵のものが無条件に入学出来るだけの中等学校数を用意するのが、一応当然なのである。況して今日の中等学校では一般人間として受けるべき程度の教育さえ授けられていないだろうから、殆んど凡ての入学志願者を入学させるということは無条件に必要なことだ。その意味で中等学校の実質は一種の義務教育だと考えていい。――処で義務教育ならば、単に自発的に入学を志願するものだけを受動的に収容するだけではいけないので、進んで入学志願者を開拓しなければならない筈である。(こういう点から云っても女の先生にお化粧させた例の校長の方が結果から云って良心的かも知れぬ。)併しそうすると、資産や学資の如何に関係なく、一切の社会層から入学志願者を開拓するのが理の当然となるだろう。それでは財政上の豫算が許さないし、又学校商売としても成り立たなくなる。そこで一等都合のよい入学志願者制限法即ち又学校制限法は、或る一定社会層以上に志願者を限定するように、万端施設することである。曰く相当高い授業料、就職の禁止、昼間学校の建前等々。
でこうなると、入学志願者と中等学校数とを均衡にせよと云って見た処で、その入学志願者数そのものに一向社会的な公正さがないのだから、無用な心配と云わざるを得ない。入学志願者が不足だということも、実は予め入学志願者を社会的に制限した上でのことで、入学志願者が多過ぎるということも亦単に、こうした入学志願者の社会的制限にも拘らずなお或る学校の受験者だけを取れば数が多すぎる、というに他ならない。事実上は、入学志願者総数と、入学し得べき中等学校数とは、それほど不つり合いではないらしく、単に受験生が或る特定の学校に偏在するに過ぎないのだから、社会の階級的施設としては、今日中等学校の数は却って理想的だと云ってもいいかも知れない。
だが丁度普通選挙の理想のような普通入学(一般入学)ではなくて、(階級的な)制限入学なのだから、すでにそれだけ普通教育=義務教育の目標からははずれているわけだ。そうすれば、どうせはずれているならば、普通教育の代りに秀才教育か何かを主義にした方が、教育の理想から云って合理的ではないだろうか。所謂中産階級層以上の子供を一様に教育する代りに、その内での相当の秀才だけを選抜して教育した方が、ブルジョア社会の幹部候補生養成としてもズット合理的な筈である。中産階級層以上の家庭なり子供自身なりが進んで中等教育を受けさせよう受けようというのを拒むことは正しくない、というなら、無産者がその子供にせめて形式的な中等教育(内容には随分歪曲された社会知識を注入するがそれは大人になれば訂正される)を受けさせようという気持になることを拒むことは、正しいことか。ブルジョア的有力者の馬鹿息子が中等以上の教育を受け得ないのは世道人心を害するとでも云うのであろうか。
さてこうなって来ると私は、一般に云えば寧ろ入学試験の讃美者とならねばならぬ。単に学校の収容人員に対して相対的に入学を制限するばかりではなく、寧ろ子供や生徒の知能の絶対的な一定標準に従って、入学を制限した方がよいとさえ考える。ブルジョア層や小市民層出身の出来ない生徒を相手にしたことのある教師は、これだけの数の生徒を無産者大衆から選抜したらば、どれだけ社会的に経済的だろうと、思わないものはないだろう。――だから悪いのは、入学試験そのものではなくて、一定の階級的入学志望制限統制を社会的に施しておいた上で自由競争的な入学試験をやることから生じる色々の結果にあるのである。と云うのは例えば、社会的に入学志望を制限するから、人類全般の知能素質から見て大した教育上の効果を期待出来ないような入学志願者がそれだけ割合を多くするので、入学志願者の間の知能の開きが大きくなり、之が自由競争をする結果「良い」学校と「悪い」学校とが出来て、入学志願者が多過ぎて困る学校と少な過ぎて困る学校との分裂が始まるのだ。少し考えて見ると、これが今日の入学試験地獄の根本的な遠因であることが判る。
「良い」学校というのは世間で往々考えるように教師と施設とが良い学校を云うのではない。男の子ならば、上の良い学校(又しても良い学校)へ余計入学出来るような学校のことを指すので、それが原因ともなり結果ともなって、沢山の入学志願者と高度の入学試験落第率とを有つ学校が良い学校なのだ。その他に学校の優良さの終局の意義はないのだから、良い学校と悪い学校との対立が一旦始まったが最後、良い学校は或る程度まで益々良くなり、即ち志願者が集中し、悪い学校は或る程度まで益々悪くなる、即ち志願者が減って行く、というのが原則になるのである。之は大きく云えばこのブルジョア社会の自然法則だから、家庭や子供に向って、虚栄心を捨てろ、自分の個性に応じた(?)学校を選べ、皆んなの行く処へ流行を模倣するように集って行ってはいけない、等々と世間の教育僧侶達がどんなにお説教しても、少しも効き目のないのは当り前である。誰が一体、見す見す損をすべく、「悪い」学校を選ぶ者があるだろうか。
つまり今日の中等学校は、相当優秀な子供を収容するにはあまりに数が多すぎるために、或いは相当優秀な子供の数が中等学校の数の割にあまりに少ないために、良い学校と悪い学校との対立の余地が生じているわけで、もし仮に無産大衆の圧倒的な多数の内から之だけの数の子供を選ぶと空想するならば、悪い学校を実現するだろう素質の劣った今日のブルジョアや小市民の子供などは、初めから問題になれないから、入学志願者の偏在などは、起き得ないだろう。つまり鈍才でも資本主義的市民権を有っている子弟だというので、社会が教育を志すことから入学難が生じるのである。――教育から階級的意味が消え失せる時には、所謂秀才教育からもその弊害が消え失せるだろう。今日の入学志願者の偏在は金や資本の偏在のようなもので、大きく云えば資本制自由社会の必然的な一結果だとも云えるのである。
尤も特に女の児の場合などになると之にもっと複雑な事情が加わる。と云うのは良い学校という意味にもう少し複雑なものが加わるのである。今日の処、女学校は普通、嫁入り仕度の一つに数えられているのは否定出来ないようだ。中産階級層以上の教育ある男の妻となるには、その知識はとも角として(女学校の授ける知識は大して社会的通用性から云って問題にならぬ)、その趣味やイデオロギーから云うと、どうしても少くとも女学校卒業者でなくてはならぬ。処が、男の方は少くとも先頃までは、主に頭の能力によって出世も出来世渡りも出来就職も出来ると想定されていたが(実は必ずしもそうではなかったのだし又益々そうでなくなりつつあるのだが)、女の方の出世であり世渡りであり又就職である、嫁入りは、今の処何と云っても、当人の知能的能力ばかりでなく容色や品や乃至は実家の資産や地位によって決定される部分が多い。そこで、自然と良家の娘が集まる学校が、結婚率が高くて結婚年度が低い学校となり、女学校を嫁入り仕度に数えている家庭にとっては、そうした学校が良い学校となる。知能上の素質の高い学校に這入れなくても、良家の子女の通う学校ならば、見栄から云っても女らしい野心から云っても満足だということにもなるのである。だがそうは云っても、同じ嫁を貰うならば頭のいい方がいいに決っている。処が女は女学校以上の学校に進む者が男程多くないのであって、仮に素質が善くて学資に不自由しなくても社会的な又家庭的な惰性で、上の学校を望まない者が多いのだから、この社会では女の頭の良し悪しを間接にテストする標準が甚だ不足なのだ。それだけ女学校の成績というものが見合の一部分となるのだが、それは結局女学校出身の出来る出来ないの評判に帰着するのが現状のようだ。そうなるとやはり入学試験落第率の高い出来る女学校が嫁入り仕度としても概して良いわけになる。無論そういう「出来る」女学校も嫁入り資格を閑却する筈はない。出来るだけ良家の子女の内から優良児を選ぼうと考える。
こうして一般に女学校では、入学志願者の父兄の資産調べには抜け目がないようだ。切角の卒業生も無産者の娘では碌な処へ嫁にも行けまい、卒業生夫人団に仲間入り出来ないような才媛は学校としてあまり利用価値はない。私立の女学校になると、事業家である校長先生は何のかんのと生徒に無心を仰せつける。女の生徒は男の生徒のように悪たれでなく批判的意志がなくて従順だから問題はないが、父兄母姉団に充分な資産がないと問題が起きるし、金が集まらない。之に反して父兄母姉団の大勢が有産者ならば、今度は父兄母姉も生徒も献金して呉れる。入学者の資産状態を厳重に調査する必要が益々あるわけだ。
男の特殊な学校でも資産状態や家庭の状態までを調査する。之は夫々の社会圏の幹部となるに相応わしい貴族としての資格を調査するわけである。帝政時代のロシアの将校はその殆んど大部分が貴族であって、この貴族という社会的支配権の尤もらしさを、軍隊の指揮権にまで利用したのであるが、それに似た現象はどこの国にも珍しくない。そして、「恒産なきものは恒心なし」という支那の聖人の唯物論を逆用しようとするこの現象は、今日では一般の中学校の入学許可に際してもなくはないようだ。例えば前科者の子弟は何と云っても普通の子供よりも入学に不利だろう。無職の父兄の子弟も亦そうだ。(悪い意味に於ける無職というのは社会的定位を占めないことで、即ち社会では可能的な×××を意味して来つつある。)思想傾向を考査するような場合も結局はこうしたものに帰着するのである。女学校などになれば愈々この点が深刻に又神経質になるので、現に、心中したり婦人関係で問題を起したりした有名な人物の娘は、体よく退学させられている位いだ。旧くは女優になったために同窓会から除名された人もいた。嫁入り仕度の最中に、こういう不吉なことは縁起が良くないに違いないからである。
さて今述べた事情は、今日の入学試験の一般的事情の上に、主に資本制社会の内部に於ける封建的家庭制度から来る一種込み入った条件が加わった処のものだったのである。そこで再び元の一般的な事情に立ちかえるが、例の入学志願者偏在という現象は、当然子供の非人道的な入学試験準備を呼び起こさざるを得ない。之は前に云った所のブルジョア社会の自然法則のほんの一つの結果に過ぎないのだが、特にそれが世間の親達の道徳的実感に直接に触れるものであるため、今日入学試験に対する問題と云えば、殆んど凡てここを中心にして提出されているわけなのである。この試験準備の浅ましさに面をそむけない者は恐らく一人もいないだろう。だがただ物の結果だけをどんなに矯めようとしても矯められるものではない。暫く前東京府の学務課では、小学校に於ける入学試験準備を厳禁して見たが、必然性あって産まれたこの入学試験準備が、ただ一通りの禁令で止む筈はない。潜行的な形で依然として行われたので、或る程度までの準備は大眼に見ようということになったと覚えている。今のままで入学試験準備を廃止するには、試験準備をしてもしなくても受験に大して影響を及ぼさないような試験の仕方を選ぶことだが、そうかと云って一頃試みられたくじ引きやインチキなメンタルテストは全くの不合理か或いは単に新しい種類の入試準備を強要するものに過ぎない。小学校側からの成績申告が殆んど無意味であることも亦云う迄もない。文部省が最近重ねて、入学考査に難問題を提出するのを禁止したのが、せめても合理的な対策だと思うが、之とても準備の量を制限するだけで却って質を重加する結果を招くに過ぎないかも知れない。
入学試験準備の軍縮会議が成立しないとなれば、残るのは府立とか市立とかいう「良さそうな」中等学校を新しく沢山造ることだろう。之なら問題は一応綺麗に解決するだろう。だがそれでもやがて又例の入学志願者偏在が始まるに相違ない。全受験者即ち全入学者の内に優良児と中以下の子供との間の大きな開きがある以上、或る学校には比較的優良な子供だけが入学するという可能性が、段々著しくなるというのが、ブルジョア自由社会の例の自然法則だったのである。
世間の人は入学試験準備の弊を試験施行者である中等学校教育家の罪に帰したり、或いは試験準備施行者である小学校教員の責任に帰したりする。だが色々の部分的現象に就いてはとに角とし原則としては夫は全く当っていないのだ。又之を母親や父親の見栄や流行かぶれに帰するのも何等の解決ではないのである。子供の父兄は一定の已むを得ない理由なしに、単に見栄をしたり流行を追ったりするのではない、それにはすでに述べたようなもっと実質的な根拠があったのだ。
だが次のような意味では、試験地獄の弊が家庭の親達の「責任」問題になるということを見逃してはならない。一体受験地獄という言葉は、受験者当人である子供達の気持ちから出た言葉だというよりも、寧ろ自分で子供に試験準備をさせている当の親達の意識から出た言葉なのである。年はも行かぬ頭の柔かい子供達を不自然な残酷な準備に駆り立てながら、そうすることが、不可避な必然性と、客観性とを有っているということを知っている親の目には、之は全く地獄の名に値いする。誰も地獄に墮ちたくて墮ちるものはないのだが、墮ちざるを得なくて墮ちるのが地獄の神学的な意味ではないか。で、受験者は当の子供なのだが、受験責任者は、受験の責任を最も直接に感じるものは、却って親達自身なのである。苦しめた者が自分であって見れば、それだけ成功させてやりたいというものではないか。
子供の方は場合によっては案外試験を気にしていないかも知れない。親達がある学校を受けろというから受けて見るので、受験責任者は親達の方だと思っている子供も少くないかも知れない。とに角一等心配しているのが親達だということは平凡なようだが見逃すことの出来ない一つの事実である。そうしてこの事実は年と共に著しくなって行く。この頃では中等学校の入学試験ばかりではなく、帝大の入学試験にまで、大きな子供(?)につきそってやって来る母親があるそうだが、之は何も帝大の入学試験が困難になって来たからではないので(以前は高等学校の入学試験でさえ、父兄がついて行くなどという珍風景は見られなかった)、それだけ受験責任者が、受験者自身から父兄乃至親達に、即ち又家庭そのものに移行したことを示すものであり、それが中等学校の入学試験から段々と高い処にまで及んで、遂に最後に大学の入学試験にまで現われたに過ぎない。こういう意味に於て、最近、試験地獄は、親達の責任に移行しつつあるのである。
従来は、男の子など、父親の社会的地位や職掌からは比較的独立に、子供は子供なりに新しい運命を開拓すべく入学を志望する、という意味が相当に活きていたのに、最近の社会ではそういう新しい未知の運命を開拓するなどということは例外な場合か空想としてしか許されなくなった。受験者たる子供の家庭の家庭的及び社会的条件が、自然と圧倒的に入学希望の内容を決めざるを得ないように、世の中がなって来たのである。重役の息子は重役に、平社員の子は平社員になるように稼業の程度がもう一遍世襲的(?)になって来るように見える、入学試験の責任者が親達へ移行したことの原因はここにあるのである。
社会の表面に現われた秩序が今日のように固定化されて来ると、今までは家庭が社会からの避難所であったと逆に又社会が家庭からの開放だったりしたのが、今度は家庭自身が社会秩序のただの一延長になり、或いは同じことだが、社会全般が云わば家庭主義社会というようなものになって来る。ここで親孝行と云ったような日本の身辺道徳が、社会道徳のイデオロギーにされたりするのだが、こういう社会では、社会へ向って伸びて行こうとする子供も、全く家庭化された善良な家族の一員として終始せざるを得ないように、段々なって来るのである。――そういう事情の一つの現われが家庭の親達を入学試験の受験責任者にするのであって、旦那様は外で働き、奥様は家庭の取り締り役に任じ、坊ちゃんやお嬢さんはママと女中とが育てると云ったような、中産以上の社会層に見られる所謂家庭らしい秩序の外面を保っている家庭では、子供の入学試験、試験地獄は、もはや子供のものではなくて、お産や病気と同じように、全く家庭の日常の主婦的な心配事と相場が決って来ている。
で、小市民層以上のパパやママが、試験地獄を気に病めば病む程、実は却ってそれだけ試験地獄は深刻化して行くことになるのだ。子供達がこの試験地獄から解放されるためには、彼等は入学試験から解放されるよりも先に、家庭から、家族の一員としての隷属から、解放されなければならぬ。夫はつまり日本の「家庭」というものが従来の魔術を失うことなのだ。(一九三五・二)
(一九三五・三)
[#改段]
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