免職大学教授として有名なのは、東大の所謂三太郎と九大の佐々、向坂、石浜の三幅対だろう。この人達は今更私は述べようとは思わぬ。尤も今では前者の中、大森氏だけは後者の三幅対と一つになって四人兄弟となっているが、その代り、山田勝次郎氏が京大の農学部助教授を追われて、平野・山田(盛)の二人に加わったから、所謂左翼に三郎が揃ったわけだ。世間周知の通り、山田(勝)氏は東大の臘山政道教授の弟で、以前の「ソヴェート友の会」やその後の「日ソ文化協会」で主になって働いていた綺麗な山田夫人の夫君であるが、高等学校時代には農学部の予科(当時高等学校は帝大予科であった)にいたので私の方は先方を先輩として顔を知っていた。剣道の副将か何かだったと思うが、小柄で精悍で当るべからざる快漢であった。この間実に久しぶりに顔を合わせることが出来た時、矢張当時の変らない面貌が躍如としているのが愉快だった。
そういうことはどうでもいいが、山田氏が地代論に就いては推しも推されもしない権威を広く認められているに拘らず、一二の特別な雑誌其他を除いては、あまり普通の評論雑誌ジャーナリズムの上で筆を執らないため、或いはあまり有名でないかも知れぬと思って、特に読者の注意を喚起しておくのである。大学を罷めた理由については、深く知らないし、又やたらに穿鑿するのも考えものだと思うが、何か左翼運動に加わっていた学生に金か有価証券を貸してやったというようなことに由来していたようだ。
九大の法文学部は最近までいつも教授間の騒動が絶えない処だが、思想問題の名目で九大の所謂左翼的教授(向坂・石浜の諸氏)がやめる前に、木村(亀二)・杉ノ原・風早・滝川・佐々其他の一連の若冠教授達が、喧嘩両成敗の意味もあって馘になっている。まだ大学に赴任しない内、ヨーロッパに留学中のこの教授達が、パリーのレストーランかどこかで教授会議を開いた頃から、風雲が急だったそうで、それが遂に爆発したのだと云われている。併し恐らく之は必ずしも普通の意味での勢力争いや何かではなかったらしく、案外学術の研究態度の内容にまで這入った一種の思想問題が最後の原因ではなかったろうかと思う。現に結局残ったものは藤沢親雄氏というような人物だったので、この人も最近になって九大をやめたが、それは追い出されたのではなくて「日本精神文化研究所」の所員に出世した結果だったのだ。誰に聞いても、思い切って悪口を云われている人だから、今ここに重ねて説明することを差し控えるけれども、少くとも氏がこの頃唱えたり説明したりしている皇道主義というものは、もう一段と技巧の余地があるのではないかと、私ひそかに私は考えている。
木村氏は最近まで牧野英一教授の研究室の人で、現に法政大学の教授であるけれども、実は法政には過ぎ者の教授の内に数えられている。私の知る限りでは、刑法学者らしく又社会学者らしく頭の整理された人であって、曽つて雑誌に発表したサヴィニーの研究や、「多数決の原理」の論文は、仲々示唆に富んだものだった。木村氏と喧嘩をしたのは同じ刑法学者の風早八十二氏であるが、これは九州を追われると上京していて、中央大学につとめていた処、法学全集で治安維持法の批判をやったのが発禁になると共に、総長の原××が検事のような態度で追い出して了ったようだ。当時所謂「インタ」や「産業労働時報」を出していた唯一の大衆的調査機関だった「産業労働調査所」に這入り、貧窮のドン底で仕事を続けていたと聞いている。やがて地下に潜って検挙あげられた人だ。死刑廃止論の古典であるベッカリヤを訳して詳しい研究をつけて出版したことは、記憶されねばならぬ。それから杉ノ原氏は上京後日大の講師をしていたが、シンパ網の中心として挙げられたことは有名である。杉ノ原氏との関係から一網打尽にやられた教授は決して少なくないようだ。
同じく九大を追われた滝川政次郎氏は、東京で三つか四つの大学の教授か講師をしている間に、中央大学でだったと思うが、法学博士になって了った。多少とも左翼的色彩を持ったことのある人で後にこういう社会科学方面の学位をとったことは、異例に数えられる。かつて左翼のシンパとも目された人で医学博士になった人(例えば安田徳太郎氏)はないではないが、それでも京大の太田武夫氏などはそうした種類の単なる懸念が理由で、文部省から医学博士を認可して貰えなかった。滝川(政)氏が博士になれたのは、多分同じ法制史でも日本の法制史の研究だったからではないかと思う。いずれにしてもこの滝川博士がこの間満州の新しい法律専門学校の教授として、赴任したというから、目出度い。
私の記憶の誤りでなかったとすれば、杉ノ原氏の件に関係して検挙された教授に、商大の大塚金之助氏と日大の羽仁五郎氏とがいる。経済学史家としての大塚氏の能力は世間周知のもので、挙げられる直前まで最近のヨーロッパの詳しい経済学史乃至経済思想史を改造誌上で展開して、読者、特に相当水準の高い学生達に大いに期待を持たれたものだ。(氏は学生読者層に人望のある点で平野義太郎氏と好一対だという話だ。)河上博士がその説得力に富んだ健筆を振えなくなり、資本論の飜訳も中途半端になっている時だったから、河上博士の或る意味での後継者としての氏の位置には特別なものがあったのだ。尤も河上博士の一種悲壮に近い闘志に充ちた筆致に較べると、大塚氏のは一種ホロ甘い蒸気につつまれているので、その印象は説得的であるよりも咏嘆的だと云ってもいいかも知れない。一つにはこの福田門下の偉才は同時に優れた詩人であり(氏のゲーテ研究はよく人から聞く処だ)、少くとも歌よみ人である処から、この弱々しさが出て来るのでもあるが、併し他方大塚氏は、理論家乃至分析家というよりも寧ろ卓越した資料の占有者だということから、その筆致の地味な処が出て来ると見られるだろう。或る人は氏の書く「論文」を退屈だと云っているが、それはこの二つの点から来ることだ。
資料の占有者だという意味は、決して単に資料を沢山持っているという意味ではない。氏は吾々と大して変らないような生活をしているように見えるから、失礼な想像だが、某々華族や貴顕紳士お近づきの歴史家ほどに沢山資料を有っているとは思えない。資料の占有は資料に就いての知識とその知識の整理とに、つまりそうした資料取り扱いの心がけに、帰着するのである。或る人から噂として聞いたことだが、大塚氏は人と対談しながら、相手の言うことを書き止めておいて、その次会った時に違ったことを云うと、この「資料」を持ち出して来て、君はこの間こう云ったじゃないかと検言し始めるそうだ。無論之は相手によることだ、私でさえ時々そういう対談法の必要を感じることもある程だから、大塚氏にして見れば不思議なこととも思われないが、その真偽はとに角として、(こういうことを云うのはあまり好ましくないが)私がかつて氏を訪問した時まず驚いたのは、その整頓された本の並べ方と、机のわきにある電鈴の押し方の守則であった。モールス信号のようなものが書いてあって、幾つ押せば奥さん、幾つ押せばお茶ということになっており、而も夫が自分では覚えていないと見えて、チャンと表に書いてあるのだ。その次に驚いたのは、何年何月の件と背に書いてある「資料」を書架から取り出したのを見ると、之は氏自身の検事調書其他の記録なのである。
之は氏の人物と研究法との特色を示すもので、之ほど正確・確実・慎重な人物と学問とはメッタに見られぬ処だ。こうした一種の併し軟かな正直さは場合によっては氏を消極的にしすぎるかも知れない。その結果の一つかどうか知らないが、吉祥寺(氏は吉祥寺に住んでいる)を中心として雑草を蒐集する会が最近あるそうで、そのメンバーの一人が大塚氏だが、或る人が、大塚氏のこの心の動きを「批判」した処、氏は忽ち恐縮して理由を具して退会を申し出たそうだ。そういう氏であるから私がこんなことを知っただけでも、慎重に自己批判でも始めないとも限らないからいい加減で切り上げることにする。
羽仁五郎氏は日大をやめたのだが、併し氏は別に日大教授が生活資源ではなかったろうから、「免職教授」の資格に於ては勝れていない。氏は高等学校時代に村山知義氏と並んで校友会雑誌に小説を書いていた頃から顔を知っているが、当時から典型的な秀才だった。ドイツへ行ってリッケルトの門下となったように憶えているが(当時は村山も死んだ池谷信三郎も皆ドイツへ行った――マルクが馬鹿に安かったから)、歴史哲学のようなものに興味を持っていたためだろう。その地で三木清氏と会って大いに許し合ったらしい。帰朝直後クローチェの歴史哲学を訳して吾々を啓発したかと思うと、意外にも東大の国史に這入って、そこで忽ち学生から教授達までを魅了して了った。専門の著書も二三はあるし、学術的な評論集も出たし、飜訳校訂も少なくないが、一等永久に残る仕事が平野義太郎氏等と衝に当った『日本資本主義発達史』の講座であることに、世間では異論はあるまい。自由な身体になってからは、あまり身躯の具合がよくないらしいが、併し保養しながら落ちついてユックリと研究の出来る身の上だ。
旧く森戸事件の森戸氏に就いては知らない人はない。大原社会問題研究所員として、左翼の人達からはとや角云われながらも、昔ながらの自由主義者として(尤も森戸事件はアナーキストたるクロポトキンの紹介が原因だったが)、この特別に緊張した反動時代に、筆を振っている。早稲田を出た大山郁夫氏(尤も氏はそれ以前にも早稲田騒動で学校を止めたことがあったそうだが)は、アメリカで健在だそうである。この「吾等の委員長」が日本に帰れる日はあまり近くはないようである。滝川問題乃至京大問題の滝川幸辰氏のその後の消息に就いては、私は全く知らない。京大事件で退職した法学部の教授達(佐々木惣一博士を筆頭として)は大部分立命館大学に鞍がえしたから、正当な意味での「免職教授」の内には這入らないかも知れない。この教授達は現在、寧ろ前よりも活溌な位いに、立命館大学の機関誌上で活動している。
処で当時時を同じくして、同志社事件というものが発生した。京大問題で京大の学生其他が上を下への運動や動揺の最中、突然、同志社大学の法学部の住谷悦治氏と長谷部文雄氏、それから予科の松岡義和氏、の諸教授が検挙されたのである。ことに住谷氏や長谷部氏は殆んど何でもなかったのだそうだが、それがどういうわけか、ひどく強硬な態度で臨まれた。後での評判によれば、之は京大問題の牽制策か側面攻撃の意味があったらしく、文部省からその方針が出ているとさえ云う者がいる。××は特にワザワザ警視庁から出向いている処を見ると、単に京都の一地域に限らぬ関係があったらしく、従ってもし夫が大した内容のものではなかったとすれば、何か××での思惑だったということにならざるを得ない。
住谷氏は経済学説史の研究家で、多分キリスト教的教養を身につけた人のように思われる。平凡に批評すれば温厚な学徒という所であるが、仲々の艶福家だという、否、だったということを聞く。ジャーナリストとしての資格も具わり文章も風格があって、竹風と晩翆(いずれも二高時代の先生)とを論じた最近の文章も面白かった。先頃迄文芸春秋社の特派員の資格でドイツに渡って通信を書いていたが、最近に帰朝した。長谷部文雄氏は[#「長谷部文雄氏は」は底本では「長部部文雄氏は」]最近マルクスの『資本論』其他の飜訳に専心しているそうで、文献的な研究に就いては第一人者だろうから、その点で河上博士の後継者という意味を持っている。器用で達者で裕々逼せまらぬ論客、即談客と見えた。私はこの間初めて会ったばかりだから、正確には判らないが。それから松岡義和氏は私の親しい友人の一人で、哲学の教授だったが、前から消費組合運動の実際に携っている。田舎の官立高等学校で我慢出来ずに京都へ飛び出して来たが、夫はつまり馘になるために来たのだった。肥満している割合に純粋で頼みになる男である。
辰巳経世氏は確か関西大学を罷めた人だったと記憶するが(或いは思い違いで失礼かも知れないが)、今は大阪で非常な元気のようで、唯物論研究会でも活動的なメンバーの一人である。その勇敢さは傍の人を却って心配させる程であるが、併しそれは傍の人の方の老婆心というものだろう。最近見た文章では大原社会問題研究所の案内記があり、それを読むと氏の気魄彷彿とするものがある。
話は全く系統を別にするが、関西のことを書いた序でに触れておきたいのは、社会学の老大家米田庄太郎氏の件である。尤も京大には昔、沢柳総長の教授馘切り事件があったということだが、米田氏が京大をやめたのはそう古いことではない。氏の教授生活に就いては[#「就いては」は底本では「就いは」]色々の噂を聞いているので、例えば氏の、何年かの後にやめる約束でやっと教授となったのだとか、博士になったのは退職を条件としてであるとか、いうのであるが、なぜこういう妙な噂が立つのかが判らないし、又不愉快な噂でもあるが、それと同時に、事実博士が停年未満にも拘らず自発的に勇退した理由も私には今日まで遂に判らないのである。博士は勇退後研究に不便を感じているように聞いているし、それから大学の方でもその後任に困っていたらしい。博士の高弟高田保馬氏は、例の貧乏道徳論的な趣味も手伝ったのだろう、恩師の影を踏むを屑いさぎよしとせずと云って文学部の教授になろうとしない。博士も米田先生がなるまではならなかった。だから今日でも社会学の博士は少ないのである。そこで京大では東大の戸田教授(当時は助教授だったと思う)や今井(時郎)助教授までを招いて無理な講義をさせた程だった。一体教授が土地の隔った二つ以上の大学に兼任する程人を愚弄したことはないので、学生こそいい迷惑だろう。文部省や大学当局がそういう勝手なことをする以上、当然学生も転学の自由位い与えられるべきだと思うのだが。そういう無理をしてまで米田教授を罷めさせたのはどういうわけか、世間でも殆んど知らぬらしい。こうなると大学も一種の伏魔殿に類して来る。
一体大学は大学の自治とか学の自由とかという名義の下に、可なり沢山の秘密が蔵されているのが常だ。尤も官庁にはそうした秘密が沢山あるので、所謂機密費(それは軍部のが圧倒的に巨額だ)というものもあれば、閣議を初めとして各首脳部の秘密もある。議会にさえ秘密会があるという次第だ。併し大学は特に公明な学の自由に基いて初めてその自治を誇り得る建前になっているわけなのだから、その自治の手前、もう少し学内行政が少くとも学内に於ては公然としたものでなくてはなるまい。
現在の免職教授の花形は云うまでもなく美濃部達吉博士である。博士は去年すでに停年に達して退職し、名誉教授となっているから、この方は直接実質的な問題にならずにまず無事であったが、併し聞いて見ると、今までにも随分危なかしいことがあったらしい。この間聞いた噂であるが、そして噂だから私には責任がないが、併し噂があったということ自身は事実だが、前の小野塚東大総長が或る席上で、京大事件当時の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話を素っぱ抜いたそうである。時の文部大臣鳩山一郎氏を眼の前において、当時京大教授側を支持した美濃部教授その他を罷免しろと、この鳩山君が迫って来て仕方がなかった、と述べたそうだ。之で見ると美濃部博士はすでにその時免職の可能性があったものと見える。
小野塚総長は名総長で、他の大学の総長や学長のように次官や局長級にペコペコせず、堂々と文部省に臨んだし、流石の軍部の教官も謝ったという噂であるが(之も噂だ)、今度の長与総長に果してそれだけの腕と腹とがあるだろうか。松田文相に呼びつけられて、管下の美濃部派自由主義教授達に緘口令を敷いたと聞いているのは本当だろうか。
それはとに角、博士は幸いとして無事教授を卒業して名誉教授となり、学士院の会員ともなり、更にその憲法学説の研究の功績を愛でられて勅選議員に勅選されるの栄誉に浴したのである。もしこの栄誉が誤り与えられたものとすれば、之を勅選し給うべく奏請した者は一人としてその補弼の上の責を免かれるものはあり得ない。少くともこの点は論議の余地のない程明らかと思われる。もし美濃部博士が一切の栄職を辞さねばならぬ大義名分があるとすれば、同様に之を勅選に奏請した臣下は一切の栄職を擲つべきだろう。なぜなら奏請する以上はこの学者の学説とその学術上の影響とを国家の見地から見て尊重すべきものと見倣したわけで、その点から云って夫々一個の美濃部主義者でなければならぬからだ。現在は美濃部主義者ではなくなったと云った処で、そういう転向は場合が場合だから弁解にならぬ。――まあ理窟はこういうわけだが、事実は、今まで責任を感じて一切の栄職を擲った奏請者はただの一人もいない処を見ると、必ずしも博士の例の栄誉に誤りがあったのではないことが立証されているし、博士も亦、その学説は云うまでもなく、一切の栄職を擲つ理由もないと主張している。他の人間共の云うのでは信用出来ないが、合理的に理性的に物を考え物を云う博士の言葉だから世間は広く之を信用するだろう。
で結局博士の学説に仮に何かの誤りがあったとしても(之は検事という専門家を信じる他ないので民衆の容喙すべき事柄ではない)、夫はその実質に於て名目程重大な意味のものではないのだ、という結論を、世間は這般の事情から惹き出すだろう。だが栄職は擲たない博士は、中央大学の教授とか、早稲田の教授とか、商大の講師とかいう不名誉な(?)職は擲つ決心になったらしい。で、免職教授の花形も、実は大した免職甲斐がないのである。
事実、検察当局は研究の結果、美濃部学説は出版法違反にはなるが、不敬罪にはならぬ、という結論に達したらしい。出版法違反と云ってもこの場合には国体に関係したことらしいから(之も検事を信じる他ない)、その罪は軽いとは云えないわけだが、併し博士の犯罪はその出版行為に限定されるわけで、多分大学で講義をしたり多数の学者を養成したりしたという功績に於ては、犯罪を構成しないわけになるのだから、まず世間で指摘している例の奏請責任問題に抱ける矛盾は免かれる。併し当局は、之以上判定に油が乗ると、解くべからざる矛盾に陥るのだということを覚えておくべきだ。
尤も今まで歴代の内閣がこの不当な著書を看過したという責を問われるかも知れないという点に就いては、内閣は、それは時代の風潮が変って来たのだから問題にならぬという解釈を採っているらしい。つまり時代がファッショになったからファッショの標準で法文を解釈すべきだという意味だろうと思う。そうするとこうしたファッショ好みは国家によって公的に社会の新常識=通念として承認されたことになる。博士は犯罪は構成するが之を起訴すべきか否かは当分、と云うのは満州国皇帝陛下御滞在中、輿論の趨勢を見てからのことにすると新聞紙は伝えているが、他方美濃部排撃の一派は、やはり御滞在中運動を見合わせるという同じことを云っている。ここからも亦、天下の輿論が国家によってどういうものとして公認されているかが理性によって推論され得る。尤も之は理性による推論だから日本の新常識には通用しないかも知れぬが。
滝川事件では文部省の反省を促し、統帥権に就いては軍部の反省を促し、帝人事件に就いては司法部の反省を促した最近の美濃部氏は、文部省関係である教授免職は年の功で免れた代りに、軍部の反対と司法部の判定とによって、居ながらにしていつの間にか犯罪者となったのである。時間の又は時代の推移がこの結果を齎したとは云え、法律の専門家で而も立法機関たる貴族院の議員である博士さえ、ついウッカリしてこういう生存適応のやり損いをやるのを見ると、日本のムツかしい法律に無知であり而も立法の議に直接参画出来ない吾々素人庶民は、一日も安んじて時間を推移させることが出来ない、などと愚痴をこぼす者は逆賊であるかも知れぬ。
だがそういう不景気な話はやめて、もっと面白い話に移ろう。そう云ったら怒る人もいるかも知れないが、とに角思想関係で馘になったとかならぬとかいうのでない、もっと面白い馘になり方もあるという話だ。教育史上では、この間の法政騒動は、美濃部問題や滝川問題に負けず記録的なものだ。というのはその馘首量に於て優秀なのである。敵味方入れ混っての合戦だということをまず注意しておいて、最初の前哨戦は平貞蔵教授の免職である。一体九大法文学部の初期の教授達が例の(又出て来たが)美濃部博士の系統だったと似て、法政の経済学部の教授達は大体高野岩三郎――大内兵衛系統の新進だ。その内で一等権謀もあり率直さもあるのが平氏だったようだ。表面上はあまり香しからぬ理由で(尤もそういう理由は大学の自治の手前大して重大性を有つとは[#「有つとは」は底本では「有っとは」]思われないのだが)、罷めて確か満州の調査機関に赴任して行った。その後本隊の決戦が行われることになる。
そこで馘になったのは所謂四十七士で(尤も正確には四十七人はいなかった)、問題の中心人物野上豊一郎氏を始めとして、相手方の森田草平氏が不倶戴天の仇敵のように考えている内田百間氏や、山崎静太郎・佐藤春夫・土屋文明・谷川徹三・豊島与志雄等の人々がその内に這入っていた。尤も学部に関係ある人は学部だけ残ったが。(私も四十七士の仲間に入れて貰った一人だ。)何と云ってもこの内で興味のあるのは野上氏と百間先生だろう。
反野上派と当時反野上派にすっかり吹き込まれていたお人よしの法政大学の学生生徒諸君とによると、野上氏位い官僚的な横暴な人物はないのだそうである。野上がいるために法政は自由を奪われ、学内自由主義は日に日に消え細りつつある、というのが、法政大学の進歩的な学生生徒の社会科学的分析である。なる程野上氏が人によっては官僚的に見えたり横暴に見えたりすることは事実かも知れない。だが凡そ官僚的でなくて横暴でない私立大学の理事などが論理的に可能だろうか。氏が決して官僚的でも横暴でもないらしいことは、夫人野上弥生子氏の小説「小鬼の歌」に就いて見るべきだ。
官僚的だとか横暴だとかいうのが、法政の出身者でなくて帝大出だとか、法政の卒業生の云うことを聞かないとかいうことだとすれば、真面目に対手となれぬ。だが私は事実野上氏を官僚的で横暴だと信じている。なぜなら夫によって初めて、氏は法政を出たあまり柄の良くない老先輩の学内行政進出を防ぎ得たからである。今日の私立大学の大先輩達が、大学を自由にするのは、自分達の自由にする意味であって、大学の自由を与える意味ではないという事実を、併し若い卒業生や学生は知らなかったか又は過小に評価していた。野上氏が退いてその結果は、校友理事達の云わば美濃部排撃的な常識が権力を持つことになって、自由主義教授達は尽ことごとく追い出されるか時間を激減されたのであるが、頭の良くない法政の学生や若い先輩は、今更のように驚いて、之を一種の偶然な原因に帰している。この間『社会評論』の四月号に出た法政騒動談を読んで見たが、矢張法政一流の偶然観的社会分析(?)しかない。――野上氏の人格などとは関係なく、法政の条件は分析されねばならなかったのだ。
野上氏は長く関係していた法政をやめて、九大の英文学の講師をしたり、能の本を出版したりして、愉快そうにしているが、之は一体どうした間違いだろうかと思う。なる程野上氏には之で見ると、あまり「愛校心」はなかったようだ。
内田百間氏は免職と同時に続々として随筆集を出版して敵味方を驚かした。氏の作品を見ると、私は氏が一種の被害妄想狂であることを信じる。氏の有名な借金上手も、この点から充分に説明出来る。借金という貸主からの被害がなくなると、内田氏は初めて本当に憂鬱になるだろう。愛惜される憂鬱ではなくて、憂鬱な憂鬱が来るだろう。その時が来るまで氏は書きつづける。氏は決して森田氏が云っているような騒動の巨魁などではない。
百間氏の被害妄想症に対比されるべきものは森田氏の有名な露出症である。森田氏はいつでも忽ち用もないのに腸はらわたを皆に見せて廻る。尤も見て了ってから徐ろに又元の腹壁に大事そうにしまい込むのであるが。この露出症が学生の気に入って、若い卒業生達に担がれて反野上の巨頭となったのだが、元々大した見透しがあったのではない。常識的な理事が出て来ると、忽ち馘となって了って、担いだ若い校友達の方は教師に返り咲きしたり新らしく学内就職に成功したりしたから、そこで氏は西郷南州となった。すると野上氏はさしずめ山県有朋になるわけだが、なる程之は官僚の元祖であった。
罷免後の氏の消息をあまり知らないが、何と云っても草平氏は過去の型の人物ではないかと思う。帝大新聞に例の小説『煙烟』を『梅園』と書かれたと云って悲観していたが、今は大衆文学や歴史小説に道を拓こうとしているらしい。
立正を馘になった三枝博音氏をこの辺で※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入しておかなくてはならぬ。しかし余白がないから別の機会に譲ろう。今は日本思想史の究積中だということだ。
法政を馘になったので有名なのに、他に三木清氏がいる。氏に就いては世間はよく知っているから言わない。復職する筈であった処、法政騒動の結果、氏自身の見透しを裏切って復職不可能の現状にあるようだ。――私自身も、騒動で半分やめ、後の半分は右翼新聞の注文で大学当局が無理にやめさせたのだが、併し健在なること、如是。(なお高商其他で追放された左翼教授は数知れずあるが、一々知らない。併し大体からいって、思想問題というのは大体口実で、その背後には必ず勢力争いがひそんでいることは記憶されねばならぬ。云うまでもなく学校当局さえしっかりしていたら、左翼教授は決して馘にはならぬものだ。)(一九三五・四)
(一九三五・五)
[#改段]
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