16] パンフレット事件及び風害対策
一、パンフレットの恩恵
有名な一九三五・六年の「危機」に直接関係のあるロンドン海軍軍縮予備会談が開かれようとしている。軍備平等権の確立と差等比率主義の撤廃というスローガンを掲げた山本代表が、国民の景気のいい歓呼の声に送られながら出発した。之より先、陸軍は第二次国防充備の五カ年計画のために、明年度以降五カ年総額六億の要求を大蔵省に提出している。ソヴィエト・ロシアに対抗するためには是非之だけは必要で、今日のロシアは日露戦争時代のロシアとは打って変って強くなっているからというのである。尤もこの要求は、この間の思わぬ関西風水害のおかげで政府の総予算の圧縮が必要となったため、明後年度からに延期されることになったが。
風水害が軍縮会議にどう影響するかは、今の処一寸材料がなくて判らないが、とに角軍部にとってこの風水害は色々の間接直接の影響を与えている。云うまでもなく夫は当然なことだ。この風水害は単に関西地方の軍需工業生産能力の数パーセントを一時的に失わせたばかりでなく、旱魃、冷害、水害による凶作に、更にもう一つの決定的な拍車をかけた。それが軍部と何の関係があるかと云うかも知れないが、この凶作を見越した米価の極度の騰貴は、持米を売り払ったり食いつくして了ったりしている全国の貧農民(ブルジョアジーは之を農村というロマンティックな名で呼んでいるが)にとっては、さし当りの連帯的な損害にしかならないわけで、それに繭のレコード的な安値までが手伝って、この頃農民をクシャクシャさせているのだが。壮丁や在郷軍人までがクシャクシャし出しては国防上の大問題ではないか。
それだけではない、この風水害は、容易に神輿を挙げそうになかった岡田内閣に、遂々臨時議会を開くことを余儀なくさせた。政党も之でどうやら活気づくだろうが、それだけ軍部も一働きしなければならぬ秋が意外に早く来たわけだ。
こういう条件が与えられているのを眼の前にして、陸軍は陸軍新聞班の名を以て、十月一日付のパンフレット『国防の本義と其強化の提唱』を発表した。世間がこの種のことをウスウス予期しないではなかっただけに、却って鋭いショックを受けたのは尤もだろう。このパンフレットは十六万も印刷したというが(こんなに多数印刷されるパンフレットは民間ならば珍らしいことだ)、私はまだ実物を見ていないのが残念だ。だがその要点に就いては新聞が相当詳しく報道しているから、夫を信用していいだろう。
第一に、国内問題は国防の見地に立つと、農山漁村の更生の問題として現われる。現時の農山漁村の窮迫は、農村物価の不当並びに不安定・生産品配給の不備・農業経営法の欠陥と過剰労力利用の不適切・小作問題・公租公課等農村負担の過重と負債の増加・肥料の不廉・農村金融の不備(資本の都市集中)・繭絹糸価格の暴落・旱水風雪虫害等自然的災害・農村における誤れる卑農思想と中堅人物の欠亡・限度ある耕地と人口過剰等に起因しているというのである。原因も結果も物質的地盤もイデオロギーも、国防の見地に立てば一列横隊に並ぶらしく、例えば農山漁村の窮迫は、農山漁村生活の不振に起因する、と云ったような項目を要因として挙げておけば、もっとこの横隊が完全になるかと思うが、夫はまあどうでもいいとして、かいつまんで云うと、これ等の原因の大半が都市と農村との対立に帰納せられるというのである。つまり農村の窮迫は都市の責任だというのである。読者は陸軍の全知能を傾けて帰納した結論として、この断案を尊重することが国防上必要だということを忘れてはならぬ。
だが都市と云ったって労働者街もあれば貧民窟もある。大邸宅もあれば大官衙もある。それは同じく農村と云ったって大地主もいれば農奴に等しい小作もいるのと変らない。もし万一労働者やルンペンが大地主の責任だというようなことがあったとしたら、農村は逆に都市に対して責任を取らなければならなくなるだろう。処が実際都市の人口の多数を占める労働者やルンペンやその候補者達は、云わば大地主が手ずから都会へ送ってよこしたような連中に他ならないのである。そうするとどうも、都市と農村との対立ということ程ナンセンスなロマンスはないだろう。農村が都市を相手取って、小作問題を起す心配もないし、農村金融の不備が資本の都市集中だというのも変で、農村金融の不備は寧ろ農村高利貸の善意の不備(?)などにあるのではないか。資本が都市に集中するのを羨しがるのは[#「羨しがるのは」は底本では「※[#「義」の「我」に代えて「次」、185-下-4]しがるのは」]農村に於ける資本家(?)のやることで、軍部ともあろうものが夫に相槌を打つべき筋合いではない筈だ。で、軍部は世間の「誤解」を招かないように農村というような曖昧な言葉を避けなければいけない。
だが幸いにして、世間では軍部のこの第一の断案に対しては別に「誤解」もしなければ反対でもないらしい。寧ろ大いに賛成なのだ。世間も亦この農村という言葉のマジックが気に入っている、そこへ農村の神様である軍部自身が夫を裏書をして呉れたのだから気丈夫この上もないというわけである。
国防上の第二の問題は、思想問題である。ここでは悪玉は、「極端なる国際主義」と「利己主義」と「個人主義」とであり、又「泰西文明の無批判的吸収」と「知育偏重」とである。之に対立させられる善玉としては、「国家観念と道義観念」や「質実剛健」「実務的実際的教育」などが挙げられる。併し思想問題は一時的な国防上から考察される場合も、永遠な人間教育の立場に立つ文部省の立場から考察される場合も、少しも内容が変らないものと見える。まことに予定調和と云わねばならぬ[#「云わねばならぬ」は底本では「云わねなばらぬ」]。無論世間がこうした予定調和を見て大満足の意を表せずにはいられないのは無理からぬことだ。
国防上の第三の問題は、武力である。之は軍部に一任すべき性質のもので批評の限りではないが、世間がこの点で完全に軍部を信用しているという事実は、日本朝野の例の軍縮気※(「火+稻のつくり」、第4水準2-79-88)からも推察出来る。
だが実業家や政治家を驚かせ且つ怒らせたものは第四の国防上の問題である経済政策論なのだ。軍部の見解によると、現在の日本の経済組織の欠点は、(一)経済活動が個人の利益と恣意とに放任されて「国家国民全体」の利益と一致しないこと、(二)自由競争激化の結果、排他的思想を醸成し階級対立観念を醸成すること(※(感嘆符二つ、1-8-75))、(三)富の偏在、(四)国家的統制力の弱小、などであるという。
之に臨む経済対策は、国防上、次のようなものになる。即ち(一)道義的経済観念に立脚して国家国民全体の慶福を増進すること、(二)国民全部に勤労に応ずる所得を得させること、(三)金融と産業の制変運営を改善して資源開発・産業振興・貿易促進、それから国防の充実、(四)国家の要求に反せぬ限り個人の創業と「企業欲」を満足させてそれで勤労心を振興させること、(五)公租公課を公正にすること、などになる――注目すべきは資本家打倒とも政党撲滅とも云っていないことで、実業家や政治家は之を見て何だって怒り出したのか気が知れない。
或る一群のブルジョア・イデオローグは之を見て国家社会主義の宣言だと極言する。併し他のもっと冷静な経済学者達は、そんな危険なものではなくて単に統制経済を唱導するものに他ならぬと云うのである。国家社会主義が、如何に社会主義という名が付いていた処で、なぜブルジョアジーにとって「危険」なものであるかが私には今日に到ってもまだハッキリと判らないのであるが、それはとに角、資本家打倒でも政党撲滅でも、まして資本主義打倒でもなくて、却って個人の創業と企業欲とを満足させ、一方夫によって勤労者の勤労心を養成しようと云っているのだから、どこに一体実業家や政治家が怒らねばならぬ理由があるのか。金融や産業の制度もウマくして呉れると云うのではないか。それから実業家政治家諸君! 諸君が蛇蝎のように悪む「階級対立観念」は、国防的見地からすると道義的経済観念に立脚すれば消えてなくなるそうである。不道義的な自由競争さえ一寸止めれば、排他的思想はなくなり(尤も国際間の排他思想は別だが)その結果階級対立観念はなくなるというのだから、実業家政治家諸君! 諸君は国防的にさえなれば、万事は諸君の望み通りウマく行くのだ。それに諸君は一体何を怒っているのか。――凡ては国防なのだ、「国防」が万事を解決する、軍部のこのパンフレットはそういう一個の鋭い真理を提唱しているのだ。この真理の判らない実業家や政治家は、子の心親知らずとでも云うべきだろう。
一体農村問題や思想問題や武力の問題に就いては軍部の提唱に大賛成の意を表しておきながら、経済問題になると突如として不賛成を唱えて怒ったり何かし出すのは、何と云ってもそれは政治家や資本家の得手勝手というものであり、前後矛盾というものである。このパンフレットは一貫した論理を以て貫かれているのだ。一部分だけ賛成して一部分反対するというような卑怯な態度は、国防上許すことが出来ない代物である。
軍部は実業家・政治家、それから地主の云いたくて仕方のないことを、率直に、統一して纒めて云って呉れているに過ぎない。このパンフレットの発表の動機や時期などを兎や角問題にするのは、云わばこの有難い恩に狎れるというものだろう。さっき挙げた例の提案は、どれも之も御題目のように抽象的だし而も陸相自身がムキになって釈明する処によると別に之を強制する意志を表わしたものでもないそうだし、それに仮に実行するにしても、実業家、政治家、地主諸君に夫々手分けをしてやって貰うというのだから、軍部が政治に干与するとかしないとかいう、そんな形式論に拘泥するものはあるまい。――この軍部の恩恵に向って腹を立てたり騒いだりするのは諸君の勝手で、又その憤慨が取り持つ縁となって、国同と民政とが一緒になるのも或いは又民政と政友とが挙国一致単一政党を組織することになったにしても、それも亦諸君の勝手で、序でに政党政治のために祝辞を述べておいても構わないのだが、併しあくまで忘れて貰っては困ることは、それが諸君にどんなに気に入らなくても、軍部の云っていることは諸君の云いたいことと全く同一のことだという点なのである。
なる程軍部はブルジョアジーや地主や政党政治家よりも、もう少し上手なものの云い方を心得ているという差異はある。例えば、軍需工業労働者に対しては、軍部は「勤労恩賞法」というスローガンで後援している。(勤労心という語はさっきも出て来た。)それから軍事関係の風水害罹災者には軍部は特別な便宜を計ることにもしたそうだ。特に農村に対しては(農民に対してはとに角)、なるべく面倒を見るような方法を考えようとしているのが、軍部の態度だ。だから例えば、全国の農民団体(?)はこの頃軍部の後援を得て「飯米差押一カ年禁止」をスローガンとする運動を始めたがっているそうでその代償としてかどうか知らないが、国防予算の削減には大不賛成だと云っているそうだ。(東京日日新聞はワザワザ之を報道して呉れている。)正に軍部の注文通りの筋書きに出来ているが、天下の実業家・政治家・又特に大中小地主諸氏も、もう少し軍部の様な考え方を習い覚えることが一身上の利益ではないかと思う。軍部とブルジョアジーとの対立(?)、その小さな一例は在満機構改組をめぐる軍司令部と関東庁との対立などだが、こうした内部的な対立などは、それから後でユックリ考えても充分間に合うのである。
二、復興と同情
関西風水害の対策、復興方針は、云うまでもなく各方面で講じられている。何しろ大きな学校が潰れたり、急行列車が吹き飛ばされたり、有名な五重之塔が消えて無くなったり、汽船が街頭へ出て来たり、数知れぬ人命が奪われたりしたのだから、どんなに社会現象に無関心な世間の人でも、多少のショックを受けるのは当然だろう。一切の現下の社会問題は今や、この一個の突発的な自然現象(?)によってスッカリ蔽われて了いそうだ。現に都下の婦人団体の御婦人方は、他のことには一向無関心なのにも拘らず、こういう刺※[#「卓+戈」、187-下-22]的な事件に対しては極度に涙もろくなっている。シニズムとセンチメンタリズムとはお隣り同志だということがこういう場合に最もよく判るが、併しとに角活動しないよりはした方がいいことは事実である。市電の臨時雇車掌として活動して喜んでいる小商人達よりは大いに結構である。
私は何も折角の婦人団体の活動にケチをつけようというのでは決してない。実は寧ろその反対なのである。だがまず所謂復興なるものがどういうものかに気をつけなければならないようだ。文芸復興とか宗教復興とかいうものが世間では盛んだが、復興というものは往々油断のならない代物だからである。
一体風水害からの「復興」はどこへ向っているか。総括して了えば夫は金融問題に帰着するのである。と云う意味は、まず第一に大蔵省と日本銀行とが復興のため中小商工業者への低利資金融に就いて、意見の一致を見たと伝えられる。それから近畿商工会議所連合会の席上では、大蔵省当局者に向って、二千万円程政府が責任補償する一万円以上の復興資金の予算を要求している。尤も商工省当局の意見では、予算によるよりも預金部の融資に俟ちたいというので、商工会議所の資本家達も之を諒としたそうだが、同時に特に大阪商工会議所では、大阪府市の中小商工業者への貸付増加に積極的に乗り出すことに決定したし、大阪府当局では中小商工業復興資金という新制度を造って、府が半額補償することにして六百万円を罹災者に貸しつけることにした。この際参考までに挙げておきたいが、金融はその本質から云って担保の要るのが当然で、担保があれば一口五千円以内、もし無担保ならば一口一千円以下というのである。年七分五厘三カ年償還。岡山県会は該地方融資銀行に五割迄の損失補償を奮発することによって貸付けを行わせることにしたという。例はまだまだいくらでも挙げられるだろう。
農村の復興(尤もそういう言葉はあまり使われないようだ、稲がへし折られるのは、打ち見た処家が潰れる程に壮観ではないから、復興という言葉はあまりピンと来ないかも知れぬ)の方は之に反して一般の農村対策の内に嵌め込まれる。旱・水・冷・繭安・害により農民の窮迫は云うまでもなくこの風水害によって愈々決定的になった。農村の被害は総額八億円の損失と見積られているが、その内二億五千万円はこの風水害によるもので、他の要因に較べれば風水害による打撃は比較にならぬ程大きい。だが農村の被害に対しては「復興」どころの問題ではなく、もっと絶望的な「対策」が必要なので、農村の風水害問題はこの一般的な農村問題に吸収されて了っているのである。――で復興されるべきものとして残るのは矢張中小商工業だけとなる。尤も中小商工業が復興の特典を与えられるという場合には、口を利くものは実は大商工業夫子自らなのだが。
処でこの農村対策というものも亦、実は矢張金融問題に過ぎないのだ。そして貧農民は他ならぬこの農村低金利資金のおかげで、×××××られたり××××になったりしているのである。だから農村の農民にしろ都会の無産者にしろ、金を借りてウマく行く場合はいいとして、借りても返す見込みのないものは、遂に復興の恩典には浴したくても浴せないわけになるだろう。銀行の手先である農村高利貸から低利資金(?)を借りるにしても、又は例えば産業組合の金庫から借りるにしても、話しはつまり同じなのである。――で金を借りる能力さえないこういう連中は、内務省の御厄介にならなければならないのである。内務省は必ずしも風水害地に限らないが、現在の各種の災害の罹災関係地方に於て、地方地方に適した土木匡救事業のための予算を臨時議会に提出するという。議会はいつ開かれるのかまだ決定していないらしいが、内務省は拙速主義でその成案を得ることにするそうである。つまり風水害地に於ける金融無能者は、復興の特典にあずかる代りに地方的カード階級に登録される特典を授けてやるというのである。
文部大臣は罹災小学校に国庫補助を約束したらしいが、そういう建物や物件の復興費は今度の臨時議会で大いに予算を取ることが出来ようが、人間自身の生活の復興の方は一体どうなるのだろうか。尤も文部省は被害学童へ七十万円の食事・被服・学用品・の復興費を予備金から支出したが、子供はそれでいいとして大人の方はどうなるのか。
世間の人達は仲々皮肉に出る。こうした復興の欠陥の非を打ち鳴らす代りに、為政者に対する面あてとして、直接罹災者の人間自身に同情の涙をそそぐのである。上は富豪・新聞社・諸団体から、下は一介の匹夫匹婦に到るまで、金銭や物資による救助を惜まない。して見ると生活自身の復興は、専ら社会の麗わしい隣人愛に放任されている訳だ。無論こう云っても、同情は確かに道徳的だ。
最後に、同情に就いての一つのエピソードを読者は思い起すだろう。パパママ論で、男を挙げた松田文相は、モダーン生活や小市民生活に対しては極めて同情能力の乏しい人のようであるが、丁度×××や×××型の「豪傑」が常にセンチメンタルであるように、涙脆いという意味では、仲々同情に富んでいる人のようである。京阪地方の風水害罹災学校を視察しながら、手ずから負傷した児童をいたわってやったり何かしていた文相は、児童への同情が昂じた余り、四十一名もの災死児童を出した京都西陣小学校で、児童を横のコンクリートの建物の中に避難させなかったのは明らかに校長の失態だ、と繰り返し断言したというのである。それから災死児童の父兄に就いては、暴風警報が出ている朝に子供を登校させる親は馬鹿者だ、と放言したというのである。
市教育部ではすでに、不可抗力によるもので、校長及び職員には責任はないと決定していた処なので、市当局も文相の言葉を遺憾とするし、西陣小学校の校長以下全職員は憤慨して、進退伺いをつきつけた。西陣学区会は職員側を支持しているので、結局進退伺いは却下されるだろう。
だが云うまでもなく責任は校長などにあるのではなくて、学校建築自身の問題の内に横たわるのである。同情などという心丈けの道徳の代りにもっと科学的な道徳を知っている日本建築会は、すでにこれよりずっと前に、役員を召集して小学校建物の倒壊の批判を行ったが、その結論として、責任は監督官庁が負うべきだということになったのである。そして大阪府当局も亦この責任を承認したようである。尤も責任を取って進退をどうこうするというのではなく、そういう進退問題になれば、「弱い商売」の校長さん達が背負わされるのだが。校長さん達こそ同情されて然るべきものかも知れない。
倒壊した小学校建物には、単に古いとか位置や其他が不適当だったというばかりではなく、可なりの不正請負の結果によるものもあるらしい。こうなると技術の社会的運用の問題になるわけで、特許権数がいくら世界の第三位になっても、技術の社会的水準は一向向上しないということが之でも判るだろう。
(一九三四・一一)
[#改段]
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