「アメリカが日本の敵になるのですか?」。そんなことなどありえないと思っていた神戸に住む貿易商の妻の聡子(蒼井優)は、夫の優作(高橋一生)にそう問いただす。黒沢清の新作「スパイの妻」は、誰もが漠然とそう考えていながら、戦争がぬかりなく接近していた昭和十年代に始まる。実際、行進する兵士たちの靴音が不穏に響く冒頭の画面に、「一九四〇年」という文字が挿入されている。ちょうどその頃、聡子の幼なじみの泰治(東出昌大)が憲兵本部の分隊長として神戸に赴任し、優作のオフィスに挨拶(あいさつ)に来る。制服姿がこれほど君に似あうとは思わなかったと驚く優作に、彼は丁寧な口調で、時節がら挙動不審の外国人とは接触せぬようにと要請する。自分の仕事は彼らとの取引なのだし、妻を路頭に迷わせるわけにもゆかぬだろうと彼は笑う。

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 物語は、この二人の親しい男性に寄せている聡子の信頼の緩やかな揺らぎを通して、サスペンス豊かに展開する。誰もが国民服を着ねばならぬという風潮を蔑視しながら、瀟洒(しょうしゃ)な三つ揃(ぞろ)いのスーツを着こなして仕事に励む優作は、会社の忘年会の余興として、スパイ映画もどきの短編を輸入品の9・5ミリのキャメラで撮ったりしている。その上映にそえるハリウッド映画「ショウボート」(1936年)の主題歌が「かりそめの恋」として発売されたのも、聡子が夫と見に行く山中貞雄監督の「河内山宗俊」の公開も昭和十一年なのだから、その時代の神戸が舞台となっていることは画面からも窺(うかが)われる。だから、これは、黒沢清にとっては最初の「時代劇」となっている。実際、国際的に高く評価された「CURE」(97年)を初め、カンヌで注目された「トウキョウソナタ」(2008年)など、この監督の作品はいずれも同時代の東京を舞台としていた。もちろん、パリ郊外が舞台の「ダゲレオタイプの女」(16年)や、ウズベキスタンにロケした「旅のおわり世界のはじまり」(19年)など、日本を離れた土地での作品も少なくないが、その時代背景が「現代」ではないという作品はこれが初めてなのである。

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 では、黒沢清は、この「時代劇」をどのように語ってみせるのか。登場人物がまとう衣裳(いしょう)や戸外に読まれる広告の文字、自動車を初めとする交通手段などは、ひとまず時代色の再現を試みているかに見える。だが、肝心な点で、風俗の再構築とは異なるごく曖昧(あいまい)な世界へと黒沢清は見る者を誘う。ここでは、さして遠からぬ過去の一時期をフィクション成立の恰好(かっこう)の舞台として、時間と場所を超えたある決定的な変化が語られようとしている。それは、夫に頼って生きているかにみえた聡子が演じてみせる驚くべき変貌(へんぼう)である。彼女は、いつしか夫を唆す女へと変化してゆく。その曖昧な、しかも決定的な変化を描くことがこの作品の目的となるだろう。これまでの黒沢作品は、「CURE」から「叫」(06年)までの役所広司主演作品がそうであるように、変化を禁じられた男たちの窮状が螺旋(らせん)状に語られていた。だが、小泉今日子主演の「贖罪(しょくざい)」(12年)シリーズ以降、監督の描くものは、予測不能な女たちの変貌ぶりの描写へと推移してゆく。この作品でも、どうやら満州で国家機密を探りあて、それを9・5ミリのフィルムに記録したらしい夫の言動に不審をいだく聡子は、憲兵隊の司令部に呼び出され、あなたのことが心配だという泰治から、自分の知らない夫の言動を聞かされる。その言葉に毅然(きぜん)として耳を傾ける和服姿で日本風に髪を整えた蒼井優が、圧倒的に美しい。司令部から風の強い町へと歩き出し、夕日に向かって遠ざかる短いショットも、変化への予兆として文句なしに素晴らしい。

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 はたして優作はスパイなのか。その不信感は拭いきれないが、いつの間にか行動する女へと変貌し始める聡子は、二人で敵国アメリカに亡命しようといい、「あなたがスパイなら、私はスパイの妻になります」とさえ宣言する。だが、上海経由でアメリカを目ざす夫と別れて一人で貨物船に乗りこむ彼女は、何ものかの密告によって憲兵隊に拘束されてしまう。泰治からは「お前は売国奴だ、万死に値する」と殴打され、誰に裏切られたのかもわからぬまま囚(とら)われの身となる。だが、彼女はアメリカ軍の空爆で炎上した収容所から解放される。憲兵隊に捕まってから空襲の火の粉をあびるまでの蒼井優の存在感が圧倒的である。こうしてすべては曖昧なまま作品は終わるのだが、聡子が演じてみせる変貌が戦後日本という名の世界を救うことになるだろう。傑作である。

 (寄稿)