日本の女性による保守運動のパターン
2020/07/14 18:29
従来の市民運動が現行の制度の変革を求める「左派」的な運動を主流としたのに対し、「右派」的な市民運動の登場として「新しい歴史教科書をつくる会」が結成されて20年以上が経過した。運動レベルでは、「在日特権を許さない市民の会(以下、在特会)」が2007年に結成されたことを契機に運動のラディカル化が見られるとともに、議会選挙に代表される政治レベルでは、こうした保守運動の候補者が票を集めることも珍しくなくなった。2000年以降の保守運動では、「日本女性の会」「なでしこアクション」「日本侵略を許さない市民の会」「凛風やまと」といった女性グループの林立によって、保守運動の重要な担い手として女性集団というファクターの存在が裏付けられている(鈴木2017:29)。右派ポピュリストの支持層に対する分析では、専業主婦や自営業層による支持が高いことも近年明らかになっている。一口に「保守主義」といってもその定義は高度に曖昧かつ文脈依存的であり、「保守主義といえば、エドマント・バーク(1729-1797)以来の伝統を持つ政治的イデオロギーである」「保守主義の源流としてしばしば指摘されるのがエドマンド・バークである」「言葉として『保守主義』が生まれたのはバーク以降である」(宇野: 2016 p.9, 23, 50)と解説されるなど、一様に定義できない。しかし、現代日本の文脈ではこの定義は何らの意味も持たないかもしれない。冒頭に筆者の問題意識が露呈したように、ここでは、「女性たちによる保守運動が展開される際のイデオロギーとなるような、政治的・ジェンダー的イデオロギー、およびそれに連なる旧来の文化の再生産を支持するような主義主張」と定義して論を進める。
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今村 光一郎
フォロー
1996年、滋賀県に生まれる。福井県、岐阜県と転住、岐阜高校を卒業。2016年に京都大学教育学部、2020年に同大教育学研究科に進学、教育文化学コース所属。研究関心は公共圏論、男性問題、中年問題。学問に励みたいが思考の整理や諸々の執筆は怠惰ゆえ、アウトプットの習慣づけを企図する。
15 フォロー
また、本稿で扱う先行研究の中には保守運動の定義のうちでは極端な「極右」と一般に称される集団を対象としたものもあるため、保守運動と極右運動を同一視しないように配慮が必要であり、そこに早くも本稿の限界があると言わなければならない。
ようやく問いを明らかにできる。本稿では、主に女性たちの手による複数の「社会運動の文化的研究」に焦点を当て、その心性や活動のパターンを整理することを目的とする。問いの形をとれば、女性たちによる保守運動には、どのような心性や活動の傾向があるか、となる。具体的には、1930年代前半に会勢を拡大した「大日本国防婦人会(以下、しばしば「国婦」と表記)」と、「行動する保守」の分会であるA会について、前者は藤井忠俊『国防婦人会』、後者は鈴木彩加「『行動する保守』運動における参加者の相互行為とジェンダー」を参考文献とする。前提を共有するための文献として適宜、野宮大志郎編著の『社会運動と文化』および海妻径子『親密圏とフェミニズム』、樋口直人ら著『ネット右翼とは何か』を参照して、議論の素地としている。
こういった保守運動の活動母体における男女比率は、ほぼ5:1であり、在特会の会員構成や、樋口直人(2019)がFacebookユーザーから「極右のネトウヨ」と判定したアカウントの構成においても、この比率は共通して見られる。なお、樋口の分析は2015年12月28日の日韓両政府の「慰安婦」問題に関する合意に対し、Facebook上で安倍首相(当時かつ現職)の年末の挨拶に対してなされた2500件のコメント(これが時系列順に表示が可能な最大数である)のうち、安倍首相を「右」の立場から批判した人々(1396名)をネット右翼とみなしている。このような定義は踏襲されるものなのか、筆者は結論を持たない。一般に、極右政党への投票の内訳を分析したヨーロッパの研究では男女比は2:1になることが多く、日本第一党党首で在特会の会長である桜井誠への投票もほぼ同じであった。前提の知識として、運動における女性の割合は、投票行動や支持者に見られる比率よりは低く、運動の中ではより少数派となっていることが知られる。
まず、保守的な女性結社の運動を「文化」の観点から明らかにした藤井忠俊の研究を概観する。1932年から42年にかけて驚異的な会員数(1933年9月に約7万人、1941年に約900万人)を誇った「大日本国防婦人会(以下、「国婦」と表記)」という婦人結社を素材に、活動的な大阪の主婦たちの草の根運動が全国展開(ただし大阪と同様の活動内容を維持したのは都市部の分会に限られる)し、数年内に批判にさらされて変節し、最終的には大日本婦人会に統合されるまでを追い、膨大な聞き取り調査や文献調査からその実態を明らかにした研究である。藤井の『国防婦人会』は戦後40年の1985年に刊行されている。端的に国婦の文化を説明する際のキーワードは、「カッポウギ」「タスキ」「貞操」である。順にその示唆を述べる。カッポウギは婦人たちが台所と同じ労働着の姿であり、出征する兵士たちの世話(お茶の接待や防空献金の募集、見送り)に従事できることの象徴であり、彼女たちは一様にこれを着て活動に参加した。ここには婦人に特有といえる「台所思想」が見えると藤井は述べる。「タスキ」は国婦発足以前の献金現象にその淵源を認めることができるのだが、国婦の「運動」という側面を強調する文化的なシンボルであった。タスキに印刷されていた「大日本國防婦人會」の文字に関しては、「肉太の四角ばった文字は、当時はデザイン的にも格好がよい」(藤井 1985:69)と振り返る者もおり、好評だったとのことである。「貞操」については前二者と比較するシンボルとして把持しにくいものであるが、戦争局面において「女性は男性と『折半の論理』を共有しており、銃後の女性たちは兵士の世話であれ家庭内の家事労働であれ、貞操を守って国民としての使命を粛々と果たさねばならない」というニュアンスを帯びたものであった。また、国婦の中心的存在だった安田せいが語ったように、「どんな場合にも役立つ婦人団体にならねばならない。そして男子の手を少しでも有用な方に廻せるようにしたいものです」と語り(藤井 1985:117)、婦人団体が男子を補佐する旨を表明していた。さらに、兵士として戦う男性たちに比して非常時における女性たちが無力であるという言明、夫が戦死しかつ跡取り息子がいない際には夫の実家から離縁されかねない婚姻制度の不平等の事実が、女性たちおよびその周囲で言語化・共有されたことに、女性たちの「被害者性」「劣位性」を仄めかす要素が「貞操」という言葉に見え隠れすることを、のちの議論に備えて補足しておく。
以上三つのキーワードから、国婦における「文化」とは、家父長制という近世以来の家族観に関して保守的な女性たちによる、活動的で「運動」の要素を前景化させようとする文化的シンボルを伴ったものでありつつも、満州事変以後の国家総動員化に向かう銃後形成を下支えするものであったと纏める。思想的背景、理念の変遷、軍との関係を介した変節の観点を含めると国婦の政治的・社会的・思想的文脈は複雑だが、約10年間の国府の活動に通底した「文化」なるものは以上のように説明できるだろう。当時並立していた愛国婦人会、婦選獲得同盟(市川房枝ら)、産業組合婦人団体との比較検討を以ってより複層的にその文化を示す必要があるが、大阪をはじめとする都市部在住の中産階層以下の非軍人家庭の婦人たちによって担われた国婦の「文化」は、極めて大衆的な活動として広がったと言える。
続いて、鈴木彩加の「行動する保守」を対象とした研究から、保守運動における女性たちの「文化」について現代の特徴を整理する。彼女が研究対象としたのは「行動する保守」の女性団体A会であり、会員数が約800名、正会員になれるのは女性のみ(約500名)であり、男性が準会員(約300名)とされるのが特徴である。参与観察から分析したこの研究は、A会が行った「東北復興支援料理教室」と講演会、懇親会にアプローチした。この研究により明らかにされた保守的な女性運動の文化的側面とは、「家庭生活と絡めた嫌韓」、「慰安婦」、「ジョーク」といった言葉に象徴される。
これら三つの要素について、順にその含意を説明していこう。まずは家庭生活と絡めた嫌韓であるが、これは料理教室で見られた野菜の原産国をめぐるやりとりに現れた。パプリカやカラーピーマンが「最近は韓国産ばっかり」という嫌悪感の表明をきっかけに会話があり、のちに参加者全体で「嫌韓」意識が日本産の野菜へのこだわりという形で具体化した。これは愛国心と地続きのものでもあり、「嫌韓」の話題は婦人たちの家庭生活と絡めて共通して楽しまれる「文化」として受容されている。野菜の原産国という、主婦を含め女性のイメージとともに生起しがちな話題から、「嫌韓」意識の確認へと連なる緩やかな流れが看取できる。続いて、「慰安婦」の説明に移る。女性たちの保守運動は男性中心の保守運動よりも「慰安婦」問題に力点を置く傾向があるとされる(山口智美 2013)。しかしこの傾向には二面性があり、対外的には街宣やデモ行進・抗議活動といった直接行動でこれらを取り上げる反面、対内的な講演会や懇親会ではこれらへの言及は極めて少ない。鈴木の研究では更なる検討が必要とされているが、男性/女性、高齢者/若年者の立ち位置の違いを顕在化させることが明らかになった。「慰安婦」の問題は対外的メッセージとしては当該保守運動の力点のひとつとなるトピックだが、女性団体の内部では「慰安婦」を嗤う男性の言葉には沈黙をもって対応するケースが見られた。こうした女性という立場性および、男性参加者に対する反論や異論を唱える困難性が、この研究では指摘されている。最後に、「ジョーク」についてである。「行動する保守」の非示威運動の場では、ジョークを交えた会話によって互いの価値観や政治意識を確認し合い、そうしたジョークは時には意見の異なる者を排除する方向に作用していた。黒地にピンクの桜の花の模様がついたマスクをめぐるジョークは50代の女性たちの間で交わされ、互いの愛国心を確認し集合的アイデンティティの形成に寄与していた。他方で、「嫌韓」や「慰安婦」をめぐるジョークは、時には集団内のジョークに賛同できない者をそれとなく排除するという雰囲気によって、内外の境界を作り出し維持するという機能を持っていた。
以上、冗長になったけれども、「行動する保守」の女性たちにおける文化的側面を纏める。女性たちの家庭生活における関心と絡めて「嫌韓」が語られ、それは女性たちに特徴的な問題意識とともに集団的アイデンティティに繋がる。他方で「慰安婦」は運動内部では男性とのバランスや年代差を考慮してか、語られないという特徴をもつ。「慰安婦」に関しては本音は語らず、周囲の反論や異論に身構えて沈黙すら厭わない文化が、ここにはある。上述した2点のトピックは、「ジョーク」といういわば合図のようなコミュニケーションを介して話題に上り、互いの価値観や政治意識の確認あるいは異質な者の排除を行うという機能的側面をもっていた。
ここまで、女性団体のうち保守運動を行うと見なされる女性たちの団体について、文化的側面からなされた二つの研究を並べて概観した。本稿はこれらを単純比較するものではないし、同じ系譜の中で記述することには慎重である。しかしながら、女性たちが保守的な運動を行い、結社を維持していく際に特徴的な「文化」的要素を取り出すことは可能ではないだろうか。すなわち筆者は、保守運動に従事する女性たちに見られる「家庭生活(とりわけ台所)との連続性の強調」と「モラル・マゾヒズムの姿勢」を、保守的な女性運動に見られる特徴として概括する。
前者については、国婦における「カッポウギ」やA会における「野菜」をめぐる文化的シンボルに認めることができるだろう。日本の保守運動の中では旧来の家庭における婦人のイメージに対応して、台所から生じる行動意識が根底にあるなかで、「女性的で素朴な」問題意識を保守的、愛国的な表現へと延伸していく傾向が見てとれる。ジェンダー観の保守的態度と政治意識における保守的態度の相関は議論の余地を残すが、ここでは婦人のイメージに付与されやすいシンボルを媒介して彼女たちが保守運動を楽しんでいく流れを、筆者は見出している。女性たちの保守運動がポジショニングの確立を目的とした際に、「家庭目線の」問題関心を男性含め周囲から求められる風土があるのではないか。家庭生活との連続性を確保した相互行為がコミュニケーションの端緒や潤滑油として機能していることは、両研究から女性たち特有の文化的なパターンと呼べるのではないだろうか。
後者についてはこの用語の説明も兼ねて、海妻(2016)が見出した保守的な女性たちの心性について、引用して詳述しておこう。
「モラル・マゾヒズム」という言葉がある。あえて被害者になって相手に罪悪感を抱かせ、その罪悪感によって相手が望ましい行動を自発的にとるようにコントロールすることである。(中略)あえて被害者となることを引き受ける「モラル・マゾヒズム」は、社会的弱者にも可能なコントロール方法であり、したがって女性がしばしば「モラル・マゾヒズム」的行動をとるのは、その地位の低さゆえであるとも言われてきた。あえて「男性たちの〈無責任〉に遭遇」したときには女性側が困窮することを引き受け続けることで、男性たちの責任感を醸成するという「モラル・マゾヒズム」的行動を、女性たち自身がとり続けようとしているのは、近年いわゆる「女性の社会進出」は進んでも、女性の地位の実質的な低さは変わっていないということか。(海妻 2016:83)
筆者は、「モラル・マゾヒズム」を国婦の安田せいによる既述の言明や、A会の「慰安婦」をめぐる沈黙に見てとる。すなわち、とりわけ満州事変以後の日本社会において、保守運動に参加する女性たちの立場性に関して、「女性は男性に比して権利が与えられていない『社会的弱者』である」との認識が連綿と存在しているのではないか。たとえば女性の参政権獲得を目指した婦選同盟を「革新」勢力の歴史的事例として参照し保守運動と対比すると、こと保守運動に従事する女性たちは社会的弱者に甘んじて(ある複数の意味で)不均衡なジェンダー構造を温存しながら、被害者を引き受けながら、既存の文化を再生産しているのではないだろうか。この共通認識は、男性内部における男性の「特権意識」や「被抑圧者性」の感覚に差が大きく見られるのと比べると差が小さいものであり、女性たちの保守運動が継続していくことの精神的基盤と言えるのではないか。「モラル・マゾヒズム」というのは響きの上ではイデオロギッシュともとれるだろうが、保守運動を行う女性たちの運動の文化的特質を説明する語彙として的を射たものであると筆者は考察する。
既に駄文の域に入って久しいが、ここから先行研究と考察の限界を示して結びに向かう。限界として、女性たちによる保守運動の代表的事例としてこれらが適切な対象であるかという問題、現代の女性たちの下位分類の欠如という問題の2点を挙げる。
国婦は満州事変および上海事変後の特異な状況下で生じた団体であり、会勢の拡大が都市と地方で異なる様相を呈したことは藤井の研究でも詳述されている。女性たちが生活に根ざした問題意識をきっかけに保守的な国婦の活動に参入したわけでは必ずしもないし、「周りが入るから仕方なかった」という旨の元会員たちの語りが藤井含め他の研究で明らかになってもいる。吟味されるべき問題である。2点目に関しては、現代の「行動する保守」のA会やネット右翼の研究について、その言動を行う女性たちの下位分類や属性から、一層精緻な研究がなされる必要があると考える。両者ともラディカルな言説を特徴とする集団像をもって描かれているが、彼女たちが既婚者で台所に立つことを規範化している「婦人」であるのか、加えて、彼女たちが旧来のジェンダー観を踏襲しているのか、といった属性の確認が統計的分析をもって有意差の有無が明らかにならないことには、「モラル・マゾヒズム」の仮説を立証することにはならないだろう。いわゆる「名誉男性」的な保守主義の女性たちが唱導する運動に、参加者の女性たちが共鳴して賛同する場合、団体内でドミナントな女性たちが保守運動の大衆の参加者と近い心性をもつとは、必ずしも言い難い。以上、2点の限界を示し、かつ男性運動の言説の基盤がどのようなものであり、排除を伴わない継続性をもつ活動・言論の可能性を探っていきたい。
最後に、体力の続く限り雑感を述べる。1点目は女性による小池百合子候補への投票、2点目は「モラル・マゾヒズム」と芸術についてである。
まずは、先日の東京都知事選で小池百合子候補が大差をつけて当選したのだが、その際女性からの支持率が非常に高かったことがマスメディアで報じられた。日本全国の女性に支持されたわけではないのは勿論筆者自身に釘を刺さねばならないが、都内に住む主婦層の支持を得たといってよい。政治思想によって女性をカテゴライズすることは望ましくないが、無党派層から保守層とされる幅の女性たち、本稿に引き付けて主婦たちの立場で東京都知事選を眺めてみれば、他の候補者と比較して小池候補に投票するインセンティブは高かったように考えられる。というのも、小池候補は「三密」を避けるためという名目で街頭演説や握手などの選挙運動を避け、徹底してテレビ出演や現職都知事としてのメッセージの呼びかけを主な活動として、選挙戦を戦い抜いた。有力な対立候補だった3名の男性候補者は、コロナ対策に配慮しながら街頭演説(街頭記者会見)や少数の政策アピール会見(討論企画)を展開する選挙戦となった。
現職の安定感や知名度、もともとの無党派層の傾向を加味する必要があるとはいえ、女性有権者とりわけ主婦層の心性が小池候補の選挙戦のスタイルにマッチしたのではないかと筆者は考える。すなわち、「夜の街」をはじめとするような外出は極力控え、コロナウイルスへの警戒を第一に呼びかける小池候補は、上述の女性保守運動参加者と「家庭生活との連続性の強調」という面で共鳴しうる。コロナウイルス感染症という未曾有の事態に「家庭・家族の安全を第一に考え、候補自身も安全を最大限考慮したスタイルで戦う」という印象は、小池候補が最も強かった。無党派層から保守層までの女性有権者にとって、とりわけ保守運動に参加するような者にとっては、小池候補は比較的に「貞操(安全)を守る候補者」なのではなかっただろうか。他の男性候補者は劣勢だったとはいえ、感染症が拡大・拡散中の東京都の状況で、一見「安全でない」選挙戦を展開しているように、自らの得票第一で戦っているように見えないこともないだろう。小池候補が女性から高い支持を得て当選した背景に、選挙戦のスタイル、言い換えれば「文化」の違いがあったのではないか。
続いて2点目について述べる。「モラル・マゾヒズム」と芸術についてだ。簡潔に述べれば、とりわけ中等教育の文芸や音楽の学習を通じて、女子生徒は「モラル・マゾヒズム」の文化を無意識下に学んでいる可能性がある、というものだ。顕著な例は高校国語の「舞姫」、小学校5年生・中学1年生の音楽「赤とんぼ」であると述べれば、作品を覚えている者なら察しがつくだろう。先述の海妻は、日本女性の「モラル・マゾヒズム」が描かれる様子を森鴎外「舞姫」に見る。
「男性の無責任さによる困窮、それに対する男の罪悪感」は森鴎外の『舞姫』以降綿々と近代日本文学の題材にもなってきた(海妻 2016:87)。
どういうことかというと、教科書に掲載される「舞姫」では洋行した豊太郎はエリスを妊娠させるが、自らの昇進を優先して帰国の途につき、女性を経済的・身体的リスクに陥れて去る。豊太郎が無責任に去るにもかかわらず男性の罪悪感も強調して描かれる作品であるため、読者は豊太郎にも感情移入しており、男性を罪責することを逡巡する。あるいは、日本に残る豊太郎の母も豊太郎がいない状況で孤独に病死しまう。女子生徒がこうした流れを学習することによって、個人的な被害者性を女性全体の「被害」の構造と読み換えて解釈する時、これは「モラル・マゾヒズム」という心性に容易に結びつくのではなかろうか。
「あかとんぼ」の歌詞については、筆者は中学1年生の時に歌詞の解釈を学習した記憶がある。「15で姉やは嫁に行き お里の便りも絶え果てた」という歌詞を吟味すれば、現代に比して年幼くして年上の男に嫁いでいかなければならない「姉や」(姉かもしれないし女中かもしれない)が登場し、故郷との断絶を強いられてしまう芸術作品として読み取ってみる。この時、やはり女性の構造的な「被害者性」「被抑圧者性」に思い当たるのではないだろうか。意識下か無意識下かは判別できないが、こういった「モラル・マゾヒズム」に繋がりうる学習のチャネルが、日本の近代の芸術作品を学ぶ際にはつきものであることに自覚的でありたいと、筆者は考える。
保守的な主張を持った女性たちの運動のエッセンスを「モラル・マゾヒズム」と概念化するとき、女性たちが自ら歪んでいくネガティブな心性を想像するのではなく、学校教育を含めた諸々の学習の蓄積が、こうした構造的な心性を生み出しているというダイナミズムを想定することが、重要ではないだろうか。
以下、参考文献を列挙する。
宇野重規、2016、『保守主義とは何か』中公新書。
海妻径子、2016、『親密圏とフェミニズム』コモンズ。
鈴木彩加、2017、「「行動する保守」運動における参加者の相互行為とジェンダー」フォーラム現代社会学。
藤井忠俊、1985、『国防婦人会』岩波新書。
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기존 시민운동이 현행 제도의 변혁을 요구하는 좌파적 운동을 주류로 삼은 반면 우파적 시민운동의 등장으로 새로운 역사교과서를 만드는 모임이 결성된 지 20년이 넘었다.운동 차원에서는 재일특권을 허용하지 않는 시민의 모임(이하 재특회)이 2007년 결성된 것을 계기로 운동의 래디컬화가 나타나고 의회 선거로 대표되는 정치 차원에서는 이런 보수운동 후보자들이 표를 모으는 일이 드물지 않게 되었다.
2000년 이후의 보수 운동에서는, 「일본 여성의 회」 「나데시코 액션」 「일본 침략을 허락하지 않는 시민의 회」 「린후우 야마토」라는 여성 그룹의 임립에 의해서, 보수 운동의 중요한 담당자로서 여성 집단이라고 하는 팩터의 존재가 증명되고 있다(스즈키 2017:29). 우파 포퓰리스트 지지층에 대한 분석에서는 전업주부나 자영업층에 의한 지지가 높다는 점도 최근 뚜렷해지고 있다.
한마디로 '보수주의'라고 해도 그 정의는 고도로 애매하고 맥락 의존적이며, '보수주의라고 하면 에드먼트 버크(1729-1797) 이래의 전통을 가진 정치적 이데올로기이다' '보수주의의 원류로서 자주 지적되는 것이 에드먼드 버크이다' '말로서 '보수주의'가 생겨난 것은 버크 이후이다' (우노: 2016)그러나, 현대 일본의 문맥에서는 이 정의는 아무런 의미도 가지지 않을지도 모른다.첫머리에 필자의 문제의식이 드러났듯이, 여기에서는 "여성들의 보수운동이 전개될 때 이념이 되는 정치적·젠더적 이데올로기 및 그에 이은 전통문화의 재생산을 지지하는 주의 주장"이라고 정의하고 논리를 편다.
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이마무라코 오이치로
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1996년 시가현에서 출생한다.후쿠이현, 기후현과 전주, 기후 고등학교를 졸업.
2016년에 쿄토 대학 교육학부, 2020년에 같은 대학 교육학 연구과에 진학,
교육문화학 코스 소속.
연구 관심은 공공권론, 남성문제, 중년문제.
학문에 힘쓰고 싶지만 사고의 정리나 제반 집필은 게으르기 때문에 아웃풋의 습관화를 기도한다.
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또한 본 논문에서 다루는 선행연구 중에는 보수운동의 정의 중에는 극단적인 "극우"로 일반에 칭해지는 집단을 대상으로 한 것도 있으므로 보수운동과 극우운동을 동일시하지 않도록 배려가 필요하며 거기에 이미 본고의 한계가 있다고 말해야 한다.
겨우 물음을 밝히다.
본 논문은 주로 여성들이 "사회운동의 문화적 연구"에 초점을 맞추고 심성과 활동 패턴을 정리하는 것을 목적으로 한다.
물음의 형태를 취하면, 여성들에 의한 보수 운동은, 어떠한 심성이나 활동의 경향이 있는가, 하는 것이 된다.
구체적으로는 1930년대 전반에 회세를 확대한 '대일본국방부인회(이하, 종종 '국부'로 표기)'와 '행동하는 보수'의 분회인 A회에 대해서 전자는 후지이 다다토시(藤井忠俊) '국방부인회', 후자는 스즈키 아야카(鈴木彩加) '행동하는 보수' 운동에서의 참가자의 상호행위와 젠더'를 참고문헌으로 한다.
전제를 공유하기 위한 문헌으로서 적당, 노미야 다이시로 편저의 「사회운동과 문화」및 가이즈마 케이코 「친밀권과 페미니즘」, 히구치 나오토 등 저 「넷 우익이란 무엇인가」를 참조해, 논란의 소지로 삼고 있다.
이러한 보수운동의 활동모체에 있어서 남녀비율은 거의 5:1이며, 재특회의 회원구성이나 히구치 나오토(2019)가 페이스북 유저로부터 "극우의 인터넷우요"라고 판정한 어카운트의 구성에서도 이 비율은 공통적으로 볼 수 있다. 또한 히구치의 분석은 2015년 12월 28일 한일 양국 정부의 "위안부"문제에 관한 합의에 Facebook상에서 아베 총리(당시이고 현직)의 연말 인사에 대해서 이루어진 2500건의 코멘트(이것이 시계열 순서로 나열이 가능한 최대 개수이다)중 아베를 "오른쪽"의 입장에서 비판한 사람들(1396명)을 인터넷 우익으로 간주하고 있다.필자는 이러한 정의가 답습되는 것인지 결론적으로 생각하지 않는다.일반적으로 극우정당 투표 내역을 분석한 유럽의 연구에서는 남녀비율이 2:1로 되는 경우가 많으며, 일본 제1당 당수로 재특회 회장인 사쿠라이 마코토에게 투표하는 것도 거의 같았다.전제 지식으로서 운동에 있어서의 여성의 비율은, 투표 행동이나 지지자에게서 보여지는 비율보다는 낮고, 운동 중에서는 보다 소수파인 것이 알려졌다.
우선 보수적인 여성 결사 운동을 문화의 관점에서 밝힌 후지이 다다토시(藤井忠俊)의 연구를 살펴본다.1932년부터 42년에 걸쳐 경이적인 회원수(1933년 9월에 약 7만명, 1941년에 약 900만명)를 자랑한 「대일본국방부인회(이하, 「국부」라고 표기)」라고 하는 부인결사를 소재로, 활동적인 오사카의 주부들의 풀뿌리 운동이 전국 전개(다만 오사카와 같은 활동내용을 유지한 것은 도시지역의 분회(分會)로 한정된다.
후지이의 『국방부인회』는 전후 40년이 되는 1985년에 간행되었다.단적으로 국부의 문화를 설명할 때의 키워드는 갓포기 태스키 정조다. 차례로 그 시사를 말하다.
갓포기는 부인들이 부엌과 같은 노동복 차림으로 출정하는 병사들을 보살피고(차 대접, 방공헌금 모집, 전송)에 종사할 수 있다는 상징으로 이들은 한결같이 이를 입고 활동에 참여했다.여기에는 부인에게 특유하다고 할 수 있는 '부엌 사상'이 보인다고 후지이는 말한다.
'태스키'는 국부 출범 이전의 헌금 현상에 그 연원을 인정할 수 있는데, 국부의 '운동'이라는 측면을 강조하는 문화적 상징물이었다.다스키에 인쇄되어 있던 「대일본국방부인회」라는 글자에 관해서는 「니쿠타의 네모난 문자는, 당시에는 디자인적으로도 멋있다」(후지이 1985:69)라고 되돌아 보는 사람도 있어 호평을 받았다고 한다.
'정조'에 대해서는 전2자와 비교하는 상징으로 파악하기 어렵지만 전쟁 국면에서 '여성은 남성과 '절반의 논리'를 공유하고 있으며, 총후의 여성들은 병사를 돌보든 가정내의 가사노동이든 정조를 지키고 국민으로서의 사명을 숙연하게 완수해야 한다'는 뉘앙스를 띤 것이었다.
또 국부의 중심이었던 야스다 세이가 말했던 것처럼 어떤 경우에도 도움이 되는 여성단체가 돼야 한다. 남자의 손을 조금이라도 유용한 쪽으로 돌릴 수 있도록 하고 싶습니다」라고 말해(후지이 1985:117), 여성 단체가 남자를 보좌한다고 표명하고 있었다. 또한 병사로서 싸우는 남성들에 비해 비상시의 여성들이 무력하다는 언명, 남편이 전사하고 대를 이을 아들이 없을 때에는 시댁에서 파양될 수도 있는 혼인제도의 불평등 사실이 여성들 및 그 주변에서 언어화 공유된 것에, 여성들의 「피해자성」 「열위성」을 암시하는 요소가 「정조」라는 말에 보인다.
이상 세 가지 키워드에서 국부의 "문화"란 가부장제라는 근세 이래의 가족관에 관해 보수적인 여성들에 의한 활동적이고 "운동"의 요소를 전경화시키려는 문화적 심벌을 수반한 것이면서도, 만주사변 이후의 국가총동원화로 향하는 총후형성을 뒷받침하는 것이었다고 정리한다.
사상적 배경, 이념의 변천, 군과의 관계를 통한 변절의 관점을 포함하면 국부의 정치적·사회적·사상적 맥락은 복잡하지만, 10여 년간의 국부 활동에 통저한 '문화'라는 것은 이상과 같이 설명할 수 있을 것이다. 당시 나란히 서 있던 애국부인회, 부선획득동맹(이치카와 후사에라), 산업조합부인단체와의 비교 검토를 통해 보다 복층적으로 문화를 제시할 필요가 있지만, 오사카를 비롯한 도시지역 중산층 이하의 비군인가정 부인들이 담당한 국부의 '문화'는 매우 대중적인 활동으로 확산되었다고 할 수 있다.
이어서 스즈키 아야카의 '행동하는 보수'를 대상으로 한 연구부터 보수운동에서 여성들의 '문화'에 대해 현대의 특징을 정리한다.
그녀가 연구 대상으로 삼은 것은 '행동하는 보수' 여성 단체 A회이며, 회원수가 800여명, 정회원이 될 수 있는 것은 여성뿐(500여명)이며, 남성이 준회원(300여명)으로 분류되는 것이 특징이다.참여관찰로부터 분석한 이 연구는 A회가 실시한 '토호쿠 부흥지원 요리교실'과 강연회, 친목회에 접근했다.이 연구로 밝혀진 보수적인 여성 운동의 문화적 측면은 "가정 생활과 관련한 혐한","위안부","농담"이라는 말로 상징된다.
이들 세가지 요소에 대해서 차례로 그 뜻을 설명한다.
가정생활과 관련된 혐한은 우선 요리교실에서 볼 수 있었던 야채의 원산국을 둘러싼 다툼에서 나타났다.파프리카나 칼라피망이 「요즘은 한국산 뿐」이라고 하는 혐오감의 표명을 계기로 대화가 있었고, 후에 참가자 전체에서 「혐한」의식이 일본산 야채에 대한 집착이라고 하는 형태로 구체화되었다.이는 곧 애국심으로 이어진 것이어서, 혐한의 화제는 부인들의 가정생활과 맞물려 공통적으로 즐기는 문화로 받아들여지고 있다.야채의 원산지라는 주부를 포함한 여성의 이미지와 함께 발생하기 쉬운 이슈에서 혐한 의식의 확인으로 이어지는 완만한 흐름이 감지된다.
이어"위안부"의 설명에 넘어간다.여성들의 보수 운동은 남성 중심의 보수 운동보다 "위안부"문제에 역점을 두는 경향이 있다고 한다(야마구치 사토미 2013). 그러나 이 경향은 양면성이 있고 대외적으로는 가선과 시위 행진과 항의 활동 같은 직접 행동으로 이들을 다루고, 대내적인 강연회, 친목회에서 이들의 언급은 극히 적다. 스즈키의 연구에서는 추가적인 검토가 필요하지만 남성/여성, 고령자/젊은이의 위치 차이를 표면화하는 것이 밝혀졌다."위안부"문제는 대외적 메시지라고 해서는 해당 유지 보수 운동의 역점의 하나가 될 주제이지만, 여성 단체의 내부에서는 "위안부"를 우습게 여기는 남자의 말에는 침묵으로 대응하는 사례가 보였다.이러한 여성이라는 입장성 및 남성 참여자에 대한 반박이나 이의를 제기하는 곤란성이 이 연구에서는 지적되고 있다.
마지막으로 농담에 대해서다.행동하는 보수의 비시위 운동장에서는 농담을 섞은 대화를 통해 서로의 가치관이나 정치의식을 확인하고, 그러한 농담은 때로 의견이 다른 사람을 배제하는 방향으로 작용하고 있었다.검은 바탕에 분홍색 벚꽃 문양이 새겨진 마스크를 둘러싼 농담은 50대 여성들 사이에 오가며 서로의 애국심을 확인하고 집합적 정체성 형성에 기여했다.한편,"혐한"이나 "위안부"를 둘러싼 농담은 때로는 집단 내의 농담에 동참할 수 없는 사람을 그것 없이 배제한다는 분위기로 안팎의 경계를 만들어 내는 유지한다는 기능을 가지고 있었다.
이상, 장황해졌지만, 「행동하는 보수」의 여성들의 문화적 측면을 정리한다.
여성들의 가정생활에서의 관심과 연관되어 "혐한"이 이야기되며, 이는 여성들에게 특징적인 문제의식과 함께 집단 정체성으로 이어진다. 한편"위안부"는 운동 내부에서는 남성과의 균형이나 연대 차이를 고려한 듯 말하지 않는다는 특징을 가진다.
"위안부"에 관해서는 속내는 말하지 말고 주변의 반론이나 이론을 경계하는 침묵조차 마다하지 않는 문화가 이곳에 있다.상술한 2점의 토픽은 "농담"이라는 이른바 신호와 같은 커뮤니케이션을 통해 화제에 오르고, 서로의 가치관이나 정치의식의 확인 또는 이질적인 자를 배제한다는 기능적 측면을 가지고 있었다.
지금까지, 여성 단체들 중 보수 운동을 하는 것으로 간주되는 여성들의 단체에 대해 문화적 측면에서 이루어진 두 가지 연구를 나란히 살펴보았다. 본고는 이들을 단순 비교하는 것이 아니며, 같은 족보 안에서 기술하는 것은 신중하다. 그러나 여성들이 보수적인 운동을 하고, 결사를 유지해 나갈 때 특징적인 "문화"적 요소를 추출하는 것은 가능하지 않을까. 즉 필자는 보수운동에 종사하는 여성들이 볼 수 있는 "가정생활(특히 부엌)과의 연속성 강조"와 "모럴 마조히즘적 자세"를 보수적인 여성운동에서 볼 수 있는 특징으로 개괄한다.
전자에 대해서는 국부의 '캇포우기'나 A회의 '야채'를 둘러싼 문화적 상징으로 인정할 수 있을 것이다.일본의 보수 운동 중은 과거의 가정에서의 여성의 이미지에 대응하고, 부엌에서 생기는 행동 의식이 바탕에 있는 가운데,"여성적이고 소박한 "문제 의식을 보수적 애국적인 표현으로 연장되는 경향이 알 수 있다.
성에 대한 보수적 태도와 정치의식에서의 보수적 태도의 상관관계는 논란의 여지를 남기는데, 여기에서는 여성의 이미지에 부여되기 쉬운 상징을 매개하여 그들이 보수운동을 즐기는 흐름을 필자는 보고 있다. 여성들의 보수운동이 포지셔닝의 확립을 목적으로 했을 때, 「가정 시선의」문제 관심을 남성 포함해 주위로부터 구할 수 있는 풍토가 있는 것은 아닐까. 가정생활과의 연속성을 확보한 상호행위가 커뮤니케이션의 단서나 윤활유로 기능하고 있는 것은 두 연구에서 여성들 특유의 문화적인 패턴이라고 할 수 있지 않을까.
후자에 대해서는 이 용어의 설명도 겸하고, 해처(2016)이 찾은 보수적 여성들의 심성을 인용해서 상술한다.
모럴 마조히즘이라는 말이 있다. 굳이 피해자가 되어 상대에게 죄책감을 느끼게 하고, 그 죄책감에 의해 상대에게 바람직한 행동을 자발적으로 취하도록 컨트롤 하는 것이다.(중략) 굳이 피해자가 되는 것을 맡는 '모럴 마조히즘'은 사회적 약자에게도 가능한 컨트롤 방법이며, 따라서 여성이 종종 '모럴 마조히즘'적 행동을 취하는 것은 그 지위가 낮기 때문이라고도 말해 왔다.굳이 「남성들의〈무책임〉에 조우」했을 때에는 여성측이 곤궁한 것을 계속 맡는 것으로, 남성들의 책임감을 양성한다고 하는 「모럴·마조히즘」적 행동을, 여성들 자신이 계속 취하려고 하고 있는 것은, 근년 이른바 「여성의 사회 진출」은 진행되어도, 여성 지위의 실질적인 낮음은 변함없다고 하는 것인가. (바다처 2016:83)
필자는 "도덕적 마조히즘"를 나라 여성의 야스다 탓에 의한 기술한 언명이나, A회"위안부"를 둘러싼 침묵에 보는.즉, 특히 만주사변 이후 일본사회에서 보수운동에 참여하는 여성들의 입장성에 관해 여성은 남성에 비해 권리가 부여되지 않은 사회적 약자라는 인식이 연면히 존재하는 것은 아닐까.
예를 들어 여성 참정권 획득을 목표로 한 부선동맹을 '혁신' 세력의 역사적 사례를 참고 보수운동과 대비한다면, 고도 보수운동에 종사하는 여성들은 사회적 약자를 감수하고 (어떤 복수의 의미에서) 불균형한 젠더 구조를 온존하면서 피해자를 맡으면서 기존의 문화를 재생산하고 있지 않을까. 이러한 공통인식은 남성 내부에서 남성의 '특권의식'이나 '피억압자성'의 감각에 차이가 크게 보이는 것과 비교하면 차이가 작은 것으로, 여성들의 보수운동이 계속되어 가는 것의 정신적 기반이라고 할 수 있다.모럴 마조히즘이란 것은 울림상 이데올로기시로도 볼 수 있겠지만, 보수운동을 하는 여성들 운동의 문화적 특성을 설명하는 어휘로 정곡을 찌른 것이라고 필자는 고찰한다.
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이미 졸문의 경지에 들어선 지 오래지만 여기서부터 선행연구와 고찰의 한계를 제시하고 끝을 맺는다. 한계로 여성들에 의한 보수운동의 대표적 사례로 이들이 적절한 대상인가 하는 문제, 현대 여성들의 하위 분류 결여라는 문제 두 가지를 든다.
국부는 만주사변 및 상하이사변 후 특이한 상황에서 발생한 단체로 회세의 확대가 도시와 지방에서 다른 양상을 보였음은 후지이의 연구에도 상세히 기술되어 있다.
여성들이 생활에 뿌리박힌 문제의식을 계기로 보수적인 국부 활동에 뛰어든 것은 반드시 아니며, "주위가 들어가기 때문에 어쩔 수 없었다"는 취지의 전직 회원들의 얘기가 후지이를 포함해 다른 연구에서 드러나기도 했다. 음미되어야 할 문제이다.
두 번째에 관해서는 현대의 「행동하는 보수」인 A회나 넷 우익의 연구에 대해서 그 언동을 하는 여성들의 하위 분류나 속성에서 한층 정밀한 연구가 이루어질 필요가 있다고 생각한다. 양자 모두 래디컬한 언설을 특징으로 하는 집단상을 가지고 그려져 있지만, 그들이 기혼자로 부엌에 서는 것을 규범화하고 있는 「부인」인지, 덧붙여, 그들이 종래의 젠더관을 답습하고 있는지에 대한 속성의 확인이 통계적 분석으로써 유의차의 유무가 밝혀지지 않는 것에는, 「모럴 마조히즘」의 가설을 입증하는 것은 아니다.
이른바 명예 남성적인 보수주의 여성들이 창도하는 운동에 참여자인 여성들이 공명하고 동참할 경우 단체 내에서 도미넌트한 여성들이 보수운동 대중의 참여자들과 가까운 심성을 갖는다고 반드시 말하기 어렵다.
이상, 2가지 한계를 나타내는 한편 남성운동 언설의 기반이 어떠한 것이며, 배제를 수반하지 않는 계속성을 갖는 활동·언론의 가능성을 찾아가고 싶다.
마지막으로 체력이 계속되는 한 잡감을 토로한다.
첫 번째는 여성에 의한 코이케 유리코 후보에의 투표, 두 번째는 「모럴·마조히즘」과 예술에 대해서다.
우선은, 얼마전의 도쿄도 지사 선거에서 코이케 유리코 후보가 큰 차이로 당선되었는데, 그 때 여성으로부터의 지지율이 매우 높았던 것이 매스 미디어에 보도되었다.일본 전국의 여성에게 지지를 받은 것은 아닌 것은 물론 필자 자신에게 쐐기를 박아야 하지만, 도내에 사는 주부층의 지지를 얻었다고 해도 좋을 것이다.정치사상에 따라 여성을 분류하는 것은 바람직하지 않지만 무당파층에서 보수층으로 분류되는 폭의 여성들, 본고에 끌어들여 주부들의 입장에서 도쿄 도지사 선거를 바라보면 다른 후보들과 비교해 고이케 후보에게 투표하는 인센티브는 높았던 것 같다.그것은, 코이케 후보는 「삼밀」을 피하기 위해서라고 하는 명목으로 가두연설이나 악수등의 선거운동을 피하고, 철저하게 TV출연이나 현직 도지사로서의 메세지 전달을 주된 활동으로 하여, 선거전을 관철했다.유력한 상대자였던 남성 후보 3명은 코로나 대책을 고려하면서 거리연설(거리 기자회견)과 소수의 정책 어필 회견(토론 기획)을 펼치는 선거전이 벌어졌다.
현직의 안정감이나 지명도, 원래의 무당파층의 경향을 가미할 필요가 있다고는 해도, 여성 유권자 특히 주부층의 심성이 코이케 후보의 선거전의 스타일에 부합한 것은 아닐까 필자는 생각한다. 즉, 「밤의 거리」를 비롯한 외출은 최대한 삼가해, 코로나 바이러스에 대한 경계를 제일로 호소하는 코이케 후보는, 상술한 여성 보수 운동 참가자와 「가정 생활과의 연속성의 강조」라고 하는 면에서 공명 할 수 있다.코로나 바이러스 감염증이라는 전대미문의 사태에 「가정·가족의 안전을 제일로 생각해 후보 자신도 안전을 최대한 고려한 스타일로 싸운다」라고 하는 인상은, 코이케 후보가 가장 강했다.
무당파층부터 보수층까지의 여성 유권자에게 있어서, 특히 보수운동에 참가하는 사람에게 있어서 코이케 후보는 비교적 「정조(안전)를 지키는 후보자」가 아니었을까.다른 남성 후보자들은 열세였다고는 하지만 감염증이 확대 확산 중인 도쿄 도 상황에서 일견 안전하지 못한 선거전을 벌이고 있는 것처럼 스스로 득표 제일로 싸우는 것처럼 보이지 않을 수도 있을 것이다.코이케 후보가 여성으로부터 높은 지지를 받아 당선된 배경에, 선거전의 스타일, 바꾸어 말하면 「문화」의 차이가 있었던 것은 아닐까.
이어서 2점째에 대해 말한다.
모럴 마조히즘과 예술에 대해서다.간결하게 말하면, 특히 중등 교육의 문예나 음악의 학습을 통해서, 여학생은 「모럴 마조히즘」의 문화를 무의식중에 배우고 있을 가능성이 있다, 라고 하는 것이다.두드러진 예는 고교 국어인 무희, 초등학교 5학년중학교 1학년 음악 고추잠자리라고 말한다면 작품을 기억하는 사람이라면 짐작할 수 있을 것이다.앞서 설명한 해처는 일본 여성의 모럴 마조히즘이 그려지는 모습을 모리 오가이 마이히메에서 본다.
"남자의 무책임함에 의한 곤궁, 그것에 대한 남성의 죄책감"은 모리 오가이의 『 무희 』 이후 면면히 근대 일본 문학의 소재가 되기도 된(해처 2016:87)。
무슨 말이냐면, 교과서에 나오는 「무희」에서 양행한 토요타로는 엘리스를 임신시키지만, 스스로의 승진을 우선해 귀국길에 올라, 여성을 경제적·신체적 리스크에 빠뜨리고 떠난다.토요타로가 무책임하게 떠나는 것에도 불구하고 남성의 죄책감도 강조해 그려지는 작품이기 때문에, 독자는 토요타로에게도 감정이입되어 있어, 남성을 죄책 할 것을 주저한다.아니면 일본에 남은 도요타로의 어머니도 도요타로가 없는 상황에서 고독하게 병사한다.여학생이 이런 흐름을 학습함으로써 개인적 피해자성을 여성 전체의 피해 구조와 바꿔 해석할 때 이는 모럴 마조히즘이라는 심성에 쉽게 결부되지 않을까.
「고추잠자리」의 가사에 대해서, 필자는 중학교 1 학년 때에 가사의 해석을 학습한 기억이 있다.'15살에 누나는 시집가고 고향소식도 끊겼다'라는 가사를 음미해보면 현대에 비해 나이 어린 나이에 나이 많은 남자에게 시집가야 하는 '누나'(누나일 수도 있고 하녀일 수도 있다)가 등장해 고향과의 단절을 강요받는 예술작품으로 읽어본다.이때 역시 여성의 구조적인 '피해자성' '피억압자성'에 짐작이 가지 않을까.의식하인지 무의식하인지는 판별할 수 없지만, 이러한 「모럴·마조히즘」으로 연결될 수 있는 학습의 채널이, 일본의 근대의 예술 작품을 배울 때에는 필수적인 것임을 자각하고 싶다고, 필자는 생각한다.
보수적 주장을 가진 여성들의 운동 에센스를 모럴 마조히즘으로 개념화할 때, 여성들이 스스로 뒤틀려가는 부정적 심성을 상상할 것이 아니라 학교교육을 포함한 제반 학습의 축적이 이런 구조적 심성을 낳고 있다는 역동성을 상정하는 것이 중요하지 않을까.
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