2021-03-29

「会えてよかった」大学生がたどる韓国人の元BC級戦犯:朝日新聞デジタル

「会えてよかった」大学生がたどる韓国人の元BC級戦犯:朝日新聞デジタル



「会えてよかった」大学生がたどる韓国人の元BC級戦犯


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編集委員・豊秀一2018年1月21日 13時11分




李鶴来さんにインタビューする法政大の学生たち=昨年11月19日、東京都西東京市の李さんの自宅






 法政大3年の学生たちが昨年、朝鮮半島出身の元BC級戦犯、李鶴来(イハンネ)さん(92)と出会った。死刑判決を受けながら減刑されて生き延び、今も、戦犯とされた「不条理」を問い続ける李さん。70歳も年上の男性から、知らなかった過去と現在に触れた若者たちが、ドキュメンタリーづくりに挑んだ。

 14日午後、東京都新宿区のJR飯田橋駅に隣接するビルで、李さんを主人公にしたドキュメンタリー作品を見る会があった。タイトルは、「戦後補償に潜む不条理~韓国人元BC級戦犯の闘い」。李さんを支える人たち約20人が集まった。

 法政大国際文化学部(東京都千代田区)の鈴木靖教授のゼミに所属する学生8人が制作。学部内のゼミの研究発表テーマとして取り組み、李さんの半生をたどった。

 日本の植民地下の朝鮮に生まれ、戦争中は「死の鉄道」と言われた泰緬(たいめん)鉄道建設のための捕虜監視員になった李さん。戦後、連合国軍の裁判により捕虜虐待の罪で絞首刑の判決を受け、減刑。刑死した仲間たちの無念の思いを晴らしたいと今も運動を続ける――。

 作品を見終えた李さんは「年の離れた若者たちに、自分の思いが受け継がれたように感じた」と語った。

 発表のテーマを決めたのは昨年9月。その前月の新聞に李さんのことが大きく取り上げられていた。それまで全員がBC級戦犯という言葉を知らなかった。

 「こんな人がいるのに知らなくていいのか」と、ゼミの打ち合わせで議論になった。資料を読み、関係者への取材を重ね、昨年11月半ばに李さんの自宅を訪ねた。李さんは心臓発作を起こして緊急手術を受けたばかり。それでも、1時間の予定を超え、3時間近く語り合った。

 「亡くなった友人や刑死した友人の無念を晴らし、名誉回復したい」。映像を撮影した中戸川望さん(21)は、「仲間のため」と繰り返す李さんの言葉が胸に残った。「死刑になってもおかしくなかった李さんが今も、仲間のために運動しているというのは奇跡。会えてよかった」。島野友花(ゆか)さん(21)も「穏やかな語り口から、本当に仲間のために解決したいという強い意思が伝わってきた」。

 1952年、サンフランシスコ平和条約の発効とともに、李さんらは日本国籍を失った。軍人・軍属の援護立法の対象は日本人のみとされ、李さんらは外された。一方、条約発効後も「日本人」として服役を続け、釈放されたのは56年。「都合のよい時は日本人で、都合が悪くなると外国人。私たちは何人にでもなる」と李さんは言う。

 父が韓国人で、母が日本人の布施恩実(ウンシル)さん(20)は「李さんは日韓のはざまでどこからも守ってもらえなかった。私も自分のアイデンティティーについて、日本と韓国の間で悩むことがある」と自分を重ねた。

 神奈川県鎌倉市に、李さんが「恩人」と慕う元医師、今井知文さんが眠る墓がある。巣鴨プリズンから出所後、孤立無援だった韓国人元戦犯を物心両面で支え続けた医師。墓の脇には李さんらが感謝を込めて建てた碑がある。撮影に訪れた皆川達也さん(20)は、「周りの声や評判など気にせず、李さんたちの立場に立ち、理解して行動した日本人がいたという事実に胸を打たれた」。

 ドキュメンタリーの学部内での発表は11月25日。インタビュー後、徹夜に近い作業を続け、完成したのは発表の10分前。「日本人はいつまで謝り続けるんだろうという気持ちが正直あったが、目を向けないといけないと気づかされた」。中山佳子さん(20)は言う。

 最後のナレーションは議論の末、こうした。「イハンネさんはもうすぐ93歳を迎えます。ともに活動を続けてきた仲間も残り3人。あまり時間は残されていません。早期の解決が求められる問題に、私たち若者はどう向き合っていくべきなのでしょうか」

 堀田真央さん(21)はいま、思う。「最初、戦争は教科書の中の出来事だとひとごとだったが、関わるにつれてそうではなくなった。これは日本人の問題なのではないでしょうか」


 巣鴨プリズンにいた李さんたち朝鮮半島出身の元BC級戦犯が、生活保障や早期釈放などを求めて「同進会」を立ち上げ、今年で63年になる。(編集委員・豊秀一
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韓国人BC級戦犯問題

 連合国軍の軍事裁判で朝鮮半島出身の元軍属らが「日本人」として裁かれながら援護の対象外とされた問題。台湾出身の元BC級戦犯やその遺族らも含めて、特別給付金を支給する超党派の議員立法が検討されている。BC級戦犯として起訴された5700人のうち朝鮮人は148人で、23人に死刑が執行された。
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李さんの歩み

1910年 日韓併合

 25年 李さんが生まれる

 42年 捕虜監視員に応募

 43年 タイとビルマ(当時)を結ぶ泰緬鉄道のヒントクへ

 45年 日本が敗戦

 47年 シンガポールのチャンギ刑務所に収容中、死刑判決。その後、20年の有期刑に減刑

 51年 東京の巣鴨プリズンに収容

 52年 サンフランシスコ平和条約が発効し、日本国籍を失う。人身保護請求に基づく釈放請求裁判を起こす

 55年 「韓国出身戦犯者同進会」設立。鳩山一郎首相(当時)に早期釈放や生活保障などを求める要請書を提出

 56年 仮釈放

 57年 岸信介首相(当時)に要請書提出

 91年 オーストラリア・キャンベラの国際会議に出席し、元捕虜の軍医に謝罪して和解。元BC級戦犯ら7人で国家補償を求めて東京地裁に提訴

 99年 最高裁が訴えを退ける

2006年 韓国政府が元BC級戦犯の被害を公式に認定

 17年 写真パネル展「外国籍元BC級戦犯・不条理の記録」を都内で開く


関連ニュース
韓国人の元BC級戦犯、李鶴来さん死去 国に救済訴え
編集委員・北野隆一

2021年3月28日 21時53分

外国籍BC級戦犯問題の立法解決を訴える李鶴来さん
=2020年6月15日午後2時7分、
東京・永田町の衆院第2議員会館、北野隆一撮影

写真・図版
 第2次世界大戦後の戦犯裁判でBC級戦犯として裁かれ、日本政府に救済と名誉回復を求めていた在日韓国人の李鶴来(イ・ハンネ)さんが28日、外傷性くも膜下出血のため東京都内で死去した。96歳だった。葬儀は家族で営む。

 1925年、現在の韓国・全羅南道生まれ。戦時中、日本軍軍属としてタイで捕虜収容所の監視員を務めた。捕虜を泰緬(たいめん)鉄道建設に従事させ多数を死なせたとして、シンガポールで連合国が開いたBC級戦犯裁判で「日本人戦犯」として死刑判決を受けた。減刑後、東京に移され、56年に仮釈放された。

 元戦犯に対する恩給など日本政府の援護制度は、日本国籍を失ったことを理由に対象外とされた。元戦犯者らと「同進会」を結成し、政府に「日本人戦犯には恩給や慰謝料を給付しているのに、なぜ外国籍戦犯を差別するのか」と救済と名誉回復を訴えていた。

 韓国政府は2006年、「日本の協力者」としてきた李さんらBC級戦犯を「植民地支配の被害者」と認め、名誉回復した。

 戦犯仲間らでつくったタクシー会社を都内で経営。24日に自宅内で転倒して頭を打ち、足を骨折。病院に緊急搬送されていた。(編集委員・北野隆一)

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