2020-05-29

ルーツ探しで見つけた答えは「自分を表すものは“ひとつ”でなくていい」 - 安田菜津紀|論座 - 朝日新聞社の言論サイト

ルーツ探しで見つけた答えは「自分を表すものは“ひとつ”でなくていい」 - 安田菜津紀|論座 - 朝日新聞社の言論サイト



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安田菜津紀「あなたのルーツを教えて下さい」
ルーツ探しで見つけた答えは「自分を表すものは“ひとつ”でなくていい」

世界で活躍するジャグラー・ちゃんへん.さんの「国籍とは何か」を巡る葛藤の軌跡

安田菜津紀 フォトジャーナリスト


2020年05月28日

ジャグラールーツ国籍安田菜津紀

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ディアボロ2個を使った技を披露するちゃんへん.さん



 ちゃんへん.さん(本名:金昌幸さん)と初めて出会ったのは一昨年の夏、共通の知人を介しての食事会だった。

 ジャグラーとして世界的に活躍していると聞いていたので、私は豪快な雰囲気の人を想像していた。けれども、仲間たちと一緒にわいわい焼肉を囲む輪の中で、ちゃんへん.さんは、どちらかというと物静かな印象を与える人だった。(ちゃんへん.さんのジャグラーの様子は「下の動画」でご覧いただけます)

 彼は二十歳の時、自身の「ルーツを探る旅」に出たことがあるという。ちょうど同じような旅を考えていた私は、なぜちゃんへん.さんがその旅に出ようと思ったのか、そしてそこで何を感じたのか、もっとその道のりを知りたいと思うようになった。

 朝鮮半島にルーツを持つ人々は、「在日」と一言でくくられがちだ。けれども韓国籍だった私の父と、ちゃんへん.さんの家族のあり方が違うように、歩んできた道のりは一様ではない。彼のルーツとこれまでの日々は、「国籍とは何か」「共に生きるとは何か」という、様々な葛藤の軌跡でもあった。


公立の小学校は「外国の学校」

 ちゃんへん.さんが生まれたのは、在日コリアンの集住する地域として知られる京都府宇治市の「ウトロ地区」だ。再開発が進む一方、下水管が剥き出しになっているところがあったり、半壊したまま手つかずの家があったり、時が止まっているかのような風景も残っている。

 「綺麗になった部分と、前のまま変わっていない部分がスパッと分かれているんですよ。まるで新入生や新社会人の着慣れていない制服やスーツ姿みたいに、新しく建ったマンションとかが、まだこの場所になじんでいない気がします」

 このウトロに強いこだわりがあるわけではないと言うちゃんへん.さん。「生まれ故郷ではあるけれど、どちらかというと一世たちが生きて、一生懸命守ってきた場所、という意味合いの方が強いです」という言葉が印象に残った。

 小学校入学前、母の昌枝(チャンジ)さんは、ちゃんへん.さんにこう語ったという。「外国の学校に行くぞ」。それは朝鮮学校ではなく、インターナショナル・スクールでもなく、地元の公立学校のことだった。「特に深い意味はなかったのかもしれませんが、自分たちは国籍が違うから、日本の学校は外国の学校という認識だったのだと思います」
次は→周囲とは何かが違う

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周囲とは何かが違う


生まれて100日目のちゃんへん.さん 昌枝さんには、ちゃんへん.さんを朝鮮学校に通わせるという選択肢はなかったようだ。昌枝さんが通っていた当時の朝鮮学校は、今よりもずっと厳しく、日本語は固く禁じられていた。中学生の時、創立の周年行事で、大好きだった山口百恵さんの「イミテーション・ゴールド」を思い切り日本語で歌った昌枝さんは、学校からひどく怒られたという。



 それがきっかけで、「百恵ちゃんのよさが分からない学校なんて行ってられるか」と、学校をやめてしまった。その頃は、偏見の目が今以上に厳しく向けられていたこともあり、朝鮮学校卒業後の進路は限られていた。ちゃんへん.さんを「外国の学校」に進ませたのは、彼の未来を狭めたくないという思いもあったのかもしれない。

 「周囲と何かが違う」と気づきはじめたのは、小学校に入学してからだった。

 「家の中では、朝鮮語と日本語を混ぜて話していたし、おじいちゃん、おばあちゃんは朝鮮語だけで話すから、僕にはわからない言葉もある。でも、“そんなものなんだろう”というぐらいにとらえていました。小さかったから“外国語”という認識もなかったし、何だか知らない言葉を喋ってるな、知らない言葉があるんだな、くらいに思っていました」

 ところが、小学校に入ると、「自分の喋(しゃべ)る言葉」を知らない人ばかりに囲まれることになる。普通に話しているつもりでも、「え、今なんて言ったの?」と何度も聞き返された。「あれ?同世代に通じない言葉がある…」。日本語と朝鮮語が、明確に違うものだと意識するようになったのはこの頃だった。
殴られたり無視されたりの小学校時代

 通っていた小学校には、そんな「違い」を、暴力の口実にする上級生たちがいた。身体的暴力は3、4年生の時にエスカレートし、6年生からは「入国審査だ」と殴られたこともあった。同級生たちは、「朝鮮人だから近づくな」といわんばかりに、ちゃんへん.さんを無視し続けた。

 「これは人によってとらえ方が違うかもしれませんが、当時はボコボコにされるぐらいなら、教室で無視される方がまだましだ、と思っていました」。それほどまでに、過酷な暴力が続いた。それでも、不登校にはならなかった。母親にばれたくない、悲しませたくない気持ちが強かったからだ。

 ちゃんへん.さんは父親を幼い頃に亡くし、昌枝さんが祇園でクラブを営みながらちゃんへん.さんを育てていた。夕方に家を出て、明け方に帰ってくるという生活でも、朝食と夕食は必ず用意してくれた。子どもながらに母のそうしたところに愛情を感じ、裏切りたくないという思いがあった。

 だから、家に帰れば「楽しい学校生活を送っている自分」を演じた。顔を合わせるのも辛いときは、夕方に母が店に向かうまでわざと外で待っていた。「土日で学校がないときは、“友達と遊んでくる”と、いもしない友達を作り上げて、一人で6時間以上公園で過ごしたりしていたこともあります。そんな毎日の繰り返しでした」
次は→「強さを見せたかったらルールのある世界で闘え」

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「強さを見せたかったらルールのある世界で闘え」

 ある時、校舎の4階から、ちゃんへん.さんめがけて石がぎっしり詰まったバケツを6年生が落としてきたことがあった。間一髪直撃は免れたものの、偶然目撃した先生から校長先生に伝わり、6年生たちと一緒に校長室に呼ばれた。

 校長先生は6年生たちに向かって、「朝鮮人をいじめるな」と諭そうとした。そんな“善意の言葉“が、ちゃんへん.さんを深く傷つけることになる。「あの一言で、自分は周りの人とは全く同じ立場ではないということを突き付けられたようでした」

 “人と違う”と“一緒じゃない”は、ちゃんへん.さんの中で大きく異なるのだという。「何ひとつ共有できるものがないんだ、根本的に自分は違う存在なんだ、もっといえば“人間じゃないんだ”ってその時、思わされたんです」

 そこに、学校から知らせを受けた母の昌枝さんが駆けつけた。昌枝さんはいじめた6年生たちではなく、校長先生に向かってこう言い放った。

 「何でいじめがなくならへんのか知ってんやけど、教えたろか。あんなおもろいもんがなくなるわけないやろ」。反論しようとする校長先生をよそに、昌枝さんは続けた。「この学校には子どもたちにとって、いじめよりおもろいもんがないからや。お前、学校のトップやったら、いじめよりおもろいもん教えたれ」

 その言葉はちゃんへん.さん自身にも、そしていじめていた6年生たちにも刺さったようだ。昌枝さんは6年生たちに向かってこうも語った。「強さを見せたかったら、ルールのある世界で闘え。ルールのない世界で闘っても、それはただの弱い者いじめや」。いじめのリーダー格だった6年生のひとりは、それをきっかけに空手を習い始めたそうだ。
ハイパーヨーヨーで一目置かれる存在に

 大きな転機が訪れたのは、中学生の時だった。


ちゃんへん.さん 雑誌の懸賞でハイパーヨーヨーが当たり、その後ブームが到来。たまたま人より早く始めていたこともあり、クラスの中でも一目置かれるほど上手くなっていた。それまで自分を無視し続けていた同級生たちが、「それどうやるの?」と話しかけてくるようになった。



 その後も周りに負けまいとひたすら練習を重ね、地域で断トツの腕前になった。「努力する楽しさをこの時に学んだと思います。技ができると嬉しいし、自分が成長していると実感できる」

 大会に出て目覚ましい成績をおさめていく一方で、どこか心にひっかかりもあった。「大会で優勝しても、人が決めた“100点”をとっているだけ。決められた技の決められた点数で測られる。そんな“100点”をとるより、自分が決めたベストを出す方が楽しいんじゃないか」。そう考えるようになっていた。

 数年ぶりに母親と買い物に出たときのことだった。時間を持て余し、ふらりと立ち寄ったジャグリング・ショップで、米国の伝説的ジャグラー、アンソニー・ガットの映像を目にし、圧倒された。見たことのない技を鮮やかに繰り広げ、自分の限界に近づく努力を重ねる姿に、憧れるようになった。

 この出会いが、パフォーマーを志していくきっかけとなる。ただ、世界規模の大会で活躍するために、どうしても立ちはだかるものがあった。「国籍」という壁だった。
次は→「息子に韓国籍をとらせてください」と土下座した母

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「息子に韓国籍をとらせてください」と土下座した母

 ここで「在日朝鮮人」と呼ばれる方々の歩みについて触れておきたい。

 朝鮮半島出身の人々は、日本の植民地時代には「日本国籍」とされていたものの、終戦から数年後、今度は一方的に日本国籍を奪われ、特定の国籍を持たない「朝鮮人」として扱われることになってしまった。さらに朝鮮半島は南北二つの国に引き裂かれ、1965年、日本は南側の韓国とのみ国交を結んだ。

 その際に韓国籍を取得した人もいれば、「朝鮮人」、「朝鮮籍」のままでいることを選んだ人たちもいた。「朝鮮籍」=「北朝鮮籍」と勘違いされることもあるが、日本が国として認めていない北朝鮮の国籍を、日本に暮らす人が取得することは難しい。

 世界へと飛び出すため、「韓国籍を取りたい」というちゃんへん.さんを、母の昌枝さんは祖父母のところに連れて行った。そして号泣しながら祖母に土下座し、おでこを床に擦り付けながら、こう叫んだ。「息子に韓国籍をとらせてください!」

 祖母はちゃんへん.さんの目の前で、昌枝さんを蹴り飛ばした。蹴られ続けながらも昌枝さんは、「息子の夢のためなんです!一生のお願いです!」と、泣きながら繰り返した。やがて少し冷静になった祖母が、今度はちゃんへん.さんに向かってこう叫んだ。

 「お前!!韓国国籍を取るとかぬかしてんのか!!」。そして更に大声で、こう続けた。「お前は南北分断を認めるのか!!」

 米国とソ連が自分たちの故郷を分断したことを、そして多くの人々が犠牲となった朝鮮戦争を、お前は認めるのかと、祖母はちゃんへん.さんに突きつけたのだ。どちらかの国を選ぶということは、分断を認めることなのだと、彼女は目に涙をためて叫んだ。

 「お前は!戦争という手段を使って一部の人間だけが幸せになろうとする奴らを認めるのか!」
衝撃を受けた“南北分断を認めるのか”という一言

 静かにテレビを観ていたはずの祖父が急に立ち上がった。

 「俺たちの国は50年前に国が分けられ、兄弟や家族ともバラバラに引き裂かれ、戦争が始まってもうめちゃくちゃになった」。日ごろは無口な祖父が口を開いたことに、ちゃんへん.さんは驚いた。

 「俺の夢は今も昔も変わってない!祖国がまたひとつになった時に、バラバラになった家族とまた一緒に暮らすことや! 俺の夢は叶わへんかもしれん。でも、こいつの夢は国籍を取るだけでチャレンジできるんや!」

 祖父母はともに10代半ばに、様々な事情で日本に渡ってきた。朝鮮半島から出る時、祖母の持ち物は家の鍵と飴玉数個だけだったそうだ。後から来るはずの母と一緒に食べようと、空腹を我慢して飴を食べずにいたという。

 日本が敗戦を迎え、故郷に帰ろうという時に朝鮮戦争が起きてしまった。持ち出した「鍵」を再び使う日は、ついに訪れなかった。それでもこの日本で生き抜き、子どもを育ててきた。

 「韓国籍をとるということに、どんな意味合いがあるかなんて、それまで意識したことはなかったんです。どうして自分が“朝鮮人”としていじめられるのか知りたくて、図書館で本を読んだり、それなりに学んできたつもりでした。でも、一人ひとりの生の思いは本には載っていない。だからこそ、“お前、南北分断を認めるのか”という祖母の一言は衝撃でした」
次は→「自分は結局何人なのだろう」

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「自分は何人なのだろう」

 葛藤は国籍のことだけではない。むしろこれが、葛藤の始まりでもあったのかもしれない。

 2002年の日韓W杯で、韓国が強豪国イタリアに勝利をおさめるという快挙があった。

 「国籍は韓国ですが、自分は韓国人ではないという気持ちが今でもあるし、ネイティブレベルで言葉が喋れたとしても、完璧にその枠組みには入れないと思う。でもなぜかあの時は、気持ちが高揚したんです。この気持ちはいったいなんだろうと、その時思いました」

 あの時はナショナリズムよりも、民族意識が勝ったのではないか、とちゃんへん.さんは振り返る。強敵相手に小さな国の民族が勝ったんだ、そして生まれた国は違っても、一緒の気持ちにはなれるんだ、と。ただ、その気持ちは「自分は結局、何人なのだろう」というもどかしさにもつながっていく。


大道芸ワールドカップ2002初出場の時 ちゃんへん.さんは2004年の終わり頃まで、ジャグリングの世界では「ミスター・マシュー」という名前で活動していた。「特に深い意味はなかったのですが、なんだか面倒くさくなって、本名で活動をし始めたんです」。



 それまで大道芸のW杯に出場すると、「ミスター・マシュー」という名前の横には日本の国旗がつけられていた。主催側にも深い意図があったわけではない。ところが本名で活動しはじめたとたん、「韓国人だったんですか」「日本人だと思ってました」、さらには「日本人ならよかったのに」というリアクションまであったという。その一方で、韓流ブームの時期でもあったため、韓国から来たネイティブの人だと思われることもしばしばだった。

 「結局、何人なの?」「通名の岡本昌幸とどっちが本当の名前?」。そんな問いの積み重ねに、段々としんどさを覚えるようになっていった。「そういうことを聞かれても、はっきり答えられない自分がいたんです。“これだ”と言えない自分にもやもやして、あるとき、“日本はなんで俺をカテゴライズしてくるんだ”って爆発してしまい、もっと広い世界を見ようと思い立ちました」
求めていた答えは身近なところに

 「どうせ旅に出るのなら、ルーツを巡る旅をしてみよう」と、北朝鮮や韓国、さらには朝鮮半島にルーツを持つ人々を訪ねるために、サハリンまで足を運んだ。

 朝鮮半島の軍事境界線を、最初は韓国側から訪ねてみた。韓国側では北朝鮮側のことを「敵」と呼んでいた。心がチクチクした。次に北朝鮮側から軍事境界線を訪ねると、朝鮮人民軍は韓国側を「同胞」と呼んでいた。

 北側のスローガンは「自主的に統一しよう」、南側に掲げられていたスローガンは「命を捨てる覚悟で戦え」だったという。「なんとなくそれまで、イメージが逆だったんですよね」と、意外な思いを感じたという。「ただ北朝鮮側は、アメリカのことは『敵』と呼んでいました。そこに朝鮮半島の現状が見えるのではないかと思います」


軍事境界線から数キロの韓国・臨津閣公園



 サハリンでは、この地に暮らす「在樺コリアン」と呼ばれる人々を訪ねた。最初に出会ったおばあさんは、ロシア語で話しかけてきた後、次は朝鮮語、そして「お前、日本から来たんか?」と、流暢な関西弁を話した。

 彼女は日本帝国時代に大阪で暮らしていたといい、夫は日本人だった。その後、夫とともに樺太へ労働者として渡った。ところが、日本は戦争に負け、夫はソ連軍との戦いに巻き込まれて亡くなった。「日本人」ではなくなったおばあさんが、日本に「帰国」することはできなかった。

 そのおばあさんが、翌日「在樺コリアン」の祭が催されると教えてくれた。会場に足を運ぶと、参加した人たちの中には、ブルーの瞳に金髪の人もいた。ちゃんへん.さんは思わず、中学生くらいの女の子に「自分のこと何人と思ってる?」、と尋ねずにはいられなかった。はっとした。

 「自分がやられて嫌だった質問を、自分はこの子にしたわけですよね。カテゴライズされるのが嫌で、人のせいにして、ルーツ探すとかいって出てきたのに、自分も他人をカテゴライズしている…。周りに腹を立ててきたけれど、逆の立場なら、自分も同じことしてしまうんだって冷静に思いました」

 ルーツを巡る旅に出てみたちゃんへん.さんにとって、自分の求めている答えは海外ではなく、もっと身近なところにあったのかもしれない。

 「どっちが自分の名前だとか、自分の国がどこだとか、そもそも自分を表す物が“ひとつだけ”っていうのがおかしい。両方自分だし、日本も朝鮮半島も、どちらも自分のルーツ。この人にとって僕は“岡本君”、この人にとっては“金”なんだ、それで間違ってない。“毎日キムチ食べてるの”っていう質問にも苛ついていたけれど、“毎日は食べてないけれど、美味しいキムチあるから今度一緒に食べようや”って言える強さが自分にあれば、もっと世界が広がったんじゃないかなって思った。知らない人間が悪いのではなくて、自分で門前払いしていただけだったんだと気づけたんです」
次は→「ヘイトデモ」で出会った日本人の青年たち

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「ヘイトデモ」で出会った日本人の青年たち

 日本に暮らす在日コリアンの人々が直面するのは、こうした“悪意のない質問”ばかりではない。日本ではもう何年にもわたり、街中でのヘイトスピーチが問題となってきた。ちゃんへん.さんは8年ほど前、その現場を実際に見てみようと、「ヘイトデモ」が予定されていた京都・宇治市大久保へと向かった。

 「まずはひたすら話を聞いてみたかったんです。朝鮮人を本当に恨んでいるなんて、この時代にあり得ないじゃないですか。10代、20代の若者が、“朝鮮人め!”と本気になるなんて考えられない。だから原因は“朝鮮人”ではないと思っていたんです」

 たまたまその「ヘイトデモ」が始まる前の時間に、リュックに旭日旗を入れた青年2人をフードコートで見つけた。「俺、朝鮮人なんやけど、お前らの目的ってなんなん?」。ちゃんへん.さんが話しかけると、2人は驚いた様子でこう語った。「朝鮮人とかそういうのは実はあまりよく分かってなくて、終わった後に皆で飲みに行くのが楽しくて参加してるんですよね」

 2人の戸惑いをよそに、連絡先を交換し、結局その日の夜に彼らを誘って飲みに行った。韓国料理を堪能し、マッコリを飲みながら店をハシゴした。

 やがて彼らからは、「今日はこの韓国料理屋に行きました」「Twiceが可愛い!」と、楽し気な連絡が来るようになり、実際に韓国にも観光で訪れるようになっていった。それだけに留まらず、北朝鮮まで旅行に行って平壌マラソンに参加したりと、驚くほど変化を遂げた。そして一人は昨年、韓国で知り合ったカナダ人の彼女と一緒に暮らすために、韓国へと発っていったという。

 「たとえば日本では、どんなにトランプ大統領が差別的な発言しても、“アメリカ”自体をヘイトの対象として叩かないですよね。アメリカの文化を知っているし、芸能人やヒット曲も知っている。彼ひとりが悪者に見えても、他の文化を知っているから、アメリカを全否定はしない。でも北朝鮮だと、切り取られた一部を見て嫌だなと思った瞬間、全部が嫌だって錯覚する」

 ちゃんへん.さん自身も、同じような経験があった。2001年9月11日の米国同時多発テロをニューヨークで体験した後、イスラムやアラブの人たちへの差別的な発言に触れながら、どこか自分自身も「彼らは恐い人たちなのかもしれない」と思い込んでいた。しかし実際に中東のヨルダンを訪れたとき、イラク戦争の映像を見て悲しむ人たちを目にし、そのイメージがガラガラと崩れていった。

 「僕は中東のヒット曲を知らないし、“テロ”のイメージだったり、この地域に漠然とネガティブなイメージしか持っていなかったんだと思います。だからこそあの時、ヘイトデモに参加しようとしていた二人に、文化を知ってもらおうと思って韓国料理屋に連れていったんですよね。そうすると“美味しいね”という共通点が生まれる。その共通点が生まれると、全否定はできないんですよ。ひとりでも友達がいると違うんです」
ルーツはコンプレックスではなく……

 新型コロナウイルスの感染拡大を受け、日本では「給付金は日本国籍者のみ」と国会議員が発言したり、「成績上位3割」の留学生にしか給付金が支払われない方針が打ち出されたりと、排斥が浮き彫りになってしまった面もある。

 「若者の増えないこの国で、外国から来る人たちの力を借りざるを得ない社会になっているわけですよね。それなのに、そういう人たちの気持ちを踏みにじる対応をしてきたと思います。これからの時代は国籍とか信仰している宗教に関わらず、個人が対等な立場で尊重し合える時代が来るはずだと僕は思っています。そうしないと社会がもたない。でも、いまだにそこに線を引いている。そういう発言がいかに国を壊していくかに、そろそろ気が付いた方がいいと思うんです」

 新型コロナウイルス対策で、リモートワークなどにも注目が集まり、仕事のあり方や価値観も変わってきている。「内向き」というレッテルを貼られがちな若者世代も、ちゃんへん.さんたちをはじめ、グローバルな視点で社会を見つめ、様々なジャンルで新しい取り組みを始めている。そういった20代、30代の活躍は目覚ましい。

 「ルーツがコンプレックスだという人は多いけれど、これからはそれが武器になっていく」。ちゃんへん.さんのそんな実感は、これから着実に、広がっていくはずだ。

(※ちゃんへん.さんは『僕は挑戦人』(ホーム社)を8月に刊行する予定です)

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