徴用
徴用(ちょうよう)とは、戦時などの非常時に、国家が国民を強制的に動員して、一定の仕事に就かせること、また、物品を強制的に取り立てること[1]。占領地住民に対する徴用・徴発についてはハーグ陸戦条約に規定があり、正当な対価のない徴用・徴発は禁じられている。
中世~近世[編集]
オスマン帝国[編集]
オスマン帝国にはデヴシルメと呼ばれる強制徴用制度が存在した[2]。ムラト1世はイェニチェリと呼ばれる軍隊を創設し、バルカン半島にあるキリスト教徒の村々から少年の兵士として徴用した[3]。
近代~現代[編集]
占領地住民に対する徴用・徴発についてはハーグ陸戦条約に規定があり、正当な対価のない徴用・徴発は禁じられている。
日本[編集]
日本では、1939年(昭和14年)に国民徴用令が制定され、第二次世界大戦の終結まで行われた。
日中戦争の全面化によって、日本の戦争の長期化・総力戦化が確実な状況になり、相次ぐ徴兵に伴う労働力不足と軍需関連を中心とした需要と生産規模の急激な拡大によって労働コストが急激に上昇していった。この事態に対応するために軍需関連を中心とした労働力の安定確保を図る必要性が生じた。
日本では既に第一次世界大戦中の1918年(大正7年)3月に制定された軍需工業動員法が存在していたが、強制力は非常に弱いものであった。そのため、政府は1938年(昭和13年)3月に国家総動員法、翌1939年(昭和14年)7月に国民徴用令(国家総動員法第4条に規定された勅令に相当)を公布して国民の職業・年齢・性別を問わずに徴用が可能となる体制作りを行った。当初は国民職業能力申告令(1939年1月7日公布、勅令)に基づいて申告を義務付けられた職能の技能・技術者を対象とし、職業紹介や各種募集で確保できない重要産業の人員確保に限定して、担当官庁が必要最低限の人数の徴用を行うとする限定的なものだったが、徴兵規模の拡大に伴う人員不足と賃金の上昇は深刻となり、特に1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦後は深刻なものとなった。そのため、国民徴用令に伴う徴用命令が濫発され、翌1942年(昭和17年)5月13日には企業整備令が公布され(勅令)、娯楽、観光関係などの不急不要産業や軍需転用が困難な中小企業や商工業者は強制的な統廃合処分を行い、余剰人員を動員に振りあてた。
1943年(昭和18年)の国民徴用令(7月21日公布)・国民職業能力申告令の改正によって徴用制度の整理と効率化が図られ、国家が必要と認める場合にはいかなる職能の技能・技術者でも指定の職場に徴用可能(「新規徴用」)とし、また特定の企業・業務従事者を事業主以下企業全体を丸ごと徴用することも可能(「現員徴用」)とした。その結果、1944年(昭和19年)3月までに288万人余りが徴用され、一般労働者全体の2割を占めるまでになり、結果的には強制的な産業構造の変化と労働者の配置転換を全国的に行う事態に至った。
こうした徴用は現実の食料などの物価上昇を無視して、一般国民を国家の命令で転職させて低賃金で働かせるものであったことから、大変評判が悪かった。
当初こそは、徴兵に次いで国家に奉公する名誉が与えられたとする考えもあり、積極的に徴用に応じる空気もあったが、労働環境の劣悪ぶりと度重なる徴用令、そして勤務先の強制的な解散・組織全体の徴用などに伴って、徴用に対する一般国民の反発は高まっていった。
既に1940年(昭和15年)の段階で徴用拒否者が問題化し、徴用の動員令状である「白紙」は、軍隊の召集令状である「赤紙」と並んで人々を恐れさせた。[要出典]徴用拒否は1943年~1944年頃には深刻化して徴用制度そのものが崩壊の危機を迎えた[要出典]。
このため、学徒勤労動員や女子挺身隊の名目で学生や女子などの非熟練労働者に対する動員が行われた。1945年3月6日、国民徴用令・国民勤労協力令・女子挺身勤労令・労務調整令・学校卒業者使用制限令の5勅令は廃止・統合され、国民勤労動員令が公布された(勅令)。終戦時において、被徴用者は新規徴用161万、現員徴用455万、合わせて616万人が徴用されていた。
なお、野口悠紀雄など一部の学者からは、戦後日本の労働制度と戦時中の徴用制度の共通性を指摘する意見も出されている[4]。
第二次世界大戦後に発生した朝鮮戦争では、アメリカ軍が元日本人船員ら約3000人を徴用した。給料の支払いなどは日本側(当時の神奈川県船舶渉外労務管理事務所)が行っている。期間中、大型曳舟が触雷して沈没する事件などが発生して死傷者も出た[5]。
朝鮮[編集]
1944年8月8日、国民徴用令の適用を免除されていた朝鮮人にも適用するとした閣議決定がなされる[6]。その後、1944年9月より朝鮮人にも適用され[7]、1945年8月の終戦までの11か月間実施される。日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月までの7か月間であった[7]。
徴用労働者は宿舎を用意され、正当な報酬が支払われていた[8](川辺や湿地帯に集落を造り、賃金も日本人の約半分であったとされる)。徴用は朝鮮人の間で人気があり[8]、自らも日本企業での徴用に志願した経験を持つ崔基鎬 加耶大学校教授は、三菱鉱業手稲鉱業所が忠清南道で鉱員を募集した際、倍率は7倍に上ったと述べている[9]。
戦後、賃金の一部が未払いであったことが問題とされたが、1965年に締結された財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定によって未払い賃金を含めた経済支援が韓国に行われ、完全かつ最終的に解決されたこととするとした(韓国政府はこの補償金を個々人にはほとんど支給せず、自国の経済基盤整備の為に使用した)。一方2012年5月、韓国最高裁(大法院)が「個人請求権は消えていない」と判定した。大韓民国の一部にはいまだ納得していない者もおり、いまだに賠償要求をしている。また北朝鮮に対して、賠償をしていないという問題がある。
脚注[編集]
- ^ goo辞書「徴用」[1]
- ^ 浅野 2012, p. 7.
- ^ 浅野 2012, p. 6.
- ^ 野口悠紀雄『1940年体制』東洋経済新報社 1995年
- ^ 朝鮮戦争に邦人「戦死者」極秘、27年目に明かす 元神奈川県職員『朝日新聞』1977年(昭和52年)4月18日、13版、23面
- ^ 閣議決定 「半島人労務者ノ移入ニ関スル件ヲ定ム」昭和19年8月8日 国立公文書館
- ^ a b 朝日新聞 昭和34年(1959年)7月13日2面
- ^ a b 戦時徴用は強制労働は嘘 1000名の募集に7000人殺到していた SAPIO 2015年9月号
- ^ 崔基鎬『歴史再検証 日韓併合―韓民族を救った「日帝36年」の真実』祥伝社〈祥伝社黄金文庫〉、2007年7月、38頁。ISBN 978-4396314354。
参考文献[編集]
- 粟屋憲太郎 「徴用」 『日本史大事典 4』 平凡社、1993年、ISBN 978-4-582-13104-8。
- 江口英一 「徴用制度」 『国史大辞典 9』 吉川弘文館、1988年、ISBN 978-4-642-00509-8。
- 浅野典夫 『「なぜ?」がわかる世界史 近現代(オスマン帝国〜現代)』 学研教育出版、2012年6月。ISBN 978-4-05-303379-6。
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