2021-10-22

Park Yuha | 이시바시 단잔 상

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6년전 이마음때 고국에서 고발당한 나에게 모교가 선물을 보내줬다.
일본에서 공부했으니 일본편일거라느니 일본이 주는 상을 받았으니 친일파라는 단순무지한 이야기는 더이상 하지 말자. 우리의 일본지식도 이제 그정도는 되지 않나. 이런 글을 더이상 반복적으로 올리지 않아도 되는 날이 오기를 바라면서.
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“이시바시탄잔은,반전,반군대,식민지 포기, 소일본 주의를 지향했습니다.
<제국의 위안부>는 국가/제국의 욕망에 개인이 어떤식으로 동원되고 착취당하는지를 생각해 본 책이니, 의도하지 않았으나 이시바시의 사상과 접점이 있었는지도 모르겠습니다.
경계를 넘어, 이시바시와 같은 사상을 계승하고 공유하는 일이 필요하다고, 작금의 동아시아가 불안정한 만큼 간절히 생각합니다. “


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Park Yuha
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渦中日記 10/22
그저께저녁, 감기로 골골거리고 있는데 와세다대학에서 연락이 왔었다. 와세다에서 주관하는 "이시바시탄잔 기념 저널리즘 대상"수상자로 결정되었다고.
얼마전에 쓴 것처럼 지난번 마이니치신문사의 수상소식에 대해서는 좀 복잡한 심경이었지만 이번 소식은 순수하게 기쁜 마음이 들었다. 소감을 써 보내라기에 그 이유를 썼다.
실은 마이니치의 경우 수상식에는 가지 않을 생각이었다. 밝고 화려한 장소에 나가 웃는 얼굴을 할 기분은 아직 들지 않았기 때문이다. 하지만 몇몇 지인의 의견에 힘을 얻었고 생각을 바꾸었다. 나는 결코 위안부할머니를 모욕하지 않았고 그 부분에 대해서는 한점 부끄럼이 없다. 그래서 수상에 대해서도 당당해지기로 했다. 할머니들도 언젠가는 오해를 풀어 주시리라 믿는다. 수상 덕분에 이 책을 읽는 일본인들이 한사람이라도 더 늘어난다면 위안부문제 해결에도 도움이 되면 되었지 결코 방해가 되는 일은 아니라는 확신에도 변함이 없다.
감기가 나으면 그동안 따뜻한 응원을 보내주셨던 페친여러분들과의 만남도 가져야겠습니다. 누구보다도 먼저, 여러분들께 감사 전하면서 보고드립니다.
<소감>
"대학원에서 배웠던 와세다대학이 주관하는, 그것도 이시바시탄잔을 기념하는 상을 수상하게 되어 기쁘게 생각합니다. 이시바시탄잔은,반전,반군대,식민지 포기, 소일본 주의를 지향했습니다. <제국의 위안부>는 국가/제국의 욕망에 개인이 어떤식으로 동원되고 착취당하는지를 생각해 본 책이니, 의도하지 않았으나 이시바시의 사상과 접점이 있었는지도 모르겠습니다. 경계를 넘어, 이시바시와 같은 사상을 계승하고 공유하는 일이 필요하다고, 작금의 동아시아가 불안정한 만큼 간절히 생각합니다. 앞으로의 집필에도 큰 힘이 될 것입니다. 고맙습니다."
"大学院で学んだ早稲田大学からの、しかも石橋湛山の名を冠する賞を受賞することになってとても嬉しく思います。石橋湛山は、反戦、反軍、植民地放棄、小日本主義を目指しました。「帝国の慰安婦」は、国家/帝国の欲望に個人がどのように動員され、搾取されるのかを考えてみた本ですから、石橋湛山の思想に図らずも接しているのかもしれません。境界を越えて、石橋のような思想を受け継ぎ共有することが本当に必要と、現在の東アジアが不安定なだけに切に思います。そうした賞をいただいたことは、今後の仕事の上でも大きな励みになります。ありがとうございました。"







이시바시 단잔 石橋 湛山 위키백과
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[그는 전쟁 전부터 일관되게 일본의 식민지 정책을 비판해 가공 무역 입국론을 주창하였으며, 전후에는 ‘중·일·미·소 평화 동맹’을 주장해 일본 정계에서 활약을 했다.]
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이시바시 단잔
石橋 湛山

일본제55대 내각총리대신

임기 1956년 12월 23일~1957년 2월 25일

전임: 하토야마 이치로(제52·53·54대)
후임: 기시 노부스케(제56·57대)
신상정보
출생일 1884년 9월 25일
출생지 일본 도쿄도
사망일 1973년 4월 25일
정당 자유민주당
종교 니치렌슈


이시바시 단잔(일본어: 石橋 湛山, 1884년 9월 25일

~ 1973년 4월 25일)은 일본언론인이자 정치가로, 제55대 내각총리대신을 지냈다.


목차
1성장
2정치가
3주장
4같이 보기
5외부 링크
성장[편집]

도쿄도에서 일련종 승려인 아버지의 장남으로 태어나 와세다 대학을 졸업하고 신문사 주필, 사장을 지냈다.

이시바시 내각, 앞줄 가운데가 이시바시 총리.
정치가[편집]

제2차 세계 대전일본 사회당이 총선거 출마를 제의했지만 이를 거절했다. 1946년 총선거에서 자유당 후보로 출마했지만 낙선, 요시다 시게루 내각에서 대장대신(제1차 요시다 내각)을 역임했다. 미군의 주둔 경비 분담액 삭감을 요구했다가 경질됐다. 1954년 하토야마 이치로 내각에서 통상산업대신(제1차 하토야마 이치로 내각)으로 취임하여 1955년 11월에 중화인민공화국과 ‘중일수출입조합’의 결성을 지원해 중국과의 무역 궤도에 오르기도 했다.

보수합동 이후 자유민주당 전당 대회에서 근소한 표차로 승리해 자유민주당 총재 겸 제55대 총리가 되었지만, 이듬해인 1957년 2월경 재임한 지 2개월 만에 뇌경색이 발병해 퇴임하였다(공식 발표는 노인성 급성 폐렴). 같은 해 퇴임 후 1957년 10월에 모교인 와세다 대학에서 명예 박사학위(초대)를 받았고, 1959년 9월과 1963년에 두 차례 중국을 방문하여 저우언라이 총리와 회담을 가졌으며, 1964년소련을 방문하는 등 중국과 소련의 국교 회복에 앞장서기도 했다. 1963년 중의원 선거에 후보로 출마했지만 낙선하여 정계를 은퇴했다.

주장[편집]

그는 전쟁 전부터 일관되게 일본의 식민지 정책을 비판해 가공 무역 입국론을 주창하였으며, 전후에는 ‘중·일·미·소 평화 동맹’을 주장해 일본 정계에서 활약을 했다.

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石橋湛山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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日本政治家石橋 湛山
いしばし たんざん

石橋の肖像写真
生年月日 1884年9月25日
出生地 日本 東京市芝区芝二本榎
(現在の港区
没年月日 1973年4月25日(88歳没)
死没地 日本 東京都
出身校 早稲田大学文学科
前職 東洋経済新報社合名社員
所属政党 (日本自由党→)
民主自由党→)
自由党→)
分党派自由党→)
(自由党→)
日本民主党→)
自由民主党
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
名誉博士(早稲田大学・1956年
権大僧正(日蓮宗・1957年
配偶者 石橋うめ
子女 長男:石橋湛一
長女:千葉歌子
次男:石橋和彦
親族 杉田日布(父)
サイン

第55代 内閣総理大臣
内閣 石橋内閣
在任期間 1956年12月23日 - 1957年2月25日
天皇 昭和天皇

第9代 郵政大臣(内閣総理大臣臨時代理 → 兼任)
内閣 石橋内閣
在任期間 1956年12月23日 - 1956年12月27日

第12-14代 通商産業大臣
内閣 第1次鳩山一郎内閣
第2次鳩山一郎内閣
第3次鳩山一郎内閣
在任期間 1954年12月10日 - 1956年12月23日

第50代 大蔵大臣
内閣 第1次吉田内閣
在任期間 1946年5月22日 - 1947年5月24日

衆議院議員
選挙区 静岡県第2区
当選回数 6回
在任期間 1947年4月26日 - 1947年5月17日
1952年10月2日 - 1963年10月23日

その他の職歴
神奈川県鎌倉町会議員
1924年 - 1928年
第2代 自由民主党総裁
1956年12月23日 - 1957年2月25日
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石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年明治17年〉9月25日 - 1973年昭和48年〉4月25日)は、日本ジャーナリスト政治家教育者立正大学学長)。階級陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階従二位勲等勲一等

大蔵大臣第50代)、通商産業大臣(第121314代)、内閣総理大臣第55代)、郵政大臣(第9代)などを歴任した。内閣総理大臣在任期間は65日であり、日本国憲法下では羽田孜に次いで2番目に短く、日本の憲政史上でも4番目の短さである。

早稲田大学から法学の名誉博士(Doctor of Laws)を贈られた。


目次
1概要
2生涯
2.1生い立ち
2.2学生時代
2.3ジャーナリスト時代
2.4政界へ
2.5公職追放
2.6公職追放からの復帰
2.7総理総裁
2.8退陣後
3略年譜
4人物
4.1思想・評論
4.2憲法と軍隊
5エピソード
6その他
7栄典
8家族・親族
8.1杉田家
8.2石橋家
8.3その他の親戚
8.4評価
9著書(主に没後刊)
9.1評論集
9.2回想録・日記
10脚注
10.1注釈
10.2出典
11参考文献
11.1伝記
11.2研究文献
12関連項目
12.1関連人物
13外部リンク
概要[編集]

戦前は『東洋経済新報』により、一貫して日本の植民地政策を批判して加工貿易立国論を唱え、戦後は「日中米ソ平和同盟」を主張して政界で活躍した。保守合同後初めて本格的[注釈 1]に実施された自民党総裁選挙を制して総理総裁となったが、在任2ヵ月弱で発病し、退陣した。退陣後は中華人民共和国との国交正常化に力を尽くした。

実父は身延山久遠寺第81世法主杉田日布である。その関係で、立正大学学長に就任した。
生涯[編集]
生い立ち[編集]

日蓮宗僧侶杉田湛誓ときん夫妻の長男・省三(せいぞう)[注釈 2]として生まれる[1]

実父の湛誓は日蓮宗一致派の初代管長である新居日薩の門下で[2]、現在の東京都港区高輪承教寺に所在していた当時東京大教院(現・立正大学の前身)の助教補(助手助教)を務めていた[3]

母・きんは、江戸城内の畳表一式を請け負うほどの大きな畳問屋・石橋藤左衛門の次女である[4]。石橋家は承教寺の有力な檀家で、東京大教院に在学中の湛誓と親しくしていた[5]。故あって湛山は母方の石橋姓を名乗った[6]

湛山は3男3女の6人兄弟のうちの長男である[7]。湛山の兄弟では湛誓次男の野澤義郎も湛山と同様に甲府中学・早稲田大学を経て東洋経済新報社に入社し、支局長・監査役を務めている[8]。湛誓三男の湛正は東京大学を卒業し、富士宮一乗寺の住職となっている[9]
学生時代[編集]

1885年明治18年)、父・湛誓が郷里山梨県南巨摩郡増穂村(現・同郡富士川町)にある昌福寺住職へ転じるため、母・きんと共に甲府市稲門(現・甲府市伊勢2丁目)へと転居する。

1889年(明治22年)、甲府市立稲門尋常小学校に入学する。3年生の時に初めて父と同居することになり、稲門から約20km奥まっている増穂村の小学校に転校した。

1894年(明治27年)、湛誓が静岡市の日蓮宗本山・青龍山本覚寺の住職に転じることになり、山梨県中巨摩郡鏡中条村(旧・同郡若草村若草町、のち南アルプス市に編入)にある長遠寺の住職である望月日謙(後に久遠寺83世法主)に預けられる。以来、実質的な親子の関係は絶たれ、幾度となく手紙を出すが父母からの返事はもらえなかったという。

1895年、日謙に勧められ山梨県立尋常中学校(後の甲府中学、現在の山梨県立甲府第一高等学校)へ進学する。湛山は2年落第し、7年間在籍する。1901年(明治34年)3月には甲府中学校長の幣原坦が退任し、大島正健が赴任する[10][11]。大島は札幌農学校(現・北海道大学の前身)第1期生としてウィリアム・スミス・クラークの薫陶を受けた人物で、1914年(大正3年)まで甲府中学校長を務めた[12]。湛山は1902年に甲府中学を卒業するため1年のみの薫陶を受けるが、湛山は後に『山梨県立甲府中学同窓会報』において大島との出会いを述懐し、自身の人生観に大きな影響を与えたと記している[13]。晩年に至るまで、湛山の枕元には常に日蓮遺文集と聖書が置かれていたという。在学中は校友会の季刊誌『校友会雑誌』に論文を投稿し、剣道部にも入部した。

『校友会雑誌』は甲府一校百周年記念館資料室に数十冊が所蔵されており、湛山の論文を含む号も現存している[14]。湛山は1900年6月発行の第八号において「石橋坐忘」の筆名で小論「石田三成論」を発表し、以来「石橋省三」「石橋省造」「石橋湛山」などの名で小論を発表している[15]。また、『校友会雑誌』には学術部総会に関する報告も掲載され、湛山が総会において英文朗読・演説、文章の朗読・演説などを行っており、当時から政治・歴史などに関心をもっていたことが確認される[16]。5年生時には同会の理事を務めている[17]

1902年(明治35年)3月に、山梨県立第一中学校を卒業する。中学を卒業する頃に、湛山と改名している[注釈 3]。翌月、第一高等学校(現・東京大学教養学部)受験のため上京する。その際に、正則英語学校[注釈 4]に通った。しかし同年7月の試験は不合格だった。翌年に再度受験するがまたもや失敗し、早稲田大学高等予科の編入試験を受けて合格し、9月に入学した。こうして、東京での下宿生活が始まった[18]
ジャーナリスト時代[編集]

早稲田大学を卒業して、さらに1年間研究科で勉強する。1908年(明治41年)12月に、 島村抱月の紹介で毎日新聞社(旧横浜毎日新聞や旧東京横浜毎日新聞で、当時は『東京毎日新聞』を出している。現在の毎日新聞社とは無関係)に入社した。

1909年(明治42年)12月には東京麻布の第1師団歩兵第3連隊一年志願兵として入営する[19]。湛山ははじめ社会主義者と誤解され要監視兵の扱いを受けるが、後に誤解が解け上官・将校とも良好な関係を築き、彼らも湛山の「合理性」を評価したという[20]。湛山は伍長に昇進し、1910年(明治43年)12月1日軍曹予備役編入[21][22]。湛山は入営中に軍隊の哲学に関心を持ち、社会生活・団体生活への順応性の重視を痛感したという[23]

1911年(明治44年)1月に東洋経済新報社に入社するが、同年9月に見習士官として再入営し、最終試験を経て1913年(大正2年)1月10日に陸軍歩兵少尉となる[21][24]。その後1916年夏に半月間の機動演習に召集されている[25]

1912年(大正元年)11月、東京経済新報社主幹・三浦銕太郎の媒酌で東小松川松江尋常高等小学校の教師・岩井うめ(梅子)と結婚する[26]。うめは福島県二本松出身の教師であった三浦の妻の教え子だった[27]

湛山は大正デモクラシーにおけるオピニオンリーダーの一人として、いち早く「民主主義」を提唱する。また三・一独立運動をはじめとする朝鮮における独立運動に理解を示したり、帝国主義に対抗する平和的な加工貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州の放棄を主張するなど(小日本主義)、リベラルな言論人として知られる。1924年大正13年)12月に第5代主幹となり、翌年1月には代表取締役専務(社長制となるのは、1941年以降)に就任する。また同年から1936年(昭和11年)まで鎌倉町議会議員を務めた。

1931年(昭和6年)には東洋経済新報社を中心とした経済倶楽部が創設される[28][29]1933年(昭和8年)には経済倶楽部の会員により山梨県南都留郡山中湖村旭日丘に「経済倶楽部山中湖畔山荘同人会(経済村)」が作られ、湛山も山中湖畔に山荘を構え、夏期は同所において執筆活動を行った[30]

部下の高橋亀吉と共に経済論壇の一翼を担い、金解禁に当たっては1円=金2分(1/5匁・0.75g。旧平価)での金本位制復帰に反対して、実体経済に合わせて通貨価値を落とした上での復帰(新平価解禁)を勝田貞次らと共に主張し、旧平価での復帰や財界整理を主張する池田成彬堀江帰一大蔵大臣として金解禁を旧平価で行う井上準之助と論争している。行政では、中央集権・画一主義・官僚主義との訣別を主張した。

日中戦争勃発から敗戦に至るまで『東洋経済新報』誌上にて長期戦化を戒める論陣を張っている。同誌は署名記事を書くことが困難だった多くのリベラリスト(清沢洌ら)にも匿名での論説の場を提供する。石橋や匿名執筆者の論調は常に冷静な分析に基づいており、かつ婉曲・隠微に読者を啓蒙する特徴を持っていたため、同誌は政府・内務省から常に監視対象にされてインクや紙の配給を大きく制限されたが、廃刊は免れた。

太平洋戦争では、次男和彦が召集され戦死した。また、戦争末期には、連合国の戦後構想に刺激を受け、戦後研究の重要性を石渡荘太郎蔵相に進言し、それにより設立された大蔵省戦時経済特別調査室で経済学者や金融関係者と共に戦後研究を行った[31]

日本敗戦直後の1945年昭和20年)8月25日には、論説「更正日本の進路〜前途は実に洋々たり」で科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする先見的な見解を述べている。10月13日『東洋経済新報社論』で、「靖国神社廃止の議」を論じて靖国神社の廃止を主張した[32]

東京裁判ではGHQ・検察側が、高橋是清の経済政策が戦争に結びついたと主張したが、それに対し石橋は弁護をした[33]。石橋は、高橋是清の政策はデフレ不況を脱出するための政策であり、軍備拡張にはつながっていない、明治以来の政策と軍備拡張の政策は違うと主張したが、裁判では採用されなかった[34]
政界へ[編集]

1946年(昭和21年)4月10日に行われた第22回衆議院議員総選挙に際して、日本社会党から誘いを受けるもこれを断り、日本自由党公認で東京都第2区(大選挙区)から立候補[35]。落選するが、同年5月22日に成立した第1次吉田内閣大蔵大臣として入閣した。

大蔵大臣在任時にはデフレーションを抑えるためのインフレーションを進め、傾斜生産石炭増産の特殊促進)や復興金融金庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進した。

そして戦時補償債務打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題等でGHQと対立する。進駐軍経費は賠償費として日本が負担しており、ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品等の経費も含んでいて、日本の国家予算の3分の1を占めている。このあまりの巨額の負担を下げるように、石橋は要求した。アメリカは、諸外国の評判を気にしたことと、以後の統治をスムーズに進行させることを考慮して、日本の負担額を2割削減することとなった。
公職追放[編集]

戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は、国民から“心臓大臣”と呼ばれるもアメリカに嫌われ、1947年(昭和22年)に第23回衆議院議員総選挙で静岡2区(中選挙区)から当選したが、公職追放令をもってGHQにより公職追放された。この公職追放は吉田茂が関わっていると云われた。1951年(昭和26年)の追放解除後は、吉田の政敵であった自由党・鳩山派の幹部として打倒吉田に動いた。この時期に立正大学から懇請されて、学長に就任した。
公職追放からの復帰[編集]

1954年

1954年(昭和29年)の第1次鳩山内閣通商産業大臣に就任した。1955年には商工委員会委員長田中角栄のもと、戦後の財閥解体の根拠法令のひとつであった過度経済力集中排除法を、独占禁止法と置き換える形で廃止した[36]1955年(昭和30年)11月には、日中輸出入組合の結成を支援した。

石橋は中華人民共和国、ソビエト連邦との国交回復などを主張したが、アメリカの猛反発を受ける。アメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官は「中共(中華人民共和国)、ソ連との通商関係促進はアメリカ政府の対日援助計画に支障をきたす」と通告してきた。このアメリカの強硬姿勢に動揺した鳩山一郎首相に対し、石橋は「アメリカの意向は無視しましょう」と言った。

同年11月15日保守合同により、鳩山の日本民主党と吉田から継承した緒方竹虎の自由党が合同し自由民主党が結成され、これに石橋も参画した。

総理総裁[編集]

石橋(最前列中央)と外務大臣岸信介(最前列左)、大蔵大臣池田勇人(最前列右)ら石橋内閣の閣僚

詳細は「石橋内閣」を参照

1956年(昭和31年)10月19日に日本とソビエト連邦が日ソ共同宣言により国交正常化するも、同年12月、鳩山首相が引退した。これを受けて、アメリカ追従を主張する岸信介自民党総裁選に立候補した。これに対し石橋は、さらに中華人民共和国など他の共産圏とも国交正常化することを主張、鳩山派の一部を石橋派として率いて立候補した。総裁選の当初は岸優位で、1回投票では岸が1位であったが、石井光次郎と2位・3位連合を組んだ決選投票では石橋派参謀の石田博英の功績もあって、岸に7票差で競り勝って総裁に当選、12月23日に内閣総理大臣に指名された。しかし、前述のような総裁選であったため岸支持派とのしこりが残り、さらに石橋支持派内部においても閣僚や党役員ポストの空手形乱発が行われ、組閣が難航したため、石橋自身が一時的に多くの閣僚の臨時代理・事務取扱を兼務して発足した(一人内閣)。親中派でもある石橋政権の樹立によって、日本を反共の砦とするために岸を望んでいたアメリカ大統領ドワイト・D・アイゼンハワーは狼狽したという。「党内融和のために決選投票で対立した岸を石橋内閣の副総理として処遇すべき」との意見が強かったため、石橋内閣成立の立役者だった石井の副総理がなくなり、副総理には岸が就任した。

内閣発足直後に石橋は「全国民を包括する総合的な医療保障」を演説した鳩山の路線を継承して、同年1月8日に国民皆保険を目指すことを閣議決定[37][38]するなど福祉国家建設、さらに対米自主外交では日中貿易を促進する世界平和の確立などを基本とした「五つの誓い」を掲げ、具体的には経済政策では池田勇人を大蔵大臣に抜擢して「1000億円施策、1000億円減税」として積極財政を行うとし、全国10ヵ所を9日間でまわるという遊説行脚を敢行、自らの信念を語るとともに有権者の意見を積極的に聞いてまわった。同年1月25日、帰京した直後に自宅の風呂場で倒れた。軽い脳梗塞だったが、報道には「遊説中にひいた風邪をこじらせて肺炎を起こした上に、脳梗塞の兆候もある」と発表した。副総理格の外相として閣内に迎えられていた岸信介がただちに総理臨時代理となったが、2か月の絶対安静が必要との医師の診断を受けて、石橋は「私の政治的良心に従う」と潔く退陣した。1957年(昭和32年)度予算審議という重大案件の中で行政府最高責任者である首相が病気療養を理由に自ら国会に出席[注釈 5]して答弁できない状況での辞任表明には、野党でさえ好意的であり[注釈 6]、岸の代読による石橋の退陣表明を聞いた日本社会党浅沼稲次郎書記長は石橋の潔さに感銘を受け、「政治家はかくありたい」と述べたと言う。石橋の首相在任期間は65日で、東久邇宮稔彦王桂太郎羽田孜に次ぐ歴代で4番目の短さである。日本国憲法下において、国会で一度も演説[注釈 7]や答弁をしないまま退任した唯一の首相にもなった。後任の首相には岸が任命され、居抜き内閣として第1次岸内閣が誕生した。

石橋は昭和初期に『東洋経済新報』で、暴漢に狙撃され「帝国議会」への出席ができなくなった当時の濱口雄幸首相に対して、「議会運営に支障をきたし、潔く退陣すべし」とする、退陣を勧告する社説を書いたことがあった[39]。もし国会に出ることができない自分が首相を続投すれば、当時の社説を読んだ読者を欺く事態になると考えたのである。
退陣後[編集]

幸い脳梗塞の症状は軽く、若干の後遺症は残ったものの、石橋はまもなく政治活動を再開するまでに回復した。

1959年(昭和34年)9月、岸より「同盟国アメリカの意思に反する行為であり、日本政府とは一切関係ないものとする」と牽制されながらも中華人民共和国を訪問した。前首相・衆議院議員とはいえ政府の一員ではない石橋は、訪問してから数日はなかなか首脳と会える目処がつかなかったが、交渉に苦労の末、同月17日周恩来首相との会談が実現した。冷戦構造を打ち破り、日本がその懸け橋となる日中米ソ平和同盟を石橋は主張した。この主張は、まだ国連の代表権を持たない共産党政権にとって国際社会への足がかりになるものとして魅力的であり、周はこの提案に同意した。周は台湾中華民国)に武力行使をしないと石橋に約束した。「日本と中国は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきである」との石橋・周共同声明を発表した。1960年(昭和35年)、大陸中国との貿易が再開した。この声明が後に日中共同声明に繋がったともいわれる。

その後も少数派閥ながら石橋派の領袖として影響力を持ち、岸が主導した日米安保条約改定には、本会での議決を欠席するなどして、批判的な態度をとり自民党内ハト派の重鎮として活躍した。

1963年の第30回衆議院議員総選挙で自民党は河野一郎の元秘書官の木部佳昭を新たに公認。定数5の選挙区を自民党公認候補者4人が争い、石橋は次点で落選。そのまま政界を引退した。

1966年2月、手足に麻痺を感じ聖路加病院に入院、主治医は日野原重明が務めた。同年11月の自民党幹部・大久保留次郎の葬儀に参列したのを最後に外出記録はない。1968年3月には立正大学学長を退き、一切の社会的活動から引退した。1970年2月にも再び肺炎で聖路加病院に入院し、その後は鎌倉の娘宅や新宿区中落合の自宅で療養することになる。

1971年7月にはアメリカ大統領の特使ヘンリー・キッシンジャーが訪中し周恩来と会談すると、米中対話を支持するメッセージを発表している。また、翌1972年7月には田中角栄内閣が成立し日中国交正常化への機運が高まっていたが、田中は訪中以前に中落合の石橋宅を訪れており、田中訪中の結果、日中国交正常化が成立すると、石橋はこれを祝賀するメッセージを発表している。

その後は病状が悪化し、1973年4月25日午前5時に脳梗塞のため[40]自宅で死去。享年90(満88歳没)。

略年譜[編集]
1884年(明治17年)9月25日 - 東京市芝区芝二本榎(現在の港区)に生まれる。
1885年(明治18年)3月 - 父が山梨県南巨摩郡増穂村(現在の富士川町)に在る昌福寺住職に転じたことに伴い、母と共に甲府市稲門に転居。
1894年(明治27年)9月 - 父が豊田村(現在の静岡市駿河区)にある青龍山本覚寺住職就任のために、山梨県中巨摩郡鏡中条村若草村若草町を経て、現在の南アルプス市)にある長遠寺の住職を務めている望月日謙に預けられる。
1895年(明治28年)4月 - 山梨県立尋常中学校に入学。
1902年(明治35年)3月 - 省三を湛山と改名する。山梨県立山梨県第一中学校を卒業。
1903年(明治36年)9月 - 早稲田大学高等予科に編入。
1904年(明治37年)9月 - 早稲田大学大学部文学科(現在の文学部哲学科へ進級(当時の学校長は鳩山和夫)。
1907年(明治40年)7月 - 早稲田大学大学部文学科を首席で卒業(英文科を含む)して、特待研究生として宗教研究科へ進級。
1908年(明治41年)7月 - 宗教研究科を修了して、島村抱月の紹介で毎日新聞社(『東京毎日新聞』を出している方)に入社。
1909年(明治42年)8月 - 毎日新聞社を退社。12月 - 東京麻布歩兵第3連隊に入営。
1910年(明治43年)11月 - 軍曹に昇進して除隊。
1911年(明治44年)1月 - 東洋経済新報社に入社して、『東洋時論』の編集を担当する。9月 - 見習い士官として、3ヶ月の召集を受ける。
1912年(大正元年)11月 - 福島県伊達郡保原町(現在の伊達市)生まれの岩井うめと結婚。岩井家は、旧藩時代米沢藩士として家老職を務めた名門だった。
1913年(大正2年)- 陸軍の、歩兵少尉となる。
1916年(大正5年)11月 - 東洋経済新報社の合名社員に選ばれる。
1917年(大正6年)6月 - 早稲田騒動天野為之派のリーダーとして活躍(~9月)。
1924年(大正13年)9月 - 鎌倉町町会議員に当選( - 1928年8月)。12月 - 東洋経済新報社第五代主幹に就任。
1925年(大正14年)1月 - 東洋経済新報社代表取締役専務取締役に就任。
1935年(昭和10年)9月 - 内閣調査局委員に任ぜられる。
1940年(昭和15年)11月 - 東洋経済研究所を設立して、所長および理事に就任。
1941年(昭和16年)2月 - 東洋経済新報社の社長制新設に伴い、代表取締役社長に就任。
1945年(昭和20年)3月 - 東京大空襲で、芝の居宅が焼失。
1946年(昭和21年)3月 - 山川均提唱の民主人民連盟世話人会に参加。4月 - 戦後初の衆議院議員総選挙に立候補して落選。5月 - 第1次吉田内閣大蔵大臣に就任。
1947年(昭和22年)4月 - 静岡県第2区より総選挙に立候補して初当選。5月 - GHQにより公職追放となる。
1951年(昭和26年)6月 - 公職追放が解除されて、自由党に復党。
1952年(昭和27年)12月 - 立正大学学長に就任。
1953年(昭和28年)3月 - 政策審議会会長に就任。
1954年(昭和29年)11月 - 岸信介と共に、自由党より除名処分を受ける。12月 - 第1次鳩山内閣通商産業大臣に就任する。
1956年(昭和31年)12月 - 自由民主党第2代総裁に当選して、その後の国会指名により内閣総理大臣に就任する[41]
1957年(昭和32年)1月 - 日蓮宗権大僧正の僧階を授与される。同月脳梗塞を発症し(公式発表は老人性急性肺炎)、聖路加国際病院に入院。主治医は日野原重明。2月 - 自由民主党総裁と総理大臣を辞任。
1959年(昭和34年)9月 - 中華人民共和国を訪問して、周恩来と会談。
1963年(昭和38年)9月 - 日本工業展覧会総裁として中国を訪問。11月 - 総選挙で落選し、政界を引退。
1964年(昭和39年)9月 - ソビエト連邦を訪問。
1968年(昭和43年)3月 - 立正大学学長を退任。
1973年(昭和48年)4月25日午前5時 - 88歳で死去。4月28日 - 池上本門寺密葬。5月12日 - 築地本願寺で自民党葬。戒名は、謙徳院殿慈光湛山日省大居士。遺骨は分骨され、一部は日暮里の善性寺、身延山久遠寺に葬られる。

人物[編集]
思想・評論[編集]明治天皇明治時代を記念した明治神宮建設計画に際して。
東京のどこかに一地を相して明治神宮を建つるなどということは実に愚な極みである。こんなことは、断じて先帝陛下(明治天皇)の御意志にもかなったことでないのみならず、また決して永遠に、先帝陛下を記念しまつる所以でもない。真に、先帝陛下を記念しまつらんと欲すれば、まず何よりも先帝の残された事業(注:憲政や産業、民の福利)を完成するということを考えねばならぬ。しかして、もし何らか形に現われた記念物を作らんと欲するならば、「明治賞金」の設定に越して適当なものはない。 (注:ノーベル賞はアルフレッド・ノーベルがその資産を世界文明のために賞金として遺したことにより、永遠に世界の人心に記念された。世界の人心を新たにし、その平和、文明に貢献するために、「明治賞金」こそ先帝陛下の御意志と最も合致する。)— 大正元年(1912年)『東洋時論』第一次大戦参戦(ドイツへの開戦)と対支21ケ条要求について
吾輩は我が政府当局ならびに国民の外交に処する態度行動を見て憂慮に堪えないものがある。その一は、露骨なる領土侵略政策の敢行、その二は、軽薄なる挙国一致論である。この二者は、世界を挙げて我が敵となすものであって、その結果は、帝国百年の禍根をのこすものといわねばならぬ。~英国がドイツに向かって戦を宣するや、我が国民は一斉に起って論じて曰く、ドイツが青島に拠るは東洋の禍根である。日英同盟の義によってドイツを駆逐すべし、南洋の独領を奪取すべし、帝国の版図を拡げ大を成す、この時にありと。当時吾輩はその不可を切言したけれども、朝野を挙げて吾輩の説に耳を仮すものなく、ついにドイツと開戦の不幸をとなり、幾千の人命を殺傷した上に、これらの領土を維持するために相当大なる陸海軍の拡張が必要のみならず、独米の大反感を招けるは勿論、あるいは日英同盟さえ継続し得ぬ破目に陥りはせぬかを危ぶまれる。実に対独開戦は最近における我が外交第一着のそして取り返しのつかぬ大失策であって、しかしてこれ一に、考えざる領土侵略政策と、軽薄なる挙国一致論の生産物といわねばならぬ。 対支談判は、ドイツと開戦して青島を取ったことから糸を引いて出た失策ではあるが、その我が帝国にのこす禍根に至っては一層重大である。我が要求が多く貫徹すればするほど、世人はこれを大成功として祝杯を挙げるだろうが、吾輩は全く所見を異にして、禍根のいよいよ重大を恐るるものである。~このたびの事件で、我が国が支那およびドイツの深恨を買えるは勿論、米国にも不快を起こさせたは争えぬ事実である。かつて世界が日本の手を以て、ロシアの頭を叩かせたように、これらの諸国は日英同盟の破棄を手始めに、何国かをして、日本の頭を叩かせ、日本の立場を転覆せしむるか、それとも連合して日本の獲物を奪い返す段取りに行くのではなかろうか。その場合は、今回得た物の喪失だけでは到底済まず、一切の獲物を元も子もなく、取り上げられるであろう。これ吾輩の対支外交を以て、帝国百年の禍根をのこすものとして、痛憂おく能わざる所以である。— 大正四年(1915年)『東洋経済』社説一切を棄つるの覚悟
我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていることだ。志の小さいことだ。古来無欲を説けりと誤解せられた幾多の大思想家も実は決して無欲を説いたのではない。彼らはただ大欲を説いたのだ。大欲を満たすがために、小欲を棄てよと教えたのだ。~ もし政府と国民に、総てを棄てて掛かるの覚悟があるならば、必ず我に有利に導きえるに相違ない。例えば、満州を棄てる、山東を棄てる、その支那が我が国から受けつつありと考えうる一切の圧迫を棄てる。また朝鮮に、台湾に自由を許す。その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば、彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的地位を保つ得ぬに至るからである。そのときには、世界の小弱国は一斉に我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は、一斉に日本の台湾・朝鮮に自由を許した如く、我にもまた自由を許せと騒ぎ起つだろう。これ実に我が国の地位を九地の底より九天の上に昇せ、英米その他をこの反対の地位に置くものではないか。— 大正十年(1921年) 『東洋経済』社説中央集権から分権主義へ
元来官僚が国民を指導するというが如きは、革命時代の一時的変態に過ぎない。国民一般が一人前に発達したる後おいては、政治は必然に国民によって行われるべきであり、役人は国民の公僕に帰るべきである。政治が国民自らの手に帰するとは、一は最もよくその要求を達成しうる政治を行い、一は最もよくその政治を監督しうる意味にほかならない。このため、政治はできるだけ地方分権でなくてはならぬ。できるだけその地方地方の要求に応じえるものでなくてはならぬ。現に活社会に敏腕をふるいつつある最も優秀の人材を自由に行政の中心に立たしめえる制度でなくてはならぬ。ここに勢い、これまでの官僚的政治につきものの中央集権、画一主義、官僚万能主義(特に文官任用令)というが如き制度は根本的改革の必要にせまらざれるを得ない。今や我が国はあらゆる方面に行き詰まってきた。しかしてこの局面を打開して、再び我が国運の進展を図るためには、吾輩がこれまで繰り返しいえる如く、いわゆる第二維新を必要とする。第二維新の第一歩は、政治の中央集権、画一主義、官僚主義を破壊して、徹底せる分権主義を採用することである。この主義の下に行政の一大改革を行うことである。— 大正十三年(1924年)『東洋経済』社説

経済学者の田中秀臣は「石橋湛山の小国主義は、政府・日本銀行の適切な政策運営で日本の潜在成長をサポートしていく、というリフレ政策の立場を基礎にしていた」と指摘している[42]。田中は「『リフレの経済学』は小国主義的であり、自国の政策によって国内の経済・社会問題を解決し、他国を政策に利用せず不干渉で近隣諸国と友好をはかる方策と言える」と指摘している[42]

憲法と軍隊[編集]

日本国憲法と軍隊の在り方を巡る言動は、時代状況によりいくつかの変遷がある。

1946年(昭和21年)3月に「憲法改正草案を評す」で、日本国憲法に関しては憲法九条に該当する草案第二章の戦争放棄を「最早日本は敗戦国でも、四等、五等でもなく、栄誉に輝く世界平和の一等国、予ねて日本に於て唱えられた真実の神国に転ずるものである。之れに勝った痛快事があろうか」と評価した。

だが1950年(昭和25年)頃からは、自衛軍設置の主張や共産・社会主義との対決姿勢(後に自ら廃稿した「第三次世界大戦と世界国家」)を鮮明にし、政治家としても「反吉田」路線に立ち、憲法改正・再軍備論者として活動した。同時期には「破局的な第三次世界大戦がいやだというなら、そこ(各国の軍備全廃)まで行かなきゃダメだ」と駄目を押し「その場合は国を亡ぼしてもいいという覚悟をしなければとてもできない」(1952東洋経済新報「問われるままに」)と現実と理想のギャップを示しながら、熟慮・覚悟の伴わない理想論を戒めている。一方で私的に記した日記の中でも、1950年の記述で「今日の世界に於て無軍備を誇るのは、病気に満ちた社会に於て医薬を排斥する或種の迷信」と非武装中立の主張を公的な発言以上に辛辣に評してもいる。

1953年の総選挙では、鳩山自由党の政策委員長として政策をまとめて「憲法を国情に適するように改正」「戦争否定の精神は国策として存置するが、戦争発生防止のため自衛軍を組織する」などを明記した。これは後年の「国としての軍備を持たず国際紛争を武力をもって解決していくのではないと、世界に宣言したことは…人類最高の宣言であると信じている。これが少し時勢に早かったというのであれば、修正の箇所だけあとに加える…『九条は現代の世代において論理通りにいかぬので、世界の国々が恒久平和の理想に燃え、同一精神、同一歩調のとれるまで、しばらく停止する』という具合」という主張(1966「中小企業」)にも合致する。

1957年(昭和32年)、首相に就任した年の新春特大号の『東洋経済』「石橋湛山大いに語る」では「国連に対して義務を負うということは、軍備ということも考えられる」とし、同時期の「プレスクラブ演説草稿」では「世界の実情から判断して、国の独立安全を保つのに必要な最小限の防衛力はこれを備える国際義務を日本国民は負うものであると信じます」としている。ただし同稿の中で「人類を救わんとするならば、われわれは軍備拡充競争を停止し、戦争を絶滅しなければなりません」と、冷戦の平和解決と軍縮を主張した。

米ソ日中平和同盟を提唱してからは将来の理想を語りながらではあるが、再び平和憲法の意義を強調(「池田外交路線へ望む」)しながら、各国の軍備でなく国際警察軍によって平和を守る「世界連邦」実現への努力を説いている(「日本防衛論」)。

石橋は後年「私の戦争反対論には、理屈の外に、実はこの(軍隊時代の)実弾演習の実感が強く影響していたと思う」「もし世の人が皆戦争をさように身近に考えたら、軽率な戦争論は跡を絶つに違いない」(「湛山回想」)と振り返っている。戦争を嫌悪した湛山だが、彼にとっての軍隊体験は、平和についての思索や公共生活の訓練として実のあるものだったようである。

憲法は国民に義務を負わせるべきか、という議論に関しては、専制独裁に対抗するために主権を抑えようとした「十九世紀の憲法」からの脱却を説き、民主主義国においては国民が権利を持つ以上は義務を自覚しなければいけないと主張した。「義務の規定に周密でない憲法は、真に民主的なものとはいえない」と憲法における義務規定の充実を望んだ。

エピソード[編集]

石橋が首相を退陣した時の潔さは国民に高く評価されることが多いが、弁護士正木ひろしは私的な感情で「公務(首相の地位)を放棄した」と厳しく批判している。そもそも、自民党総裁選で1位優位であった岸信介に対抗する形で2位候補だった石橋と石井光次郎と2位・3位連合を組み1位当選を果たすことで岸総理を阻止して、石橋総理総裁が誕生した経緯があった。しかし、冬場に自身の体調を考慮しない遊説を行ったために風邪を引いて寝込み、絶対安静が必要との医師の診断を受けた石橋は、連合相手であるが閣内に入れていなかった石井を差し置く形で、閣内に副総理格外相として迎えていた岸信介をただちに総理臨時代理として総理総裁を禅譲し、平和裏に岸総理総裁が誕生した。予算審議が目前であるにもかかわらず自身の不考慮が原因で寝込んだことで、重たい責任がある首相として最初の国会で一度も演説や答弁を行うことができないまま首相退陣するという愚行を国民にさらしたあげく、次期総理総裁を当初の連合相手の石井ではなく総裁選のライバルであった岸に渡し、総裁選時の岸総理阻止という理念を反故にしたことになる。

その後、東洋経済新報社で石橋の『全集』が制作される時に、編集者は全集の月報の執筆を正木に依頼した。かつて石橋の部下でもあったその編集者は、石橋への礼讃一色の記事を集めたのでは、一方の意見に偏らない言論の必要性を唱えて来た石橋の信念に反すると考えたのである。正木が書いた石橋への批判はそのまま掲載された。

縁深い山梨県甲府市には「山梨平和ミュージアム・石橋湛山記念館」がある。
その他[編集]

1952年(昭和27年)12月から1968年(昭和43年)まで立正大学学長を務めている。
栄典[編集]
1964年(昭和39年)4月29日勲一等旭日大綬章
1973年(昭和48年)4月25日:叙・従二位勲一等旭日桐花大綬章追贈

家族・親族[編集]
杉田家[編集]生家
父・日布日蓮宗僧侶身延山久遠寺第81世法主)湛山は、1894年(明治27年)9月、父が静岡県に転住することになると、山梨県中巨摩郡鏡中条村若草村若草町を経て、現在の南アルプス市)に在る長遠寺の住職を務めていた望月日謙に預けられた。湛山は、「もし望月師に預けられず、父の下に育てられたら、あるいはその余りに厳格なるに耐えず、しくじっていたかもしれぬ。…望月上人の薫陶を受けえたことは、一生の幸福であった。そうしてくれた父にも深く感謝しなければならない」と『湛山回想』に記している[43]
母・きん(畳問屋石橋藤左衛門の二女)湛山の『私の履歴書』によれば、「母は“きん”と言い、芝二本榎の相当大きな畳屋の娘で、代々熱心な日蓮宗の信者であった。この畳屋は、私が幼年のころは相当繁盛していたようだが、主人である母の兄が死んだ後であったろう、つぶれてしまった。私は事情があって、この母方の姓を名乗って、石橋というのである。」という。
他に妹が2人、弟が1人いる
石橋家[編集]自家(東京都
妻・うめ(岩井尊記の三女)
長男・湛一(石橋湛山記念財団理事長)
同妻・敏子(赤星喜介の娘)
長女・歌子(駐メキシコ大使千葉皓の妻)
次男・和彦 - 戦没
孫・久美子(王子製紙社長、日本商工会議所会頭などを歴任した足立正の孫・足立正晃の妻)[44]
その他の親戚[編集]
山梨勝之進(海軍大将)
本郷房太郎陸軍大将
伊藤忠兵衛 (二代)伊藤忠財閥二代目当主)など


評価[編集]

鈴木幸夫著『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』(1965年)89頁によれば、「長男・湛一が、資産家赤星喜介の娘と結婚してから、その一族たちと、いささか閨閥的な形ができた。一族では、元蔵王鉱業取締役赤星四郎、元千代田火災副社長赤星五郎などが目ぼしい。また、長女の夫、千葉皓が外交官として知られていた。したがって、閨閥と政権の関係をうんぬんするような材料はない。かれの積極的な経済思想と、学識、能力を党内外に買われ、宰相の地位をえたのであって、石橋政権と閨閥は無縁である。」という。


著書(主に没後刊)[編集]
評論集[編集]
石橋湛山全集(全15巻、全集編纂委員会 編、東洋経済新報社、1970-72年)、補巻『石橋湛山写真譜』(1973年)
新版 『石橋湛山全集』(全16巻、同上、2010-11年)、補訂巻は第15・16巻
石橋湛山評論集 (松尾尊兊 編、岩波文庫、1984年、ISBN 4-00-331681-9/ワイド版1991年、ISBN 4-00-007005-3
小日本主義-石橋湛山外交論集 (増田弘 編、草思社、1984年5月、ISBN 4-7942-0186-9
石橋湛山評論選集 (東洋経済新報社、1990年6月、ISBN 4-492-06052-9
リベラリストの警鐘 石橋湛山著作集1-経済論 (長幸男 編、東洋経済新報社、1995年11月、ISBN 4-492-06081-2
エコノミストの面目 石橋湛山著作集2-経済論 (中村隆英 編、東洋経済新報社、1995年11月、ISBN 4-492-06082-0
大日本主義との闘争 石橋湛山著作集3-政治・外交論 (鴨武彦 編、東洋経済新報社、1996年1月、ISBN 4-492-06083-9
改造は心から 石橋湛山著作集4-文芸・社会評論 (谷沢永一 編、東洋経済新報社、1995年12月、ISBN 4-492-06084-7
湛山読本 いまこそ、自由主義、再興せよ。(船橋洋一編、東洋経済新報社、2015年)。論説70編を選び解説。
回想録・日記[編集]
湛山回想 (岩波文庫、1985年12月、ISBN 4-00-331682-7)。初版は毎日新聞社、1951年
湛山座談 (岩波書店〈同時代ライブラリー〉、1994年2月、ISBN 4-00-260173-0
石橋湛山 「湛山回想」 (人間の記録47:日本図書センター、1997年12月、ISBN 4-8205-4290-7
石橋湛山日記 (上・下巻組、石橋湛一・伊藤隆 編、2001年3月、みすず書房ISBN 4-622-03676-2
上巻:ISBN 4-622-03677-0、下巻:ISBN 4-622-03678-9。1945年1月1日から1957年1月23日までの日記。
脚注[編集]
[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 1956年4月自由民主党総裁選挙は事実上の信任投票であった。
  2. ^ 湛山の『私の履歴書』によれば「幼名は省三(せいぞう)と呼ばれ、愛称はセイチャンであった。“吾れ日に三たび吾が身を省みる”という論語の有名な言から出ている文字である」と述べている。
  3. ^ 湛山の『私の履歴書』によれば、「父が若くして弟子入りした山梨県の昌福寺という日蓮宗の寺院には古くから湛の字を名につけるならわしがあった。父は湛誓と称し、私もこの理由で中学を卒業するころ湛山と改名したのである」という。
  4. ^ 湛山は『湛山回想』の中で、「明治三十五年三月、中学を卒業すると、東京に出た。六月か、七月かにある第一高等学校の入学試験を受けるためであった。…神田錦町の正則英語学校に通った。…ここで私は、入学試験の準備をすることにした。しかし私は、この学校に来てみて驚いた。…大きな教室に、生徒はげたばきのままで雑然と入り込み、出席簿をつけるでもない。人気のある先生の時間には、あふれて、立っている生徒もある。かと思えば、ある先生の時間には、数えるほどしか出席者がない。しかも講義の途中でさっさと持ち物をかたづけて帰って行く生徒もある。いなか者の私は、これでも学校かとあきれたのである。…入学試験準備のための、そのころの学校は回想してみても愉快なものではなかった」と書いている。
  5. ^ 日本国憲法第63条では首相は議院から要求されれば国会に出席しなければならない規定が存在する。
  6. ^ 病気療養していた首相に議会決議してまで国会出席を要請することはしなかった。
  7. ^ 首相として迎えた第26回通常国会の施政方針演説は岸が代読している。
  8. 出典[編集]

  9. ^ 上田正昭ほか監修、三省堂編修所編 『コンサイス日本人名事典 第5版』 三省堂、2009年、104頁。
  10. ^ 姜(2014)、p.1
  11. ^ 増田(1995)、pp.3 - 4、
  12. ^ 増田(1995)、pp.3 - 4、姜(2014)、p.1
  13. ^ 増田(1995)、p.4
  14. ^ 増田弘『石橋湛山 リベラリストの真髄』3-4頁
  15. ^ 姜(2014)、p.2
  16. ^ 姜(2014)、p.2
  17. ^ 姜(2014)、p.2
  18. ^ 浅川(2008)、p.30
  19. ^ 浅川(2008)、p.194
  20. ^ 浅川(2008)、p.30
  21. ^ 浅川(2008)、pp.30 - 31
  22. ^ 浅川(2008)、p.15
  23. ^ 浅川(2008)、p.17
  24. ^ 浅川(2008)、p.18
  25. ^ 浅川(2008)、p.19
  26. ^ 増田弘『石橋湛山 リベラリストの真髄』9頁
  27. ^ 姜(2014)、p.31
  28. ^ 姜(2014)、p.31
  29. ^ a b 「陸軍後備役将校同相当官服役停年名簿. 大正15年4月1日調」
  30. ^ 姜(2014)、p.31
  31. ^ 姜(2014)、p.32
  32. ^ 姜(2014)、p.31
  33. ^ 姜(2014)、p.32
  34. ^ 姜(2014)、p.29
  35. ^ 姜(2014)、p.29
  36. ^ 浅川(2008)、p.79
  37. ^ 理事長挨拶 社団法人 経済倶楽部
  38. ^ 浅川(2008)、pp.79 - 80
  39. ^ 牧野・小堀(2014)。戦時経済特別調査室の資料は名古屋大学大学院経済学研究科附属国際経済政策研究センター情報資料室のウェブサイトにて閲覧可能である。
  40. ^ 『石橋湛山評論選集』東洋経済新報社、1990年、391-392頁
  41. ^ 麻木久仁子・田村秀男・田中秀臣 『日本建替論 〔100兆円の余剰資金を動員せよ!〕』 藤原書店、2012年、78頁。
  42. ^ 麻木久仁子・田村秀男・田中秀臣 『日本建替論 〔100兆円の余剰資金を動員せよ!〕』 藤原書店、2012年、79頁。
  43. ^5-5 総選挙 史料にみる日本の近代”. 国立国会図書館. 2020年8月14日閲覧。
  44. ^ 「過度経済力集中排除法等を廃止する法律(昭和30年7月25日法律第87号)」審議経過 - 国立国会図書館、日本法令索引。審議では同法廃止に懸念を持つ日本社会党田中武夫等からの質疑を受けている。
  45. ^ 昭和32年 - 日本医師会 (PDF)
  46. ^ “国民皆保険・皆年金(12)国民皆保険の達成”. 読売新聞. (2013年8月9日)2016年10月25日閲覧。
  47. ^ 『総理大臣全62人の評価と功績』サプライズbook 93ページ。2020年9月8日。
  48. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)3頁
  49. ^ 船橋洋一『21世紀 地政学入門』文藝春秋、2016年、249頁。ISBN 978-4-16-661064-8
  50. ^ a b 田中秀臣 『経済政策を歴史に学ぶ』 ソフトバンククリエイティブ〈ソフトバンク新書〉、2006年、212-213頁。
  51. ^ 『石橋湛山 リベラリストの真髄』4-5頁
  52. ^ 佐藤朝泰著『豪閥 地方豪族のネットワーク』339頁


参考文献[編集]
私の履歴書 石橋湛山ほか』 日本経済新聞社 1958年 37-96頁  ※新版 『私の履歴書 反骨の言論人』 日経ビジネス人文庫・日本経済新聞出版社、2007年
増田弘『石橋湛山 リベラリストの真髄』 中公新書、1995年
浅川保『偉大な言論人 石橋湛山』 山梨日日新聞社〈山日ライブラリー〉、2008年
姜克実『石橋湛山』吉川弘文館人物叢書〉、2014年
伝記[編集]
小島直記『気概の人 石橋湛山』 東洋経済新報社(新版)、2004年。旧版『異端の言説 石橋湛山』新潮社(上下)、1978年
筒井清忠『石橋湛山 一自由主義政治家の軌跡』 中央公論社〈中公叢書〉、1986年
江宮隆之『政治的良心に従います 石橋湛山の生涯』 河出書房新社、1999年
佐高信『良日本主義の政治家 いま、なぜ石橋湛山か』 東洋経済新報社、1994年
新版『湛山除名 小日本主義の運命』岩波現代文庫、2004年
半藤一利『戦う石橋湛山 昭和史に異彩を放つ屈伏なき言論』 東洋経済新報社、2008年(新版)。他に中公文庫、1999年/ちくま文庫、2019年
増田弘『石橋湛山 思想は人間活動の根本・動力なり』 ミネルヴァ書房日本評伝選〉、2017年
保阪正康『石橋湛山の65日』東洋経済新報社、2021年
研究文献[編集]
増田弘『石橋湛山研究 「小日本主義者」の国際認識』東洋経済新報社、1990年
姉妹書 『石橋湛山 占領政策への抵抗』 草思社、1988年、オンデマンド版2003年
姜克実 『石橋湛山の戦後 引き継がれゆく小日本主義』 東洋経済新報社、2003年
姉妹書 『石橋湛山 自由主義の背骨』丸善ライブラリー、1994年
田中秀征『日本リベラルと石橋湛山 いま政治が必要としていること』 講談社選書メチエ、2004年
長幸男『石橋湛山の経済思想 日本経済思想史研究の視角』 東洋経済新報社、2009年
上田美和『石橋湛山論 言論と行動』吉川弘文館、2012年
松尾尊兊『近代日本と石橋湛山 『東洋経済新報』の人びと』東洋経済新報社、2013年
牧野邦昭・小堀聡「石橋湛山と「戦時経済特別調査室」―名古屋大学所蔵「荒木光太郎文書」より」『自由思想』第135号、2014年
関連項目[編集]
石橋氏
石橋湛山賞
リフレーション
石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞
競輪#相次ぐ競輪場の廃止
関連人物[編集]
三浦銕太郎
宇都宮徳馬
松村謙三
三木武夫
外部リンク[編集]
ウィキメディア・コモンズには、石橋湛山に関連するカテゴリがあります。

財団法人石橋湛山記念財団
石橋湛山賞東洋経済WebSite内) - 2008年12月2日時点のアーカイブ
石橋湛山 連載一覧|連載/石橋湛山を語る - 東洋経済新報社 115周年
立正大学
石橋湛山関係文書 | 国立国会図書館 憲政資料室
早稲田大学|大学案内|名誉博士学位贈呈者一覧
石橋湛山 - NHK人物録
石橋湛山』 - コトバンク
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이시바시 단잔

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이시바시 단잔
이시바시 단잔
Tanzan Ishibashi.jpg
이시바시 인물 사진
생년월일1884 년 9 월 25 일
출생지일본 깃발 일본 도쿄시 잔디 구 잔디二本榎
(현재 미나토 구 )
죽음 연월일1973 년 4 월 25 일 (88 세 사망)
사망자 지역일본 깃발 일본 도쿄도
출신교와세다 대학 문학과
전직동양 경제 신보 사 합명 사원
소속 정당일본 자유당 →)
민주 자유당 →)
자유당 →)
분 당파 자유당 →)
(자유당
→) 일본 민주당 →)
자유 민주당
칭호종 2 위
훈 일등 욱일 동화 대수 장
명예 박사 (와세다 대학 1956 년 )
권한 대승정 (일련 종 · 1957 년 )
배우자이시바시 우메
자녀장남 : 이시바시湛一
장녀 : 치바歌子
차남 : 이시바시 카즈히코
친족스기타 날짜 천 (아버지)
로그인IshibashiT kao.png

일본 깃발제 55 대 총리
내각이시바시 내각
재임 기간1956 년 12 월 23 일 - 1957 년 2 월 25 일
천황쇼와 천황

일본 깃발제 9 대 우정 장관 (내각 총리 대신 임시 대리 → 겸임)
내각이시바시 내각
재임 기간1956 년 12 월 23 일 - 1956 년 12 월 27 일

일본 깃발제 12-14 대 통상 산업 대신
내각제 1 차 하 토야마 이치로 내각
제 2 차 하 토야마 이치로 내각
제 3 차 하 토야마 이치로 내각
재임 기간1954 년 12 월 10 일 - 1956 년 12 월 23 일

일본 깃발제 50 대 재무 장관
내각제 1 차 요시다 내각
재임 기간1946 년 5 월 22 일 - 1947 년 5 월 24 일

선거구시즈오카 현 제 2 구
당선 회수6 회
재임 기간1947 년 4 월 26 일 - 1947 년 5 월 17 일
1952 년 10 월 2 일 - 1963 년 10 월 23 일

기타 경력
Flag of Kamakura, Kanagawa.svg 가나가와 현 가마쿠라 도시 시의원
( 1924 년 - 1928 년 )
Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.jpg제 2 대 자유 민주당 총재
1956 년 12 월 23 일 - 1957 년 2 월 25 일 )
템플릿을 표시

이시바시 단잔 (이시바시 단잔, 1884 년 < 메이지 17 년> 9 월 25 일 - 1973 년 < 쇼와 48 년> 4 월 25 일 )는 일본 의 언론인 , 정치인 , 교육자 ( 릿쇼 대학 학장). 계급 은 육군 소위 (육군 소속). 위계 는 종 2 위 . 勲等勲一等.

재무 장관 ( 제 50 대 ), 통상 산업 장관 (제 12 · 13 · 14 대), 국무 총리 ( 제 55 대 ), 우정 장관 (제 9 대) 등을 역임했다. 총리 재임 기간은 65 일이며, 일본 국 헌법 하에서는 하타 쓰 토무 에 이어 두 번째로 짧게 일본 헌정 사상에서도 4 번째 짧음이다.

와세다 대학 에서 법학 명예 박사 (Doctor of Laws)을 수여했다.

개요 편집 ]

전쟁은 「동양 경제 신보」에 의해 일관되게 일본의 식민지 정책을 비판하고 가공 무역 입국 론을 주창 전후는 "일 중미 서 평화 동맹 '을 주장하고 정계에서 활약했다. 보수 합동 후 처음으로 본격적인 주석 1] 에 실시 된 자민당 총재 선거 에서 승리 해 총리 총재가되었지만 재임 2 개월 미만에서 발병하고 퇴진했다. 퇴진 후 중국 과의 국교 정상화에 힘을 다했다.

친아버지는身延山久遠寺81 세法主스기타 일 천 이다. 그 관계에서 릿쇼 대학 학장에 취임했다.

생애 편집 ]

성장 과정 편집 ]

일련 종 승려 · 스기타湛誓도금 부부의 장남 쇼조 (清三) 주석 2] 로 태어나 [1] .

친아버지의湛誓는 니치렌 종 일치 파의 초대 회장 인 새집 일薩의 문하에서 [2] 현재의 도쿄도 미나토 구 다카나와 의承教寺에 소재하고 있던 당시 도쿄 대교 원 (현 릿쇼 대학 의 전신)의 조교 보 ( 조수 → 조교 )를 역임했다 [3] .

어머니きんは, 에도 성 에서 다다미 일식을 맡아 정도의 큰 다다미 도매상 · 이시바시藤左衛門의 차녀 인 [4] . 돌다리 집은承教寺의 유력한 시주 에서 도쿄 대교 원에 재학중인湛誓과 친해했다 [5] . 고 있고 단잔은 어머니의 이시바시 성을 자칭했다 [6] .

단잔은 3 남 3 녀의 6 남매 중 장남이다 [7] . 단잔 형제는湛誓차남 야택 요시도 단잔처럼 고후 중학 · 와세다 대학을 거쳐 동양 경제 신보 사에 입사하여 지국장 · 감사를 맡고있다 [8] . 湛誓삼남湛正는 도쿄 대학을 졸업하고 노미야一乗寺의주지가되고있다 [9] .

학창 시절 편집 ]

1885 년 ( 메이지 18 년), 아버지湛誓가 고향 야마나시 현 미나미 코마 군増穂마을 (현 동 군 후지카와 정 )에있는昌福寺의 주지 로 돌아설 때문에 어머니 · 금과 함께 고후시稲門(현 고후 시 이세 2 쵸메)로 이사한다.

1889 년 (메이지 22 년), 고후시立稲門소학교 에 입학한다. 3 학년 때 처음으로 아버지와 동거하게되고, 벼 문에서 약 20km 안쪽에 위치해있다増穂마을의 초등학교로 전학했다.

1894 년 (메이지 27 년),湛誓가 시즈오카시 의 일련 종 본산 · 청룡 산本覚寺의주지로 돌아설 것 야마나시 현 나카 코마 군 거울 나카 조 촌 (구 · 동 카운티 밝은 마을 → 밝은 도시 훗날 남 알프스 도시 에 편입)의長遠寺의주지 스님 인 모치즈키日謙(후久遠寺83 세法主)에 맡겨진다. 이후 실질적인 부모와 자식의 관계는 끊어 몇 번이나 편지를 내지 만 부모의 대답은주지 않았다고한다.

1895 년 하루 켄의 권유 야마나시 현립 심상치 중학교 (후 고후 중학교 현재 야마나시 현립 고후 제일 고등학교 )에 진학한다. 단잔은 2 년 낙제 7 년 동안 근무한다. 1901 년 (메이지 34 년) 3 월에는 고후 중학교 길이 시데하라 탄 이 퇴임하고 오시마正健이 부임 [10] [11] . 오시마는 삿포로 농 학교 (현 · 홋카이도 대학 의 전신) 제 1 기생으로서 윌리엄 S. 클라크 의 훈도를받은 인물로, 1914 년 (1914 년)까지 고후 중학교 장을 역임했다 [12] . 단잔은 1902 년에 고후 중학교를 졸업하기 위해 1 년 만 훈도를 받지만 단잔은 후에 "야마나시 현립 고후 중학교 동창회 보 '에서 오시마과의 만남을 회상하며 자신의 인생관에 큰 영향을 준 적고있다 [13] . 만년에 이르기까지 단잔의 머리맡에 항상 니치렌 이븐 집과 성경 이 놓여 있었다고한다. 재학 중에는 교우회 계간 「교우회 잡지」에 논문을 투고하고 검도부에 입부했다.

"교우회 잡지 '은 고후 한 곳 백주년 기념관 자료실에 수십 권이 소장되어 있으며, 단잔의 논문을 포함 호도 현존하고있다 [14] . 단잔은 1900 년 6 월 발행 제 8 호에서 "돌다리坐忘"의 필명으로 소론 "이시다三成論'을 발표하고, 이후 「이시바시 쇼조」 「이시바시省造」 「이시바시 단잔'등의 이름으로 작은 이론을 발표하고있다 [15] . 또한 "교우회 잡지 '은 학술부 총회에 대한보고도 게재되어 단잔이 총회에서 영문 낭독 · 연설, 문장의 낭독 · 연설 등을 실시하고있어 당시부터 정치 · 역사 등에 관심을 가지고 있었던 것이 확인된다 [16] . 5 학년 때는 동회의 이사를 맡고있다 [17] .

1902 년 (메이지 35 년) 3 월, 야마나시 현립 제 1 중학교 를 졸업한다. 중학교를 졸업 할 무렵에, 단잔 으로 개명하고 주석 3] . 다음달 제일 고등학교 (현 도쿄 대학 교양 학부 ) 시험을 위해 상경한다. 그 때 마사노리 영어 학교 주석 4] 에 참석했다. 그러나 같은 해 7 월의 시험은 불합격이었다. 다음 해에 다시 응시하지만 또 다시 실패하고 와세다 대학 고등 예과에 편입 시험 을보고 합격하고 9 월에 입학했다. 이렇게 도쿄에서 하숙 생활이 시작되었다 [18] .

언론인 시대 편집 ]

와세다 대학 을 졸업하고, 또한 1 년간 대학원에서 공부한다. 1908 년 (메이지 41 년) 12 월에 시마무라抱月의 소개로 마이니치 신문사 (구 요코하마 마이니치 신문이나 구 도쿄 요코하마 마이니치 신문 에 당시는 「도쿄 마이니치 신문 '을 내놓고있다. 현재의 마이니치 신문사 에 관계없이)에 입사했다.

1909 년 (메이지 42 년) 12 월에는 도쿄 리넨 1 사단 · 보병 제 3 연대 에 한해 지원병 으로 입영하는 [19] . 단잔은 시작 사회 주의자 와 오해 필요 감시병의 취급을 받지만 나중에 오해가 풀리지 상관 · 장교도 좋은 관계를 쌓고 그들도 단잔의 '합리성'을 평가하는 [20] . 단잔은 하사 로 승진, 1910 년 (메이지 43 년) 12 월 1 일 중사 에서 예비역 편입 [21] [22] . 단잔은 입영 동안 군대의 철학에 관심을 갖고 사회 생활 · 단체 생활에 적응을 중시을 절감했다고한다 [23] .

1911 년 (메이지 44 년) 1 월에 동양 경제 신보 사 에 입사하지만, 같은 해 9 월에 견습 사관으로 다시 입영 최종 시험을 거쳐 1913 년 (다이쇼 2 년) 1 월 10 일에 육군 보병 소위와 된다 [21] [24] . 그 후 1916 년 여름에 보름 동안의 기동 훈련에 소집되는 [25] .

1912 년 (1912 년) 11 월, 도쿄 경제 신보 주간 · 미우라 테쓰 타로 의 주례로東小松川마츠 심상치 고등 초등학교 교사 · 이와이 우메 (우메코)와 결혼 [26] . 매화는 후쿠시마 현 니혼 마쓰 출신의 교사였던 미우라 아내의 제자였다 [27] .

단잔은 다이쇼 데모크라시 의 오피니언 리더의 한 사람으로서 재빨리 " 민주주의 "를 제창한다. 또한 3 · 1 독립 운동 을 비롯한 조선 의 독립 운동에 이해를 보여주고, 제국주의 에 대항하는 평화적인 가공 무역 입국 론을 주창 대만 · 조선 · 만주 포기를 주장하는 등 ( 소 일본주의 ), 자유 언론인으로 알려져있다. 1924 년 ( 다이쇼 13 년) 12 월에 제 5 대 주간이되고, 이듬해 1 월 에는 대표 이사 전무 (사장 제로되는 것은 1941 년 이후)에 취임한다. 또한 동년에서 1936 년 (쇼와 11 년)까지 카마 쿠라 쵸 의회 의원을 지냈다.

1931 년 (1931 년)에는 동양 경제 신보 사를 중심으로 한 경제 클럽 이 창설된다 [28] [29] . 1933 년 (쇼와 8 년)에는 경제 클럽 회원에 의해 야마나시 현 미나 미츠루 군 야마나카 코 무라 욱일 언덕에 "경제 클럽 산중 호숫가 산장 동인 회 (경제 마을)」가 만들어져 단잔도 산중 호수에 산장을 지어 여름 이 같은 곳에서 집필 활동을 실시했다 [30] .

부하의 다카하시 가메 키치 와 함께 경제 논단의 일익을 담당하고, 돈 해금 에 있어서는 1 엔 = 김 2 분 (1/5匁· 0.75g. 구 패리티)의 금본위 제 복귀에 반대하여 실물 경제에 맞게 통화 가치를 떨어 뜨렸다에의 복귀 (새로운 패리티 해금)을 가츠貞次들과 함께 주장하고 이전 패리티의 복귀와 재계 정리를 주장하는 이케다成彬와 호리에 귀일 , 재무 장관 으로 금 해금을 구 패리티로 할 이노우에準之助과 논쟁하고있다. 행정은 중앙 집권 · 획일주의 · 관료주의 와의 결별을 주장했다.

중일 전쟁 발발에서 패전에 이르기까지 「동양 경제 신보」지상에서 장기전 화를 응징 론진을 펴고있다. 잡지는 서명 기사를 쓸 수 어려웠던 많은 리버럴리스트 (清沢키요시 등)도 익명의 논설의 장을 제공한다. 돌다리와 익명 저자의 논조는 항상 냉정한 분석을 기반으로하며 완곡 · 미정 독자를 계몽하는 특징을 가지고 있었기 때문에,이 잡지는 정부 내무부 에서 항상 감시 대상으로되어 잉크와 종이의 배급을 크게 제한되었지만, 폐간은 면했다.

태평양 전쟁 에서 차남 카즈히코가 소집되어 전사했다. 또한 전쟁 말기에는 연합국의 전후 구상에 자극을 받아 전후 연구의 중요성을 이시荘太郎재무 장관에 진언하고 그로 인하여 설립 된 대장 전시 경제 특별 조사실에서 경제학자와 금융 관계자와 함께 전후 연구를 수행 하였다 [31] .

일본 패전 직후의 1945 년 ( 쇼와 20 년) 8 월 25 일 에는 논설 "경정 일본의 진로 - 전도는 실로 양양 충분하기 '과학 입국의 재건을 목표로하면 일본의 미래는 밝다고 할 비전 인 견해 을 말하고있다. 10 월 13 일「동양 경제 신보 사 론 '에서 "야스쿠니 신사 폐지 회의'를 논하고 야스쿠니 신사 의 폐지를 주장했다 [32] .

도쿄 재판 에서는 GHQ · 검찰 측이 다카하시 고레 키요 의 경제 정책이 전쟁에 결합되었다고 주장했지만, 반면 이시바시는 변호를했다 [33] . 이시바시는 다카하시 고레 키요 정책은 디플레이션 불황을 탈출하기위한 정책이며, 군비 확장에 연결되지 않은 메이지 이후의 정책과 군비 확장 정책은 다르다고 주장했지만 재판에서는 채용되지 않았다 [34] .

정치권에 편집 ]

1946 년 (쇼와 21 년) 4 월 10 일에 열린 제 22 회 중의원 의원 총선거 에 즈음하여 일본 사회당 에서 초대를 받았지만이를 거절하고 일본 자유당 공인으로 도쿄도 제 2 구 (대 선거구) 에서 입후보 [35] . 낙선하지만, 같은 해 5 월 22 일에 성립 된 제 1 차 요시다 내각 에 경제 장관 으로 입각했다.

재무 장관 재임시에는 디플레이션 을 억제하기위한 인플레 를 진행, 경사 생산 ( 석탄 증산의 특수 촉진)과 부흥 금융 금고 의 활용을 특징으로하는 '이시바시 재정'을 추진했다.

그리고 전시 보상 채무 중단 문제 석탄 증산 문제 진주 군 경비 문제 등으로 GHQ 와 대립한다. 진주 군 경비는 배상 비용으로 일본이 부담하고, 골프장이나 저택 건설, 사치 등의 비용도 포함 해 일본의 국가 예산의 3 분의 1을 차지하고있다. 이 너무나 큰 부담을 낮추도록, 이시바시는 요구했다. 미국은 외국의 명성을 걱정 한 것과 이후의 통치를 원활하게 진행시키는 것을 고려하여 일본의 부담액을 20 % 삭감하기로했다.

공직 추방 편집 ]

전승국 미국에 용기있는 요구를 한 이시바시는 국민으로부터 " 심장 장관 "라는 미국 내에서 미움, 1947 년 (쇼와 22 년)에 제 23 회 중의원 의원 총선거 에서 시즈오카 2 구 (중 선거구) 에서 당선했지만 공직 추방령 을 가지고 GHQ에 의해 공직 추방 되었다. 이 공직 추방은 요시다 시게루 가 관여하고 있다고 말해되었다. 1951 년 (쇼와 26 년)의 추방 해제 후 요시다의 정적이었던 자유당 · 하 토야마 파의 간부로 타도 요시다 움직였다. 이시기에 릿쇼 대학 에서 요구되고, 학장에 취임했다.

공직 추방에서 복귀 편집 ]

1954 년

1954 년 (쇼와 29 년) 제 1 차 하 토야마 내각 에서 통상 산업 장관 에 취임했다. 1955 년 에는 상공위원회 위원장 다나카 가쿠 에이 하에 전후의 재벌 해체 의 근거 법령의 하나였다 과도한 경제력 집중 배제 법 을 독점 금지법 과 대체 형태로 폐지했다 [36] . 1955 년 (쇼와 30 년) 11 월에는 일중 수출입 조합 의 결성을 지원했다.

이시바시는 중국, 소련 과의 국교 회복 등을 주장했지만, 미국의 반발을 받는다. 미국의 존 포스터 덜레스 국무 장관은 "중공 (중국) 소련과의 통상 관계 증진은 미국 정부의 대일 원조 계획에 지장을 초래"고 통보 해왔다. 이 미국의 강경 자세에 동요 한 하 토야마 이치로 총리에게 이시바시는 "미국의 의향은 무시하자"고 말했다.

같은 해 11 월 15 일 의 보수 합동 하여 하 토야마 일본 민주당 과 요시다로부터 상속 한 오가타 다케 토라 자유당이 합동하여 자유 민주당 이 결성되어 이에 돌다리도 참가했다.

총리 총재 편집 ]

이시바시 (앞줄 가운데)과 외무 장관 기시 노부스케 (앞줄 왼쪽), 재무 장관 이케다 하야토 (앞줄 오른쪽) 등 이시바시 내각 의 각료

1956 년 (쇼와 31 년) 10 월 19 일 에 일본과 소련이 일소 공동 선언 에 따라 국교 정상화도 같은 해 12 월 하 토야마 총리가 은퇴했다. 이에 따라 미국 추종을 주장하는 기시 노부스케 가 자민당 총재 선거 에 출마했다. 이에 대해 이시바시는 또한 중국 등 다른 공산권 도 국교 정상화를 주장 하 토야마 파의 일부를 이시바시 파 로 이끌고 입후보했다. 총재 선거에 처음에는 해안 우위에 1 회 투표에서는 해안이 1 위 였지만, 이시이光次郎2 위 · 3 위 연합을 이룬 결선 투표에서 이시바시 파 참모 이시다 히로 히데 의 공적도 있고, 해안에 7 표차로 승리하고 총재에 당선, 12 월 23 일 에 국무 총리에 지명됐다. 그러나 전술 한 바와 같은 총재 선거 였기 때문에 해안지지 파와 덩어리가 남아 있고 또한 이시바시지지 파 내부에서도 장관과 당직자 포스트空手形남발을 해 내각 조성이 난항했기 때문에 이시바시 자신이 일시적으로 많은 각료 임시 대리 사무 취급을 겸임하고 출범 한 ( 혼자 내각 ). 친중파 이기도하다 이시바시 정권의 수립을 통해 일본을 반공의 보루로하기 위해 해안을 기대했던 미국 대통령 드와이트 D 아이젠 하워는 경악했다고한다. "당내 화합을 위해 결선 투표에서 대립 한 해안을 이시바시 내각 부총리로 대우해야한다 '는 의견이 강했기 때문에, 이시바시 내각 성립의 주역이었던 이시이의 부총리가 없습니다 부총리는 해안이 취임했다.

내각 발족 직후 이시바시는 "전 국민을 포괄하는 종합적인 의료 보장 '을 제시 한 하 토야마의 노선을 계승하고, 동년 1 월 8 일에 국민 모두 보험 을 목표로하는 것을 각의 결정 [37] [38] 하는 등 복지 국가 건설, 더 대미 자주 외교는 하루 동안 무역을 촉진하는 세계 평화의 확립 등을 기본으로 한 "5 서약 '을 내걸고 구체적으로는 경제 정책에서 이케다 하야토 를 재무 장관에 발탁て「1000 억엔 시책 1000 억엔 감세 '로 적극 재정 을 실시하고, 전국 10 개소를 9 일간 순회하는 유세 행각을 감행 자신의 신념을 이야기와 함께 유권자의 의견을 적극적으로 듣고 다녔다. 같은 해 1 월 25 일 귀경 한 직후에 집 목욕탕에서 쓰러졌다. 가벼운 뇌경색 했지만 보도는 "유세 중에 걸린 감기를 악화되어 폐렴 을 일으킨 위에 뇌졸중의 징후도있다"고 발표했다. 부총리 격인 외무 장관으로 입각 맞이할 수 있었던 기시 노부스케 가 즉시 총리 임시 대리 가되었지만, 2 개월의 절대 안정이 필요하다는 의사의 진단을 받고, 이시바시는 "내 정치적 양심에 따라 "라고 점잖게 퇴진했다. 1957 년 (쇼와 32 년)도 예산 심의하는 중대한 안건 중 행정부 최고 책임자 인 총리가 요양을 이유로 스스로 국회에 출석 주석 5] 하고 답변 할 수없는 상황에서의 사임 표명은 야당조차 긍정적이고 주석 6]해안의 대독 의한 이시바시의 퇴진 표명을 들었다 일본 사회당 의 아사 누마 이네 지로 서기장은 이시바시 맑음 감동 "정치는 쓰는 것을 바란다"고 말했다고한다. 이시바시 총리 재임 기간은 65 일에서 히가시 쿠 니노미야 나루 히코 · 가쓰라 다로 · 하타 쓰 토무 에 이어 역대 4 번째 짧음이다. 일본 국 헌법 하에서 국회에서 한 번도 연설 주석 7] 과 답변을하지 않은 채 퇴임 한 유일한 총리가되기도했다. 후임 총리는 기시가 임명되어居抜き내각 으로 제 1 차 연안 내각 이 탄생했다.

이시바시는 쇼와 초기에 「동양 경제 신보」에서 괴한에게 저격 ' 제국 의회 "에 참석 할 수 없게 당시 하마 구치 오 사치 총리에 대해"의회 운영에 지장을 초래 간결하게 퇴진 할 것 "이라고 하는 퇴진을 권고하는 사설을 쓴 적이 있었다 [39] . 만약 국회에 나갈 수없는 자신이 총리를 연임하면 당시의 사설을 읽은 독자를 속이는 사태가된다고 생각했던 것이다.

퇴진 후 편집 ]

다행히 뇌경색의 증상은 가볍고 약간의 후유증은 남아 있지만, 이시바시는 곧 정치 활동을 재개하기까지 회복했다.

1959 년 (쇼와 34 년) 9 월 해안보다 "동맹국 미국의 의사에 반하는 행위이며, 일본 정부는 전혀 관계없는 것으로한다"고 견제하면서도 중국 을 방문했다. 전 총리 · 중의원 의원하지만 정부의 일원이 아닌 돌다리는 방문하고 며칠은 좀처럼 정상과 만날 목표가 붙지 않았지만 협상에 고생 끝에 같은 달 17 일 저우언라이 (周恩來) 총리 와의 회담이 성사 했다. 냉전 구조를 타파하고 일본이 그 가교가되는 날 중미 서 평화 동맹 을 이시바시는 주장했다. 이 주장은 아직 유엔 대표권이없는 공산당 정권에게 국제 사회에 디딤돌이 될 것으로 매력적이며, 둘레는이 제안에 동의했다. 서주는 대만 ( 중화 민국 )에 무력 행사를하지 않으면 돌다리로 약속했다. "일본과 중국은 양국 국민이 손을 잡고 극동과 세계 평화에 공헌해야한다"고 돌다리 · 원주 공동 성명을 발표했다. 1960 년 (쇼와 35 년) 대륙 중국과의 무역을 재개했다. 이 성명이 후 두 일 중일 공동 성명 으로 이어졌다라고도한다.

그 후에도 몇 파벌하면서 이시바시 파의 영수로서 영향력을 가지고 해안이 주도한 미일 안보 조약 개정은 본회의에서 의결을 결석 등, 비판적인 태도를 취 자민당 내 온건파 의 중진으로 활약했다.

1963 년의 제 30 회 중의원 의원 총선거 에서 자민당은 고노 이치로 의 전 비서관의 통佳昭을 새롭게 공인. 상수 5 선거구를 자민당 공인 후보 4 명이 경쟁, 이시바시는 차점으로 낙선. 그대로 정계를 은퇴했다.

1966 년 2 월 팔다리에 마비 느낌 세인트로 가압 병원 에 입원 주치의는日野原시게아키 가 맡았다. 같은 해 11 월의 자민당 간부 · 오오쿠보留次郎의 장례식에 참석 한 것을 마지막으로 외출 기록은 없다. 1968 년 3 월에는 릿쇼 대학 학장에서 물러나 일체의 사회적 활동에서 은퇴했다. 1970 년 2 월에 다시 폐렴 세인트로 가압 병원에 입원 한 후 가마쿠라의 딸 집이나 신주쿠 구 나카 오치아이의 자택에서 요양하게된다.

1971 년 7 월에는 미국 대통령의 특사 헨리 키신저 가 방중 저우언라이 와 회담 할 때 미중 대화를지지하는 메시지를 발표하고있다. 또한, 다음 1972 년 7 월에는 다나카 가쿠 에이 내각이 성립 일중 국교 정상화 에 기운이 높아지고 있었지만, 다나카는 방중 이전에 나카 오치아이 돌다리 집을 방문하고 있으며, 다나카 방중 결과 일 중 수교가 성립하면, 이시바시는이를 축하하는 메시지를 발표하고있다.

그 후 병세가 악화되어 1973 년 4 월 25 일 오전 5시 뇌경색을 위해 [40] 자택에서 사망. 향년 90 (만 88 세 사망).

약어 연보 편집 ]

인물 편집 ]

사상 평론 편집 ]

메이지 천황 과 메이지 시대 를 기념 한 메이지 신궁 건설 계획시.
도쿄 어딘가에 한 지역을 상하고 메이지 신궁을 建つる 등이라고하는 것은 실로 어리 석음의 극치이다. 이런 것은 결코 선제 폐하 (메이지) 하나님 뜻에 맞는 것이 아니다뿐만 아니라 또한 결코 영원히 선제 폐하를 기념 모시는 까닭도 없다. 진정, 선제 폐하를 기념 모셔져 없다고 欲すれ하면 무엇보다도 선제 남겨진 사업 (참고 : 헌정 및 산업 백성의 복리)를 완성한다는 것을 생각하지 않으면 안된다. 그리하여 만약 아무런 가지 형태로 나타났다 기념물을 만들어 없다고 원하면하면 "메이지 상금」의 설정에 넘어 적당한 것은 없다. (참고 : 노벨상은 알프레드 노벨이 그 자산을 세계 문명에 대한 상금으로 남긴하여 영원히 세상 인심에 기념 된 세계의 인심을 새롭게하고 평화 문명에 공헌하기 위하여 에 "메이지 상금 '이야말로 선제 폐하의 의지와 가장 일치한다.)- 1912 년 ( 1912 년 ) 「동양 시론 "
제 1 차 대전 참전 (독일의 개전)과対支21 개 조 요구 에 대해
스펜스는 우리 정부 당국 및 국가의 외교에 처할 태도 행동을보고 우려에 참지 않는 것이있다. 그 하나는 노골적 더 영토 침략 정책 감행 그 둘은 경박 더 거국 일치 론이다. 이 두 사람은 세계를 들어 우리 적과 이루는 것으로서 그 결과는 제국 백년의 화근을 남길 것이라 않으면 안된다. - 영국이 독일을 향해 전쟁을 宣する되자 우리 국민은 일제히 일어나 논 왈 독일이 칭다오에 따르면 동양의 화근이다. 영일 동맹의 의로 독일을 구축 할 것 남양의 독도 영토를 탈취 할 것, 제국의 판도를 넓혀 대를 이루는 이때에와. 당시 스펜스는 불가를 切言하더라도, 조야를 들어 스펜스의 설명에 귀를 찌꺼기 것없이 결국 독일과 개전의 불행을 기록, 수천의 인명을 살상 한 후 이러한 영토를 유지 하기 위해 해당 대되는 육 해군의 확장이 필요뿐만 아니라 독일 미국의 큰 반감을 招ける은 물론, 또는 일영 동맹도 계속 얻지 못한 처지에 빠지기는 못한 여부를 의심된다. 실로 대 독일 개전은 최근의 우리 외교 제 한 벌 그리고 돌이킬 수없는 큰 실수이며, 그리하여 이것은 먼저, 생각하지 않을 영토 침략 정책과 경박 더 거국 일치 론의 생산물이라고 않으면ならぬ. 대 支談 판은 독일과 개전하여 청도를 취했다에서 실을 당겨 나온 실책이지만 그 우리 제국에 남겨 화근에 이르러서는 더욱 긴요하다. 우리 요구가 많은 관철하면할수록 세인은이를 큰 성공으로 축배를 드는 것이지만, 나 자신은 전혀 소견을 달리하여 화근을 드디어 생명을 무서운하는 것이다. - 이번 사건으로 우리나라가지나와 독일 깊이 한을 살 수있는 것은 물론, 미국에도 불편을 끌었다 말씀 드리겠습니다없는 사실이다. 한때 세계가 일본의 손로써 러시아의 머리를 두드려시킨 것처럼,이 제국은 일영 동맹의 파기를 시작으로 몇 나라를하여 일본의 머리를 두드려하고 일본의 입장을 전복せしむる? 아니면 연합하여 일본의 먹이를 탈환 절차에가는 것은 아닐까. 그렇다면 이번 얻은 것의 상실만으로는 도저히 끝나지 않고 어떠한 먹이를 본전도없이 다루어지는 것이다. 이것은 나 자신의 대 지급 외교로써 제국 백년의 화근을 남기는 것으로, 痛憂 두는 能わざ- 다이쇼 네 년 ( 1915 년 ) 「동양 경제 '사설
일체를 폐기 각오
우리나라의 모든것 화근은 小欲에 사로 잡혀있는 것이다. 뜻이 작은 것이다. 예 욕심을 説けり 오해당한 수많은 대 사상가도 실은 결코 욕심을 말한 것이 아니다. 그들은 단지 大欲을 말한 것이다. 大欲를 위탁 위해 小欲을 棄てよ 가르쳤다 것이다. - 만약 정부와 국민에게 모든것을 버리고 걸 각오가 있다면 반드시 우리에게 유리하게 이끌어 루에 틀림 없다. 예를 들어, 만주 스텔 산을 스텔 그시나가 우리나라에서 받으면서 일 가능성 될 일체의 압박을 스텔. 또한 조선, 대만에 자유를 허락한다. 그 결과는 어떻게 될까. 영국이든 미국이든, 매우의 곤경에 빠질 것이다. 무엇되면, 그들은 일본에만 흘리는 (와) 같은 자유주의를 채택되어 세계의 도덕적 지위를 유지 얻을 수없는에 이르기 때문이다. 그 때 세계의 작은 弱国은 일제히 일본을 향해 믿음의 머리를 아래 구루 것이다. 인도, 이집트, 페르시아, 아이티, 기타 열강 속령 지역은 일제히 일본 대만 · 조선 자유를 허락 한 바와 같이 우리로 또한 자유를 허락과 소란 경과 것이다. 이것은 실로 우리나라의 지위를 구 지역의 바닥보다 구천에 상승하고 영미 기타를이 반대의 지위에 두는 것이 아닌가.- 다이쇼 십 년 ( 1921 년 ) 「동양 경제 '사설
중앙 집권에서 분권주의로
원래 관료가 국민을지도한다고 따위는 혁명 시대의 임시 변태에 불과하다. 일반 국민이 제 몫을하게 발달 한인 후에두고 정치는 필연적으로 국민에 의해 수행되어야하며, 공무원은 국민의 공복으로 돌아 가야한다. 정치가 국민 스스로의 손에 기인는 하나는 잘 그 요구를 달성 할 수있는 정치를하고 하나는 잘 그 정치를 감독 할 수있는 의미에 다름 아니다. 따라서 정치는 가능한 한 지방 분권이 아니면 안된다. 가능한 한 그 지방 지역의 요구에 따라 얻는 것이 아니고는 안된다. 실제로 활동 사회에 민완를 체하면서 가장 우수한 인재를 자유롭게 행정의 중심으로 세워 가지고있다 제도 않으면 안된다. 여기에 기세 지금까지의 관료 정치에 본래의 중앙 집권, 획일주의, 관료 만능주의 (특히 문관 임용 令)이라는 따위 제도는 근본적으로 개혁의 필요에 불가피 들떠 수 없다. 지금 우리나라는 모든 방면에 붙어왔다. 그리하여이 국면을 타개 해 다시 일본 행운의 진전을 도모하기 위해서는, 나 자신이 지금까지 반복 할 수있는 바와 같이 소위 둘째 유신을 필요로한다. 둘째 유신의 첫 걸음은 정치의 중앙 집권, 획일주의 관료주의를 파괴하고 철저하게 분권주의를 채용하는 것이다. 이 원리에 따라 행정의 일대 개혁을 할 것이다.- 다이쇼 십 삼년 ( 1924 년 ) 「동양 경제 '사설

경제학자의 다나카秀臣은 "이시바시 단잔의 소국주의 는 정부 · 일본 은행의 적절한 정책 운영에서 일본의 잠재적 성장을 지원하고 간다는 후레 정책의 입장을 기초로하고있다"고 지적하고있다 [42] . 다나카는 ""후레의 경제학 '은 소국 주의적이며, 자국의 정책에 따라 국내의 경제 · 사회 문제를 해결하고 나라를 정책에 이용하지 않고 불간섭에서 이웃 나라와 우호를 도모하는 방안이라 할 수있다 " 고 지적하고있다 [42] .

헌법과 군대 편집 ]

일본 국 헌법 과 군대의 본연의 자세를 둘러싼 언동은 시대 상황에 따라 여러 가지 변천이있다.

1946 년 (쇼와 21 년) 3 월에 「헌법 개정 초안을 평한다 '에서 일본 국 헌법 에 관해서는 헌법 19 조 에 해당하는 초안 제 2 장 전쟁 포기를 "가장 빠른 일본은 패전국도 네 등, 다섯 등 그렇지만없이 영예에 빛나는 세계 평화의 일등 국, 예 어려워하고 일본에 어라고 주창 한 진실의 신국에 돌아설 것이다.之れ을 이겼다 통쾌한 일이 있느냐? "고 평가했다.

그러나 1950 년 (쇼와 25 년) 무렵부터는 자위 군 설치의 주장과 공산 · 사회주의와의 대결 자세 (후 스스로廃稿한 '제 3 차 세계 대전과 세계 국가 ")을 선명하게 정치인으로 도 '반 요시다'노선에 서서 헌법 개정 · 재군비 주의자로 활동했다. 이시기에는 "파국적 인 제 3 차 세계 대전이 싫다고 말한다면, 거기 (각국의 군비 전폐)까지 가지 않으면 안된다"고 안을 눌러 "그렇다면 나라를 망치고 좋다는 각오 을해야 도저히 할 수 없다 "(1952 동양 경제 신보"추궁당하는대로 ")와 현실과 이상의 차이를 보이면서 숙려 · 각오 수반하지 않는 이상론을 경고하고있다. 한편 사적으로 쓴 일기 중에서도 1950 년의 설명에서 "오늘의 세계 어라고 무 군비를 자랑하는 질병으로 가득 찬 사회에 어라고 의약을 배척하는 혹자 종류의 미신"과 비무장 중립 주장을 공적인 발언보다 신랄하게 평도있다.

1953 년 총선 에서는 하 토야마 자유당의 정책 위원장으로 정책을 총칭하여 "헌법을 국정에 적합하도록 개정」 「전쟁 부정의 정신은 국책으로 존치하지만, 전쟁 발생 방지를 위해 자위 군을 조직하기 "등을 명기했다. 이것은 훗날의 '국가로의 군비를 가지지 않고 국제 분쟁을 무력을 가지고 해결해 나가는 것이 않으면 세계에 선언 한 것은 ... 인류 최고의 선언이라고 믿고있다. 이것이 조금 시세에 빨랐다 했다는한다면 수정 부분 만 나중에 추가 ... "죠는 현대의 세대에서 논리대로되지 않는 때문에 세계 각국이 영구 평화의 이상에 불타 동일한 정신 동일한 발을 취할 때까지 잠시 정지 한다 "라는 식"는 주장 (1966 「중소기업」)에 따른다.

1957 년 (쇼와 32 년) 총리에 취임 년도 신춘 특대 호에서 "동양 경제」 「이시바시 단잔 매우 말한다」는 「유엔 대하여 의무를 가진다는 것은 군비하는 것도 생각할 수있다"며, 같은시기의 "프레스 클럽 연설 초안」에서는 「세계의 실정에서 판단하여 국가의 독립 안전을 유지하는 데 필요한 최소한의 방위력은이를 구비하는 국제 의무를 일본 국민은지지 믿습니다 하다합니다」라고하고있다. 그러나 동공에서 "인류를 구원 않습니다한다면 우리는 군비 확충 경쟁을 중지하고 전쟁을 멸종해야합니다"라고 냉전의 평화 해결과 군축을 주장했다.

미소 일중 평화 동맹을 제창하고 미래의 이상을 말하면서이긴하지만 다시 평화 헌법 의 의의를 강조 ( "이케다 외교 노선에 바란다 ')하면서 각국의 군비 아니라 국제 경찰력에 의해 평화를 지키기 " 세계 연방 "실현에 노력을 말하고있다 ( 「일본 방위 론」).

이시바시는 훗날 "나는 전쟁 단점은 도리 밖에 사실이 (군대 시절) 실탄 연습 실감이 강하게 영향을했던 것 같다" "만약 세상 사람들이 모두 전쟁을 같이 가까이 생각하면 생각이 전쟁론은 자취를 끊는 것이 틀림 없다 "( 「단잔 회상」) 고 회고하고있다. 전쟁을 혐오 한 단잔이지만, 그에게 군대 경험은 평화에 대한 사색과 공공 생활 훈련으로 열매가있는 것이었다 보인다.

헌법은 국민에게 의무를 지우는 것인가라는 논의에 관해서는 전제 독재에 대항하기 위해 주권을 억제하려했다 "19 세기의 헌법 '에서 휴식을 설득, 민주주의 국가에서는 국민이 권리 을 가진 이상은 의무를 자각해야 안된다고 주장했다. "의무 규정에 주도 면밀하지 않은 헌법은 진정으로 민주적 인 것이라고는 할 수 없다"고 헌법의 의무 규정의 충실을 바랬다.

에피소드 편집 ]

이시바시 총리를 퇴진했을 때의 맑음은 국민에게 높게 평가되는 경우가 많은데, 변호사 의 마사키 히로시 는 사적인 감정으로 '공무 (총리의 지위)을 포기했다 "고 강하게 비판하고있다. 원래 자민당 총재 선거에서 1 위 우위였다 기시 노부스케에 대항하는 형태로 2 위 후보였던 돌다리와 이시이光次郎2 위 · 3 위 연합을 이루어 1 위 당선을 완수함으로써 해안 총리를 저지하고 이시바 총리 총재가 탄생 한 경위가 있었다. 그러나 겨울철에 자신의 몸 상태를 고려하지 유세를 한 데 감기 잠 포함, 절대 안정이 필요하다는 의사의 진단을받은 이시바시는 연합 상대이지만 입각 넣어 않았다 이시이를 삽입 두는 형태로 입각 부총리 격 외상으로 맞이하고 있었다 기시 노부스케을 즉시 총리 임시 대리로 총리 총재를 선양하고 평화롭게 기시 총리 총재가 탄생했다. 예산 심의가 코앞이지만 자신의 불 고려로 인해 드러 누워 한 것으로, 무거운 책임 총리로서 처음 국회에서 한 번도 연설과 답변을 할 수없는 상태 총리 퇴진하는 어리 석음을 국민 에 노출 된 끝에 차기 총리 총재를 당초의 조합 상대의 이시이가 아닌 총재 선거의 라이벌이었던 기슭에 전달 총재 선거시의 해안 총리 저지라는 이념을 휴지 조각이 된 셈이다.

그렇다면 동양 경제 신보 사에서 돌다리 「전집」이 제작 될 때, 편집자는 전집 월보 쓰기를 마사키에 의뢰했다. 일단 이시바시의 부하이기도 한 그 편집자는 이시바시의 예찬 일색의 기사를 모은 것이 하나의 의견에 치우 치지 언론의 필요성을 주창해온 이시바시의 신념에 위배된다고 생각했기 때문에 있다. 마사키가 쓴 이시바시에 대한 비판은 그대로 게재됐다.

인연 깊은 야마나시 현 고후시 에는 「야마나시 평화 박물관 · 이시바시 단잔 기념관 '이있다.

기타 편집 ]

1952 년 (쇼와 27 년) 12 월부터 1968 년 (쇼와 43 년)까지 릿쇼 대학 의 학장 을 맡고있다.

영전 편집 ]

가족 · 친족 편집 ]

스기타 집 편집 ]

생가
  • 아버지 일 천 ( 일련 종 승려 ·身延山久遠寺81 세法主)
    단잔은 1894 년 (메이지 27 년) 9 월 아버지가 시즈오카 현 에転住하게되면 야마나시 현 나카 코마 군 거울 나카 조 촌 ( 밝은 마을 → 밝은 도시 를 거쳐 현재의 미나미 알프스시 )의 길이 먼 사원 의주지를 맡고 있던 모치즈키日謙에 맡겨졌다.
    단잔은 "만약 모치즈키 사에 맡겨지지 않고, 아버지 아래 성장한 후 또는 그 너무 엄격한 더 견딜 않고 것이지 있었을지도 모르지 않는 ... 모치즈키 고승의 훈도를 받아 천민 것은 일생 행복이었다. 그렇게 해 준 아버지에게 깊이 감사한다 "며"단잔 회상」에 적고있다 [43] .
  • 어머니 ·  (다다미 도매상 이시바시藤左衛門의 차녀)
    단잔의 ' 나의 이력서」에 의하면, "어머니는"금 "이라며 잔디二本榎의 상당히 큰 다다미의 딸로 대대로 열정적 인 니치렌 종의 신자였다.이 다다미은 내가 어린 시절은 상당히 번성했던 것 같지만, 주인 인 외삼촌이 죽은 후에 였을 것이다, 부서져 버렸다. 나는 사정이있어서이 어머니의 성을 자칭하고, 이시바시는 것이다. 」라고한다.
  • 다른 여동생이 2 명, 남동생 1 명

돌다리 집 편집 ]

자가 ( 도쿄도 )

기타 친척 편집 ]

평가 편집 ]

스즈키 유키오의 「閨閥결혼 굳게되는 일본의 지배 집단 "(1965 년) 89 페이지에 의하면,"장남湛一가 자산가 아카喜介의 딸과 결혼하고 그 일족들과 조금도閨閥적인 형태가되었다 일족은 원래 자오 광업 이사 아카 시로 원래 치요다 화재 부사장 아카 고로 등이 눈ぼしい. 또한 장녀의 남편, 치바皓가 외교관으로 알려져 있었다 따라서閨閥과 정권의 관계를 운운하는 같은 재료는 없다. 그의 적극적인 경제 사상과 학식, 능력을 당 안팎에 팔리고 재상의 지위를 전했다 것이지, 이시바시 정권과閨바투는 무관하다. "고 말했다.

저서 (주로 사후 간행) 편집 ]

평론집 편집 ]

  • 이시바시 단잔 전집 (전 15 권 전집 편찬위원회 편, 동양 경제 신보 사, 1970 - 72 년), 보권 "이시바시 단잔 사진 보"(1973 년)
    • 신판 「이시바시 단잔 전집」(전 16 권, 상동, 2010 - 11 년), 補訂巻은 제 15 · 16 권
  • 이시바시 단잔 평론집 ( 마츠오尊兊편, 이와 나미 문고, 1984 년, ISBN 4-00-331681-9 / 와이드 판 1991 년, ISBN 4-00-007005-3 )
  • 소 일본주의 - 이시바시 단잔 외교 논집 (마스다 히로시 편, 잔디思社1984 년 5 월, ISBN 4-7942-0186-9 )
  • 이시바시 단잔 평론 선집 ( 동양 경제 신보 사 1990 년 6 월, ISBN 4-492-06052-9 )
  • 리버럴리스트의 경종 이시바시 단잔 전집 1- 경제론 (길이 유키오 편, 동양 경제 신보 사 1995 년 11 월, ISBN 4-492-06081-2 )
  • 경제의 면모 이시바시 단잔 저작집 2- 경제론 (나카무라隆英편, 동양 경제 신보 사 1995 년 11 월, ISBN 4-492-06082-0 )
  • 대 일본주의와의 투쟁 이시바시 단잔 저작집 3- 정치 · 외교론 (오리 타케히코 편, 동양 경제 신보 사, 1996 년 1 월, ISBN 4-492-06083-9 )
  • 개조는 진심 이시바시 단잔 저작집 4- 문예 · 사회 평론 (谷沢永一편, 동양 경제 신보 사 1995 년 12 월, ISBN 4-492-06084-7 )
  • 단잔 독본 지금 이야말로 자유주의, 재건하라. 후나 바시 요이치 편, 동양 경제 신보 사, 2015 년). 논설 70 편을 선정 해설.

회고록 일기 편집 ]

각주 편집 ]

각주 사용 ]

주석 편집 ]

  1. 1956 년 4 월 자민당 총재 선거 는 사실상의 신임 투표였다.
  2. ^ 단잔의 ' 나의 이력서 '에 따르면 "아명은 쇼조 (清三)라고 애칭은 세이챤였다."신고 된 날 세 때 우리 자신을 반성 "라는 논어 의 유명한 말씀에서 나오는 캐릭터이다 "라고 말했다.
  3. ^ 단잔의 ' 나의 이력서」에 의하면, "아버지가 젊은 나이에 입문 한 야마나시 현의昌福寺는 니치렌 종 사원은 옛부터 담수의 글자를 이름에 붙인다면 독수리가 있었다. 아버지는湛誓라고 칭하고 나도 이런 이유로 중학교를 졸업 할 무렵 단잔으로 개명 한 것이다 "고 말했다.
  4. ^ 단잔은 "단잔 회상」에서 「메이지 오년 삼월 중학교를 졸업하면 도쿄에 나섰다. 유월하거나 칠월 하나에있는 제일 고등학교 의 입학 시험을 위해서 있었다. ... 칸다 니시키 쵸의 정규 영어 학교 에 다녔다. ... 여기에서 나는 입학 시험을 준비하기로했다. 그러나 나는이 학교에와보고 놀랐다. ... 큰 교실에 학생들은下駄履き상태로 뒤범벅 들어가서 출석부를 붙이는 것도 아니다. 인기있는 선생님의 시간은 넘쳐 서있는 학생들도있다. 그런가하면 어느 선생님의 시간은 손에 꼽을 정도 참석자가 없다. 게다가 강의 도중에 빨리 소지품을 정리하고 돌아가는 학생들도있다. 시골의 난 그래도 학교라고 황당한 것이다. ... 입학 시험 준비를위한 그 당시 학교는 회상 봐도 유쾌한 것은 아니었다 "고 쓰고있다.
  5. 일본 국 헌법 제 63 조 에서는 총리는 의회에서 요구되는 경우 국회에 출석해야한다 규정이 존재한다.
  6. ^ 요양하고 있던 총리 의회 결의까지 국회 출석을 요청하는 것은하지 않았다.
  7. ^ 총리로 맞이한 제 26 회 정기 국회 시정 방침 연설 은 해안이 대독하고있다.

출처 편집 ]

  1. 우에다 마사아키 외 감수, 산세 편찬 소 편 「콘사이스 일본 이름 사전 제 5 판」산세이도 2009 년 104 쪽.
  2. ^ 강 (2014), p.1
  3. ^ 마스다 (1995), pp.3 - 4,
  4. ^ 마스다 (1995), pp.3 - 4 강 (2014), p.1
  5. ^ 마스다 (1995), p.4
  6. ^ 마스다 히로시 「이시바시 단잔 리버럴리스트의 진수 "3-4 페이지
  7. ^ 강 (2014), p.2
  8. ^ 강 (2014), p.2
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  14. ^ 아사카와 (2008), p.15
  15. ^ 아사카와 (2008), p.17
  16. ^ 아사카와 (2008), p.18
  17. ^ 아사카와 (2008), p.19
  18. ^ 마스다 히로시 「이시바시 단잔 리버럴리스트의 진수 "9 페이지
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  30. ^ 아사카와 (2008), pp.79 - 80
  31. ^ 마키노 · 고 보리 (2014). 전시 경제 특별 조사실 자료는 나고야 대학 대학원 경제학 연구과 부속 국제 경제 정책 연구 센터 정보 자료실의 웹 사이트 에서 열람 가능하다.
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  42. b 다나카秀臣"경제 정책을 역사에 배운다」소프트 뱅크 크리에이티브 <소프트 뱅크 신서>, 2006 년, 212-213 쪽.
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참고 문헌 편집 ]

전기 편집 ]

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  • 츠 츠이清忠"이시바시 단잔 한 자유주의 정치의 궤적」중앙 공론 사 <中公叢書> 1986 년
  • 江宮타카유키 '정치적 양심에 따릅니다 이시바시 단잔의 생애 "河出書房新社1999 년
  • 佐高信"좋은 일본주의의 정치가 지금 왜 이시바시 단잔 또는"동양 경제 신보 사, 1994 년
  • 半藤무익한 "싸우는 이시바시 단잔 쇼와 역사에 이채 롭다 굴복없는 언론 "동양 경제 신보 사, 2008 년 (신판). 다른中公문고 1999 년 / 치 쿠마 문고 2019 년
  • 마스다 히로시 「이시바시 단잔 사상은 인간 활동의 근본 동력 이니라 " 미네루봐書房일본 평전 선 > 2017 년
  • 보판正康"이시바시 단잔의 65 일 '동양 경제 신보 사, 2021 년

연구 문헌 편집 ]

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  • 강 카츠미 「이시바시 단잔의 전후 점령가는 소 일본주의 '동양 경제 신보 사, 2003 년
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  • 타나카 히데유키「일본 자유주의와 이시바시 단잔 지금 정치가 필요로하는 것 "講談社選書메찌에 2004 년
  • 길이 유키오「이시바시 단잔의 경제 사상 일본 경제 사상사 연구의 시각 "동양 경제 신보 사, 2009 년
  • 우에다 미와 「이시바시 단잔 론 언론과 행동 "吉川弘文館 2012 년
  • 마츠오尊兊「근대 일본과 이시바시 단잔 "동양 경제 신보」의 사람들"동양 경제 신보 사, 2013 년
  • 마키노 邦昭 · 고 보리 사토시 「이시바시 단잔과 "전시 경제 특별 조사실"- 나고야 대학 소장 "아라키 코타로 문서"보다 ""자유 사상」제 135 호, 2014 년

관련 항목 편집 ]

관련 인물 편집 ]

외부 링크 편집 ]

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