社会学の中の東京学派
園田 茂人中筋 直哉矢野 善郎米村 千代出口 剛司佐藤 健二
科学研究費 基盤研究(B)
「東京学派の研究」(代表 中島 隆博)
ブックレット東京学派
Vol. 2
2021 年2月
社会学の中の東京学派
本ブックレットは、2020年9月26日(土)にオンラインで開催されたワークショップをもとに加筆・編集したものです。
本研究はJSPS科学研究費JP18H00618(基盤研究(B「)東京学派の研究」)の助成を受けた成果です。
1
趣旨説明
… ……………………………………………………………… 1
園田 茂人
2
第1報告 福武直の選択:東京学派、社会学の場合 … …………… 10
中筋 直哉
3
第2報告「 聖典」なき正統?「預言者」なき学派?
――東京大学の社会学におけるヴェーバー(の希薄さ)… ……… 29
矢野 善郎
4
コメント1 …
………………………………………………………… 45
出口 剛司
5
第3報告 家族研究における戦前/戦後の諸潮流
-家族変動論の一つの困難- … …………………………………… 52
米村 千代
6
第4報告 東京学派の中の「社会学アジア・コネクション」:
その歴史的回顧と教訓 …………………………………………… 67
園田 茂人
7
コメント2 …
………………………………………………………… 87
佐藤 健二
8
質疑応答・総括討論 … ……………………………………………… 97
9
報告・コメントに登場する「東京学派の社会学者」一覧
(1950年以前に生まれた者に限る) … ……………………………… 111
整理:園田 茂人著者紹介 …
………………………………………………………………… 123
本文中の「人物〇」は、巻末の「報告・コメントに登場する「東京学派の社会学者」一覧」での番号に対応しています。
園田:おはようございます。
10時になりましたので、研究会を始めたいと思います。まずは本日のアジェンダとワークショップの目的・趣旨について、ご説明申し上げたいと思います。
ワークショップの構成
このワークショップは東京学派ワークショップと題され、「社会学の中の東京学派」と名付けられています。
これが本日のプログラムです(スライド1参照)。今ちょうど10時ですが、これから20分ほど、プログラムの趣旨についてご説明いたします。
スライド1 社会学の中の東京学派:プログラム
その後4人の登壇者が40分程度で、それぞれの角度から「社会学の中の東京学派」というテーマに切り込んでいただきます。
第1報告は10時20分から法政大学の中筋先生に「福武直の選択」というタイトルでご報告いただきます。
40分後の11時に第2報告として中央大学の矢野先生に「『聖典』なき正統、
『預言者』なき学派?」とタイトルで、東京大学におけるマックス・ウェーバーの受容に関してご報告をいただきまして、11時40分に東京大学の出口先生にコメントをいただくことになっています。
12時から1時にかけて昼休みを取り、午後の部に移ります。午前の部は私、園田が司会をさせていただきますが、第4報告がありますので、午後の部は中筋先生に司会をお願いする形で全体の運営を進めていきたいと思います。
第3報告は千葉大学の米村先生に「家族研究における戦前/戦後の諸潮流」ということで、家族研究をめぐる戦前、戦後の変化に焦点を当ててご報告をいただきます。
最後の第4報告は1時45分から私が「東京学派の中の『社会学アジア・コネクション』」というテーマで、東京大学に集う研究者や学生、その研究が、どのような日本とアジアの結び付けてきたかについて、130年という長い歴史的スパンから、その歴史を回顧してみたいと思います。
第4報告が終わりましたら午後の部の総括ということで、東京大学の佐藤健二先生にコメントをいただきます。
出口先生、佐藤先生にはそれぞれの報告に関してコメントをいただきたいと思いますが、個々の報告で触れられなかったポイントや、もう少し違う見方ができるのではないかといった点も含めてコメントをいただければと思います。
その後、全体の質疑応答、総括討論を行い、3時30分にはこの会合を終えたいと思います。
この2つのセッションとコメンテーター、報告者の構成に関して、一言申し上げます。今回の4名の報告者には、共通した特徴があります。特に意識してこうした人選をしたのではないのですが、全員50歳代の研究者です。しかも本郷の社会学研究室で助手を経験しています。勤務先や行っている研究面では本郷の研究室とは距離があり、半分中にいながら半分外にいる、微妙なポジションにいます。また人生を総括するには若く、総括しないにしては年を取っているという、年齢的にも中間的な位置にいます。
佐藤先生のように、社会学研究室で責任ある立場についている方が取り上げにくい点や気付きにくいポイントを、半分部外者であるがゆえの気楽さ、そうであるがゆえの観察上の利点も多々あると思いますので、それを生かして報告していただければと思っています。
報告の順番については特段の思慮はないのですが、すでに第1ラウンドの私的な研究会で、この順番で行っておりまして、この順番なら各報告者が同じぐらいの準備時間が取れたであろうという身勝手な理由から、こうした順番になっています。
最後に、出口先生、佐藤先生という現在の東京大学の社会学研究室を担われている先生方にコメントをいただき、議論を進めていきたいと思います。
ワークショップの趣旨趣旨の説明に移ります。
そもそも東京学派とは何か。この言葉を聞いてぴんとこられる方は、ほとんどいないと思います。本日の4名の報告の中でも東京学派とは何か、その内実はあるのか、あるとすれば何なのかといった論点に触れられるはずですが、東京学派は科研費の基盤研究(B)で採択されたプロジェクトで、東洋文化研究所の同僚である研究代表の中島隆博が作り上げた問題発見的概念です。東京学派という概念を作り上げたところで何ができるかを考えてみるという、知的なチャレンジをプロジェクトメンバーに共通の課題として課し、この東京学派という概念をどのような形で実体化できるのか、できないのか、できるとすればそれは何なのかという大きな問いに近づこうという意図のもと、このプロジェクトが始まりました。
なぜ東京学派という仮想的な概念を取り上げるのか?次のスライドをご覧ください。このスライドは、アマゾンの洋書コーナーで「京都学派」「東京学派」という2つのキーワードをいれ、出てきた本の書影を集めたものです。
スライド2 英語文献における「京都学派」と「東京学派」
京都学派(Kyoto School)をキーワードにして検索し、文献や過去の研究を探そうとするとたくさん出てきます。スライドの左側にある4冊(The Kyoto School、The Philosophy of the Kyoto Schoolなど)はその一部で、それ以外にも多くの書籍が出てきます。これに対して東京学派(Tokyo School)という言葉を入れて検索しても、本は1冊も出てきません。右側に The Social Sciences in Modern Japan、The History of Japanese Psychology の2冊が取り上げられていますが、左側の書籍は宇野弘蔵や丸山眞男といった戦後の東京大学を中心に社会科学をリードした研究者に焦点を当てており、右側の書籍は元良勇次郎や松本亦太郎といった東京帝大の心理学研究室を作った研究者――この2人は同志社英学校の草創期の学生でした――に焦点を当てています。このように、個別のディシプリンや特定の人間に焦点を当てているだけで、2冊とも東京学派という表現を書名に用いていません。
中島隆博に言わせますと、京都学派も当初、実体があったわけではなく、戸坂潤が若干の揶揄を込め、京都大学の西田幾多郎や田邊元の哲学を京都学派と名付けたところ、これが知的なジャーゴンとして定着し、国内ばかりか海外にもスピルオーバーして今日に至っているとのことです。このように、京都学派といった名称を使うことによって特定の研究者集団による知の生産やその影響をめぐる問題群を炙り出し、それをめぐって国際的な討論が起こるといった現象がすでに生まれているのですね。これに対して、東京学派については、幸か不幸か、こうした事態になっていない。では、東京大学における研究者集団を対象にした研究が行われていないから、海外で関心が抱かれていないから研究する価値がないのかと言えば、必ずしもそうと言えないのではないか。そう考えました。
そこで、130年強に及ぶ東京大学の人文系の学問に焦点を当て――必ずしも理系の学問、例えば建築学や都市工学などを排除するわけではないのですが――、それぞれの学問分野から東京学派として総括できるような特徴が析出できるかできないか、できるとしたらどのように実体化できるかという問いを共有し、研究チームを作りまして、私が社会学の担当ということで、今日に至っています。研究チームには、思想・哲学を担当する研究代表の中島さん以外に、中国文学を担当する大木康先生、宗教学を担当する馬場紀寿先生と鍾以江先生、日本史学を担当する松方冬子先生、経済学を担当する小野塚知二先生など、東大の本郷キャンパスを拠点に研究している方々がおられます。
社会学と「東京学派」をめぐる個人的経験
そもそも東京学派をめぐって議論する必要があるのか。もちろん、「ある」と思っているので、この研究会が成り立っているのですが、中島隆博さんが科研費の申請をする際に、研究分担者となった個人的な経験が2つありますので、これをご紹介したいと思います。
私は長く東京大学の外で教員をしてきたこともあり、東京学派という概念を作る必要性について考えたことがなかったのですが、2009年に東洋文化研究所に招聘されて19年ぶりに母校に戻り、いろいろな作業をする機会がございました。
大きな契機が2つあったと思うのですが、1つ目は東洋文化研究所に戻って2年目の2010年に、日本学術振興会のアジアアフリカ基盤形成事業に「アジア比較社会研究のフロンティア」という3年プロジェクトを応募し、採択されたことです。そこでアジアの社会学関係者と、個々の社会学が抱える歴史的特徴について意見交換をする機会がありました。
https://ricas.ioc.u-tokyo.ac.jp/aasplatform/achivements/2012_as.html
アジア各地で社会学がどのように発展し、どういった問いを立て、どのように研究が行われてきたかを共有するため、私的な研究会を3、4回行い、最後に北海学園大学で開催された日本社会学会大会の場で「東アジア共通の社会学のテキストは可能か」というパネルディスカションを行いました。歴史学者は「東アジア共通の歴史教科書は可能か」を議論してきましたので、それにあやかり、東アジアに共通した、しかし英語圏やドイツ語圏とは異なる社会学のテキストは可能なのかという少々トリッキーな問いを立て、パネルを組み立てたのですが、私的な研究会の場も含めて議論をして、面白いことに気づきました。
例えば、「社会学のローカル化」という考え方をめぐって、アジア域内で温度差があることがわかりました。アジアの多くの国で、社会学は戦後、アメリカから輸入されています。ところが、日本や中国では戦前から社会学が導入され、その「ローカル化」が重要な知的課題とされてきましたが、ほとんどのアジアの社会学者は日中におけるこうした知的潮流があったことを知りませんし、関心もありません。
また現地の事情にカスタマイズされた概念は必要なのか、自分たちに独自の社会学は必要なのかという論点をめぐっても、アジア内部で意見が分かれています。
シンガポールの場合、圧倒的な英米の影響を受け、用いるテキストも英米の諸大学のものとほとんど変わりません。国立シンガポール大学の先生方は、「脱植民地化」のような議論はしているものの、シンガポールに特有の社会学があるのかといった問いは存在していないと言っていました。
これに対して東アジア――韓国も中国も台湾も、もちろん日本も――の場合、それぞれが英語以外の言語を用いて社会学を研究・教育をしていますし、自分たちの社会にはユニークさがあり、欧米の理論や枠組みだけでは分析できないと考えがちです。輸入学問としての社会学に飽き足らず、概念や問いの立て方、研究方法でもローカル化の工夫をしなければいけないとする考え方は東アジアで一般的ですが、東南アジアでは必ずしも一般的ではありません。
興味深いことに、「東アジア共通の社会学のテキストは可能か」という問いを共有してくれた台湾の蕭新煌氏や香港の呂大樂氏は、3年プロジェクトが終了した後、蕭新煌氏はグローバルな台湾研究(Global Taiwan Studies)、呂大樂氏の場合にはグローバルな香港研究(Global Hong Kong Studies)といった旗を掲げ、自分たちの置かれてきた知的生産のあり方を、グローバルな文脈で考えようと主張するようになりました。そして彼らは台湾や香港以外の地域で、これらの地域を研究している研究者と連携し、知的対話を進めるようになったのですね。特定の地域に固着することで、そこから普遍的な議論を導出できないか、考えるようになったと言ってもよい。
プロジェクトの開始当初は、アジア域内の比較を試み、域内の社会学に共通点が見られるかを問うていたのですが、その後プロジェクトの参加者たちは、私も含め、各地で行われてきたローカルな知的な営みを、より広い文脈から捉え直そうと思うようになりました。これが東京学派という議論が必要ではないかと思うようになった、私的な契機の1つです。
もう1つの契機は、より生々しい話ではあるのですが、この3年プロジェクトが終わった頃から、大学本部の仕事にかかわることになりました。特に力を入れたのが全学レベルでの交換入学プログラムの充実です。
東京大学は長い間、個別部局でしか交換留学プログラムを運営してきませんでしたが、大学レベルでの交換留学プログラムを作ろうとしていました。もっとも、学生を海外の協定校に送り出すには、協定校の学生を受け入れなければいけないわけで、となれば、東京大学にやってきたいと思わせる必要がある。自然科学ならば研究の良否が重要なのかもしれませんが、人文社会系となると、東京大学でないと知ることができない学術の存在が、学生を呼び込む大きな誘因になるのではないかと考えました。
協定関係の仕事をする中で、LSE(London School of Economics
and Political Science)の担当副学長とお会いする機会があったのですが、そこでのやり取りも刺激的でした。担当副学長曰く、「イギリスの大学に多くの留学生がやって来るのは、どこでも学べる学問――金融政策や政治学など――を学ぼうとしてというより、イギリスの政治体制やイギリスの政治哲学など、イギリスに固有な問題を知りたいと思っているから。実際、留学生からはそうした授業へのニーズが高い」と。
そうだとすると、学生が世界的に循環する中にあって、日本に、東京大学にやって来る学生たちは、日本の、東京大学の何について知りたいと思うだろうか、教員としてわれわれは何を教えることができるのだろうか。東京大
学ではITASIA(「Information,
Technology, and Society in Asia」の略称、アジア情報社会コース)という英語プログラムで教え、指導学生も留学生ばかりという環境にあって、この問いは切実なものでした。
日本の社会学の歴史を日本内部の文脈だけで見ていると、見えないもの、問われないことがたくさんある。英語圏における東京学派の扱われ方という論点に関わりますが、われわれが行ってきた知的作業を、今までとは違うよりグローバルな文脈に落とし込むことで、新しい問いが見つかるかもしれない。東京学派に内実があるとすれば、われわれはこれを積極的に海外に発信していくべきではないか。そんなことを考えたのです。
といっても、あまりに抽象的ですから、具体的に、私の出身である東京大学の社会学がどんな知的な特徴を持っていて、そこにどのような性格が見られるのかという大きな、しかし答えるのが難しい問いに逢着した、というわけです。
「東京学派」研究をめぐる大きな問い
最後に、本日扱うことになる主要な(潜在的な)問いを列挙してみました。これらの問いは、答えられるかわかりませんし、本日の報告に直接関連するかどうかわかりませんが、3つぐらいの問いがあるのではないかと思っています。
1つ目は、東京学派に所属する人々の研究の内容や方法、問いにどういった特徴が見られるのか、そしてどうしてそのような特徴を持っているのかといった問いです。もっとも時間的な流れの中で見てみないと、学派の特徴は把握しにくいので、研究者たちが行っている知的な文脈をマクロな環境に一度置き、その時々の時局や海外での研究動向の影響――ご存じのように社会学は輸入学問として始まりましたので、社会学研究に関する海外の動向は、日本での活動に強く影響を与えている可能性があります――、国内における知的ニーズや知の生産構造、そもそも誰が知識を必要としているのかといった知のパトロネージの問題を扱わなければなりません。これが第一の課題です。
2つ目は、学派の形成には時間が必要ですから、特定の研究がどのように生産/再生産されてきたか、あるいはされてこなかったとするとそれはどうしてなのかという、歴史に関わる問いがあります。
最後に、学派形成にはメンバー間の凝集性が必要ですが、その凝集性がどのような特徴を持っているのか。利益共有による凝集なのか、それともイデオロギー・価値の共有なのか。凝集性がないとすると、学派は成立していないと考えられますが、このように歴史的な縦の流れと、研究者同士の横の結び付きを十分に意識しつつ、社会学研究にあって東京学派と呼べるものが存在しているのか否かといった、本質的な問題も含めて議論ができればいいと思っています。
それでは、第1報告者の中筋先生にバトンタッチをして、報告を始めていただきたいと思います。どうかよろしくお願いいたします。
2 第1報告 福武直の選択:東京学派、社会学の場合
―― 中筋 直哉(法政大学社会学部 教授)
問題関心と研究方法
法政大学の中筋です。今日の発表は「福武直の選択」というテーマで行います。最初に、東京大学で研究されてきたさまざまな学問分野の中での社会学の特徴を考えてみたいと思います。
最近日本社会学会が一般社団法人化して、中心メンバーである代議員を選挙で選びました。その名簿を見ましたら多くが先輩、後輩で、これはいったい何なのだろうと思いました。私が学生の頃よりも東大系列の人が増えているのではないか。ただ、私が学生の頃と比べて、東大の先生が言ったことをみんなビクビクしながら拝聴するといった支配的な空気はなくなったように思います。米村千代先生がご専門の同族団理論で言いますと、分家は増えたけれど本家の統制力は弱まっているという印象です。では他の学問分野はどうなのか、同じことが起こっているのか、社会学だけが非常に変わった動きをしているのか、といった問題を考えられるのではないかと思います。社会学に限ると、東大中心でやってきたことがよかったかどうかという問題を考えてみたく思いました。
次に研究方法についてお話ししたく思います。社会学者の悪いクセは方法論に固執するところです。社会学ですから集団や組織に照準して、これから論じる福武直(人物1)の「村落社会
の構造分析」であるとか、最近の流行ですとネッ 福武直
トワーク分析などを適用すべきなのでしょうが、 福武直『福武直自伝 社会学と社会的現実』(1990, 東京大今日は一人の研究者の研究歴に照準する、コメ 学出版会)巻頭写真よりンテーターの出口剛司先生がご専門の思想史的な方法を採用したいと思います。
ただし1つ留保をつけたいのです。思想を完成品として捉えるのではなくて、思想が作られていく現場、作田啓一先生の言葉を使うと「生成」のプロセスに照準したい(作田啓一, 1995,『 三次元の人間』作品社)。それも何か神秘的なものではなく、近頃流行の行動経済学のように合理的選択のシリーズとして捉えて、それぞれの選択を可能にした選択肢集合に考察を広げ、さらにその選択肢集合を決めているより構造的な背景に考察を広げていくという風にやってみたい。それもまた社会学的方法と言えるのではないかと考えます。もっともこのアイデアは受け売りで、大学院に入りたての頃、先輩の佐藤俊樹先生の論文から学びました(佐藤俊樹, 1988,「 理解社会学の理論モデルについて」『理論と方法』3(2))。
福武直という対象
今日の対象である社会学者福武直について紹介します。第二次世界大戦後日本の社会学は急速に発展しましたが、その立役者と言っていい、いろいろな活躍をした人です。ライフヒストリーを見ますと、1943年に東大の助手から特研生になっていますが、特研生というのは東大とごく一部の大学の優秀な学生が徴兵されずに済むように作られた特殊な身分で、いったん助手にしたのを特研生に戻すくらい、当時の社会学研究室の宝だったのだと思います。
なお福武は1917年生まれですが早生まれで16年の学年です。このあたりの世代は生まれ年によって兵隊に行ったか行かなかったかが命運を分けたところがあります。中野卓先生(人物2)のように1920年前後の生まれの人が戦争で一番ひどい目にあったのではないかと思います。
著作集の諸論文以上に私が大事だと思いますのは、1952年に『社会学』という題の、戦後初の標準的な教科書を日高六郎先生(人物3)と共著で出したことです。また1958年に『社会調査』という教科書も出しまして、どちらも時代は変わってもスタンダードとして通用するものだと思います(両者とも1975,『福武直著作集第2巻』東京大学出版会に収録)。さらに、専門外の方には分かりにくいのですが人文社会科学には「講座」というシリーズ企画がありまして、各巻各章の執筆者に当該の学問分野の研究者を網羅することによって企画者の知的な支配を確立するものなのですが、1957年に東大出版会が出した表紙が黄色の講座、1963年に有斐閣が出した表紙が青色の講座、1972年に東大出版会がもう一度出した緑色の講座と3回も講座を企画して、戦後日本の社会学のメインストリームを作りました。
そのうえ人文社会科学全体にも東大の中にも、ものすごい人脈を持っていまして、たとえば経済学の有沢広巳や法学の南原繁、農学の東畑精一といった学界の大親分たちにかわいがられたり、東大紛争のときの法学部の加藤一郎と経済学部の大内力と福武がトロイカ体制で事態の収拾に当たったりというような、絶対的な人脈を持っていました。今は福武のような人は人文社会科学界にも東大にもいないのではないかと思います。
さらに国政にも深く関与していまして、1961年の農業基本法制定や1885 年の国民年金制度改革といった重要な政治的決定に深く関与しました。ここまで政治に関与した社会学者も、後にも先にも福武だけなのではないかと思います。
私自身が福武をどのように経験したかと申しますと、大学院に入った1989 年に福武は亡くなりまして、当時助手だった園田茂人先生に引率されて葬儀の手伝いに行きました。青山葬儀所で葬儀が行える社会学者も、後にも先にも福武だけなのではないかと思いますが、実に多くの社会学者や他分野の学者が参列して、これが有名な何々先生かと思いながら受付をしていました。そのときたった一人で来てたった一人で去って行ったように感じた人がいました、私はたまたま顔を知っていまして、「ああ、日高六郎だ」と強く印象に残ったのです。その後大学院を終え、助手から山梨大学に転出したのですが、そこには前任者の塩入力先生が集めた膨大な書籍が残されていて福武の著作集もありました。最初の夏休みになぜか耽溺した記憶があります。
その著作集を細かく論説する余裕も力もありませんので、私が好きな箇所を2つだけ抜き出しました。1つは福武が戦後最初に書いた論文だと思いますが1947年の「社会学の現代的課題」という論文で、カール・マンハイムの同じ名前の論文から題を取ったものだと思います。
かくて社会科学は、人間の真の解放のために、社会の全体的実質的合理化のために、かかる矛盾の分析を通じて新しき段階の可能性を示さなければならない。
「社会学の現代的課題―人間の解放と社会の合理化のために」
(1975『福武直著作集第1巻』東京大学出版会)
福武は社会の合理化を社会主義化として追求したと評価されてきたのですが、この論文のキモはそこではなく、その前に「人間の真の解放のために」という言葉がある点です。「人間の解放」とは誰が最初に言い出した言葉なのか私は知らないのですが、日本の社会学を学ばれた方は、見田宗介先生(人物4)より前に福武が言った言葉だったのか、と驚かれると思うのです。
一方、社会調査については1964年の「社会学の方法をめぐる自己反省」という論文が私は大好きです。社会調査の第一の方法は質問紙によるアンケート調査だと言っていまして、これも驚きです。
その方法として、第一に考えられるのは、質問紙による意見調査である。この種の調査は信頼しがたいものとして貶価される場合があるが、私はこれはこれとして重視してよい方法だと考える。(中略)それにしても、この種の調査だけで、社会的人間を把握することはできない。そこでもっと微細に個人の具体的な意識や行動を追求する調査が行われるべきであり、事例研究法の意義が見直されなければならない。
「社会学の方法をめぐる自己反省」
(1975『福武直著作集第3巻』東京大学出版会)ソリッドなデータを使って計量をやる人はアンケート調査なんかと馬鹿にしますし、質的なフィールドワークをする人もアンケート調査なんかと否定的に語ることが多いのですが、福武はそこにこそこだわっていました。人間の解放という課題とアンケート調査という方法が結び付いているというのは、非常にユニークな社会学のあり方として再評価し得るのではないでしょうか。
福武に対する後代の評価を見てみましょう。最初に挙げたのは私の師匠である蓮見音彦(人物5)ですが、まさに秀才で、師匠の福武の言ったとおりにまとめています。
民主化、人間解放という方向での新たな社会の建設を志向し、そのための社会分析を担う学問として、現実的な社会学の樹立と発展に精力的に取り組んだ。(蓮見音彦, 2008『, 福武直』東信堂)
これに対して同じ福武ゼミ生ではあったものの弟子にならなかった富永健一先生(人物6)は、彼はいろいろ言っていたけれど何もやらなかった、みんな空っぽで、ただ、あっちに行けと言うのでみんながそちらにわーっと行って、ある種のアジテーターだっただけなのだという言い方をしています。
彼の理論的『べき』論の具体的中身は彼自身によって一度も示されたことはなかった。しかるにその存在しないものが、日本の社会学を大きく動かしたというのが現実であった。(富永健一, 2004,『 戦後日本の社会学』東京大学出版会)
では本人はどう言っているかと言いますと、富永先生に近くて、いろいろやってみたけれども、全然うまくいきませんでした、と。自分の過去に対してはネガティブなのに、未来に向けては変わらずポジティブにいろいろなことに取り組んでいくという、かなり変わった人だったのではないかと思います。研究の面において、理論研究から出発した私は、途中でこれを放棄した。実証的研究でも、日本の農村研究を通して社会主義化の道を展望しながら、早急な現実化が不可能であることを思い知らされた、日本の現実の中で少しでも改善の方向を見出したいと願ってきたけれど、私の研究はそれに何を寄与し得たであろうか。(福武直, 1990,『 社会学と社会的現実』東京大学出版会)
ここでいったん中休み。写真1-1は佐藤健二先生が作られた『社会学研究室の100年』という資料集の中の1枚なのですが、左手の中心に福武直がいます。その向かいが蓮見先生で、奥が富永先生です。蓮見先生と富永先生が並んで福武と社会調査の打ち合せをしているのです!また女性を1人飛ばした福武の手前が尾高邦雄先生(人物7)で、奥が安田三郎先生(人物8)だと思います。資料集をよく読んでみましたら、1人飛ばした女性が後の厚生官僚で社会学にも貢献された長尾立子さんだそうです。右列は手前から松原治郎先生(人物9)と園田恭一先生(人物10)、左列の尾高先生の手前はたぶん統計学者の西平重喜先生ではないでしょうか。まさに日本の計量的社会調査の確立を告げる、すごい写真だと思います。
写真1-1 計量的社会調査の夜明け東京大学文学部社会学研究室編『社会学研究室の 100 年』より
福武直の選択という問い
私が「福武直の選択」という題で話そうと思ったのは、福武の評伝はすでに蓮見先生の『福武直』があるものの賞めすぎの観があります。蓮見先生は、本音では福武に対してアンビバレントな感情を持っていたと思います。いい先生だったけれど学問は何だったのか、といったモヤモヤ感。それをよりはっきりと表しているのが富永先生の『戦後日本の社会学』です。この本に対しては副田義也先生(人物11)の厳しい批判がありますが私は好きで、ときどき読み返しては「ああ、富永先生はこういう人だったな」と懐かしくなります。ただ、若い方が、戦後日本の社会学史を勉強するとき、富永先生は偉い先生だからまずこれを読もうとするでしょう。すると福武直をひどく批判しています。とりわけマルクス主義に傾斜していってしまった点を厳しく批判しています。そこで「ああ福武は過去の存在だな、勉強する意味はないな」と思ってしまうのではないか。そこは気になります。
また富永先生は、戦前の日本の社会学には高田保馬と鈴木栄太郎(人物 12)という素晴らしい財産があったのに、それを全否定して、新明正道(人物13)と有賀喜左衛門(人物14)という、どちらかというと外の人を重視して、そちらの流れに結び付けてしまったと批判します。有賀と新明はマルクス主義に親和的で高田と鈴木はそうではないので、結局はマルクス主義偏向という批判が上書きされるのです。
ところが、ここが富永先生の好きなところなのですが、「福武先生は公平でフランクな方だった」とも書いています。いったいこれはどういうどういうことなのでしょう。
この矛盾について私はずっと考えてきまして、「なぜこんなことしかできなかったのか」という富永先生の愛憎入り交じる批判を裏返して、「なぜあえてそういう選択をしたのか」と考えてみると、福武の研究歴の固有の意義を見出せるのではないかと思いつき、「福武直の選択」というテーマにした次第です。前置きが長くなりました。
表1-1 福武直略年表
福武直略年表(蓮見音彦, 2008,『福武直』東信堂.に基づく) |
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年 |
できごと |
著作・編著作 |
選択 |
1917 |
岡山県岡山市(旧大井町)に小学校教員の両親の長男として出生 |
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1940 |
第六高等学校を経て東京帝国大学文学部社会学科卒業 |
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1942 |
東京帝国大学助手・興亜院事務嘱託 |
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1943 |
東京帝国大学特別研究生 |
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1944 |
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現実科学としての社会学(翻訳) |
第2の選択 |
1946 |
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中国農村社会の構造 |
第1の選択 |
1948 |
東京大学助教授 |
社会学の現代的課題 |
第1の選択・第5の選択 |
1949 |
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社会科学と価値判断・日本農村の社会的性格 |
第2の選択・第3の選択 |
1952 |
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社会学・社会学の基本問題 |
第2の選択・第4の選択 |
1954 |
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日本農村社会の構造分析 |
第3の選択・第4の選択 |
1957 |
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講座社会学(黄色) |
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1958 |
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社会調査 |
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1960 |
東京大学教授・農山漁村振興対策中央審議会専門委員 |
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1962 |
文学博士(日本村落の社会構造) |
世界農村の旅 |
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1963 |
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現代社会学講座(青色) |
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1967 |
東京大学出版会理事長 |
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1968 |
東京大学総長特別補佐・日本社会学会会長 |
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1969 |
国民年金審議会委員、生活環境審議会委員 |
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第5の選択 |
1973 |
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社会学講座(緑色) |
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1975 |
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著作集 |
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1976 |
全国大学生活協同組合連合会会長 |
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1977 |
東京大学定年退官・中央福祉審議会委員 |
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1979 |
日本社会学会訪中団長として訪中 |
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第1の選択 |
1981 |
社会保障研究所長・人口問題審議会委員 |
日本社会の構造 |
第5の選択 |
1983 |
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社会保障論断章 |
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1985 |
中央社会福祉審議会会長・年金審議会会長 |
大学生協論 |
第5の選択 |
1989 |
東京都世田谷区にて死去 |
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福武直の選択1 戸田社会学からの離反
福武直の選択は、もっとあるかもしれませんが、私が思いついたのは次の5つでした。第1の選択は「戸田社会学からの離反」と名付けたいと思います。米村先生も触れられると思いますが、日本の社会学の形成において、戸田貞三(人物15)は福武直以上に大きな力を持っていたのではないかと思います。
戸田は、師匠の建部遯吾(人物16)のような大言壮語、空理空論をやめて、データに基づく仮説検証型の社会学を作りました。その点で東大も含め、日本の社会学の基礎の基礎を固めたと言っていいと思いますが、福武は戸田をそのまま継承したのか、という疑問です。あまり語られないのですが、戸田は日本の家族研究を東アジアに比較研究として拡張していく企図を持っていました。後継者の林恵海(人物17)はじめ愛弟子たち、たとえば中国の研究をした牧野巽(人物18)や未開社会も含めた研究をした岡田謙(人物19)などがそのプロジェクトを担いました。残念ながら戦争でこのプロジェクトは中断してしまったのですが、その最後に『中国農村社会の構造(』1975『福武直著作集第9巻』東京大学出版会に収録)の福武がいるのです。
一方で戸田は、国内について自分は都市家族に照準する一方で、鈴木栄太郎や喜多野清一(人物20)といった後輩たちを組織して、社会学研究室の中に農村家族を研究するある種の民間研究所を作っていきます。その成果が「分家慣行調査」と呼ばれるものです。しかしこうした東アジアにおける計量的比較社会学という方向を、戦後の福武は全く継承しませんでした。中国の共産化と国交断絶という事情があるにせよ、これは重大な転換です。
それ以上に私が重要だと思うのは、社会事業、今で言う社会福祉や社会政策ですが、そこに社会学を押し込んでいく戸田の企図です。例えば日本女子大学に社会学科を設立して、社会事業の科目を立てて自ら担当しました。そこから社会福祉の代表的研究者である松本武子のような方が育っていきますし、東大でも磯村英一(人物21)のような、内務省や東京市など行政に入ってデータに基づく政策を担っていく人を育てるのです。最近『ふれる社会学』
(ケイン樹里安・上原健太郎編著, 2019, 北樹出版)というベストセラーがありますが、私はこうした戸田の企図を「食える社会学」と呼びたい。それまでの社会学は食えなかったので、「食える社会学」を一所懸命に作ろうとしたのではないかと思うのです。
そうだとすると、食えないことは絶対にやってはいけません。食えないこととはマルクス主義で、弟子たちのなかでとくに頭でっかちで食えない感じだったのが清水幾太郎(人物22)と尾高邦雄で、マルクス主義からの遠さという点で尾高は食える方向に行けそうで清水幾太郎は無理、という一点で戸田は尾高を選んだのでしょう。ここに戸田の選択があると思うのですが、選ばれた尾高は、自分はウェーバーで行くけれどもウェーバーを批判しつつさらに食える社会の方にもう一歩踏み込める人として、やはり頭でっかちだった後輩の福武をピックアップしていくのです。でも、2人とも出発点は戸田の企図を満たせない、食えない理論家でした。
加えて同世代の他分野の学者、たとえば法律学者の穂積重遠や末弘厳太郎は、「戸田の家族社会学は数ばかり数えていて意識を研究しない、意識を研究することが家族研究には必要だ」と強く批判した。具体的なことは分からないのですが、福武は彼らの批判をどこかで聞いて得心し、戦後アメリカから具体的な計量的社会調査法が入ってきたときに、社会意識を調査研究することを選択した。この点も戸田社会学からの離反と言えると思います。
福武直の選択2 ウェーバー学問論への固執
第2の選択は矢野先生の報告と少し重なるかもしれませんので、限定してお話しします。当時田辺寿利(人物23)のようにデュルケムをやっていた人もいたし、米林富男(人物24)のようにシカゴ学派をやっていた人もいたのに、なぜウェーバーだったのか、それも『プロ倫』のような実証研究を真似ればいいのに(福武の同級生の内藤莞爾(人物25)がやっていますが)、学問論ばかりやっているのです。この疑問にも確たる答えがあるわけではないのですが、たとえば経済学者の森嶋通夫は師匠の青山秀夫から、「君たちはどうせ戦争に行って死んでしまうのだからマルクスを勉強しても仕方ないだろう、そういう運命を受け入れる哲学的な意味を含んだウェーバーを読んだ方がいい」と言われたと、どこかに書いていたと思います。なるほど、
「暗い谷間(」大河内一男)を生きる学生たちの心を掴む暗さみたいなものがウェーバーにはあったのではないか。これを戦後の明るい未来につなげていくとなると、ウェーバーは不十分だからウェーバーを超えて、という感じになるので、戦後になると皆最初はウェーバーを研究するのですが、すぐにウェーバーの先に行くぞ、となる。逆にねじれてしまった人は、皆勝手に、いい加減に先に行くけれども、もっとウェーバーをしっかりやってから先に行け、いつまでもウェーバーだ、みたいな風になる。ではお前はどうなのだと問われると、私は若いときだけウェーバーの方です。先に触れた山梨大学時代に学説史を担当したのでそれなりに勉強しましたが、それだけです。福武はというと、ウェーバーは社会政策学者として禁欲的過ぎた、もっと踏み込むべきだったと批判しています。福武は踏み込み過ぎたのですが、ウェーバーには『プロ倫』のような歴史研究の明快な方法という面があるのに、福武そこは全然やらず、歴史認識はぐずぐずで、蓮見先生のような弟子たちに厳しく批判されることになりました。
ここでまた中休み。矢野先生の報告が触れる「マックス・ウェーバー生誕百周年記念シンポジウム」の写真が福武の追悼文集(1990,『 回想の福武直』東京大学出版会)に載っているのですが、これもすごい写真です(写真1-2)。最前列左端が福武です。その後ろで首をかしげているのが丸山眞男です。福武の右隣でつまらなそうな顔をして座っているのが隅谷三喜男です。一番すごいのはその右隣、前のめりになって眼光鋭く話を聞いているのが、
「あの(」大塚の口癖)大塚久雄です。いったい誰の報告だったのでしょう。
写真1-2 マックス・ウェーバー生誕百周年記念シンポジウムの様子福武直先生追悼文集刊行会『回想の福武直』(1990, 東京大学出版会 )49
ページより
福武直の選択3 日本民俗学への冷淡
第3の選択は、これもコメンテーターの佐藤健二先生に笑われそうですが、私は前から疑問に思っていて、なぜ福武は柳田国男の日本民俗学に冷淡だったのでしょうか。当時、農村研究といえば日本民俗学のはずだったと思うのです。たとえば鈴木栄太郎の『日本農村社会学原理(』1940, 時潮社)は、高田保馬の影響を受けていると皆書くのですが、キモはそこではなくて、データをほとんど柳田が編集した『山村生活の研究(』1937, 岩波書店)に頼っていることなのです。鈴木だけでなく有賀も喜多野も成城学園前の柳田家に通うくらい心服していました。そうした高弟たちに囲まれていたのに、福武は全くノータッチでした。少なくとも私の知る限りはそうです。
それ以上に理論上致命的だと思うのは、福武は、社会学が社会科学の中で重要なのは(中枢科学)人間の社会生活を研究するからだ、と言っていますが、それは民俗学と同じですから、民俗学も社会学の中に取り込みますよとか、民俗学と交流しましょうという話に当然なるはずなのですが、なりませんでした。それはなぜか。結局福武は国家の政策だけに関心があって、時代遅れかもしれないけれども皆が一所懸命やっている民俗を、生活の知恵としてではなく、過去の遺制だから切り捨てて近代化しようといった冷たい態度、人々の生活現実に対して冷ややかな視線を持っていたのではないかと思います。
私の習った福武の弟子たちから「福武は農村を愛していた」とずっと聞かされてきたのですが、私はそうではなかったのではないかと思うのです。愛しているなら相手の悪く見えるところもなかなかいいよね、と言えるはずです。柳田はそうだったと思います。
福武直の選択4 マルクス主義への浅慮
第4の選択は富永先生の言うマルクス主義への偏向です。しかし、はっきり言って福武のマルクス主義理解は浅薄だと思います。富永先生が言うとおり融和的ではあったが、マルクス主義の社会学を作ったかと言うと全然作りませんでしたし、深く根ざすこともしませんでした。逆にマルクス主義はここが駄目なのだと批判することもしませんでした。表面的にマルクス主義は党派的になるから困るとは言っているのですが、理論的にここがいい、ここが駄目というような話はしていないので、私は浅慮と言っていいと思います。
日本のマルクス主義は、日本資本主義論争と言われるように日本史を正確に分析することに非常に努力してきました。福武の周りにはそうした歴史学者がたくさんいたはずですが本人は全然やらない。結果として、大学院生の蓮見先生に「先生の歴史認識は甘すぎる」というような論文を書かれて(河村望・蓮見音彦, 1958,「 近代日本における村落構造の展開過程 上下」『思想』
407, 408)、でも「そうかな?」くらいの軽い反応だったようで、「徹底的に反論しろよ」と思うのですがスルーするのです。
ただし福武のマルクス主義への浅慮が、逆に、マルクス主義を徹底的に深めようとか徹底的に批判しようといった次世代の挑戦を引き出した面もあったのではないかと思います。奥村隆先生が書かれた『反転と残余(』2018, 弘文堂)を読んで得心したのですが、吉田民人先生(人物26)と見田宗介先生がそうだったのではないか。吉田先生はマルクス主義の命題を機能主義で代替し尽くすことを生涯の課題にされていましたし、見田先生はマルクス主義を現代的に突き詰めることをやられていた(いる?)と思います。
福武直の選択5 社会政策学への未練
最後の選択は社会政策学への未練です。これも富永先生が言われる通り、尾高もそうですが、なぜ、同じように戦争協力者で公職追放になった高田保馬を否定して新明正道を称揚したのか。私は新明の方が戦争責任は重いと思うのですが、新明に頼った。それはなぜかと言いますと、私は、新明は東北大に所属していても出身は東大なのに対して高田は京大というごく単純な党派性かな、と。まじめに考えると、新明にあって高田にないものは社会学中心主義です。高田にとって社会学は社会科学の一平民に過ぎません。福武のいう中枢科学なんてナンセンスだったでしょう。さらに実践に関わってこその社会だという志向も新明にあって高田にはないので、社会学中心の実践思考という点で新明に頼ったのだと思います。結果として新明の率いた戦後の東北大学社会学研究室と、その支店と言っていい九州大学社会学研究室には非常に豊かな発展がありました。
私のような福武の孫弟子は、福武は農村社会学に挫折して社会福祉研究に行ったのだと聞かされてきたのですが、武川正吾先生の論文「社会政策学者としての福武直(」2011,『 社会政策』3(2))を読みますと、必ずしもそうではない。もともと社会福祉領域をやるべきだということを戸田から受け継いで、たまたま戦後に、米村先生が論じられるような「封建遺制」批判ということで社会科学界全体が盛り上がったので農村社会学をやり、流行が終わったので本来やりたかった社会福祉に戻ってきたのではないか。今の社会学が食えているかどうかわかりませんが、食える社会学に戻ってきた。残念ながら、社会福祉領域にはすでに社会福祉学があるので、社会学者がたらふく食えるというわけにはなかなかいかないとは思いますが、とにかく食える社会学、社会に食い込む社会学を発展させるためだったのではないか。
では、福武に政策の社会理論や福祉の社会学があったかと言いますと、読んでも、読んでも出てきません。こういう問題はこの分野とこの分野をつなぐとうまくいくみたいな、ある種の御用学者的相場観と、これはお金がかかるからやめようといった、ある種そろばん勘定はすごいのです。先に挙げた教科書の『社会調査』に調査費用の一覧表がありまして、私は最初に読んだときに目を見張ったのですが、こんなことを教科書に書けるのは多分福武と盛山和夫先生(人物27)だけだと思うのですが、とても役に立つのです。今は皆科研費の申請書を一所懸命書くので当たり前になっていますが、かつてはこういうことは学者のやることではなかったのです。しかし福武はそれがすらすらできる人だったのです。これらを含めて社会政策学への未練というふうにまとめられるのではないかと思います。
ポスト福武の日本の社会学
さらに、これら5つの選択が現代日本の社会学、ポスト福武時代の社会学にどういう影響を及ぼしているか考えてみたいのですが、実証的な社会学とくに社会意識調査に基づく社会学は、私が学生の頃には庄司興吉先生(人物 28)が『住民意識の可能性(』1986,梓出版社)という、非常に分厚い意識調査に基づいて実践的な提言を導く挑戦的な研究をなさっていましたし、武川先生も価値意識についての調査をなさっています(2006,『 福祉社会の価値意識』東京大学出版会)。しかし最近、NHK放送文化研究所の『現代日本人の意識構造(』2018, 第九版,
NHK出版)、私は学生たちに日本で一番信頼のおける社会調査の本ですと紹介してきたのですが、今回の調査でショッキングなことに回収率が50.9%でした。いくら正しいサンプリングをしても50%で何が言えるのでしょう。この方向にどんな未来があるのか、正直疑問に思います。
一方で東アジアの比較社会学という、戸田が始めて福武も最初は継いだが戦後やめてしまった方向は成熟してきていまして、園田先生の報告にもあると思いますが、武川先生の研究(2006,『 福祉レジームの日韓比較』東京大学出版会)や園田先生の社会意識調査を通した比較社会学(園田茂人, 2020, 『アジアの国民感情』中公新書)に加えて、少し変わったところでは駒場の瀬地山角先生の『東アジアの家父長制(』1996, 勁草書房)もあります。これはさらに拡張してLGBTの比較研究に発展していて(2017,『 ジェンダーとセクシャリティでみる東アジア』勁草書房)、たいへん興味深い。未来のある方向だと思います。
ウェーバーについては、私はウェーバーを嫌いではないのですが大いに違和感がありまして、皆ウェーバーにこだわりすぎているのではないかと思ってきました。矢野先生のように専門でやっている方は当然ですが、私のような専門でやっていない者はもう少しウェーバーに免疫があってもいいのではないか。たとえば岸政彦さんたちのベストセラー『質的社会調査の方法』
(2018, 有斐閣)の副題に「他者の合理性の理解社会学」とあります。他者は合理的なのか、理解できるのか、それは自己の解釈枠組みを当てはめているだけなのではないかと、大いに疑問を感じました。またかつて私が学んだ佐藤俊樹先生の近著『社会科学と因果分析(』2019, 岩波書店)は、ひとことで言うと「ウェーバーは偉かった」という本です。百年前の、まだ社会学者かどうか決まっていなかった人をむやみに持ち上げられても、私は納得できません。私の貧しい勉強の限りでは、この本はウェーバー礼賛にこだわりすぎてウェーバーを生み、支えた当時のプロイセン・ドイツの大学制度と社会が見えていないと思います。まだウェーバーに、丸山眞男の「執拗低音」ではないですが、こだわりすぎているのではないかと思います。
柳田国男の日本民俗学については、私が学生の頃に佐藤健二先生の『読書空間の近代(』1987, 弘文堂)や内田隆三先生(人物29)の『社会記〈序〉』
(1989,
弘文堂)が出て以降、とくに佐藤健二先生がたくさん仕事をなさって柳田國男の社会学への組み込みはほぼ成熟した感じがしています。ただ、それを実証的に応用していく、柳田のアイデアを現代のフィールドで、あるいは計量的に実証していくのにはどうすればいいのか。今その課題に取り組んでいるのは、まず柳田=有賀直系の鳥越皓之先生の提唱される「生活環境主義」の方々だと思います。もっとも私は「生活環境主義」よりも同じ東京教育大系の天野正子先生の『生活者とはだれか』(1996, 中公新書)の方に親近感があって、都市型社会における市民とくに女性の生活実態を見ていくことが、福武が柳田をスルーした結果できなかった方向なのではないかと思っています。
この点に関わって微妙なのは飯島伸子先生(人物30)です。福武の弟子筋で私が謦咳に接しなかった方は飯島先生ぐらいで、若い方々から学ぶ他ないのですが(友澤由季, 2014,『 「問い」としての公害』勁草書房)、飯島先生の「被害構造論」の、人間が虐げられていて社会もおかしくなっているという筋立ては、考えてみれば福武の「人間の解放と社会の合理化」の裏返しであって、蓮見先生のようないわゆる福武グループの人々よりも理論的な意味で福武直系と言っていい。3つめの選択肢の現在というとき、天野正子の生活者論と飯島伸子の被害構造論の評価と継承が欠かせないだろうと考えております。マルクス主義については、若い方々にとってはマルクス主義、とくに日本のマルクス主義の歴史は、はっきり言ってどうでもいいことなのではないでしょうか。講座派や労農派と言っても誰が何やらさっぱり分からない、もうそれでいいと思うのです。そうした忘却のなかで、私が学生の頃は必読文献だった見田宗介先生の仕事も忘れ去られつつあるのではないか。奥村先生の精力的な取り組みにもかかわらず、これは例の有名な言葉のもじりですが「現在誰が一体見田宗介を読むだろうか」ということになっているのではないかと思います。
社会政策学への未練については、個人的な経験を話したいのです。それは故舩橋晴俊先生(人物31)の学問です。舩橋先生は今日の報告の流れとしては福武から見田先生の流れの先にある方でした。見田先生は福武の弟子ではありませんが、この報告で論じたように、実はその学問の「問い」を一番継承した人だと思います。その見田先生の空想的、哲学的なところを実証科学として定着しようと努めたのが舩橋先生の「社会的制御の社会学」でした(茅野恒秀・湯浅陽一編著, 2020,『 環境問題の社会学』東信堂)。
東日本震災や原発事故の未解決問題などの深刻な社会問題に真摯に向き合い、精力的に活動され、多忙の中で急逝された舩橋先生は、社会学や国政に福武以上の影響を及ぼしてもよかったのに、そうならなかったのはなぜでしょうか。この問題への答えは同僚としてアゴで使われた私としては明白なのですが、ご健在の頃は嫌だ、嫌だと逃げ回っているだけで考えたことがなかったのです。今回あらためて考えてみますと、見田先生はどうだかわかりませんが、福武も舩橋先生も自分はあまり変えないのです。自分から見て社会のここが問題だからこう変えなければいけないとか、自分は圧倒的な優位に立って、相手にこうしろ、ああしろと、私も舩橋先生にずっとそう言われてきまして、廊下に呼び出されて叱責されたこともあるのでそう思うのですが、彼らの学問はデリタ的な意味で「男根的(」高橋哲哉, 2015,『 デリダ』講談社学術文庫)、暴力的なので結局人を動かせない、動かせても感動させることができないのだと思っております。
福武直の選択を超えて 帰無仮説としての日高六郎
今日の結論を申します。福武直の5つの選択のその後を見ると、私たち現代の社会学者も、皆ではないでしょうが、福武の選択の結果形成された戦後日本の社会学を生き続けている、あるいは生き続けさせられていると思います。鳥越×飯島×舩橋という環境社会学の鼎立状況が典型的です。
では、福武の選択から自由な社会学を生きることはできないのでしょうか。福武をただ忘却するのではなく、その選択の功罪を踏まえた上で、まるで風邪を引いて治れば引く前よりも元気になる、これを整体の創始者野口晴哉は
「経過する」と言いますが(2003,『 風邪の効用』ちくま文庫)、そういう風にできないか。福武の選択から自由な社会学とは何だろう、と考えるとき、冒頭に触れた日高六郎、福武の葬儀に一人来り去った日高六郎を「帰無仮説として」考えてみると、何か分かることがあるのではないかと思いました。
日高は死ぬ前に黒川創さんという方にインタビューされて本を出しているのですが(2012,『 日高六郎 95歳のポルトレ 対話を通して』新宿書房)、その中で福武と彼の作った戦後日本の社会学を罵倒して、「あんなものに少しでも関わった自分は馬鹿だった」と言っています。しかし日高さん、あなたはどうだったのか。あなたは何もしなかった。若い頃ベルクソンについて書いて、最晩年になっても自分の一番の仕事はそれだ、と言う。他人のことは言えないのですが、社会学者として全く進歩、深化していない。
しかし、彼の人生を丁寧に見ていくとヒントがあります。それはいろいろな人を理解したり、指図したりするのではなくて、いろいろな人とただ出合ってきたことです。研究室の外、東大の外に出て、いろいろな人に出合うと自分と違う人がたくさんいて、出合いを通して自分の社会学なり社会観が壊れて自分から解放される、自分が生きてきた狭い社会から解放されるといったライフヒストリーが、福武にはなくて日高にはあった、少なくとも可能性としてあったと思われるのです。そのことは福武に限らず、東大の社会学に限らず、東京学派と呼べるような受験エリート、専門職エリートの人たちには、自分から解放されてはじめて社会の見方が変わるということがなかなかできにくいのではないか、そこが東京学派の止揚すべき点なのではないかと、今回の研究を通して私は思い至りました。
というように、一見福武を経過しつつあるように見えるのですが、今回著作集を読み返すと、まだ福武は面白いと思ってしまうのです。「脱呪術化
(entzauberung)」ではなく、「ずっと魅せられて(verzauberung)」とでもいいましょうか。なぜなのでしょうね。
最後に、この研究をするときに幸いなことに武川正吾先生にオンラインでご指導いただく機会がありまして、武川先生がご指導してくださったことと私の今日の報告は全く内容が異なるのですが、先生のご指導のおかげで見方ががらっと変わったところがありますので、最後にお礼を申し上げたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。
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第2報告「 聖典」なき正統?
「預言者」なき学派?
――東京大学の社会学におけるヴェーバー(の希薄さ)
―― 矢野 善郎(中央大学文学部 教授)
中筋先生、お疲れ様でした。大変勉強になりました。実は偶然とも言うべきか、中筋先生の講演で紹介された写真に写っていたイベント、ヴェーバー生誕百年シンポジウムを私の報告ではメインに取り上げようと思っております。話につながりができて大変ありがたく思います。
さて、あらためまして、こんにちは。中央大学の矢野と申します。本日はお時間をいただきまして、「聖典なき正統? 預言者なき学派」という大げさな名前をつけましたが、お話しをさせていただければと思います。
東京学派?「学派」 が学派である要件 “Schoolness” とは?
園田先生からお話をいただいて、ヴェーバーを軸にして、東京学派があるとしたらどういうものなのかということを考える機会をいただきました。私個人も、東京大学で社会学を長い間勉強し、助手としても働かせていただいたので、東大本郷について振り返る機会をいただいたのはとてもありがたく思います。せっかくなので少し考えさせていただこうと思ったのですが、社会学の「東京学派」と言われてピンとくる方はあまりいないのではないでしょうか。東京に学派はないかもしれませんが上野にはあったかもしれないという程度の冗談は思いつくかもしれませんが。
そもそも社会学をやっている人間は、たいがいの問題について、社会学の理論でその問題を考えられないかと最初は思うものです。どうせなら詳しく知っているヴェーバーの理論を使って東京学派を考えられないか。ヴェーバーもその宗教社会学のあちこちで「学派」の問題を論じていますので、その理論で考えられないか。まずは考えてみました。例えば社会学の中で学派といったらデュルケム学派やシカゴ学派が一番最初に思いつくかもしれません。しかしデュルケムのようなカリスマ的な指導者「預言者」の存在は、哲学の京都学派ならいざしらず、社会学の東京学派でピンとくるかと言いますと、そうピンともきません。シカゴ学派では例え
ばAmerican Journal of Sociologyを発行していたり、教科書を作ってみたり、核となる「聖典」、パラダイムとしての共通性、あるいは指導的な理念に近いものを持っていました。東京大学の社会学について、それと同様なことが言えるかと言いますと、そうとも言えません。
そもそも東大の社会学を学派と呼んでいいのかということに関して、否定的・紛争的な契機を考えるのはどうでしょうか。とりわけヴェーバーの宗教社会学(特に『儒教と道教』や『ヒンドゥー教と仏教』)ですと、ある種の学派が作られるきっかけというのは正統と異端の分離であって、異端と対抗するために正統が合理化されていく。こうした正統と異端の分離こそが学派のきっかけではないかということが理論的に示唆されています。しかし、日本の社会学について、それにぴったり当てはまることも特にあまり思いつきません。
そこで理論的に無理矢理考えるのをあきらめはじめて、東大が学派として特徴があるとしたらどうなのかということを、普通のやり方、つまり歴史的なやり方で考え始めて、そこで思い出したのが私の大学院生時代の指導教員である折原浩(人物32)による本郷社会学についての評価です。先ほど園田先生がきょうの報告者を選ぶ際に半分本郷にいながら半分は外にいる方を選んだとおっしゃっていましたが、それに一番当てはまるとしたら、本郷の社会学出身でありながら、東大の駒場で30年以上教鞭を執った、折原かもしれないと思います。
折原浩による本郷社会学評=理論軽視とアメリカ流の実証主義
実は、この報告で取り上げるメインのキャラクターである折原浩と富永健一(人物6)には多大なる直接の学恩があり、お二人のことを先生という呼称をつけないで表現するのは、私のなかでは、なかなかきつい精神的な葛藤があります(笑)。それはともかく、まずは折原の著書『ヴェーバーとともに40年(』1996年、弘文堂)をとりあげたいと思います(写真2-1)。これはとても面白い本で、折原が東京大学を定年退職後、名古屋大学教授の頃に出版した本です。その時点で、折原は、以下のような本郷評を下しています。少し時間をいただき読みあげてみたいと思います。
東大の社会学科について言えば、この[※引用者注:本郷の社会学からのヴェーバー生誕百年シンポジウムへの報告が限定的だったという]窮状は、ヴェーバーを方法論に限って採り上げ、経験的研究内容には踏み込まず(ということは、方法をも、具体的適応例としての経験的モノグラフをとおして的確に会得し、活用しようとはせ写真2-1 ず)、なるべく早く方法論や先行理論
『ヴェーバーとともに40年』 は切り上げて、何か一分野の実証研究に着手し、そこで実績を挙げて初めて一人前と認める教育方針と、文学部哲学科から分かれた一学科として、思想研究である哲学者・倫理学者・思想家に太刀打ちし難く、独自性も主張できないと察知して、無意識にも不利な領域への深入りは避ける「存在被拘束的」で構造的な制約とに、起因しているように思われた。
折原節と言っていいのでしょうか、ここまで一つの文章です。長い一文で知られるヴェーバーの翻訳を読んでいるかのような文体ではありますが、貴重な本郷評です。ここでは要するに、本郷ではヴェーバーに限らず、基本的には理論的な研究に深入りしない。本郷では、若い研究者や大学院生には、理論研究には最初は取りかからせるけれども深入りはさせないという教育方針がある。こう折原は本郷の社会学を評価しているのです。
ただ折原の本郷評は、本郷の社会学を全面的に否定しようとしているわけではありません。この本では、先ほどの本郷評に続けて、上記のような教育方針は「アメリカ流のプラグマティズムと実証主義の影響下にある一大学の社会学科としては当然と言えば当然であったろう」、とも弁護しています。
しかしネガティブにとらえていること自体は間違いないことです。
折原によれば、東大本郷の社会学といえばアメリカ流のプログマティズムと実証主義の拠点だったのだということになります。この折原の本郷評があたっているかいないかは、東京学派を考える上で大事なことだと思います。折原によれば、本郷の社会学は理論研究にある種冷淡で、そこではヴェーバーですらないがしろにされている。これが事実認識として合っているかいないかというのも検討しなければいけません。この報告では、ネタバラシ的に言いますと、事実認識としては、かなり的確だったのではないかと述べることになります。しかし、それを否定的に評価すべきかどうかは留保したいと思います。この本郷評の当否について考えるためにも、折原が回顧のなかで、そもそもこうした本郷評について述べるきっかけになった一つの大きなイベントを検討の出発点にしたいと思います。
東京大学でのマックス・ヴェーバー生誕百年記念シンポジウム(1964年)社会学の東京学派の特徴を検討する方法としては、例えば東大の社会学の中でヴェーバーがどのように取り扱われたかということを通時的に研究するということもあり得たかもしれません。東大の社会学の各時期の論者がどのようにヴェーバーを取り上げているのか、などです。ただ、そういう通時的な研究史が面白いかと言いますと、時間がかかるわりにあまり面白くないだろうなと、早々に勝手に高をくくってしまいました。むしろ今回の報告では、別の作戦で問題を考えてみたいと思います。つまり長い時期ではなく、ある一点における東大社会学とヴェーバー。一点というのは時間上の一点という意味でもあり空間上の一点という意味でもあるのですが、ある焦点となるイベントを中心に考察することで、東大社会学の特徴を描いてみたいのです。
その焦点とは、冒頭にふれた1964年の東京大学でのマックス・ヴェーバー生誕百年記念シンポジウムという巨大イベントです。このイベントについては、中筋先生が先ほど写真を出してくださいました(写真1-2)。丸山眞男が座っていたのは、たしか2番大教室でしょうか。本郷の一室に、通算
500人ぐらいの学者が、大学や学部の垣根を越えて集まることになりました。この点を考えると、このシンポについて取り上げることは社会学の東京学派だけでなく、様々な「東京学派」を考える上での比較材料をいくばくか提供するというメリットもあるのではと思います。東京学派の研究プロジェクトには、社会学だけでなく、経済学・歴史・哲学も参加していると伺いました。そうした狙いも含みつつ、1964年、東大本郷でのヴェーバー・シンポに登壇した、2人の社会学者をみてみましょう(写真2-2)。
富永健一と折原浩
その2人とは、当時、東大文学部社会学研究室に所属していた富永健一と折原浩です。実はたまたまですが、折原先生は私の大学院の指導教官、富永先生には東大での最後の数年間に学部ゼミでお世話になり、卒業論文を指導していただけました。残念ながら富永先生は昨年お亡くなりになりました。色々な意味で、お2人には学恩があるので、冒頭で述べたように、先生付けで呼びたい気持ちは常にあります、しかし以下ではできるだけ呼び
写真2-2 折原浩と富永健一 (1999年・本郷) 捨てにするようにします(笑)。
ヴェーバー・シンポでこの2人が登壇し、それを境目として、この2人がどういう道筋をたどったかというと、富永は本郷、折原は駒場という、東京大学でも違った場所で教えることになります。その2人の主役のコントラストを通して、東京大学とりわけ本郷の持つある種の「学派」としての特徴を考えてみることになります。
1964年シンポジウム=戦後日本ヴェーバー受容の頂点
ただし、この報告では、そもそもマックス・ヴェーバー生誕百年記念シンポジウム自体という「場」自体も主役と言えます。ちなみに、たまたま今年 2020年はヴェーバー死後100年にあたります。ヴェーバーのイベント的なものには私はかかわりが薄くなってしまいましたので、なにか行われたのかもよく知りません。申し訳ないですが、今年については感慨もありません。
しかし56年前、日本で行われたヴェーバー生誕百年記念シンポジウムは、日本でのヴェーバー研究史の中では最も重要視されるとも言えるイベントです。とりわけドイツの歴史家シュヴェントカーW. SchwentkerによるMax Weber in Japan(1988. 野口他訳『マックス・ヴェーバーの日本―受容史の研究1905–1995』2013. みすず書房)。これは記念碑的な作品とも言え、戦後日本のヴェーバー受容についてかなり網羅的に、しかもきわめて組織的に整理されている見事な歴史書です。その中では、ヴェーバー生誕百年のシンポジウムは、日本がヴェーバーに取り組んだ絶頂に当たると評価されています。
このシンポジウムについての記録と、講演・質疑についてまとめた大塚久雄編『マックス・ヴェーバー研究(』1965. 東京大学出版会)をみると、いかに気合が入ったシンポジウムであったかも分かります。数年前から企画しているだけでなく、シンポジウムでの報告準備のため、毎月に近く会合を開いていたとあります。シンポジウムは、東京大学の経済学部と文学部の社会学が中心になって運営に当たっていたとされています。
戦後日本の社会科学とヴェーバー
ヴェーバー・シンポジウムが日本ヴェーバー研究の絶頂であったかどうかは、ここでは話の焦点ではないので検証しません。しかし前後日本の社会科学、特に1945年から60年代における社会科学においてどれだけヴェーバーの存在が大きかったかについては、一言補足しておいた方が良いでしょうか。例えば当時、東京大学には、経済学の大塚久雄、法社会学の川島武宜、政治思想史の丸山眞男など、社会科学のビッグネームがいました。この3名に共通するポイントがあるとしたら、その理論的な支柱の一つにマックス・ヴェーバーがあるという点でした。ヴェーバーが特に日本の戦後社会科学にとって重要視されていた背景には、急速にアメリカ的な実証主義が入ってきている一方でマルクス主義が戦後雄々しく力を持とうとしていたという点があげられるでしょう。その両者の狭間で学問のライトモチーフのようなものを提供してくれる。大ざっぱに言えば、こうした理由でヴェーバーが日本の社会科学ではもてはやされたのではないかと考えられます。この3名が試みているように、アメリカ的実証主義の即物性やマルクス主義の教条的な図式を超えて、戦前の日本社会を批判する、そういう理論的な枠組みをヴェーバーが提供してくれるのではないか。1964年のシンポジウムでの議論を読むと、ヴェーバーへのそうした希望感があふれているのを感じられます。
この3名の著作は、それぞれが今読んでも大変勉強になる魅力的なものです。経済史の大塚久雄は、『近代化の人間的基礎(』1948. 岩波書店)などで、マックス・ヴェーバーによりつつ近代経済人のエートスの欠如を描き出すことで戦前の日本のいうなればムラ的な共同体意識をあぶりだそうとします。ヴェーバー・シンポジウムでも講演録の編者でもあり、いわば主役の一人として登壇しております。
川島武宜は、『イデオロギーとしての家族制度』(1957.
岩波書店)など家族社会学にとっての古典を残しています。東大の法学部で法社会学を講じていました。川島法社会学にはアメリカ的な法社会学の流れとともにヴェーバーが非常に重要な流れとしてあり、ヴェーバーの対内道徳・対外道徳などの概念が用いられます。ただし川島は、生誕百年シンポジウムの講演には登場しません(議論の対象として出てくる程度です)。
最後に、いわずとしれた政治思想史の丸山眞男です。彼は自ら、ヴェーバー研究者であったことはないけれどもヴェーバーには影響を受けているということを述べ、ヴェーバー・シンポジウムでも非常に刺激的な報告をしているだけではなくて、討論でも大活躍しています。尾高邦雄・福武直とヴェーバー・シンポジウム
このような形で特に大塚、丸山等は、東大を代表して華々しくシンポジウムで活躍しておりました。それに比べて、東大の社会学はこのシンポジウムにどうかかわったといえるのでしょうか。名目上は、東大経済学会と東大社会学会の共催とあります。恐らく同窓生の組織のことを東大社会学会と当時呼んでいたのでしょう。ただ主催者と書いてある割に、そのわりには影が薄い。この評価も、先ほどの折原浩によるヴェーバー・シンポジウムの回顧から借りています。
当時、社会学研究室主任教授であった尾高邦雄(人物7)と言えば、ヴェーバーと縁が深いのではないかと思われる方も多いとは思います。中央公論社から出ている「世界の名著」シリーズ『ヴェーバー』(1975)の巻の編者でもありますし、長い間読み継がれている岩波文庫の『職業としての学問(』1936/ 1980)の翻訳者でもあります。戦後にも『社会学の本質と課題(』1949. 有斐閣)という理論書も書いてヴェーバーも取り上げています。当然、このシンポジウムでも報告をするかと思いきや、シンポジウムでは閉会の辞のみでした。
先ほどの中筋先生の報告の主役であった教授の福武直(人物1)もシンポジウムに司会として参加はしています。『社会科学と価値判断(』1949.
春秋社)という若いころの理論書は、基本的にヴェーバー批判の本で、ヴェーバーをいわばマルクスによって超克しないといけないということが結論になるわけです。いわゆる「価値自由」を批判し、ある意味で価値判断にかかわり、実践的なものを持たないということを一番の批判すべきポイントとしていました。福武にもヴェーバーの方法論を取り上げている著作もあるのですが、登壇はしておりません。
シンポの時点での富永とヴェーバー
尾高、福武の両者とも、形式的な参加だけで、結果として教授陣、あるいは助教授にも登壇者はいません。では、社会学専攻を代表して登壇したのは誰かと言えば、当時、若き研究者であった富永と折原なのです。富永は文学部の専任講師で「ヴェーバーと社会学」という講演をしています。
ただこの当時の富永は、実はヴェーバーについてほとんど業績はありません。富永といえば、『社会変動の理論―経済社会学的研究』
写真2-3 『社会変動の理論』
(1965.
岩波書店)が出世作だと言えると思うのですが(写真2-3)、この時点では出版もされていません。しかもこれは基本的にはパーソンズ研究がベースになっており、ヴェーバーへの言及はほとんどないとも言えます。ですからヴェーバー・シンポジウムに富永健一が登壇することに必然性があるかというと、ほとんどないと言ってもいいのです。
シンポの時点での折原とヴェーバー
どちらかと言いますとヴェーバーについてかなり本格的に学んでいたのは、当時文学部助手であった折原でしょう。折原が、ヴェーバー・シンポで行った講演「IntellektualismusとRationalisierung」は、たいへん刺激的で、鋭い問題提起になったことが講演後の議事録からも読み取れます。折原はヴェーバーから、知識人がマージナルな状況に置かれることの重要性が読み取れると論じ、近代社会や当時の学問を鋭く批判しました。ある意味では、若い登壇者が、大物の登壇者にすら喧嘩を売っているという感じだったのでしょう。
しかしこの点でも、一つ注意すべきことがあります。折原は後には日本のヴェーバー研究の第一人者というべき存在になっていくわけです。しかし、この時点ではそうではなく、出世作と言える『危機における人間と学問―マージナル・マンの理論とウェーバー像の変貌』(1969.
未來社)もかなり後ですし、ベンディックスによるヴェーバーの伝記の翻訳『マックス・ウェーバー―その学問の全体像(』1966.
中央公論社)も、まだ出版されていません。
なお折原先生が、助手は助手でもシンポ要員としての助手だったと笑いながら述懐されているのを直接お聞きしたことがあります。これ自体はジョークにすぎないとも言えますが、そもそも大塚・丸山等に代表されるように他の学部、他大から並み居るスター教授が華々しくシンポで登壇者するのにくらべると、社会学研究室からは専任講師と助手が登壇するにすぎない。このことの評価はともかく、折原の回顧のとおり、戦後日本におけるヴェーバー研究での絶頂とも言えるポイントで、他ならぬ東大の社会学は存在感が薄かったとは言えるでしょう。シンポ後の富永とヴェーバー
さて、このシンポジウムの後どうなったかについて話を進めたいと思います。実は、ここで登壇した富永と折原は、このシンポジウムによって呪文をかけられたごとく、両者ともヴェーバーと格闘を続けていく研究歴をたどることになります。
富永は、ヴェーバー・シンポジウム後は、定年である1992年まで、東大本郷で社会学を教え続けました。富永は、ヴェーバーについてだけ研究していたわけでもなく、その後も、パーソンズを軸足に置いていたことは間違いないです。しかし、それまではどちらかというとパーソンズにのみ依拠していた理論的ベースにヴェーバーが付け加わっていきます。「世界の名著」シリーズのヴェーバーの巻(1975)では、『経済と社会』の第2章を翻訳するという形でヴェーバーの翻訳にもかかわります。また『現代の社会科学者―
現代社会科学における実証主義と理念主義(』1984.
講談社)という「人類の知的遺産」シリーズの一巻でも、実証主義と理念主義の統合者として位置づけるなど、たいそうヴェーバーを重視して結論を述べています。
その後、富永が出した『日本の近代化と社会変動(』1990.
講談社)は、パーソンズのAGILシステム論と並ぶ理論的な枠組みとしてヴェーバーの宗教・経済社会学を重視して日本の近代化を位置づけようとする野心作で、たいへん私も好きな本です(写真2-4)。その後も『、マックス・ヴェーバーとアジアの近代化(』1998.
講談社) などヴェーバーと近代化を関連付ける書籍をまとめております。富永は、シンポジウムの時点では、ヴェーバー研究をする社会学者と呼べるわけではないと思います。しかしその後は、ある意味で本郷の中でヴェーバーといったら富永との連想をするほど、ヴェー写真2-4 バーと強く結びついた研究歴をたどることに
『日本の近代化と社会変動』 なったのです。
シンポ後の折原とヴェーバー
他方、折原は、シンポの直後、1965年から東大教養学部の専任講師になります。つまり駒場の教養学部(相関社会科学)にて定年の1996年まで教鞭を執ることになります。ただ富永と対照的に、折原のキャリアを特徴付ける重要なポイントの一つは、間違いなく、東大闘争といえます。折原は、ごく最近『東大闘争総括―戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践(』2019. 未來社)という大変野心的で、刺激的な回顧録を出版しています(写真2-5)。読んでいない方には一読を是非お勧めします。東大闘争に絡み、折原は、東大の一部の教授等、例えば丸山眞男らとも闘争状態になります。
折原は、研究者としては先ほど読み上げた
『ヴェーバーとともに40年』のタイトル通り、本郷の社会学で行われないような理論的な探求、とりわけヴェーバーのテキストに沈潜するという学風を自ら選んでいくことになります。そして『経済と社会』の草稿を、全ての段落の前後参照指示をもとに丹念に再構成するなどの成果をあげていくことになります。
写真2-5 『東大闘争総括』富永健一と折原浩の関係
こう考えてみますと、折原のほうには本郷をアンチとするような、ある意味での異端性があるようにも見えますし、本郷を意識しつつ理論・学説研究に先鋭化していったとも言えるかもしれません。しかしその結果、正統と異端の闘争が本郷と駒場で起きたかと言いますと、必ずしもそうは言えません。とりわけヴェーバーを自らの理論の中心に据えることになった富永との関係はどうだったのかと言いますと、これが案外面白いのです。私が知る限り、そもそも闘争的な関係になったことすら実体とはほど遠いと言わざるをえません。
例えば、先ほど中筋先生の報告にも登場しました富永の『戦後日本の社会学(』2004.
東京大学出版会)。これは確かにものすごい本で、富永によれば、戦後日本の社会学はリベラル社会学とマルクス社会学の二大陣営に分かれることになります。結論としては、戦後の日本の社会学を担ってきたのは基本的にはリベラル社会学であり、マルクス社会学としてくくられた社会学者にはかなりこっぴどい評価が行われます。では、折原浩のことを富永がどう位置付けているか、と言いますと、折原はリベラル社会学の一員として入っています。闘争的なのでマルクスのほうに出てくるのかと思いきや、リベラル社会学、つまり言わば友軍としてとらえているのです。興味深いことに富永は、ヴェーバーとの関係で折原を紹介する訳ではありません。デュルケム論者として折原を紹介するのです。確かに折原浩の名著の1つに『デュルケームとヴェーバー(』1981.
三一書房)があります。しかし、それを折原の主著とするのも、ある意味で屈折した取り上げ方のように見えます。むしろ衝突を避けるような取り上げ方をしているとさえ言えるかもしれません。
私は、折原ゼミに長い間所属していたということもありまして、そこでは何回か富永社会学について話題になることがあったのを記憶しております。ゼミで折原が富永のヴェーバー論を批判したかというと、実はそうした記憶はありません。富永のヴェーバーに依拠した日本近代化論が話題になった際には、むしろ独創的な側面があると折原が論評しているのを聞いたこともあります。そうした折原の評価になるほどと思う反面、ある意味で意外に思った部分もあります。ヴェーバー論の部分はもっとかみつくのではないかと思っていたからです。本郷における富永健一
富永は、後年になるほどヴェーバーを重要視するようになったと言えるでしょう。富永は、リベラル対マルクスという対立軸の他にも、さきほどちらりと触れた実証主義と理念主義という対立軸を重視します。富永流に言えばマルクス主義はある意味で論外なのですが、かといってアメリカの実証主義だけでも駄目で、理念主義的なものも重要だとされていくようになります。
それはパーソンズがThe
Structure of Social Action(1937)などで述べている基本主張を受け継ぎながらも、富永がさらに展開しようとした視点と言えます。富永は、それ故、実証主義・理念主義のかけ橋となる存在としてヴェーバーを重要視していったのでしょう。
富永の『戦後日本の社会学』を見る限り、自らがリベラル社会学の一員として日本の社会学そのものを支えていたのだという強烈な自負が表れているとも見えます。そして正統な社会学を守ろうとか、正統な社会学の歴史を書こうとか、後年の富永の強い正統意識の裏には、異端と考える社会学への対抗があったとは言えるでしょう。少なくとも後年の富永は相当強く正統と異端を意識していたわけですが、彼の考える異端の社会学としては、東大の福武直なども含まれており、東京学派か本郷か駒場かという構図ではないのです。
富永は、単純にみるならば戸田(人物15)―尾高―富永とつながる正統な東大社会学の「嫡流」とも言える存在です。尾高邦雄は、富永の指導教員でしょうが、しかし富永と尾高との関係はそれなりに複雑なようです。富永は『戦後日本の社会学』のなかでは尾高のことを強くは批判しないのですが、屈折した評価を与えているようにも見えます。とりわけ『尾高邦雄選集』
(1995. 夢窓庵)という尾高自らが晩年に論文を自選した論文集には、理論的なものが一切省かれている、尾高邦雄が途中から理論的なものを一切捨ててしまったことについては、非常に残念だ、こう富永は論じています。これは、本郷の社会学が理論を欠いた実証主義であるとする折原による本郷批判と重なります。
学生の頃私は、本郷の本丸は富永だと単純に思っていたのですが、こうした東京学派についての準備を通して、実はそうでもないのではないか、むしろ富永は実は異質な存在だったのかもしれない、こう思うようになってきました。折原は駒場にいて、本郷社会学に対してのアンチを意識し、自覚的に異端であったとも言えるのですが、富永も東大の年長教授や同僚たちと距離を感じていたからこそ、後年に『戦後日本の社会学』を書くことになったのでしょう。
聖典なき東京学派
二人の学者と東大ヴェーバー・シンポジムという一時点で見えてきたものだけで社会学の東京学派を論じるというのは、もちろん無理のある企てかもしれません。しかし以上みてきたことをもとに、社会学の東京学派というものがあると仮定し、その特徴を論じるとしたら、二つの圧力がそれを形作ったと述べることになりましょう。一つは、アメリカ的な実証主義という圧力。もう一つは、マルクス主義の圧力です。とりわけ後者を意識し、富永などは意識的にリベラル社会学という軸を作り、マルクス主義という圧力から東大の社会学を守ることを意識していたのでしょう。対マルクス主義については、尾高邦雄が『尾高邦雄選集』でSSM(社会階層と社会移動調査研究)について回顧している際に論じている一文が興味深いです。東大を中心にSSM
を立ち上げた理由は、マルクス主義の階級論ではない階層論、自由主義側の階層論につながるからというのです。SSMのような実証主義的な調査の背景にイデオロギー色があること自体が、今日からすれば意外にみえますが、当時の東大社会学を象徴的に語っているエピソードと言えるかもしれません。
冒頭に紹介した折原の本郷評に表れ、しかも富永による尾高への屈折した評価もそれを裏付けるように、東京学派というものがあるとすれば、「聖典」を作らない、かなり意識的に理論的な研究にのめり込まない、こうした特徴があったと言えるのではないでしょうか。その点では、富永はある意味では例外的な存在であるか、少なくとも嫡流とは言えないのかもしれない。これが勝手ながら私の結論となります。
Schoolnessを考える意味
最後に感謝の意味を込めて、もう一言。東京学派について考えるという企てに参加したときには、そのようなものは存在しないのではないかとただ思っておりました。しかしこの企てを通して、そもそも学派を学派たらしめるschoolnessとは何か、それを持つことの重要性とは何か、これを強く意識するようになりました。シカゴ大学にいるアボットA.
Abbottには、シカゴ学派の100年を論じたDepartment &
Discipline (1999)という本があります。その結論章は、まさにこのschoolnessを持つことの重要性を論じています。シカゴ学派が優秀な学生を惹き付け、優秀な学者を送り出していた頃の成功の決定的な要素は、AJSでもないし、パークなどのカリスマでもないし、調査重視ということでもない。結局は魅力的なアイディアを基本に据えていたからだというのです。状況situationやどこに位置しているか
locatednessを重視する社会学になろうとした、初期シカゴ学派の基本アイディアの魅力にこそ研究者が惹き付けられていた。こう結論した後、アボットは、ひるがえって現在をみて、この問題は、シカゴ大学の社会学だけの問題にとどまらず、社会学というディシプリンそのものが優秀な学生を惹き付けられなくなっていることにも通じる、と警鐘を鳴らします。
東京学派のプロジェクトに参加させていただいたことで、schoolnessの意義を意識してこなかったことを強く反省させられる契機になりました。私のような私立大学で社会学を教えている人間にとっては経営・広報戦略を考える際に重要だという卑近な意味だけではありません。日本の社会学がこれからも優秀な学生を集め続けていくための条件を考える上でも重要だ、こう強く意識するようになりました。私ごときは社会学全体については責任を負えないですし、肝心の東京学派についての結論は、ほとんどだせておりませんが、こうした意識を持てたことへの感謝を述べつつ、報告を終えさせていただきます。
園田:ありがとうございました。
出口先生は今まで研究会に出ていらっしゃらないので、コメントをお願いするのは恐縮ですが、どうかよろしくお願いいたします。
出口:ではコメントさせていただきます。
一橋大学社会学部から東大文学部社会学研究室へ
私自身は一橋大学社会学部の出身で、学部時代は社会思想史に強い関心を持っていました。特に、一橋大学の社会学部はヘーゲル左派の研究が盛んで、ヘーゲル左派と市民社会論、そこからマルクスの勉強をしました。その意味で、非常に理論志向が強く、私自身も経済学部のゼミに潜り込んで、資本論の第1巻を熱心に読んだりしました。私の当時の指導教官は佐藤毅先生という社会学、社会心理学の先生でしたが、同じく理論志向の強い先生でした。ただ、定年退職が近いということで、東大の社会心理学に行くか、社会学に行くか、ご相談したところ、「君は社会学がいいね」ということで、東大の社会学に来たのですが、自分の関心から言って、その選択はある意味で正しかったと思います。
中筋先生と矢野先生は、私が大学院のときに助手をされていまして、先生と呼ぶのに慣れないので「さん」と呼ばせていただきたいと思いますが、中筋さんと矢野さんの学問のスタイルは、一橋から来た人間から見ますと、当時の東大の伝統にいろいろな形で深く関係されていたと思います。
東大社会学と理論・実証という二本柱
修士1年のときの話ですが、社会調査実習という科目を履修して、農村に社会調査に行きました。福武(人物1)、蓮見(人物5)、似田貝(人物33)仕込みだと思うのですが、農協か何かの研修施設に泊まり込みで、調査票を持って農家を一軒一軒回るんですね。今まで、マルクスやフランクフルト学派の批判理論を読んできた人間からしますと、とても衝撃的で、社会学はこのようにやるものなのだ、と思いました。
私は大学院時代、庄司興吉先生(人物28)のゼミにいたのですが、そこにお一人、異端児がいました。実証研究を重視する東大なのに、ウェーバーのテクストを徹底的に読み込んでいるんです。矢野さんという人は、「うち(本郷の社会学)ではめずらしい研究をされている。折原先生(人物32)のところでウェーバーを読まれている」というように庄司ゼミの先輩からお聞きしました。そういう相互補完的と言いますか、調査だけではなく、テクストをきっちり読む、という伝統もこの研究室にはあるのだと思いまして、私からしますと、数少ない希望の星と言いますか、ここで学説研究をしていいのだと思った経験もあります。
そういうことで、あえて中筋さん、矢野さんと呼ばせていただくのですが、そのお二人の報告を受けて、私なりの考え方をまとめさせていただいて、簡単にお二人の先輩に質問をさせていただきたいと思います。
学派というものができるまで―フランクフルト学派の経験から
私の専門分野は、フランクフルト学派で、「学派」というものがどのようにできるのか、私なりの考えがあります。学派の作り方は私に聞いてくれ、学派を作りたいのであれば私にご相談ください、と思うのですが、それくらい「学派」というものについては、自分なりにいろいろ考えてきました。
まず、学派ができない理由、できる理由を簡単に考えてみたいと思います。フランクフルト学派という学派ができた理由を私なりに考えてみて、それと比較しますと、矢野さんのご指摘にあったように、東大学派は本当にあるのかどうかあやしい、またあったとしても、恐らく今まで東大学派は意識されることはなかったと思われます。そこで、なぜ東大学派というものが形としてしっかり成立していないかということ、しかし今後、できる可能性があるという将来の「希望」についてお話したいと思います。
まず、学派ができるためには、知が収斂することがとても大事です。1つのテーマに向かって行く、例えばフランクフルト学派だとファシズム、シカゴ学派なら移民の街シカゴというふうに、学派ができるためには知が収斂しないといけないと思うのです。
第二に、異端性があるということです。というか、異端でないと駄目なのです。フランクフルト学派は日本だと有名な学派ですが、ドイツでは異端児です。矢野さんはご存じだと思いますが、ケルンの社会学のほうが圧倒的に主流で、戦後のフランクフルトの社会学というのは、傍流といっても過言ではないと思います。また当時、ドイツの大学でフランクフルト学派のお家芸である「マルクス」と「フロイト」を正規の研究対象として取り上げるということは、かなり難しかったように思います。そういうことができたのも、ユダヤ人の人たちが参加して寄付で作った大学、市民が作った大学、そしてさらに、大学の正規の機関から距離をとった研究所であったということに原因があります。
第三に、学派は「外」からそう名付けられるということです。フランクフルト学派の関係者はみな、「フランクフルト学派」なんて存在しないと言うのです。そんなものは後からつけた名前であり、しかも1930年代に社会研究所に集まった数人のことを指しているのであって、まとまった学派みたいなものは存在しない、と当事者たちは常に言うのです。
第四に、地政学的位置が非常に重要です。フランクフルトは、東京に対する大阪のようなところです。ベルリンではないのです。文化と学問の中心はベルリンであり、ハイデルベルクもそうだと思うのですが、フランクフルトは、ベルリンやハイデルベルクにはさまれた商業都市なのです。つまりある種、周辺的な地政学的位置にある、中心ではないということです。それが学派となるための大きな要素だと思います。東大社会学は東京学派を形成したか?
そういう観点から見ると、東大の場合はどうだったのか。日本の社会学にとって、戦後という時代は未開拓領域が多すぎて、どんどん拡大していく、いわば拡大期だったのです。弟子にも多様性がありまして、先生がやっている研究とはまったく関係ない研究をやっている人がいっぱいいました。今の社会学研究室のメンバーもそうだと思います。逆に言えば、知が一つの方向に収斂しにくいということがあると思います。
「体制エリートとしての東大」ということで、東大出身者というのは社会の中心というか、日本の近代化を引っ張ってきた知的層、社会の中心的な層だったのです。しばしば、フランクフルト学派の批判理論がなぜ可能になったのかというときにも、彼らはイデオシンクラシー、要するに正常値から外れる「特異体質」を持っていたからだ、と言われるのですが、それに対して「東京学派」は、いわば元を正せば、東大エリートであったということ、異端性があまりなかったのではないか、と思います。
つまり、外部がないというか、要するに外から排除される経験がないので、集団としても凝集しませんし、外からラベルを貼られることもなかったということです。これが恐らく東京学派というものが、名前として存在しなかったし、実態としても非常に希薄だったということの理由なのではないかと思います。
Tokyo schoolの可能性
ただ、将来の可能性は非常に大きいと思っています。これが学派形成の四つ目の要因として私が挙げた「地政学的位置」とかかわってきます。東京や東大の地政学的位置が変わってきますと、Tokyo
school というのはあり得ると思います。これは残念なことですが、日本や東京の影響力が低下することの代償として、学問としては中心化していくのではないかと考えています。つまり、東京がローカル化していって、脱中心化していく。例えば学派という名前を持っているところを見てみますと、フランクフルト学派も京都学派も、恐らくシカゴ学派もそうなのですが、それなりに大きいが中心地ではないのです。脱中心化したときに、ある種の結束というか、知の凝集化が起こる。恐らくTokyo
schoolというのは、東大の社会学だけではなくて、その周辺も含めてだと思うのですが、そういったものが学派として、もしかしたら東京を中心とする日本の社会学のある種のまとまりというものが今後生まれてくるかもしれません。それをわれわれは発信し続けることによって、
「外」から見て世界の中で「東京の社会学」というものが徐々に形を見せ始めるのではないかと思います。
例えば、京都大学の先生ですが、作田啓一先生はフランクフルト学派第一世代のエーリッヒ・フロムの翻訳をされたり、ルース・ベネディクトの恥の研究を批判的に検討されて、「罪」と「恥」の二項対立的な考え方では駄目だということで、両者を媒介する「羞恥」という概念を提示されました。また、同じくフランクフルト学派第一世代のヘルベルト・マルクーゼを受容された栗原彬先生(人物34)は、マルクーゼ的な管理社会論では駄目なのだと、優しさということを問題にしないといけないと考えられたのだと思います。作田先生や栗原先生の研究を発展させて、恥じらいとか優しさというものを社会学的に位置付けることができれば、日本発の社会学理論、広い意味での東京スクールということで、海外に発信できるのではないかと考えています。福武社会学におけるマンハイムとフィードバック―そして社会調査の未来
以上のことを踏まえて、お二人の報告者への質問をさせていただきたいと思います。
まず中筋さんへの質問です。中筋さんは福武先生のご報告をされましたが、私の中では福武といえばマンハイムの翻訳者というイメージがあります。作田先生ではありませんが、海外のビッグネームの翻訳をされた。農村を一生懸命研究している福武先生(人物1)のイメージとマンハイムの民主的社会計画を翻訳された福武先生、そしてウェーバーの価値判断排除について議論された福武先生は、どこを目指されていたのかということです。つまり、福武の社会学の海外の学説の受容は何を目指していたのか。それと彼とのフィールドワークとの関係です。
2つ目は最初の福井県の調査に行ったときの話に戻るわけですけれども、やはり社会調査は、ある種お家芸というと変ですが、協力者への挨拶の仕方とか、調査票の作り方など、とても職人的な感じがしました。もしかしたら違う、とおっしゃるかもしれませんが、ひざを突き合わせて先生がやっているのを見て、こういうふうにやるのかと思いながらやっていた経験があります。そういう中で、今、社会を観察するといったときに、インターネットとか、ビッグデータとか、人工知能が出現して、こういう中で東大の社会学の実証主義を支えてきた社会調査というものはどういう可能性があるのかということをお伺いしたいです。
両極に振れる学説研究―テクスト・クリティークか創造的曲解か?矢野さんに聞かないといけないのは、99年のウェーバーシンポジウムはどうなったのでしょうか、ということです。私や当時の院生たちが矢野さんのお手伝いをして99年のウェーバーシンポジウムを開催しました。矢野、ダブル橋本コンビ(橋本直人(神戸大学教授)、橋本努(北海道大学教授))が中心となって、東大でウェーバーシンポジウムが開催されました。このときの出席者も、そうそうたるメンバーだったと思うので、もしかしたら矢野さんにとっては黒歴史なのかもしれませんが、99年のウェーバーシンポジウムをどう位置付けられるのか、ということをお伺いしたいです。
最後に、折原先生と富永先生(人物6)のご関係について論じられていたのですが、日本の学説研究というのは両端に振れている感じがします。緻密なテクスト・クリティークを行っていて、日本のウェーバー研究やマルクス研究というのは世界に行っても通じるように思います。ドイツ語を母語にしている人たちもびっくりするくらい、緻密なテクスト・クリティークをやるかと思えば、そこに、学説なんて社会を知るための道具だから「創造的曲解」でいいのだというような、ある種のプラグマティズムみたいなものも奇妙な形で併存しています。なぜ両極に振れているのに仲がいいのか。仲が悪い場合もあると思いますが、例えば折原、富永先生の場合、共存できてしまったのはなぜなのか。これは日本の文系学問の縮図なのかもしれませんが、この
2点についてお伺いしたいと思います。
ご報告どうもありがとうございました。大変勉強になりました。
園田:どうもありがとうございました。
本来ならばここでそれぞれ2つずつ課題が出て、それをどう考えるか討論をしたいところですが、お昼になりますので、ここで一旦中休みを取りたいと思います。今出た2つの質問は総合討論のほうでそこから始めたいと思います。中筋先生と矢野先生は今出た2つの問い、課題に関して考えていただきまして、1時から第2部のセッションに進みたいと思います。これから1時間ほど時間を取りますのでどうぞお休みいただければと思います。
それでは午前のセッションは一応これで終わりにいたします。ご苦労さまでした。
5 第3報告 家族研究における戦前/戦後の諸潮流-家族変動論の一つの困難-
――米村
千代(千葉大学大学院人文科学研究院 教授)
家族社会学における東京学派
「東京学派」について家族研究から考えることが本報告の主題です。実は、仮に東京大学文学部社会学研究室に限定してみても、家族社会学を主たる専門とする太い流れが見えるわけではなく、「東京学派」とは何かという問いにここで直ちに答えを導き出すことは簡単ではありません。ただし、直接の答えは見いだせないとしても、家族研究に焦点を当てて学派について考えるためには、「東京学派」に何らかの形でかかわると考えられる研究史をたどることが必要な作業だと考えます。そこで、本稿では、家族研究における戦前から戦後への研究史をいくつかのキーワードから眺めることで、東京学派について考えるための手がかりを得たいと考えています。
日本の家族変動を100年程度のスパンで考えようとすると、戦前・戦後という区切りをどのように捉えるかという問題にぶつかります。その間に太い線を引く研究もあれば、線を引き直す研究、断絶ではなく連続性で捉える研究もあり、これまでに多くの議論がありました。家族の連続性と変化を捉えるにあたり、大きく影響していたのが、家や村から都市家族への研究の焦点の移行です。家と村の構造を解明することは、いうまでもなく、日本の農村社会学の大きな課題でした。しかしながら、ある時期から同族や村落の研究は家族研究において周辺化され、問われることが格段に減っていきます。変わって注目を集めるのが都市家族であり、アメリカ社会学です。
日本における家族社会学の展開過程において農村と家がどのように位置付けられてきたか、「封建遺制」に関する議論に焦点を当ててみると、そこには、家や村を語ることの困難が、困惑や沈黙、あるいは敬遠として現れています。このことと戦前からの小家族論の系譜が重なり合う先に、その後の家族研究の展開を見ることができるのではないか、と考えています。
ここでは、「東京学派」と「家族社会学の研究史」が重なり合うと思われる面に現れるいくつかのキーワードとともに、家族変動論を振り返るべく、
2つの文献をとり上げます。なお取り上げる方々の敬称は略させていただきます。一つは、東京大学文学部出身の4人の家族研究者に関する森岡清美の論文です。もう一つは、1951年に日本人文科学会より刊行された『封建遺制』です。これらの文献を通して、家族研究史から東京学派という課題について考えるための、いくつかの素材を提示できればと思います。もっぱら先行研究の引用からなる報告であることを、どうかご容赦ください。
森岡論文(2011)にみる戦前家族社会学
(1)鈴木栄太郎・有賀喜左衛門・小山隆・喜多野清一
まずは、2010年の家族社会学会の第20回大会に際して、森岡清美が記念講演として報告し、『家族社会学研究』23巻1号に寄稿した論文を取り上げます。「私が出会った家族研究の四先達-鈴木・有賀・小山・喜多野の諸先生-」という表題で、鈴木栄太郎(人物12)、有賀喜左衛門(人物14)、小山隆(人物35)、喜多野清一(人物20)を取り上げています。実際の発表の中では、礼状などを紹介されながら発表されましたが、論文の中には含まれていません。
森岡は4人を取り上げる理由を以下のように続けます。
みな東京帝国大学文学部出身で、鈴木先生は倫理学、有賀先生は美学、小山・喜多野先生は社会学というわずかな差異はありますが、鈴木先生の第一高等学校入学が後れたため、四方の東京大学卒業は1922年から 25年の4年にまとまり、ほとんど団子状になって社会に登場したことが判明します。以上が、ご案内の四方を取り上げかつ四方にしぼった理由です。(森岡、2011,
8)戸田貞三(人物15)については、「戸田先生の家族学説から大きな影響を受けた」、「日本家族社会学会史としては逸することができない方」としながら、「省かせていただいた」理由を以下のように述べています。
副題に四先生のお名前をあげましたが、本当は最初に戸田貞三先生(1887-1955)をご紹介すべきところです。先生のお話は聴衆の一人として伺ったことはありますが、私は東京大学出身ではありませんので、学生として先生の講義やゼミに出席したことはなく、したがって、一対一の出合いや手紙を差し上げたり頂いたりしたことがないのです。(森岡、2011,
7)
上記の理由から、戸田を直接取り上げてはいないものの、実は、4人の家族研究を概観するにあたり、戸田の家族研究との関係、より具体的には戸田の著書『家族構成』が一つの準拠点になっています。『家族構成』はご存じの方が多いと思うのですが、1章が家族の集団的特質について論じている理論部分で、後半が国勢調査に基づく実証的な研究になっています。
後半の実証研究の継承者として小山隆を、集団的特質の理論部分についての継承者として喜多野清一という整理を森岡はしています。そして、有賀喜左衛門は『家族構成』の批判から有賀喜左衛門論争が巻き起こったことからも分かるように、戸田学説の批判者という位置付けです。
(2)戸田貞三と小山隆
小山については、以下のエピソードも紹介しています。
家族研究に収斂してからは戸田貞三さんの『家族構成(』1937)に負うところが大きいようです。学部在学半ばで建部遯吾教授(1871- 1945)が辞任し、代わって主任教授に就任した戸田さんは同級生をどんどん落として留年させたので、反抗的な気持ちから近寄らず、非常勤講師の綿貫(哲雄:人物37)さんを指導教授として「与論の生成」に関する卒業論文を書いたと、小山さんご自身からお聞きしたことがあります。しかし、高岡高等商業時代の大家族に関する研究発表に、もっとも興味を示したのは戸田さんだったようです。(森岡、2011,
14)
このエピソードに続けて、小山が国勢調査資料に関する戦後の研究で戸田家族社会学の継承者と目された、としながらも、次のように留保をつけています。
私のみるところでは、小山さんは戸田さんの実証研究の後継者であって、第一章「家族の集団的特質」にかんする議論の後継者とはいえないのではないでしょうか。「日本社会学の科学的意義(」1935)という堂々たる社会学論を展開し、家族について優れた実証研究をなさった小山さんに、抽象的な科学論と個別の具体的な家族研究とのいわば中間の家族論が、家族分類論を除いて、どういうわけかないのです。鈴木・有賀・喜多野のお三方にはそれぞれユニークな家族論があるのに、どうしてでしょうか。(森岡、2011, 14)
小山隆の社会学については後半でも少し触れますので、ここで踏み込んだ考察はしませんが、日本の家族社会学が、分析枠組みとしては核家族論を用いながら、家族の実証主義的研究に重点を置いていったことの一端がうかがえるのかと思います。
先ほど、出口さんのコメントの中で、命名は外からなされるというお話がありました。森岡自身は東京大学出身ではないので、外から見ると、この4人についての括りが見えるということかもしれないと、先ほどのコメントを聞いて思った次第です。森岡が取り上げている4人がお互いをどんなふうに認識していたのかは、残念ながら今の自分から想像することはできません。また、森岡のこの論考に戸田貞三以前の東大の社会学に関する言及はなく、家族研究についての戸田以前からの流れを辿ることもここでは残念ながらできません。
ただ、戸田貞三を起点として、その後の日本の家族社会学の展開を整理しようとする際に、森岡によって紹介され、まとめられている4人の関係性は、研究史の一つの流れを象徴的に示していると思われます。この論考で森岡は、鈴木・有賀について、家族論はあるとはもちろん論じているのですが、現代家族に関する考察はない、あるいは少ないと位置付けています。小山隆については、家族論がないとしながらも、戦後家族に関する調査研究や共同研究の功績を認めています。
この森岡論文は、家族社会学会の20回大会で報告されたという文脈があるので、現代家族に関してどのようなインプリケーションがあるのかという点から整理されているため、このような評価になっていると思われます。
後半の『封建遺制』とのつながりでは、有賀、鈴木、喜多野には、家とは何かということに関する理論も含めた知見があります。しかし、家族論、特に戦後家族に関して、家族とは何かという本質論や集団的特質の議論は、ここで取り上げる社会学者の中では、後退していく位置付けになっているといえます。
(3)補助線として
ここまで森岡論文から4人と戸田貞三を紹介しましたが、東大社会学の家族研究史を論ずるためには、福武直(人物1)や、ここで紹介された人の後に教鞭をとる青井和夫(人物36)らを取り上げることができると思います。青井和夫については、田渕六郎による紹介がありますので、ご参照ください
(田渕、2013)。
福武についてここで多くを論じることはできないのですが、千葉の研究をしているなかで、千葉県の農村中堅青年養成所に福武が講師として通ってくるというエピソードに触れる機会がありました。そこで見る福武像は、泊りがけで青年たちと熱く語り合って、農村の現実を見つめています。例えば、従来の価値観を持っている親と生活している若い農業青年たちが、どのようにこれまでの家や村を変えて、次の農村をつくっていくのかということを、極めて現実的な問題として受け止めています。新旧の価値観が共在する場として農村を見ているということが分かります。そこに近代化に向けた情熱も感じる一方で、実現に向けた現実の困難さも見ていたということがうかがえます。
ですから、後半では、小山隆による福武批判などが出てくるのですが、その批判にあてはまらない福武像もあるという気がしています。今回、あまり紹介できなかったのですがここで補足させていただきました。
それから、ここで紹介されている4人の後の展開を考えていく上では、森岡清美自身の社会学に接合して解釈していくことがおそらく重要な作業です。戦前と戦後の家族社会学は、家から家族へという研究の重点の移行の過程で断層があります。その接合という意味では、森岡社会学への流れを捉えることが重要なのだろうと思っています。
また、森岡論文からは、戸田貞三と鈴木栄太郎との関連はほとんどうかがえないのですけれども、鈴木栄太郎におけるアメリカ農村社会学の影響や、森岡清美へと継承されていく家族の周期的変化に関する研究も、家族社会学の戦後の展開を考える上では重要です。
それらとはまた別の流れとして、戦後家族の実証研究におけるパーソンズの機能主義の影響と接合することが課題だろうと思います。青井和夫はパーソンズ等、集団主義的な家族論や機能主義から家族を見ていて、社会化論を展開していますので、そこにつなげてみると、もう少し家族社会学史としての流れが見えるのではないかと思っています。
次に『封建遺制』を取り上げ、少し別の角度から、戦前、戦後の家族研究の断層の一端を紹介することにします。
『封建遺制』について
(1『)封建遺制』と小山隆:渡辺秀樹による紹介では、次は角度をかえて、1951年日本人文科学会によって編纂された『封建遺制』を紹介しながら戦前・戦後の家族研究の断層の一端を紹介させていただきます。敗戦直後の封建姿勢批判のブームについては、渡辺秀樹(人物
38)が分かりやすく、詳しい紹介をしています(渡辺、2013)。本節の整理の多くの部分は渡辺の指摘に依拠しています。
戦後、<封建遺制>批判は、占領下における民主化という明示的な政治課題に応える不可避な社会科学的任務であったということができるだろう。しかし、そのなかで、さまざまな社会的・文化的特質を十分な科学的検討に付すことなく、批判の波でさらっていってしまうような論調が支配していたとすれば、問題なしとするわけにはいかない。(渡辺、
2013,
10)
渡辺は続けて、小山隆が「このような政治的表現を科学的表現として用いることは非常な誤解と危険を伴いやすい」と指摘していることを紹介しています。これは村落社会研究会の年報の創刊にあたって、1号に寄稿された「家族」と題された小山隆の論文です。復刻版から引用します。
このような直系家族の伝統に対する固執を以て封建的であるとする見方は極めて通俗的に行われているが、その当否については異見が多い。日本人文科学会の封建遺制に関する報告の中にも、福武直「家族に於ける封建遺制」小山隆「家族構成の面から見た封建遺制」喜多野清一「同族組織と封建遺制(」1951)の題下に問題を取り上げたが、福武はその後
「日本農村の社会的性格(」1949「)日本の農村社会(」1953)等においても同じ問題をとりあげている。然しながら農村家族の中で何が封建遺制であるかということを決定するということは、決して容易なことではなく、このような政治的表現を科学的表現として用いることは非常な誤解と危険を伴いやすい。(小山、1954→1977,
62-63)ちなみに、この村落社会研究会の年報の1号は、小山隆が「家族」の章を書いているのですけれども、その前の章は、「村落」と題して福武直が寄稿しています。ここだけ切り取ると共著者への批判的な表現ともとれて心配になりますが、実は、続けて、「福武が後にこれを前近代的性格として断っていることは賢明といわねばならぬ」という補足があります。通して読むと、本当はもう少し婉えんきょく曲的です。そして、途中を少し省略しますが、以下のように続きます。
(前略)伝統的な家の観念がどの程度に弱められているか、家長の権威の後退の程度とこれに随伴する諸問題、相続に関する制度の変化とその実態、制度上の夫婦家族と事実上の直系家族との調整等の諸問題について、客観的な基準による測定や分析は科学的にもまた政策的にも重要な課題でありながら未だ十分な検討が加えられていない。しかし現下の実状はむしろ政治的な関心に支配されることの余りにも多いために、そのような科学的な立場が閉却され、むしろ敬遠される傾向にあることは、十分警戒されねばならぬ。(小山、1954→1977,
63)
小山がここで「敬遠」と表現していることは、実は、以下で紹介する喜多野や有賀に共通する時代認識であると言うことができるでしょう。なお、ここでの小山の家や家族に対する現状認識は、消え去った過去の問題ではなく、今日の家族についてもある程度あてはまる問題だと言えます(米村、2014)。
小山は、「五 家長権と封建家族の問題」と題されたこの節に続く「六 家族の動態的研究」を次の文章で締めくくっています。
封建的な家族の性格を規定することで科学の任務が了るのではなく、現実の家族の動きつつある姿をそれに照してとらえることが更に重要な課題である。動態学的観点からとらえられる諸傾向の中にわれわれは農村家族の正しい知識を期待し得るであろう。(小山、1954→1977,
64)小山の社会学者としての科学的、学術的立場がうかがえる文章です。先ほど森岡は、「小山先生に家族論はない」と指摘していることを紹介しました。家族論がないことの理由はわかりませんが、戦後家族の実態や動態を科学的、客観的に捉えるという実証研究の重要性は、この記述にも共通しています。こうした問題意識に基づいて、戦後の家族研究を展開したのだと理解することもできると思います。
(2『)封建遺制』における喜多野清一
同書において、人文科学委員会副委員長和田小次郎は「跋文」において以下のように述べています。
読者は、各研究者の報告を読んで、われわれ日本人の社会生活のなかに、いかに多くの封建的なもの、また近代以前的なものが残存しているかを知られるであろう。そのなかには、長い間我々自身が無意識のうちにとってきた生活態度や生活様式もある。(中略)そして、そのような封建的なものの残存がわれわれの社会生活の正しい民主主義化を妨げているのであり、それが封建的であることに無意識であればあるほど、正しい民主主義化を妨げる力が大きいことになる。(和田、1951,
330)さらに以下のように続けます。
まず、封建的なもの、または、近代以前的なものの残存は、何といっても農村において最も顕著であり、且つ農村における封建的なものの残存が、直接間接に、他のあらゆるそれの源泉をなしている、とも考えらえる。(和田、1951,
330-331)
このような趣旨で編まれた報告書において、農村社会学者で同族研究者であった喜多野清一は、どのように村落や同族を論じているのでしょうか。次に『、封建遺制』における喜多野清一の論考を取り上げます。なお『、封建遺制』に関する最近の研究としては、先にあげた渡辺の論文に加え、本多真隆による紹介もあります(本多、2018)。
喜多野は「同族組織と封建遺制」と題した論文において、ヴェーバーの家産制の概念を持ち出し、封建制と家産制の概念を対峙させる中で、同族組織は、むしろ家産制に近いと指摘しています。そうした学問内在的な指摘に加えて以下のように述べています。
ところでこうした影響によって同族団に封建関係的潤色が加えられることがあるとしても、同族団そのものの結合の性格を封建的ということは出来ないと思うのであります。従って今日ある同族団を指して封建遺制ということも当たらないと思います。(中略)
社会関係としての性格が非近代的非合理的であるというような点から、大まかに封建遺制であるというのであるならともかく、われわれとしてはこのものの社会結合の本質を社会学的に究明しなければならないと考えているのであります。(喜多野、1951,
194–195)
「封建遺制」と題された研究会で、しかも「農村における封建的なものの残存」が「民主主義化を阻む」という趣旨の研究会にあって、農村社会学者としての社会学的立場を貫こうとする喜多野の態度表明ともとれるのではないかと思います。
先に紹介した、小山の家族の動態把握の重要性を指摘する社会学的立場とも通ずるものがあるのではないでしょうか。なお、本書には小山の報告も掲載されていて、小山隆は「家族構成の面から見た封建遺制」と題して、家族構成の変化を実証的に取り上げています。論文の最後の文章は、「社会の変動過程を精密に測定すること」の重要性を指摘します(小山、1951,
167-174)。
喜多野は後に当時の状況を振り返って、次のように述べています。今日では家族という名辞はただ学術用語としてだけでなく、一般用語としての通用範囲を次第に拡げつつある。そして家というとなにかしら前代の「封建的」遺制であるかのように受けとられるので、家族生活の近代化が進むとともに、いっそう家族という名辞を拡げてゆくことになるのだろう。また「家」にとって今一つ不幸な事情は、それが戦前と戦後とを通じてイデオロギー的論議の的となったために、家概念はしばらくの間かなり特殊な立場に立たされてきたということである。日本社会の近代化が遅れていて、家父長制的な伝統が家族生活の中にまで力を残していたこと自体が問題である上に、戦争を挟んでその前後に、まるで逆な方向でイデオロギー的評価を受けてゆさぶられたという事情が、日本の家を考察する上に特別な困惑を附加しているように見えるのである。
(喜多野、1965→1976,
87)
喜多野の「困惑」は、次に紹介する有賀の態度とも共通する面があると思われます。
(3)有賀喜左衛門にとっての『封建遺制』
喜多野が「困惑」と述べていることとは、少し文脈が異なりますが、有賀喜左衛門が当時を振り返っている文章に、ある種、時代的な共通性を見ることができると思います。
中野卓は『、社会学評論』に寄せた有賀の追悼文において、有賀が『封建遺制』の研究会への参加を承諾しなかったことを紹介しています(中野、1980)。有賀は自身の著書『封建遺制と近代化』において以下のように言及しています。
1945年の敗戦以後、日本文化ないし日本社会の性格について封建性や封建遺制を指摘することが激しい流行となったのは、いまでも記憶に新しい。そしてこれは日本社会の日本的な性格が民主化や近代化を阻害するものであるとみる否定的評価につながるものであった。私は戦後のような激しい変化の中で自分の見方の方向を見失ったこともしばしばであったが、あわてふためいて自分の足場を失うことを痛切におそれて来た。わからない時はうずくまった自分を見つめるよりほかないと思った。そして激しく変化していく波濤の底の海の深みを探りたいとおもった。(有賀、1967,
1)
この文章は『、封建遺制と近代化』と題された著作集第4巻の序にあります。有賀もまた、自分の方法で、時代の潮流とは異なる形で封建遺制を問おうとしたのだと言えます。
日本の家族変動論において家と家族をどのように対置し、変動の枠組みに位置付けるのかという問題は、概念化や定義の問題を含め、日本の家族社会学の大きな課題でありました。今から振り返ると、家について語ることにまつわるこの時期の「空白」を埋めるには、思いのほか長い時間がかかったと言わざるを得ません。まとめにかえて
(1)封封建遺制、家族制度批判、家族の民主化
2つの角度から本考察で見てきたことについて、4点にまとめて終わりにさせていただきます。1点目は、論じた順番とは逆になりますが、封建遺制や家族制度批判、家族の民主化に関することです。特に封建遺制という概念を中心に紹介しましたが、戦前の家や村は現実においても、学術の世界においても、乗り越えるべき、批判すべき対象として位置付けられたということです。特に小山、喜多野、有賀の3人の引用で紹介しましたように、その状況下で家や村が論じにくい時期があり、同族や村落の研究が家族研究において周辺化していったということがありました。
そして、同時期に並行して、家や村にかわって、都市化や核家族化というキーワードのもとに、新しい家族の動向を捉える実証的な研究が、家族社会学の中では主流になっていったと言えると思います。(2)小家族論から核家族論へ:実証研究への展開
戦後家族の実証研究への展開について、ここで紹介したもう一つの流れは小家族論からの系譜です。戸田貞三が『家族構成』で展開した小家族論は、理論的な部分については喜多野清一によって継承されて、森岡清美自身は、ここで取り上げた論文では明確には書いていませんが、やはり森岡らの核家族研究へと連なっていく流れがあります。
しかし、その戦後の核家族論は、マードックやパーソンズらのアメリカ社会学の実証研究の影響を受けたという点もありますので、戸田貞三の『家族構成』から一本の線だけでつながっているわけではないと言えます。さらに言うと、核家族論、特に森岡の核家族論は分析概念として核家族をとらえる要素が強いので、戸田貞三の論じた家族の特質に関する議論については、少し慎重であったと言えます。
他方で、『家族構成』における家族の実証研究という側面は、戦後の家族研究の一つの大きな潮流に連なっていくと言えると思います。「家」の研究が、日本の「家」とは何かを問おうとした理論的、思想的な側面を持っていたこととは対照的に、戦後の家族研究は、特に計量研究においては、実証研究からその実態や変動を問うことに重点が移動したことを特徴として挙げることができます。
森岡が取り上げている社会学者達について、家に関する議論はあるけれども、現代家族に関する視点がなかなか見えないと指摘していることを紹介しました。おそらく森岡自身、家と家族をつないで家族変動論を作る、理論と実証研究との双方を内包した日本の家族変動論となることを自身の研究として強く意識されていたと言えます。
(3)
家族変動論の現在
家や村の研究に関しては、非常に強い磁場が存在していて、それを論じることに躊躇があったことを、小山、有賀、喜多野の論述から紹介しました。実は、その後の家族社会学においても家や村の語りにくさは存続し続けました。現在は、本文中で紹介した渡辺論文や若い研究者による研究などもあり、封建遺制や家族の民主化に関する当時の議論が、改めて新しい文脈で再考されています(渡辺、2013()阪井、2012()本多、2018)。
「家からの解放」という表現が、とりわけ若い世代を中心に既にリアリティーを失っているなかで、長い空白を越えて、慣習や生活としての「家」や「村」を家族変動のプロセスの中で社会学的に論じやすくなっているのが現在なのではないかと思います。
(4)
東京学派という観点から
4点目は、「東京学派」という主題について、もう一度、振り返ります。家族社会学において、東京学派として明確な筋を見出すことはやはり簡単ではありませんでした。森岡によって取り上げられた4人も、東京帝国大学文学部出身という共通項はありましたが、東大で教きょう鞭べんをとっているわけではなくて、在職していたのは、大阪大学、早稲田大学、北海道大学などですので、明確なラインとして、戸田貞三以降、太い線で家族研究の流れが見えるということは、やはりないのだろうと思います。
とはいうものの、家族社会学の研究史において、戸田貞三からの学問的な系譜は、太い線かどうかはわかりませんが、たどることはできます。一つは、戦後の家族研究、家族社会学の中で一つの大きな潮流となっていく実証的な研究であって、国際共同研究も含めた調査研究のプロジェクトをチームで組んでいく傾向につながっていると言えます。
それと併せて、社会の現実、実態から動態をとらえる、データから家族を捉えるという態度は非常にストイックに展開された側面があり、逆に、家族に関する思想や文化を社会学的に語ることについては、やや慎重になっていた傾向は否めません。家や村に関してある時期活発に展開された議論が、戦後の空白によって、都市家族の実証的な研究へと移行していくなかで置き去りにされてしまったことは、渡辺が指摘するように「問題なしとするわけにははいかない」課題です。両面はあるかもしれませんけれども、人文社会科学として、家族の実態や動的過程を把握することを重視する、分析者としての、社会学者としての態度を重視するというような、エートスというのでしょうか、社会学主義的態度は貫かれていることは、連続性として見ることはできると考えます。
参考文献
有賀喜左衛門 1967『封建遺制と近代化 有賀喜左衛門著作集Ⅳ』未来社本多真隆
2018『家族情緒の歴史社会学』晃洋書房
喜多野清一 1951「同族組織と封建遺制」日本人文科学会編『封建遺制』有斐閣、175–195.(喜多野1976に再録)
1976『家と同族の基礎理論』未来社
小山隆
1951「家族構成の面から見た封建遺制」日本人文科学会編
『封建遺制』有斐閣、167–174
1954→1977「家族」『村落社会研究年報』1:56–64
森岡清美 2011「私が出会った家族研究の四先達―鈴木・有賀・小山・喜多野の諸先生―」『家族社会学研究』23(1):7–18.
中野卓
1980「追悼文 有賀喜左衛門先生を悼む」『社会学評論』
31(1)94–99.
日本人文科学会編1951『封建遺制』有斐閣
阪井裕一郎 2012「家族の民主化―戦後家族社会学の〈未完のプロジェクト〉」『社会学評論』63(1):36–52
田渕六郎 2013「青井和夫先生の家族/ライフコース研究」『家族研究年報』38:147–158.
和田小次郎 1951「「封建遺制」跋文」日本人文科学会編『封建遺制』有斐閣、329–334
渡辺秀樹 2013「多様性の時代と家族社会学―多様性をめぐる概念の再検討―」『家族社会学研究』25(1):7–16.
米村千代 2014『「家」を読む』弘文堂
6 「社会学アジア・コネクション」:第4報告 東京学派の中のその歴史的回顧と教訓
――園田
茂人(東京大学東洋文化研究所 教授)
本日のセッションの冒頭、東京学派を議論する意義について指摘し、私自身の個人的経験を語る中でアジアとの接点について触れましたが、本日の報告では、東京大学の社会学がアジアとどのようにつながっていたか、そしてその背後にどのようなダイナミズムがあり、結果的にどのような成果を生み出すことになったかについて触れ、生産的、自省的な議論ができればと思っています。
本報告で用いる概念
東京学派とは何かという問題に関してですが、学派としての操作的な定義ができたとしても、特定の人物が東京学派に入るか入らないか、判断するのが難しいといった問題があります。先ほどの矢野先生の話に絡めていえば、駒場の教員は東京学派に入るのか、入らないのかといった問題もありますし、東京大学は卒業したものの東京大学で教えていない研究者も多くいますが、彼らは東京学派のメンバーなのかどうかという問題もあります。
特定の人物が東京学派に入るのか否かということに関しては、本報告では相当ラフに、「東京大学の学部や大学院で社会学者としての基礎的な訓練を受けた、あるいは東京大学で教壇に立った方」を東京学派のメンバーとしています。
東京学派の社会学者がアジアの社会学(者)といろいろな形で繋がることになるわけですが、その契機や内容を、この報告では「接着剤(Connector)」と表現します。社会学では、「接着剤」という概念はあまり用いられていないと思いますが、まずはこの「接着剤」という概念について注意してください。また、アジアと日本を繋げている人もいます。彼らは、特定の目的――理念の共有や利益の共有などを含みます――からアジアと日本を繋げようとしますが、本報告では彼らを「接合人(Connecting
Person)」と表現します。そして、この「接着剤」と「接合人」という概念を用い、140年近い東京学派に見られる社会学の歴史を回顧して、アジアと日本の結びつきを検討してみようと思います。
洋学としての社会学:1890年代~20年代
日本の社会学を論じる際に決定的に重要なのが、これが西洋からの輸入学問としての性格を強く持っているという点です。後に東京帝国大学の総長となる外山正一(人物39)が、東京大学で社会学を講じた第一世代なのですが、外山は渡米しアメリカで社会学を学んでいます。これが第二世代の建部遯吾(人物16)の時期になりますと、不思議な形でアジアと繋がるようになります。建部もヨーロッパに留学し社会学の知識を獲得しますが、他方で陽明学の素養も持っていました。「普通社会学」と呼ばれる学説は、西洋の諸学説と陽明学とを折衷させた体系的なもので、そうであるがゆえに同時代の欧米の社会学者と同じ次元で議論をすることができた。そういう人物が第二世代として東京大学で勤務しました。建部は中国の古典的素養を持っていたものの、同時代の中国の社会や中国における社会学の動向については、あまり強い関心は持っていませんでした。
佛教大学の星明先生が精力的に研究されているのですが(星,2015)、
1910年以降の中国の社会学を見ると、基礎的な概念が清国留学生によって日本から中国に輸入され、西洋からやってきた概念をどのような漢語に置き換えるのか、それをどう理解するかといった訳語・概念の吸収が、日中間の「接着剤」となっていたことがわかります。東京大学で社会学を学んだ清国留学生はいないようですが、彼らは、東京大学で社会学を学んだ人びとの著作を翻訳したり、その翻訳を通じて概念を中国に伝える役割を果たしました。下の左に建部遯吾の写真がありますが(写真4-1)、その右にいるのは康宝忠という人物で、この方が最初に北京大学で社会学を講じたと言われています。彼は清国留学生として日本にやってきて、後に辛亥革命に参加した人物ですが、彼は早稲田大学の経済学科に所属し、東京学派の社会学に接しました。また博士号を取るのはLSEからですが、東京高等師範(現在の筑波大学)で学んだ陶孟和という、一番右にある方ですが、この方も当時東京高等師範で教えていた遠藤隆吉(人物40)に社会学を教えられています。
建部遯吾(1871–1945) 康宝忠(1884–1919) 陶孟和(1887–1960)写真4-1
当時訳されたのは、建部の『理論普通社会学綱領(』1904年)や遠藤隆吉の『社会学(』1901年)、『近世社会学(』1907年)、有賀長雄(人物41)の『族制進化論(』1884年)といった著作でした(写真4-2)。このように中国は、西洋の学問として社会学を導入することに一日の長があった日本を利用し、西洋概念の土着化、漢語化を行っていきました。
写真4-2 遠藤隆吉(1874–1946) 有賀長雄(1860–1921)
社会学のローカル化・実証化の中のアジア:1930年代~40年代
ところが、その次の第三世代になってきますと、日本国内で中国国内でも、社会学のローカル化が進みます。日中双方で自国の言語を使いて社会学の概念的なツールを作るようになり、何よりさまざまな調査を行いデータを集める実証研究が1920年代以降、日中でほぼ同時期に進められることになります。もちろん、これにはアメリカの影響が関係していますが、このようにローカル化と実証研究化という二つの契機によって、社会学に関する知識の再生産が行われるようになっていきます。
家族をテーマに社会学のローカル化・実証研究化を進めたのが戸田貞三(人物15)で、農村で展開したのが鈴木栄太郎(人物12)でした。そして今日の第一報告で中筋さんにご紹介いただいた福武直(人物1)と、私の指導教員である富永健一(人物6)先生の師匠である尾高邦雄(人物7)の二人が、アジアと深く関わることになります(写真4-3)。
写真4-3 福武 直(1917–1989) 尾高邦雄(1908–1993)
富永健一先生が1991年に東京大学を退官する際、記念文集を作成し、ハーバード大学のエズラ・ヴォーゲル先生に寄稿をお願いしたのですが、「東京大学に留学していた頃、社会学研究室は日本社会を多面的に見るために、農村研究の専門家である福武と都市研究の専門家である尾高の二人が配置され、富永は尾高の流れを汲んでいた」といった文章を下さりました。尾高、福武の両先生とも、最初は理論研究から入り、後に自分の意図とは違う形――実際には委嘱を受けるのですが――で実証的な調査に従事することになります。
尾高邦雄と福武直にとっての「外地」
先ほどの矢野先生の報告に尾高のお話が出ていましたけれども、尾高がお気に入りの文章の中の一つに「自分がどうして実証研究に着手するようになったのか」に関しての紹介があります。ちょっと読んでみます。
さて、応召した年[注:1941年]の秋、陸軍病院を退院して、同時に召集解除になりましたが、そのころから、学問論や方法論にはあきあきして、実証研究がやりたくなりました。ちょうどそのころ、海軍から声がかかって、中国南端の陸上にある海南島という島で民族学的調査をやることになったのです…一ヶ月ほど原住民[注:黎族のこと]の生活実態の調査をやっていましたが、わたくしにとってこれは、それまででいちばんおもしろい時期のひとつでした。(尾高,1995
: 9-10)
この文章は、尾高にとって中国・海南島での民俗学的調査が実証研究にシフトしていく大きな契機になったということを示唆しています。
同じことは実は福武についても言えて、先ほどの出口先生の質問への回答のヒントになることを、自らの著作集の中で述べています。福武は徴兵を免れる特別研究生となりましたが(1943年に「支那農村社会ノ研究」という研究テーマで特別研究生に選ばれています)、その辺りの経緯をうまく説明する文章です。
[注:卒業]論文もすませて肩の荷をひとまずおろしたこと、何とか父の厄介にならなくてもすみそうな話がもちあがった。[1939年]十二月下旬、私は今井さん[注:今井時郎]と林さん[注:林恵海]が興亜院依嘱の中国農村調査をひきうけるので、四月からその研究助手として手伝わないかという誘いをうけたのである。助手として手伝えば、調査出張旅費から手当を捻出してやろうということであった。この話が、私の研究生活の方向を決定することになった。自分できめた研究ではなく、手当をもらえるということで農村の研究に入ることになったのであるから、その点では随分便宜的なことだといわざるをえない。しかし、私は、この誘いをうけるからには、単に手伝うだけでなく、自分としても、やれるだけやってみようと思った。(福武,1986
: 43)
福武自身は「便宜的だ」と述べていますが、必ずしもネガティブではなくて、
「(その後の自身の研究を決定する重要な契機なので)自分としてはやれるだけやってみようと思った」と述べています。先ほどの中筋さんの説明にあったように、戦後福武は日本の農村研究に舵を切ります。他方尾高は、日本の企業を対象に研究をし、労働者の二重帰属意識――企業の一員としての強い意識と労働者としての意識が共存する状態――を指摘するなど、日本における産業社会学の基礎を作ります。フィールド重視か文献重視か
先ほどの米村さんの報告に出てきた鈴木栄太郎は、京城帝大の助教授として朝鮮に赴任し――この段階で既に『日本農村社会学原理』を刊行されていますが――、重厚な朝鮮農村社会論を展開します。また戸田門下の岡田謙(人物19)も台湾の少数民族の研究を行い、社会学者というよりは、むしろ民俗学・文化人類学的な研究者として活躍します。このように、フィールド重視の研究が、大日本帝国の領土的拡張の中で重視されるようになり、「外地」を理解する必要性を埋める形で若手の研究者が動員されるようになります。
戸田門下のもう一人の研究者である牧野巽(人物18)――漢学者・牧野謙次郎の嗣子で、漢学の素養を持っていました――が行った宗族研究や家族論は、日本の家族研究とは一線を画し、どちらかというと中国史の研究の一領域として、文献学的研究をされました。フィールドワークや文献研究という違いはあれ、この時期、東京学派の社会学は、「外地」という名のアジアとの接点を多く持っていたのです。
では、東京学派の社会学者は、みなアジアに関心を持つようになったのかといえば、どうもそうとはいえないようです。
最近、清水幾太郎(人物22)の評伝を読む機会があったのですが(庄司,
2020)、清水のように福武より少し上の世代になると、戦争に従軍した経験があります。清水の場合ビルマに出征しているのですが、戦後はアジアとの接点を失ってしまいます。
他方、帝国日本には、「外地」から東京帝国大学で社会学を学んだ学生が少なからずいました。戦後台湾大学で社会学系を立ち上げる際の中核的なメンバーになった陳紹馨――「山中彰二」という日本名を持っていました―― は、東北帝大で新明正道(人物13)――新明も東京帝大を卒業した東京学派の一人です――に師事しています。私は中央大学で新明門下の田野崎昭夫先生と一緒でしたが、田野崎先生は「新明門下で台湾の社会学の始祖がいる」といったことを懐かしがってお話しされていました。戦後旧満州に戻られた丁克全(人物42)という方も東京帝大で学んだのですが、帰国後北京師範大学で社会学を講じるなど、波乱万丈の人生を送りました。李萬甲(人物43)はソウル国立大学で社会学を教えた最初の世代ですけれども、やはり東京帝大で社会学を学んでいます(写真4-4)。
陳紹馨(1906–1966) 丁克全(1914–1989) 李萬甲(1921–2010)写真4-4
ところが彼らが戦後、台湾や中国、韓国で社会学を立ち上げたときに、東京学派との接点をどこまで意識し、これを利用してきたかというと、多くの疑問が残ります。特に陳先生などは、お亡くなりになるまで日本との接点があったのですが、現在の台湾大学社会学系の研究者で、こういったエピソードを知っている方はほとんどいません。台湾の植民地史に関心をお持ちの方には、こうしたエピソードを知っている方はいますが、社会学プロパーの方々で、このような「接合人」を知らない方がほとんどです。残念なことです。
「アジア忘却」の時代としての戦後:1950年代~70年代
戦後日本の問題は、いわゆる「内地」に限定した形で考えられるようになり、福武は日本農村の近代化や民主化が重要だと考えましたから(福武,
1976)、戦後アジアとの「接着材」は摩耗していくことになります。中国では、百家争鳴以降、社会学が禁止されるようになり、外部との交流が完全に遮断されます。香港や台湾、韓国など東アジアの社会学は圧倒的なアメリカのプレゼンスの下に置かれるようになります。1930年代の中国も似た状況で、1910年代から1920年代までは、概念の導入という点では日本と結び付いていたのが、1930年以降になると、人材の育成から概念・方法論の彫琢まで、アメリカの圧倒的な影響を受けるようになります。
こうした状況にあって、戦後日本の社会学者が書いた社会学史で、アジアの社会学が言及されなくなります。新明正道の『社会学史概説(』新明,
1954)もそうですし、富永健一の『戦後日本の社会学(』富永,2004)もそうですが、社会学をめぐるアジアと日本の接点を、誰も何も語らなくなってしまいます。
では戦後、東京学派の社会学とアジア(研究)はまったく接点を失ってしまったのかといえば、そうではありません。実際に東大で社会学を学び、アジア研究を牽引してきた研究者に、インド研究の山口博一(人物44)、中国研究の加々美光行(人物45)、中東研究の加納弘勝(人物46)、中国研究の菱田雅晴(人物47)といった方々がいます。彼らは時々「自分は社会学出身だ」と主張しつつも、主戦場はアジア研究で、アジア経済研究所やJETROといった、社会学者の主な稼ぎ場ではなかった機関で職を得、社会学的な発想や概念を用いて研究を進めていくことになります(写真4-5)。
山口博一(1933–) 加々美光行(1944–) 加納弘勝(1945–) 菱田雅晴(1950–)写真4-5
多くのアジア諸国では戦後になって社会学が立ち上がっていくわけですが、これらの地域の社会学者たちは、ほとんどがアメリカに行って研究をし、そこで日本人と知り合うということがあったとしても、結果的には弱い結びつきしか持ちませんでした。1910年代の中国のように、日本から輸入された概念を学ばねばならないといった強力な「接着剤」は存在しなくなったのです。
沈潜するアジアへの関心
もっとも、日本の社会学者がアジアにまったく関心を持たなくなったというわけでもありません。冷戦体制の中でアジアとの結び付きが沈潜し、時に間欠泉のように表面化することがありました。
例えば1962年、宇野重昭――今では宇野重規の父親、あるいは安倍晋三首相の成蹊大学時代の恩師と言ったほうが理解してもらいやすいかもしれません――が「第一次国共合作をめぐるコミンテルンと中国共産党」と題する博士論文を提出された際、その副査を福武が担当しています。島根県立大学の学長でおられた当時、宇野先生とお会いする機会があったのですが、「本当は福武先生に論文の指導をお願いしたかったが、自分は駒場にいたし、研究の内容が共産党の歴史なので、直接指導を受けることはできなかった。しかし中国共産党が農村をどう理解し、そこからどのような政策を練りあげたかに関心があったので、自分としては社会学的な関心があったと思う」といった趣旨のお話を伺った記憶があります。事実宇野は、改革・開放後、中国との交流が可能になってからというもの、鶴見和子などと一緒に中国の小城鎮問題を「内発的発展論」の文脈から論じるようになりますが、そこに福武との繋がりを感じます。
他方で福武は、1962年12月から2か月ほどインドで農村調査を行っていますが、土地勘もないし、研究助手が必要だというので、中根千枝さんが同行されています。中根といった人類学者、インド研究者から見た福武がどのようなものなのかは、実に興味深いものがあります。中根は東文研の所長をされた方で、私は現在、東文研にいますので耳が痛いのですが、非常に面白い文章を残されています。
福武社会学においては、文化、社会による違いはどのように位置づけられるのであろうか。少なくても本書を読む限り、それは論述の対象には入ってこない。このことと深く関連していると思われるのは、教授の関心と姿勢がいかなる社会を調査対象としていても一貫していることである。これは教授の研究歴のきわめて初期に形成されたものであると思われる。…御自分がスタイリストでないので、相手がスマートな人でも変てこな人でも、殆んど気になされないことと、常に「知りたい」ことが優先するためであろう。相手が違うということよりも農村生活者であるという共通性を前提とされているように見受けられる。少なくても、氏の叙述からは、人々のおかれている場の違いはわかっても、文化の違いは殆んど感じられない。(中根,
1976:526–7)
「構造分析」といった日本で作られたモデルをインド農村の分析に利用したことは、インド文化の匂いを消し去ることになる。文化の匂いに敏感な中根先生から見ると、「この人は何をやっているのだ」ということのようです。
痛烈な批判ですね。中国の改革・開放とアジアの成長という契機:1980年代~2000年代こうした状況が大きく変わるのが、中国が改革・開放の時代を迎え、1979
年5月に社会学が禁じられた学問でなくなってからです。
中国以外の地域では、圧倒的なアメリカのプレゼンスの下で社会学が研究されてきたこともあり、そこに日本が入り込む余地はほとんどありませんでした。ところが中国の場合、先ほど出口先生が指摘した「地政学的な問題」にも絡みますが、資本主義を敵視するメンタリティーが強かったため、アメリカの先端的な研究をすぐに受け入れる状況にありませんでした。
最初はソ連の社会学文献が「内部資料」といった形で流通し、中国の社会学者に読まれていました。共産圏でも社会学が研究されていたユーゴスラビアなどの情報を得ていましたが、次にターゲットになったのが日本です。
そのきっかけになったのが、福武率いる日本社会学者訪中団です。最初の訪中団は、社会学が復活した1979年に派遣されています。訪中団を派遣するにあたって、イロイロ政治的に面倒なこともあったようですが、政治的な感覚が鋭い福武先生でないと、多分こうしたミッションは組めなかったと思います。その後、1982年、1987年、1989年と、十年にわたって4回のミッションを送っています。
最初の訪中団が訪中した1年後の1980年には日中社会学会が組織され、その後、日本の研究者が日本社会の事情を説明したり、中国社会学の復活・発展を支援するために、いろいろなチャネルが設けられるようになりました。
「大平学校」の後継である北京日本学研究センターでは社会学の講座が設けられ、日本から毎年社会学者が招聘されるようになりました。
中国社会科学院の中に社会学研究所が設立される以前、福武先生が所蔵していた書物を寄贈して「福武直文庫」を作り、中国の若い社会学者の支援を行うなどしています。先ほどの米村先生の報告にも出てきた青井和夫(人物
36)も福武亡き後、この訪中団をリードし、日中社会学会の会長として日中間の交流に力を注ぎました。福武には費孝通というパートナーがいました。LSEで博士号を取得し、社会人類学者として知られる費孝通が中国における社会学復活の際の中心人物となりましたが、早々に費=福武のラインが出来上がったこともあり、日本の社会学者は中国側に警戒されることなく、日本の社会学に関する情報を提供するようになりました。ここでもう一度、「接着剤」が機能するようになるのです(写真4-6)。
写真4-6 費孝通(1910–2005) 陸学芸(1933–2013)
青井和夫が福武の衣鉢を継いだとすれば、費孝通の衣鉢を継いだのが陸学芸です。費孝通は中国人民政治協商会議の副主席になるぐらい政治的に力のある人でしたし、陸学芸――この方も日本贔屓で、福武がライフワークとされた農村の近代化問題は中国社会にとっても重要な課題だと考えた人でした
――も、1990年代以降の中国の社会学を牽引された方で、江沢民総書記のブレーンをされるなど、大きな影響力を持っていました。
私の指導教員である富永健一――昨年2月にお亡くなりになり、その追悼集会も行われています――も1984年10月に南開大学に招聘されましたが、そのお弟子筋の一部が、下の写真に載っています。彼らは私とほぼ同じ年齢で、60歳前後になっているのですが、全国学会の副会長レベルとなっています(写真4-7)。
写真4-7 中国における富永健一の学生たち
先ほど矢野先生の方から、「富永先生は年をとってからの方がマックス・ウェーバーに対する理解・関心が強まったようだ」という指摘がありましたが、私の観察では、1984年に中国に行ったことを契機に、富永先生は日本や中国の近代化にいっそう強い関心を持つようになったようです。中国やドイツの大学に招聘され、そこで日本の近代化について説明が求められる中で、処女作『社会変動の理論(』1965年)と異なる形でマックス・ウェーバーの所説を取り込みつつ、著作を発表するようになるのです。このように、富永先生も中国に行くことで変わっていったのですね。
他方で中国の学生たちは、日本の近代化がどのような原因で成功するようになったのか、富永社会学を通じて学ぼうとしました。このように「社会学を通じて日本の近代化を理解する」といった「接着剤」が機能することにより、
1980年代前半から1990年代前半にかけ、日中間で活発な往来が起こることになります。中国の改革・開放期に、韓国や台湾で民主化が進み、アジアで社会学が急速に発展します。そしてこれらの地域から、東京大学への留学生がやってくることになります。
私やもう少し若い瀬地山角や有田伸、著名な中国研究者である中嶋嶺雄先生のご子息である中嶋聖雄――彼は学部のときは本郷の社会学にいて、駒場の地域研究に移り、それからUCバークレーで再度社会学を研究します―― といった1960年から1970年に生まれた世代が、アジア研究と社会学研究の二兎を追うユニークなコーホートを作ります。私は「突然変異」だと思うのですが、とにかくそういう人たちが生まれます。他方で、筑波大学の駒井洋(人物48)――駒井先生は東大の社会学出身です――は、移民研究や海外事情理解を中心に国際社会学といった領域を開拓するようになります。そこからは、中村則弘、根橋正一、陳立行といった中国研究者が生まれますが、ここの時期になって、日本の社会学が再びアジアと向き合うようになります。事実、山口博一、加々美光行らも1980年代の後半以降、大学でポストを得て、アジアを対象にした社会学的研究を発表していきます(写真4-8)。
駒井洋(1940–) 瀬地山角(1963–) 有田伸(1969–) 中嶋聖雄(1970–)写真4-8
アジアにおける社会学の発展と東大社会学:2000年代以降
21世紀になって「アジア・コネクション」はどうなったか?私にとって印象的だったのは、服部民夫先生(人物49)――多分社会学者というより韓国研究者として有名で、同志社大学の松本道晴先生の下で農村研究をされた後にアジア経済研究所で長く研究された方です――が、当時文学部長だった稲上毅先生(人物50)に乞われて、2002年に東京大学の文学部教授に就任されたことです。東大文学部も服部先生を採用するようになったのかと感慨深く思った記憶があります(写真4-9)。
写真4-9 服部民夫(1947–2015)
実際、東大文学部のホームページで、どのような博士論文が出ているのかと眺めてみますと、2000年の後半からアジアを対象にした論文が目につくようになります。名前と提出年だけを提示すれば、金成垣(2006)、李永晶(2007)、尾中文哉(2007)、金正勳(2011)、福岡愛子(2012)、張継元
(2016)、上村泰裕(2016)といった具合です。一部はアジアからの留学ですが、尾中さんや福岡さんなどはそうではない。このように、本郷の社会学でもアジアを対象にした研究が増えています。
私と直接関係するところでは、学際情報学府の中にITASIAという英語のプログラムができて、そこにアジアから社会学に関心を持つ学生がやってきています。彼らは、従来のように日本語の壁に悩まされることなく、日本に関心を持ち、そこで発達した考え方や概念を、英語を媒介にして理解しています。こうなってくると、東京大学とアジアの結び付きは今までとは違う形で展開していく可能性があるのですが、これがどうなっていくかを見極めるには、もう少し時間が必要でしょう。
総括
最後は駆け足で130年間の歴史を回顧しましたが、さて、そこからどのような知見・教訓が得られるのか。社会学の東京学派の「アジア・コネクション」はどのような特徴をもってきたといえるか。先ほど中根千枝の福武社会学に対するコメントを長めに紹介しましたけれども、アジアの各地域がもつ個性に敏感な地域研究者は、日本の農村を見るときと同じモデルを使って構造分析を行う福武のような社会学者に対して違和感・嫌悪感を持つのではないかと思いますし、それは私がアジア政経学会の仲間を見て、いつも感じることです。他方社会学も、アジアとの比較を通じて自らの視点・知見を豊かにしようとするドライブが弱い。日本の場合、日本の社会をいかに良くするのかといった関心が強く、その結果、日本以外の地域に対する関心が弱くなりがちです。
誰のための社会学なのかといった問題は、今でも難しい問題です。1世紀前に戸田貞三や鈴木栄太郎が進めた「社会学のローカル化」が決して悪いというのではないのですが、私は社会学が元来持っているはずの世界との豊かな結びつきを、もう一度見直す必要があるのではないかと思っています。
『ホワイトカラー』を書いたチャールズ・ライト・ミルズは――彼はパワー・
エリートやホワイトカラー、社会学的想像力(sociological
imagination)といった多くの使い勝手のよい概念を作った人です――、普遍的な概念を作った人と理解されがちです。ところが実際に著作を読んでみると、彼は「アメリカ社会を理解するために、自分はこういう概念を作っている」と、繰り返し述べています。
ミルズは1962年に亡くなりますが、亡くなる前、『社会学的想像力』という本の中で「現代においては、西洋社会の問題はほとんど必ず世界の問題である。私たちの時代は、その多様な社会的世界が本格的で急速で明白な相互作用をしている初めての時代です。・・私たちの時代の研究は、このような複数の世界とその相互作用の比較研究でなければならない(」ミルズ,
1959=2017:
256)と述べ、歴史研究と比較研究の重要性を強調しています。
アメリカを「教祖」とし、自らを「フォロアー」と見なしがちな日本、アジアの社会学者は「ミルズは普遍的な議論をしている」と解釈しがちです。ちょうどイギリスに留学に行くのは、金融政策や政治学を学ぶために行くのだと錯覚するのと同じです。ところが実際には、地場の研究者もそこに集まる学生たちも、ローカリティを意識した知を作っています。とすると、日本を理解するための「知の近代化モデル(」矢澤,2010)を今一度見直し、そこに見られる固有性と普遍性を吟味してみる必要があるのではないか。これが第一の論点です。
第二に、この報告では「接着剤」や「接合人」といった生煮えな概念を用いましたが、結局「接着剤」の製造に、日本側の強い内的動機がかかわってこなかったように思えます。その時々の時局であったり――福武も尾高も戦争に動員されることで、華中や海南島に行き、そこで実証研究に目覚めるわけです――、たまたま日本が翻訳した概念を欲しがっていたり、社会主義体制の中でブルジョア科学として潰された社会学を、もう一回学ばなければいけないと思い始めた中国の知識人に、その価値を見つけてもらうことで「接着剤」が活性化し、「接合人」が生まれてきました。留学生も、たまたまタイからスリチャイ・ワンゲーオさんが、韓国から李イシジェ時載さんが来るといった具合いに、東京大学との接合は偶発的な形でなされてきました。
このように偶発性に左右されてきた点に、東京学派の「アジア・コネクション」の特徴が見て取れます。どのような学問でも同じかもしれないのですが、社会学の東京学派の中に見られるアジアとの結び付きの中に、多くの偶発性があったことをどう理解したらいいのか?このような問題提起をさせていただき、私の報告とさせていただきます。
ご清聴ありがとうございました。
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佐藤:いま、ご報告を聞きながら、簡単な論点だけのメモを作ってみました。皆さんの報告をひっくるめて、私からは4つほどのコメントを出してみたいと思います。
第1点は、学派における世代論的な断絶をどう把握するかです。今日みなさんが論じた拡がりを「学派」と捉えるかどうかについて、私はまだ納得しきれていないところがあります。ただその問題はさしあたり脇において、学派を学派として成りたたせている共有の基盤とともに、そのなかに世代とか分派の違いを生みだす動きもきちんととらえるべきではないか。それが1点目のコメントです。
中筋さんが取り上げた富永健一先生(人物6)の福武直(人物1)の理解は、まさに富永健一の位置からの素朴な実感だと思うのですね。理論的というより、実感的だなと感じました。つまり富永さんが属している世代からの、富永さんがいた場所からは、このように見えたという証言なのではないでしょうか。そう考えると、論ずるべき対象の拡がりというか奥行きの描き方が必ずしも充分でないということが、逆によく理解できるのではないだろうかと思うのです。
先ほど出口さんが、学派の捉え方をいくつかの点をあげて整理されました。私はたいへん面白いと思いましたが、もう一つ論点として加えたいのは、「学派」には時間的な厚みというか、地層のような積み重なりがあることです。そこを見なければいけない気がするのです。フランクフルト学派にホルクハイマー、アドルノの第1世代や、ハーバーマスの第2世代があり、現在を第3第4の世代に位置づけているのは、やはり世代的な変異のようなものを含みつつ学派が成立しているからでしょう。都市社会学のシカゴ学派でも同じでしょう。そういう論点を加えたほうがいいと思っています。
そこで「第n世代」のようにみえるまとまりは、年代のような外側からの規定力に還元できるのか、それとも園田さんが「接合人」で問題にしたような人間関係の特質に由来するものなのか、そうではなく理論の展開や実践の内側から立ち上がる断絶なのかは、実はもう少し丹念で精密な検討が必要でしょう。そのためには研究者個人の内側に、その業績そのものを通じてはいっていく必要がある。例えば、その社会学を通じて、何をやりたかったのかという部分がきちんと発掘されないといけないと思います。その意味では、中筋さんが光をあてた福武先生の戦後のいわば「端境期」の論文である「社会学の現代的課題」に出てくる「人間の解放」とか「人間的解放」という概念に込められている思いなどは、非常に大切な切り口だと思うのです。学派として扱うことができるかどうかを確かめるためにも、研究者それぞれの個人にもう少し踏み込む必要があります。
しかしながら、学会誌に発表される研究論文とは目的が違うものですから、このあたりに後から踏みこむ素材となる事実や、内面が書かれているものが多くない。自伝的な作品をあえて残すひとは少なく、退官記念の冊子としてまとめられる資料等は、失われやすくてアクセスしにくい。福武先生は『社会学四十年』の中にいろいろなことを書いていますし、『回想の福武直』のような追悼文集もありますので、ある意味でいうとやりやすい側面があります。小山隆先生(人物35)の『軌跡五十年:一社会学徒の記録』などは、題名から予想するより研究中心のもので、あまり個人のことに踏み込んで書いていなかったりします。『松本潤一郎(人物51)追憶』のように、私家版で出されたいわゆる「饅頭本」に近い記録は、存在を把握すること自体に困難がある。
ついでですので、最近気づいたことひとつ。たとえば折原浩先生(人物
32)にも、実はあまり読まれていない自伝的な作品があります。駒場の学生時代、1959年から1960年にかけて『運河』という同人雑誌に書いた「生活史的反省」という文章で、これは自分の失恋の話なども書きながら、いかに社会学を通じて救われるかと議論している素晴らしく面白い論考です。私は見田宗介先生(人物4)が折原先生の退官記念の文章で言及した(ただし題名は間違って記憶されていましたが)ので、気になって覚えていたのですが、なかなかお目にかかれなかった。
ともかく、必ずしも世代論を主張するつもりではないのですが、そこで作用している時代情況をきちんと踏まえてみることは重要で、そのためには論者が依拠している固有の世代性ともいうべき拘束を少し切断しながら見ていかないと、学派の理解が非常に単純なものになるだろうと思います。
つまり、中筋報告が素材とした富永健一先生は、日本における東京大学の社会学を、マルクス主義対近代主義、あるいはリベラリズムの正統性という枠組みの中で位置付けていると思うのですけれども、いい表現かどうかはわかりませんが「それ以上でもそれ以下でもない」という限界があるのです。それゆえにといっていいと思いますが、マルクス主義をめぐるある種の個人的な怨念が、いろいろな意味で実感主義的にあふれ出てしまっています。しかしながら、福武先生や尾高先生(人物7)の社会学を見る場合に、戦後の一時期に権勢をふるっていたかのようにみえるマルクス主義を下敷きにして、あるいは軸にして位置づけてしまっていいのだろうかと思うのです。
むしろ1908年生まれの尾高邦雄と、1917年生まれの福武直が、戦後において向かいあっていた社会学の課題は、1931年生まれの富永健一とは別な実感に満たされていたのではなかったか。お二人が社会学青年の時代に学生として格闘していたのは、じつはいかに形式社会学を抜け出すことができるかという1930年代的な課題だったように思うのです。1910年代から1930年代の日本の社会学は、ある種の形式社会学批判の時代であった。新思潮としての文化社会学や知識社会学、歴史社会学に接するなかで、形式社会学の抽象性をいかに脱するかという議論が非常に強かったのです。そしてお二人ともに、そのなかで育ってきたという側面がある。ここは戸田貞三(人物15)の位置づけにも関わる問題です。あまり細かい議論をするつもりも用意もありませんが、一方からの単純な対立軸を立てて押し切らないほうがいい。たとえば1883年生まれの高田保馬は、ジンメルによる総合社会学批判の系譜に連なる形式社会学の立場なので、だからこそ尾高・福武世代の高田に対して評価は、ある種のバイアスがかかるのです。ここが稲上毅先生(人物50)たちの世代からの高田保馬評価とはかなり異なる。逆に、なぜ1898年生まれの新明正道(人物13)に対する見方が、期待を含めて強くなるのかというと、単純に戦後の位置からだけ考えてはいけないと私は思います。戦後において強調されている軸とは別の形で、たとえば尾高とほぼ同じ年齢で1907年生まれの清水幾太郎(人物22)などがこだわった「社会学」対「社会主義」、あるいは社会科学的な全体認識をある形でその時代に供給していた「マルクス主義」に対するアンビバレンス等々を、補助線として引く必要があるのではないか。つまりそのような幾つかの複合的なアンビバレンスの中で世代的な特有の見方なり、受け止め方の構造的な制約のようなものが生まれてくると考えています。その構造のなかの、どこから見ているのかを、復元し追体験する必要があるのです。
そうした社会学をめぐる世界の見え方のあるバージョンは、尾高さんや福武さんの世代までは、ある種の実感をともなって感じられていましたが、ほんのわずかな世代の違いなのですけれども、その後の日高六郎(人物3)、高橋徹(人物52)の時代になると、たぶん別な設定へと移ろっていく。もっといわゆる「戦後」的な枠組みが、あるいは私自身が『社会調査史のリテラシー』のなかで論じた社会調査論の「55年体制」と抽象化できるような要素が強くなっているように思います。おそらく、かつてのバージョンは、まったく実感から離れた「理論」的な小異のように見えていったのではないでしょうか。われわれからみると、どのみち大先生の昔の領域なので、一括りに同じように眺めてしまいがちなのだけれど、じつはそれぞれの身近な実感において、かなり大きな断絶がありそうに思います。すこし雑な言い方ですが、富永先生の福武さんの評価の仕方などは、やはりすでに社会学の受け止め方自体の大きなパラダイムシフトが、その前提にあることに関して、ややナイーブです。見え方の前提から考えていかないと、非常に単純になってしまうと思います。
コメントの2番目の論点は、アメリカン・プラグマティズムの位置です。これも、その時代的な作用の具体的な形態を確かめながら論じていく必要があります。それぞれのご報告がそれぞれに意識されていたアメリカン・プラグマティズムは、たしかに「社会調査」の位置づけに焦点を結ぶのですが、これも1920年代から30年代にかけてと、戦後の占領期から1960年代にかけての二段階の興隆期があり、異なる局面でのあらわれがある。
第1段の転換を担っていく中心人物は、いうまでもなく戸田貞三です。東京大学における社会学のポストが建部遯吾(人物16)から戸田さんへ転換したのは1922年です。ここはスキャンダラスな余談ですが、外側の制度的な枠組みで、ある種の断絶があった。部局的には平和で何事もない継続ではなく、社会学の拡張主義のように理解されたかもしれません。そこで建部がともかく戸田のポストがないのであれば、自分が辞めれば一つ増えるだろうという感じで、強引な形で退職し、次の時代を開いた。いま考えると、ここで社会学の研究室消滅になる危険性もないわけではなかったと思いますが、そこは学生を放り出して講座をつぶすわけにはいかず、良し悪しは別にして帝国大学の制度的枠組みの強さが、存続を支えたのだろうと私は思います。
そうした制度的な外枠の問題ではなく、このときに建部は戸田に東京大学へ来てもらうにあたり、留学をしてもらわなければいけないと戸田を外国に出す。最初はフランスとドイツで、フランスに行ったかどうかを私はきちんと確かめていませんけれども、ドイツに10カ月ぐらい行ったといいます。しかし、もっとも長かったのは1年半いたアメリカで、シカゴに1年、ニューヨークとどこかに10カ月滞在します。
ここで「シカゴ学派」とアメリカン・プラグマティズムの「調査」をきちんと勉強してきたことが、やはり日本の社会学に建部の時代とは違う「実証」を、かなり自信を持って導入することになると思います。つまり理念主義、すなわちスペンサー、コントのような総合社会学の学理であった建部社会学から、特殊社会学的なところへの転換が戸田貞三を媒介に果たされていくことになります。
ジンメル、ウェーバー、デュルケームの特殊社会学に位置づけられる議論と、そのあとアメリカで展開していくシカゴ学派以降の社会調査の実証主義がいっしょに入ってきたわけです。やや考慮すべきは、そのとき戸田貞三は、自分は理論のことは教えないから松本潤一郎に聞けと明言したと、当時の学生たちが証言していることです。松本潤一郎の著作は、今ほとんど読まれていませんが、じつはかなり秀才で、欧米の理論をいちはやく紹介していますし、自分でもある種の社会学理論の総合を試みている。京都でいえば、アンケートやモノグラフなどの実証の理念と方法とを紹介するとともに、さまざまな理論的潮流を紹介した米田庄太郎と同じような役割を果たしたようにも思います。理論枠組みとしては特殊社会学に含まれる第2世代ですが、割とバランスよく文化社会学を取り入れていきます。
清水幾太郎や尾高邦雄以降の世代は、理論を松本潤一郎から学び、実証は戸田貞三にという感じで、この配合の割合はそれぞれで違いますが、みんなそれなりに受け取っていく形です。福武直は、その最後の世代くらいでしょうか。若い頃は理論や方法論のようなものをかなり考えていくのが、実際に実証のところに転換していくプロセスでは、尾高、福武は両方とも同じだというのは、先ほど園田さんの指摘のとおりだと思います。
ただ、これをライフサイクル上の変化と考えるのは単純でしょう。総力戦となった第二次世界大戦の「戦争」への巻き込まれ方と、戦後の新たな社会調査への期待、すなわちアメリカン・プラグマティズムの第二の興隆との関わりを、加えて論ずる必要がある。
とりわけ総力戦化した戦争の遂行体制が、実態調査の機会を与えたことの意味は、慎重に測定すべきでしょう。例えば尾高先生は『現代社会学(』アカデミア出版)の20号で、高橋徹先生が聞き手になったインタビューで、海南島の黎族の調査(岡田謙・尾高邦雄『海南島黎族の社会組織並に経済組織』海南海軍特務部、1944)が果たした役割に言及している。自分にとっては非常に重要で、正真正銘の意識革命をもたらしたものだったというような言い方をしています。あるいは別な表現では、青春時代は学問論や方法論に夢中になっていた哲学青年だったが、あの野外調査・フィールドワークに従事してから学問の見方がガラッと変わったと言っています。
たとえば尾高先生は、ちょうどのその前の年ぐらいに『職業社会学』を書きます。しかしながら『職業社会学』が、ウェーバーを読み、あるていどの理解を積み重ねながらも、固有の意味での職業概念を展開させることなく、なぜ戦後になると組織への帰属とかリーダーシップに焦点をあわせた「産業社会学」のほうにずれていってしまったのか。そのあたりの転轍を論ずるうえで、たいへん重要なものを含んでおり、ここは黎族の調査や戦後の出雲たたら製鉄の調査なども、もう少しきちんと踏み込んで議論していいのではないかと思いますけれども、尾高邦雄の研究でそのようなものが出てきているかどうかは知りません。
福武先生にとっても、やはり戦争期の外地調査は大きな意味をもったと思います。林恵海(人物17)先生が無理矢理に引きずり込んだ中国調査は、自分にとってものすごく幸運だったのだということを言っています。著作集別巻の『社会学四十年』にも、そのあたりの言及があろうかと思うのですが、私が昨日確認したのは、高橋徹先生が東京大学の100周年のときに行ったインタビューです。このテープ起こしが、校正されないままに眠っていたのを、高橋先生が残された資料から拾ってきました。その中で中国調査のことをものすごく強い意味付けで述べられています。そして戦後フライヤーの翻訳等々で社会学の学問論には区切りをつけ、実証研究に転換していきます。
多分もう少し踏み込んでいくと、それぞれの個人の中での「調査」の意味付けが異なるところも見えてくると思いますが、その差異は対象領域が異なるためなのか、それとも理論の構えによるものなのか。これもきちんとやれば面白いと思います。ただここでは、まずはアメリカン・プラグマティズムの影響もまた、時代の情況を媒介しながら、さまざまな局面で積み重なっていることを指摘しておきたいと思います。さて、3番目のコメントの論点は「日本社会学」の位置づけです。もともと日本社会学という概念が1920年代に使われはじめたときの眼目は、社会学の脱輸入学問化という文脈でした。これは以前にこの研究会で報告したときに触れましたけれども、1924-25年に若宮卯之助という人が、「日本社会学」の進むべき方向やもつべき意義を問うという問題提起を日本社会学会の機関誌でおこなう。これは建部時代から戸田時代への転換とも、呼応していたと思います。松本潤一郎は、建部の社会学に対して「整頓した体系的殿堂」として固定化したがゆえに、後進の「研究上の停頓」を引き起こしたと批判したが、その主張と輸入学問で日本をきちんと論じられる枠組みになっていないではないかという批判は、どこかで共鳴していた。それは単なる研究対象としての日本という意味ばかりではなく、学問を支える基盤としての思考の文体という意味でも、ある種のローカル化であったと思います。清水幾太郎の『日本文化形態論』も、そういう文脈で読むべきでしょう。
しかし、戦後の社会学史研究は、この日本社会学ということばに、イデオロギー的な偏りしかみなかった。例えば河村望(人物53)や秋元律郎の社会学史のなかでは、「日本」という単語に過剰な意味付けがなされ、皇道主義的な日本主義・民族主義だけしか意味しないかのように、かなりゆがめられて位置づけられてしまったと思います。やはりそこに大きな実感の断絶があるのです。鈴木栄太郎(人物12)・有賀喜左衛門(人物14)・喜多野清一(人物20)以降の世代が、柳田国男を直接には読まなくなることもここに関連しているように思います。
戦後、この言葉が使いにくかった事情もわからないではありません。文化人類学がやはり戦争協力の問題で海外調査の自分たちの学史を語れなかったのと同じことが、度合いは違いますけれども、社会学の中にもあったのだと思います。園田さんが指摘しているある種の断絶といいますか、接合する人も、場のようなものも忘却されてしまうことなどの現象も、そこに依存していると思います。
しかしながら、学問の歴史の中で考えると「日本社会学」は、一国主義や国民国家に閉じていたわけではなく、日本における社会学の存立を問うていたのではないか。その問題意識は、きちんと受け継がれたのだろうかということを私は疑っています。
時間がないので、急いで4番目の論点に触れますが、「ネットワークのなかで考える」という姿勢も重要だと思うのです。制度的にも人材的にも、です。とりわけ台北帝国大学や京城帝国大学との関係は考えていかなければいけませんし、「社会調査」にしても海軍や興亜院、満鉄を視野に入れる必要がある。それらが全部、緊密につながっていたわけではないと思いますが、そのようなネットワークの中で、同時代の視点の広がりがあったことは事実だと思います。
これもまったく偶然のできごとなのですが、昭和18年に京城帝国大学で日本社会学会の大会が行われた。そこで撮られた記念写真に写っている人物の同定を、ごく最近に韓国の社会学者に頼まれました。さすがにわからない。ネット時代だから、写真なども簡単に手に入るだろうと思っていたら、存外に学者・研究者の写真が少ない。あったとしても、晩年の写真だけで、若い頃まで探すのはかなり大変です。蓮見音彦先生(人物5)や高橋明善先生(人物54)あたりが、もう故老の世代だと思いますが、残念ながらみなさんにあまりお役に立てないと言われました。しかたがないので、その当時の社会学会大会のプログラム(写真5-1大会プログラム)とか、退官写真5-1
『日本社会学会第十八回大 記念の紀要とか京城帝国大学の記録など、思いつ会・研究報告要旨』 くところをいろいろ調べたりしました。
実際に、ちょっと調べただけでも、これまできちんと論じてこなかったつながりが浮かびあがってきます。尾高邦雄の兄にあたる尾高朝雄、鈴木栄太郎、巫俗・民俗の研究をした秋葉隆(人物55)が京城帝国大学に、黎族の調査を共同分担した岡田謙(人物19)は台北帝国大学、社会史を主張した瀧川政次郎とか家族制度の研究をした大山彦一が満州建国大学、さらには満鉄にいた清水盛光などが、この社会学会大会に参加しています。また京城帝国大学でずっと育ってきて、敗戦直前に大陸資源科学研究所を立ちあげ、満彊地帯学術調査を行う泉靖一(人物56)もこの大会に参加しており、戦後の座談会などでこの頃の社会調査について語っています。この大会には、当時特別研究生であった福武も、助手になったばかりの日高六郎も、輿論の研究をしていた小山栄三(人物57)も参加しています。福武と一緒に卒業して1940
年に大学院に入った申鎭均も、現地の「明倫専門学校」の肩書で、戸田貞三の影響を窺わせる報告をしている。
そのようなことを考えると、人々の実践の中にいろいろなネットワークを補助線として引かなければ、この学派の特質や学派のある種の世代的な特質がきちんと浮かび上がらないところがあると思います。
戦後はやはり社会学の独立の課題が非常に強くあったので、農業経済学との対抗などの部分が強調されたり、マルクス主義との関係あったりして、戦後からの見方においてすごくバイアスがかかっている部分を、どのように解除しつつ描き直していくかは結構重要だと思います。その意味で、富永先生の『戦後日本の社会学』だけが古典として残ると、私は少し困ると感じます。東京大学の社会学が何を生み出したのかは、まだ複数の目できちんと描かれていませんし、なかなか一筋縄ではいかないのではないかと感じています。学派としてなにかを浮かび上がらせる上では、もう少し丹念に掘り起こす必要があるなあというのが、自戒をこめての感想です。長くなってしまい、ごめんなさい。中筋:佐藤先生、どうもありがとうございました。予定では40分から討論ですが、やや時間が押してきて46分なので、この後はどのようにしましょうか。それぞれの発表者、2人のコメンテーターである佐藤先生と午前中の出口先生から頂いたコメントに対するリプライをして、その後に全員の討論という形でよろしいですか。園田先生、それでよろしいですか。
園田:よろしいと思います。
中筋:では、順番からすると、私から出口先生と佐藤先生のコメントにお答えしたいと思います。
出口先生のコメントは2点あり、1つはマンハイムの関係だったかと思いますが、K.マンハイムも、その前に福武が研究していたH.フライヤーも、社会学の社会への関わり方、今の言葉で言うと「社会学的介入」のモデルを福武に与えたのではないかと思います。
それまでの社会学が社会をただ研究するものでしかなかったのに対して、研究した結果を社会に還元する実践的な方向、とくに政策的な方向を指し示したのではないか。当時の日本の社会科学にはマルクス主義を除けばその方向を明快に指し示すものがなく、フライヤーだとナチになってしまうので、戦前はナチが悪かったわけではありませんが、福武にはマンハイムの方がしっくりきたのではないかという印象です。
ただ、福武がきちんとマンハイムを理解していたかという点は疑問です。マンハイムには市民社会の自律性についての認識がしっかりあるのですが、福武には国家しかなく市民社会は非常に弱いのではないか。私はそう思います。
2番目の現代における社会調査の困難の問題は、福武が自分ひとりで社会調査法を作ったわけではないと、お答えしたいです。社会調査史は佐藤先生の専門なのでどきどきしながら話していますが、一例を挙げますと、蓮見先生
の『福武直』の125頁の「東 蓮見音彦『福武直』(2008,
東信堂)125 ページより大の社会学のスタッフ」という写真の左端、日高の隣でにっこり笑っているのは誰かというと有賀喜左衛門です。
この写真の撮られた1954年に有賀は非常勤講師を務めていましたし、『社会学研究室の100年』を見ると、次の年には統計学者の林知己夫を招いています。社会学ではない社会調査のプロフェッショナルを外から招いて呼んで社会学の社会調査をバージョンアップすることを1950年代にやっていて、それを通して福武と東大社会学研究室の社会調査は形成されたのではないか。
だから、今はAIやビッグデータなどさまざまなものが出てきていますので、そのようなことを外でやっている人たちを非常勤講師に招くことによって、次代の学生たちに新しい社会調査の専門家を育てられると思います。その意味で、出口先生が言われたように、東大社会学研究室の未来は前途洋々だと、私は思います。ここまでが出口先生へのコメントです。
次に佐藤先生の厳しいコメントに言い訳をしますと、福武のお弟子さんたちからいかに福武が優れていたかを麻薬のように聞かされて、それに中毒していたところから毒抜きをしたいというのが、今回の報告の個人的な願いであって、あえて反福武の富永先生の枠組みを使って考えてみた次第です。
それだけではなく、富永先生の『戦後日本の社会学』には確かに毀誉褒貶がありますが、彼がずっと福武「先生」の年少の同僚として黙って我慢していたことがあるだろうと思うので、実際にはあまり掘り下げられていないのですけれども、掘り下げると何か出てくるのではないかというのが今回の報告の意図です。
それから、先ほど佐藤先生がおっしゃった世代論的断絶はとても興味深く、
1つのエピソードを紹介して答えに代えたいと思います。北川隆吉先生(人物58)が、昔新明正道を囲む会合で、マルクス主義社会学の立場から、戦前の社会学は駄目だったと批判したら、その場にいらっしゃった喜多野清一先生が、君はそのように言うけれども、あの時代は言えることと言えないことがあったのだ、といった内容のことをおっしゃったので、日ごろ威勢のいい北川先生もさすがにシュンとなったと、僕に話してくれました。
1930年代の日本の思想状況の中でどのように社会学を可能にしていくかという問題は、想像以上に細く苦しい道であったのではないかと、今日ご指摘いただいてあらためて思いました。今後の課題にしたいと思います。どうもありがとうございました。
では、矢野先生、お願いできますか。
矢野:佐藤先生・出口先生のコメント、本当に勉強なりました。出口「さん」と言っていいのか「先生」と言ったほうがいいのか…。「矢野さん」と呼んでくださったので、出口さんで返させてください。すごく懐かしく色々と思い出させていただいたのが、最初に頂いた質問です。本日は、1964年のシンポジウムの話をしたのですが、1999年に実は橋本努さん、橋本直人さんと私の3人で企画して東京大学でウェーバーシンポジウムを開き、出口さんや三井さよさんなど何人も院生の方にお世話になりました(橋本努、橋本直人、矢野善郎編『マックス・ヴェーバーの新世紀―変容する日本社会と認識の転回』未來社.
2000年:写真5-2)。
『マックス・ヴェーバーの新写真5-2 私の中でこの1999年のシンポをどのように位世紀』 置付けているかというご質問ですが、「黒歴史」(※注:若者言葉で、「語られたくない過去」)とまではいかないですけれども、今から考えると、がむしゃらで、まさに蛮勇ですよね。助手の頃に不勉強であるが故に、ある意味では世間知らずが故にできたことと感じております。その際には、1964年のシンポジウムの参加者がまだご存命で、多くの方が来てくださいました。そこでお話を伺えたことはかけがえのない財産です。
ただ、反省点としては、やはり私自身の準備不足、というより、そもそも学者としての成熟が不足しており、多くを問題として掘り下げることができなかったことや、せっかく一堂に集まっているのに、なぜ記録やインタビューなどをもう少しきちんとフォローアップしなかったのかなど、反省点が本当に多いです。
1999年の開催の時点では、実際の時代の文脈にウェーバーがどこまでつながっているのかを確かめたいという思惑、それから、もう一つはディシプリンがあまりに分断している中でウェーバーであれば、さまざまなディシプリンがつながり得る、その対話のきっかけになるのではないか。こうした、ある意味では若い希望に突き動かされたというのが、開催の動機であったことは間違いありません。
シンポジウムの行われた1999年の時点で何を十分に読み取れたかという問いにお答えできるかというと、当然反省ばかり多く、今何も明確に答えられないことを恥ずかしく思いつつも、宿題を思い出させてくださってありがとうという感じです。
もう一つの御質問、駒場・本郷との関係については、私が的確に答えられることではないので、むしろ示唆を頂きたいぐらいです。本郷・駒場間には、ある意味で不思議な冷戦構造とでも言うものもあり、紛争的関係という訳でもない。紳士協定などが書かれていたり、話されていたりしたわけではないと思いますけれども、ある意味ではそれがあったのではないかと感じるような関係に見えていました。
さきほどもふれましたが、富永、折原の間には人間的にお互いに敵対心をもっているとは全く感じませんでした。折原先生が「論敵」に反論する際には、ものすごいことが起きたりすることもあるのですが、富永先生に対しては本当にそのようなことを感じたことが一度もありません。あくまで推測ですが、富永先生はある意味で純粋な人ですし、裏表があまりなく、意地悪をしたり、党派的に振る舞う方ではない。折原先生の中ではネガティブに捉える要素があまりなかったのかもしれません。
ですから、属人的にお二人の間には比較的いい先輩・後輩関係があったかもしれないと思われる部分があります。ただ一般論としての本郷・駒場関係については、佐藤先生に伺った方が早いかもしれません。例えば見田先生と本郷との関係。逆に見田・折原に対する本郷の教員側の評価など。こうしたことを論じられるほど私自身はリアルタイムでは体験できていません。その関係は実はすごく面白いデリケートな部分があり、全面戦争にならないようにはなっていたのだろうと、勝手に思っています。これとは関係なく、佐藤先生のコメントにありました、折原先生の若い頃の冊子はいずれ機会があれば見せてください(笑)。
東京学派を考えるという点で、場合によっては議論等でお話しいただきたいですし、ご存じの方は教えていただきたいと私が考えるのは、さきほど、ちらとだけ申し上げました、本郷における「アメリカン・プラグマティズム」の影響は、本当かという点です。明示的にアメリカ由来を標榜していたかどうかはともかくとして、一時期まで本郷の実証主義がアメリカ由来の実証主義と本当に結び付いていたのかはすごく気になります。折原評ではそのようになっているのですよね。それが正しいかどうかは、もう少しじっくり考えるべきかもしれないと思います。
私も富永先生に学恩がある身ではありますが、佐藤先生のコメントにもありました富永の『戦後日本の社会学』、この本をそのまま日本の社会学史として受け取りなさいと、さすがに学生に指導してはおりません(笑)。ただ日本の社会学史を勉強するためには、必読の本だとは多くの機会で若い方に伝えております。私は所属する私立大学で「社会学史」という授業を持っていますが、そこではウェーバーなどに限らず、富永健一の業績も取り上げております。取り上げると案外、若い人には響く場合がありますし、場合によっては留学生など実際に読んでみる方もいます。富永は、実証主義というだけでなく、理論・理念との格闘を避けない社会学者だった点が、実は今日の社会学者からみても特徴的なのではと思います。
東京学派を語ろうとするとき、この富永の特徴は、尾高・福武の学風との断絶があるようにも思えます。尾高・福武からみれば、富永が世代的には次の世代だから、こうした断絶があるのか。それよりは、本郷では、富永健一は実は主流派とは言えずマイノリティーだったのではないか。そう感じながら今日の話を聞いていました。
両先生御質問ありがとうございます。何も回答になっておらず、申し訳ないです。
中筋:矢野先生、ありがとうございました。では、米村先生、お願いします。米村:ありがとうございます。私に直接いただいたコメントではないのですが、佐藤先生からのご指摘はかなり家族研究に重なってくる部分があったかと思いますので、回答というよりは逆に教えていただきたいと思います。
1点は、有賀、喜多野と比べれば、小山隆は実は今まで家族社会学の中でもあまり論じられることがなかった人だったかと思いますが、森岡先生の御論文を読むと、少し興味が湧いてきて、先ほどの世代論という点も含めて戸田貞三の実証主義の継承者として眺め直してみれば面白い線が見えるのかもしれないと、先生のコメントを伺って思いました。
それとの関連で2点目として、戸田貞三の家族理論を実証主義者としての位置付けから考えると、それを家族社会学が引き継いでいったのは、必然といいますか、そのような流れだったのかと思います。だからなのか、戸田貞三の家族構成の家族理論部分、集団的特質の部分はややエモーショナルなところがあり、ダイレクトに継承しづらいといいますか、それはその後の家族社会学において実証主義という側面が強かったからなのか、引いてしまった側面があったのかどうかと、改めて思いました。
3点目が最後になりますが、佐藤先生が社会学vs社会主義・マルクス主義や社会科学とおっしゃった点については、家の研究などをしていると、当時、本当に学際的といいますか、社会学者だけでやっていることはほとんどなく、いろいろな分野の人が一緒に研究しています。
しかし、封建遺制の報告書などを見ていると、やはり社会学主義といいますか、社会学者はこうだという自負のようなものも見えます。今日も学際研究は重要だと言われていますが、社会学者がどのようにそこに独自性を持って関わっていけるかという点は今に通じる課題です。実証的な研究をやりながらもう少し踏み込んだことを言いたいというアンビバレントな側面も社会学にはあるのだと思います。
例えば歴史学で家研究をされている方に比べれば、私などは特に資料の読み込みが浅いところがあるといつも反省していますが、かといって理論的にバンと枠組みで切れるかというと、そこまでそちら側にもふりきれない非常に曖昧なところにいると思います。もちろん過去の社会学者の方は立派な仕事をなさっていますが、その中で社会学らしさのようなものがどのようにあったのかを改めて読み直したいと思いました。ありがとうございます。
中筋:米村先生、ありがとうございました。では、トリで園田先生、お願いします。
園田:いえ、トリと言われるほどではないのですが、まず出口先生から学派を形成する要因として、(1)知の収斂化、(2)異端性、(3)外部からの命名、(4)地政学的な位置と4点あるとの指摘がありました。イントロダクションで指摘したように、そもそも東京学派といった概念が使われていないのには、それなりの理由があると思っています。東京学派に関する科研費プロジェクトを立ち上げる際にも、この概念が成り立つかどうかについては侃々諤々ありました。
東京大学の学知については、世代を超えて何かが継承されているように思えません。それどころか、若い研究者は師匠を立てるというよりは踏み付け、永遠の積み木崩しのようなことをやっているようにも思えます。
社会学の東京学派を考えるときに、もう一つ重要な特徴があります。トルコやマレーシアなどイスラムの影響が強いところや、中国のような社会主義の影響が強いところでは、社会学研究の基盤そのものがその時々に揺らぐのですが、東京学派に関しては、細かな差異を超えた世俗的主義的スタンスが一貫して見られるように思えます。
東京大学を含む日本では、大きなチャレンジを受けて社会学そのものが否定されたり、国立大学で研究が許されなくなったりといった経験をしていません。
アジアの歴史学者の中でも、戦前に日本の社会学があったことを知らない人もいますが、華人系の人たちによくある誤りは、戦争によって日本の社会学はいったん消滅したと思われていることです。実際、私の専門である中国の場合、1957年から1979年まで国家が社会学を「ブルジョワ科学」として認めていませんでした。
佐藤先生が指摘された世代の断絶は確かにありますし、断絶があるがゆえに個々の研究者の意図を細かく見なければいけませんが、逆に大局的に見ないとわからないこともあるように思います。富永先生は「これでは社会学ではない」と口癖のようにおっしゃっていましたが、実際にはこれが排除にならなかったどころか、さまざまな議論が併存して現在に至っている歴史が、個人的にすごく面白いと思っています。
私は以前、日本の社会学に見られるこうした特徴をopportunistic
utilitarianism(機会主義的功利主義)と名付けたことがあります。私の報告の最後で、自分たちから主体的に作ったというよりは、その時々の時局に左右されながらアジア・コネクションが作られてきたと述べましたが、このような主体性の欠如、ビジョンの欠落が東京学派に見られるアジア・コネクションの特徴です。
そうであるがゆえに、戦後の福武先生がそうであったように、線香花火のような弱い、しかし永続的な関心が可能となる。本日の先生方の報告にも、こうした特徴がよく現れていたように思います。正当と異端をスパッと切って異端を排除するメカニズムが、東京学派にはさほど強くないのかもしれない。
先ほど出口先生の中で、解釈学的な訓くん詁こ 学に近いような領域と、プラグマティズムな研究が併存していることが指摘されました。社会学は絶えず発展するので、先達が行ってきたことをそのまま継承するのではなく、学生たちが全然違う研究をするのは当然のように思えます。しかし、制度やその制度を維持した人々のメンタリティーがどのようなものであったかは、考えてみる価値がある。
東京大学に集まる学生は優秀なので、多くの場合、先生は自分の主張や関心と違っても学生に「やってごらん」という。この「ぬるり」とした師弟関係にあって、社会学者としての訓練を受けた若い人はスピンオフしやすく、社会学から多種多様な人材が輩出されることになる。その結果、本丸には何も残らなくなってしまうのかもしれませんが(笑)、それでも異なる関心をもつ学生を受け入れ、その研究を潰さないメンタリティーが、東京学派の研究者にあるように思います。
日本や東京大学だけを見ているとわからないのですが、社会学が否定された悲惨な歴史を持つ海外の国・地域と比べると、社会学の中の東京学派には融通無む 碍げ さ、フレキシビリティーの強さが見られ、戦前からの歴史からの継続性を抱えつつ今日に至る歴史は、今一度再考してみる価値があると思います。
あちらに行ったり、こちらに行ったりしてすいません。以上です。
中筋:園田先生、ありがとうございました。予定では25分までですから、あと15分ぐらいあると思いますが、せっかく今、登壇者以外に30人ぐらい参加してくださっていると思うので、フロアからの質問を2~3頂いてよろしいですか。
そうしましたら、そんなにたくさんは受け付けられないと思いますが、フロアの方でご質問やご意見がある方は簡潔な形で出していただければと思います。Zoomには挙手機能が多分あると思いますので、私が見つけ出すまでに時間がかかるかもしれませんが、早い者順でやってみたいと思います。ご質問のある方は挙手をお願いします。いかがでしょうか。よろしいですか。今特にないようでしたら、登壇者であるコメンテーターのお2人の先生方からリプライがあったのですが、それに加えて再リプライ、再反論、再コメントがありましたら、それも含めて出していただければと思います。佐藤先生、出口先生はいかがでしょうか。では、佐藤先生、お願いします。
佐藤:じつは、僕は出口君お先にどうぞ、と言ったつもりでしたが、ミュートで手をあげたようにみえてしまいましたね。
戦後の社会学が祖国独立の意識といいますか、民族独立運動のようにかなり「ディシプリンとしての独立」を意識したことは確かだったと思います。なおかつ、それは経済学や政治学に対する社会学としての独立だけではなく、都市社会学、あるいは家族社会学とか、産業社会学の領域確定とも深く関わっていた。家族社会学会ができるのがすごく遅れるのに見られるように若干ねじれている部分があると思いますが、村落社会研究など幾つかの具体的な対象ありという形での専門意識の表れもその独立機運の中にあったと思います。
その意味において、いわば「社会学ナショナリズム」のようなものが強まっていた時期だろうと思います。その中でやはり、対象の独自性や方法の独自性を外に向かって言わなければいけないという強迫観念があった。そこが「マルクス主義」社会科学との主戦場でもあった。そこをどのように乗り越え、社会学の存在意義を宣揚するかという感じで、この課題はその後にすごく長く残ったと思います。
ただ、これもやはり強迫観念は強迫観念にしかすぎないという、居直りも必要です。同時に九学会連合など幾つか旧来のある種、村落や人間の生活に近づくためには学際的なアプローチも必要だよねというバランス感覚もありましたし、そのあたりは、「社会学のアイデンティティ」というような概念が、自己呪縛的な概念であったことをどこまで突き放せるかという問題です。
このようにすればいいという解決策を僕がもっているわけではありませんが、けっきょくは、自分のやっているアプローチがやはり社会学にふさわしい、方法として正当なのだという自信でしかないのではないかと思います。
ですから、そのようなものを自分の思い込みではなく、他者とのある種の対話の中でどれくらい築いていけるかという話でしょう。そこは中筋さんが言っているように、ある種のディシプリンの中でも、そして自分の反抗のようなものも含めて、いかに自己実現する能力を育てられるかというレベルで、次世代を担う人たちをつくってきた学問でいいのではないかと、私は思います。それにどのような名前を付けるかどうかは、そんなに問題ではない感じがします。
私は、社会学史は理論史としてではなく、調査史としても書かれなければならないだろうと主張してきましたけれど、自身としては入口ていどの仕事しかできていません。社会学の実践を支えていたさまざまな資料や資源の研究も、あるいは経済的な構造、つまり資金の問題も重要です。自治体や国の機関が調査を組織するとか、海軍や興亜院が調査を支えるとか、あるいは学術振興会の科研費に近いシステムは戦前に出来上がります。そのことによってある種の調査実践が支えられる枠組みができたことが、一方で実証研究を進めていったりもしたわけです。そうした議論も、きちんと見ておかなければいけないと思います。
中筋:ありがとうございます。出口先生はどうですか。
出口:大変勉強になりました。中筋先生が言及されたマンハイムと福武先生との関係ですが、普通ドイツの議論をしていると、ウェーバー、マンハイムとくれば、相対主義をどのように乗り越えるのか、相対主義をどのように克服するのかという話になります。しかし、福武先生の著作を見ていると、価値判断をどのように遠ざけるかといいますか、また違ったベクトルが働いており、これが日本に海外の学説が入ったときのある種の屈折、独自性を表しているのかもしれないという気がしました。
こうした点から見たときに、私が体験した1999年のウェーバーシンポジウムは、矢野さんの指摘のとおり、そこから何を読み取るのかも大事ですが、ウェーバーを消化してやろうといいますか、アプロプリエーションという言葉があると思いますが、消化する貪欲さが東大学派の核にあるように思います。その中で、消化するためには正しい学説を輸入しなければいけないという志向性と、輸入したものをうまくエネルギーにしなければいけないという志向性、この2つの矛盾するベクトルが生まれてくる気がしました。
私はあのときに、上山安敏さんのレジュメをパソコンで起こせと矢野さんに言われて作業した思い出があるのですが、実はそのときの写真もウェブ上にあるので、ウェーバーシンポジウム、矢野善郎、出口剛司で検索してください。そうすると今から20~30年前のわれわれの写真、若き日の矢野さんの写真が出てくるかもしれません。ふとそんなことを思い出しました。
それから、調査方法でおっしゃったことは全くそのとおりで、前の世代の先生方は、やはり領域をまたがった調査手法を吸収して社会調査の方法をつくってきたと思います。データサイエンスやビッグデータの分析についても、数学や統計学の専門家、データサイエンティストの人たちの力を借りながら、社会学の中で新しい方法をつくっていくのだと。私が中筋さんと経験した農村調査では、調査票を持って歩いていましたが、多分それは人類学などの手法を社会学に取り込みながらつくってきた当時では新しい方法だったと思います。私はデータサイエンスに全然ついていけないのですが、次の世代の人たちが調査方法をつくっていくときは多分、かつて人類学から学んだものとはまた違い、統計学やデータサイエンスから学びながらつくっていくのではないかと思いました。前にアジアの研究者と話しているときに、土着の社会学があるのは桎梏でもありうらやましいことでもあるといいますか、可能性でもあるという話題になったことがあります。東アジアの工業がなぜ成功したかというと、国内市場を気にせずに、グローバルスタンダードですぐに勝負ができたからです。
それに対して、日本は独自の文化や生活様式をもつ巨大な国内市場があるので、そこを無視してグローバルに行けなかったと。それが、日本の家電が立ち行かなくなった原因だとよく言われます。しかし、私はやはり学問はそうではないと思っており、積み重ねがある中から知を紡ぎ出していくことが大事な気がしています。日本の社会学の歴史は桎梏でもあり、財産でもあり、そこからいろいろなものを紡ぎ出していけると思います。かつての「京城」や「台北」と交流があったように、佐藤先生の代とわれわれの代も、ずっとソウル国立大学と交流してきましたし、国立台湾大学とも園田先生のお力をお借りして関係性ができました。そうした中で、優れた知を生産していなければいけないという責任をひしひしと感じる時間でした。どうもありがとうございました。勉強になりました。
中筋:出口先生、どうもありがとうございました。助手時代に出口先生と一緒に福井県武生市の農村へ社会調査実習に行ったとき、しこたま酒を飲ませてつぶしてしまい、引率の似田貝香門先生から大目玉を食らったのは私です。
すいません。
出口:二日酔いがきつかったです。
中筋:そのようなものが昔の農村調査のやり方だったのですが、これからはそうではなくなるでしょう。もう少し時間があると思うので、もしフロアの方でお一方、お二方、コメントや感想を一言、言っておきたい方がいらっしゃれば、遠慮なく手を上げていただけますか。よろしいですか。では、園田先生、そろそろまとめに入ってもよろしいですか。
総括・挨拶
園田:わかりました。
今日は長丁場、ご苦労さまでした。今回の研究会の趣旨についてはご説明したとおりで、最終的に東京学派がどのように実体化されるのか、そもそもあるのかないのかが、最後までわからない議論だったかもしれません。ただ、先ほど出口先生が指摘されていたように、積み重ねの中からどのような知を生み出すかについては、重要なポイントだと思います。
このプロジェクトを立ち上げる際、主査の中島隆博さんと話をし、今まで東京大学の中でいろいろな学説をつくった人がいたものの、その弟子筋がその学説を継承するどころか否定するなど、無常な世界だということになりました。
この無情な世界にあって、ちゃんと霊の供養をしているのだろうか。はっきり否定するのも供養です。何もせずに忘れてしまうのが一番供養できていない状態で、供養されない魂が本郷キャンパスにはたくさんいるのではないか。いい供養をしないといけない。そんな話をしました。
私や佐藤先生、出口先生も同じように後で供養されるといいなあと思いますが(笑)、いずれにせよ、どのような文脈の中で知的生産がなされてきたかを振り返ることは、われわれ自身を振り返る行為に他ならず、大変難しい作業だと思います。
本日の議論はテープ起こしをして、多くの方々に見ていただこうと思います。また、社会学以外のディシプリン――文学や哲学、宗教、経済学などの領域――でどのような力学が働いており、例えば戦中に他の学問はどのような状況だったのかなど、縦軸と横軸を広げながら考察を深めていかねばならないと考えます。
先ほど佐藤先生から他の帝国大学との関係への言及がありました。日文研の松田利彦先生などが京城帝国大学を対象にした研究を進めておられますが、社会学に関わる部分はあまり深掘りされていません。京城帝国大学の設計に関わったのが服部宇之吉のような中国哲学の研究者だったこともありますが、同じ時期、同じような状況の中で他のディシプリンがどのように動いていたかをも射程に入れ、東京学派の問題の機制をこれから徐々に明らかにしていきたいと思っています。
もっともその結果、どのような成果が得られるかについては予想できないところがあり、下手をすれば身内が集まって傷をなめ合って終わってしまう可能性もある。逆に、今われわれが抱えているグローバルな問題を考える際のヒントになることが、この共同研究から生まれる可能性もないとはいえない。
総括になっていないかもしれませんが、長時間ご参加いただきありがとうございました。
9 |
報告・コメントに登場する
「東京学派の社会学者」一覧
(1950年以前に生まれた者に限る)
――整理:園田
茂人
1
福武直 FUKUTAKE
Tadashi(1917–1989):報告1、2、3、4、コメント1、2
岡山県生まれ。1940年東京帝国大学文学部社会学科卒業。副手、特別研究生などを経て1948年東京大学文学部助教授。1960年教授。1977年退官。農村社会学、家族社会学、社会政策が専門。
2
中野卓 NAKANO
Takashi(1920–2014):報告1、3
京都府生まれ。1944年東京帝国大学文学部社会学科卒業。1949年東京大学文学部助手、東京教育大学文学部講師、助教授、教授を経て、1977年千葉大学教授。1986年退官。家族社会学、生活史研究が専門。
3
日高六郎 HIDAKA
Rokuró(1917–2018):報告1、コメント2
中国青島市生まれ。1941年東京帝国大学文学部社会学科卒業。東京大学新聞研究所助教授になり文学部社会学科の兼任を経て、1960年に新聞研究所教授。1969年辞職。マスコミュニケーション研究が専門。
4
見田宗介 MITA
Munesuke(1937–);報告1、コメント2
東京都生まれ。1960年東京大学文学部社会学科卒業。1965年同大学院社会学研究科退学後、東京大学教養学部専任講師。1967年東京大学教養学部助教授、1982年教授、東京大学大学院総合文化研究科教授。1998年退官。現代社会論、社会意識論が専門。
5
蓮見音彦 HASUMI
Otohiko(1933–):報告1、3、コメント2
東京都生まれ。1955年東京大学文学部社会学科卒業。1960年同大学院社会学研究科退学。東京女子大学講師、助教授、東京学芸大学助教授、教授を経て、1986年東京大学文学部教授、1991年退官。農村社会学、地域社会論が専門。
6
富永健一 TOMINAGA
Ken’ichi(1931–2019):報告1、2、4、コメント1、2
東京都生まれ。1955東京大学文学部社会学科卒業。1959年同大学院社会学研究科退学。東京大学文学部助手、専任講師、准教授を経て、1977年東京大学文学部教授。1992年退官。社会変動論、経済社会学が専門。
7
尾高邦雄 ODAKA
Kunio(1908–1993):報告1、2、4、コメント2東京都生まれ。1932年東京帝国大学文学部社会学科卒業。同年副手に就任。以後助手、講師、助教授を経て、1953年東京大学文学部教授。
1969年退官。職業社会学、産業社会学が専門。
8
安田三郎 YASUDA
Saburó(1925–1990):報告1
東京都生まれ。1951年東京大学文学部社会学科卒業。1954年同大学院社会学研究科退学。横浜市立大学講師、東京教育大学助教授を経て、1975
年東京大学文学部助教授。76年広島大学教授、79年関西学院大学教授。数理社会学、社会階層論が専門。
9
松原治郎 MATSUBARA
Haruo(1930–1984):報告1
東京都生まれ。1953年東京大学文学部社会学科卒業。1958年同大学院社会学研究科退学。同年東京大学文学部助手。東京学芸大学講師、助教授などを経て、1978年東京大学教育学部教授。農村社会学、地域社会学が専門。 10 園田恭一 SONODA
Kyóichi(1932–2010):報告1
東京都生まれ。1957年東京大学文学部社会学科卒業。1962年同大学院社会科学研究科退学。同年東京大学文学部助手。1964年お茶の水女子大学講師、助教授、1968年東京大学医学部助教授、1983年教授、1993年退官。
医療社会学、保健社会学が専門。
11
副田義也 SOEDA
Yoshiya(1934–):報告1
東京都生まれ。1957年東京大学文学部社会学科卒業。1959年同大学院社会学研究科修士課程修了。日本社会事業大学助教授、東京女子大学教授などを経て、1977年から1998年まで筑波大学教授。教育社会学、福祉社会学が専門。
12
鈴木栄太郎 SUZUKI
Eitaró(1894–1966):報告1、3、4、コメント2長崎県生まれ。1922年東京帝国大学文学部卒業後、京都帝国大学大学院へ進学。岐阜高等農林学校教授、京城帝国大学助教授を経て、1947年から北海道大学教授。1958年北大退官後は、東洋大学教授、和光大学教授を歴任。農村社会学、都市社会学が専門。
13
新明正道 SHINMEI
Masamichi(1898–1984):報告1、4
台湾台北市生まれ。1921年東京帝国大学法学部政治学科卒業。同年関西学院大学教授、1926年東北帝国大学助教授、教授。1946年に公職追放となるが、1951年に復職。1961年東北大学退官。独自な立場から綜合社会学を打ち立てる。
14
有賀喜左衛門 ARIGA
Kizaemon(1897–1979):報告1、3、コメント2長野県生まれ。1919年東京帝国大学文学部美術史学専攻卒業。後に柳田國男の影響を受け、社会学的な研究を行うようになる。1949年東京教育大学教授、1957年退官。家族社会学が専門。
15
戸田貞三 TODA
Teizó(1887–1955):報告1、2、3、4、コメント2 兵庫県生まれ。1912年東京帝国大学文科大学哲学科卒業。1920年東京帝国大学文学部講師、欧米留学を経て、1922年助教授、1929年教授。
1947年退官。アメリカ流の実証主義、社会調査法を持ち込んだ。家族社会学が専門。
16
建部遯吾 TAKEBE
Tongo(1871–1945):報告1、3、4、コメント2新潟県生まれ。1896年東京帝国大学文科大学哲学科卒業。翌年から講師として社会学講座を担当。1900年助教授に就任。1901年東京帝国大学における社会学講座の初代担当教授となった。1922年退官。普通社会学という体系的な社会学理論を作った。
17
林恵海 HAYASHI
Megumi(1895–1985):報告1、コメント2
山口県生まれ。1921年東京帝国大学文学部社会学科卒業。同年から長く助手を務め、1939東京帝国大学助教授に就任。1948年教授、1956年退官。
農村社会学、人口研究が専門。中国の江南農村の研究も行っている。
18
牧野巽 MAKINO
Tatsumi(1905–1974):報告1、4
東京都生まれ。1929年東京帝国大学文学部社会学科卒。同年副手。東方文化学院研究所員、東京高等師範学校教授を経て、1949年東京大学教育学部教授。1965年退官。中国の家族・親族研究が専門。
19
岡田謙 OKADA
Yuzuru(1906–1969):報告1、4、コメント2
東京都生まれ。1929年東京帝国大学文学部社会学科卒業。1930年台北帝国大学文政学部講師となり、社会人類学的研究を開始。1941年東京高等師範学校教授。後に東京文理科大学助教授、東京教育大学教授。未開社会の研究が専門。
20
喜多野清一 KITANO
Seiichi(1900–1982):報告1、3、コメント2和歌山県生まれ。1925年東京帝国大学文学部社会学科卒業。1927年同大学院退学。1933年法政大学文学部専任講師。1948年九州大学教授、
1956年大阪大学教授。1964年退官。1982年駒澤大学在職中に逝去。農村社会学、家族社会学が専門。
21
磯村英一 ISOMURA
Eiichi(1903–1997):報告1
東京都生まれ。1928年東京帝国大学文学部社会学科卒業。東京都民生局長、都民室長などを経て、1953年東京都立大学教授。1965年退職、同年東洋大学教授兼社会学研究所長となり、1969年からは学長も務めた。都市社会学が専門。
22
清水幾太郎 SHIMIZU
Ikutaró(1907–1988):報告1、4
東京都生まれ。1931年東京帝国大学文学部社会学科卒業、同年副手。1933年に副手を免職されてからフリーに。1949年学習院大学教授。
1969年退職。退職後は「清水研究室」を主宰し、フリーの作家として活躍。
社会心理学、メディア研究が専門。
23
田辺寿利 TANABE
Suketoshi(1894–1962):報告1
北海道生まれ。1921年東京帝国大学文学部社会学科中退。在野の社会学者として,フランス社会学の成立と発展を研究。戦争中は、モンゴル政府の要請により蒙疆学院副学院長。戦後、東洋大学、東北大学、金沢大学の各教授を歴任した。
24
米林富男 YONEBAYASHI
Tomio(1905–1968):報告1
石川県生まれ。1928年東京帝国大学文学部社会学科卒業。その後10年ほど講師を務め、1938年に出版社(日光書院)を設立。1949年東洋大学文学部社会学科の主任教授に就任。農村社会学、社会病理学が専門。
25
内藤莞爾 NAITŌ
Kanji(1916–2010):報告1
静岡県生まれ。1940年東京帝国大学文学部社会学科卒業、1944年同大学院修了。その後神戸大学での勤務を経て、1951年九州大学助教授、
1970年教授。1980年退官。デュルケム研究、家族社会学が専門。
26
吉田民人 YOSHIDA
Tamito(1931–2009):報告1
愛知県生まれ。1955年京都大学文学部社会学専攻卒業。1957年同大学院文学研究科修士課程社会学専攻修了。関西大学、大阪大学、京都大学での勤務を経て、1980年 東京大学文学部教授。1992年退官。理論社会学が専門。
27
盛山和夫 SEIYAMA
Kazuo(1948–):報告1
鳥取県生まれ。1971年東京大学文学部社会学科卒業。1978年同大学院社会学研究科退学。1978年北海道大学助教授、1985年東京大学助教授、
1994年教授。2012年退官。数理社会学、社会階層論が専門。
28
庄司興吉 SHŌJI
Kókich(i
1942–):報告1、コメント1
東京都生まれ。1964年東京大学文学部社会学科卒業。1971年同大学院社会学研究科退学。法政大学(助手、講師、助教授)での勤務を経て、
1978年東京大学助教授。1987年教授。2003年退官。社会理論、国際社会学が専門。
29
内田隆三 UCHIDA
Ryúzó(1948–):報告1
大阪府生まれ。1973年京都大学文学部哲学科卒業、1982年東京大学大学院社会学研究科退学。神戸女学院大学助教授、教授を経て、1996年東京大学大学院総合文化研究科教授。2015年退官。社会理論、現代社会論が専門。
30
飯島伸子 IIJIMA
Nobuko(1939–2001):報告1
北朝鮮咸鏡北道城津(現在の金策)市生まれ。1960年九州大学文学部卒業。1968年東京大学大学院社会学研究科修士課程修了。同年東京大学医学部助手。桃山学院大学での勤務を経て、1991年東京都立大学教授。
2001年退職。環境社会学が専門。
31
舩橋晴俊 FUNABASHI
Harutoshi(1948–2014):報告1
神奈川県生まれ。1973年東京大学経済学部卒業(入学時は理系)、1976
年同大学院社会学研究科退学。同年東京大学文学部助手。1979年法政大学社会学部講師、1988年教授。在職中の2014年に逝去。環境社会学、社会運動論が専門。
32
折原浩 ORIHARA
Hiroshi(1935–):報告2、コメント1、2
東京都生まれ。1958年東京大学文学部社会学科卒業、1964年同大学院社会学研究科退学。同年東京大学文学部助手。1965年東京大学教養学部講師、1966年助教授、1986年教授。1996年退官。マックス・ヴェーバー研究が専門。
33
似田貝香門 NITAGAI
Kamon(1943–):コメント1
福井県生まれ。1967年東京学芸大学教育学部卒業、1973年東京大学大学院社会学研究科退学。山梨大学、東京学芸大学での勤務を経て、1989年東京大学文学部助教授、1993年同教授。2006年退官。地域社会学、住民運動論が専門。
34
栗原彬 KURIHARA
Akira(1936–):コメント1
栃木県生まれ。東京大学教養学部卒業。1964年同大学院社会学研究科修士課程修了。立教大学法学部助手、武蔵大学人文学部講師、立教大学法学部助教授・教授、2002年退職。政治社会学、アイデンティティ論が専門。 35 小山隆 KOYAMA
Takashi(1900–1983):報告3、コメント2
岡山県生まれ。1924年東京帝国大学文学部社会学科卒業。長崎高等商業学校教授、高岡高等商業学校教授を経て、1950年大阪大学教授。1955
年東京都立大学教授、1964年退職。家族社会学が専門。
36
青井和夫 AOI
Kazuo(1920–2011):報告3、4
岡山県生まれ。1941年東京帝国大学法学部卒業。1950年東京大学文学部社会学科卒業。1953年東京学芸大学助教授、1961年東京大学文学部社会学科助教授、1970年教授。1980年退官。家族社会学、小集団研究が専門。
37
綿貫哲雄 WATANUKI
Tetsuo(1885–1972):報告3
群馬県生まれ。1914年東京帝国大学文科大学哲学科卒業。1938年文学博士(東京大学)。1918年東京高等師範学校教授となり、同年欧米に留学。
1929年東京文理科大学講師、1936年教授となり、1951年中央大学教授に就任。理論社会学が専門。
38
渡辺秀樹 WATANABE
Hideki(1948–):報告3
新潟県生まれ。1972年東京大学教育学部卒業。1978年同大学院教育学研究科退学、同年東京大学文学部助手。1983年電気通信大学助教授、
1990年慶應義塾大学助教授、95年教授。2014年帝京大学教授。家族社会学が専門。
39
外山正一 TOYAMA
Masakazu(1848–1900):報告4
東京都生まれ。1866年幕府派遣留学生として渡英。1877年、官立東京開成学校で社会学の教鞭をとり、同校が東京大学(後の東京帝国大学)に改編されると日本人初の教授として社会学を講じた。東京帝国大学文科大学長を経て同総長。
40
遠藤隆吉 ENDŌ
Ryukichi(1874–1946):報告4
群馬県生まれ。1899年東京帝国大学文科大学哲学科卒業。1900年東京高等師範学校講師就任。1922年旧制巣鴨中学校を創立。1928年旧制巣鴨高等商業学校(現・千葉商科大学)を創立、私学創設に務めた。社会学理論、中国哲学が専門。
41
有賀長雄 ARIGA
Nagao(1860–1921);報告4
大阪府生まれ。1882年東京帝国大学文科大学哲学科卒業。東京帝国大学御用掛、同文学部准助教授などを経て、1986年ヨーロッパ留学。帰国後、東京帝国大学などで憲法や国際法を講じた。日本で最初の体系的な社会学の著作『社会学』を発表している。
42
丁克全 DING
Kequan(1914–1989):報告4
中国新京(現在の長春)市生まれ。回族。1940年東京帝国大学文学部大学院に(「丁福源」名で)入学、1942年卒業。帰国後、北平(現在の北京)師範大学教授。その後東北師範大学教授などを歴任した。マルクス主義社会学が専門。
43
李萬甲 LEE
Mangap(1921–2010):報告4
北朝鮮平安北道新義州市生まれ。1942年東京帝国大学文学部社会学科入学(「平居郁男」名で)、1944年卒業。1946年ソウル大学文理学部講師。
1955年コーネル大学へ留学。1963年ソウル大学教授、1987年退官。農村社会学、社会調査法が専門。
44
山口博一 YAMAGUCHI
Hirokazu(1933–):報告4
中国生まれ。1956年東京大学文学部社会学科卒業。1959年同大学院社会学研究科退学。アジア経済研究所での勤務を経て、1991年文教大学教授。2003年退職。インド研究、地域研究論が専門。
45
加々美光行 KAGAMI
Mitsuyuki(1944–):報告4
大阪府生まれ。1967年東京大学文学部社会学科卒業。アジア経済研究所研究員を経て、1991年愛知大学法学部教授。1997年同現代中国学部教授・学部長。2014年退職。政治社会学、現代中国研究が専門。
46
加納弘勝 KANŌ
Hirokatsu(1945–):報告4
岐阜県生まれ。1968年東京大学文学部社会学科卒業、1971年同大学院社会学研究科修士課程修了。アジア経済研究所での勤務を経て、1989年津田塾大学教授。2016年退職。中東研究、比較社会学が専門。
47
菱田雅晴 HISHIDA
Masaharu(1950–):報告4
長野県生まれ。1974年東京大学文学部社会学科卒業。同年日本貿易振興会入会。1986年静岡県立大学助教授。同教授を経て、2002年から法政大学法学部教授。現代中国研究、政治社会学が専門。
48
駒井洋 KOMAI
Hiroshi(1940–):報告4
中国大連市生まれ。1964年東京大学文学部社会学科卒業、1970年同大学院社会学研究科退学。厚生省人口問題研究所、東洋大学での勤務を経て、
1975年筑波大学助教授、1991年教授、2004年退官。国際社会学、移民研究が専門。
49
服部民夫 HATTORI
Tamio(1947–2015):報告4
大阪府生まれ。1971年同志社大学文学部社会学科卒業。アジア経済研究所研究員を経て1991年東京経済大学教授。1996年同志社大学教授。
2002年東京大学文学部教授に就任。2012年退官。韓国社会論、経済社会学が専門。
50
稲上毅 INAGAMI
Takeshi(1944–):コメント2
東京都生まれ。1967年東京大学文学部倫理学科卒業、1969年同大学院社会学研究科博士課程退学。東京大学文学部助手、法政大学社会学部教授などを経て、1994年東京大学文学部教授。2005年退官。産業社会学、社会学理論が専門。
51
松本潤一郎 MATSUMOTO
Jun’ichiró(1893–1947):コメント2
千葉県生まれ。1918年東京帝国大学文科大学哲学科卒業。同大学院中退後、大阪毎日新聞記者、法政大学教授などを経て、1938年東京高等師範学校教授。形式社会学や文化社会学などを統合した「総社会学」を提唱。
理論社会学が専門。
52
髙橋徹 TAKAHASHI
Akira(1926–2004):コメント2
広島県生まれ。1948年東京帝国大学文学部社会学科卒業。1951年東京大学文学部助手。東京大学新聞研究所助手、助教授、東京大学文学部助教授を経て、1970年東京大学文学部教授。1987年退官。知識社会学、社会意識論が専門。
53
河村望 KAWAMURA
Nozomu(1931–2015):コメント2
東京都生まれ。1954年東京大学文学部社会学科卒業。東京都立大学助教授、教授を経て1993年退官。マルクス主義の視点から日本の社会学史を分析した『日本社会学史研究(上・下)』が代表作。社会意識論、社会学史が専門。
54
髙橋明善 TAKAHASHI
Akiyoshi(1934–):コメント2
島根県生まれ。1956年東京大学文学部社会学科卒業。同年東京大学教養学部助手。1964年東京農工大学講師、助教授を経て、1976年東京農工大学教授。1997年退官。農村社会学が専門。
55
秋葉隆 AKIBA
Takashi(1888–1954):コメント2
千葉県生まれ。1921年東京帝国大学文学部社会学科卒業。文学博士。
1924年京城帝国大学予科講師、1926年同法文学部助教授。1945年九州大学教授、1949年愛知大学文学部教授。朝鮮、満州、蒙古などを踏査した。
56
泉靖一 IZUMI
Seiichi(1915–1970):コメント2
東京都生まれ。1938年京城帝国大学法文学部卒業。京城帝国大学法文学部助手、助教授を経て、1949年明治大学助教授、1951年東京大学東洋文化研究所助教授。1955年教養学部へ配置転換し、1962年に再度、東洋文化研究所に配置転換。文化人類学が専門。
57
小山栄三 KOYAMA
Eizó(1899–1983):コメント2
北海道生まれ。1924年東京帝国大学文学部社会学科卒業。1938年立教大学教授。1949年総理府国立世論調査所長となり、世論調査を初めて日本で行った。1960年立教大学社会学部長、1964年定年退職。人口学、世論研究が専門。
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北川隆吉 KITAGAWA
Takayoshi(1929–2014):質疑応答
韓国京城府(現在のソウル市)生まれ。1952年東京大学文学部社会学科卒業。1953年東京大学文学部助手。1958年から法政大学講師、助教授、教授。1978年名古屋大学文学部教授。1992年退官。労働社会学、地域社会学が専門。
著者紹介
■ オーガナイザー
園 田 茂 人(そのだ・しげと)
東京大学東洋文化研究所・教授。専門は比較社会学、アジア文化変容論、中国社会論。質問票調査による数量データを使用し、中国を中心にアジア各国の社会を研究している。著書に『中国人の心理と行動』(NHK ブックス、2001
年)、
『不平等国家中国―自己否定した社会主義のゆくえ』(中公新書、2008 年、第 20 回アジア・太平洋賞特別賞受賞)、『アジアの国民感情―データが明かす人々の対外認識』(中公新書、2020 年)などがある。
■ 発表者
中 筋 直 哉(なかすじ・なおや)
法政大学社会学部・教授。専門は地域社会学、社会調査法。狭い意味での専門は群衆と都市騒乱の歴史社会学であるが、学説史を知識社会学的に読み直すことにも関心をもつ。著書に『群衆の居場所―都市騒乱の歴史社会学』(新曜社、2005 年)、『よくわかる都市社会学』(五十嵐泰正との共編著、2013 年、ミネルヴァ書房)、「多様性の批判的活用―都市社会学者から都市計画家への提案」(『都市計画』348、2020
年)などがある。矢 野 善 郎(やの・よしろう)
中央大学文学部・教授。専門は M・ヴェーバー論・理論社会学・社会思想。ディベート教育にも造詣が深く、日本ディベート協会会長を歴任。著書には『マックス・ヴェーバーの方法論的合理主義』(創文社、2003 年)、『マックス・ヴェーバーの新世紀―変容する日本社会と認識の転回』
(共編著、未來社、2000 年)、『日本マックス・ウェーバー論争―「プロ倫」読解の現在』(共編著、ナカニシヤ出版、
2008 年)がある。
米 村 千 代(よねむら・ちよ)
千葉大学大学院人文科学研究院・教授。専門は家族社会学、歴史社会学。とくに、近現代日本の家族の変容を主要な研究テーマとしている。近年は千葉エリアにおける有機農業運動に関する調査・調査プロジェクトも実施している。著書には『「家」を読む』(弘文堂、2014 年)、『現代日本の家族社会学を問う―多様化のなかの対話』(分担執筆、ミネルヴァ書房、2017年)、『よくわかる家族社会学』(共編著、ミネルヴァ書房、2019 年)などがある。
■ コメンテーター
出 口 剛 司(でぐち・たけし)
東京大学大学院人文社会系研究科・教授。専門は理論社会学、社会学史、フランクフルト学派と批判理論の研究。著書に『エーリッヒ・フロム―希望なき時代の希望』(新曜社、
2002年)、『大学4年間の社会学が10時間でざっと学べる』
(KADOKAWA、2020
年)、『〈私〉をひらく社会学―若者のための社会学入門』(共著、大月書店、2014 年)、訳書にアクセル・ホネット『理性の病理』(共訳、法政大学出版局、2019 年)などがある。佐 藤 健 二(さとう・けんじ)
東京大学大学院人文社会系研究科・教授。専門は歴史社会学、メディア論、社会調査史など。柳田国男、ケータイ電話、絵はがき、流言、方法論に関する研究や著作も多数。著書に『柳田国男の歴史社会学─続・読書空間の近代』(せりか書房、2015 年)、『浅草公園凌雲閣十二階』(弘文堂、
2016 年)、『文化資源学講義』(東京大学出版会、2018 年)、『真木悠介の誕生―人間解放の比較=歴史社会学』(弘文堂、
2020
年)などがある。
ブックレット東京学派Vol. 2 社会学の中の東京学派 2021年2月22日発行 発 行
者 東京大学東洋文化研究所 東京都文京区本郷7-3-1(東京大学本郷キャンパス内)編 集 内田 力 印 刷 所 株式会社サンワ ISSN
2436-0201 |
1 趣旨説明 園田 茂人
2
第1報告 福武直の選択:東京学派、社会学の場合中筋 直哉
3
第2報告「聖典」なき正統?「預言者」なき学派?
――東京大学の社会学におけるヴェーバー(の希薄さ)矢野 善郎
4 コメント1出口 剛司
5
第3報告 家族研究における戦前/戦後の諸潮流
-家族変動論の一つの困難-米村 千代
6
第4報告 東京学派の中の「社会学アジア・コネクション」: その歴史的回顧と教訓園田 茂人
7 コメント2佐藤 健二
8 質疑応答・総括討論
9
報告・コメントに登場する「東京学派の社会学者」一覧整理:園田 茂人著者紹介
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