2015-08-14

村山談話」を書いた元官僚・谷野作太郎氏

村山談話」を書いた元官僚・谷野作太郎氏、
その誕生秘話と意義を明かす
週刊ダイヤモンド編集部 【第7回】 2015年8月13日
 http://diamond.jp/articles/-/76616
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安倍晋三総理が「戦後70年談話」を出す時期が、いよいよ明日に迫った。そこで今振り返っておきたいのが、戦後50年に当たる1995年に出された「村山談話」だ。日本の歴史認識を対外的に明らかにしたという点において、重要な意味を持つ。同談話の原案を書いた元外務官僚・谷野作太郎氏が、その誕生秘話と意義を語る。(インタビュー・構成/『週刊ダイヤモンド』論説委員 原 英次郎)

村山総理から「一文書いてくれ」と
大きな修正はなかったと記憶している

――谷野さんは1995年当時、内閣外政審議室長の要職にあり、村山富市総理の出された「村山談話」の原案をお書きになりましたね。


今年6月には、日本記者クラブで村山元総理(手前)と河野元自民党総裁が会見に臨み、安倍総理の戦後70年談話について、歴代内閣の歴史認識を引き継ぐように求めた Photo:Natsuki Sakai/Aflo
 戦後50年という節目の年を迎えて、日本では、いろいろなところで、この機会に戦前、戦後の日本の歩みを総括し、将来に向けて日本の目指すところを国内外に発表したいという動きがありました。

 たとえば、5月、東京の武道館での大会で出された「アジア共生・東京宣言」。これは、ひと言で言えば、「あの戦争は、欧米からのアジア解放のための戦いだった」、日本については「自立自衛を求めて止むに止まれず欧米列強に戦いを挑んだ壮挙であった」というものです。あの無謀な戦争の結果、あるいは朝鮮半島の植民地支配の結果、日本が中国や朝鮮など近隣のアジア諸国に物心両面で大きな苦痛を与えたということに全く目をつぶったものでした。


たにの・さくたろう
1960年東京大学法学部卒、外務省入省。駐インド、駐中国大使などを経て2001年退官。河野談話、村山談話、慰安婦問題については「アジア女性基金」の立ち上げで、大きな役割を果たす。日中友好会館顧問
 政治の面では、国会で「決議」を出そうということで、政党間でいろいろとせめぎ合いがありましたが、その結果6月に「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」が、衆議院で採択されました。しかし、この短い決議とても、衆議院では、少なからぬ議員方が反対、棄権され、全会一致の決議とはならず、参議院では決議を出すこと自体が見送られました。

 そんな中、中曽根康弘元総理が私に「歴史認識」というテーマは、国会決議になじまない。これを与野党の折衝の場にさらすと“これを入れろ”“あっちを削れ”など、仕上がりは妥協の産物となってろくな内容にならない。書くならば、政府がしっかりした筋の通ったものを書くべし」とおっしゃいました。事実、衆議院の決議は妥協の産物で、中途半端なものになったわけで、「さすが」と思いましたね。

――そこで、村山総理から谷野さんに、一文書いてくれ、と。

 そうです。7月に入ってからのことだったと思います。私は、すでに内閣参事官室で内々作業が始まっているのは承知していましたので、若干躊躇したのですが、総理から直々のご指示ゆえ、私なりに考えた一文をしたためました。その間、内々に二、三の学者の方にも相談しましたが、大きな修正はなかったように記憶します。
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 その1つは、「談話」発表直前に内閣改造があり、官房長官が五十嵐広三さんから野坂浩賢さんに替わり、野坂長官が閣議決定の手続きをとろうとおっしゃったこと。これには大変、驚きました。

 村山内閣は社会・自民・さきがけの連立内閣、自民党の閣僚方には橋本龍太郎先生(遺族会代表、通商産業大臣、副総理格として入閣)はじめ、この問題で一家言おありのおっかない方が何人かいらっしゃった。閣議で紛糾して通らなかったら、国際的にも大変まずいことになる、と。そこで大急ぎで内閣参事官室の人たちが、閣僚方に事前の根回しに参上しました。もっとも大物閣僚の方々には、野坂長官が直接、お話しになったようです。

 その過程で橋本龍太郎先生だけは、私からお願いして、村山総理ご自身が電話でお話しになっていました。しかし、「テキストを精査したいから持って来てほしい」と。そこで仕方なくお届けしたところ、しばらくして村山総理に対し「テキストに“敗戦”と“終戦”と両様の書き方があるが、これは“敗戦”にそろえてはどうか」とご連絡がありました。少しびっくりしたものの、直ちにそうしました。

 後日、橋本先生にお会いした折、このことを話題にしたところ、「あれはどうみても無謀な戦争だった。赤紙一枚で戦争に駆り立てられた兵士たちの関係者も、自分たちの親、兄……たちは、そのような無謀な戦争の犠牲者だったと思っている。だから“敗戦”で、遺族会も一向にかまわない。その方が潔い」とおしゃっていました。「君たちは遺族会を色眼鏡で見すぎる」とお小言もいただきました。

 あの談話が出た当時、あれは社会党の党首・村山富市氏が個人的感慨を述べたにすぎないという向きもありましたが、閣議決定も経ている、以上の経緯からも、あれは「村山談話」というより政府が一体としたその考え方を表明した「日本国総理大臣談話」と言うべきです。

 でも、今ふり返ってみて、あの「談話」は村山さんが総理の内閣であったればこそできた、つくづくそう思いますね。連立のパートナー、自民党については、私は河野洋平外務大臣(自民党総裁)のところへ内々に案文をもってご相談に行っておりましたが、河野大臣は、テキストを懐にしまわれただけでした。恐らくあの案文を党にはかるとできるものもできなくなると思われたのでしょう。
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日本とドイツの
戦争処理の違い

――ヨーロッパでは、戦火を交えたフランスとドイツの間などでは、つとに「和解」が成立し、近現代史について共通の歴史教科書が編まれるまでになりました。また、ドイツが占領したポーランドとの間でも、ドイツ側が官民共同で「記憶、責任、未来」基金を立ち上げ、ナチ時代のポーランド人の強制労働についての償い事業が進められていると聞きますが、日本はそのようなドイツと比較して、戦後、戦争についてどのように対処してきたのでしょうか。

 韓国や中国の人、時にはドイツ(以下、東西ドイツ統一前の西ドイツを指す)の人まで、「日本はドイツを見習え」と批判する人がいますね。しかし、ことはそう単純な話ではない。2つにわけてお話ししたいと思います。

 1つ目は、ドイツが戦後熱心に取り組み、他方、日本の場合には十分でなかったところです。まず、ナチズムの犠牲者に対する、「補償」。ドイツは政府が巨額の予算を計上して熱心に行いました。補償の対象にはドイツ人も含まれています。

 次にドイツが熱心に取り組んだのが、あの忌まわしいナチズムの歴史を忘れないで、次の世代に語り継ぐということです。教育の面はもちろん、ドイツ国内各地に、ナチズムとその犠牲者を追悼するための多数のモニュメント、追悼碑を設置、その数は全国で数千個に及ぶといわれます。そしてナチス戦犯訴追をいつまでも 終わりにしないために、この件については「時効」を停止する法(刑法)改正をしました。先日も高齢のナチスの犯罪者を見つけ出し、裁きにかけたというニュースが報道されていました。

 他方、日本の場合、戦後教育の面も含めて「歴史にきちんと向き合う」「歴史を語り継ぐ」という面では、必ずしも十分ではなかったということは否定できない。最近では天皇陛下が満州事変に触れて、このことが大切であるということをおしゃっていますね。その背景には、日本の戦争責任を裁いた極東軍事裁判のことは別として、日本としてあの不幸な時代を総括する間もなく東西冷戦の時代が到来し、日本は米国を盟主とする西側陣営に入ったことから、そのいと間もなかったということもあるでしょう。

 いまひとつ、一部の識者が指摘することですが、国権の最高機関たる国会に、ほかならぬ旧日本軍で高い地位にあった人たちが舞い戻り――その中には、シンガポールで華僑殺戮のオペレーションの指揮をとった人もいた――また、もう1つのグループとして旧満州官僚の人たちがいて、その何人かは閣僚など政府の要職を占めた、ということがあったことです。

 私自身、現役時代よく国会に足を運びましたが、そこでは歴史認識、あるいは人権といった問題が、往々にして与野党間のせめぎ合いのテーマとなり、このような大事な問題について、国会の場で国民的合意形成に向けて努力するというにはほど遠い状況でした。

 他方、2つ目として、日本が戦争の傷跡の処理に対して熱心に取り組み、ドイツの方はそれについては頬かぶりしたという部分があるということです。
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それは、敗戦国の戦勝国に対するいわゆる戦争賠償のことです。日本は1951年のサンフランシスコ平和条約を受けて、米英など多くの連合国が対日賠償を放棄する中、別途の条約を結んで、インドネシア、ビルマ(現ミャンマー)、フィリピン、ベトナムにはそれぞれ巨額の賠償金を支払いました。インドネシアには803億円、ビルマには720億円、フィリピンには1980億円、ベトナムに140億円です。いずれも当時としては大きな金額です。

 加えて韓国には65年の国交樹立に際し、「経済協力」という名目でしたが、無償資金3億ドル、有償資金2億ドル(5億ドルと言えば、当時の韓国の国家予算の規模に相当する)を支払いました。またそれぞれの植民地の宗主国(英国、フランスなど)は対日賠償の放棄をしたものの、戦争の災いを受けたシンガポール、マレーシアなどにも資金――当時は準賠償と言っていましたが――を提供しました。このへんのところは、日本政府は大変生真面目に取り組んだのです。

 もちろん無謀な戦争の災禍、植民地支配の償いが金で済むという話ではありませんが、これら東南アジア諸国への賠償金の支払いが契機となって、日本と東南アジア諸国との間の経済関係が深くなっていきました。

 ドイツの方はこの「戦争賠償」の話は、いずれ東西ドイのツ統一が実現した上での話ということになっていた。しかし、91年東西ドイツの統一が実現した時、ドイツは「あれはもう昔の話」「それにドイツは他の面で十分“償い”をしてきた」ととり合わず、他方、連合国側も、あえてこれを問題にする向きはありませんでした。

 最近 “面白い”ことがありました。ドイツに散々厳しいことを言われ続けたあのギリシャが「そう言えばオレ達はあのドイツから“戦争賠償”をもらっていないな!」と言い出したことです。そして、このドイツから戦争賠償をとり立てようということを公約に掲げて首相の座についたのが、今のチプラス首相です。

 その額も1620億ユーロ、日本円にして約22兆円と半端な額ではない。でも、ドイツからはほとんど相手にされていないようですし、イギリス、フランスなどでもこれに呼応する動きは全くない。やはり、その他の面でのドイツのしっかりした取り組みが評価されているからでしょう。ギリシャはドイツ軍に占領され、あのアテネのパルテノン神殿にはナチスの旗が掲げられました。ちなみに昔、名画として皆が見たグレゴリ-・ペック主演の『ナバロンの要塞』は、そのナチスの要塞を破壊する連合国側の地下活動家たちの話です。

心配な日本の若者の
近現代史知識の欠如

――中国、韓国との間では、歴史認識を巡る対立が繰り返されています。この対立を乗り越える道はあるのでしょうか。

 私はこの点に関して大変心配しているのが、日本の若者たちの近現代史についての恐るべき知識の欠如です。よく言われるように、高等学校では日本史は必修ではない。その日本史の授業も江戸時代か明治時代くらいまでで終わってしまう。
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東京のある著名な大学で学生たちに「君たち、日本はかつてアメリカと戦争したんだよ」と話したところ、学生たちが「へー、ちっとも知らなかった」、そしてそのうちの一人がおずおずと手を挙げて「先生、それでどっちが勝ったんですか」、と。「真珠湾」という言葉を聞いた学生が「それってもしかして、真珠のとれる三重県の湾のことですか」と尋ねたという話もあります。

 お年を召した方にこの話をすると大笑いになるのですが、私も同じ話をある大学の新入生あるいは企業の入社式で話したところ、1人として笑う者がいなかった。意味がわからなかったのでしょう。不気味な感じを受けました。

 今の若い人の多くは、日本がかつて中国と無謀な戦争をして敗戦に追い込まれ、しかし戦争に勝った中国は日本に対する賠償を放棄したこと、あるいは日本はかつて朝鮮を植民地支配のもとに置き、彼の地の人たちに日本流の氏名を強要(創氏改名)し、多くの人たちを日本軍、あるいは日本の工場、炭鉱などに駆り立てたこと(徴兵、徴用)など、知らないのではないでしょうか。他方、中国や韓国の人たちは、学校でそこのところをみっちり教え込まれる。

 何も「歴史認識」について中国や韓国の歴史観に合わせよということではありません。彼らの歴史観にも一方的なところもありますから。ただ、基本的な事実だけは学習しておいてほしい。そうしないと、彼の地の若者たちとしっかりした対話すらできない。そこが心配です。ここへ来て、政府もようやく重い腰を上げ高等学校で近現代史を必修科目とすることが決まったようですが。

国際社会から見て日本の名誉を
最も深いところで傷つける発言の数々

――歴史認識についての対立が、中国、韓国との関係改善の障害になっています。

 時折、日本と韓国あるいは中国との間で、公正な共通の歴史教科書を編纂するという話が出ますが、当面とても無理でしょう。ドイツとフランスの間でさえ近現代史について、そのような本格的な共通の教科書ができたのは2006年になってからのことのようですから。とすれば、とりあえず、「歴史問題」は、この問題に通じた学者方の議論にゆだね、双方の政治のリーダーは、両国関係の大局をつかみ、大事な日中、日韓関係を「歴史問題」の「虜(とりこ)」にしないことです。

 歴史をどう解釈するか。そこには色々な見方があってよい。しかし、近年、国内の一部の風潮として「日本の名誉を取り戻す」として否定しがたい「歴史」を否定したり、これに正面から向き合わず「慰安婦など、皆、カネ目当てだった」「南京事件などでっち上げ!」などと開き直ったりする。近現代史について史料を渉猟しようとすると、「自虐史観だ。怪しからぬ。止めておけ」とも。

 このような発言が、国際社会から見れば、実は「日本人の名誉」を最も深いところで傷つける結果となっているということを、分かってほしいと思います。この点で今、気になっていることに例のヘイトスピーチの件があります。京都における特定の案件については最高裁で中止と損害賠償の判決が出たようですが、他の場所ではまだ続いているらしい。あそこで叫ばれている野卑な言葉の数々、とても活字にできるようなものではない。あれは言論の自由を越えた言論の暴力です。


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東京では新大久保のコリアンタウンが街宣の舞台。「こわい!」と言って店をたたむ向きもあるとか。日本は「民族差別撤廃条約」に加盟していることもあり、つとに国連の人権差別撤廃委員会から立法措置もふくめる適切な指導をとるよう勧告を受けています。ちなみにヨーロッパでは、このようなことを取り締まる法律があります。ないのは日本とアメリカくらいのもの。政府の対応の遅さをイライラしながら眺めています。

和解に求められる
政治リーダーの勇気

――8月14日頃出されるという、安倍晋三総理の「戦後70年談話」について、はどうお考えですか。

 私は、「謝罪」はもういいと思っています。日本は中国や韓国に対し、高いレベルで何回も謝罪してきた。私は現役時代、何回もその場に居合わせました。韓国の高官は、今度の安倍談話に謝罪の言葉がないと許さないと言っているようですが、91年の宮沢総理の韓国国会での演説、あるいは、小渕恵三総理と金大中大統領との共同宣言(98年10月)を読んでほしい。

 そこでは小渕総理が、植民地支配に対して「痛切な反省と心からのお詫び」を述べ、金大中大統領はこれを受け入れ、これからは和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させて行こうと述べたのです。

 中国については、98年10月に来日した江沢民国家主席に対し、首脳会議で小渕総理が過去の一時期における日本と中国の間の不幸な歴史に言及しつつ、「反省とお詫び」を表明され、このことは中国の新聞でも大きく報道されました。

 ちなみに、85年にドイツのワイツゼッカー大統領側が行った演説は「過去に盲目となるものは未来に対しても盲目となる」という言葉であまりにも有名です。ただ、あの演説の中には謝罪の言葉は一言もありません。演説で繰り返し強調されていることは「過去としっかり向き合ってこれを次の世代に語り継ごう、これがわれわれ今の世代の責任だ」ということです。かつて、西ドイツのブラント首相が、1970年ワルシャワのゲットー(旧ユダヤ人居住区)の記念碑の前でひざまづく有名なシーンがありますが、あれは独・仏和解が遂げられた後の出来事。ブラント首相によれば、前から考えていたのでなく、あそこでは自然とあのような所作になったということです。

 いつまでも謝り続ける、これは日本国民を卑屈にしかねません。また、日本国内の反発も相当なものでしょう。韓国の政権がかわる度に「謝罪」を強要されるのかと。そんなことをくり返していては、いつまでたっても「歴史」を克服して前へ進めません。来る「談話」で安倍総理は、謝罪の部分も含めて村山談話を、そのまま受け入れるとした上で、これからの日本について、お考えを存分にお述べになったらよいと思います。

 英語で「タンゴは2人でなければ踊れない」という言い方がありますね。「和解」も彼我の間の共同作業です。そしてそれには、双方の政治トップの人たちの国内世論におもねらない勇気と強い政治的リーダーシップが必要です。
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