한림일본학 제29집 (8) DOI
http://dx.doi.org/10.18238/HALLYM.29.8
近代鉱業と植民地朝鮮社会*88)
: 李鍾萬の大同鉱業と雑誌 鉱業朝鮮を中心に
長沢一恵 天理大学 非常勤講師
* 本稿は、2016年6月30日に開催したシンポジウム『帝国日本における植民地主義と知の連鎖』にて発表した原稿を大幅に加筆したものである。
目次はじめに
1. 日本帝国における近代鉱業法の制定
2. 植民地朝鮮における鉱業政策の展開
3. 李鍾萬の大同鉱山経営
はじめに
近代開発が植民地社会にもたらす問題について、20世紀の基幹産業であった鉱業を取り上げ、その社会的側面に焦点を当てて再考察することが本報告の課題である。後発資本主義国家として出発した近代日本では、近代鉱業は国策として政府が資本と技術を独占して資源開発を行う一方、労働保護や環境保全といった社会的要素に対しては抑圧と排除を加えたことが特徴として指摘される。こうした本国日本での近代鉱業が内包する構造的欠陥が植民地における鉱業体制、ひいては社会形成にどのような影響を及ぼしたのかについて、近代鉱業制度の実施過程を通して検討する。
また、植民地期の朝鮮では民間人が鉱業権を取得することが可能であったため、朝鮮総督府の保留鉱山や日本大資本鉱業会社だけでなく、民間の朝鮮人による鉱山経営も多く行われ、その中には鉱山経営で得た資金をもとに弁護士活動や学校経営、新聞社経営など社会活動を行う者がいたことが知られている。本報告では、民族運動家として知られる鉱山王の李鍾萬(이종만)の大同鉱業会社の鉱山経営を取り上げ、とくに日中戦争期の産金体制下における鉱山労働者への動員政策の強化といった情勢に対して、大同鉱山の自営方式を通してどのような抵抗を試みたのか、そしてどのような労働社会の創造を目指したのかについて考察する。
1. 日本帝国における近代鉱業法の制定
1) 日本における鉱業法令
近代日本における鉱業法の沿革は、1869年の「行政官布告第177号」公布によって江戸時代までの幕府による独占鉱業を改め、私個人の鉱業経営を認めたことに始まる。その後、 1872年の「鉱山心得」、翌1873年の「日本坑法」(太政官第259号)にて鉱業国家占有主義を採用したことを経て、1890年に改正制定された「鉱業条例」(法律第87号)では従来の「日本坑法」を大きく改正し、これまで地方長官に委任していた鉱山行政権をすべて回収して中央に集中して新たに国家的見地から鉱業を行うとともに、初めて私個人に平等に鉱業経営の機会を与える鉱業自由主義を確立した。そして1905年には「鉱業条例」をさらに改正して新たに「鉱業法」(法律第45号)1)を制定し、この「鉱業法」が戦前期を通して日本の鉱業法令として使用された。
1905年3月に制定された日本「鉱業法」の特徴は、第一に、土地所有権の効力が鉱業権に及ぶ欧米法と比べて、土地所有権と鉱物所有権を分離し、鉱業権を国家が保護する「非併有主義」を採用して鉱業優先主義としたことが挙げられる。また、地下鉱物は国有とする「鉱物国有の原則」(第3条)、および政府(農商務大臣)が一元的に鉱業権を発効する特許主義を採用して国家主義鉱業を行う一方で、鉱業権を物権として不動産の規定を適用して抵当権を保護した(第15条)ことにより鉱業自由主義を基礎として制定されて鉱業権の概念を初めて取り入れ、鉱業者の権利所在や権利関係を明確化するとともに、私人の鉱業権を設定して、許認可手続きや鉱税、土地収用などの諸規定を定めて民間鉱業を行った。なお、1900年に明治政府が「土地収用法」(法律第29号)を制定すると、1911年には「鉱業法」を改正してこれを適用している。
また日本「鉱業法」では、すでに「鉱業条例」で初めて導入されていた労働者保護、鉱山保安についての規定が設けられ、近代鉱業法として労働条件や環境保護に対応する社会政策が本格的に行われたことが、第二の特徴である。この日本「鉱業法」では新たに第5章「鉱業警察」として鉱山保安に関する規定が、第6章「鉱夫」として鉱山労働者扶助に関する規定の 章が加えられ、鉱業にかかわる社会問題への対策が講じられた。また「鉱業警察」行政の実施にあたっては、「鉱業条例」制定後の1892年に農商務省令「鉱業警察規則」2)を制定し、鉱業権者は坑内安全、鉱山係員による巡視、火薬管理、鉱山災害発生時の届出などにつき管理を行うことを定めた。さらに実際の鉱業行政の運営には、同じく1892年に農商務省が主管する鉱山監督署(後に鉱山監督局)を東京⋅秋田⋅大阪⋅広島⋅福岡⋅札幌など8 カ所に、支所を金沢⋅鹿児島の2カ所に設置し、各地域の鉱山に結成される民間鉱業会とも連絡を取りながら鉱山運営を行う自治組織的な地方鉱業制度を整備した3)。
このように、近代鉱業制度においては鉱山災害の予防、鉱山労働者の保護取締といった地域鉱山での社会問題に対応するために「鉱業警察」が設置される。この「鉱業警察」の定義について、当時に刊行された塩田環 鉱業法通論(1914年刊行)4)では「法カ鉱業警察ヲ特ニ認ムル所以ハ、鉱業ノコトタル特殊ノ事業ニシテ之ニ伴フ危険害毒発生ノ虞尠カラサルヲ以テ之カ保安取締並ニ行政上ノ監督ヲ目的トシテ之ヲ認メタルニ外ナラサレハ、鉱業警察ハ単純ナル行政警察ニ非スシテ保安警察ノ目的ヲモ有スルモノト謂フヘシ」と、公害問題など公共社会の安全確保を担う行政警察の性質によるものであることが説明され、その職務事項として、予防停止処分、技術者管理、鉱業権消滅後における処分の 点を挙げている。
なお、鉱業に関するこれら鉱山災害の予防や鉱山労働者の労働条件などを保障する社会法規は、戦前期には公正に実現されることは無く、日本では戦後に新たに現行の「鉱業法」(1950年)が制定される過程で、鉱山労働者保護については「労働基準法」(1947年)が、鉱山保安については「鉱山保安法」(1949年)が共にそれぞれ独立して立法化され、この3法律によって社会保障制度が確立する。
2) 外地における鉱業法令
一方、日本帝国内の外地の鉱業法令の制定経緯については、「台湾鉱業規則」(1906年、律令第10号)、「樺太鉱業令」(1907年、勅令第234号)、「朝鮮鉱業令」(1915年、制令第8号) が、日露戦争後から韓国併合が行われた1900∼10年代にかけて、いずれも日本「鉱業法」に準拠しながら各政府機関によってそれぞれ別個に鉱業法規が制定施行された<表1>。
これら外地における鉱業法令では、いずれも日本「鉱業法」に準拠して鉱物を国有とする鉱業国家占有主義を採り、政府権力が一元的に鉱業権を発効する特許主義を採用して、植民地人を含む一般民間人が鉱業権を取得することを可能とした。しかし、鉱業に関する社会法規については、日本「鉱業法」では鉱山保全や災害予防、および鉱山労働者の労働条件や保護についての規定、そして地方鉱山の監督のための鉱山監督署や「鉱業警察」といった鉱業制度が整備されていたのに比して、各外地の鉱業法規でも鉱業法令中に鉱山災害防止や鉱山労働者扶助に関する条項や「鉱業警察規則」は設けられたものの、鉱山労働者の労働条件および扶助についての保障は具体的な施行規則も、それに伴う鉱業制度も設けられず、また各外地では「鉱業警察」や鉱山監督署といった地域鉱山運営を行う自治的組織の地方監督制度は創設されず、総督や中央官僚が権限を把持したことが社会的側面における制度的な特徴として指摘される。
ちなみに、ほぼ同時期に制定された「台湾鉱業規則」と「朝鮮鉱業令」を比較すると<表2>、鉱山保安については日本「鉱業法」に準拠してほぼ同様の規定内容となっているが、鉱山労働者の扶助規定については「台湾鉱業規則」および同「施行細則」では鉱山労働者および遺族への扶助などについて具体的に定めているのに対して、「朝鮮鉱業令」にはこれらの規定は無く、労働者扶助の規定において台湾と朝鮮との間では相違がみられる。
このように1910年代の制定段階では、日本本国で制定された鉱業法の保障規定と比較して、外地における鉱業法令は「鉱業警察」や鉱山監督署など鉱業制度の欠如も含めて社会法規が不充分であったこと、その中でもさらに植民地支配下の朝鮮鉱業においては鉱山労働者扶助についての観点が欠如していたことを指摘することが出来、これらが鉱業の進展に伴う朝鮮での鉱業制度面での課題の一つとなっていたと考えられる。
Table 1
<小括>
以上、近代日本の鉱業法および鉱業制度は、国家の基幹産業として政府により手厚い保護を受けて発達する一方で、鉱山開発に伴う鉱毒被害や環境破壊など社会問題に対しては救済を得られず、明治期の足尾鉱毒問題や、大正期の「工場法」制定にあたって「坑内労働時間の制限」、「幼年者⋅女性の深夜作業の禁止」など保護鉱夫の権利保護を除外したこと、にみられるように重大な人権差別構造を内抱するものであったことが指摘される。一方、日本「鉱業法」と外地の鉱業法令との鉱業に関する社会法規についての比較検討からは、外地の鉱業法令では「鉱業警察」や鉱山監督署といった鉱業制度は設けられず、また鉱山労働者の労働条件や扶助についての保障は殆んど配慮されなかったことを確認することが出来、鉱山保安や鉱山労働者保護に関する社会法規や制度に大きな格差があった5)。
本報告では、こうした近代日本の鉱業法⋅鉱業制度が内包していた社会権の欠如という問題点が、日本植民地支配下における朝鮮鉱業の進展やそれに伴う社会形成にどのような影響を及ぼしたのかについて考察することを課題としたい。
2. 植民地朝鮮における鉱業政策の展開
1) 「朝鮮鉱業令」制定と朝鮮鉱業
近代における朝鮮半島での鉱業法令の状況については、大韓帝国期の1906年7月に統監府が「朝鮮鉱業法及砂鉱採取法」6)を公布して鉱業権の発効を宮内府から統監府に移して農商工部大臣の許可制とし、そのうえで大韓帝国が所有する優良鉱山を「宮内府鉱山」と「政府鉱山」に指定して、「宮内府鉱山」は開放して日本人を含む外国人が鉱業権を取得することを許可した。同時に、統監府は官が保留した朝鮮内の主要鉱山である「政府鉱山」に日本の農商務省から技師を派遣して農商工部による朝鮮全土での広範囲な鉱床調査を行うなど、朝鮮鉱業行政を統監府の監理下に置いて進めた。この過程において統監府はアメリカやフランスなど外国資本の「特許鉱山」を排除したかったが、しかし、この「朝鮮鉱業法及砂鉱採取法」では外国人の鉱業権取得を禁止することが出来なかった7)。
韓国併合後5年を経た1915年12月には、朝鮮総督府が「朝鮮鉱業令」(制令第8号、1916年 4月1日施行)8)を 初の植民地鉱業法として制定する。「朝鮮鉱業令」は日本「鉱業法」に準拠して、鉱物は国有とする鉱業国家占有主義とし、土地所有権と鉱業権を分離する非併有主義を採用して「朝鮮総督」を鉱業権の許可権者とした(第7条)。また、鉱業権を物権として試掘権と採掘権に分けて先願主義とし、「帝国臣民および法人」として日本人、朝鮮人は鉱業権の取得が可能であった。一方で、外国人鉱業を禁止し、また海軍燃料廠として平安南道の平壌鉱業所から海軍への石炭供給や、鉱床調査の過程で発見した有望金鉱床を総督府の「保留鉱山」に多数設定するなど、植民地鉱業法として制定された。ただし、外国人経営の「特許鉱山」である雲山鉱山、稷山鉱山、遂安鉱山、昌城鉱山などについては、「朝鮮鉱業令」発令後も既得権益として存続した。
新「朝鮮鉱業令」下の鉱業制度については、朝鮮総督府の殖産局⋅鉱務課の技術官僚と事務官僚が鉱山開発と鉱務行政を担当した。技師や技手といった技術官僚には日本の大学や専門学校で鉱業技術を習得した専門技術者が就任し、殖産局に地質調査所(1918年)、燃料選鉱研究所(1922年)を設置して、日本の大手鉱業会社や外国人の特許鉱山とも提携しながら自ら技術開発を担った。朝鮮総督府の鉱務官僚への朝鮮人の任用は、技手⋅技師の技術官僚への採用はあったが人数は少なく、また事務官への朝鮮人の採用は無かった9)。
朝鮮では「四大鉱業」として金、鉄、石炭、黒鉛を重要鉱種として重点的に発展させ、日本大鉱業資本を誘致して開発する方針がとられ、内地大手鉱業会社として三菱、三井、久原、藤田などが朝鮮に進出し、三井鉱山株式会社の金剛鉱山のタングステン鉱、三菱合資会社の兼二浦製鉄所が稼働した。一方で金鉱山については、「朝鮮鉱業令」では日本人⋅ 朝鮮人ともに民間人の鉱業権取得が可能であったため、小規模な金鉱業や砂金業を中心に民間鉱業が朝鮮半島の各地域で盛んに行われた。1917年には民間同業者団体として「社団法人 朝鮮鉱業会」が各地域の在朝日本人、朝鮮総督府の鉱務官僚、日本大鉱業会社などによって京城で結成され、投資のみで鉱業専門技術を持たなかった在朝日本人たちが加入して朝鮮総督府の鉱務官僚から直接に鉱業技術指導を受けながら鉱山開発を進めた10)。
ただし、朝鮮では鉱業警察や鉱山監督署、鉱山労働者の扶助などの鉱業社会制度は設置されず、日本と比べて社会制度の側面において不充分であったことが指摘される。
鉱業権を取得して鉱山経営を行う者の中には朝鮮人鉱業家も多く存在した。当時発行されていた人名録の類には、韓国併合前後から朝鮮人鉱業家が活躍していることが紹介されているが、ここに記載された朝鮮人鉱業家に共通する特徴として、日本への留学経験があり、帰鮮後に鉱業を起業する例が多く、また鉱山経営と同時に弁護士や医師、会社経営を行う者もみられ、彼らの中には地域社会に影響を及ぼす者もあった11)。なお、こうした朝鮮人鉱業家で民間団体「朝鮮鉱業会」に入会した者は、会設立当初には殆どいなかったようだ。ここでみた例はその一部に過ぎないが、1910年代には朝鮮人社会のなかでこうした鉱業経営者が現れていることが確認できる。
2) 鉱山問題の発生と 「社会法」形成の模索
第一次世界大戦後には、深刻な鉱業不況への対策や宇垣総督期の工業化政策による産金奨励を背景に朝鮮各地域の中小鉱山に近代機械を導入したことを原因として、1930年代半頃から朝鮮鉱業ではガス爆発や坑内落盤といった大規模な鉱山事故が発生するようになる。朝鮮における鉱山事故は、坑内では落盤および坑車、巻揚機などによる事故、坑外では機械や坑車、架空索道など鉱業機械の使用に起因する怪我が多く、とくに鉱山近代機械の導入に伴う鉱山災害および労働者の労働条件は深刻であり、環境保全や労働者保護についての社会法の形成が課題となる。
このような朝鮮鉱業での鉱山災害や労働問題など社会問題の増加に対して、朝鮮では日本で制定されているような工場法などの労働法規が無いことから、宇垣総督期の殖産局では「朝鮮にも工場法を適用すべしとするの論が相当強いのである。又一方には…時期尚早論…まず実情を調査」12)と産業⋅労働立法の必要を認識しており、その基礎調査として朝鮮総督府の内務局⋅社会課および殖産局⋅鉱務課による工場および鉱山の労働状況についての実態調査が行われる。内務局⋅社会課(1934年以降には学務局⋅社会課に改編される)が1925年、1933年の2回にわたって実施した「会社及工場に於ける労働者の調査」および 「工場及鉱山に於ける労働状況調査」13)では、大惨害を引き起こすガス爆発、落盤や坑車事故などの原因は主に近代機械の導入に起因すること、その被害者の大部分は朝鮮人鉱山労働者が占めることが明らかとなった。また、鉱山労働者の就労状況についても、低賃金、長時間労働が行われていること、女性と幼年者のいわゆる「保護鉱夫」や中国人が鉱山労働に従事している実態が確認された。
朝鮮鉱業でのこうした社会問題への対処のため、朝鮮総督府の殖産局・鉱務課(後に鉱山課)では「鉱業警察」の設置を数度にわたって検討している。「鉱業警察」の設置については「朝鮮鉱業令」中の第50条で規定があるものの、朝鮮では未だ実現していないことから、殖産局では「鉱業は其の性質上危険多き業務なるを以て特殊の監督を為し、依つて之に従事する者に対し特別の保護を加ふると共に公益を保持せざるべからず」との認識を示すと共に、鉱業警察が取り扱う事項について「朝鮮鉱業令」では、1)「鉱業施業案及鉱夫の保護取締に関する事項」、2) 「技術管理者に関する事項」、3) 「危険予防及公益保護に関する事項」、4) 「鉱業に関する書類、物件の検査又は坑内其の他の場所の臨検」を規定して、その設置や運用にはさらに法令を定めることになっているため「適当の時期に於て之を定むる必要あり、目下相当要員を置き鉱業警察に関する事務に従事せしむると共に、鉱業警察規則制定実施の準備に当らしめつゝあり」14)と、社会諸問題への実際的な対処のために「鉱業警察規則」の制定を準備しつつあることが説明されている。
とくに鉱山保安については、鉱山課の技師によって日本や世界各国の鉱業制度を参照しながら鉱山災害への対策を検討して、朝鮮にも坑内作業の安全基準や技術管理者などを義務化する「鉱業警察」法規を制定して地域鉱山での社会管理にあたる鉱山監督署を含めた地方鉱業制度を設置すべきことが主張されており、「鮮内鉱山監督局又は監督署を数箇所新設する事は、内地及満洲の事情と比較して急務なるに非るやと考へらる」15)と日本や「満洲国」で設けられている鉱業体制と同様に 「爆破規則」や 「鉱業警察規則」などの法規、さらに鉱山監督局や鉱山協会などの社会的制度を朝鮮でも創設する必要性を認識している。
さて、朝鮮総督府の鉱山課を中心として準備を進めてきた鉱業に関する社会法規については、日中戦争に先立つ1936年10月に開催された「朝鮮産業経済調査会」16)での答申により、「朝鮮鉱業警察規則」および「朝鮮鉱夫労務扶助規則」を制定することが決定される。「朝鮮産業経済調査会」では満洲事変後における将来の総力戦に備えて予め日本⋅「満洲」と産業経済方針を調整することを目的として農林水産業、資源、工業、商業⋅貿易、交通、金融および産業教育の各分野にわたって審議が行われ、鉱業に関しては 「第二 鉱物資源及動力資源ニ関スル件」についての諮問「朝鮮ニ於ケル豊富ナル鉱物資源及動力資源ノ開発利用方策ニ付意見ヲ求ム」に対する答申として、資源調査、経営合理化、茂山鉄山開発、水力発電の4点が審議された。このうち経営合理化についての諮問「二 鉱業企営ノ合理的発展ノ方策ヲ講ズルコト」中において鉱山労働者の保護および 「鉱業警察」の設置についての政策提案が鉱務官僚によって提出されたことにより「鉱夫扶助」と「鉱業警察」を共に制定することを決定し、戦時の産金体制にあたって災害予防や労務調整など社会的側面において各地域鉱山での国家鉱業の遂行を補完することとなった。
1937年7月に日中戦争が開始すると総動員体制が施行され、朝鮮では 「朝鮮産金五カ年計画」のもと、同年9月に 「朝鮮産金令」(制令16号)17)を、翌1938年5月に 「朝鮮重要鉱物増産令」(制令第20号)18)を制定し、金鉱業者に対して鉱業設備につき強制命令を可能とする戦時鉱業体制に移行する。さらに1938年5月には基本法令である 「朝鮮鉱業令」を改正19)して、鉱業権者に対する鉱業権の譲渡命令および取消命令が盛り込まれて国家鉱業の性格を強化すると共に、公益規定、警察規定、労働者保護規定の違反に対する罰則についても規定される。
このように日中戦争下の朝鮮産金令体制において「人的資源」の動員計画が進められる中で、1938年1月に「朝鮮鉱業警察規則」(朝鮮総督府令第1号)20)が、同年5月に「朝鮮鉱夫労務扶助規則」(朝鮮総督府令第97号)21)が共に制定される。これはまた、植民地朝鮮で制定された 初の労働者保護の社会法規であった。「朝鮮鉱業警察規則」は、日本 「鉱業警察規則」に準拠してほぼ同様の内容が規定され、鉱山保安として坑内作業の具体的な安全基準を設けて義務付けるなど、安全基準の明確化と作業管理の徹底による災害防止が図られた。「朝鮮鉱夫労務扶助規則」では労働条件について、坑内作業は1日に10時間を限度とすること、女性および14歳以下の幼年者のいわゆる「保護鉱夫」の深夜作業⋅坑内作業を禁止すること、賃金は月2回支払制とすること(日本では月1回であるが、朝鮮での事情を考慮して2回とした)など、「朝鮮の特殊事情」との理由により保障内容には日本と比べて相違点はあるが、日本の「鉱業警察規則」「鉱夫労役扶助規則」と遜色が無い内容が規定されており、朝鮮で 初の社会法規が成立した意義は大きい。
3) 戦時体制下における朝鮮鉱業の様子
日中戦争が開始すると朝鮮鉱業でも各地域鉱山の統制が進められ、1938年6月には朝鮮全土の鉱業者を対象として各地に33カ所の「地方鉱業協議会」が結成され、その中央機関として京城に「朝鮮中央鉱業協議会」を設置して、主に鉱業用物資の自治的配給統制を行わせた。1940年代に入ると、国民総動員運動に基づいて朝鮮で「国民総力朝鮮聯盟」が創設されるに伴い、鉱山においても産業別聯盟として 「国民総力朝鮮聯盟殖産部⋅朝鮮鉱山聯盟」22)へと組織改編が行われ、これにより鉱山事業を朝鮮総督府の殖産局のもとに一元化して「朝鮮総力聯盟事務局殖産部長-朝鮮鉱山聯盟-道鉱山聯盟-(鉱山聯盟郡支部)-鉱山聯盟」との統制体制に組み替えられる。
「鉱山聯盟」では、「愛国班」「鉱山愛国班」、鉱山奉仕隊の活動や、国民精神総動員運動の方針に沿って講演会、映画上映、紙芝居など福利⋅娯楽活動が行われた他、朝鮮総督府、国民総力朝鮮聯盟の支援のもとに朝鮮鉱山聯盟⋅各道鉱山聯盟が主催となって実施した「全鮮鉱山増産強調運動」では国歌斉唱、宮城遥拝、皇国臣民の誓詞など皇民化政策を行った。また、鉱山労働者の統制も行われたが、待遇改善や賃金値上といった対処ではなく、「表彰式」を開催して優良な技術員、労務者、愛国班を褒賞することで生活安定や勤労参加を促すなど、鉱山労働者の生活、労働環境の取り纏めまで扱う労働者管理をも担った。なお、「鉱山聯盟」の役員には朝鮮人も含まれており、創氏改名をしている者も見られる23)。
戦時下の鉱山労働者管理については、地域各鉱山での自治的運営ではなく、1939年4月に朝鮮総督府に「産金協議会」24)を設置して、総督府官僚、道⋅警察の地方行政官、学識経験者など60名の委員が8部門に分かれて産金増産に際して現場の鉱山が抱える諸問題について専門的に審議を行い、その答申は総督に政策提言された。「産金協議会」で審議された課題のうち、第3専門委員会では 「労務調整に関する事項」として鉱山労働者の勤労報国精神の育成、賃金適正化や待遇改善、家族持ち労働者の雇傭主義の採用などを協議している。また「産金協議会」の労務調整に関する委員会では、鉱山労働者の需給問題、とくに労働者の不足が問題となっており、朝鮮南部地域から西北部地域への移住の斡旋や、中国人労働者の使用について要望する意見書が民間鉱業者側から提出されている。ただし、以前よりも民間鉱業者から要望が大きかった中国人労働者の使用については、殖産局、内務局、警務局で協議を行った結果、許可には消極的な方針が採られており、朝鮮総督府側は慎重意見を示している25)。一方、鉱山労働者の移動を防止し、鉱山への定着を促す対策として、朝鮮の伝統的な鉱夫請負組織である「徳大制」を存続させて利用することについても要望が大きく、「徳大制度を法文化し操業の合理化を図ること」26)が協議されている。
なお、戦争遂行下での総動員体制のもとでは戦況が進むに従い、鉱山労働者の保護法規の崩壊がみられ、1938年1月に制定された「朝鮮鉱夫労務扶助規則」第9条では朝鮮鉱業においても女性鉱山労働者の坑内作業を禁止していたが、1941年4月には特例によって同規則を改正して(朝鮮総督府令第120号)27)、16歳以上の女性鉱山労働者の坑内労働が許可制により条件付きで容認され、翌1942年6月の時点で4千人が許可されて、そのうち4分の1 が就労していることが報告されている28)。さらに1944年3月には「朝鮮鉱夫労務扶助規則」第9条が特例により改正され、許可権限が「朝鮮総督」から「道知事」に委任される29)。また、外国人である中国人鉱山労働者の雇用についても、戦時下でも許可しない方針を採っていたが、1938年末頃には従来の不許可の方針から転じて中国人労働者を「満洲国」「北支」地域から鉱山労働者全体の1割迄を雇用することをなし崩し的に許可している30)。
<小括>
以上に検討したように、植民地朝鮮では戦時の産金令体制下で「人的資源」の動員計画が進められる過程において、日中戦争開始直後の1938年に「朝鮮鉱業警察規則」と「朝鮮鉱夫労務扶助規則」が同時に制定されたことが明らかとなった。これはまた、植民地朝鮮で初の労働者保護の社会法規(労働法制)であった。
しかし、その制定経緯からは、朝鮮では既に日中戦争開始以前の1936年頃には産業合理化を目的として監理⋅取締を主な機能とする「鉱業警察」を中心として鉱業社会制度が樹立され、そこでは「警察の取締機能に随伴しての労働者保護」として戦時下の国家鉱業に沿った規定内容に方針転換されて立案⋅起草されたことが指摘できる31)。また朝鮮では、「鉱業警察」と「鉱夫労務扶助」の両規則のみが制定されるに止まり、地域鉱山での自治的運営を担う鉱山監督署の設置についてはその必要が充分に認識されながらも設立されなかったこと、さらに当時の産業界でも朝鮮鉱業の特徴として知られていた朝鮮人労働者の低賃金への対策は講じられなかったことは、本来は開発と社会保障が同時に形成されるべき近代産業法の発達から見れば、社会の近代的発展に対して社会保障が伴わないというアンバランスな近代化であったと評価せざるを得ない。
このように、戦時下の「朝鮮産金令」など一連の戦時鉱業法令による強制命令や、「鉱山聯盟」など地方鉱山の組織統制化といった戦時国家鉱業の遂行における国家行政の肥大化のもとでは、近代開発に対して人権や環境を保護するという社会思想としての意味を持つはずの社会法制という「知」が、戦時下における物的人的収奪⋅人間疎外の道具として使用されて朝鮮鉱山労働者の権利を疎外していくという点で、植民地主義的性格が深化したことについて考えなければならないだろう。
3. 李鍾萬の大同鉱山経営
1) 日中戦争期における朝鮮人鉱業の統制化
朝鮮人が経営する民間鉱山については、1920年代より金鉱業や砂金業を中心に増加し、その中には近代的機械設備を導入して鉱山開発を行い、鉱産額を伸張する者も現れる。こうした朝鮮人鉱業家の中には、民間同業者団体「朝鮮鉱業会」に参加する者も見られるようになり、呉佐殷(常務評議員)や崔昌学(評議員)のように同会の役員に就任する者もいた32)。
また、朝鮮人民族運動家には、鉱山経営や農地経営で得た資金を元手として、新聞⋅雑誌の発行といった言論活動や、学校経営といった教育活動など、様々な社会活動を行う者いたことが知られている。例えば、鉱業権をめぐる裁判記録からは、朝鮮人民族運動家で 「朝鮮日報社」の社長も務めたジャーナリストでもあった方応謨が、1925年から平安北道⋅ 朔州郡の「橋洞金山」において山東鉱業所を経営して巨額を稼ぎながら、1935年以後には月刊雑誌 朝光、女性、少年を創刊して言論機関を運営したり、また1936年には 「東方文化学院」を設立し、1946年には「崇文商業中学校」を経営するなど学校経営を行っていた様子を知ることが出来る33)。
一方、1936年頃から朝鮮総督府によって朝鮮人鉱業者を統轄する動きがみられるようになり、1936年1月には朝鮮人による鉱業組合として「朝鮮産金組合」34)が朝鮮全地域の朝鮮人中小金鉱業者を統合して創立され、組合形式による運営、金融貸付、鉱山用品購入の他、従業員へ利潤分与⋅優良待遇などの事業を進めた。組合役員には、組合長に朴龍雲、理事に朴基孝、元胤洙、呉佐殷、任興淳、曺秉相、李容愼、李晟煥ら、顧問に方応謨、崔昌学ら、技師に小泉禎次郎、閔正基など、朝鮮人鉱業家やジャーナリスト、知識人が関わっており、機関誌として雑誌 鉱業朝鮮を発行した。なお、「朝鮮産金組合」の創立総会には、朝鮮総督府⋅技師の志賀融、東亜日報社長⋅宋鎮禹、朝鮮日報社長⋅方応謨らが参加しており、朝鮮総督府の関与がうかがわれる。
1937年6月には、この「朝鮮産金組合」と、朝鮮人鉱業家の李鍾萬が経営する「大同鉱山中央組合」が無条件にて合同されることになり、李鍾萬は「朝鮮産業組合」の理事に改選されて、経営難に陥っていた組合救済について相談を行っている35)。
2) 李鍾萬の 「大同鉱山共同組合」と経営理念
鉱山王として世間に知られていた李鍾萬(이종만、1885~1977)は、慶尚南道⋅蔚山の農漁村の出身で、若い頃より実業を重ね、1932年に永平金山を、1936年に朝鮮 大の金鉱である長津鉱山を経営したことによって事業に成功し、1937年6月に「大同鉱業株式会社」を設立して社長に就任する。36)
そして1937年6月に「大同鉱業株式会社」(資本金300万円)を設立して社長に就任すると同時に「大同鉱山共同組合」を設立し、理事長に就任する37)。同組合内には出版部である
「鉱業朝鮮社」を設置して、吸収合併した 「朝鮮産金組合」が発行していた雑誌 鉱業朝鮮 を継続刊行した。また、同1937年6月には永平金鉱を155万円で売却し、そのうち50万円を
「大同農村社」(資本金50万円)の設立に投資して、蔚山、平康、永興などで157万坪の土地と153戸の小作人によって事業を開始する。この 「大同農村社」では会社の土地を小作人の収穫の3割で貸して30年後には無料とし、小作人は自治会を結成して教育、衛生、文化全般の問題を決定し、1938年1月には雑誌 農業朝鮮を創刊した。さらに1937年10月には平壌の 「崇実中学校」を120万ウォンで救済買収して、1938年7月に 「大同工業専門学校」を設立経営するなど、1930年代には、主に長津鉱業所の鉱山経営で得た資金で、鉱山経営、農地経営、出版事業、学校経営の多角事業経営を行う 「大同コンツェルン」を経営した。
「大同コンツェルン」の役員メンバーには、社長で理事長には李鍾萬が、常務⋅理事には李駿烈、鄭顕模、李永兆、李晟煥、朴龍雲、李容愼、閔正基(技師)などが、監査⋅監事には許憲、李勲求、任永鎬、韓長庚など、役員には全て朝鮮人が就任し、前歴として1910 ∼20年代に独立運動、社会運動、言論活動に参加した者であり、役員メンバーは、農業会社、鉱山会社、出版社、学校経営の各組織を重複して兼任している<表3>。
「大同鉱山共同組合」の出版部で刊行していた雑誌 鉱業朝鮮や 農業朝鮮には、李鍾萬の 「大同鉱山」の経営理念として 「農夫即地主、鉱夫即鉱主」 「自営鉱創定」による 「우 리鉱山」という自主経営の実践を唱導して、賃金奴隷化を批判し、労資一体、労働者への株配当、無産者教育、会社の福利増進が主張されている38)。また雑誌 鉱業朝鮮において韓長庚は「大同鉱山組合の鉱業経営上の三大要件は、鉱夫即鉱主、自営鉱創、鉱業経営権への参与」であり、その実践として取り組まれた「組合制、股主制、自営鉱制等은……朝鮮에 있어서 空前의 一試案」39)であるとして大同鉱山組合の独創的制度を評価している。
雑誌 鉱業朝鮮では、鉱山労働者の住宅施設や教育機関など社会生活について、鉱業所付属の大同病院、鉱山従業員のための衛生⋅医療設備、家族⋅独身従業員のための食堂、二階建ての合宿所、鉱夫宿舎、配給所、日用百貨店、小学校、そして娯楽⋅慰安の設備として運動場、玉突場など都市的な享楽設備を備えた「山中의 文化村」が形成されていることが紹介される40)。また、李鍾萬の「職場即教場」の理念に基づいて無産者教育運動を推進して「苦学堂」を経営し、農村では夜学で20歳以上40歳までに朝鮮語、「国語」(日本語)、算術など日常生活に必要な常識や文字を教え、鉱山では従業員の教養として講話を実施していることが報じられており、「鉱主와 従業員과의 関係를 単純히 主人対雇人、資本家対労銀奴隷로만」ではないとして社会経営における「道義的責任」を説く41)。
Table
さらに、鉱山をめぐる社会問題について言及し、鉱山労働者の離山問題について、鉱山労働者が鉱山に定着せず離山⋅移動する原因として農村における低廉豊富な 「潜在的過剰労働力」などを挙げ、対策として鉱山での食糧配給の円滑化、鉱業労働賃金と工場労働賃金の不均衡の是正、さらに 「先進諸国의 労働政策의 核心……労働 低年齢」にあるとして、幼少年、婦人労働の法規化の必要についても指摘する42)。朝鮮鉱業で激増していた鉱山災害問題については、地下での長時間作業を原因とする「鉱山病者」が増加し、また鉱山労働災害被害者の99%以上が朝鮮人である原因として「生産力拡充의 裏面에 潜在하 여있는 鉱山災害相」を指摘し、その対処として 「鉱夫保護에 対하여서도 좀더 積極的인 法規로써 그들의 <生>을 保障」の必要性を主張する。そして、「朝鮮鉱業令」第24条および第25条には「朝鮮総督ハ鉱業権者ヲシテ施業案又ハ鉱夫ノ保護取締ニ関スル規程ノ認可ヲ受ケシムルコトヲ得」といった労働災害防止と鉱夫保護についての規定が設けられていることを挙げて、これらは 「鉱主(鉱業権所有者)対 労働者関係를 律定하는 것은 즉 朝鮮鉱業分野에 있어서의 所謂 民法上 雇傭関係」と民法上の雇傭関係として規定されていることから、「雇傭関係의 民法性을 是正하여 鉱主、企業家들이 横暴性을 一掃토록 하지 않으면 안될 것이다」と法的な保障、解決の必要を主張する43)。賃金については、戦時には朝鮮中央賃金委員会において未経験労働者の初給賃金基準を、賃金委員会が賃金基準を定めること、細目の決定権限は各知事に付与することが決定されたが、これについて「欧米先進資本主義国家에서는 벌서 前부터 労働法을 制定하여 労働時間과 就業年齢과
低賃金等을 立法化하여 労働政策을 合理化시켜米先進資本主義国家에왔었다」のに比して日本帝国では 「労資間의 民法的 自由契約으로 放任되여」 いる問題点を提起している44)。
李鍾萬が1938年7月に設立した「大同工業専門学校」は、元々は1905年に平壌に建学されたミッションスクールの崇実専門学校が、1925年の神社不参拝問題を発端として廃校の運命に直面していたのを李鍾萬が援助買収し、財団法人「大同学院」を組織して私立の工業学校としたもので、開校後の当分のあいだは旧⋅崇実専門学校の舎屋を使用したという。「大同工業専門学校」には鉱山科が新設され、修業年限は3年、履修語学は「国語」(日本語)、中国語、英語、独語を設けて 「生徒ノ状況ニ依リテハ国語ニ代ヘ朝鮮語ヲ課スルコトヲ得」とされた45)。李鍾萬の 「大同工業専門学校」の設立については、朝鮮人が経営する技術者養成機関として当時の朝鮮社会側においても新聞⋅雑誌メディアにて注目されたものであったが、しかし戦時下の1943年には朝鮮総督府の金鉱整理事業によって「大同鉱業株式会社」が解体されるに伴い、「大同工業専門学校」は平安道庁に引き取られてしまう。
<小括>
このような李鍾萬の「大同鉱山」における「自営鉱創定」との経営理念についての検証からは、植民地支配⋅戦時統制下で私有権の制限が進められる状況にあって、農地経営や鉱山経営の場をもって自らのメディアや言論、文化、教育、土地、労働など社会権利の保障を実現し得うる自主⋅主体的な自治経営、主体把持について取り組みが行われていたと評価できる。そこで目指されたものは単に財源となる鉱山経営や不動産経営だけでなく、自らの文化や教育の基盤となる自治社会力であり、これらを把持することによって、産業社会化の進展とそれにともなう統治権力の肥大化という状況を乗り超えようとする取り組みが試みられていた様子がみえる。
解放後には、李鍾萬は1954年に越北して朝鮮民主主義人民共和国の内閣鉱業局⋅顧問として鉱山開発に携わる。なお、平壌にある「大同工業専門学校」(もと崇実専門学校)の旧校舎は、その後には金日成総合大学の校舎として使用されているとの事である。
<謝辞>
本論文の執筆にあたり、2016年6月30日に開催された国際学術大会『帝国日本における植民地主義と知の連鎖』にて発表を行う貴重な機会をいただきました翰林大学校・日本学研究所の徐禎完所長、洪善英先生、沈載賢先生をはじめ諸先生方とスタッフの方々、および司会を担当していただきました慶熙大学校の宋錫源先生、コメンテーターの諸先生方に多くの有益な御助言と討論を賜りました。ここに心から感謝の意を表させていただきます。
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Footnotes
1) 明治三十八年三月七日法律第四十五号「鉱業法」(官報第6503号、1905年3月8日)、明治三十八年六月十五日農商務省令第十七号「鉱業法施行細則」(官報第6586号、1905年6月15日)。
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5) 植民地期朝鮮における鉱山労働者に関する社会法規の制定経緯については、長沢一恵「植民地朝鮮の民間鉱業の地域動向と「鉱業警察」の設置―鉱業近代化における社会法規の形成をめぐって―」(松田利彦⋅陳姃湲編地域社会から見る帝国日本と植民地―朝鮮⋅台湾⋅満洲思文閣出版、2013年4月所収)を参照。
6) 光武十年六月二十九日法律第三号「鉱業法」(旧韓国『官報』附録、1906年7月12日)、光武十年七月二十四日法律第四号「砂鉱採取法」(旧韓国『官報』第3517号、1906年7月28日)、光武十年七月十一日農商工部令第四十三号「鉱業法施行細則」(前同、旧韓国『官報』第3517号)。なお、これらの法令について日本『官報』では、明治三十九年七月十三日統監府告示第六十七号「鉱業法」、同第七十二号「砂鉱採取法」、同第七十三号「鉱業法施行細則」(『官報』第6933号、1906年8月8日)として掲載している。
7) 韓国併合過程での鉱業法改正と外国人の鉱業権取得問題については、広瀬貞三「19世紀末日本の朝鮮鉱山利権獲得について―忠清道稷山金鉱を中心に―」(朝鮮史研究会論文集第22集、1985年3月)、小林賢治「朝鮮植民地化過程における日本の鉱業政策」(名古屋大学経済学部 経済科学第34巻第4号、1987年3月)、松崎裕子「日露戦争前後の韓国における米国経済権益―甲山鉱山特許問題を中心に―」(史学雑誌第112編第10号、2003年
10月)を参照。
8) 大正四年十二月二十四日制令第八号「朝鮮鉱業令」(朝鮮総督府官報第1018号、1915年12月24日)。
9) 朝鮮総督府の殖産局⋅鉱務課には、朝鮮総督府の設置当初から朝鮮人の技官が若干名任用されており、朝鮮総督府及所属官署職員録では鉱務課所属の技手に安昌善、朴秀憲、閔正基、他が、殖産局⋅地質調査所の技手に李奎鍾が、同⋅燃料選鉱研究所に金聖浩が嘱託(1933年から鉱務課⋅技手に昇格)として、また崔浩英が技手(1939年から燃料選鉱研究所⋅技師に昇格)として勤務していることが確認できる(長沢一恵「朝鮮総督府⋅鉱務官僚と朝鮮鉱業会―両大戦間期における鉱業保護奨励策を中心に―」松田利彦⋅やまだ あつし編 日本の朝鮮
⋅台湾支配と植民地官僚思文閣出版、2009年3月所収、200∼205頁)。
10) 前掲、長沢 「朝鮮総督府⋅鉱務官僚と朝鮮鉱業会」222頁以下。
11) 例えば、青柳鋼太郎編 新朝鮮成業銘鑑 全(1917年)中の 「事業と人物」には、弁護士であり咸鏡南道安辺郡で数カ所の金山を経営する張燾や、黄海道延白郡で正名金山を経営する孫洪駿などが紹介されており、1910 年代には朝鮮人の鉱山経営者が現れていることが確認できる(前掲、長沢「朝鮮総督府⋅鉱務官僚と朝鮮鉱業会」224頁)。
12) 施政二十五年史、「第六期⋅宇垣総督時代」中の「第二十 社会施設」、「四 労働保護施設」(朝鮮総督府、1935 年10月、951頁。 増補朝鮮総督府三十年史(二)、クレス出版、1999年1月所収)。
13) 朝鮮総督府⋅内務局社会課「会社及工場に於ける労働者の調査」(1925年11月)及び朝鮮総督府⋅学務局社会課
「工場及鉱山に於ける労働状況調査」(1933年3月)。なお、前者は1922年7月末現在の調査によるものであり、 1920年末に東京⋅大阪で行われた工場労働者の調査と朝鮮との比較が可能である。また後者は1931年6月末日現在の調査であり、前回の1922年7月より9年ぶりに実施された。両調査とも朝鮮において常時10人以上の労働者を使用する工場および鉱山を対象に実施され、労働者には職工⋅鉱夫の他にその業務を助成する従事者を含む(両史料とも 戦前⋅戦中期アジア研究資料1 植民地社会事業関係資料集 朝鮮編20(近現代資料刊行会、1999年6月所収)。
14) 朝鮮の鉱業(朝鮮総督府殖産局、1924年12月)34頁。
15) 朝鮮総督府技師⋅三澤正美 「<雑録及統計>朝鮮鉱業の近況」(朝鮮鉱業会誌1936年2月号、65頁)。
16) 「昭和十一年十月 朝鮮産業経済調査会諮問答申書 朝鮮総督府」(国立公文書館所蔵⋅内閣文庫、請求番号ヨ 602-0091。朝鮮産業経済調査会の会長は政務総監である大野緑一郎が務めた。「朝鮮産業経済調査会」の全容と議論経緯については、川北昭夫 「一九三〇年代朝鮮の工業化論議」(論集 朝鮮近現代史―姜在彦先生古稀記念論文集明石書店、1996年12月所収)を参照。
17) 昭和十二年九月七日制令第十六号 「朝鮮産金令」(朝鮮総督府官報第3195号、1937年9月7日)。
18) 昭和十三年五月十二日制令第二十号 「朝鮮重要鉱物増産令」(朝鮮総督府官報第3393号、1938年5月12日)。
19) 昭和十三年五月十二日制令第十九号 「朝鮮鉱業令中左ノ通改正ス」(前掲、朝鮮総督府官報第3393号)。
20) 昭和十三年一月四日朝鮮総督府令第一号 「朝鮮鉱業警察規則」(朝鮮総督府官報第3288号、1938年1月4日)。
21) 昭和十三年五月十二日朝鮮総督府令第九十七号 「朝鮮鉱夫労務扶助規則」(前掲、朝鮮総督府官報第3393号)。
22) 「一、新体制運動(官庁機構及事務ノ改廃ヲ除ク)ノ朝鮮ニ及ボシタル影響ト其ノ対策 殖産局」(昭和一五年一二月 第七六回帝国議会説明資料(共通事項)所収。朝鮮総督府 帝国議会説明資料第2巻、不二出版、1994年 5月、149頁)、および 「朝鮮鉱山聯盟会長挨拶」(朝鮮鉱業会誌1941年3月号、67頁)。
23) 「<雑録>翕然たる新体制への反響/各道鉱山聯盟の結成成る」(朝鮮鉱業1941年3月号、64∼67頁)。
24) 施政三十年史、「第七期 南総督時代」中の 「八 産業」、「五 鉱業」、「(二)産金奨励に関する施設」、「朝鮮総督府産金協議会の設置」(朝鮮総督府、1940年10月、629頁。前掲 増補朝鮮総督府三十年史(三)所収)、および 「[本会記事]産金協議会の成案」(朝鮮鉱業会誌1939年6月号、77∼78頁)、他。
25) 「[本会記事]支那人労働者輸入陳情」(朝鮮鉱業会誌1938年2月号、102頁)、「<雑録及統計>鉱業座談会記事」(同誌、1938年7月号、53∼56頁)。
26) 朝鮮総督府産金協議会 「積極的金増産計画に就て」(朝鮮鉱業1939年7月号、42∼48頁)、「[鉱業雑報]京畿道/徳大の救済、法文化の要望昂まる」(朝鮮鉱業1941年2月号、64頁)、他。
27) 昭和十六年四月十九日朝鮮総督府令第百二十号「朝鮮鉱夫労務扶助規則第九條ノ特例ニ関スル件左ノ通定ム」 (朝鮮総督府官報第4270号、1941年4月19日)。この特例により、作業場所の温度は摂氏36度を超えないこと、就業時間は午後10時から午前5時までの深夜には行わないこと、就業時間中に生児哺育のための時間を与えること、などの条件の下で女性の坑内作業が許可された。
28) 女性鉱山労働者の坑内労働については、1942年以降には「あれは許可制でして、近願出がありまして、許可になつたのです。」と一部の鉱業会社で行われている実態が確認できる(「第二回鉱山聯盟座談会速記録(後編)」 朝鮮鉱業会誌1942年3月号、14頁、他)。
29) 昭和十九年三月二十二日朝鮮総督府令第九十四号「朝鮮鉱業令第五十一條ノ規定ニ依リ鉱夫ノ雇傭及労務ニ関スル規程ノ認可権等ヲ道知事ニ委任スルノ件左ノ通定ム」(朝鮮総督府官報第5137号、1944年3月22日)、他。
30) 1938年末頃には朝鮮無煙炭株式会社では「労働者も 近に至りまして満人を全従業員の一割迄入れていゝといふお許しを得まして、来月迄に六百人位の支那人を入れることになるかと考へております。」との状況が伝えられており、「満洲国」および「北支」から中国人鉱山労働者が雇用されている実態が確認できる(京城商工会議所会頭⋅賀田直治「非常時に対する燃料問題(2)」 朝鮮鉱業1938年12月号、33頁)。
31) 「[鉱業ニュース]鉱業警察規則制定を急ぐ」(朝鮮鉱業会誌1936年3月号、60頁)、および鉱山課長⋅石田千太郎 「<論説及報文>鉱業報国に邁進せむ」(朝鮮鉱業会誌1938年1月号、3頁)。
32) 「本会総会記事=役員全部改選=」(朝鮮鉱業会誌1930年6月号、8頁)。ただし同会の理事への朝鮮人の就任はなかった。
33) 植民地期朝鮮での鉱業裁判の事例については、長沢一恵「植民地期朝鮮における鉱業裁判―韓国⋅法院記録保存所の民事判決文から―」(松田利彦⋅岡崎まゆみ編 植民地裁判資料の活用―韓国法院記録保存所所蔵⋅日本統治期朝鮮の民事判決文資料を用いて、国際日本文化研究センター、2015年3月所収)を参照。
34) 李生「<巻頭言>創刊辞」(鉱業朝鮮 <創刊号>1936年6月号、2∼3頁)、朝鮮産金組合長⋅朴龍雲「産金事業의 発展策과 朝鮮産金組合의 特殊使命」(同誌、5∼9頁)、他。
35) 「朝鮮産金組合会議録」(鉱業朝鮮1937年6月号、61∼62頁、60頁)。
36) 李鍾萬の大同事業と植民地支配下における経済自立運動については、方基中「日帝末期 大同事業體의 經濟自立運動과 理念」(韓國史硏究第95号、1996年12月)を参照。
37) 「現下社会事業의 重大懸案인 “労資” “農村”二大問題解決策/鉱山労働者와 鉱主가 利益을 共同으로 分配」 (毎日申報1937年6月19日付)。
38) 編輯子 「大同 “콘체른”의 経綸」(鉱業朝鮮1937年6月号、38∼50頁、23頁)。
39) 韓長庚 「大同鉱山組合의 趣意及定款解説」(鉱業朝鮮1937年8月号、38∼44頁)。
40) 「[大同機関뉴一스]長津配給所創立」(鉱業朝鮮1937年10月号、81頁)、および金徳山「長津鉱山現地報告」(鉱業朝鮮1938年8月号、46∼56頁)。
41) 南湖 「<巻頭言>職場은即教場」(鉱業朝鮮1937年10月号、2∼3頁)、および韓長庚 「鉱山従業員의 教養과 娯楽機関問題」(同誌、48∼50頁)。なお、「南湖」は李鍾萬の号である。
42) 経済学士⋅李相敦 「朝鮮金鉱業의 労働賃金構成」(1940年1月号、35∼41頁)。
43) 経済学士⋅李相敦 「金鉱山災害激増相」(鉱業朝鮮1940年2月号、32∼37頁)。
44) 経済学士⋅李相敦 「未経験労働者의 初給賃金基準決定」(鉱業朝鮮1940年8月号、32∼39頁)。
45) 鄭顕模 「大同工業専門学校의 出現에까지」(鉱業朝鮮 <大同工専特輯号>1938年2月号、12∼14頁)、編輯局 「大同工専遂開校―七月一日平壌旧崇専校舎에서」(鉱業朝鮮1938年7月号、67∼72頁)他。
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Reference
川北昭夫「一九三〇年代朝鮮の工業化論議」(『論集朝鮮近現代史―姜在彦先生古稀記念論文集』明石書店、1996年12月)。
小林賢治「朝鮮植民地化過程における日本の鉱業政策」(名古屋大学経済学部『経済科学』第
34巻第4号、1987年3月)。
長沢一恵「朝鮮総督府・鉱務官僚と朝鮮鉱業会―両大戦間期における鉱業保護奨励策を中心に ―」(松田利彦・やまだあつし編『日本の朝鮮・台湾支配と植民地官僚』思文閣出版、2009 年3月)。
長沢一恵「植民地朝鮮の民間鉱業の地域動向と「鉱業警察」の設置―鉱業近代化における社会法規の形成をめぐって―」(松田利彦・陳姃湲編『地域社会から見る帝国日本と植民地―朝鮮・台湾・満洲』思文閣出版、2013年4月)。
長沢一恵「植民地期朝鮮における鉱業裁判―韓国・法院記録保存所の民事判決文から―」(松田利彦・岡崎まゆみ編『植民地裁判資料の活用―韓国法院記録保存所所蔵・日本統治期朝鮮の民事判決文資料を用いて』国際日本文化研究センター、2015年3月)。
方基中「日帝末期大同事業體의經濟自立運動과理念」(『韓國史硏究』第95号、1996年12月)。
広瀬貞三「19世紀末日本の朝鮮鉱山利権獲得について―忠清道稷山金鉱を中心に―」(『朝鮮史研究会論文集』第22集、1985年3月)。
松崎裕子「日露戦争前後の韓国における米国経済権益―甲山鉱山特許問題を中心に―」(『史学雑誌』第112編第10号、2003年10月)。
美濃部達吉「鉱業法」(末広厳太郎編輯代表『新法学全集』第29巻・諸法〔二〕、日本評論社、1939年1月)。
大阪鉱山監督局『大阪鉱山監督局五十年史』1942年1月。
朝鮮総督府・殖産局『朝鮮の鉱業』1924年12月。
朝鮮総督府・内務局社会課「会社及工場に於ける労働者の調査」(1925年11月)、朝鮮総督府・学務局社会課「工場及鉱山に於ける労働状況調査」(1933年3月)(『戦前・戦中期アジア研究資料1 植民地社会事業関係資料集朝鮮編20』近現代資料刊行会、1999年6月)。
「昭和十一年十月朝鮮産業経済調査会諮問答申書朝鮮総督府」国立公文書館所蔵・内閣文庫、請求番号ヨ602-0091。
『朝鮮鉱業会誌』朝鮮鉱業会、創刊号~第27巻第3号、1918年1月~1944年8月。
『朝鮮鉱業会々報』朝鮮鉱業会、創刊号~第156号、1923年1月~1935年12月。
『鉱業朝鮮』朝鮮産金組合→大同出版社、創刊号~第5巻第11・12合併号、1936年6月~1940年12月。
Abstract
근 광업과 식민지조선사회 : 이종만(李鍾萬)의 동광업과 잡지 광업조선을 중심으로
나가사와 가즈에
본고에서는 근 개발이 식민지 사회에 가져다 준 문제를 20세기의 기간사업이었던 광업을 주제
로 그 사회적 측면에 초점을 맞추어 재고찰하는 것이다. 후발자본주의국가로 출발한 근 일본에서 근 광업은 국책으로 정부가 자본과 기술을 독점하여 자원 개발을 하는 한편, 노동 보호나 환경보 전이라는 사회적 요소에 해서는 억압과 배제가 특징이라고 지적할 수 있다. 이러한 본국 일본에서 의 근 광업이 내포하는 구조적 결여가 식민지에서의 광업 체제, 나아가 사회 형성에 어떤 향을 주었는지에 해서 근 광업제도의 실시 과정을 통해 검토해보겠다.
또한 식민지시기의 조선에서는 민간인이 광업권을 취득하는 것이 가능했기 때문에 조선 총독부 가 관리하는 광산이나 일본 자본 광업회사 만이 아닌 민간의 조선인에 의한 광산 경 도 많이 있 었다. 이중에서는 광산경 에서 얻은 자금을 토 로 변호사 활동이나 학교 경 , 신문사 경 등 사 회 활동을 한 사람도 있었다. 이번 발표에서는 민족운동가로 알려진 광산왕 이종만의 동광업회사 의 광산경 에 해, 특히 중일전쟁 시기의 산금체제하에서의 광산노동자에의 동원 정책 강화의 정 세속에 동광산의 자 방식을 통해 어떠한 저항을 시도하고, 그리고 어떠한 노동사회 창조를 지향 했는지에 해 고찰해 보겠다.
■ keyword 근대광업, 식민지조선, 조선광업령, 노동보호정책, 이종만⋅대동광업주식회사 광업조선
■ 논문투고 2016년 11월 11일
■ 심사완료 2016년 12월 8일
■ 게재확정 2016년 12월 9일
■ 필자연락처 zue@gd6.so-net.ne.jp (長沢一恵)
近代鉱業と植民地朝鮮社会
: 李鐘萬の大同鉱業と雑誌 鉱業朝鮮を中心に
長沢一恵
近代開発が植民地社会にもたらす問題について、20世紀の基幹産業であった鉱業を取り上げ、その社会的側面に焦点を当てて再考察することが本報告の課題である。後発資本主義国家として出発した近代日本では、近代鉱業は国策として政府が資本と技術を独占して資源開発を行う一方、労働保護や環境保全といった社会的要素に対しては抑圧と排除を加えたことが特徴として指摘される。こうした本国日本での近代鉱業が内包する構造的欠陥が植民地における鉱業体制、ひいては社会形成にどのような影響を及ぼしたのかについて、近代鉱業制度の実施過程を通して検討する。
また、植民地期の朝鮮では民間人が鉱業権を取得することが可能であったため、朝鮮総督府の保留鉱山や日本大資本鉱業会社だけでなく、民間の朝鮮人による鉱山経営も多く行われ、その中には鉱山経営で得た資金をもとに弁護士活動や学校経営、新聞社経営など社会活動を行う者がいたことが知られている。本報告では、民族運動家として知られる鉱山王の李鍾萬の大同鉱業会社の鉱山経営を取り上げ、とくに日中戦争期の産金体制下における鉱山労働者への動員政策の強化といった情勢に対して、大同鉱山の自営方式を通してどのような抵抗を試みたのか、そしてどのような労働社会の創造を目指したのかについて考察する。
■ keyword
近代鉱業、植民地朝鮮、朝鮮鉱業令、労働保護政策、李鐘萬⋅大同鉱業株式会社、雑誌 鉱業朝鮮
The Modern Mining Industry and The Modern Chosun Korea society
: Lee Jung Man of Daidou Kogyo Company and The Gwang Eob Chosun Magazine
Kazue NAGASAWA
This paper attempts to re-examine the social aspects of the mining industry, a key industry in the 20th century regarding to the problem modern development brought to the Chosun Korea colonial society. For Modern Japan, a late-capitalist state at the time, the modern mining industry was monopolized in terms of capital and technology by Imperial Japanese government as a national policy, and has been doing resource developments. Yet as another feature, it is pointed out that social elements such as labor protection or environmental preservation also led to suppression and exclusion. In such circumstances, this paper investigates factors throughout the progression process of the modern mining industry. Particularly, it looks at how structural defects involved with the Imperial Japanese mining industry system which could have had some impact to the mining industry structure, which eventually led to a social formation under the Colonial Chosun State. However, besides those government body companies called the reserved mines by governor-general of Chosun or Imperial Japanese large capitals, a number of mining companies were established with ownerships of Chosun Korean civilians, were able to acquire mineral rights in Chosun Korea at the time. Among those, there were people well known for advancing social activities by serving as attorney operations, education and journalism powered by funds gained through the mining business. Especially, against social condition and reinforcement of the mobilization policy for miners under the system of the product gold law during the Sino-Japanese War, this paper focuses on the mining business of Daidou Kogyo Company (Daidou Mining Company) by Lee Jung Man who was a mining magnate also known as a national activist, examining his resistance, purpose and goal for the labor society creations through the self-employed business model of Daidou Kogyo Company.
■ keyword
The modern mining industry, The Colonial Chosun Korea, Mining Ordinance of Chosun, Labour protection policy, Lee Jung Man, Daidou Kogyo Company (Daidou Mining
Company), The Gwang Eob Chosun Magazine(The Mining Chosun Korea Magazine)
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