発行日 2022 年 5月27日 龍谷 大 学 経 営 学 会
龍谷大学経営学論集61巻2号
外村大
-日本内地と朝鮮との比較
娼妓等周旋業と慰安婦の要員確保
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〈論文〉
娼妓等周旋業と慰安婦の要員確保
――日本内地と朝鮮との比較――
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キーワード 一
人身売買 売春 慰安婦 植民地
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目次 1. 先行研究と本論文の課題 2.営業許可と関連法令 3.統計が示す事業経営の実態 4. 業務内容とその専門性 5. 違法行為と取締りの限界 6. 慰安婦の求人需要への対応 7.まとめ-国家責任の議論の深化をめざして
係で,そうした売春施設に女性を紹介する業者 についても若干の関心が払われるようになっ た。慰安婦問題が政治外交の問題としても焦点 となっていったなか,女性たちがどのようにし て慰安所に送り込まれたかという史実が議論の 的となり,そこに,「業者」が関係している事 例が多数あることが確認されたためである。そ して,1990年代以降,韓国人の被害当事者が 名乗り出てようやくにして始まった,慰安婦に ついての歴史研究に関連して, 「業者」の活動 について,いくつかの重要な指摘がなされた。
吉見義明は,慰安婦を集めた主体は日本軍で あるとしたうえで,「業者が手足として使われ た」と見る)。そして,彼らが誘拐や就業詐欺 といった,当時の法律でも違法とされる行為に よって女性たちを慰安所に送り込んでいたこと を述べている。しかも,そうした「業者」の活 動に対する取締りは十分ではなく,とりわけ朝 鮮では違法行為は黙認されたとの見方も提示さ れている。また,朝鮮の状況について広範な 史料をもとに分析した尹明淑は,関連法令での 規制が日本内地(植民地を除く,現在の 47 都 道府県とほぼ同じ領域)と比べて厳格でなかっ たことを指摘した)。つまり,違法行為を行う
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1. 先行研究と本論文の課題
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近代日本では,業として売春を行うことが合 法であり,それを行う(正確には形式としては 自身の営業としてだが,実態としては強いられ て行う,あるいはやむを得ずそれを行わざるを 得ない境遇に陥っていたというべきであろう) 女性たちも少なくなった。そして、売春のため の施設を経営する者に女性たちを紹介する業者 もおり,彼らの活動もまた法的に認められてい た。彼らの存在と活動は,同時代においても, その後それが非合法化された後も,当然知られ ていた。ただし彼らの活動がその時代の社会を 理解するうえで,特別重要であると考えられた ことはない。それについての学術的分析はほと んどなかったと言っていいだろう。
だが,20 世紀末になると慰安婦問題との関
1) 吉見義明『日本軍「慰安婦制度」とは何か』岩
波書店,2010年,16頁。 2)以上,吉見義明『従軍慰安婦』岩波書店, 1995 年および前掲『日本軍「慰安婦制度」とは何
か』。 3)尹明淑『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰
安婦』明石書店,2003年。
經營学 論集
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娼妓等周旋業と慰安婦の要員確保
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る。
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には,営利職業紹介事業については別途の命令 によるとの条文があり,1925 年 12月19日に は営利職業紹介事業取締規則(大正 14 年内務 省令第 30 号)が公布された。その第3条によ って、営利職業紹介業者およびその同居の家族 らによる娼妓等の紹介は禁じられた。また,公 営職業紹介所では,芸娼妓酌婦等の紹介は国家 公共の施策として適当ではないとの認識から, 取り扱われていなかった)。そして,1938年4 月1日に公布された改正職業紹介法と同年7月 1日の厚生大臣の告示によって芸妓や酌婦,こ それに類する職業の紹介は,改正職業紹介法での
適法範囲から除外されることとなった。
他方,朝鮮では,1940年1月11日に制令第 7号として朝鮮職業紹介令が施行されるまで, 統一的な職業紹介の法令は作られていなかっ た。そのようななかでも,若干の公営職業紹介 所があり,加えて営利職業紹介所が存在し : た10)。この営利職業紹介所は,日本内地同様,
多くは商店員や女中等の業種を取り扱っていた ものの,朝鮮では芸妓・娼妓・酌婦その他類似 の職業の紹介の兼業も認められていた。しか し,朝鮮職業紹介令やその施行規則等によっ て、公営の職業紹介所のみならず,営利職業紹
.
.
「業者」があまり制約を受けずに活動しうる条 行いそれで利益を得る行為)が果たして,簡単 件があったと言うのである。また,公娼制度自に始められるものであったのかも考えて見るべ 体が日本の侵略,植民地支配のなかで朝鮮に持 きだろう。存在している職業のほとんどは,あ ち込まれ,広がっていったことも論じられてお る種の専門的知識や経験に基づく技能,判断力 り,そのなかで必要とされた娼妓等を紹介する を必要とする。さらにそれだけでは経営を維持 「業者」も増加していったことも,尹や宋連玉の することはできない。取引きを行う相手との信 論文で紹介されている)。なお,「業者」の増加 用を得なければならないのである。それが1回 は、娼妓等の紹介が,資金がなくとも稼げる, 限りではなく,相手との関係を長く維持するべ 朝鮮人にとって成功を展望しうる数少ない職業 きものならば,提供するサービスや商品の質が であったためであるとの指摘もなされた)。
問われることにもなる。 これらの指摘のうち,「業者」による違法行 ところが,既存の研究ではそれに関連した議 為は特に驚きをもって受け止められることでも 論は見られない。そもそも「業者」となるうえ ないだろう。慰安婦以外にも,そのような女性 で何が求められ,経営がどのように維持された の人身売買の話は小説や演劇でも登場するし、 という問題自体が設定されて来なかったと言っ それを自慢げに語る関係者の回想記すらあ てよいだろう。おそらくそれは,「業者」につ る6)。警察の違法行為の黙認も,売春や違法賭 いて,女性を騙して売り飛ばす,粗暴な犯罪者 博が厳格に法を適用して取り締まられず,見逃 というだけのイメージで理解しているためであ されているケースがあることを考えれば,十分 ろう。そうであれば、専門的な知識等はなくと ありそうなことである。
もよく,取引も1回限りなので信用も必要な ただし,誘拐のごとき極めて重大な犯罪が果 い。だが,果たしてそうと言えるのであろう たしてそう簡単に黙認されたのかという疑問は 残る。特に戦時下の場合,治安秩序に多大な影 そこで,本論文では,娼妓等の紹介を行う 響を及ぼすような犯罪が放置されるとすれば, 「業者」について,より踏み込んだ実態把握を 社会的不安が広がる。それは総力戦を遂行して 行いたい。つまり,その業務内容や経営のあり いる日本帝国にとって避けるべき事態である。 方,違法行為と警察の取り締まりの関係等の解 また,植民地朝鮮で公娼制が広がり,それを 明の解明を試みる。同時に,日本内地と朝鮮の 支える娼妓等を紹介する「業者」が増加したの それぞれにおいて、そうした「業者」の活動が はそうだとしても,しかしそのことが同時代の どの程度の規模で展開されていたのか,その社 社会の中でどれほどの意味を持ったかは,十分 会においていかなる位置を占めていたのかを分 な吟味が必要である。というのは、植民地朝鮮 析していく。そのうえで,日本軍によって進め での都市化は,日本内地に比べて限定的であっ られた慰安婦とすべき女性の確保における,そ たし,公娼ではない私場,合法の「業者」では うした「業者」の関りについても,日本内地と ないルートでの売春施設への女性の紹介という 朝鮮との差異に留意しつつ考察を提示したい。 行為も考慮しなければならないからである。
以上が本論文の課題である。 そして,そうした業(=反復してあることを
2. 営業許可と関連法令 4) 宋連玉「日本の植民地支配と国家的管理売春 -
朝鮮の公娼を中心にして」『朝鮮史研究会論文
具体的な分析に入る前に,本論文で分析の対 集』第 32 集, 1994年 10月および尹明淑前掲書 象とする,娼妓等を紹介する「業者」が,類似 302頁。
する職業とどう区別されるのか,どのように合 5)宋前掲論文。 6)村岡伊平次「村岡伊平次自伝』講談社, 1987
法性を与えられていたのかを確認しておく。そ れには関連法令と行政施策の説明が必要とな
..
日本において、売春を行う女性を置く施設, つまり,遊郭その他がすでに前近代においても 多く存在し,そこに女性を紹介する「業」も成 立していたことはよく知られている。職業を表 す名称としては口入れ屋とか,桂庵という語が あった。もっとも,口入れ屋や桂庵とは,娼妓 等の紹介のみならず,女中や商店員などの紹介 も行っている。それは,近代以降,私設の職業 紹介所として存続することとなる。
だが,そこでは、悪質な行為が問題となって いた。仕事の内容を隠したり,条件について誇 大な話を提示した詐欺行為や女性を誘拐して売 り飛ばすといったことも行われていた。これら の行為は,前近代でも発覚すれば処罰された し,近代以降も初期段階で整備された法令によ って、つまり詐欺行為は民法で,誘拐は刑法を 適用するなどして罰せられた。ただし、民間で 行われる職業紹介,とりわけ,売春施設への紹 介での犯罪行為は,20世紀初頭になっても相 当に多かった。1911 年に出された警察法規を 解説した書籍では,娼妓等周旋業者について 「往々人ヲ誕惑シ或ハ誘惑シテ依頼人意思ノ 反スル所二周旋シ...甚シキハ妙齢ノ婦女ヲ海外 又ハ遊郭二誘拐シ或ハ強テ醜業ヲ営マシムル等 其ノ弊害挙テ数フ可カラス」との文言が見え
る7)。
しかし時期が下るにしたがって,こうした問 題の発生の予防や罰則,関係者の統制等のため に関連行政機関と取締り法令の整備,公営事業 としての職業紹介の拡充等が進められる。この 過程では,娼妓等の紹介と,それ以外の職業紹 介との「業者」を分離し(兼業の禁止),それ ぞれの適用法令も区別されていった。これは, 第一次世界大戦後,まず日本内地で先行して進 められた。すなわち,日本内地では 1921 年に 公営の職業紹介事業について定めた職業紹介法 (大正 11 年法律第 55 号)が公布された。同法
か。
8)
10)
1921年に公布された職業紹介法や関連する法令 では,明確な規定はないが,芸妓・娼妓・酌婦 や類似の職を扱わない方針を取っていた(那須 時夫「芸娼妓の周旋と職業紹介所」『職業紹介』
1934年6月号)。 9)職業紹介法(昭和 13 年法律第 61 号)第 15条と
それに基づく, 1938年7月1日付の昭和 13 年 厚生省告示第 92 号による。
明淑前掲書では「府営職業紹介所には『一般 職業紹介所』と『営利職業紹介所』の二種類が あった」という文章が見えるが(303 頁),これ は誤りである。営利職業紹介所は民間の職業紹 介所で手数料等を取るものを指す。営利事業を 行う公営の職業紹介所の存在は確認できない。 尹の依拠する中央職業紹介事務局『本邦ニ於ケ ル営利職業紹介事業調査』 1931年,60頁,に は,「営利〔職業〕紹介業は私人の経営にして小 規模なるに,公益紹介業は公共団体の経営に属
し」との文言が見える。なお,「一般職業紹介」 という語はあるものの,これは,「日雇職業紹
介」ではない一般の職業紹介を指す。
7) 桑原栄次郎『警察法規要論』国民法制学会,
1911年,242頁。
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介所においても娼妓等の紹介は禁止される。た だし,それまで娼妓等の紹介を行っていた営利 職業紹介所ではそれを続けることは認められ た。だが,それは朝鮮職業紹介令施行規則の施 行(1940年1月20日)から1年に限っての経 過措置であった。その延長を伝える史料は確認 できず,1941年1月20日以降は,娼妓等の紹 介を兼業で行う営利職業紹介所もなくなったは ずである11)。
このように,行政当局は,娼妓等の紹介につ いての扱いについて,一般の職業紹介との分離 を進めた。同時に,一般の職業紹介とは別建て で,娼妓等の紹介についての監督や諸手続きを 定めた法令を整備していくこととなる。それ は,日本内地全体,あるいは朝鮮全体に統一さ れた法律や省令,朝鮮総督府令ではなく,日本 内地であれば各道府県の出す道令,府令,県 令,朝鮮では各道が制定する道令として制定さ れた12)。
をかいくぐって違法行為を働く者はいる。また 見つかる危険性がそれほどでもないか,違反に よる罰則がさして重くもないとなれば,その法 令を遵守しようという意識も生まれない。そう したことが関係して,現実には,こうした規則 の制定後も,娼妓等周旋業者の悪質な行為が根 絶したわけではなかった。とは言え,法令があ る以上,それに対する違反を摘発し罰則を下す ことは可能であり,それは違法行為への抑止に もなる。その意味では,娼妓等周旋業について の法令の整備の意義はあったと言えよう。
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3. 統計が示す事業経営の実態
それらにおける,娼妓等の紹介を行う「業」 の呼び方も様々であった。具体的には「人事周 旋営業」,「紹介営業」,「周旋業」,「周旋営業」 などの語が当てられており,どれが統一的に用 いるべき行政用語なのかは確定していない。な お,府県によっては,養子や配偶者の斡旋,不 動産の売買等の営業も,同じ規則で監督取締り を行っている。そうした事情を勘案し,以下で は,芸妓・娼妓・酌婦とそれに類する職業を紹 介する「業」について便宜的に「娼妓等周遊 業」の語を用い,それを行う者を,「娼妓等周 旋業者」と呼ぶこととする。ただし,文脈によ ってそれを指すことがわかる場合は,単に業者
の語を用いる。
では,娼妓等周旋業を監督し,取り締まる各 道府県の規則はどのような内容のものだったの だろうか。それぞれの府県や道ごとに異なって いるが,奸計による被紹介者・紹介者らの被害 や不正な利益の取得を防ぎ,それがあった場合 は処罰するためのものである点ではどれも同じ である。
具体的に述べれば,それぞれの規則は,事業 の申請と許可の条件,営業における禁止事項, 警察によるチェックにかかわる条文を備えてい た。まず,事業の申請と許可については,娼妓 等周旋業を行う者は所轄警察に届け出て許可を 得るべきことや,その際の許可条件が記されて いる。許可が認められないのは、禁治産者やほ かの職業紹介や貸座敷業,金貸しなどを兼業し ている者など,具体的に書かれているほか, 「公安を害し風俗を案す虞」「其の他営業上不適 当と認むる者」といったかなり広範囲な裁量で 不許可としうる文言を持つ規則もある13)。要す
1
るに,警察当局が問題ありと判断した者,信用 できない者は許可しなかったということであ る。また,一部の府県の規則では一定の財産を 持つことを条件としている14)。このほか,一部 の府県の規則では,他県で許可を得た業者が活 動する場合に,所轄警察署に届出ることも義務 付けるなどの他府県の業者の活動も管理しよう とするものもあった。
具体的な営業活動では,次のようなことが禁 じられている。例えば,虚偽を述べての,ある いは重要な事実を隠した紹介,直接依頼されて いない者の紹介,秘密の漏洩,被紹介者を宿泊 させる,財物を貸付ける,すでに従業中の者に ついてその意思がないのにほかに紹介すること を勧誘する, などである。さらに,身元不詳の 者や,法定代理人の承諾を得ていない未成年 者,夫の承諾を得ていない妻の紹介を行い得な い,との条文も通常,備わっていた。
そして,多くの府県等の規則では、紹介が成 立した場合には,その年月日,本人の氏名や生 年月日,本籍,紹介先の住所,前借金,受け取 った手数料等を帳簿に記載し,それを一定年数 保管すること,警察が臨検し,帳簿等を閲覧す ることも規定していた。これは,悪質な紹介の 事例や不正,それが疑われる事例などの把握
を,ある程度は可能にしたと言えよう。
当然ながら,上記の規定を守らず,問題を起 こした場合には罰則が下される。管轄の警察当 局は科料の支払い等のほか,営業の許可の取消 しを命じることもできたのである。
とは言え,どんなに警察力を強化してもそれ
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では,そうした娼妓等周旋業者とその活動 は,どの程度のもので,社会の中でいかなる位 置を占めていたのであろうか。これについて は,売春施設とそこで売春を強要されている女 性たちの数などとともに論じる必要がある。以 下では,行政当局による調査や統計をもとにそ れを確認していく。
表1 日本内地における芸妓置屋・貸座敷業者・芸
妓・娼妓・酌婦の推移
単位:人
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11)この点について,尹明淑前掲書では言及がない。
しかも,尹は朝鮮職業紹介令等が出たことで, 「接客業婦芸妓・娼妓・酌婦と類似の職業]の 周旋業は私営である人事紹介所〔営利職業紹介 所」に一本化されたのである」と記し(305 頁),朝鮮では営利職業紹介所のみが娼妓等の紹 介を行っていたかのように読める説明を行って いる。しかし,娼妓等の紹介を行うのは,あく まで所轄警察署に届出て許可を得た娼妓等周旋 業者のみある。経過措置はあったものの,少な くとも1941年1月20日以降は、朝鮮の営利職 業紹介所が娼妓等の紹介を行うことはなく,も し行っていたとすればそれは合法の行為ではな
いと見るべきである。 12) 1929年にまとめられた。中央職業紹介事務局
『営利並芸娼妓酌婦紹介業調査』は,岩手県,埼 玉県,神奈川県,和歌山県,山口県を除き,娼 妓等の紹介についての監督,取締りの規則を持 つことを伝えている。ただし,山口県がそれを 持たないというのは誤りで,1906年時点で周旋 営業取締規則という規則を制定していることが 確認できる(帝国地方行政学会編『警察法規類 典 山口県 下』帝国地方行政学会,1931年)。 また,朝鮮でもいくつかの道で同様の規則が制 定されていることは,尹明淑前掲書などに記さ れている。その制定時期が,わかるものを示せ ば,全羅南道が 1922 年,平安南道が 1923 年, 平安北道が 1925年,咸鏡南道が 1913 年であ
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芸妓 「貸座敷
芸妓 娼妓 酌婦 置屋 | 業者 1925年20,176| 11,756 79,348 52,886 | 1926年 120,923 | 11,532 79,934 | 50,800|101,966
1927 年、20,852 | 11,393 | 80,086| 50,056111,032 | 1928年 21,468 | 11,155 80,808|49,058 104,931
1929年 21,708| 11,081| 80,71749,477 73,942 | 1930年 21,530 10,861| 80,075 52,117,75,535 | 1931 年 21,343 9,79977,351 | 52,064 | 81,019 | 1932 年| 21,040 | 10,500 74,999| 51,557 | 85,951
1933 年 20,949 10,28174,200 49,302 | 85,590 1934 年 21,197 9,738| 72,538 45,705| 85,121 | 1935年、21,610 9,526| 74,855 | 45,837 | 82,621
1936年、22,052] 9,38678,699 47,07885,685 | 1937 年 22,541| 9,238| 79,868 47,217 85,699 | 1938 年 22,649人 9,012 | 79,585 45,289 | 83,754
1939年 23,1928,51479,908 39,984 74,472
典拠:内務省警保局『第9回警察統計報告』1934
年, 『第16回警察統計報告』1940年。
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14)例えば,東京府の紹介営業取締規則(1927年1
月1日施行,東京府『警視庁令全書』1938年, に所収)では,2000円以上の不動産を保有する ことが条件となっている。ただし,そうした一 定の財産を持つことを条件としているのはやや 例外的である。この点に関連して述べれば,東 京府の規則でそのような条文があり,朝鮮の各 道の警察部規則ではそれがないことから,尹明 淑は,朝鮮ではより簡単に娼妓等周旋業に参入 できたように述べているが(尹前掲書 302 頁), そうとは言えない。不動産保有の条件が設けら
れていないほうがむしろ一般的である。
る。なお,規則自体の制定年次は不明であるが, 関連する告示が出されていることから京畿道は 1922 年以前,慶尚南道では 1932年以前に,娼 妓等周旋業の監督,取締りを行う規則が制定さ
れていることが確認できる。 13) 秋田県が 1934年9月 11 日施行の周旋営業取締
規則(昭和9年秋田県令第58号,帝国地方行政 学会編『現行秋田県令規全集 第3綴』,国立国 会図書館所蔵分,に所収)。
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まず,表1は日本内地の,表2は朝鮮につい ての,芸妓置屋や貸座敷業,芸妓,娼妓,酌婦 の数の推移である。朝鮮の統計における芸妓で は,朝鮮人もかなりいるので,おそらくこのカ テゴリはいわゆる妓生を含むと考えられる。そ こでの芸妓置屋も妓生券番を含むと見ていいだ ろう。
では,娼妓等周旋業者の人数はどれくらいで あっただろうか。この点については限定的にし か把握できない。日本内地の統計について見れ ば,内務省警保局『警察統計報告』には,「紹 介周旋業」という項目がある。これらのなかに は,娼妓等周旋業者が入っていることは確かです。 ある。だが,そのなかには,そうではない別の。 業種の人びとの数もカウントされていることに 注意しなければならない。というのは,「紹介 周旋業」と呼ばれるもののなかには,養子や配 偶者,不動産の紹介を行う者等も含んでいるか
らである。ただし,確実に芸妓・娼妓・酌婦お よび類似の職の紹介を行う業者=娼妓等周旋業 者についての統計が,全国については中央職業 紹介事務局の調査から,一部の年次について確 認でき,東京府については警視庁の統計があ る。それをまとめると表3のようである。
朝鮮の娼妓等周旋業者については,これまで の研究において,朝鮮総督府『朝鮮総督府統計 年報』での「仲介業」と「雇人口入業」という 項目が,娼妓等周旋業者だと見なされてきた。 例えば,尹明淑は「1913 年,紹介業者(雇人 口入業と仲介業)は、朝鮮人 385 名,日本人 133 名であったのが,1940年には朝鮮人 3,776 名,日本人 286 名」となり,「紹介業者のうち,
表4 日本内地と朝鮮の人口10万人当たりの娼妓等の数
単位:人、
日本内地(1930年)
朝鮮(1930年) 実数 | 10万人当りの数、 実数 | 10万人当りの数
総人口
64,450,005
21,891,180 芸妓置屋
21,530
33.4
243
1.1
貸座敷業者
10,861
16.9
2.4
芸妓
80,075
124.2
4,430
20.2
娼妓
52,117
80.9
3,205
14.6
酌婦
75,535
117.2
1,685
7.7
娼妓等周旋業者
6,403
9.9
128
0.6 典拠:内閣統計局『大日本帝国統計年鑑』および内務省警保局『第9回警察統計報告』 1934 年,
中央職業紹介事務局『本邦二於ケル営利職業紹介事業調査』。 注:朝鮮についての娼妓等周旋業者数の 128 人は,1931年9月の数字である。
表3 日本内地全国及び東京府の娼妓等周旋業者数
単位:人
1925年
日本内地全国 | | 東京府
242
6,456
266
245
表2 朝鮮における芸妓置屋・貸座敷業者・芸妓・
娼妓・酌婦の推移
単位:人
4,972
芸妓 | 貸座 置屋業
芸妓 娼妓
| 敷業
221
217
酌婦
1925年) 510
510
594) 2,235 3.059 1,606
6,403
217
203
191
196
1926年 1927年
1928年 1929年 1930年 1931年 1932年 1933年 1934年
1935年 1936年 1937年 1938年 1939年 1940年 1941年 1942年
181
娼妓や酌婦などの接客業婦を周旋する雇人口入 妓,酌婦,娼妓等周旋業者の数は少ない。そし 業者は,1913 年朝鮮人 25 名,日本人 78名で て,その少なさは日本内地と朝鮮との人口規模 あったのが,40年には朝鮮人 219 名,日本人の に単純に比例したものでもない。1930年につ 62 名」と変化したことを紹介している)。
だ いての人口 10万人当たりの数字を出しても, が,そもそも,「仲介業」イコール娼妓等周旋 それは相当な差がある(表4)。朝鮮では日本 業ではない。むしろそれ以外の「仲介」,つま 内地ほどには,遊郭等の公娼制下の売春施設,
り有価証券や不動産,あるいは食品等の売買の そこで働く女性たち,娼妓等周旋業者は多くは 仕事を指すのが一般的である。「雇入口入業」 なかったのである。 という語についても,娼妓等周旋業がそこにカ では,紹介周旋業による,売春施設への女性 ウントされている可能性はあるが,同時にそこ の紹介はどれくらいの件数にのぼったのであろ には女中や商店員の紹介,つまりは営利職業紹 うか。この点についても詳しい資料は少ない 介業も含まれていると見るのが自然である。し が,東京府については,求人・求職・就職件数 たがって『朝鮮総督府統計年報』での「雇入口 がわかり,それをまとめると表5のようにな 入業」の人数を娼妓等周旋業者数として考える る。朝鮮については,前述の中央職業紹介事務 ことは避けなければならない。
局の資料に 1930 年度の件数の紹介がある。そ 結局,『朝鮮総督府統計年報』からは娼妓等 れは求人件数 4018 件,求職 4815 件,紹介件数 周旋業者の数は不明である。そして,残念なが 3438 件,就職件数 3020 件というものである。 ら,ほかの資料でもそれが記されているものは 朝鮮の業者は前述のように 1931年9月現在の ほとんどない。ただし,中央職業紹介事務局 128 人という数字しかわからないものの, 1930 『本邦ニ於ケル営利職業紹介事業調査』 1931 年度とは時期的に近いので,この数をもとに1 年,において,1931年9月末現在で,朝鮮につ 業者当たりの年間の就職件数を割り出すと, いては 128 だとする記述が確認できる。
23.6である。これは東京府の数字とそれほど変 以上からわかるように,日本内地に比べて朝 わらない。 鮮では,芸妓置屋,貸座敷業者や,芸妓,娼 では,こうした娼妓等周旋業者を通じた売春
施設への就業がどの程度,一般的であっただろ 15) 尹明淑前掲書 302 頁。なお,これについての尹
うか。これについても,全国的な統計は見当た の注(同書 326頁)によれば宋連玉と山下英愛 も「仲介業」と「雇入口入業」の合計を娼妓等
らない。ただし,次のような資料がある程度参 周旋業者と見なしているようである。
考になる。まず,日本内地については 1934 年
243
6.786
174
184
217
1926年 1-250 579) 3,165 3,1501,670 1927年 242) 546 3,4942,883 | 1,566 | 1928年] 27115381 4,0731 2,9071 1.578
1929年 270 15604,4493,053 1,712 | 1930年
5204,430 3,205] 1,685 1931年) 234] 521) 4,5083,093 1,836 1932年
496, 4,476 2,187 1,557 1933年
253
477 4,6204 2,561 1,438 1934年
475| 5,066| 2,759 1,528 1935年 252 461] 6,061 3,109 1,704 1936年 1296 1-4651 6,983 3,575| 1,749 1937年)
471, 7,164| 3,594| 1,734 1938年 | 368 470| 7,377) 3,627 1,762 1939年 1 343 539| 8,348 3,712 1,796 1940年
480 8,305 3,934 1,616 1941年) 310) 474 6,723 | 3,813 | 1,602 | | 1942 年| 289 4696,287人 3,850人 1,616 | 典拠:朝鮮総督府「朝鮮総督府統計年報』各年版。
187 205 209
238
191
189
1-
308
180
329
典拠:中央職業紹介事務局『営利泣芸娼妓酌婦紹介
業調査』1929 年,社会局職業課「芸娼妓酌婦 等周旋望業者数調」(種村氏警察参考資料第
46集」,アジア歴史資料センター・レファレ ンスコード・A 05020179500), 警視庁『警視
庁統計書』各年版。 注:同じ年次でも数字の異なるものは社会局職業課
の数字を記載している。
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経営学論集
Vol.61 No.2
April 2022
娼妓等周旋業と慰安婦の要員確保
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Stration was IMAGE SWANSWEEN GIGARA ALISTARGANGEORGANA
表5 東京府における娼妓等周旋業者数と取扱い数る。言い換えれば,生活に困窮した家庭の親が
の推移
単位:人,件 .
娼妓等周旋業者と接触することもまた,それほ
|一業者の紹 年 業者数求人 求職 就職
ど珍しくなかったということも言えるだろう。 介者数平均
ちょっとした都市であれば,そうした事業所が | 1929 | 217 | 9,552 | 8,371 | 6,130 28.2
あり,連絡が可能だったのである。 1930 | 8,336 | 7,948 | 5,434
| 217
25.0 1931 | 203 | 7,976 | 7,866 | 5,249 | 26.3
他方,朝鮮についても,売春施設で働くよう
1932 | 191 | 8,006 | 8,239 | 5.770| 30.2
になった女性たちの多くは,娼妓等周旋業者に
1933 196 8,902 | 12,748 | 6,618 33.8
よって就業先を紹介されていた。これについて 1934 | 181 8,924 | 8,242 | 6,208 34.3
は 1930 年末の娼妓に関する数字がわかる。す 1935 | 177 8,741 | 8,771 | 6,355 | 35.9
なわち,朝鮮内の日本人娼妓 1798 人中 1536 1936 | 184 | 9,211 | 9,160 | 6,631 | 36.0
人,朝鮮人娼妓 1372 人中 985 人が娼妓等周遊 1937 | 187 17,864 | 7,535 | 5,828 | 31.2
業者を経由して,就業している。比率を示せ 1938 | 205 | 7,430 | 6,428 | 5,377 | 26.2
ば,日本人娼妓では 85.4%,朝鮮人娼妓では 1939 | 209 | 6,945 | 5,609 | 4,958 | 23.7
71.8% となる(業者を通さないケースは親族や 1940 | 191 4,968 | 4,864 | 4,213 | 22.1
親,あるいは本人が直接,貸座敷業者と交渉を 1941 | 189 | 5,606 | 4,128 | 3,495 18.5
行ったとされる)17)。ただし,朝鮮においては, 1942 | 180 | 3,232 | 2,338 | 1,852
1 10.3
前述したように娼妓も,娼妓等周旋業者自体も 典拠:警視庁『警視庁統計書』各年版。
日本内地に比べて少数であった。したがって,
専門的な業者と連絡し,その紹介によって朝鮮 時点の青森県八戸市についての調査がある。そ 内の売春施設で就業するようになった者の絶対 れによれば,同年中に出稼ぎ中である女性は 数は,日本内地と比べると少ない。朝鮮社会に 948 人で,内訳を示せば、芸妓 122 人,娼妓 おいては娼妓等周旋業者の利用が日本内地ほど 126 人,酌婦 289 人,女給 193 人,その他 218 には一般的ではなかったのである。ただ,これ 人となっている16)。そしてそれらの出稼ぎ者の はもちろん警察の営業許可を持つ娼妓等周旋業 経路は、「周旋屋の紹介に依るもの」が 534 人, 者と,やはり警察に営業を認められた売春施設 「知己縁故の手を経るもの」100 人, 「募集事業 の経営者との取引きのケースが相対的に少なか 者の手を経たるもの」が 86 人であった。八戸 ったというだけである。売春に従事する女性の 市は,困窮した民衆の多い農村の隣接地であ たどったルートがそれだけではないことは後述
り,娼妓等周旋業者も地方都市としては多い
する。 (その数は 19 であり,1935 年の国勢調査での
4. 業務内容とその専門性 八戸市の人口が6万 2214 人で,その前年は若 干これより少ないと見ても,人口10万人当た 次に,娼妓等周旋業者がどのような業務を行 りの数はおそらく 30 程度である。これに対し って利益を得ていたか,どのようにして経営維 て,1930年の全国平均は10万人当たり9.9, 持が図られたかを見ていく。そのためには,娼 1935年も同程度である)。その点を勘案するべ 妓等と売春施設経営者との関係をおさえること きとしても,日本内地では,多くの場合,芸 が必要となる。
妓・娼妓・酌婦・女給となった者は,その娼妓 芸妓,娼妓,酌婦の事実上の使用者は,それ 等周旋業者を通して,職場を決めていたのであ ぞれ芸妓置屋,遊郭,料理屋の経営者である。
遊郭の経営者は行政用語としては貸座敷業者と 呼ばれる。芸妓は技芸の披露,娼妓は売春が仕 事で,ともに建前としては自営業者である。し
かし,娼妓は貸座敷業者に従属し,その指示の もとに客を取り,売春を行わなければならな い。芸妓については,単純に技芸を披露するこ とをもってお金を得ている者もいるが,やはり しばしば芸妓置屋の経営者に従属し,その指示 のもとに客を取って売春を行う。このような関 係は,しばしば芸妓置屋の経営者や貸座敷業者 が芸妓,娼妓を抱えると表現される。そこから 芸妓置屋の経営者や貸座敷業者は,芸妓や娼妓 との関係では抱主と呼ばれていた。酌婦も文字 通り,料理を運びお酌をする仕事のみを行う者 もいるが,通常は雇用主である料理屋の経営者 によって客に対する売春を強要されている。そ して,芸妓置屋の経営者,貸座敷業者,料理屋 の経営者は,芸妓・娼妓・酌婦が客に対して支 払う花代,つまり売春の対価の何割かを得て収 益を上げることとなる。なお,このほか,芸 妓・娼妓・酌婦に貸し与える衣装代や食事代等 からも利益を得てもいる。
当然ながら,自分から他人の指示のもとに売 春するという境遇を望む思う者はいない。やむ なくそれを行うのは,借金を背負い,売春によ って返済しなければならないためである。それ は,多くの場合,本人ではなく、その親やそれに 代わる近親者らに対する,売春施設経営者によ る貸付けである。そうした前借金の額は時には 1000 円以上,同時代において家1軒を建てる ことができるほどの額にもなった。
娼妓等周旋業者は,こうした売春施設経営者 に女性を紹介し,設定された前借金の一部を手 数料として得る。その額は,通常,前借金の1 割程度である。つまり,娼妓等周旋業者は1回 の紹介で 100 円以上を手にすることもしばしば であった。100 円程度あれば,都市で 4, 5 人の 家族が暮らしていくには十分である18)。もちろ
ん,前借金が少額であるケースもあり,様々な 経費は掛かるので,毎月1人だけを紹介して経 営を続けるのは一般的ではない。標準的な経営 としては年間 20~30 人程度,したがって月に 2, 3 人の紹介で 80 円程度を得ている19)。
こうした娼妓等周旋業の事業展開では,ま ず,紹介すべき女性=求職者を確保することが 必要となる。求職者は,売春未経験者とは限ら ない。すでに芸妓・娼妓・酌婦として働いてい る女性で抱主や雇用者を替える(これを「住み 替え」と言った)ことを希望する者でもよかっ た。むしろ売春施設経営者にとっては,そうし た女性のほうが仕事ぶりの予想もつくなどメリ ットがあった20)。こうした住み替えは,抱主や 雇用者が知り合いの娼妓等周旋業者に連絡を取 って進めるか,あるいはもともとその女性を紹 介した業者が担当することになる。
しかしもちろん,毎年一定数,廃業する女性 と同じ程度は,売春未経験者の女性を参入させ ることが求められていた。ではそうした,新規 に売春施設に就労させるべき女性はどのように して探し出していたのであろうか。 * これについては,娼妓等周旋業者やその使用 人が手あたり次第,女性に声をかけていたわけ ではなかった。それは非効率的であるし,法令 上も禁止されていた21)。そこで,娼妓等周旋業
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ン 世帯の実支出は 80~100円程度である。 19) 中央職業紹介事務局『営利泣芸娼妓酌婦紹介業
調査』1929 年,によれば,日本内地の娼妓等周 旋業者の多くは年間 30 人以下の紹介にとどまっ ているが,平均の年収は 77.76 円となっている。 これは兼業を行っている者(一般的な商業等の 兼業は認められている)も含むので専業者の場
合はこれより高かったと見てよいだろう。 20)遊郭経営者からの聞き取りをもとに記した書籍
には,「素人女は,仕込みに時間がかかる。向き 不向きの当たりはずれもある。『商売になる女を 集めるには,女郎屋から引き抜くのが結局一番』 だった」との文章が見える(岡崎征男『洲崎遊
郭物語』青蛙房,1988年258頁)。 21) 例えば,山形県の「芸妓,娼妓,酌婦等紹介営
業取締規則」(1927年2月 23 日,山形県令第 10 号,山形県警察部編『山形県警察法規』帝国地 方行政学会, 1940年,に所収)では,娼妓等周 旋業者が「求職者タルコトラ勧誘スルコト」 /
16)木田徹郎『窮乏の東北と身売防止』職業紹介事
業協会青森支部,1935年,73~74。
17) 増田道義「公娼制度泣芸娼妓自由廃業に関する
若干の考察資料」『警務彙報』1934 年2月。
18) 東洋経済新報社編『簡潔昭和国勢総覧 第3巻』
東洋経済新報社,1991年,111 頁によれば, 1920 年代から 30年代にかけての都市勤労者 1
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経営学論集
Vol.61 No.2
April 2022
娼妓等周旋業と慰安婦の要員確保
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者は,農村等に住む,あるいは行商等で各地を まわり「困窮せる家庭の調査,生活状況の調査 を為し居」る者と「潜行的な連絡方法,手段を 用ひて陰に陽に求職者の開拓」を進めてい た22)。そうした困窮家庭などから娼妓等周旋業 者のもとに女性を連れてくる行為はしばしば誘 引と言われているので23),以下,それを行う者
を誘引者と呼ぶ。
そうした誘引者らとの連絡で娼妓等周旋業者 のもとに来て、売春施設に紹介されることにな る女性たちは,誰でもよく,誘拐したり,騙し たりして連れてきた女性でも構わないというわ けではなかった。そのような粗暴な犯罪で確保 した女性の取引きは,売春施設経営者,娼妓等 周旋業者双方にとって、危険である。発覚した 場合,営業が持続できないし,裁判になって収 監されることもありうる。
同時に,よくわからない女性を受入れて働か せることは、売春施設の経営上も得策ではな い。売春施設の経営は,就労する女性の働き = 客がどれだけ付くかで左右される。そして,女 性たちを雇入れるにあたって、売春施設経営者 は,通常,その親にお金を貸し付けている(も っとも,誘拐して連れてきた女性については, 親との間での前借金の設定はないであろう)。 その額がかなり多額であることはすでに述べ た。そうした多額の金の貸付,いわば投資の回 収は,女性の身請けを希望する者による借金残
額の支払いというケースもあるにせよ,多くの 場合は,女性が客を取って働き続けることによ って実現する。
このことは,就労させるべき女性の選択によ って、売春施設の経営も多大な影響を受けるこ とを意味している。問題のある女性を就労させ ることで,売春施設経営者が見込んだ利益を得 られない,さらには最初の投資=親への貸付の 金額も回収できなくなることもありうる。ある いは大きな損失につながらないまでも, トラブ ルに煩わされる結果につながることもある。例 えば,心身に病気を抱えているとか(性病の検 査は行われるが,仕事に差し障るような病気は それだけではない),書類が偽造であったため, その女性が働けないということもある。売春施 設で働くことに納得していない女性であれば精 神に変調をきたしたり,自殺を図ったりしても おかしくないし,自暴自棄になって暴れるとい ったことも起きうる。そうなれば客をとるのも 難しい。本人以外の問題もありうる。前借金の 追加をたびたび要求する,待遇についてクレー ムをつける親や情夫がいても厄介である。さら には、売春施設業者が貸し付けたお金を得た上 で逃亡を図る前借金詐欺もしばしば問題になっ ていた24)。売春施設の経営では,それらの点の 考慮も重要となっていた。
したがって娼妓等周旋業者による紹介も慎重 に進めなければならなかった。本人が売春に従 事することを受入れていない,身分関係がはっ きりしない女性(どこかから誘拐してきたり騙 して連れてきたりした場合はそうなる)を扱う ことは避けなければならなかったし,本人や親 が何かトラブルを持込む可能性がないか等のチ ェックも必要である。さらには、紹介では,前 借金の設定が付随するのであり,そのために, 女性がどの程度利益を挙げる働き手となるかの
査定も求められた。
そのような手順を踏んで紹介が成立すれば, 娼妓等周旋業者は手数料収入を得られる。ただ し,彼らの仕事はそこで終結というわけではな い。紹介した女性とその親,紹介先の売春施設 経営者との関係は,前借金完済かあるいは住み 替えで抱主や雇用者が変わるまで続くこととな る。明文化された契約に基づいていたわけでは ないが,娼妓等周旋業者は,売春施設に「紹介 就職させた芸娼妓の稼業中に起れる障碍に関し ては概ね解決に当らねばなら」なかった。特 に,前借金の返済が終わっていない女性が,就 労先から逃げ出したとなれば,「捜索若くは債 務の督促に当るなど第一線に立つのは紹介業者 〔娼妓等周旋業者)の負ふべき慣習的責任」と 見なされていた25)。そして,そのようなトラブ ルを予防する上でも,娼妓等周旋業者は「一度 紹介をした「玉」【売春施設で働くことになる 女性たちを指す〕は,終身世話する様絶へず, 稼業者〔娼妓等となった女性〕及其の親権者と 連絡を保って」いた26)。その「世話」はもちろ ん,売春施設で働く女性とその親の互いの様子 を知らせるという親切心だけから行われている わけではない。女性たちに家族の状況を意識さ せることで,自身が犠牲になるほかないと諦め させて,仕事に向かわせるという効果を,娼妓 等周旋業者や売春施設経営者は期待していたは ずである。いわば前借金を媒介にした,娼妓等 となった女性についての「親と妓等周旋業者. と売春施設経営者との共同管理」が成立し維持 されたのである。
また,このような関係の維持は,娼妓等周旋 業者が,いったん紹介した女性を住み替えさせ て利益を得るうえでもメリットがあった。住み 替えは、女性本人の希望による場合もあるが, 売春施設の経営者の思惑との関係,例えば客が あまりつかないとか,周囲との折り合いが悪い といった理由で進められる場合もある。あるい
は,親の追借金(借金の追加)の申入れを抱主 が断り,別の抱主を探すということもあった。 そして、住み替えを行うとなれば,女性本人の 働きぶりなどを新たな紹介先に伝えなければな らない。一度紹介した女性らとの連絡を維持し ていれば,娼妓等周旋業者は,住み替えの動き があるか,そうであるとすればどのような条件 を提示して新たな抱主と交渉するか等について の情報を得ることができたのである。
以上のような娼妓等周旋業者の活動を見る 時,それは誘拐や詐欺による勧誘等の犯罪の繰 り返しでで続けられるものではなかったことが わかる。その業務は,専門的な知識や判断力, 情報収集の能力等を備えてこそ,続けられた。 まず,情報をもたらす誘引者や紹介先となる売 春施設経営者との人脈を築かなければならなか った。売春施設に紹介すべき女性についての問 題の有無のチェックととともに,どれだけの価 値があるかを見極め,前借金がいくらまで設定 しうるかを算出し,交渉をまとめる能力が求め られた。しかも,手数料を得た後も紹介した女 性の働きに一定の責任を負うわけであり,取引 先となる売春施設経営者からの信用も不可欠で あった27)。
したがって,娼妓等周旋業者は,通常,関連 業務での仕事をしたり,ある程度の経験を積ん だうえで独立したりするケースが多かったと見 られる。その点について詳しく記した史料は, 見当たらないが,東京市社会局の報告書には娼 妓等周旋業者7名の簡単な経歴が紹介されてい る。それによれば、2名は配偶者が娼妓等周遊 業でその補助を行っており,1名は「口入業」 (同じ事業所が商店従業員の紹介とともに娼妓
を禁じている。違反した場合は営業停止もあり 得た。 前掲『東北の窮乏と身売防止』1935 年,85頁。 なお,私娼の営業が行われていた東京の玉の井 の関係者からの取材をもとに記された,大林清 『玉の井挽歌』青蛙房, 1983年,でも,「周旋屋 (娼妓等周旋業者〕はそれぞれ縄張りの農村を持 っていて,現地に手先を作り,娘を持つ貧農の 家を絶えず見廻らせて」おり、「手先」は「ここ ぞという時」,言葉巧みに誘い,「娘はやがて東 京から来た周旋屋の手に渡る」という文章があ
る(同書 19頁)。 23)例えば,青森県の芸妓娼妓酌婦紹介営業取締規
則(昭和2年青森県令第67号,1927年5月28 日,帝国地方行政学会『現行青森県令規全集 加除自在 第2綴』 1932 年,に所収)など。
24) 以上のような,売春施設経営者が直面する可能
性のある各種のトラブルについては,その処理 の方法を記した,比企丈助『花柳の顧問』三業 人事頼信社,1926年,から実情を知ることがで きる。
27) 同時に売春施設経営者にとっても娼妓等周旋業
者の選定はかなり重要であった。遊郭の事業経 営についての指南書は「周旋人は成る可く永年 斯業に経験のある,評判の良い者を選び,見込 みのある周旋人であったら,成る可く其の者か ら玉を取るようにして矢鱈に諸方の世話人に頼 まぬように為された方が御利益です」と説いて いる(比企昌業 『花柳の顧問』三業人事頼信社, 1926年,142 頁)。
25) 中央職業紹介事務局『芸娼妓酌婦紹介業に関す
る調査』1926年,61頁。 26) 前掲『東北の窮乏と身売防止』1935年,81頁。
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経 営 学論集
Vol.61 No.2
April 2022
娼妓等周旋業と慰安婦の要員確保
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等周旋業務も可能な時期において)の住込み従が,それだけではなく,なんらの事業許可自体 業員として働いた後に独立,さらに別の1名が . も得ないで秘密裏に,あるいは当局の黙認を得 吉原で代書業を営み,さらに品川の貸座敷業でて、売春を行う女性を管理し利益を上げる者も 「書記」の経験を持つ。彼らは開業前に人脈や いたのである。以下では,それについて説明を 専門的知識を習得していたと言える。残りの3 行っておく。 名のうち1名は大工,もう1名は下宿業の後に まず,「モグリ」などと呼ばれた,当局の許
飲食店経営なので娼妓等周旋業との関係は明ら 可を得ずに娼妓等の紹介を行っていた者につい かではないが,1名は巡査ののち代書業を行っ て述べる。こうした無許可業者の活動はかなり ていた28)。警察は貸座敷業や娼妓等周旋業の営 広範になされていた。必要となるのは売春施設 業許可を行い,娼妓等の衛生検査なども管轄す 経営者や彼らとつながる者との連絡と若い娘を るそこで何らかの関係を築いていたか,専門的 持つ貧困家庭についての情報,就労に向かわせ 知識を得ていた可能性がある。また,青森県八 る話力であり,ほかの仕事との兼業も可能であ 戸市内の娼妓等周旋業者19名のうち女性の 12 った。ただし,それを業として行う,つまり何 名は「何れも過去に於て芸娼妓,酌婦を稼業と 度も紹介を続けていることは法に触れる行為と したるもの」であった29)。彼女たちは、紹介す なり,発覚すれば処罰の対象となった。 るべき仕事の内容をよく知っていたし,かつて だが,無許可での紹介業務自体についての処 の自身の使用者への紹介によって事業を成り立 罰は,拘留ないしい料であり,そう重くはなか たせることができたはずである。
った。それゆえ処罰を恐れずに無免許業者とし 事例は少ないが,ここから,娼妓等周旋業 て活動する者は少なくなかった30)。しかも発覚 は,誰もが簡単に参入できるような事業ではな さえしなければ,法令上の制約を気にせずに活 かったことがある程度裏付けられよう。経験に 動しうるというメリットもあった。法外な手数 基づく知識や判断力,人脈などを得て始められ 料を受取り,騙したり,誘拐したりして支配下 る仕事だったのである。
においた身元不明であったり,戸籍等の書類を
揃えられなかったりする女性を売春施設に紹介 5. 違法行為と取締りの限界
することもできた。その場合には前借金も設定 以上,娼妓等周旋業の業務内容と経営に求め せず,したがって親や売春施設経営者との継続 られるのが何であるかを述べて来た。ただし, 的な連絡の必要もなかった。 , それはあくまで,当局の許可を得て開業した者 ただし,誘拐や虚偽条件での勧誘等の手段を による法令を前提とした活動についてである。 用いて確保した女性の紹介は,売春施設経営者 だが,現実には許可を得ずに事実上,業として も秘密を守ることが条件となる。しかし,それ 娼妓等の紹介を行う者は少なくなかった。同時 は営業許可を得ている者との間では困難であ に当局の許可を得て事業経営を行う持つ業者だ る。芸妓や娼妓,酌婦としての仕事は警察署へ からといって,その全員が違法行為と無縁とい の届出が不可欠であり,その際には戸籍等の書 うわけでもない。さらに言えば,売春施設もま 類のチェックや本人からの事情聴取等も行われ た,正規の事業許可を得ていないものもある。 そもそもが,娼妓の鑑札を持たない芸妓や酌婦
30) 無免許業者の活動については,「40 円や50円の
罰金位は1人の周旋料で賄へるし,まあなんだ が売春を行うこと自体も法令違反とも言える
ね,今では雇ひ主[求人を依頼してきた売春施
設経営業者か,あるいは遠隔地に住む娼妓等周 28)以上の7名についての記述は,東京市社会局
旋業者を指すと思われる]が3回に1回は捕る 『紹介営業に関する調査』 1922 年,12~14 夏に
と最初から予算に入れて出して呉れる」と語る よる。
者がいた(藤田竹治「身売り列車」『婦人公論』 29)前掲『東北の窮乏と身売防止』,79~80頁。
1937年3月)。
ていた)。したがって、詐欺や誘拐を犯してい る無許可業者は,そうした警察の正式な登録を 経ていない女性たち,つまり私娼を置く売春施 設との取引きを主要ルートに据える必要があっ た。そして,私娼を置く売春施設は少なからず あった。
私娼は隠された存在であるので全体の数は不 明であるが,警察当局は私娼が多数集まってい る場所 -私娼窟を把握しており,そこでの私娼 の数の制限や性病の検査の義務付けなどの措置 をとっていた(その意味では,そうした私娼は むしろ「準公娼」という呼称のほうがふさわし いかもしれない)。したがって,そうした警察 の把握可能な範囲での私娼に関する統計もあ る。それによれば,まず,1930年6月現在の 日本内地では,私娼窟が 207 カ所あり,私娼を おく売春施設(呼び名は一定ではなく,様々な 名目で店を構えた。酒を置いて飲ませるという 形式をとっていた店では銘酒屋,新聞を置いた 店では新聞縦覧所と名乗るケースがあった)を 経営する者=抱主は 4513 人,私娼の数は1万 2181 人となっていた32)。朝鮮に関しては,ど のような手法による調査か不明ながら,1925 年7月時点の警察調査で「全鮮に散在せる私娼 及其の疑ひある者内鮮人を通して実に 7651 人 の多きを算するの状況に在る」と伝えられている。 る33)。
法令違反で女性を集めた無許可業者は,こう した私娼を置く銘酒屋などと取引きをした。代 表的な私娼窟である東京市の玉の井では「モグ
リの周旋屋が入り込んで来て」いたし34),浅草 の銘酒屋では騙されて連れてこられた者が少な からずいたとの証言がある35)。犯罪の秘密を保 持しつつ取り引きを行いうる,無許可業者と無 許可の売春施設経営者のつながりが広がってい たのである。
もっとも,違法行為で集めた女性たちの紹介 に関与していたのは,無許可業者だけではな い。娼妓等周旋業者が頼る誘引者がそもそも無 許可業者である,ということもしばしばあっ た36)。そして,無許可業者が騙して連れてきた 女性を,娼妓等周旋業者が秘密裏に私娼を置く 売春施設経営者に紹介することもできた。営業 許可を持つ売春施設経営者が、騙されて連れて 来られてた女性を受入れて使うこともあっただ ろう。これは脅して言うことを聞かせれば警察 のチェックを潜り抜けることもできたためであ る。
だが,法令違反を放置することは問題であ る。軽微な犯罪はともかくとしても,騙した り,誘拐したりして連れてきた女性に売春を強 いるというのは、社会通念上,とうてい許され ない行為である。したがって,無許可業者の活 動はもちろん,許可を得ている娼妓等周旋業者 や売春施設経営者の違法行為も取締りの対象と なった。
31) 1937年に記されたある雑誌の記事では,吉原遊
郭で働くことになった者の娼妓登録の「調査は 厳格を極めたものであったとしている。書類 の確認とともに「本人を呼びだして,相違ない かを確めたうへ,親を呼びだし,これまた事実 を確める。ここで,この娘が娼妓になるより仕 方なしといふ家庭の事情あり,と認められて, 始めて許可される」というものだったというの である(御所民五郎「吉原で一番儲かる商売は
何か」『話』 1937年2月)。 32) 内務省警保局「公娼と私娼』 1931年,326~327
頁。 33) 朝鮮総督府警務局『朝鮮警察之概要』 1925 年,
136頁。
34) 大林清 『玉の井挽歌』 青蛙房, 1983 年,18頁。 35)当時の事情を知る人びとから小沢昭一が話を聞
いた内容をまとめた『雑談にっぽん色里誌 仕 掛人編』筑摩書房,2004 年, 51 頁には, 「もう ひとつは誘拐ですよ,むかしは」「ポン引きにひ っかかって入れられちゃうんだ。そういうコも, 3分の1ぐらいはいるんじゃないのかな」とい う 1892 年生まれの老人の発言がある。この言葉 が意味するところの詳細は不明であるが,騙し て女性を売春施設で働かせていたケースが,私 娼窟では珍しくなかったということをうかがせ
るものである。 36)娼妓等周旋業者の活動について,前掲『東北の
窮乏と身売防止』85 頁,には「求職者の開拓に ありては表面的には新聞等に記載する位にして, 裏面に於ては各地方の知己者,縁故者「モグリ」 「玉出シ」的な活動して居るものと連絡」してい るとの記述が見える。
經營学 論集
Vol.61 No.2
April 2022
娼妓等周旋業と慰安婦の要員確保
特に 1920 年代以降には,当局としても取締 りの強化に迫られていた。廃娼運動が盛んとな. り,それは、帝国議会,地方議会でも議論の組 上にのぼった。実際に,日本内地ではいくつか。 の県で廃娼が実現している(と言っても,そこ では私娼が存在したので完全に売春が根絶した わけではない)。また,第一次大戦終結後に成 立した国際連盟や ILO も,人身売買や売春の 強制の規制に取り組んでいた37)。さらに,1930 年代には,昭和恐慌や冷害で凶作に苦しむ農村 での娘の身売りが大きな社会問題として注目を 集めた。新聞や雑誌にも関連する記事が掲げら
れ,社会的な関心も高まっていたのである。
こうしたことを背景に,娼妓等の紹介行為 や,娼妓等としての営業許可での審査や監督, そこでの違法行為の取締りは強化された。日本 内地の,とりわけ,経済的窮乏が原因となり, 多数の女性が「身売り」の対象となっていた東
北地方各県では,行政当局が対策を打ち出して いた。そこでは,娼妓等周旋業者への監督強 化,違法行為に対する厳罰,無免許業者の活動 の絶滅,求職者からの詳しい事情聴取などが指 示されてもいた38)。
こうした施策がどれだけ功を奏したかは不明。 である。悪辣な違法行為をすべて摘発できたわ けではないし、無免許業者についても,むしろ 増えたという噂を伝える史料もある3)。ただ,
紹介を受けようとする女性について,家庭の事 情や前借金の用途も含めて事情を詳しく聞く, 他県への紹介の際には届出をさせるといった措 置を警察がとっていることなどを考えれば40), 許可を得て活動して居る娼妓等周旋業者にとっ て違法行為やそれに抵触しそうな活動はしにく くなっていたことが推測できる。また無許可業 者についても,身売り防止に尽力していた関係 者は「取締の厳重なる今日にては其の活動範囲 縮少せられた」という見解を示している41)。雑 誌記事でも,警察の許可を得た遊郭が並ぶ東京 の吉原について「よく地方で聞く悪周旋屋など といふもの、悪周旋屋と悪楼主の結託などとい ふことは,この世界では,全然起り得ないこと になってみる」と書かれていた42)。営業許可を 得ている娼妓等周旋業者と売春施設経営者の活 動は,警察の監視の中で合法の枠で行われる傾 向が強まっていたと考えられる。
だが,以上はあくまで,日本内地についての 動向である。朝鮮では異なる条件があり,状況 は違っていた。まず,朝鮮には普通選挙も行わ れておらず,日本内地同様の地方議会も存在し なかった。社会団体の活動も日本内地以上に制 限があり,新聞等での意見表明も自由ではなか った。そもそも,日本内地のように新聞や雑誌 が普及していたわけではない。したがって,社 会的弱者の存在を意識した世論が行政当局を動 かしうる回路は,ほとんど用意されていなかっ た。また,国際的な売春等についての規制も, 植民地について除外されることがあった43)。そ
うしたなかで,朝鮮の警察当局は,娼妓等の紹 介にかかわる,悪質な人権侵害等の取締りをす べきであるとの圧力を感じずにいることができ た。朝鮮農民の困窮は日本内地以上に深刻であ り,したがって,女性の人身売買も多数,行わ れるような状況があったはずであるが,にもか かわらず,朝鮮総督府が身売り防止に関連する 特別な対策は樹立されなかったのである。
もちろん,警察官が法令を厳格に適用して業 務に励む,それを督励するというだけでも対策 にはなる。だが,もし,通常以上に警察官が業 務に励んだとしても,朝鮮での娼妓等の紹介に かかわる悪質な行為の摘発は,日本内地と同じ レベルとはならなかったであろう。まず,巡査 1名あたりが担当する住民の数は日本内地に比 べて多かったし,加えて,朝鮮の巡査の過半数 以上は日本人であり,そのなかには朝鮮語の能 力が十分でない者も相当数含まれていた)。そ れゆえに,朝鮮人のコミュニティ内部で密かに 行われる犯罪行為の摘発は,そう容易ではなか った45)。しかも,植民地期の朝鮮では,朝鮮語 も含めて識字能力を持たない者は,戸主であっ
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ても珍しくなかった。売春施設に女性を送り込 むためにとられる悪質な行為は,相手が文字を 知らないことに付け込んでなされる46)。日本内 地以上に,騙しうる女性やその親は多かったの である。
以上のほかに,かなり重要な点で,朝鮮には 日本内地と異なる条件があった。それは,警察 当局が許可を与えた業者が,娼妓等周旋業者と 売春施設経営者のいずれをとってみても少ない ということである。すでに見たように,人口 10万人あたりの数でみても日本内地とはかな りの差があった。つまりは,警察当局が,娼妓 等の紹介や登録が法令にしたがって行われてい るかどうかのチェックをし得る対象者も限定的 だったのである。
もちろん,朝鮮において,無免許業者や私娼 (特に完全に警察が把握できていない私娼)も
また,少ないというのであれば,把握できなか 「った違法行為も問題にするほど多くはないとい
うことにもなるであろう。だが,その可能性は 小さい。困窮している民衆が多数いてそのかな りの数が非識字者であるという条件は、無免許 業者にとっては,好都合であったし,朝鮮内で 私娼を置く売春施設も多かった。朝鮮内の私娼 は 1925 年に 7651 人を数え,これは同じ年の朝 鮮内の芸妓・娼妓・酌婦を合計した数の 6900 人を上回っていたほどでである。ちなみに,日 本内地では,1930 年の私娼は1万2181 人であ り,同じ年の芸妓・娼妓・酌婦の合計は20万 7727 人と,圧倒的に後者が多い。日本内地と 異なり,朝鮮における売春施設とは私娼を置く 場所のほうが一般的であったとすら言えるので ある。
しかも,1920年代以降,売春施設で働かせ る朝鮮人女性の紹介先は,朝鮮外にも広がって
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37)廃娼運動については同時代にまとめられた,伊
藤秀吉『日本廃娼運動史』廓清会婦人矯風会廃 娼聯盟,1931 年,のほか,竹村民郎『廃娼運動 廓の女性はどう解放されたか』中央公論社, 1982 年,などに詳しい。また,歴史研究として は小野沢あかね『近代日本社会と公娼制度:民 衆史と国際関係史の視点から』吉川弘文館,
2010年,がある。 38) 山形県警察史編さん委員会『山形県警察史 下
巻』山形県警察本部, 1971 年,659~660 頁,お よび, 1934年8月24日付山形県警察部長通達 「婦女人身売買防止ニ関スル件」(山形県警察部 編『山形県警察法規』帝国地方行政学会,1940
年,に所収)。 39) 藤田竹治「身売り列車」『婦人公論』1937年3
月,には,取締りで娼妓等周旋業の免許を取り 消された者がかえって「仕事をするに楽」と 1
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\ 度」とは何か』31~33 頁)。 44) 1940年において,朝鮮在勤の巡査2万3897 名
中の1万4826名が日本人であり,そのうち通 訳・翻訳に堪能な者は 785 名,通訳に差し支え ない者は 2979 名であった。つまり、日本人巡査 の4分の3程度では十分な朝鮮語能力を持って いなかったのである(朝鮮総督府警務局『朝鮮 警察の概要』 1941年)。 例えば,朝鮮からの「密航者」(同じ日本帝国の 移動ではあるが,勝手に小型漁船等を用いて日 本内地にやってきて上陸することは取締りの対 象となっていた)は相当に多く,1939年には 7400人が日本内地の警察当局によって発見され ていた。これは朝鮮の海岸から船を出して日本 内地に到着するところまではできた言い換え れば、最低限それと同じ数の者が,朝鮮内の 警察に知られないままに連絡を取り,密かに移 動していたということになる。もちろん、朝鮮 からの密航は,日本内地でのよい職場があると
いった詐欺まがいの話で動く者の活動と密接に 関わっていた。以上については,拙稿「日本帝 国の渡航管理と朝鮮人の密航」(蘭信三編 「日本 帝国をめぐる人口移動の国際社会学をめざして』 不二出版,2008年,に所収)を参照されたい。
して無許可業者として活動していることや,「大 分潜りが殖えた」のではないかという話が記さ
れている。 40)前述の山形県警察部長通牒。 41) 前掲『東北の窮乏と身売防止』90頁。 42) 御所民五郎「吉原で一番儲かる商売は何か」
『話』 1937年2月。 43) 例えば,1921年に国際連盟において採択された
婦女及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約につい て,日本帝国は 1925 年に批准していたが,植民 地については除外していた。この条約では売春 に従事する者の年齢の最低年齢を満 21 歳として いたが,そうした規制は植民地には適用された なかったのである(前掲『日本軍「慰安婦制
46) 前掲『山形県警察史 下巻』656~657 頁には
「紹介する仕事の内容をかくし、貧民の文盲に乗 じて,悪らつな契約書に捺印させ,あるいは白 紙委任状を取って抱主と共謀の上書類を偽造, または変造する者なども珍しくはなかった」と
の記述がある。
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いた。満州や日本内地でも,朝鮮人女性を置くても,大連の状況について「朝鮮ピー(私場) 売春施設経営者が増えていたのである。満洲の の勢力下にある」と記述している史料があ 売春施設では,すでに満洲事変勃発時にも,売 る53)。 春に従事する朝鮮人女性がおり,さらに「事変 つまりは、朝鮮における,売春に従事させる [1931 年の満州事変後6年の間に...半島の女 女性の取引は,かなりの部分,無免許業者と無 が多くなった」。これは「内地から女を抱へて 免許の売春施設経営者との間で行われており, 行くと,旅費や仕込金がかかる」のに対して 警察がチェックできなかったのである。しか 「安く手に入る」朝鮮人が「抱主によろこばれ も,朝鮮では,世論を背景とした取締りの強化 るやうになって」いるという事情があったとさ。 もなく,警察力自体にも日本内地と比べて劣る れる47)。日本内地では,1920年代には青年層 部分がある。となれば,無許可業者による違法 の男子を中心とする在日朝鮮人増加の増加を背 な売春施設への女性の紹介が減少していくはず 景に,売春を行う朝鮮人女性を置いた料理屋が はなかった。むしろ,それで利益を上げられる 出来ていた48)。1930年代にはいると,「朝鮮遊 となれば、新たにそこに参入する,あるいは業 郭」と呼ばれるような区画すら成立し,それが として常に行うわけではないが,機会があれば 問題となって当局が撤去する事態も起こってい それを行う,という者は増えていったはずであ る49)。しかしその後も,各地でそうした朝鮮人 る。付言すれば,合法の枠を意識しなくともよ 女性を置く売春施設は増加の傾向を見せ,在日 い売春施設の経営では,騙したり,誘拐したり 朝鮮人社会のなかで問題として認識されてい した女性を監禁状態で売春させるということも た50)。
ありうる。そこでは親との間での前借金の設定 このような満洲や日本内地の売春施設で働く すら行われない。紹介した業者が売春施設経営 朝鮮人女性は、やはりほとんど私場であった。 者や親との連絡を維持し,女性を働かせるため 同時代の在日朝鮮人社会のリーダーは,問題と の共同管理を続ける必要もない。そうした売春 される朝鮮人女性を置く料理屋について「密淫 施設経営者ととの取引では,娼妓等周旋業者が 売窟」と表現していたし51), そもそも日本内地 通常身に着けるノウハウや専門的な知識もなく では,朝鮮人を娼妓として登録してはならない てもよい。違法な活動を行いそれで処罰されよ という行政当局の方針があった52)。満洲につい うともよいという心構えさえあれば誰でも参入
は可能であったのである。 47) 安藤盛「異境情話 女挺身隊物語」『週刊朝日』
1938年6月1日号。
6. 慰安婦の求人需要への対応 48) 『大阪毎日新聞』1923年4月27日付「潮のやう
流れ込む鮮人の群 十字架を負う婦人の告白」。
以上,娼妓等周旋業の実態,無許可業者の活 49) 『大阪朝日新聞』1932年 12 月22日付「『朝鮮遊
郭』に突如営業禁止」。
動,そしてそれに関わる日本内地と朝鮮との事 50)『朝鮮日報』1936年4月29日付「京阪神朝鮮人 情の違いについて説明して来た。こうした娼妓
問題座談会(1) 門戸閉ざされた玄海灘 “婦
等周旋業者らは,1937 年末頃より本格化する 郷”証明の悪制度」。 51) 『朝鮮日報』1936年4月29日付「京阪神朝鮮人
日本軍による慰安所で働く女性たちの確保に 問題座談会(1) 門戸閉ざされた玄海灘 “帰 も,必然的に関わりを持つことになる。
郷"証明の悪制度」。
占領地等に置かれた軍慰安所は,一般的な遊 52)すでに,1901年に,韓国人を呼び寄せて娼妓と することを認めないとの内務総務長官通牒が出
郭の経営と異なり考慮しなくてよい点もある。 されており,韓国併合後も朝鮮人を娼妓とする。 例えば遊客の入りについての心配をしたり,そ ことは認められないとの方針が確認されている。 少なくとも 1930 年代半ばでもその方針は維持さ れていた(内務省警保局『行政警察例規集』警 53) 『都新聞』1938年4月3日付「北,南支の花柳 察協会,1936年,489, 491~492 頁)。
界」。
こで働く女性の逃亡や引き抜きを警戒したりす る必要はそれほどないであろう。とは言え, 様々なトラブルを予防,処理し,女性たちを働 かせて利益をより多くあげるためには,やはり 一定のノウハウは必要である。だが日本軍は, それ以前から,売春施設を専門的に運営してい たわけではなく,ノウハウを持たない。したが って(後には一部で軍直営の慰安所も設置され たものの)慰安所の必要が認識された時点で は,日本軍は売春施設経営者に慰安所の運営を 任せるほかなかった。日本軍は,資金を提供も 含めて便宜供与を提示し,それに応じた者が,
慰安所経営に乗り出すこととなる54)。
そのように遊郭の経営者らが,慰安所を設 置,運営する場合は,もともと自分の支配下に 置いていた娼妓らをそのまま連れて行くことが 可能である。しかし,それでは人員が足りない となれば,新たに慰安所で働く女性を集めるこ とになる。その際,慰安所の経営者は,誘拐し たり騙されたりしてやってきた,仕事の内容に ついて何も知らない女性ではなく,すでに売春 施設での就労経験者を選好したはずである。そ のほうが,多くの客をとることを厭わず,とい うよりは様々な事情からそれをやむを得ないと して受け入れ,客をあしらうことにもたけてい たはずだからである。そしてそうした女性を集。 められるのは娼妓等周旋業者であり,彼らが活 用されることになる。日本軍にとっても,自分 たちが管理する慰安所で,誘拐されたり,騙さ れたりしてやってきた女性が働いているという のは好ましいことではなかった。その事実が多 少なりとも外部に伝わったならば,大きな問題
となりかねないからである。それゆえ,日本軍 も合法の枠内で活動する娼妓等周旋業者による 慰安婦の必要人員の充足を望んでいたはずであ る。
実際,慰安所で働く女性の需要が発生する と,日本内地では娼妓等周旋業者がこれに対応 した。これは慰安所を経営することになる「貸 席業者」=遊郭経営者の連絡を受けたもので, 活動は 1937 年末に始まった。そこでは「貸席 業者」自身が,他者が雇用している酌婦に対し て慰安所で働くことを勧誘するなど,合法の範 囲からの逸脱もあったが,仕事の内容を隠して の誘拐や,脅しや拉致で女性を連れ出そうとす るといった悪辣な行為はなされていなかっ た5)。ただし,そうした活動は,一部の地方警 察で軍が慰安婦を集めているということが事実 であるのかという疑念や,誘拐ではないかとい う嫌疑を呼び起こし,問題となった。この事態 を受けて,1938年3月には,陸軍省は,軍の 威信が毀損されないよう(つまりは軍の指示の もとで慰安婦を集めている事実等が広く知られ ないよう)業者の選定に注意し,関係地方の憲 兵や警察当局との連絡を取ることなどを関係者 に指示した56)。またその前月には,内務省警保 局長通牒「支那渡航婦女の取扱に関する件」 が,発せられ、一定の基準条件を設定し,チェ ックを経たうえで, 「醜業」のために中国に渡 航する女性への身分証明書発給を行うべきこと が伝えられた。具体的な条件やチェック事項
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55)これについては,永井和『日中戦争から世界戦
争へ』思文閣出版,2007年,の「第5章 日中 戦争と陸軍慰安所の創設」を参照されたい。な
お,娼妓等周旋業者が,すでに売春施設で働い ている女性に対してほかで働くことを勧誘する こと自体も多くの道府県の規則で禁止されてい たが、この点は問題にされていない。トラブル になるような強引な引き抜きではない限り,取
り締まられなかったということかもしれない。 56)1938年3月4日付,陸軍省兵務局兵務課起案
「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」(女性のた めのアジア平和国民基金編 『政府調査「従軍慰 安婦」関係資料集成2』龍渓書舎, 1997年,に 所収)。
54) 長沢健一『漢口慰安所』図書出版社, 1983 年,
51~53 真。なお,永井荷風は,1938年8月8日 の自身の日記に,東京の「水天宮裏の待合」の 「主婦」から聞いた話として,軍人によって北京 に「料理屋兼旅館」を開くことを計画し,「売春 婦 3, 40名を募集」したが「妙齢の女来らず」, 中止したこと,軍部は「1万円位は融通してや る」と言っていたとのことを書き留めている (永井荷風著·磯光一編摘錄 断陽亭日常 下巻』岩波書店, 1987 年,58頁)。
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は,すでに「醜業」についている女性で 21 歳 以上であること,親の許可を得ていること,略 取誘拐による渡航ではないことなどであった。 なお,この通牒では,「醜業」目的で渡航する 女性の「募集周旋」に際して虚偽や誇大な事実 を伝えることへの取締り,正規の許可を受けて いない者がそれに従事することを認めない旨も 記されている57)。慰安婦の確保を合法の枠内で 娼妓等周旋業者が進めるべく,軍と警察当局と の間での調整が行われ,ガイドラインが確認さ れたのである。
日本内地について見れば,軍や警察当局が構 想したこうした統制のもとで慰安婦を集めるこ とは可能であった。それ以前から娼妓等周旋業 に対する社会的な批判の目は厳しかった。そし て総力戦下では,軍の威信を毀損しない,社会 不安を増大させないことは重要な意義を持つ。 警察当局は,営業許可を付与した,つまりその 活動を監督しうる,娼妓等周旋業者の動向に目 を光らせたであろう。他方,娼妓等周旋業者の 側も,利益になるならば軍による多数の求人需 要に応じようとしたはずである。
ここで問題になるのは,1937 年末から翌年 にかけて陸軍が日本内地で集めようとしてい た,慰安婦とすべき女性たちがどれくらいであ るのか,またいつまでに要員を確保しようとし ていたのかである。これについては,「北支派 遣軍ニ於テ将兵慰問ノ為全国ヨリ二千五百名ノ 酌婦ヲ募集」という語や上海派遣軍に対して 「年内ニ内地ヨリ三千名ノ娼婦ヲ送ル事トナリオ との文言を記した史料が確認できる58)。北支派 遣軍と上海派遣軍は別の「軍」であるので人数
は,両者を合わせて 5500 人となる。期間につ いては,後者の「年内」は,慰安所での要員を 集める相談をしているのが 1937 年なので,同 年の末までであると理解できるが,実際には, 日本内地で慰安婦を集める活動は 1938年初頭 も行われている。このようなことから, 1937 年末から,なるべく早く,5500 名を集めると いう計画であったと考えられる。そして要員確 保はなるべく目立たないように遂行する必要が あったはずである。
とすれば、無闇に慰安所で働かないかと女性 に声をかけるわけにもいかないし,そもそもそ れで多数の人員が集まるかどうかは、見通しは 立たない。したがって,計画の遂行は,それは 許可を持つ娼妓等周旋業者のみが担当し,売春 施設ですでに働いている女性から選ぶという方 法に依存するほかなかった。
すでに見てきたように,娼妓等周旋業者と売 春施設で働く女性たちとの関係は紹介の時点で 終わるわけではない。彼らはその後も女性たち やその親に関わる情報を把握していた。どこま で頻繁に連絡して詳しい情報を得ていたかは, 個々人によっても違いがあるだろうが、住み替 えの手数料が得られる機会を念頭において,本 人の働きぶりや,負債額の変動,親の経済状況 なども探って知るのはごく自然なことであった だろう。その情報は,誰であれば慰安所に移動 させられるか,それを希望するかの判断に用い るられよう。つまり,お金がさらに必要になっ たとか,早く完済しなければならない等の事情 があるとなれば,娼妓等周旋業者はその女性に 対して,稼ぎがよい場所があるとの話を出して 慰安所行きを進めることになる。
では,娼妓等周旋業者が情報を持つ、すでに 売春施設で就業中の女性たちはどれくらいいた だろうか。1930 年代半ばの日本内地での芸 妓・娼妓・酌婦の合計は 20万人強で推移して いる59)。仮に半数程度が娼妓等周旋業者を経て
就業に至ったと考えれば60), 10万人程度であ ったと推定できる。そこから 5500 人程度の慰 安婦を集めるのは無理ではない。もちろん,慰 安婦を集める業務の命を受けていたのは日本内 地の娼妓等周旋業者のうちの一部であり,自身 の紹介した女性のなかから慰安婦の候補者を多 数思いつくという者ばかりでもなかっただろ う。だが,娼妓等周旋業者にとっても利益を得 る貴重な機会であり,場合によっては同業者と 情報を融通しあうことによって61),慰安所への 紹介に尽力したはずである。しかも,そうした 娼妓等周旋業者は日本内地では 6000人以上も いたのであり(表 3), 正体不明の無許可業者 とわざわざ接触する必要はなかったのである。 日本内地で慰安婦を集めようとする場合,娼妓 等周旋業者に依頼することはごく自然な選択で あったし,それがもっとも現実的で合理的な方 途だったと言えよう。
では朝鮮の状況はどうであっただろうか。こ の点については手掛かりとなる史料はあまり見 あたらない。そもそも日本内地と同様に,中国 への売春施設への就業のための中国渡航につい てすでに「醜業」従事者のみが許可されたの か,その許可にあたって,親や本人の意思確認 や誘拐等ではないことのチェックが厳格に行わ れたのかなどがよくわからない。
ただ,日本内地のように,営業許可を得てい る娼妓等周旋業者を中心に慰安婦が集められた とは考えられない。なぜなら,すでに朝鮮の売 春施設で働いている女性だけから慰安婦とすべ き女性を見つけることは無理であったと推測で きるためである。すでに述べたように,朝鮮で は娼妓等周旋業者も,芸妓・娼妓・酌婦の人数 も日本内地に比べてかなり少ない。1930年代
後半になると芸妓・娼妓・酌婦の合計が1万を 超える水準となっており,そのほとんどが娼妓 等周旋業者の紹介を経ていたとしても,そうし た女性の数は日本内地の 10分の1の水準であ る。
軍が,朝鮮で確保しようとしていた慰安婦と すべき女性の数をどの程度としていたのかは不 明である。仮に人口に比例して日本内地と同程 度のレベルで集めようとしていたとすれば,日 本内地の3分の1弱の人口規模であった朝鮮で は,日本内地で 5500 人を集めようとしていた 時,つまり 1938年初頭に,少なく見積もって 1500 人程度を確保しようとしていた計算にな る。これも仮にその要員をすでに朝鮮で芸妓・ 娼妓・酌婦となっている者のなかから集めよう とした場合,かなりの無理が生じる。1937 年 末の朝鮮の芸妓・娼妓・酌婦の合計は1万 2520 人であり(表 2), 10% 以上の女性が,い わば引き抜かれることになる。このことが朝鮮 の売春施設経営者に与える影響は小さくない。
もちろん, 1938年初頭に朝鮮から慰安所に 連れて行こうとしていた女性が,1500 人程度 であるかどうかはよくわからない。そもそも, 慰安婦とされた女性がどれくらいで,慰安所に 来る前の居住地や民族別の比率も不明である。 ただ、歴史研究者による検討はなされており, そこで提示された推計はもっとも少ない数字で 6,2万人程度の慰安婦,その2割が朝鮮人で あったというものである。2)。つまり,4000 人 程度が朝鮮人であったということになる。この 数字は最小の推計値であることに注意すべき で,実際にはもっと多数であった可能性もある が,もしこれだけの数の女性を朝鮮半島で集め るとすれば(朝鮮人慰安婦のうちには日本内地 に住んでいて集められた者も若干いるが,それ は少数であると見て捨象しておく),たとえ短 期間でないとしても,かなりの部分を売春施設 で就業していなかった女性から求めるほかな
57) 1938年2月 23 日付,内務省警保局長より各庁
府県長官宛通牒「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル 件」(女性のためのアジア平和国民基金編『政府 調査「従軍慰安婦」関係資料集成1」龍渓書舎,
1997年,に所収)。 58) 前者は,1938年1月25日付,山形県知事より
内務大臣ほか宛「北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関 スル件」,後者は,1938年2月7日付,和歌山 県知事より内務省警保局長宛「時局利用婦女誘 拐被疑事件ニ関スル件」(前掲『政府調査「従軍 慰安婦」関係資料集成1」,に所収」)。
60)前述の青森県八戸市の統計では芸妓・娼妓・
婦等として出稼ぎしている女性 948 人中,「周旋 屋の紹介に依るもの」が534人を占めていた
(前掲「東北の窮乏と身売防止』77~78 頁)。 61) 前掲『東北の窮乏と身売防止』 89 頁には,同業
者間での「玉」つまり,売春施設に紹介すべき 女性の「譲り渡し」が行われていることが記さ
れている。
59) 内務省警保局『第16回 警察統計報告』1940
年。
62)秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,
406, 410 頁。
経営学論集
Vol.61 No.2
さんくさいweeturnしいなんてただでもいいのかというのないもんなん
April 2022
娼妓等周旋業と慰安婦の要員確保
い。実際,軍慰安所を利用した兵士や女性たち そもそも,慰安婦とすべく声をかけた女性が, の検診の担当者も,朝鮮人の場合は売春の仕事 家族との連絡を断ち切られた状態になっていた の経験がない女性が多かったことを証言してい こともある。その場合は前借金の話自体を持ち る63)。
出す必要もなかった64)。 しかも,朝鮮ではそもそも娼妓等周旋業者は そのようにして女性を騙して連れてきた者は 少ない。娼妓等周旋業の開業は一定の経験が必 慰安所の経営者にその女性を引き渡せばそこで 要であり,慰安婦の求人需要が増加したことを取引きは終了となる。騙した者が継続して親と 受けて,急に参入できるわけではないので,こ の連絡を取りながら女性が慰安所の仕事を続け の時点で増加したとも考えられない。したがっ るように共同管理を行う義務も必要もなく,慰 て,娼妓等周旋業者を通じて,彼らがかつて紹 安所の経営者も、暴力と脅しで女性に売春を強 介し現在も売春施設で仕事をしている女性たち . 要し続けるだけである。付け加えれば,もし, に声をかけても,それほどの人員を確保できな 慰安婦が酷い扱いを受けて仕事ができなくなっ い。結局,朝鮮で慰安婦を集めようとすれば, たとしても,慰安所の経営にはさほどの影響は 無許可業者に依存し、売春の未経験者を集める ない。前借金が設定されていない=投資が行わ ほかなかったのである。そして,必要人員の確 れていないためである。朝鮮人慰安婦が慰安所 保はそう簡単ではなかったはずであり,軍から で想像を絶するような過酷な経験を強いられた 依頼を受けた無許可業者はさらに同業者や知人 のは,こうした事情が関係していると見てよい と連絡をとり,慰安所に送り込むべき女性を探 だろう。 すほかなかった。
このように,娼妓等周旋業者が少数であった そうした無許可業者の活動については,その 朝鮮では,日本軍は彼らだけを用いて,合法的 地域の警察当局によるコントロールは難しい。 に慰安婦を集めることは,困難であった。それ 厳罰を下すことを背景に活動を合法の範囲に誘 ゆえに,無許可業者らが主に任務を担うことと 導することも不可能だし,そもそも誰がそのよ なり,違法な手段を用いて女性を集める行為が うな活動をしているのか自体も警察は把握でき 横行することになった。日本内地と異なる条件 ないからである。また,軍も,直接依頼した相 が,朝鮮における慰安婦の確保における,統制 手との連絡,統制は可能であろうが,下請けで 不能を生み出していたのである。
動く無許可業者らについてはそれが誰であるか
7.まとめ わからなくてもおかしくない。そのようなか
一国家責任の議論の深化をめざして で、無許可業者やその下請けを担う者が,虚偽 の好条件を伝えたり,仕事の内容を隠したりと 本論文では,娼妓等周旋業の業務の内容や経 いった手段を用いて,慰安所に送るべき女性を 営の実情について史料をもとに論じてきた。先 確保する,ということは大いにあり得た。 行研究では,それについて,誘拐や虚偽を伝え
また,騙して連れていく,しかも本人も親も て売春施設に女性を売り飛ばすといった悪辣な 字が読めず近代的な教育を受けていないとなれ 行為ばかりが語られて来た。確かに,娼妓等の
ば,多額の前借金を設定する必要もなかった。
64) 例えば,宋神道は,親の決めた婚姻が嫌で婚家
から逃げ出し,子守などをしていたところを騙 63) 軍医であった麻生徹男は,ジャーナリストの千
され、「紹介所」に連れて行かれ慰安婦になった 田夏光の取材において,自分が検診で見た女性
ことを述べている(アクティブ・ミュージアム のうち,朝鮮人については「無垢の女性,つま
「女たちの戦争と平和資料館」編『証言 未来へ り処女が多数その中にいました」と述べていた
の記憶 アジア「慰安婦」証言集I 南・北・ (千田夏光『従軍慰安婦 “声なき女”八万人の
在日コリア編 上』明石書店,2006年,43~45 告発』双葉社, 1973 年, 32 頁)。
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周旋では,そうしたことが行われることがあっ たことも事実である。だが,それは,摘発され れば厳重に処罰される犯罪である。当然,娼妓 等周旋業は当時の合法の範囲内で、売春施設経 営者に娼妓等の紹介を行っていた。そこでは, 紹介すべき女性が問題なく仕事を行い得るか等 を判断し,その親との間での前借金の設定の交 渉をまとめるために,経験で養われる知識や判 断力が求められた。そして、紹介した女性が売 春施設で働き続けるべく,本人とその親との連 絡を維持してもいた。
日本内地ではそのような,合法の範囲内で活 動する娼妓等周旋業者が多かった。彼らに対し ては警察当局の側は監視し,違法行為があれば 罰則を下すことが可能であった。これに対して 朝鮮では合法的に活動する娼妓等周旋業者の数。 は少なかった。このことが日本内地と朝鮮にお ける慰安婦の求人需要への対応の差となる。日 本内地では,娼妓等周旋業者を用いて,すでに 売春施設で働いている女性たちから慰安婦とす べき者を選ぶことができた。合法の業者として 届出ていた彼らの活動を警察当局がある程度把 握し,統制することも可能である。だが朝鮮で は,売春未経験の女性を無許可業者に依存しな がら集めるほかなかった。彼らの活動は警察当 局が十分監視できるわけではない。そのなか で,騙して女性を慰安所に送り込むなどの悪辣 な犯罪が横行したのである。
これまで,慰安婦がどう集められたかについ て語る際,「業者」は実行部隊であると見なさ れてはいたものの,それはあくまで軍によって 手足のように動かされていた存在として語られ て来た。しかし,これまで述べてきたことを踏 まえるならば,まず,慰安婦を集めた「業者」 というのが,娼妓等周旋業者であるのか,無許 可業者か,あるいはそのさらに下請けの者であ るのかに注意すべきである。すでに見たよう に,朝鮮では,多くの場合,それは無許可業者 やその下請けの者である。そして彼らは,依頼 者である日本軍人から,誘拐せよとか騙して連 れて来いと言われるまでもなく,それを行いう
る条件があるなかで,しばしばそのような手段 を取っただろう。つまり,朝鮮での慰安婦を集 める際に起きた犯罪は,その担い手を官憲がコ ントロールする条件がない言い換えれば,手 足のように使えなかったゆえに起きたと見るべ きである。
同時に,これまで述べて来たことから,慰安 婦は当時の合法的な公娼制度のなかで民間の 「業者」によって集められたのであり,自由な 契約のもとで商行為を行っていたので問題とす べきことはないというような議論が一部に見ら れるが65), 少なくともそれは朝鮮においては成 立しないという点を確認することができる。日 本内地の公娼制度のもとでも,娼妓等となる女 性たちが自由意思で売春を行ってお金を得るこ とを選択したのかは疑問であるし,その点をも し論じないとしても,そもそも朝鮮では行政当 局が女性の人身売買を把握し,管理する体制自 体が十分には整えられていなかったのである。
日本帝国が少なくない朝鮮人女性を慰安婦と したことを問題する論者も(もちろんそれは極 めて深刻な人権侵害である),そうではなく彼 女たちは自由意思で商行為を行っていたという する論者も(そんなことをする人びとがいると は到底考えられないのは通常の感覚があればわ かりそうなものであるが),おそらくともに日 本帝国が朝鮮に持ち込んだ公娼制が広く社会に 定着しそのなかで,行政当局が管理,把握する 娼妓等周旋業が発達したように考えている。だ が,植民地朝鮮の実情はそうではなかった。行 政当局が社会の隅々で行われる売春と女性の人 身売買を十分に把握し,管理していたわけでは ない。言い換えれば,植民地期の朝鮮を日本内 地並みの近代的な社会であったかのように考え るのは誤りであり,慰安婦の要員確保について 議論する際にも,その点を見据える必要があ る。
なお,朝鮮の行政当局が直接,かつ計画的に
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65)例えば,李栄薫『反日種族主義』(文藝春秋,
2019年)など。
頁)。
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経営学論集
Vol.61 No.2
慰安婦の要員確保を行っていたわけではないとを集め続けたことも推測しうる。その点におい いう本稿の見解に対しては,日本帝国を免罪し て,日本帝国の責任は厳しく問う必要がある。 ているのではないかという疑問を持つ者もいる 最後に付け加えれば,粗暴な犯罪によらずに かもしれない。しかし本稿で明らかにしたこと 売春施設に女性を紹介していた娼妓等周旋業者 は,慰安婦の要員確保をめぐる日本帝国の責任 の活動も,警察当局が統制しうる合法の範囲で をより精緻に把握する前提となるはずである。 あったから問題ないというわけではない。彼ら 植民地支配下の朝鮮では多くの者が経済的に困 の存在は売春施設で働くべき女性の情報を流通 窮し,売春施設に若い女性が売られるような状 させ,そうした女性を商品として扱い、円滑に 況が生み出された。のみならず,売春施設の経 取引きする上で寄与していた。さらに,紹介し 営やそこに女性を紹介する行為に対する取締り た女性たちについて,彼らはその親と売春施設 も,あるいはそれについて合法の枠を設定して 経営者との共同管理を続けた。娼妓等周旋業者 警察当局が統制しうる体制を築くことも十分に の存在は,社会不安を生み出すような誘拐等の はできなかった。そのなかで大量の女性を慰安 犯罪を伴わずに,女性たちを売春施設に送込 婦として集めたため犯罪行為が横行し,その取 み,逃げられないまま売春を強いる仕組みを維 締りも徹底しなかった。それらのいずれもが日 持する上で不可欠であり,そこに大きく寄与し 本帝国の責任と言える。
ていた。そして彼らによって売春施設に送込ま しかも,朝鮮の警察当局や憲兵は,女性たち れ,管理されていた女性たちも,むき出しの暴 が騙されて慰安婦にされていることを知り得る 力で支配されていた慰安婦と同様に,後々まで 機会が多々あったはずである。言い換えれば, 心身に傷を負って人生を送ることになったであ 彼らが違法行為を黙認していた可能性はかなり ろう。娼妓等周旋業について論じるとすれば, 高い。また日本帝国の陸海軍の枢要な地位にい その点を忘れるわけにはいかない。
た者も,そうした朝鮮における慰安婦の要員確 保の実情を知っていたとしてもおかしくない。
(受理 2021年9月 22 日) むしろ,それを前提として,朝鮮で多く慰安婦
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