【シリーズ戦後80年】特集「南京事件」(笠原十九司)
『荻上チキ・Session』TBSラジオ
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【出演】笠原十九司さん(『南京事件 新版』が話題、都留文科大学名誉教授)
【特集】シリーズ戦後80年 特集「南京事件」
2025年8月11日(月)放送分
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発信型ニュース・プロジェクト「荻上チキ・Session」
★月~金曜日 17:00~20:00 TBSラジオで生放送
パーソナリティ:荻上チキ、南部広美
番組HP:荻上チキ・Session (https://www.tbsradio.jp/ss954/)
番組メールアドレス:ss954@tbs.co.jp (mailto:ss954@tbs.co.jp)
番組Xアカウント:@Session_1530 (https://x.com/Session_1530) ハッシュタグは #ss954 (https://x.com/search?q=%23ss954)
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2,851 episodes
荻上チキ・Session~発信型ニュース・プロジェクト Podcast
『荻上チキ・Session』TBSラジオ
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Transcript
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TBS ポッドキャスト [音楽]
発信型ニュース小木上チキセン [音楽]
シリーズ特集南京事件南京事件とは日中戦争のさ中
1937年12月に日本軍が中国 の南金を進行を占領した際に多数の中国兵
や民間人を殺害したとされる事件です。
財務省のホームページでは南金事件につい て日本政府としては日本軍の南金入場した
1937 年の後、非戦闘員の殺害や略奪行為などが
あったことは否定できないと考えています 。しかしながら被害者の具体的な人数に
ついては諸説あり、政府としてどれが 正しい数かを認定することは困難であると
考えていますとしています。 一方、一部のメリアやSNSなどを中心に
南金事件を否定する歴史修正の動きが 相ついでいます。
で、今夜は長年日中戦争や南京事件を研究し、岩波新書南京事件新判が話題の笠原徳さんに今の思いを伺います。
今回お話を伺った笠原徳さんは 1944年生まれで現在81
歳です。え、数年前に事故に現れたということで、え、今日は事前のインタビューという形でお話を伺いました。
はい。 まずは笠原徳さんのプロフィールをご紹介したいと思います。 はい。笠原徳さんは鶴文化大学名誉教授の、え、笠原さん。ご専門は中国近大使、日中関係士、東アジア金大使です。
1980年代初めから40年近くに渡り、 南京事件の歴史を研究なさっていて、南金
事件に関する著書も数多くあります。 そして岩波新書から発売中の南金事件新判
が話題となっています。少しだけ インタビューの紹介をする前に歴史的背景
を簡単にご説明したいと思います。 1931 年満州編、え、こちらによって日本が今の中国の東北地方満州を占領し、え、海来国家満州国を建告するということになります。この満州自編の経緯というものは多くの方も学んだことがあるのかと思います。
はいえ。 その後1937年7月7 日路教事件という出でき、こちらで日本と中国の戦争全面化日中戦争が始まります。
この時の中国、中華民国では紹介が率いて いるという状況になっていました。で、
日本と中国の全面戦争で、え、1945年 の8月の日本の幸福まで長い戦争があり、
え、こちらを15年戦争という呼び名も ついていますね。で、南京事件というのは そのさ中日本が中国を進行し、市首であっ
た南金士を占領する際に起きた事件という ことになります。 で、南金大虐殺、それから南金事件という呼び方があるんですが、あの番組では今回は南金事件という言葉を使ってますね。はい。
これ、あの、笠原さんの本にも書かれてい ますし、また昨々な研究者の方も指摘して いるんですが、南金大虐殺というのはまず
あの虐殺というのが非常に広くそして 大きく起こったということは確かなんだ けれども人を殺したというだけではなく、
その間窃盗であるとか合姦であるとか様々 な行為が行われており、人を殺傷したと
いう行為にのみ着目をするという意味では 大虐殺という言葉になるのだが、より広く
この実験や実態を構造的に明らかにすると いう観点 から、え、近年南金事件という言葉も使われています。
で、一方で大虐殺はなかったという風に主張したい人たちも実はこの南金事件という言葉を使うこともあることから否定論者も使うような場面があるということまでもあるわけですね。
しかしながらより広い構造的な暴力を明らかにするという観点から、え、今回は南金事件ということを使っております。では一体この南金事件どういった事件なのか原徳さんにお話を伺っています。
その南金事件とは何かということと、なぜそこに日本軍がいたのかということについて教えていただいていいですか?
あの私はね、あの、ま、 9盤があれかな、あの、あ、
9盤もあれだな、9盤の南期事件も 1997年に はい。 やって、で、それは本当ロングセラでもう
17釣りまで行って2000えっと 17年までかなずっとロングセラでそう
いうの歴史学会では一応私の南期に事件の その9盤がね一応通的に受けられていて
ですから私の場合は歴史 のあれですよ現稿頼れる
んですよ。 あの、どういう事件かっていうね、え、ことをちょっと紹介します。これ、あの、
はい。 えっと、角川書店のあの日本時点ちょうど
ね、千倉のね、えっと自書で新番川 日本時点で、え、門川書店から1996年
に、えっと出版されたあ、あの事書なん ですが、そこで南金ちょっと書いてあり
ますので はい、読ませていただきます。で、この タイトルが南京大虐殺で日中全面戦争の
初期に中国国民政府の人と南金を攻略した 日本軍が中国軍民に対して行った虐殺合姦
略奪法火などの残虐行為 1937年昭和10年12月1日大本衛は
上海派遣と大事軍よりなる中島方面軍
松岩根司令官に南金攻略を命令。日本軍は
激しい戦闘の末12月13日南金を陥落さ
せ以後長期にわって占領を続けた。当時 南金には数十万の市民難民がとまっていた
が日本はこれらの非戦闘員を巻き込んだ 法位殲滅戦を行った。犠牲者で最も多かっ
たのは海山兵不省兵 捕虜の状態にあった中国兵である避難脱出
中に殺害されたり日本軍の暫的相当戦に よって集団的に虐殺された市民の規制も
多かった女性に対する合姦及び合姦殺害も 膨大な検数を数えた。ため日本軍東局は
対応として住軍慰安婦施設を設置した中国
軍民の規制者は10万以上と言われる るっていう あの事書の説明ですがまこれが一応大体
あれですね南金 ですからあの日本軍の場合はあのこの経過
をちょっともうちょっと話した方がいいと 思うんですが はい あの南金をすれば中国がクするっていう。
その前手的に痛みつければクするっていう そういう意味であのまあ徹底的にあの
打撃っていうそう その打撃が経中の軍だけでなく民主党
も含めて殺害してくまだなっていうこと ですよね。
うん。この中にはその虐殺の中に具体的な殺害ではなく例えばその合とか略奪とか、ま、こうした日本軍が現地調達を前提としていたことなどから起きた色々な出来事野番な行為が生まれてるんでしょうか?
はい。そうですね。だからこれはそもそも南京攻略戦があの最初の作戦になかった作戦なんですね。あの
うん。1937月7日にあの北京のね路教
事件が起こってでね、路行教事事件経気に あのま戦争日本の場合北地っていうねあの
北ねえ 起こった戦争でその時日本のあれかなあの
作戦を指導していたのが石原で うん 石原はま日本の軍事の中ではかなり
合理的な判断をしていて彼は対戦ですね。 これはあの最大に日本陸軍のあの目標して
ましたから。だから中国であまりあの余分 なことをやって消耗したいけないっていう んでえっと原事
は不だま 6で一応で戦闘やるけどそこでもあの
終わる彼は作戦だったんですね。はい。 で、その時今度野神家がいてムと藤明っていう
今度医者原幹事がえっと 3 本ホームの作戦部長で作戦課長に無と明ってここにねあの写真が出てきますけど彼は野信家で
うん であの中国を叩けば中国がクするっていうその野心が持つこれはあのも明の場合は満州事簡単に言ったでしょ事編は介石
無抵抗主義抵抗しなかっ たって うん。 だから監督があの消数で持って安すと
でもそれはム明は結局日本軍に恐れて中国が抵抗しないっていう中国見りをやってるわけですよ。
うん。うん。 で、そこで、えっと、 6 始まって、で、副大なんだけど、あの部下の元の際やってんで中国ね、あの、叩けばクするっていう拡大をやって
[音楽]
で、その全部周りを発で持って、あの、集結してくわけですよ。
うん。うん。 で、結局、あの、その後だから石幹治との大派と元明っていうあの対があって無藤明となく始まった以上南京を叩くっていう論理で行くんですね。
うん。南金事件のその定義あるいはどういった出来事があったのかというまずは概要お話を伺いました。そして南京事件が至る前そもそもどうして南金に日本兵たちが送られることになったのか。
日本軍がそこを攻めたのか。その背景にある陸軍内の派閥ということについても触れていただきました。
え、それに加えて実は海軍も海軍の思惑があり、海軍と陸軍とか、え、それぞれそれぞれの成果を巡って、え、思惑がぶつかるという背景もあったということを説明してくださいます。その音声も一部お聞きください。
またあの話がちょっと先になるんですが、海軍の場合は山本 6が うん。あの、大変重要な人物で
彼、あの、あの、あれかな?あの、海面派でね、 平和主義っていうわけ、全く実は違って、で、彼はロンドン海外国軍に参加しますよね。それで彼はロンドン海軍反対なんですよね。
日本はワシントンカイもって軍艦ですね、 あのとか空母
を制限されて今度ロンドン海軍条約ではあの補助官
はい。 制限されたっていう。で、そこであの山本がも戦争はもう軍隊あの巨ねあいう時代じゃなくて航国 [音楽]
うん。 空軍の時代これあの第1 大ねそれも彼は選の目があってであの海軍のあの国部隊 [音楽]
はい。これを彼は育てよっていうアメリカ の航空決算に勝てる海軍って言うんでで
そこでえっとまずこうえ海軍航空本部議長 あの地位でも長距離爆撃の開発を彼は指令
するんですよ爆撃発信する公益の開発これ
があの1935年にあの完成して
で正式が36年なんですよ。 はい。 で、そうといや、もうイロたちはもう使いくてしょうがないわけ。
うん。 試したくてね。 戦争が起こらないかっていうことで 36
年やってで、あの、もう待機までしたんだけど結局、ま、陸特に石原事が反対してできなかった。
はい。 で、路行が始まって日中戦争が始まった時もこれはチャンスだったんで海軍はねもう陸軍の核大派と不大で揉めてんだけども全く違ってもう海軍は完全にね対を海軍もあの一眼となって
で今度これをあの上海に戦争広げるってこれまたあの日本の軍ってのはね
海軍と陸軍が もう完全にセとええ。 だから結局陸軍も海軍あのね、海軍のあの後での戦争ね反省した人たちが言ってるんだけど陸軍も海軍も陸軍海軍があって国がなかった。 [音楽]
うん。 だから国よりもとにく海軍がいかに陸軍に対抗して はい。 あのね勢力軍拡大するかそういう対抗で最後までそれでしょ。
隊やでまたあの航空兵隊かな作るっていう全くまた騎士も違うしね。
そういうあの日本の前軍部の陸軍と海軍が対抗してでお互いがうん。
あの勢略を競めやった。それがあの日本軍の本質なんですよね。
うん。 どうして南金を攻めることになったのか。 その殺分けその日本軍の中での派閥であるとか陸軍海軍の惑について説明だきました。陸軍は陸軍で新長波としかし閣長派とそれぞれてそういった政治
対立があった一方で海軍は自分たちの手柄が欲しいあるいは自分たちの武器を使ってみたいというまそうした惑などが積み重なった。
ま、その中で、ま、いくつかの事件が 重なり、日本はその上海を攻め、え、その 後はさらに敵の戦争意思を、ま、挫折さ
せることを目標としてその戦というものが さらにこう拡大をしていくということに
なるわけです。ではこの実際に日本軍が 南金に向かうまでどういった行為が行われ
ていたのか、資料から分かる当時の舞隊の 様子などについてお話を伺っています。
軍層は戦争したかったと。で、なおかつ論 というもの非常にご強になっていた。
しかも準備もあったし、手柄も欲しいという思惑もあった。 で、それがその南京事件を引き起こす、ま、その要因として繋がっていたということになるわけですね。
そうですね。だから、だから上海でもまずあれでしょう、あの呼べって年のね、高齢者のやつを社ね取でしょ。
で、彼ら戦が終わったんでようやく うちに帰るかと思ったら思いきは全く
違け藤 明と松井岩 でさらに
上陸でやった10軍の司令官がこれが柳川
平介例の226事件で うん 祝軍された はい その祝軍されたのがまた抜擢されるわけですよ
はい だ彼はもう南期にだからちょう 3人揃っちゃった。
うん。 わけですよね。野神家が。 ええ。 だからそういう意味でもう戦いに疲れてそれでもうちに帰れると思った兵隊がもう南期に行けっていう。
うん。 それもあれですよね。とで思って あのであとは全くあれかなそれもあの彼らあの兵士は夏来てるんですよ。
ええ。夏来てるのにその夏論はでかかつ あれかな全くね方面軍としては全くあの
停才になってないっていうから元々派遣 てあのもっと小さい部隊ですかねそれから
中の方面となったけどそれ感じな 兵坦平坦部 あの輸送もない
それからさひどいのはねあの け
はい あのか兵士の こお取り憲もないわけですよ。
うん。 だからいきなりね、あの中の本になったけど肝心なホム部もないし
ああ とが1番の場合輸送部隊がない。 あ、物資がないし、現地調達しろと一
歩で取り締まり違法行為を取り締まるような憲もいなかった。 うん。その無謀なのがえっと早から南期まで
300kmか。 うん。うん。 それをね、全部あ、歩きで はい。
あの、強行するっていうで、そうとまずはあの、食料は現長だね。
村を襲ったりとか。 うん。で、それからもうあのどんどん寒くなってくんで、で、そうすると野外設備も野営設備もないわけ。
あの、テントもね。 外結局民家に入ってくっていう。 うん。 で、民家に入っていって、えっと、ま、大体男者に逃げてるけどね。
あの、女性とかなんとかいるけど、もし誰かいて危なければ殺しちゃうっていう。うん。
それからまた民家に入ってけばあの女性がねいればでそれは豪華するっていうまさに無法の軍隊になってあの南期に向かってくでさらに平線でものすごい損害を受けてるわけでしょ。
はい。 で、そうと各部隊がね、全部補充するんですよ。 うん。 だからあの結局ま軍隊はね、あの現地軍があの損傷あれば次々とその本拠のねとこからある連帯のとこから補充兵を送ってくれ
だからその補充兵をまた送るわけでそうと 先頭にま一応本体が住んでこの補充兵がねあの後から来んだけど補充兵は全然あの軍隊の
うん 帝王のさで集団でくからそれがまたひどいことやる あ、第2波第3波と
うん。うん。で、官もいないしね。で、そういう補充兵がまた勝手に民家にやってる。だからあの中島方面軍は無理なの攻略性をやる途上でもう残虐行為とか略奪も積み重ねていってその集体制の結果が南金の残虐にね、繋がっていくっていう。
それあの状況になりますよね。 南金所攻略後に起きた混沌ではなくその間もう略奪などをある種学習してしまいなそれをこう止めるものもいないという環境が引き起こした的
[音楽]
これ南金事件というものは一般にその例えば入場以後の出来事だという風に語られることも多いですが実態的に見ることが必要だということですか?
そうですね。 あとこれ後であの犠牲犠牲者数の問題になるけど
あの少なく見る人はできまめようとするわけですよ。 そういう意味であの南期戦のね南京事件のあのげ戦場とかなどう見るかっていうそれの問題にも繋がるわけですよね。
ええ。 はい。鶴文化大学の笠原徳さんにお話を
伺ってる様子聞いていただいてますけれど も、そもそも今南金に入場する前の段階、 南金にたどり着く前の段階からそもそも
日本軍は軍としての停載を保てずも行われ ていないので武士などは現地調達に現地
から盗む奪うということをするとでなおか それを取り締まる憲兵がないので秩序が ない。え、それからあの次から次へと人が
やってくるので統一もないと。え、その間 300kmこう歩かされるので日本兵も あの非常にこう、え、ヘトヘトになり
ながらも野行為をこう借り立てられると いうそう状況があるということを、紹介し ていただきました。では
南金事件一体どういった出来事が起きたの か、到着してからはどんな行為につがった のか伺ってます。
実際の、え、被害者の数や虐殺の実態というのはどうだったんでしょうか? まずね、南期の場合は徹底的に痛めつるっていうで、それがあの中方面の戦略であってで、さらに法位殲滅戦っていうんで、ま、当時のね、人ですから
[音楽]
[音楽] うん。 人をね、落とすっていうためにこれあの地図でね、あ、これ地図書いたけどまさに各手段が周り中から [音楽]
はい。 あの放意してくっていう そういうあの体制 ですよね。
はい。 ま、中国の殲滅と同時に逆にそこにいる民も含めて殲滅しちゃうわけですよね。
はい。 そういうあの点で戦略まずほい攻め積んであったっていうのとそれから日本の場合はあのこれ後であるけどま日本はもう国際戦事法なんて全く守らないっていう
まさに無法 国家の軍隊であって だからね捕虜とかねあの排山兵とかそれはもうあの戦いをやめて放棄してであの戦闘をやった
人はもう逆に保留として主容して保護し なきゃいけないっていう。これはもう当時
のね、あの国際戦場であるわけですけど、 全くそういうことはあのやらないでさらに
日本軍の場合はあの彼の言文は自分たち 食料がないんだっていうで捕虜をね千
捕まえたってほなんか 安くことはできないっていうんででも ま本音は徹底的にもう中国兵いものはあっ
たものも含めて保全部殺し ていうううん。 こういうもう国際戦事法なんか一切あの守らないっていう。そういうあの軍隊であったんですよね。
うん。うん。 それでまたあの、あの、ま、戦闘の場合はあの相手の中国の南京防衛軍もまた
問題が、ま、だ、総合的にね、あの、原因はできるわけですが、今度あの中国軍の事情をやると、あの、ま、とく紹介先は日本軍がもう、あの、空爆でね、どんどん破壊されていくっていうで、紹介も自身も危ないっていうと
で、で、最後まで残ったけど 12月7 日に彼は飛行機でね、南金を脱出するんですけど
うん。 で、紹介とすれば結局簡単に南金を放棄して占され今度消費席のもう政治的生命が当然あの国民から反発もね、ます。
それからあと紹介の場合は彼の戦略がとそらく国民政府中国が単独では勝てない。だから日中戦争にアメリカとかイギリスとかフランスを引っ込むか特にアメリカですよね。
それがあの消化席の戦略ですか?で、そうするとできるだけ形だけでもいいから南金をちょっと維持しておいてで占領されるっていうでそこであのアメリカとかのま干賞を呼ぶっていう
[音楽]
そういう狙いだったんだね。 で、そこでね、彼は最後の幹部を集めて、あの、あれか、あの、防衛線をどうするかっていうことをやるんだけど、全部塩の幹部はもう撤退論。
うん。 もう抵抗なんかできないっていう だ、そこにまた野神家がいるんですよね。 ああ。
それがあの統地っていう、え、勝手のあの紹介の冒険ってよりむしろ反紹介で国民政府に合流した統地っていうね、将軍なんですが [音楽]
彼がねとばかり手あげて うん。 私が命をかけて守みますって。
ま、紹介の場合もそん時はあれですね、名目的な抵抗っていうで、そこでえっと幹部がね、誰も手を上げなかった時統制地が私が南金をしますっていう
うん。 で、その統制地勝ってね、国民革命時代の地方軍であって近代的な戦闘も何も経験ないわけですよ。その点では松井岩とそっくり。
松井は姉も近代戦のね うん。 あの指導なんと全くそから大戦争の戦闘の経験中ないわけですよ。
はい。 一方値も全くなくてで自分がんでで先は渡り船で
うん。 それであの 当選地に任して自分たちは 112月7
日に飛行機で脱出するんですね。 はい。 で、そうするとあの地はとシっていうことだけ言ってでさすためにね、あの南金からあの攻めてくるでしょう。で、候からね、本当逃げるっていうこから逃げる船も全部あの選手を没収しちゃって
[音楽] うん。 で、渡らせない。だからとく南金の無県を支守するっていう
はい。 う、覚悟持ってあのいるわけだけど結局あの [音楽]
うん。 あれかな、あの統制地もそ近代線の経験がないから一番難しいのは撤退なんですよね。
はい。 だ撤退性の全く経験がなくてで師匠しって言っておいたらもう全部日本がもう囲んでるわけですよ。
で、結局ね、山、彼はあの船をでもね、撤退させておいして幹部用に残したフレンド持って最後脱出せよ。
で、そうともう司令部がいないわけですよ。 ええ。 で、司令部がいないともう結局何万っていうあれかな。あの中国の防衛軍がもうさをしちゃうわけですよ。
で、あの日本が攻めてきたんで、今度もうパニックになってずっとあの候の方にあの視野館っていうね、超コのに逃げて
[音楽] 行くんですよ。 で、そうするとそこも大混乱で
取り残されて追い込まれたこですもんね。 はい。はい。で、そこにまたね、今度あれかなでもってね、あの候の火流から今度また違う舞台があの来るんですよね。
うん。うん。 だからあの釣候に逃れてだらもう船がないとでなんとかしようと思ったけどまだ火流から来ないってね。
で、火流にみんな逃げてたこの火流からこのあれかな、 あの13のあれが遅れたやつが
うん。 来てまた追いかされるわけで はい。 で、あのみんな必死になってなんとか日本軍のあ、あれかなからって言うんで必死になっていかが板とかね、あの集めてでから逃げようっていうことをやるわけですよ。
うん。 で、そこにまた今度海軍の艦隊がずっと社から登ってきて [音楽]
はい。 で、まさにマンと民主がね、証拠で本当もう昨日昨日のままで死なって逃してるのを
もう期間中でもってあ、あと気重か。 うん。うん。 もう面白にだからその時はあの海軍のね数だと
1万2万2 万ぐらいっていうだ全部長が染まったっていう。うん。
で、それは全部あれかなの流されたから死体は分からないんですよね。
うん。うん。で、もう1 つは、あの、超こ、あの、火流に逃げたんだけど、向こうからこのあの遅れたね、あの段が来て、で、そこであの結局と交降参しちゃうわけですよ。そこで保になっちゃう。
で、それがもう1000万の 捕虜になってしまって、で、その保になったのを今度はあれかな、処するわけ。
うん。で、さらにあの松井岩はせ、あの、 12月13日に一応攻略したでしょ。
はい。 で、そうするとみんなあの日本の前もこってあの注目していてで、さらに日本の場合はね、なんよ、ゲームでも見るように
あの報道で持っていつ落ちるかってね。だから松井はね、 13日に陥落してあとは入場式。
はい。 これはあの早くやりたいわけですよ。 うん。 で、あの、13時にしててで、
17 日にも入場式で、松井はかなたにいるんですよ。
だからあの、現場にいないんですよ。 うん。 で、はるか、あの、遅れていて、それで、あの、で、
17 時日に松井とセロは二でかっこよく自分が
あの、南金に入場するで、それを一切にね、 メディアを報道するっていうそちらにも彼は
うん。うん。 あの、もう頭来てだから現地のね、実際やってるのが反対しても全然効かないんで取れない。
はい。12 月11 日に入場式でさらに今度あの中ホーム軍が派遣と第
1 軍ができて中島軍の司令官が木で今度上海派遣のね司令官が朝野宮って高速
うーん。うん。 で、そうすると上海派遣のあの司令官が皇族の朝野宮でそらにね、あの入場式の時のあの逆にあの防衛が厳しくなるんだけど
はい。 メンツありますもんね。 うん。 だもし皇族の朝野宮がなんかあってはいけないってね。過剰なあの相当戦っていうもう残った兵と思うも男子も含めて全部殺しちゃう。
てはい。 だから入場式のため松井姉が冷く入場式を設定しためにそれでさらに社派遣の司令官が朝野宮の高族であるっていう。
うん。うん。 で、そのためにまさかのがあってくの過剰なで、これはもうね、南金場内そ周辺もそうだけど徹底的ですからその南期入式のためのあの、ま、安全なっていうに無数の青年男子が
[音楽]
うん。 兵隊でもないのに殺されていくしそれから排兵の場合はもちろんですよね。
で、排山兵の場合は1 番規模大きいのはあれかな、あの後から来たあの
13 段のね、えっと、あの舞台になるんですが はい。
あのそのあ、山田隊ですね。これあの高校沿いから来てで多量なあの改山兵とか難民ここで捕まえて
うん。うん。 で、そこであの処刑しちゃうわけで、 1 番簡単なのが、あの、このね、村さんっていう貴重なカメラマンがやったけど
[音楽] はい。あの、釣候に連れて行って、そこで
あの、先位であの、集めてで、周りで持っ て期間であの、囲んで、期間中で殺してで
、さらにあれかな生きてる、あの、重なっ てね、生きてるやつがいるからその生存者
を死体の山をあの、踏みながら、あの、 生きてるやつを殺した上で、さらにこの薪
を燃やして、で、薪を燃やすと今度はあ も肉も焼かれちゃって
軽くなるんですよ、死体が。 うん。はい。 そういうで、今度あの死体にえっと巻をあの積んで絵を燃やすっていうそのねことをこのこれであの村瀬安松さんかな。あの気象の煙が
[音楽] 登ってるね。 はい。5章の扉でしたかね。
こちらは これはだから本当ねさんの場合はあれかな。
貴重なのはもう彼があのカメラ持って で自分で現造してね。
うん。 だからもうで改札も書いてますからそういうんでもうち間違いこの写真はどこで撮ったかっていうことがねえっと分かるわけですが
うん。とても貴重な写真ですよ。 え、これはね、本当あの燃やしてで後ろからまだ煙それから
うん。うん。 あの死体の一周がすごいねマスクしてでしょ。 はい。そうですね。写真見ると
うん。 マスクをしてそのたくさかれた遺体の上からあの複数の兵士が眺めてると
そう。 はい。 だ、こういうことやってね。で、結局そねに流しちゃったから
うん。 燃やして軽くして運んで流すっていう。 うん。で、そうとやっぱりその長候に流された人も分からない。
うん。ですよ。でもこれであの殺し側の証言から
1度に5000とかね、合計で 1万5000とか はい。うん。 これやっぱりあの殺側のね、日本側の今度軍隊の資料がありますから。
ええ、これあの間違いないだそう本当あの大規模なだからこのあれですよね状況を本当今のあのガじゃないけどだそういうねあの日本の場合は僕なんかそれが想像できるから本当ウクライナとかガザ見るとねもう本当はな心も痛むんだけどでも日本語はひどいことをやったっていうそのね映像もないからそれからそれも
ね、えっと、知られてないけど、でも日本軍がもっともっと残酷、残虐であったっていうことを
うん。 本当はね、想像する力をね うん。うん。 持ってほしいと思うんだけど、ま、日本の場合はね、
うん。 そういうこと見ようとしないで 加の歴消しを抑えてきたわけですね。 うん。うん。うん。
はい。実際に南京事件でどういった出来事があったのか、その一端について笠原徳さんにお話しいただいております。
うん。 ではこうした中南金事件を否定する存在しなかったという語るものがまだ存在をしてるというそうした状況について笠さんにさらにお話を伺っています。これあのこうやって研究資料などによって色々明らかになった事実があることに対して今もなお否非否定論金事件南金虐殺はなかったという現説があったりをする。こうした状況についてはどう感じになりますか?
うん。やっぱり 南金のね、事件っていうのは世界の戦士上で特殊な事件なんですよね。それは
ね、あの、想像していただけば分かると思うんですけど、中国の当時の中国民政府の首党南金で、その南金を占領した日本軍が今の大虐殺やっていくわけですよね。
うん。 で、そうするとあの南金だけはそのが まさに日本軍が日中戦争の初戦で首都を
落としてこれまでのあの国際法違反の
残虐行をやってあの多くの人を殺してね、 多くの女性をあの合したでさらに殺害をし
てるっていう象徴的な事件でるってこれ あの中国もった同じわけですから
は南金が陥落してで占領されたっていう ですから中国の場合は12月13日が今
国家のねあの追ト記念日になって12月 13日にはえっと毎年南金の内南金大学
記念間に国家幹部も集まってで劇はあの追 でこの場合あの現在は高日戦争のあれかな
あの犠牲者をツイートするっても兼ねてえ 大規模なツイート をやってました。それからあとは
中国政府はあのユネスクの記憶に南金のねあのね、あの記憶を登録してそれを日本の場合は全く認めようとしないと今言ったま日本の前ほどね首都を占領して万行大学事件を起こしたっていう。
[音楽]
それを日本国民がそのね、あの事実とすれば、あのまだ日中戦争は侵略戦争であったっていう点で
うん。 の安倍省のようにね、侵略なんて定義がないなてことを言えないわけですよ。
うん。 そういう意味で、あの、日本の場合はどうな、戦後の、ま、今の政府もそうだと思うんだけど、外問題、そから職民試合の責任についてはそれを認めないっていうだから村山ダ話をね、今ひっくり返すようなことをやって、
それ今あの日本の全体の政権があです、特にあの自民党の政権がね、加外問題とかそれを認めないってそういう意味では象徴的な [音楽]
うん。うん。 侵略と同時もっとね、あの残虐なあの国虐殺だったことを絶対認め国民に知られたくないっていう。
これはもう本当日本の保守政権の あ、もう本当あれかな。絶対的な状況じゃないのかなっていう風に思いますよね。
うん。 これ、あの、最後に今日はお時間なので最後になりますが、あの、研究者としてこれまでこの南京事件について調査を進めてこられて、どういったことを多くの人に、市民の方に、リスナーの方に知ってほしいですか?
1 番はね、日本人が相手の立場を考えらないんで、これあの戦争で言えば被害者の立ちたんですね。
[音楽] だ、これ、あの日本の国民性として大きい
んじゃないのかな。これはこれはね、本当 、ま、文化人学的とか知的に日本の、ま、
島国ででね、相手との攻めもないし、そう いう意味ではあの相手かなと対応もでき
ないしってんだけど、ま、1番の場合は 相手の立場特にあの南京事件とか日中戦争
の場合は被害者の立場に立てないっていう 。それ立場に立って考えるってことできな
いっていうで、これはね、本当あの、ま、 これから国際社会でね、あの様々な交流を
する場合は相手の立場に立てないっていう ことはやっぱり対話する場合非常に大きな
ね、血管だと思うんですね。その点で、 あの、例えば南期事件の場合はあれかな、
私の場合は南期事件で、あの、被害者から
の多く1人をやって、で、あの、被害者が どんな被害を受けて、で、さらにその人
たちがあの、家族が殺されとかことをやっ て、その後まね、戦後もいかにあの悲惨な
生活を送ったかって、それは私たち、あ、 私の場合は聞いてるわけですよ。うん。で
も日本の場合は全くそれを考えようともし ないでで、え、さ南金投げさなかったって
いうで日本人があの南金さなかったって いうことはね被害者に乗って大変なあの
ことっていうも傷つけられるわけですね。 これあの具体的私のは立上さんっていうね
、あの日本軍に襲われて妊娠中ね襲われて 体にも30数か所の傷を追ってカチでね
生き延びたって人からあのインタビュー あのインタビューしたんですがあの立上
さんが1番ねあの苦しんだのは結局日本の
松村としよってひ屋がねあの立シエさん も偽物るっていうふだ彼女の
衝撃ものすごく大きくわけ自分があんだけ ひどいことをねやってでもそれを再び
繰り返しちゃいけないってんで証言やって きたの日本の指定論者がね
るっていうでそこ でね彼女本当精神がおかしくなっっちゃ それでねもう占されてでま自の傷跡
あるわけですよ で松村とは私この絆がね、私がつけたと
いうのかっていうで我々はね、立上さんの
あの裁判をね、日本で起こしてやがってで 、松村都市を訴えてで裁判やってあの第1
で勝って第2で彼がね最高裁持っちゃっ
たら最高裁の勝利判決が出る前になくなっ
ちゃったの だあれは完全に立上さ うんのね、寿命チームだっていう。
うん。 だから本当そういう意味ではね、 あの日本で平気でやってるけど否定する人たちがや指定されたくのね南金の被害者、犠牲者
うん。 その関係者をかに 傷つけてるかっていうその相場そうあれかなき思ってほしい。
うん。 だから日本の場合、あのそやっぱ相手の立ちまり立てないっていう
点でその辺では日本のね、今の いろんな参生で兵もそうですよね。
はい。 だ、あの差別されね、破壊される側の立場にね、是非立つようにならないと
日本から国際社会 うん。 でね、信用されないっていう風に思いますよね。
うん。 そうした罪重ねをメディアも色々と南金事件というものをむしろ煽った側という責任を持ちながら今しっかりと取り上げていきたいですね。
そうですよね。 うん。 それ本当お願いしますよね。はい。 はい。鶴文化大学名誉教授の笠原徳さんにお話を伺った様子を聞いていただきました。その笠原さんがやはり強調していたのがまずはその被害者の立場を想像するということ。ま、その重要さということを伝えていました。
また、あの、そのためには実際に被害者の 方々がどんな状況にあったのかということ を知ること、聞くことということになる
わけですね。否定論が1人歩きすると資料 も読まない。当事者の話も聞かない。実際
にそこにいたわけではない。でもなかった はずだということが飛び交う。そうしたの 原説によって誰を傷つけているのかという
ことの想像ができないという状況にまで 生まれてしまうということになります。 この南京事件についてはその後も様々な研究が続きなんな資料の独会であるとか、え、それから具体的な被害を認定するのにどういった証言があるのか実はその日本兵側の証言もたくさんあり、日本軍として持っている書類というのも色々あってその加外があったということも否定できないということは分かってるわけですね。しかしながら未だになかった。そんなことがないと分かっている。
研究者はそういう風に結論を立てているというのは、ま、どの研究者なのか、一体どの資料に乗っってるのかを明示しないまま書き立てるというそんなメディアもまだ存在するという状況にあります。まずは今日はね、青き様さんの話でも少し出てきましたが、歴史そのものをやはり知ること、歴史に学ぶだけではなくて歴史を学ぶということ。
その姿勢にはやはり歴史を生きた人々の話を聞くこと、あるいはそれを真摯に学ぼうとしてる人からしっかりと教えを聞くということ。
そのこともとても重要なのかなと思います。 はい。 え、メールを頂いています島さんからです。どうもありがとうございます。かつて虐殺否定論を指示していたものです。
中国政府の見解で言うところの30万人と いう数に対して南金占領後は逆に人口が
増えたんだとか一定の期間内で30万人も 殺害できないなど様々な反論が出ていた
ように思われます。また証言を元とした 様々な加害の様子についてもその審議に
ついて議論が湧き起こった記憶もあります 。さすがに私個人今となっては戦治におけ
る都市攻略という状況化で何も起きてい ないなどということはさらさらないと思い
ますし、そもそも数の問題ではなく、あの 戦争における日本の大義名文についても
要認できるものではないことは認識して おります。 同時にその戦治という得意な状況化において、まだまだ実態がうやむやのうちに語られている部分もまだまだあるような気がしますと頂いております。
はい、ありがとうございます。 ありがとうございます。 しばしば底論の中で言われる当時はそんな人数いなかったというものはそもそもどの地区を数えてるのかというところ化してそが生じてるというところもあったりします。
そうした否定論についての検証というのも 、ま、様々な本で重なられてるところが あるので、手に取る機会があれば是非と
いうところですが、そうしたその否定論の どう応答するかというところにとまらず、
実態が何が存在していたのか、そしてどう 向き合う必要があるのかという議論をこそ
加速させることが必要だとも思います。 今夜はシリーズ戦後80
年特殊南京事件スタジオに鶴文化大学名誉教授の笠原徳さんお越しいただきお話を伺いました。
発信ニュースプロジェクト [音楽] 荻木上
セ TBS ラジオキーステーションに生放送でお送りしてきました小木上セッションエンディングです。
はい。笠原さんのインタビューは事前収録だったんですけれどもね。 あの、100分ぐらいお話伺ったんです。
で、今日はその放送に載せたのは一部だったんですけれども、 あの、本当に学びが多くてで、すごく贅沢な
授業を受けてるような感覚で、あの、 100分でも本当に短いと感じて、 もっともっとお話を聞いていたいという風に思わせれて、で、私、あの、手元にね、あの、色々とあの、当時のインタビューの様子のあの、資料とかもあるんですが、目もいっぱい埋め尽くされていて
はい。はい。 で、そういった、あの、笠原さんにやはりメディアの役割とかについてお話を立った時はやっぱりお願いしますと伝えてくださいという風に言っていただいて
何かあのこれだけあの様々な研究された方からやっぱりそのされるというかされたんだと思う
と同時にやはりその義務としてその責務として向き合うっていうことが必要なんだっていうことを広くお感じになってるんだなっていうのを思ったんですね。 [音楽]
え、 この南京は書店から発売されておりますが、あの、南京について丁寧なドキュメンタリーやそれから書籍というのも今観光が続いているところがあります。こうした私実の積み重ねの先にどういった行動を取るのかが問われるんだと思います。
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ChatGPT의 말:
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Gemini
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요약: 난징 사건(笠原十九司)
본 문서는 TBS 라디오 프로그램 '荻上チキ・Session'에서 2025년 8월 11일에 방송된 난징 사건 특집 내용을 요약한 것이다. 이 특집에는 난징 사건 연구가인 가사하라 도쿠지(笠原十九司) 츠루 문과대학 명예 교수가 출연했다.
난징 사건의 개요
난징 사건은 중일 전쟁 중인 1937년 12월, 일본군이 중국의 수도였던 난징을 점령하는 과정에서 다수의 중국 군인과 민간인을 학살한 사건이다. 일본 정부는 비전투원 살해와 약탈 행위가 있었음을 부정할 수 없다고 인정하고 있으나, 정확한 피해자 수에 대해서는 여러 설이 존재하며 정부가 특정 숫자를 공인하기 어렵다고 밝히고 있다.
가사하라 교수는 난징 사건을 "대 학살"이라고 부르기보다는 "난징 사건"이라고 부르는 것이 더 적합하다고 설명했다. 이는 살해뿐만 아니라 강간, 약탈, 방화 등 다양한 잔혹 행위가 복합적으로 일어난 사건의 구조적 폭력성을 포괄적으로 드러내기 위함이다.
난징 사건 발생의 배경
난징 사건은 일본군 내부의 파벌 대립과 잘못된 전략적 판단이 복합적으로 작용한 결과로 발생했다.
육군 내부의 갈등: 당시 일본 육군 참모 본부의 작전 담당 이시하라 간지(石原莞爾)는 중국에서의 전쟁 확대를 반대하고 만주국 건설에 만족하려 했다. 그러나 무토 아키라(武藤章)와 같은 일부 군부 내 야심가들은 '중국을 철저히 공격하면 굴복할 것'이라는 판단 하에 전쟁 확대를 주장했다. 이들의 주장이 받아들여지면서 난징 공략이 결정되었다.
육군과 해군의 대립: 육군뿐만 아니라 해군 또한 자신들의 성과를 과시하고 싶어 했다. 해군 항공 부대는 신형 장거리 폭격기를 시험하고 싶어 했고, 이들의 야망이 상하이에서의 전쟁 확대를 부추기는 배경이 되었다. 육군과 해군은 서로 경쟁하며 세력 확대를 꾀했고, 이러한 구조적 문제가 전쟁의 잔혹성을 심화시켰다.
현지 조달과 무질서: 난징 공략을 위해 투입된 일본군 부대는 보급 체계가 미비했다. 물자가 부족하자 현지에서 식량이나 물자를 조달하는 것이 허용되었고, 이 과정에서 마을 습격, 약탈, 강간 등의 잔혹 행위가 만연했다. 또한, 이를 통제할 헌병대가 없어 군대의 규율이 무너진 상태였다.
난징 점령 후의 상황: 일본군이 난징을 점령한 후, 사령관 마쓰이 이와네(松井石根)는 12월 17일에 성대한 입성식을 계획했다. 이 입성식의 안전을 확보하기 위해 일본군은 '남아 있는 적병'을 철저히 제거하는 '소탕전'을 벌였고, 이 과정에서 수많은 젊은 남성들이 살해당했다. 또한 해안가에 도주한 중국군과 민간인들을 일본 해군 함대가 기관총으로 학살하는 일도 있었다. 가사하라 교수는 난징 사건의 피해자 수가 10만 명 이상일 것으로 추정하고 있다.
중국군의 대응: 중국군 역시 난징 방어를 제대로 하지 못했다. 장제스(蔣介石)는 난징이 함락되면 미국과 영국 등 국제사회가 개입할 것을 기대했으나, 결국 12월 7일에 난징을 탈출했다. 마지막까지 남은 사령관 탕성즈(唐生智)는 퇴각 경험이 부족해 병사들의 퇴로를 막았고, 결국 무질서한 상황 속에서 많은 병사들이 포로가 되거나 죽임을 당했다.
부정론에 대한 반박과 피해자의 목소리
방송에서는 난징 사건의 존재 자체를 부정하는 역사 수정주의적 움직임에 대해서도 논의했다. 가사하라 교수는 이러한 부정론이 피해자들에게 큰 고통을 준다고 지적하며, 일본인들이 피해자의 입장에서 사건을 이해하려는 노력이 필요하다고 강조했다.
그는 난징 사건 피해자인 리슈잉(李秀英) 씨의 사례를 언급했다. 리슈잉 씨는 임신 중 일본군에게 습격당해 몸에 30곳 이상의 상처를 입었고, 이 상처는 평생 남았다. 그러나 일본의 한 부정론자는 그녀를 "가짜 피해자"라고 비방했고, 이에 대한 정신적 충격으로 리슈잉 씨는 고통받았다고 한다. 리슈잉 씨는 일본에서 재판을 진행해 승소했으나, 최고재판소의 최종 판결이 나오기 전에 사망했다. 가사하라 교수는 이러한 일이 '난징 사건을 부정하는 사람들이 피해자들에게 얼마나 큰 상처를 입히는지'를 보여주는 사례라고 강조했다.
결론
난징 사건은 일본 정부가 침략 전쟁을 인정하지 않으려는 보수 정권의 태도와 관련이 깊다. 가사하라 교수는 난징 사건에 대한 철저한 진실 규명과 일본군이 저지른 잔혹한 행위를 일본 국민이 알아야 한다고 촉구했다. 그는 연구자로서 난징 사건을 부정하는 목소리에 맞서 싸우며, 일본인들이 피해자의 입장에 서서 역사를 직시하고 배우는 자세를 가져야 한다고 역설했다.
방송 진행자는 난징 사건에 대한 부정론이 '자료도 읽지 않고 당사자의 이야기도 듣지 않으면서' 만들어지며, 이러한 주장이 피해자들에게 상처를 준다고 지적했다. 또한, 일본군 자료를 포함한 여러 문건들이 학살 행위가 있었음을 뒷받침하고 있다는 점을 강조하며, 난징 사건의 실체와 어떻게 이 문제에 접근해야 하는지에 대한 논의를 심화시켜야 한다고 역설했다. 이 특집은 난징 사건을 단순히 과거의 사건으로 치부하는 것이 아니라, 역사적 사실을 정확히 파악하고 피해자의 고통에 공감하는 것이 중요하다는 메시지를 전달했다.
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