2025-08-14

【シリーズ<戦後80年>】『戦争とトラウマ』~見過ごされてきた戦争による心の傷とは (黒井秋夫)


【シリーズ<戦後80年>】『戦争とトラウマ』~見過ごされてきた戦争による心の傷とは (黒井秋夫)
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3,207 views  Aug 5, 2025  荻上チキ・Session~発信型ニュース・プロジェクト Podcast
出演:「PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会」代表の黒井秋夫さん
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Transcript

TBS ポッドキャスト シリーズ後80
年戦争とトラウマ見過ごされてきた戦争による心の傷とは?先月
23 日東京千田区にある国立施設官で戦場の過酷な経験や外行為の罪悪
などによって心に傷を追った旧日本軍兵士 の実態をテーマにした初めての企画点が
始まりました。 太平洋戦争などで出した旧日本軍兵士の
うちの相当数が過酷な戦争体験のトラウマ からPTSD
神的外償後ストレス障害などの精神疾患を 発症していたことが近年明らかになってき
ています。ただそうした兵士の存在は戦治
中は軍部によって隠蔽され、戦後も本人や 家族が恥とする意識が強く残ったことから
長い間語られず、また国からも見過ごされ てきました。
こうした中、厚生労働省は昨年度旧日本軍 兵士の戦争トラウマに関する初の実態調査
を実施。また近年では戦争トラウマを抱え
た兵士の家族らが自らの体験に基づいて
積極的な証言活動を行っています。 なぜ先中戦後の歴史で旧日本軍兵士の精神
疾患はないものとされ、これまで検証され てこなかったのか。
今日はPTSDとなった日本兵の家族会を 作り、証言活動を行う黒い明夫さんと共に
考えます。 え、昨年の9月2日の放送では戦争と
トラウマ不可視化された日本兵の戦争神経 症の著者で常智大学準教授の中村えさんに
ご出演いただきました。その際は戦争中の 兵士の精神疾患を専門としていた高野陸軍
病院のことを中心にお話を伺いました。 こちらもポッドキャストで聞けますので、
是非お聞きになってみてください。では 今夜のゲストをご紹介いたします。
スタジオにお越しいただきましたPTSD の日本家族会寄り添う
市民の会代表の黒井夫さんです。どうぞ よろしくお願いいたします。黒井さん。
はい、よろしくお願いします。黒井明夫で ございます。はい、今日楽しみにはいまし
た。よろしくお願いします。我々もお待ち しておりました。はい。はい。ありがとう ございます。はい。え、黒井さんは
1948年山形県のお生まれです。元 陸軍兵だったお父様が戦争による心の傷を
追っていたことに気づき、2018年に PTSDの福印日本兵と暮らした家族が
語り合う会を設立なさいます。その後現在 の名称に解明なさいました。
近所に泉町より出版された精神会の有塚涼司さんとの協庁戦争トラウマを生きるがあります。
はい。あのこれから活動内容についてもお話を伺っていきたいと思いますが、ま、その前に今あの消計官というところでね、あのこの戦争に関してのま、展示も行るようになりましたね。黒さん、この展示場はご覧になりましたか?
はい。はい。あの、7月23 日にあの天、ま、 [音楽]
10月までって聞いてますけども、 その、あの、2日目の、あの、4月24
日に、あの、会の仲間 5人とはい。見てまいりました。 うん。いかがでしたか?
えっと、意外と狭いなっていう風なのが第 1印象ですね。 はい。展示の場所がね、とてもあの、
1箇所にこう限られていて、 私もあの、見に行ったんですけれども、あの、結構狭かったんですね。 はい。そうですね。
ま、あの、あっという間に終わるみたいなね。 はい。 あの、顔を右から左に回すとそれでも終わりみたいな。ま、ま、ちょっと狭いっていう感じを受けましたね。確かに。はい。
[音楽] うん。あの、非常にこう内容は意義深いものであると同時にあの、展示全体として、ま、なぜではその戦争が起こったのかとかなど、影響関係などについてはね、その受け手が自分で考えなくていいなそんなパネルにはなってますかね。うん。
ま、あの、おそらく、あの、戦争と、ま、戦争神経症をあまりよく知らないで、あの、会場に行った人だと、まずやっぱり、あの、
はい。この代陸病院というのが 1938 年作られて、これは、ま、あの、戦争神経書の兵士を、ま、研究にしたあの病院なんですけども、ま、その、その、そこに容された兵士の当時の
こう異常な姿、要するにあの、水の飲めないようになるとか、 あの、立て、足越しがおかしくなって立てないようになるとか、要するに戦争神経症、体、心の病気なんだけども、体にも影響が出てい
て、足がタっと震えるとか、ま、非常にその異常なその映像がね、あの
うん。 見ることはできるんで、まずあれにはおそらく驚くんじゃないかなと思いますね。確かに。え、こんな風になるのかっていう。はい。
[音楽] うん。ええ、そうですね。 で、また、あの、当時の資料となりますと、やっぱり医療者目線であの、取るような
VTR というのがメインということになるので、当時からもやはりその当事者が何か何かを語るということの難しさというのもちょっと資料の間からは感じることはありましたね。
ま、あの、はっきり言うとあの うん。ま、あの、今回のあの展示の基礎
データになっているのが、ま、あの、今も 言いましたけども、高野病院というあの
戦争神経症を発症した、あ、元日本兵の、
あ、ま、治療研究に病院があったわけです けども、そのカルテが残ってるわけですね
。うん。 そのカルテをその元にしているのですからそのあそこになルテの中にその兵士たちがまうたくさんの人を殺したでそのそれがその今トラトラマネってあれからおかしくなったとかね。そういうこと彼に色々書いてあるものもあの出ているのでまあくまでも
うん。あそこに展示の内容は 1945 年まで存在したこの離婚訓病院のカルテがあの基礎データになっているものなんですね。はい。
うん。ですからその言ってみ 1945 年までにあのこの陸軍病院に戦争神経症だってことで、ま、主には中国中国からあいんでね送られた約
1万人の兵士の 見たカルテがあの基礎データになってるんで
ただその今日の話の中にも出てくるかもしれませんけどもま実際はあの機関し
兵士っていうのは約600万人 はい。 いるっていう風に言われてるんで。 で、そこからすると、ま、アメリカなんかの、え、アメリカ軍のデータなんかにると兵士の
2割から5 割はあの戦争神経症、戦争トラマを発症するっていう風に言われてるんで、もし
それがあの日本兵にも当てはまるとすれば 600万の機関幣の
2割から5割といえば少なくと100 万人から300 万人というね、膨大活になるんで はい。
今度離陸病にある基礎データはわずか 1万人ぐらいでしかないんでね。 うん。 まだまだそういうことで言うと、ま、展示の素材としては、え、狭いもので、まだまだあの調査の対象はもっとあるという風に私は思ってるんで、ま、うん。
[音楽] あの、今回を第一歩としてさらに機関係のその戦争トラウマできちの調査して、もう
もう100 倍以上何百倍っていう人たちがアメリカと同じようであればあの存在したことは確実だという風に思ってるんで、そこまできちんと調査をして、
[音楽]
あの、実態を、ま、あの、 2 度と戦争しないっていうことが、ま、消計官のね、大きなあの意味だと思うんで、そういう点でもう
あるでばセキュラなあの、え、帰還した兵士がどのような、え、戦争神経症戦争トラムに苦しんだのかで、それと共に、え、暮らした家族がどのような生活をね、送ったのか、
[笑い]
そういうことまで含めて、ま、 1945 年のこの田理病院の基礎データで終わらではなくして、それ以降膨大な数の、え、機関兵が
あの家族の元に帰ってますんでね。 うん。 ま、そこであの戦争神経をあの、ま、
100 万人単位で、あ、発症しに違いないという風に私たちを思って、私たち会としては思ってるんで、
そこまできちんと あの調査して、え、構成に伝えていただきたいなという風に思いますね。はい。
うん。さらに発展してほしいところですね。 そういうことですね。はい。 そして、あの、黒井さんが現在どういった活動をしているのかということですけれども、これ、あの、
PTSD 日本兵家族会、寄り添い市民の会、これ、あの、活動始める殺でのそもそもどういったものだったんですか?
え、そうですね。あの、 2018年の1月17日にあのPTS
の日本語と暮らした家族が語れ合う借りというのを、ま、あの、私
1人が立ち上げた。 ま、その時にあの美マネでブログに立ち上げ宣言っていうのをアップして
はい。うん。 した日をそれが 2018年の1月17日ということで、
で、それをあの立ち上げた日という風にしています。 ま、実はその、その
2年前に、あの、 2015年の12月17 日に、ま、私はあの、妻と
2 人で楽しみにしていたピースボートっていう 3 ヶ月間、10日間の、
あの、船、船旅の世界下一周の旅に出るんですけども はい。その10日目ぐらいの12月28日
に、ま、運命的に、う、ベタの戦争を戦っ
た私より1個年の、ま、同世代ですけども 、あの、アメリカ兵のアレンネルソンさん
という人のDVDを見ったんですね。で、 彼がうん、あ、PTSAを発症して、あの
、私同年代ですけども、まあ、数多くの ベトナム人を殺した。で、それ、その情景
が、あの、私にトラウマになって、あれ からもう40年以上経つの、まだ私は一緒
に通らなきゃいけないし、ま、家族との、 あ、長くしてた家族とのね、ま、自分が
暴力が振ったおかげなんですけども、一緒 に暮らすことできないと、そういう私が
送ることになったという、そのDVDを見 て うん。のその瞬間にもう
20 何年も前に亡くなった元日本兵である私の父親黒井刑次郎がまさにそのアレンネロソンさんの顔と同じように暗い顔で、
え、ほとんど1 日中話もしなかった。え、ちゃんとした仕事もできなかった。隣近所との大人と死の付き合いもできなかった。
その悲しそうな顔と重なった時にもう 20何年もう本当に
1 回も思い浮かばなかった父親であるのにあの瞬間に思い浮かんであれっていうね
うん いや親もそうだったのではないかっていう うん あのそのことが本当にあの私の人生をま今のようなこの活動にあのま引き込んだというきっかけですね
ただすぐにあの、ま、それまで私、あの、日本編の
PT性っていうのは はい。 あの、聞いたことがないんで うん。うん。 だからその、ま、私はその大学はあの歴史を選挙先行して、
ま、自分を一端の歴史家ぐらいのでいいて、ま、将来ここの先生、歴史の先生になろうと思っていたぐらいで、当然あの私の時代であとベタス反対とかね、
そういう反省活動っていうのは世界的な、 あ、中で、ま、自分それなりにあの、こう知識とかね、あったつもりだけでもただその日本家さっき
の戦争で日本が PT性 になった。あれ先総信書の兵士がいたっていうことはね、教科主義にも大体ないし
うん。 研究も一もないし だから全くその思いを浮かばなかったことなんでやっぱり阪神半議でしたけども
はい。 あのアレンさんのを見てですね。
ま、実はその私の父親のは 9人兄弟の9番名なんですけども、
男3 人いたその長男がその私がまだ千がまだ小学校低学年ぐらいの頃にそのお前の父親はその戦争に行く前は、ま、ものすごい学業績優秀で、
ま、リーダーシップもあって、 それでその将来みな青年だったんだっていうことを聞いたことはあ
あるんですよ。 はい。 ただ目の前の私の知ってるは全く真逆で隣近所とんどちゃんとした大人の付き合いもできない。お医者さんにもしがないといけないとかね。
うん。 ちゃんと仕事もできないような人だったんで。 だからそのクエスチョンマークいっぱいあることが
はい。 その戦争体験、戦上体験が原因で心壊れてさんと同じように全く違う人生、全く違う人間、人格になってしまったっていう風に考えるとね。
うん。 ずーっと島が合うっていうか。 うん。 だからそれでこう一気にこうなんて言うんだろう?自分の演に対する見方が変わったというか私はあの本当にあの見て
1 分もしないうちに違もそうだったに違いないっていうの確信しましたね。 うん。 たださっきも言ったように歴史かと思ってたら自分さ知らないのにこれ日本人誰も知らないじゃないかっていう今見れば笑い話のですけども日本人で
1番最初に元日本兵の PTSD があったっていうことを発見したのは自分じゃないかっていう風に思ったぐらいで
うん。 はい。それがきっかけだったですけども うん。うん。 ま、船の中ですぐにあのあの学習会呼びかけて
はい。 え、私はこういう風に思ったけども日本兵にもいたんだろうかと いうような学習会を3、4
回やりましたね。うん。うん。 で、そうすりやっぱりあの私の父もそうだった、私のもそうだったっていう人が、まあ、
1400 人ぐらい船の中いたんではい。ええ、 あの、何が出てきたんで、あ、これはもう板に違いないと。
で、これ本当に板ということであればこれはその日本の歴史変わる、変わるよねって。
うん。うん。 ま、今まで日本の戦争といえば広島の原爆とかね、ま、沖縄戦ぐらいで
PTS の日本がいたなんてことはもう聞いたこともないんで。 うん。 もしたとすれば
あの色々調べてみるとさっき言ったようにアメリカの 2割5割だと本編にも100 万人台でとすればこれ大変なことだと。
うん。うん。 これはやっぱり歴史的な歴史戦争の歴史をちゃんとこう知らせ、あの、分かるためにも歴史学者でさえ知らないような事実がもしあるとすれば、ま、大変な発見だという風に思いましたんでね。そういうこともあって
うん。 これはその船を降りたら私はそのあの、ま、あるでの冥王も含めてあの日本の歴史に対して一を閉じなければいけない。
戦争してたくさんの日本系が大変な人生を送ったってことは隠れているとしたらこれやっぱり日本人と知るべきあのことではないかなていう風に思いましたんで
うん。 あの船にり船を降りたら あの仲間たちにまに何回か学習会した仲間たちに船を降りたらあの千都三脚であの日本兵の
PTSDの語びになるんだと いうことを宣言して船を降りました。 うん。
実際、あの、船降りてからあの資料もたくさんお集めになられて、一 本集めました。 はい。で、交流感も作られますね。
交流感作、作りましたね。ただその 2 年間ブランクあったのは、あの、やっぱり私に瞬々準がありました。
うん。 で、それはやっぱりその、あの、立ち上げてからあの、やっぱり身近な人にね、何回もいろんな人が言われましたけども、やっぱり千が、父親がちゃんとした働かなかったとか、あの、近所とのちゃんとした大人投に付き合いもできなかったとか、ま、言ってみれば地の悪口のように前から聞こえる。
だから黒井さんはそのね、その亡くなったなことをもう 20 何年も経ってんのに悪口行く言うのは子供としてそれ良くないよということをやっぱり何人からも言えましたね。
うん。 同時にやっぱり私だけのことであれば私となだけの関係でやっぱいいんですけども
やっぱり私に兄がりいるしあの弟もいるしま結婚した娘たちとか家族子もいるしでそのえは子供ももまたいるしその黒いのおじちゃんがその僕の非おじいちゃんのね悪口を言ってるっていう風にその
言うようなことになる うん わけですよ。うん。 で、そういったにあるは娘にしてもその突先のね、そのご両親、ま、夫のご両親にお前の親めたんだと
[音楽]
うん。 あ、そんなそのあ、親の娘と結婚させたつもりはないとかね。ま、やっぱりこう自分があの、ポっと聞けばやっぱり違な悪口を言ってるっていう風に聞こえるし、あの、そういうことを言う人だとは思わなかったとかね。
うん。 あの、そういうこう、あんまりい私は発言することでもって家族たちにいいこう人生というかいいようにこう行くとは思えなかったんで
やっぱりそのことでのなんかやっぱりこう道満連れにするというのか、 こう犠牲にするというのが、
え、家族たちの人生に対して悪い影響を与えるようなことがあるんじゃないかとかね。
あるいは隣近所と私もあそこに 20 数年住んで、ま、老人会とか自会とかいろんなそも仲間ができて黒さんこう人っていうもうイメージがあるわけで
それがまた壊れることの恐怖とかあってまそれでもやっぱり これは大事なことだからねやっぱりあのやろうっていう風に立ち上がるわけですけども
うん。 あのそういう家族たちにもこういうことをしようと思ってるけれどもどうだろうかっていう相談は
それはそれなりにしました。うん。 うん。うん。 あの、進んでおじいちゃんやってやっていう人 1人もいませんでしたけども、
やらで欲しいっていう人もいなかったんで、 ま、これとにかくあの、 2 年間考えましたけども、立ち上がったということですね。
うん。 はい。集め始めて資料やそれから証言というのはどういう風に集まってきたのか、そんなにスムーズに集まらなかったのか。
あの、1 つはね、さっき言ったように研究症がほとんどないってことですね。 はい。で、分かったのは、あの、
2018年の、ま、1 月私が会議を立ち上げるわけですけども、ちょうど
1月1 日に、ま、この番組も登場なさったという はい。 あの、今常大学の準教授の中村レさんが隠されたトラウマっていう本を
2000私がちょうど立ち上げた 2018年の1月1 日にあの本屋に出てるんですね。
うん。で、それから、え、 2006 年に、ま、埼玉大学の名誉教授の、あの、えっと、さ、え、佐藤ひさん、
佐藤浩さんかな? はい。 が、あの、やっぱり研究、これもお
2人ともこの陸軍病院の あの、カルテを元に研究省材料にした本を出してるんですね。
ですから、ま、私が一生懸命調べても、ま、研究はこのほぼ 2つ。
はい。 で、あとはあのアメリカとかのそのトライマに関するあの書物であるとかというのとか
はい。 ぐらいしかほとんど集めようと思っても実際はなかったですね。 うん。うん。
あとはとにかく私の父親が残した品で、それはあの
6冊のあの軍事アルバムが残りました。
はい。 で、その話の軍事アルバムにはまあとにかくあの私、ま、あるのは知ってたんですけどもう
そのちゃんとこう大人の目で見たってことはもうなかったんで うん。その二十
歳私のはあの 1932年20
の時に教習されてるんですけども 二 十歳の時の血をやったるや本当に正顔したいい男で
うん でそしてそのリしいねが映ってるんですよ
はい でその青年がその自分の写真のの中に
その自分はその昭和維新和維新の戦闘に立ってリーダーリーダーになるんだというような、ま、文章はその同時の文章ですけども非常にましい
あのことが随所に書かれてあるあの憧れの満州のうちに第一歩印とかていうことが [音楽]
[音楽]
あ 大連に、ま、え、 232
年の12月にダイレ入行するんですけども うん。 その入行した時の最初のあの写真にいたのコメントが憧れのマシの地に第一歩記者というようなこと書いてあって
うん。 ま、そういうことからも非常にその若い時はこう夢と希望っていうかね。
で、それから戦争行く戦争に関してもその毎週編、ま、当時は毎州事件は中国が先に手を出して俺たちがやられたんだ。で、それに対して正当な権利として司会をするんだっていうそういう風に強されてるんで、
ま、そういうことのにこう戦う決意がみなげるような
あの門言のあのコメントの写真がたくさんありましたんで
うん。記録が書かれてるんですね。 うん。 だからいや、本当にあの知っているあのもうリーダーシップどころか私からの質問にもちゃんとしたもんでちゃんとした答えしたら帰ってこない。
はい。 あの一家の大事なことを決めな 決めるようなそのブラックのこう月
1 回の鍵にも血はほとんど出たことはないんで ああ地域集会のような 出たことないですね。
要するにあのまず判断できないですよ。 はい。 うん。 あの、私が子供のから、ま、こ、ま、ほとんど会話なかったんですけども
うん。 なんか言ってもすぐに答え帰ってこないっていうね、 そういうあの人だったんで、
だからだんだんこの言ってもう どうしたらいいとか、あの、こうするのとかって、これは何とか言ってもすぐに答えが書いてこない。桃もで書いてこないっていう。あ、それが連続すれば子供はやっぱり効かなくなりますよね。
で、の方からなんか来るってこともなかったんでね。 はい。 ま、そういっそういう父親だったのに、あの、二歳の頃の青年時代の父親は
まあ、 あの、それと重なるのは 私の20歳の頃の
うん。 学生時代の本当に学生運動とかね。 はい。 こう本当に仲間たちのこう権学の議論していた若き
うん。 うん。そののにと希望と日本をどうすん、世界どうするんだっていうに言ってた本当に段階の世代の真ん中なわけですけど、
え、若く活発で 私私がそこにいるようなねみたいな千話がと
うん。 あの、出会ってだからそれは本当びっくりしましたね。 うん。うん。 はい。
そういったそのお父様の変化というものが戦争きっかけになったのではないかという、ま、 1 つその手がかりのような資料が集まってきたわけですよね。
そうですね。 で、船に乗られてる時もこうしたことはあるんじゃないかというに話されたら数人の方から実は私の家族もという反応があったということですけども、
実際に船降りられて証言というのはどういう風に集まったんですか? 証言はね、さっき言ったようにあの
2018年に会を立ち上げましたけども はい。で、2020年にあの
PT のあの家族の交流感っていうのを敷地内にまずか
10平5m作りましたけども はい。 あの作るきっかけ私が大変気してこれ命長くないって思ってで本当に
2年間は誰 1人声あげる人いなかったです。 うん。 私もそうだって私の親もそうだっていう風に声あげる人は
1人1人もいなかったです。 はい。 で、それやっぱりあの、さっき言ったように自分が、自分が行為あげるだけなら出せるんですよ。でもそのことがやっぱり家族に対してどういう影響が与えるかやっぱそれはすごい高いハードルなんですが
うん。 だから私はあの本当に 100 万人でいるっていうことは分かっていました。隠ししていましたんでぶわーっと声が上がるもんだっていう風に思ってたんです。 [音楽]
ところ2 年間を中飛ばずで学習会を地域であの死護会やりました。
ま、実はね、その信号会やったうちにもうすでにその時は声出さなかったけれども最初から実は私が当時だったという人が
もう最初の段階から1人2 人で参加してるんですよ。うん。はい。 でも2 年間全く声出せない。出してくれなかった。だからその建物を立てて少しずつこうメディアンがあの報道してくるようになって
でそれで持ってそのうん。 あの、私が、ま、本当にその建物まで立ててね、やろうとしてるっていう、ま、ある面で言えばこうはい。
あの、なんて言うんだろうな。本物だなっていうのが自分で言うもなですけど、やっぱりうん。 あの、やっぱり逃げる、逃げ価格できないですよね。建物まで立てて、ま、地域で、ま、ある面で言えば本当にあの宣言してるようなものなんで
うん。 だからそういう点でも、ま、メディアにも取り上げられるようになってやっぱりある程度こうに最初から
2 年間私を見てきて学習会とこに参加してきた人不思議だったんですよ。なんで横浜からわざわざ
あの瀬村山のね2 時間以上かけてくるんだろうって。 うん。 なんでその埼玉からその何時間もかけて
この集会にね20年か30 年か参加年の集会にも 1年2年も来るっていうのはなんだろう。
そうです。それやっとりました。 うん。 本当にその私のもそうだったということをその建物を立てそしてメディアにも取り上げるようになってそしてまたあの学習会とかまた続けるわけですけどその中でポツりポツり黒井さん実はねって
[音楽]
[音楽] うん いう風にね言ってくれる人が
1人現れ2人現れ そして仲間が少し少し増えていってついにその建たのが
2020で2022 年にあの最初の証言集会っていうのを
仲間3 人がま、自分も自分の家族のことをね はい。 そのみんなの前でその話をするということをあの、ま、決心というかね、してくれましたので、
3 人の仲間があの武蔵村山市のあの市民会館小ホール
はい。250 人のところですけれども、あの、そこであの
200 人以上、あの、最初集まっていただきましたんで、そこで 3 人の仲間が本当勇気を持って話をしてくれたんで、それからまたね、あの、翌年
2023 年もあの、東京で商集会開けたし、 それからさらに関西の方に仲間が増えて
2023年には大阪でも大の証言会う ことができて、で、2024 年、去年ついに千葉でも証言周集周会を開くことができて、
ま、そういうことで、で、 2023年は最初のあの PTS の服、あの、日本兵の家族の思いと願長いっていう私たちの最初のあの本をね、あの、出すことができたりして、ま、そういうことであの少ず少ずつあの仲間が増えてきたのと、
あと毎月の定例の当事者会と 毎月のよそう市民の会という名前変えます。
けども、あの、これは、あ、平和活動だよねということで、あの、統治者でない人たちがこれはやっぱ戦争が原因なんだからやっぱり戦争をなくするっていうことがそういう兵士も作らないし、あるいはこういうそのう、ま、どういう状態だったかっていう話をこれからしなくちゃならないかもしれないですけども、 [音楽]
本当にその 父親は大変だったんですよね。 あの私たの私の千そうだったいその父親はまず母親に対する暴力振
うん。 母親とか自分の妻に対する暴力振る。一番暴力振ってたのはあの元兵士の妻です。
本当殴るける。 うん。 本当死ぬかと思うほど、ま、子供であるあの私の仲間がね、面前
DV をこう子供経験するわけですけども、 死ぬかと思うほど
自分のお母さんを殴るけるでそれそれそれと同時にアルコール中毒ですね、やっぱり。
うん。 うん。で、とにかく朝から晩まだアルコール中毒あのアルコール飲んでるで結局ちゃんとした仕事はできない。
ちゃんとしたことができながらやっぱり自分たちの生活も貧せいっていうね。 そういうその父親たちがたくさん実はいたと。
ええ。 で、それにとまらず自殺する人もね、たくさんいた。
で、それからやっぱり千が自殺する。 やっぱそのそれに耐切れずに母親も自命を立つとかあるいは子供までその暴力振われてあのもう何十年経ってもね。
うん。 どんなにその父親が実はあれは戦争原因だったという風に思
理屈では分かってもこの体に締め込んだあの暴力はやっぱりその脱ぎることできないっていう風に私のところに
あのメールや電話してくる人もいます。 うん。 それからやっぱり悲惨なのは女性だとその本当はあろう子とか父親から正暴力を受けたとかね。
うん。うん。 そういうことを本当に、ま、千と自分しか知らないことじゃないですか。正暴力なんては。
うん。 それもやっぱり言わないことにはやっぱり本当にあの、ま、子供としての私たちがその親とのその
[音楽] うん。 まあ、メインザ DV とか自分も受け出すあの暴力ってやっぱり
はい。 あの、心壊してるんですよ。 うん。心壊してそうです。
だからそれ今でも続いてるんですよ。 今でも要するにも本当自分の一障害本当にあのうちこもりの障害だったとか
ま結局精神家に囲わなければない障害にだったとかちゃんとし学校にも行けなかったあるいは仕事もできなかったでそうそうした障害を
もう今は本当に607080 になってるわけですけども その父親に受けたい
のことがその自分もまたね うんう 商が棒に振ってるっていうそれ今でも続いているということなんで
うん。連鎖してるということ。そう、そうです。連鎖してだからそういう方がたくさんいるっていうことがね、この間そのまま私のところにあの電話であるとか
あるいはメールであるとか手紙であるとかあるいは交流会で調達訪ねてきた人がおそらく
100 人以上いると思いますけどうん。黒さん、あの今日リスナーの方からもですね、たくさん実はメールだいてはい。
そちらも紹介していきたいと思います。 はい。えっと、ラジオネーム横顔クラブさんから頂いたメールです。どうもありがとうございます。少し前に黒井明夫さんの
NHKの番組を拝見しました。 黒井さんがお父様の症状が戦争のトラウマだと気づくきっかけになったベトナム機関兵の子アレンネルソンさんは私の父が通訳を務めたこともあり実家に滞在されていることが多かったのですが
うん 普段は穏やかに生活していても打ち上げ花火は爆撃を思い出すので耐えがいと話されていて夏の花火大会を見るとこれが怖かったんだなと彼
の言葉を思い出します。それでもネルソン さんから聞いた話ではアメリカでは福印兵
同士の交流や治療の取り組みも進んでいる ように感じました。日本と他国の福印兵の
交流戦争のトラウマ治療についての 情報共有などはあるのでしょうかといいて
います。うん。 ルソンさんとご縁があったという方からのメインをいただきました。 ああ、はい。
うん。でもアメリカの方が研究が進ん、 もう断然します。ま、日本は
あの世界から見るとまあ異常なほどに うん。 要するに国民は知らないっていうね。あ、
ま、アメリカで言えばもうあのベタム戦争の当時からあのさっきにボールが古いわ。
あそこはあの住社会なんで もう簡単におかしくなった人が人を殺すとかね。
つまり社会問題化するわけでかう なんとかしあ、勝利というかなんとかあの
PTS の兵士に対して対応しないとケアしていかないと ちゃんとした治療して国があのやってかないとやっぱりその国としてどんどんどんどん増えるわけなんでね
その捨ておけないわけですよ。うん。 ですから研究も住んだし、それから軍として最高責任者は確か副房長か副産房長かなんか責任者になって
あの毎月会議を知っていてその後もしてるしケアの体制もあるしあ、そういうそのケアの施設もあるし [音楽]
要するに保証もあると いうようなことなんでだからアメリカ社会では要するに戦争に行ったらその
一定のかほとんどは何らかの行為症を持って帰ってくるんだていう風に
はい。 あの戦争にあの行く兵士調されていく兵士の家族は最初からもうそれは覚悟してるんですよ。
うん。 うん。そういう風になったらどうしようっていう風にで、これはその、 [音楽] あのヨーロッパなんかでは大世界大で戦場になったんで、ものすごいそれ研究が進んで
いるんでこれまたその戦争に行けば一手で送る起きるんだってことはこれはもう常識なんで
広く社会で共有されてるんですよ。 でも日本じゃう 全く要されるされてないですよね。
うん。戦争にたらそうなるあれば自衛隊なんかにしても今会議会に行ったりしてますけどもたくさん出てるみたいですけどもそういうことは全く表現有されてないんで
うん。 あの日本の方が世界の常識からされた日本人の戦争
PTに対するあの理解度は全くうん。 あの遅れてるっていうかね。
うん。 あ、それがあの実態だと思います。私 うん。今日他にもたくさん頂いてます。 はい。え、続いてラジオネーム国士無双さん。
どうもありがとうございます。自分の父親 は先の対戦で中国大陸柔団作戦に期間、え
、期間中の一種として従軍してなんとか 帰還できました。
母と結婚してからも56年くらいは夜中に うなされていたことを聞きました。
父からは戦争の話はあまり聞くことはなかったのですが、お前たち若いものに俺たちのような体験はさせたらダめだと俺たちで終わりだと酒を飲むとよく話してくれましたと頂いてます。
はい。それからラジオネームか野さんからだきました。 はい。ありがとうございます。 ありがとうございます。 戦争トラウマ。これは元兵士だけではなく
3世代まで続いています。 うん。 その3世代目に当たるのが50 代の私です。私の父は戦治中に生まれました。
その父親、つまり私の祖父は中国で従軍しました。 私と2
歳下の妹は福印後の祖父がとても怖かったそうです。例えば福印から間もない頃、
祖父が寝ていた際、その枕元を幼い兄弟が走り回っただけで劣下のごとく怒られたそうです。私の父は祖父が亡くなる最後までずっと祖父に敬語を使っていました。
そんな父はこれまで私に対して突然切れたり暴言を履いたりしてきました。
うん。 その積み重ねがあったのでしょう。数年前に私は心を病み、今は父と距離を置いています。そんな私のことを父は親不幸者と断します。父の性格を形作ったもの、それは他でもない祖父が経験した戦争だと私は思っていますといただきました。
うん。そしてラジオネーム虎組さんからです。どうもありがとうございます。
母方の祖父は1920年代生まれです。 詳しい日付は分かりませんが、フィリピン
に出世。そこで片腕をなくしました。終戦 後もなかなか福印せず、家族や親族が
そろそろ葬式を出すかとなっていた頃に ふらりと帰ってきたそうです。戦後は
義姉種をつけて肉体労働に重視従事し、 家族を養っていました。私の思い出の中の
祖父は口数は少ないけれど優しく本を読む のが好きな人でした。そして92年に
亡くなるその晩年までよくうなされて深夜 に大きな声で何かを叫ぶようなことがあり
ました。子供ながらにその声が恐ろしく 理由は分からないまま怯えていました。
ここ数年旧日本兵のPTSDについて語ら れることが増えてそれらを見聞きするたび
に祖父のあれもそうだったんだろうなと 思うようになりました。数年前に祖フの
写真を家族で整理したのですがその時見た ことのない少年時代の祖父の写真を見つけ
ました。後年の祖父の顔を形からすると びっくりするくらい輝く輝くような笑顔を
見せている。生生きとした普通の少年でし た。戦争は祖父からこういう笑顔も奪った
のかなと思います。祖父が何を経験したの か直接聞くことはもう叶いませんが、こう
いう特殊を通布のことをまた深く理解して いけたらいいなと思っていますといただき
ました。もう1方ご紹介します。え、 プールの水さんからいただきました。 ありがとうございます。はい、ありがとう
ございます。夫の父は60 代の時に自したと人に聞いています。夫によれば少集されて中国に行っていて鉄カブに弾丸が当たってカ字で助かったと父親が話しているのを聞いたそうです。
うん。 大酒のみで家族を困らせたこともあったようです。私はその当時のことを知りませんが、もしかしたら戦争の時の大変な経験が影響してるのかもと思ってしまいましたといただきました。
その他たくさんメールだいてますか?黒井さん頂いたメールかがでしょうか? いや、本当に今のあの話を聞いてて痛ましいと思いますね。
うん。 で、私たちの仲間が経験してると同じことです、これ。
うん。 全くこういうことを私たちの仲間もあの要なことについてこういう風に話をしていますね。
それから今のだと要するに あの孫世代 からも来てるじゃないですか。
うん。でしたね。 私たのあのこの事者会の家族の会にも今孫が
[音楽] 来ています。 うん。 で、ま、私はあの簡単に魔王世代っていう風に、ま、その兵士から見れば魔王世代ですけど、私から見れば子供世代です。
うん。 つまりその私代私たちがあの中和から受けた暴力であるとかそういうものをまば自分を受け継いで私たちがまた子供にあの暴力振ってしまったっていうことなわけですよね。ま、はっきり言えば
うんうん。 なら私たちが私たち世代が中和から受けたものを自分たちで止めることができずにもう気が付いたら私も中和と同じことをしていたっていうことを私たちの仲間の何人かがね、今ゆ
うん。 こう あの、ま、言ってるっていうかいことなわけですね。 [音楽]
はい。 だからそういうあの私は世代がこう親から受けた苦しみとこの子供にもしてしまった苦しみをその抱えて私たち世代が生きてる。
うん。うん。 で、つまりその自分の子供からも、ま、はっきり言ばよく思われるわけがないんで、
暴力振ったりね、あの、ま、はっきりば絶縁されるような、ま、そういう関係になってしまってる私世代もいるんで。
うん。 だからそういうことで言うと本当にあの、私たち世代があの、今私が言ってるのは要する死ぬまでの間にね [音楽]
はい。 あの、子供たちとちゃんと向き合って うん。 そのどうして自分が、ま、暴力振ったりしたであるとすればね、やっぱりどうしてそうなったのかっていうことをきちんと向き合って話をしてとにかくあのお互い同士あの口も聞かないような関係であのあの世に行くんじゃなくってちゃんと和解して
はい。 あのあの世に行こうっていうことを私は今皆さんに呼びかけています。
うん。 はい。
あの、そういう点では、あの、ある小坂の女性はその親から受けた暴力を、あの、ま、結婚して子供ができてね、で、気がついたらきキッチンドリンカーになっちゃって
うん。 で、食事の支釈の旅とに実は酒飲んでアルコール中毒になっちゃってで、なんか言ってまと割りついてきた娘をね、あの気発突き飛ばしてたと
うん。 ああ、これお父さんと同じことやってるっていう風に気づいたっていうことをあの私が聞きましたけども
はい。 で、その突き飛ばした娘さんが今もあの、もうあの嫁に行くような年頃になって最近その突きされた母親のあの自分の体験をお話する。ま、言ってみればあの講演会に
うん。あの、私たちの会のね、 あの、本をその講演会に持っていって、母親の講演会以上に一緒に娘がついていって、本を売る手伝いをしてるっていうのを最近聞きました。
はい。 キッチンリンカーで突き飛ばした娘とっやっぱちゃんと向き合ってうん。
ああ、まあ、あの時はごめんねとかね、どういう話をしたのか私は詳しく聞いてませんけども、
やっぱりそのそういう風にちゃんと向き合って、やっぱりそれ以上なんとかやっぱり私世代がやっぱり自分たちの努力でね、
まあ、なかなか難しいんですけども、 あの、それ以上引きがない努力をして、あの、あの世に行くっていうか、ま、そういうことをしてどっかで立ち切ることをね、
やっぱりあの、やってう いきたいな。だから当社会としてもそういうことも含めてあの取り組んでいきたいなという風に思っていますね。はい。
うん。さらなる証言の掘り起こしもそうですし、それがまたあの社会をしっかりと動かしていくと、こうしたことが繰り返されないような社会を作るという政治責席責任にも含めて通ていきたいと思います。
はい。今夜はシリーズ戦後80年戦争と トラウマ見過ごされてきた戦争によるの傷
とはえスタジオにBTSD の日本兵家族会寄り添う
市民の会代表の黒井明夫さんお迎えしてお送りしました。黒井さんどうもありがとうございました。
こちらどうもありがとうございました。ありがとうございました。 ありがとうございました。 

DBSラ上
DBS9

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