「PTSDの日本兵の家族、その思いと願い」
bannkun517バンクン
147 views Jan 16, 2024
お話:黒井秋夫さん
(PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会代表)
2023年10月1日 第7回三多摩平和交流会
====
Transcript
====
え皆様どうもおはようございますおはよう ございますあの第7回三玉平和交流会本日
が2日目になりますあのこんな早くお時間 からあのお集まりいただき大変嬉しく思っ
ており ますはいあの本当に申し訳ありますで今日
はですねあの学習会第1としましてあの 11時までお時間一緒によろしくお願い
いたしますあのもう黒さんのご活動につい ては昨年毎日新聞でそして今年の8月には
朝日新聞の一面で大きく取り上げられまし たあの黒井さんがお1人で始めた活動がま
このような形であ大きな反響を得て社会的 な
あの大きく共有されるに至ったことは本当 に私も驚きかつすごくあの感銘を受けて
おります今日はあの 大体黒さんにえ1時間ほどお話をいただき
その後皆さんからあの質問ですとか あるいは質問ではなくあのご感想でも結構
ですのであの皆さんにあの少しずあのお声 いただければ幸いに存じますではあのもう
自己紹介含みまして全部さんにお任せし たいと思いますのであえ入った方が席され
たらあの始めたいと思い ますではよろしくお願いいたし
ますあ皆さんおはようございますえ話す前 から拍手いただきましてありがとうござい
ますえま今日あの時間が早いんであの私も 心配しておりましたあ始めるぐらいしかね
私このいなかったんでまそれでもいいやあ ま変な話ですけどというかあの聞いて
くださる方があのいらっしゃるんでお話し させてもらいたいと思いますえっと最初に
ですねあの映像をあの日本ほどを見て もらいたいと思いますえ1つはあ2018
年にえNHKがいいいての番組でえ隠され
たトラウマえ82人の病床日誌っていうの が放送されましたね8月に2018年で
それはすごい評判が良くて結局その年の 年間なんとか対象を
あのもらうっていう番組になって最後は 100分のNHKのあのBSの番組になっ
たんですけどもえその中でまあの本当に 印象的とか驚愕するようなえ映像が
2018年に初めてでこれもうこれこれ これがまた驚くことなんですけど初めてえ
日本のので後悔されたと え1945年までえあった高野大陸軍病院
に収容されていた壊した兵士たちのどんな 様子だったかというあの本当短いあの映像
なんですけどもそれは放送されましたんで それを最初に見ていただきますでその後に 25分ほどですかえこの8月の14日早朝
っていうかNNNドキュメントっていうの で えデクノボ戦争とPTSdayというのが
あ放送されましたこれ約25分ほどです これはあのえっと8月のですね
ギャラクシー賞っというのま私その権威 よく分からないんですがえ日本の批評化の
人たちのま団体のよなんですがそこでえ ギャラクシー賞を頂いた作品ということに
なってます で全部で4本表彰対象になっていて他の3 本は全てあNHKのえ作品ですねえですが
えそこの中で え民間放送の中でえ唯一ギャラクシー賞を
いただいたものをですねえ最初に見て いただきたいと思いますその後あの私のお 話とでその間にもう少しえ観客が増えるん
ではないかということを期待して本当はね この映像こそこそ一目瞭なんでこれ大事な
んですけどあの何回もあの流せないんで 最初にまず流したいと思い
ます千葉県市川 市かつてここに高野代陸軍病院がありまし
た終戦までの7年の間に1万を超える精神
障害の兵士が収容され治療と研究が行われ ていまし
た今回高野大陸軍病院で戦争神経症の兵士
を捉えた貴重な映像が初めて公開されまし
た当時代表的な戦争神経症とされていた
ヒステリー造作病の症状 です
手足の痙攣を起こす 兵士水を飲むことも困難になってい
ます立ち上がることや歩行ができなくなる 出立尻尾も特徴的な症状の1つでし
た造病は重になると激しい痙攣発作を
起こしまし [音楽]
た当時陸軍は第一次世界対戦中ヨーロッパ で多発したシェルショックと呼ばれる戦争
神経症を認識していまし たしかし日本軍にはこうした精神障害兵士
は1人もいないとその存在を隠してまし
たその一方で陸軍は優秀な精神科50人
ありを集め秘密裏に高野大陸軍病院で戦争 神経症の研究を続けていたの
[音楽] ですピースもあるからおいおじいちゃん
ピスして くれ早くしてくれよ
早くペスして くれ
早くただ黙ってそこにいるだけの
父この男ダメな男だってあの何もできない 人だ要するに中和全く果たせないまそう
いう人間だって いうなくなって悲しいとかあ
何にも感じなかっただから涙涙こぼせ なかった涙全然流れなかっ
たうつろな目をした父をずっと尊敬できず
にいまし [音楽]
たの私の父は見てもらいたいどうしてこう なったんだ戦争が父を壊したのだと知る
までは彼らがですねこれほどまでに自分の 精神を崩してまでそれでも抜けになって
あのに行ったんですよ名た人たはどうなっ たんですか息子は訴え
ますてなぜ生きて帰ってきた兵士たち はになってならなったの
[音楽]
[笑い]
か東京都武蔵村山 [音楽]
市民家の敷地にPTSDの日本兵と家族の
交感はあり ますこの日語られていたのは戦地から戻っ
たそれぞれの父の 記憶そは父です
はいま海部だったんですよ うん何かあの傷つきやすい部分があって
それに触れちゃうともう月光っていうかま 人格が変わるっていうかね多分その目の色
だも多分変わるんだと思うんですけどち君 もそれが怖くてもしかしたら勝負し埼玉県
川越市に住む吉沢智子さん68
歳父栄治郎さんは旧海軍の将校でした乗っ
ていた戦艦が撃沈されたもののどうにか 生き延びたと生前話していまし
た なんかうされてるんですよまそれ1回だけ だですけどうされててううんうんって言っ
てるからどうしたのって言って起きた時 言ったら白いあの仮面みたいな存在が
どんどんこう押し寄せてくるっていことを 言って てもうあ1度こ同じく埼玉県の小林亮子
さん57 歳父親のかさんは家の外では社交的でした
が家族にとっては恐ろしい存在でし
たちょっと唇を切るっていうかお酒を入る とすぐそのガタルカナル諸島の話をしてま
怖いんですねすごく夜中に父がもううわー とか行けとかああもうすっごいもうなんて
言うのかな叫び声があの真中に毎日のよう
に満州でレトゲ義姉をしていたかさんは
海軍の衛星兵としてかるカナルとに従軍 そこは病気や上で命を落とす人も多かった
悲惨な戦場でした私が熱でこう唸ってる時
ですよね小学生ぐらいの時ですかねそう いう時にもマラリアていうな知ってるかと かって耳元で言われたりもうそんなお前が
今出てるのどこじゃないんだぞってあのま それもよく言われましたねで苦しい時に
それをこう追いるようにして言われても もう子供ですからねあの泣くしかないん
ですよま自分で自分父親が87歳で 亡くなるまでずっと恐れと怒りを抱いてい
まし た気がつけば小林さんは常に他人の顔色を
気にするようになっていたと話し ますま父を通じて辛い目に合ってることっ
ていうのは表に出せなかったんですね ずっとうんだからそれを話せる場っていう
のをやっぱ黒井さんが作っていただいたの で本当にもう今この年になってから本当に
なんかこう生きててよかったな思います
本当に私もなんとこな監督にとかて書いて あるうん回を開いているのは山県鶴岡市
出身の黒井夫さん74歳そう
ね父治郎さんは終戦の翌年34歳の時に
中国から
印その2年後に秋夫さんは生まれまし た無口な父親は夫さんがまだ小学生だった
頃から定食につかず家にこもり切りだった と言い
ますよくねま俺と一緒に遊んでた子供たち は女人親父のことをねあの6尺上親父と
呼んでたんですよ確かに背の高いそれは 尊敬される言葉ではなかったと思うわね背
は高いけれどもダメな人ってかね分デクノ
とかねまいろんな言い方あると思うけどま 正直お前の親父のこと普通だとは思わ なかったと村の人たちと同じ行動はお前の
親じゃ取れなかったよなって いう家族を養おうとしない父親と周りより
も貧しい暮らしぶりが恥ずかしかったと 言い
ますこの男ダメな男だってあの何もでき ない人だ要するに中和わ全く果たせないま
そういう人間だっていう腹が立つとかそう いうことの前にあのまた諦めてるわけです
よ生前の慶次郎さんを知る人が地元鶴岡市
に見つかりまし た近所に住んでいた黒い明さんです
こんにちはあ こんにちはここのがブラで15個15個の
ラグで 畑の家がこの辺だ真ん中作った降かいい
ですかいいよみ一般とさ年間とかゴボとか
人とかそも全部だええ治郎さんがいなかっ たすかでたまの来たやうんずさんも息子と
か業来たな うんテパで動したりなんだかんだあ[ __ ]人
であったもん なその状態だたやっぱりバシンと水と揚げ
がうん全部取りてきただんだ ああブラゴのツとかなんだかんだは
うんま誰もそんなまず悪くえば相手し なかったんだもんうんあんまり相手し
なかった うん秋夫さんが取り出したのは古いビデオ
テープは何のテープなんでしょうかまこれ はあのまだあの中も母も生きていた頃に
主に私が撮った映像だ ね言葉見えで
や [音楽]
まこほどだ えいいかえどかあらいいけど
なおせもいいか映し出されたのは晩年の父
慶次郎さんの 姿北海道への家族旅行や孫たちと河で
くつろぐ様子が納められていまし
た しかし親父の声は一言も出てこないでも
ざとあのビ様みたいに座っ てるあおじいちゃんピスして
くれ早くしてくれ よ早くピースして
くれ 早くおい
はいはい あ反応しないからねんでなんでしょうね
分からないよ俺も本当 にもうも年々こういう状態がどんどん
どんどん進行進行というかねついに ほとんど喋ら ない後
て孫からの呼びかけにもなんら反応を示さ ない次郎さ何をるの1990年に77歳で
亡くなりまし たずっと父を尊敬できずにいた秋夫さん
でしたが 2015年に天気が訪れ
ますベトナム戦争に従軍したアメリカ兵の ドキュメンタリーとの出会い
[音楽]
です [音楽]
ベトナムから帰還した兵士を苦しめた PTSD的外傷後ストレス
障害アレンネルソンさんは戦場の記憶を悪 に見るなどPTSDの症状に悩まされてい
まし たそして壊れてしまった家族との
関係その姿が父と重なりまし
たあのPTSDっていうことがガーンと来 て親父もそうだったかもしれないという風
に思った時 に本に父の数少ない品であるアルバムを
初めて手に取ったのは3年前のこと ですこれ
はしにいい男だよ全然びっくりありえない
これ見てよ これそこにあるのは背筋を伸ばした性感な
表情 とさっそと馬を乗りこなす父でし
[音楽] たそして生前の姿とは結びつかないいしい
手書きの 文章へ立つ我ら
コ憧れの満州の地に第1法を記し
た父慶次郎さんは1912年鶴岡市の農家
に生まれまし た徴兵されたのは満州事変の欲1932年
二十歳の 時終戦までに2度の招集を受け合わせて6
年間中国戦線に 従軍終戦時には軍曹に昇進していまし
[音楽]
たこ警備並びに卑属討伐に十字行か
ますさんは日本軍が卑属と呼んだゲリラ兵
との戦いに加わっていまし た父はそこで何を見たの
か旧日本軍の福兵のうち相当数が過酷な
戦争体験のトラウマからPTSDなど心の 病を発症していたこうした事実が近年の
研究で明らかになりましたその症状は戦闘
の場面のフラッシュバックや悪夢 アルコール依や家族への暴力など様々です
障害者心理学の立場から精神医療の歴史に ついて研究する埼玉大学の淵富男名誉教授
です生前の慶次郎さんの映像を見てもらい まし
たの方 が
なん感情ドンまって言いますかねなんか いろんな刺激に対する反応が弱くなってる
感じがしますね自分でこう殻を作っちゃっ てるのかもしれないですけどね何が起こっ
てもほとんど表情も変化がなくてに感情の 揺らぎがないっていうことですよね
うんこれもPTSDの症状の1つだと言い
ますうんおそらく蹴りですねええ一般民衆 の間にこう紛れて逃げてっちゃってます
からね本来もうそこにはいなくなってんの かもしんないけどもう怖いもんだからま 直ししちゃうわけだよね
うんこれは辛かったんじゃないですか ねかなり精神的なストレスうん相当
でしょうこれは ね次郎さんの心を壊した戦場の
記憶
その手がかりを地元山形で探しまし
たほら法令守備隊東田川軍なんだ
よ黒い治郎さんが入したのは独立守備歩兵
第1大体 隊この中隊に1年早く加わった上山市出身
の元兵士の存在が分かりまし た元憲兵土谷義男さんは先日中中国人への
拷問や直接的間接的な殺害に関わりまし [音楽]
た旧満州現在の中国東北地方にある父春は
土谷吉尾さんが憲兵として12年間勤務し た町
ですは隊長だったん [音楽] だこの下は分隊に本部だったですね
え戦後はらの罪を食いの謝罪の旅を続け
まし た愛国者
をしそして殺しまし [音楽]
たそれで族の方に1人でもいいからお会い
してそして病しなければ私は人間ではない
んだと 本当 に悪かっ
[音楽] たす終りしますか
これ悪をございまし た土屋さんは憲兵になる前慶次郎さんが後
に入隊する中隊に配属されていまし [音楽]
たその中隊時代に 中国人の捕虜を口出しにするを強制された
と土屋さんは証言してい ます私の教官があくさという注意でしたが
この人が父はお前が1つやってみろと1つ っていうのは受験でねこの胸をぶさせて
殺してみろとこれ後ろ手に縛られた中後の 人達しです冬1月ですから最も寒い時期
ですねか30度ぐらいあったです その時にみんな渡りきてるですねそれを
ぶたして殺せということでありまして
え私がこの青くなっちゃっ たそんなことを生れで初めてしね虫を殺し
もバチがだるという考えで持ってマに行っ たんだ
から土さんがつを強制させられたその年の
12月に に入した郎さんそれから2年間この中隊に
所属することになり [音楽]
ます生前の土屋さんの証言を本にまとめた 花安さんですさんからまずを見せられわけ
ねこれ はこ 辻で手がきで自分の要するに戦争でやって
きた反省 分入隊して2ヶ月も経たないうちに小川
大体長の間で人間を新式44重にて1つを
命ぜられて殺しまし たそれからはもう人間は変わってしまった
という風な文章で始めるんですね え初年兵訓練としては要するに関東軍は
どこの部隊でも少年兵訓練としてやらされ やらしていたのがこの1つ訓練ですま捕虜
であれなんであれ捕まえた中国人を後ろで に縛ってえそれをま関東軍のま上官って
言いますかね上官たち2人がもう輝いて その受験で突刺す
とただ兵隊っていうのは人を殺すのが仕事 ですからだそれに慣れさせるための訓練だ
からつまりここに書いてあるんですけど 万人なんか虫だあ1人は2人殺したって
なんだという気持ちになった と無視すら殺せないそれがね要するに人
訓練によって全く変わってしまっ た
集落に潜んで戦うゲリラ兵との戦闘は時に
多くの住民をも犠牲にしまし
た過っていうかそこはま日中国軍からのき
たとま関東軍の大体が慌てとなってその 一体敵は誰だということでその行動敵を
探すための行動になったとおよそ方に 100個ほどの中国人民家が散らばって
いる小川大長は大長はその集落目がけて
迫撃法や重機関銃の一斉射撃を命じ た集落に敵軍の巣があると言わんばかり
だっ た私の分隊だけでも2500発を一気に
乱射し た受信が真っ赤に焼け
た結局ね一般民主でやろうがなんでろうま 大体長が公立軍だとあるいはこの集落が
日軍の素だという風に知りを出したらそれ に逆らうことはできないんです一般のその
兵隊は一般の民主かあるいは敵かなんて 問う余裕すらなく打つしかないですね戦う
あのセビルしか ない戦争っての専門
はい その後憲兵となり後日文とみなした中国人
の逮捕拷問を繰り返したという土屋
さん戦後は自らを鬼と呼びこう残念しまし
[音楽] た私が行った反省の爪跡は
長く黒まの地に今なお恨みと憎しみを記し
消えることはない [音楽]
でしょう残された余をみんなの幸せのため に
働き食材し [音楽]
たい土屋さんは中国人の遺族に対する謝罪
を通して鬼から人へと [音楽]
パパ後て花さんに刑さんの映像を見て
もらいました えっと映像の途中なんですけれどもえあの
私のお話の方に行きたいと思いますま映像 は実はあの私今日あの25分の番組を皆
さんに見てもらうつもりだったんですけど も実は50分本当は50分の番組だったん
ですねそれをNNNのネットワークで放送 した25分に縮めたものを見てもらおうと 思ったんですがでも1番ま私が50分の
番組あ25分の番組を見てもここまでの ところがですね私の父親が
なぜ心壊すことになってしまったのかって いうことを最もよく表しているところだな
という風にあの私は思っていましてまそう いうこともあって実はさっき書き始めた時
にあ間違ったと思ったんですけども えそもそもYBC山形放送が5月28日に
50分の番組で県内だけに流したその約 前半というかえ部分を皆さんに今日は見て
いただきました えっと元憲兵の通夜さん
が自分 がま時代
に殺した中国人の遺族の前で謝罪をして
ごみ出して謝ってしかしその鬼と えるつやさんにま遺族がですねえそれでも
最後は手を握っ てるという場面で今日はあの私は切った
わけですけどであの土谷さん はあんな優しそうな人であの謝りに行って
いるあの状態も本当にその人をこ平気で 殺せるような人ではないと思うんですけど
もしかしあの人はますごく貧乏な農家に
生まれてものでもものすごく優秀でえ急場
までなってでそれですごいやっぱり上昇 思考があって兵隊になって優秀でなければ
憲兵の試験も受からないしでも憲兵の試験 を受けて憲兵になってでその後本当に鬼
ですね私彼氏のことを麻新聞が取材したの
を今本になっているんですけど もあの方はですね鬼ですよ本当にやった
ことはその本読んだら途中で嫌にあります あんな許せるような人ではありません本当
にまの中国の国民軍共産軍といったと普通
のま国を愛する青年たちですよ農民たち
いずる式にもう10人20人じゃないです 合計すると300人以上の中国の青年たち
を拷問その拷問もものすごい拷問してるん ですえリアルに書かれてますでそして
300人以上の中国人の青年の命を彼は 奪ってるんです信じられますか皆
さんあの温厚そうな人がですねそこまで できるものすごい教育の中で受けた中国人
なんて何だっていうねまあ虫ケラと同じ ちゃんここれはもう人間じゃないっていう
意識で彼は拷問できたし殺してるんです そういうのはあの本の中に書かれています
私本当にそれは恐ろしくなりました やっぱりそれが戦前の日本の教育であった
しまた私の父はまた同じ中隊にですね一年
遅れ入ってます入っているいますから私の 親も優秀だったとは聞いていますが憲兵に
はなりませんでしたあでもま何人殺したか それは分かりませんでも1つやったのはま
まず確実ですね同じように少年兵訓練で 中国人を殺したであろうしそれから
えま何の証拠もないのに周辺のえ人のブラ
を沿っては え女子供関係なく殺したということはえ
その前の父者さんと同じ彼は生きてその ことをお話ししていますが私のしはついぞ
そのことは話しするまもこともなくあの ような姿に最後はなってあのように行った
わけですね父が自分のやったことについて 本当にどういうことなのかっていうことを
さんのようにまどっちがいいとか悪いと かっていう風には言えませんけれども通夜 さんの方ようにですね自分のやったことに
対してあそこまで相手にど出して謝るまで
のことを自分はやったっていうことを理解 できればあのような無様な格好で悶々とし
た心を抱えたまんま子供から父親のとして 尊敬も受けることなく死んだ時
もま本当 に涙1つ流してもらえないような親関係
しか作れにいいままにまあ77歳で主はあ
よに言っ たまおそらく同じようなことをですね同じ
中体に1年後に入っていてそのその間 重なってますんで顔合せていたと思います
けども私の父もつさんと同じようなことを やったからこ心壊したんだというのが
YBC山形放送もですねあの私の取材始め て1年以上なりますけれどもどんどん
どんどんそういうのが進んでいってついに 探し当てて私の力と同じ集団にいた人がい
たと同じことをした違いないとでそれで もって黒井さんのお父さんも同じことを
やったから心壊したんだよねって本来で あればあなたの違いもスさんと同じように
やったことに対して中国人の前 でやっぱり謝罪するべきようなことをやっ
たではないでしょうかそこまではいかない けれどもでもだからこそそこまでの番組と
して作ったんだろうと思うんですねで後半 のところもありますが私自身はここまでの
場面でほぼ言い尽くしているという風に私 は思っていますで
え今日はですね皆さんにえ色々資料をあの 入り口お渡ししたと思いますけどもあの
少しあの皆さん資開いていただいて説明 させてください1つはですねあのニュース
をえっと私をも毎月1回えニュースを流し
ていますそれは郵送とそれからメールで 流していますがあの皆さんにも今後情報を
え差し上げたいと思いますのでまだ私の方 にメールアドレスとかあるいは重視を知ら
せていない方はえできればそこの中にあの え感想とかね各あのえA4の紙入ってると
思いますのでえ会に電子のところでえっと 皆さんの住所とか書いてくだされば公務
エスを差し上げますので是非よろしくお 願いしたいと思い ますでそれから
えA3番でちょっと見にくいんですけども 朝新聞が今年の8月15日にえ2面でです
ね1面は本当に驚くなれま私がこういう形 で1面の記事えになって
えまこれは本当びっくりしたんですけども その2面に同じ日にですね
え大阪の藤岡西尾さんという方 がのことが2面に乗っています福音を暴力
振った父私も同じことしてるっていうえの は乗っております見にくいんですけれども
是非これはですね読んでいただきたいと 思い ます千はね50代かな40代かなで
亡くなるんですよでえ亡くなったのはこの 藤岡さんがまだ小学校低学年の時ですで
お兄ちゃんがいたんですね実は妹もいたん ですけど もでお兄ちゃんと2人で父が亡くなった時
にやったつておあんたのお父さん亡くなっ たよって聞いたらねやった2人
でもう大喜びしたわけ
です学校に来た近所の人にあんたの お父さん亡くなってるて聞かされてその
帰り飯でお兄ちゃんと2で大喜びしたって いうのはここの中に出てきます血が
なくなってやったっていう子供いますか皆 さん本当 にそれは本当に自分の目の前で母親が
ものすごい暴力を受けているのを目の前に していたそれから自分自身もすごい暴力を
受け たお兄ちゃんもすごい暴力を受けた2人
でお父さんがお酒飲んで酔っ払って帰って くると親子3人で逃げた自分たちも逃げた
寝静まった頃帰ってきたそういうことの 連続でついにまともに学校にも行けなかっ
た藤岡さん兄弟はですね血が亡くなった時 にこれで安心して眠れるしこれでや学校に
も行けるつってやったつって喜ぶんです よその父はお酒飲むと本当に家族に暴力
振って全く違う人間になってしまった前は そういう人じゃなかったのにねていう風に
近所の人たちが言って いるあなたのお父さんは病気で亡くなった
と聞いたけれども隣になってきて走った ことはねお父さんが自殺したんですよ本当
に で彼女は結婚しますけどこう中にも出てき
ますある週になって親父は同じことをして 1歳半の子供に自分は手を出して
るっていうね同じように暴力を自分も振っ てるっていう中和から受けた暴力が連鎖し
てっていうのはま本当に親の暴力虐待の 連鎖として有名ですけれども今や誰でも
知ってること同じことを私もやって るっていうことがこの中に出てきますその
ことに気づいて彼女はこれでいけない やっぱり立ち直ってこんな抜け出したいと
いうことで同じような境遇のサークルです ねやっぱり暴力振っている俺たちの
サークルの中で自分自身 をこう再生するていう道に入ってくわけ
ですけども実はそれは父親がああいう風に なったのは戦争でそうなったんだってこと
を知った時の驚きと今現在彼女が持って いるそのやり場の苗どうし
て父親は自ら死なねばならなかったんだと
なんで俺の私の父は自殺したんだとどうし
たと教えてくれ ともうすでに父親がなくなり万歳をしてし
たですね自分たちがやっと今気づいたでも お兄ちゃんはまだ許せないと言ってるそう
ですけれどもそういうような 家族生きていた時もそうだし死んでからも
娘にまで連鎖させるような暴力の原因は 戦争だったっていうねそういうことがこの
中に書いてありますそれ からもう1つ
は えっとこれは後からあの読んでいビッグの
8月後にあの掲載されました特集されたん ですね
えこの中でえ北村スさんという大阪大学の
大学院の今教授をなさっている方が出てき ますがこれも是非あの読んでいただきたい
んですがこの方はおじいちゃんが戦争に 行きまし
たでおじいちゃんが戦争に行って息子に 暴力古いましたその息子っていうのは北村
さんの父親ですその父親がこの北村さんに
暴力を振りました裸に知って北村さんを ですね家家から表に放りやすとかもう散
ざっな暴力振るていつ自分はこの地方から 殺されるか分からないという恐怖感を持っ
たっていうなんかえ枕元にバットが置いた とかねそう
いう境遇のなんですよ今ちょうどやっっと 50になったどうか
ですで彼は高校時代は高校に行ってない ですね高校時代は引きこもりでし
たその父の暴力とかそういうことで精神を 壊してもっぱらその手の本を読んで高校
高校っていうかその青年時代を過ごしたと いうことを彼はあの話していますでこの間
9月3日の東京証言集会で北村さんが講演 をなさいましたがそこの中で
引きこもりですね今日本の中で引きこも りって言われてるのがもう10代20代 じゃないでしょ今本当に40代50
代自分ももう50になろうとしているけど も引きこもりだっった時代があって今も
本当にその引きこもり が日本の労働人口の2%160万ほどいる
と自分もそうだったけれどもその原因を 訪ねていくとどっかで戦争に結びつく可能
性がある父親がおじいちゃんが戦争に行っ て子供に対して暴力振るってそれが原因と
なって心の山になって学校に行けなく なるとし
たらその他にもあるわけですけれど も先の戦争で心壊した兵士
あるいは中国人なんでなんだ日本人こそが もう世界に最も優秀な民族だっていう風に
教育されて別子思想に凝り固まるような 教育を受けた日本のその世代の人たちの
子供たちである我々がですねその影響を 深く受けているっていうことをこれらの中
から私が見ることができるのではないのか なと思ってるわけですね話は大きくなり ますが私は確かに戦争に行った兵士たちが
心壊れて戦場体験でおかしくなってそれで 暴力振ったたていうことはまず気づきまし
たけれどもしかしそれだけじゃなくって あの戦争を経験したと言ったらですねま皆
さんはその経験した人たちの子孫にあたる わけですじいちゃんが生きていたから あるいは父親が母親が生きていた子孫が皆
さんだと思うんですけどもあの戦争の中で 逃げまった人々あれは親たちから暴力を
受けた人々の子孫なわけです皆さんが皆 さん自身も何らかの影響をおじいちゃんや
父親やおばあちゃんや母親からやっぱり 戦争で受けた傷とは連鎖し皆さんにどんな
影響を与えていないとも限らないという風 に皆さん自身も自分の様々なことをですね
あらどうだったんだとあの父親の恋は何だ と人生がどうだったんだということを考え
てみる時にその中にひょっとしたら戦争 っていうものあるのではないかという風に
考えることができるのではないのかなと 思うわけですね え声前置きなんです
けどそういうことで私 はこの活動2018年の1月17日にえ
PTCの日本系と暮らした家族が語り合う かを無しましてまたった1人でブログに
立ち上げましたっていう風にブログで宣言 をしたっていうのを立ち上げた日という
ことにしていますえっともうすぐ6年に なろうとしていますがそれでもわずかな
期間 ですで私はあの日本兵のptsaっていう
風にえ67歳今から8年前に気づきます けれどもそれはさっき出てきたアレン
ネルソンさんのDVDを見てあの悲しげな アレンさんの顔と私の親のあの悲しげな顔
がブっと重ったんですよでその瞬間に私は 一切を理解しまし
たの父親 も兄弟の上の兄たちからお前の父は優秀
だっ たっていう風に聞いてるんですよでも私の 目の前にいた中は全然そうじゃ
ない村の人たちからさえまともな扱いを 受けられないような子供から
もまともにちゃんと目で見てもらえない ようなそういう人生を送った父親です
から信じられませんでしたけれども
その時にあの父親のふっと悲しそうな顔と アレンさんの顔が重んた時に私は理解し
ました父親もそうだったのではないか と戦争に行ったおかげで心壊してあんなに
なったのではないかと子供からも馬鹿にし た自分も馬鹿にしていた近所も馬鹿にして いたじゃあ馬鹿にしていた俺は何を見てい
たんだと 本当の父親を見ていなかったんじゃないか
と違う父親変わってしまった父親を見てね
尊敬もできない馬鹿にしていたとしたら お前こそバカじゃないかと本当の血を
見抜けなかったお前こそ馬鹿じゃないか とそれが本当に一瞬にして一晩にして
ドーっと私の をアレンさんのDVDを見て
私の心 を来たのはそのことですでもいろんなこと
が全部私の中では解けた思いですね全部 解けた思いです自分のうちのあのマシさん
も貧乏もあれ兄貴と親父あれだけ仲悪かっ たのも私をちゃんとまともに一を見ること
はできなかった見たこともないのも馬鹿に してここまで来たの もそれは親父がバカやがあだったんじゃ
なくて戦争が操させたのかっていう風に 気づいた時にですねその憎しみであるとか
はどこに持っていけばいいんだとでしかも 私はその時
に私はその大学であの歴史を先行して高校
の歴史の先生になっつもりだったんですね まあの学生動のさ中で結局それはダメに
なるんですけど も歴史先行して東洋師を先行した自分で
さえ 日本軍兵士のPTSで壊し兵士がいる なんていうのはね聞いたこともないし
そんな教科書で教わったこともないしえ そういう小さを見たことがないあこれは
67歳にして日本の歴史の中に日本兵士の 中にPTSで心壊した兵士がい
るっていうことを黒野は日本人で初めて そのことを発見したと思ったんですよ本当
ですよこれ本当に今して見ればあバカ みたいな話ですけど実はそうして2018
年の1月17日にブログで立ち上げました けども同じ2018年1月1日にまえ今日
の資料の中に中村恵さんていう方の
えやっぱりビッグイシュの8月15日後に え語られてこなかった戦争とトラウマとは
ていうことでですねえ中村Aさんが紹介し ていますがえこのページの左下の方に戦争
とトラウマっていう本が2018年の1月 1日にあの発散されましただから私が
立ち上げた時は既にこの本が出ていたん ですねそれから右の方にえ精神障害兵士え
ちょっと下見えますが病床日誌っていうね えこれはあのえ埼玉大学の名誉教授の清水
博さんのが2006年にまこの本を既に 発散してい
ます清博さんから私いただきました いただきましたが専門書でほとんど私には
理解できないような中身でしたが既に研究 者もいたしそれから本も出てたんですねで
も私は知らなかっ た本当 になんで知らないんだってことですよそっ
から湧いてきた疑問はそうしたら先ほど の映像の中で出てきます
ねこれです ね先ほどの映像の中出てきますけども実は
専門病院があったと千葉県市川市に河野内 陸軍病院ですね
で日本全国から陸軍は最も優秀なえ精神
会議約50人を集めてあの調査研究する わけですねまあの表向きは治療ですけども
私はそう思っていません先ほどの映像の中 でも
えっと兵士を立たせてねで歩けっていう 医者が石歩けっていう風に指示している
シンがありますけどそのその指示はこう ですよ人間に対してこうこう
です病病人ですよ本当に脇から抱き抱えて
歩けるかっていう風に言うのが医者じゃ ないですかでそれ倒れるのが分かっている
のにですよでを倒れましたそういうお医者
さんがですね50人日本全国最も優秀だと いう風に言われているお医者さんが
えいてですね彼らを見ていたですでえこの
陸病院っていうのは陸軍のえっと防止 カタラ部隊ちょっと今正式に言いません
73部隊と同じ系列です同じ系列の
あの軍さんの部隊ですので研究している とこみんな繋がっています731はえ毒月
とかね生みの中国人使って研究していてい たということは分かっていますしでここで
はえ小陸軍病院ではですねなんでこうなる んだと半分疑ってるんですけどね警じゃ
ないかってでえなんですけれども同じよう なことでですが当時はえ自分たち毎日え
そういう壊し兵士を目の前で見て治療まで しているのに1人もいないって存在病院の
存在自身を隠していたということが分かっ ていますでしかもここに書いてあります
けども最後の病院長諏訪郎さんは50年間 の観光令
を職員たちに敷きました戦後ですねです からえあそこにあるカルテとかがあの民間
に公開されるのは本当にそれから50年後 なんですよ1995年頃です阪神大震災の
あの頃ですその頃までに隠された事実です あの映像に至っては2018年まで私たち
の目に触れることはなかったんです隠した ということですね戦争に都合の悪いことは
隠すっていうのはま戦前からそうでした けども戦後も隠す必あるんですか皆さん 本当
にその体質は今でも変わってないいう風に 私は思ってるんですねえっと私はですね
これはあのだんだんだんだんこの間私が 思えてきたせ心情ですね私の心情えをま皆
さんに伝えておきたいと思っていますで それはあのえ今ウクライナとロシアその他
にもですねこの間アゼルバイジャンと ちょっとあれですがあの戦争があ
引き起こされていますしえ世界中 あっちこちで内戦含めて戦争あります けれど
も戦争のない世界をどうしたら作れるのか とどんな行動を積み上げたりできるのか
考えましょうということをですね皆さんに ま私は呼びかけたいなと思うんです
ねどっちがいいとかどっちが悪いとかって 議論を始めると私はそれは不工事に入って
しまう本当の実際の情報なんていうのは誰 1人知ることはできないわけでみんな自分
に都合のいいような情報を集めて判断 するっていうのがま現状なわけでまそう いうことから考えてみてもあるいは
えという中でね私はやはり諸悪の光源は 戦争だ
と物理力で強い方が勝つっていう論理そう いうよな世界で積み上げられたものが
果たして安定的にそれ以降も持続継続する だろうかとやはり無理な力武力で傷
かき上げた世界というのは歴史見る 通りまあ100年200年続くことはあり
ますけども結局はやっぱり弱いあげられた 人たちがいつか立ち上がってそれに対して
破い彼らはいつか滅ぼされて違う世の中に なるいうのはこれまでの経過だったのでは
ないのかなと私は思ってるんですね物理力 や戦争や軍事力で抑え込んだ平和という
ものを私が信じませんやはりどんなに長い 時間かかろうともやはりとことん話し合い
をするべきだということを私は政治を出す 人たちにはえそのことを第1義に考えて
いただきたいなという風に私自身は思って おり ますであのえ今日の資料のですねえ1枚目
っていうかあのにえこれまた私は9月の3
日にえ東京証言集会でお話ししたことに 若干の過失はしましたがえこれもptsa
の父親を持ってですねああいう知を2度と 産まないっていうことはどうしたらいいの
かっていうことを考えた中で私が皆さんに
訴えたいなと思っていることでございます え読ませていただきます本日はこれ9月3
日の時点ですがたくさんの皆さんにご参加 いただきました心から感謝申し上げます
先月の8月15日前後には多くのメディア の皆さんからptsnの日本兵と家族の
問題報道いただきました戦前戦後と軍が 国民に隠してきたptsaの日本兵と家族
の問題がメディアの皆さんの報道によって 日本社会に明らかになりつつあります年を
ごに社会の注目とも高まっていると感じて いますちょっと飛ばします3業ほど社会に
語られず家族内の恥とされてきたptsn の日本兵と家族の問題が家族内に止めおく
問題ではなく戦争を始めた国家にこそ責任 があるのであって家族たちは社会に向けて
話して良いことなのだどと話すべきだと PTSの日本兵の家族たちは気づきつつ
あります時代は大きく変わろうとしてい ます今日の証言集会も時代が変わっていく
現場になるでしょう参加されて皆さんには その立ちになっていただき今日聞いたこと
見たこと実感したことをご自分の家族に 友人たちにお話し伝えていただきたいと
思います日本兵がptsaを発症した原因 は日本が起こして明治以来の中国朝鮮半島
アジアへの戦争と戦場体験に禁止すること 言までもないことです家族である私たちの
苦しみも元は同じです日本を始めた中国 朝鮮半島アジアへの戦争にありますしかし
皆さんPTSを発症して人生を台無しにし 家族生活をも破壊した日本兵父親たちは
戦争の多大の被害者でしょうかそうでは ないと私は思います日本を始めた戦争は
2000万人と言われるアジアの人たち そして連合国の兵士の国民の命を私たちの
父親日本兵は奪いました特に主な戦場と なったアジアで日本軍に襲われた人たちの
子孫の多くが今現在もPTSに苦しんで いることは確実ですptslの日本兵は
100万人対で存在したと推定しています が中国朝鮮半島アジアにはptsaの
日本兵とその家族の10倍以上にもなる人 たちが今もなを苦しんでいる連鎖して続い
ていることも確実だと私は推測いたします 私は日本が始めた戦争がもたらしたこと
日本兵の父親たちが作り今もアジアの多く の人たが苦しんでいるであろう負の遺産に
正面から向き合いたいと思います私黒井 明夫は日本軍兵士黒井慶治郎の息子として
戦争を始めた日本に今を生きる子孫として 中国の人たち朝鮮半島の人たちアジアの人
たちにそして連合国の皆さんに対してでも 血なした所業について深く深く謝罪いたし
ます本当に申し訳ありませんでしたお許し くださいPTの兵士や国民を生む戦争に
良いことなど1つもありません私は戦争の ない世界を作りましょうと皆さんに
呼びかけましたどのような活動を積み上げ たら戦争のない世界を作ことができる考え
ましょうと世界の人たちに呼びかけます私 は残された生涯を戦争の世界を作あげる
ことに尽くしますアジアの人たち約束し ます世界の人たちに約束します何があろう
と私は銃を人間に向けることはいたしませ ん銃を向けられたとしてもそういう事態に
は誇りを持って白旗を掲げますそして白旗 を掲げる人が賛同する人つでが日本国中に
広げる努力を続きますと約束いたします 私たちがPTSの日本兵の家族がその声を
あげればあほど国民がこのことを知れば 知るほど日本が2度と戦争をしてはいけ
ない誰も安心して暮らせる平和の社会に 近づくと信じてい
ます多くのメディアの皆さんに報道して いただき心から感謝申し上げますしかし
現状の私たちは取り上げていただくほどの 組織力もなく未熟な発展途上の弱小な活動
組織と自覚していますそれでも背負って いる課題は原爆被爆者の問題や者あなたと
同同列の重要な戦争と平和のテーマと考え ていますPTSの日本兵と家族の問題は
それあると同様に夜を問わない国民的な テーマとも考えています皆さんのお力添え
が頼りです引き続きのご支援を心からお 願い申し上げ
ますというのはですね私は9月3日に会場 にいらした宮さにえ冒頭でえお話持ち上げ
た内容であり ます付け加えましとえ当日はあの在日の
朝鮮人の方とかあるいは中国人の方 あるいは台湾の方が参加なせれましたで
ある在日の方からですねま私のちょうど そのお話が終わった休憩時間につつかと
団長団にいる私にあ近づいてきて色々言っ てたんですが1番私の心響いたのはそれは
ね自業知得だよって言われまし たまさにそうです自業知得です何百人も
殺した父親さん が苦しむのもそ事中やったこともあるから
そういう風にして帰ってくるわけですね私 たち家族
がこのように苦しい思いをしてるっていう 風に例え訴えたとしてもそれ
は被害を受けた襲われた側からすれば こんなの当たり前じゃないやった人間が心
がすんで当たり前じゃないです事業自得 だろって言われそれ当然だろうと思うん です
ねそれでも私はやっぱり信ずるわけです さっき主夜さん
が謝罪に行って土出して何百人も殺した人 たちに対してまそれでもね終わった後で
やっぱり手を握ってくれるじゃないですか そのことを私はやっぱり信じたわけ ですそういう風に何をね私を思っているの
かっていうことがやっぱり夜さんは平和な 日本平和な社会に尽くすていうことを本当
にもう計りかけたらね釣り合わないほどの 悪業がこう積重なっていますけどもそれも
彼の気持ちは中国の人たちに私通じた通じ たんだろうと思うんです
あの土屋さんもそうなんですけど私の主も えっと初人地はあの満州ですね旧満州です
が公州令っていうところ ですでえっと私の地はのこの写真だ
とこれですねでここに甲手令守備隊これ 東田川の側が抜けてますけども東田川区に
出身者一度昭8年で満事件の翌年ですから でこれが地です
ねで あの2020年の5月10日にえ私の家の
一角にえptsaの日本兵と家族の交流感 っていうま小さなえ発信基地を建てまして
今でも存在しています でちょうどコロナが流行始まったところで
大きなお祝いはできなかったんですけども それでも近所の人たちを集めてそれから ニュースにもお知らせしてえ2020年
同じ年のですねえ会館から3ヶ月ほど経っ た8月23日にえ村山布団を食べる会って
いうのをやりまして30人ほどのえ近所の 方方を中心にし集まっていただきました
そうしたらそこにですねえ車でいろんな をですね本当にあの車に積んでえコピー機
とかねそれから映像のカメラとかえ助手男 の人1人連れた中国人の女性の研究者がま
当時67歳っていう風に言ってましたで今 まあ70歳ぐらいだと思うんですけども 中国の歴史研究者の女性の方があ現役の
えっと中国のキ林床のえっと市販大学の
現役の大学の先生で今は日本でえいくつの 大学で軍事有備の研究をなさっていてそれ
から中国語も教えたりしているりソテさん という方がいらっしゃいましたであのえ
その時のことをですね1つ皆さんお話しし ておきたいと思います私はその
え中国人っていう風におっしゃいましたん で えま社交事例ですよねあなたは中国のどこ
ですすかていう風にお聞きしましたそうし たら え公衆って言ったんですよ
本当にまびっくりしますけども今ね10億 に住んでいて満州のその本当にま今はま
かなり大きい街だと思うんですが本当に 当時硬い中の硬い中ですでそこからそこの
甲司令で生まれたっていう風に彼女は言っ たんですねリソテさんとおっしゃる中国人
ってです私はもうおなかな肝が抜けるほど
てかびっくりしましたえなんでっ てあそこを訪ねてきた最初の中国人であり
最初の外国人がなんと父親がの二十歳で 初日であった皇司令生まれのねま散々な
ことをやったであろう公司令の子孫が私の 目の前に来たわけですよ本当にその時の
驚きというか私は一瞬にして理解しました 親父呼んだな
と 自分 がついに謝罪することできなかったけれど
も分かっているんであれえばお前が俺に 変わって目の前
に自分の初日で生まれた子供を送ったから
俺の代にあまってくれと ま偶然ですしそんなことありえない
とは思いますけどで も私はそういう風に運命のようなものを
感じてですね目の前のリソテさんに見てた
通りこに写真にある通りあんたの生まれた 子霊がね私の父が真っ先に行ったところな
んですよっ て中が皆さんじいちゃんやおじおじい
ちゃんおばあちゃんやあなたの父や 母親や親戚のたそ所たちになしてであろう
様々なまあ日本の言葉でが悪業というのが ねまそういうことについて私は謝罪をし
たいと本当に申し訳ありませんでした父親 を許してもらいたい
という風にリ帝さんに私は謝罪をいたし ましたま私は謝罪したつもりですで
そのそしてもう私はもう涙涙だったんで 細かくは覚えてないんですが気がついたら
ソテさん私の肩を抱いて握手して日中有効 日中有効っていう風に言ってまし
たその後でBさんからですねこういう風な メールが届きましたえこれをですね
えちょっと読ませていただきますえお父様 の代わりに謝罪してくださったことに中国
人としてとても感激しましたお気持ちと 戦争に関する歴史認識を中国に伝えること
にに責任を勝ました実はあの戦争は指導者 の責任だと思っていますお父様は普通の
庶民として戦場に重えたのであって黒井様 黒井さんのお父さんの責任とは言えません
お父様は加害者であったけれども被害者で もありました私たちは2とと戦争を起こさ ない起こさせない責任と義務を追っている
と思いますし誰も安心して暮らせる社会を 作っていく義務と責任を持っていると考え ます国境や民族を超えてまた人間として
平和の社会を作るためにお互いに協力し 頑張っていきましょう最後にオタの 素晴らしい資料官が前作に広がっていく
よう願っております私も及ばせながら中国 に帰る機会があれば黒井さんの活動を広く 伝えたいと思いますしこれからも民間
レベルの平和のための活動にお申しにして いきますお互いに頑張っていきましょうと こういうあのメールがえリーソテさんから
その後あの届きましたえこれはあの佐賀 新聞とか山形新聞とかですねえ事実通信を
通じて全国にあの流されました でこれはあこれはですね今え私の地の仏壇
にあのコピーしたもの額に入れて中にも 見えるように飾ってあり
ますもうイ見てくれとあんたがサザパやっ
たところの子孫が来てねあんたあんたは 加害者でもあったけど東でもあったこう
いう肝要なことをね言ってもらえてるよと
いうのをですねやっぱり私は中に見て もらいたいでまリソテさんはあのそれその
後ですねの交流私の間も続いてい て一瞬中国に行こうという風に言われて
ましてでそれであのえ中国語で黒さんの
気持ちを伝えればちゃんともっと伝わると いう言われてあの中国後のあの教科書です
ねあのと冊ドンと遅れてきたんですけども それからあのオンラインで授業もしてるん
ですがなかなか忙しくて参加できませんで それでもリさんは黒井さんあコロナが
終わったら行きましょうねっていう風に 言われてるんで日本人みたいに適当なこと 言わないですからねですからあのBさ本気
でそう思ってるんで間違いなく今年はもう ね時間がありませんけどももう中国からも 自由に来てますしリさは今年
えの1月かな初め頃に中国に帰ってますの
でそういうことも考えせると来年ぐらいね 私は中国にDさんと一緒に公衆令に行く
ことになるではないでしょう かまあのそ俺がどんな風な
あ出会いになってどんな風なことが買わせ れるのか私が話すのかまその場になってみ
ないと分かりませんけれどもそれでも やっぱり費さに負けないようなあちゃんと
父親のことをですねえ謝罪できてそれで こういう風にリさんから言ってもらいまし
たけれどもこれに近いような気持ちで中国 の人たちに理解してもらえればどんなに
幸せだろうなという風に思っていますそう いうことを含めて私たち日本人に必要な
ものは何でしょうか責められたら攻めるぞ と攻められたら自由を持って戦おうとそう
いう危害を持てとそういうことを私たち 日本人は戦争を終えて憲法にそのに変えた
でしょうか皆さん散ぱ攻めた日本人が攻め られたから自由を持って戦うっていうこと
を私は本当にしてもいいんでしょうかいう ことを私は皆さんに呼びかけたいわです
ねそれは夢物あたりで責められたら攻める しかないだろうっていうのはこれは一般
常識かと思いますけどもその考えでいる 限り世から戦争をなくすることは私はでき
ないという風に私は考えていますそういう こと で今あの私はですねあの
えっと小学生とかあるいは中学生高校生 大学生若い人たちにえ戦争しない戦争ない
社会をどうした作れるかみんなで考えて いこうと攻めたら逃げようとみんなでそう いうことを私今
え私にお話をくださったところであとあ
時間え私にくださったとこでお話をしてい ますこれは今年のえと8月にえここから
西東京市のえ学童クラブですね6歳から 10歳の子供たに私がお話をした時
のものですえ人を殺す人間にならないで ほしい6歳から10歳です私のえ孫娘が今
7歳ですんでね えあの孫娘でも理解できるかっていうのは
心配だったんですけどもでもやってみると ねよく理解するんです本当にびっくりし ますけど人を殺す人間にならないでほしい
人に殺され人間にならないでほしいって いうのをまず冒頭に私は子供たちに言い
ます逃げてもいいから生きてほしいって今 どことどこが戦争していますかとかこう
いう風に質問しながら子供たちに話を進め ていきますそうするブーっと手があってね ういなとかどんどん出てきますでそうだよ
ねってでこんな風にね戦争してるよねっ てこれを見てもらいます町が燃えるね爆弾
落ちた ねさんとお母さんと子供たち何をしてい
ますかお母さんはどんな気持ちだろうま こういう風に子供たちに話しかけ
ますこれからおじさんが黒いさんが見せる の中
でこれは自分のお母さんだと思って想像し てねってここで関られてるのは自分だと
いう風に思って想像してねってそういう 気持ちでこれからのこのえっと映像を見て
ねっていう風にお話をし ます
これどどう何をしているところかなという 風に聞きますねそうす逃げ逃げている
ところいう風に言いますでお父さんは戦争 に来ましたこれが自分のお父さんだよって
いう風に思ってみてねってお父さんと お母さん抱き合ってる よ嬉しくて抱き合ってるのかなという風に
子供たちに聞けばですね嬉しくないと悲し 悲しがって別れたくないからお父さんと
お母さん抱き合ってだ自分のお父さんと お母さんが抱け合ってるっていう風に想像 してもらいますお父さん戦争してるよっ
てほら お父さん泣いてるよっ
てほらウクライナは子供たちだよって楽し そううん楽しそうじゃ
ない捕まった兵隊これはロシアの兵隊です ねこんなんだよってさあお父さんが捕まっ
たらどうだろうお父さんどんな気持ちで今 いるかなって考えてもら
ますまそういう風に考えてもらってです ね戦争っって何だろうどんないいことある
んだろうという風に子供たちに聞きます もう1つ
は日本の戦争です同じことを逃げてもいい
から日本は昔戦争しましたどこと戦争し ましたかどこと戦争したかって去年あ
ちょっとメンバー違いますけど同じ 学童で話したらバーっと70人ぐらいから 手が上って子供たちが去年はねあの1人
ずつ聞いたらみんなアメリカアメリカ アメリカアメリカって言ですアメリカと 戦争したことは知ってるんですそれだけ
じゃないよって日本は1874に台湾戦争 しました189年日新戦争中国としました
その後ロシアと戦争しました台湾統括を 支配しました支配っていう言葉を子供た
知ってます韓国併合しました 日本のものにしましたこんな風に中国大学
でいっぱい爆弾を落としましたハワイを 襲撃しまし た
ついにアメリカの戦争になって日本に アメリカ軍が上陸しましたさあどこに上陸
したでしょうかていうと子供たちがブーっ と手をあります去年は去年はねその子供た
何て言ったかっていうと広島広島広島広島 って言ったんですで今年は
沖縄東京とかねいう風に去年聞いた子が
半分ぐらいいるんでそういうこともあって 分かるようになったでそうして沖縄でどう
なったかなって我慢に隠れたでもほら火炎 放射で殺されたよってさあ船で逃げようと
したそれをみんな沈められたよってあこの 子わかるってこれは降参ということで白方
持ってアメリカ兵のそこに行くんだよねっ
てでこの人たちも一緒にゾついていくねっ てこのどうなったかわかるって言ったら 助かったって言うんですで子供たちに
みんなどうこの女の子みたいに白方持って 行く勇気あるって聞いたら780にいる
子供たち誰1人手は上がりませんでした 怖いまそれは正直な気持ちだろうと思うん
です ねで最後 にこうなってね東京はこうなって広島は
こうなってやけのになって戦争ってなん だろうどんないいことがあるのだろうって
ああ子供聞いたら何にもないと戦争やって いいことが1つもないと今年もまて言って
くれました去年は子供たちが一斉に無味 です戦争どた無意ったんですこういうこの
ような形で本当に6歳から10歳の子供 たちに対してでもねう私は洗脳教育して
いるつもりはありませんでも戦争に行って いる兵士たちを自分の血母親っていう風に
考えるっていう風なことを切り口にして 今年は工夫してみましたま来年もあの同じ
先生方なんであの去年も言われてに来年も ある可能性があるし今えっと来年の1月か
2月に中学校で話をする予定もあります今 まで中学校高校から埼玉大学とかで話をし
てきましたけれもそこの中で私私が子供 たちに伝えたいのはこのことにつきます人
を殺す人間にならないでほしい人に殺さ れる人間にもならないでほしい逃げても いいから生きてほしい逃げることは何にも
恥ずかしいことじゃないんだよって人を 殺すことよりはかにわしだということを私 はこれからも伝え続けていきたいなという
風に思っているんですねでまあの今日は ですねあのもうもう時間が来て
ね本当はもうこれぐらいの時間があればえ 残りのえパワポンお話できたんですけれど
もこれがあの今あれですね私の地のあの 思いの中車場こっち側にあるんですけども
そこにのあるえ3M下3Mというね本当に ちっちゃいあのこれの半分ぐらいですよ
こんなちっちゃいあの建物ではあります けれども戦争はしません白旗を掲げ
ましょう話し合い和しまし話和解し ましょうこれは私がねたどり着いた境地な
んですでこれ これ を皆さんには呼びかけてるんですねえこの
前新州のお寺さんに行って新州の段階 700万もいるっていう700万も人たち
がこの白方を掲げたらねもう日本戦争でき ないよって私はそういう風に言いました
本当に皆さんには勇気を持ってね白方作っ てすぐに玄関前に掲げようと言わない
けれどもうちの中に掲げて来る人たちにね 私の気持ちはこれよってそういう人たちを
私は日本中いや世界中に広げたいなという 風に思っているわけであり
ますはいえということですねえ1個もあの 質問取らなかったというとあの評はあそれ
からもう言ってえ今日はですねあのえ PTSの日本県と家族の思いと願いていう
これあのえ6月9日に発散して2000部 えずりしてえ売れまして今荷造りに入った
ものを今日あのそこの外に出たとこで言っ てますのであのPTS日本の家族の証言集
っていうのはこれ日本で初めて出ましたし そういう意味で言えば非常に歴史的な本だ という風に思っていますし私は日本人で
あればえ本当に戦争のことを知りたいと いうことであればあ質書だという風に思っ
てますので是非読んでいただきたいという 風に思っておりますはいえ短い時間で 申し訳ないですけども
えっと質問とかあるいは感想とかありまし たらよろしくお願いしますありがとう
ございまし [音楽] たさありがとうございますあの黒さんは実
はこの三玉平和古流会の実行委でござい ますのでつまりこれが終わりましても会場
のどこかにおりますのであの質疑応答とか ご感想は直接お話しいただければいいなと
思ったのであのもうあえて途中でお話司会 のでタイムコントロールせずにも最後まで
あの黒さんにお話していただきましたと いうことで5分しかないんですすいません
あのこの5分の範囲であのご質問あのご 感想あれば受けてまりますでそれが終わり
ましたらあのさんどっかに終れますもんね このはいあのこれがですねこれ白方です
けども今日あの2階で展示してますこれも 全部展示できなかったんで半になってます
けどぜひご覧になってあのいただきたいと 思いますあ大体このにいます私はいちなみ
にあの下のその黒さんのところのあの展示 ご覧になった方ってどれくらいおられます
じゃご覧になってない方もおられるよう ですから是非この後2階に降りてあの新聞
記事全部掲示しておりますので是非ご覧な あの下のフロアでご覧なってくださいあの
で黒さんにもあのどんどんお声がけ くださいもしこの時間の範囲内であの質問
されたい方おられましたら挙手をお願い いたしますああの鶴さんあの今あのえ小景
官というえっと商業兵戦争商業兵のえあの
政府証人あの長官のえ普段にあるえ消癌に
えPTSでの展示をえ併設していただき
たいという活動されてるとってるんですが え経過を何かああればお聞きしたいな
とはいありがとうございますえっと小計官 が九段にありますねそれで
あの去年のお3あ今年ですねごめんなさい 今年の3月の15日に衆議院衆議院の厚生
労働委員会でえ共産党の宮本徹議員がえ この問題を取り上げましたそれで
え兵士も苦しんだしそれから子供たち家族 も苦しんでそれが未だに続いている現状が
あるとえこれをえ語り継ぐということは 日本にとって大事なことではないかという
こと を加藤厚生労働大臣にえ質問をいたしまし
たでえそれが3月15日ですねで加藤労働 大臣労大臣は
えっと戦争で気づいた人たちのをそのこと
を語り継ぐ期間として小景官というまあの 国の施設があるとでそこでえ心痛めた心
壊したPTSで含むえ兵士たちの展示に ついても検討さえ検討調査し検討すると
いうことをお約束いたしましたでえこれは 3月15日のでありまして
えそれからちょうど半年経ちましたんでえ 私どものメンバー6人でえ9月の21日に
小官訪問してその後どんなえ厚生労働省 から指示があり検討が住んでいるのかと
いうなことをお尋ねいたしましたがまあて に言うと何にも進んでない
とで言ってたのはあのPTSでっていう
まあまああの戦後特に戦後に関しては カルテが残っているわけでもないしえその
こと自身をどういう風にあの確かにそうな のかっていうなことまで含めてあのま
分かりやすく言えば証拠であるとかねえ そういうのの審査をどうするのかとか色々
その面倒なことをおっしゃってましました けどもいずでにしもあおっしゃるのはいい
けどもじゃあその審査の基準とかっていう のをですねま学者さんがもうアメリカ
なんかであれば30何項目ずらっと項目が あってこれに該当すればPTSっていうの
はもう簡単にあの子供たちが親の状態を見 て判断できるわけなんではいあごめん
なさいというようなことでですねあの交渉 が進んでいるということでありますすい ませんあのまた下にいますんでお話し
ますどうもありがとうございます
じゃああ黒井さんありがとうございました 申しますえっと私は山形出身ですはいそれ
でえっとね今日後ろにいるあの知人の方 から紹介されて5本も証言集も読ませて
いただきましたであのデのボの映像も見て いますで私の父はどう世代だと思います
あのそしてえっと全く黒井さんのお父様と
は違ってまあ本当に優しくて戦争のなん
だろうその傷跡も偏も何も見せないような あの人でしたですただあのなんでしょう
脇腹のところに傷はありましたで戦争の ことは一言も話さずにもうやっぱり墓場
まで持ってってとてもいい父の思い出しか なくもうあのえっとうん旅立ったんです
けれどもやっぱりその時代私あの私もま 戦後までですけれどもその時にいろんな
思いあのあの教育も受けましたしいろんな ことも分かってますけれども本当にこの
PTSでっていうか日本のあのアジアに 対する加害性みたいなものが本当に何にも
伝えられない学校でも多分あの歴史の中で もきちっと私たちは教わってないしうちの
父はえっとね写真があったんですね パディアインドネシアそれからタイリクに
も行っていますそういうものがちゃんと あの写真として残ってるんですねだから ひどい時代にではなくその場はずれてたの
かもしれないんですけど大変な思いはしの にその辺のことはあの子供には何にも伝え
ずにあのもう行ってしまったっていうな 状況はあると思いますただ今日伺って やっぱりあのアレンネルソンさんのあの
映像も前私は見てますそしてあのPTSD っっていうあの鮮明ではないけれどもま
その辺のあのことも多は分かってるんです がそのことを気づいた黒井さんがやっぱり
きちっとね活動につなげて始められたって ことにやっぱりすごく経由を表します えっとそれであのこのPTSDの問題は
高野大の病院のことをね私もなんか前の ことで知ってはいるんですけど本当に
いろんなことがなんかねあの断片的であの まとまったところできちっとあの何
でしょうこう普通私たちあの一般の市民 たちにまなかなか伝わってこなかったん
ですけどもそのこともやっぱりあの黒い さんがこうやって活動を始められたことで
とても大事なことが歴史的にせあの考え 被害の部分が鮮明にすごくなられたと思う
んですねそのことはとっても本当にああの 本当に貴重で大変なことだったと思います
それから えっとそうですねそれで1番今日あの最後 におっしゃってた学童クラブの子供たちに
もやっぱり次の世代の子供たちに次にどう やっぱり平和を気づくために戦争をどして
いけないで殺してはいけないのかその辺の ところをきちっとこう分かる形で伝えてる
活動につなげてってるっていうことは とても大事なことだと思いますねあの本当
にに肝心なのはあの公民科教育をずっと 続けてしまった日本の歴史教育あの学校
教育そのことの反省の元にやはりそのこと を踏まえて次に私たちが何ができるかって
ことをやっぱり1人1人がこうあの肝に 命じて考えることもしなきゃいけないなと
つづく今日も思いさせられましたですから 次にあのほらまた大学とか高校なんかでも
お話しなさるっていうことで是非その辺の こともあの今日のえっと感想と通りにあの
ご質問として続けられてる方あのこれから の方向性もりたいですありがとうござい
ましたはいありがとうございまし たえっと最後のあの私のコメントで終わる
といことですのでえっと今あのお話どうも ありがとうございましたあの今日もねま
年配の方が多いんですけどもあのやっぱ 若い人たちにま皆さんていえ自分の子供た
あるいは孫にですねやっぱりあのちゃんと 伝えようっていうことだと思うんですで
その子供や孫たちがまたえ次の世代に日本
はこんなことをしてどんなに苦しんだか どれだけ所外国に恨れたかでそういうこと
が今の日本社会のねアジアでの位置である 作っていると思いますのでそういう点で
本当にあのえなかなか難しいことだと思い ますけれどもあの子供たちにえそれから孫
にですねどういう風に伝えたらいいの かっていうことをま今日は私あれ参考にえ
ちょっとさせてもらいましたこの前あのえ 新聞赤旗の記者さん女性の方ですけどおこ
さん小学生2人連れて来られて私同じよう にこれをこのようにして子供たち2人にお
話したらねあ私もどういう風に子供たちに 伝えていいかわかんなかったけどもこう
いう風なやり方をしたら伝わるのねって いうすごい勉強にやりましたっていう風に 言って帰りましたですからそんなに難しい
ことでありませんはいということで頑張り
ましょうどうもご質問あのコメントどうも ありがとうございましたえっと少し時間が
えっと押してしまったのですがえっと学習 会一応これであの終了させていただきます
もう一度黒井さんにあの拍手をお願い いたし
ます DET
===
No comments:
Post a Comment