Amazon.co.jp: 帝国日本の植民地を歩く: 崔 吉城: 本
帝国日本の植民地を歩く Tankobon Softcover – October 15, 2019
by 崔 吉城 (著)
3.9 out of 5 stars 8 ratings
忘れたい過去,受け入れ難い遺産を,どう処理すればいいのか。
憎しみ(反日感情)や英雄(殉国者)はどのように作り出されるのか─。
日韓の狭間に生きてきた文化人類学者が,かつての植民地で見聞きし考えたこと。
**
私は、日韓関係にはいつも潜在的危険性が内包されていて、表面的には良好な関係であっても、いつ爆発するか分からない爆弾のようなものであり、また、良好な状態が持続したとしても、それは長くは続かず悪化すると思っている。なぜ、韓国では反日感情が強いのか─。反日感情の根源は日本の植民地にあるのか。反日の原因はどこにあるのだろうか。反日の本質を知るために、反日感情を理解するために、私は植民地を研究することにした。本書では、主に現地を訪ね、直接見聞きしたものを中心に、日本の植民地だけではなく、世界史的な植民地を歩いて調査した事例を挙げてその意味を考察してみたい。(「はじめに」より抜粋)
192 pages
Product Details
Publisher : 花乱社 (October 15, 2019)
Publication date : October 15, 2019
Language : Japanese
Tankobon Softcover : 192 pages
Customer Reviews: 3.9 out of 5 stars 8 ratings
Customer reviews
3.9 out of 5 starssh
朴 仙容 1947年生、在日コリアン二世。㈱海龍 相談役
4.0 out of 5 stars 読後感
Reviewed in Japan on October 29, 2019
民族的なエゴのないニューカマーの著者(崔吉城教授・東亜大学)の力作。反日・親日に対する新しい視点のアプローチだ。アジアには反日文化圏と親日文化圏があると著者は言う。反日文化圏は朝鮮半島から大陸へ広がる。中でも韓国の反日感情が一番強い。台湾や南洋などには親日文化圏が広がっている。台湾では植民地時代の日本文化が日常の中に残り、台湾総督府の庁舎は中華民国総督府に利用され、観光スポットになっている。対照的な反日韓国の朝鮮総督府は植民地化された屈辱の象徴、存在を放置できずに破壊した。なぜ韓国の反日感情はそれほど強いのか。著者は反日の本質を理解するために植民地を研究、現地を訪ねて直接見聞きしている。帝国日本の植民地だけでなく、列強の植民地も歩き、その地その地の事情・事例を挙げ、その意味を考察しているが、著者自身が反日だ、親日だと指差され、憎しみの対象にされたこともある。韓日の「かけ橋だ」と言われ、嬉しく受け取っていると、突然その立場から突き落とされた苦い経験も多いようだ。著者を中立な人と評す人がいる。問題意識は強いが、文中には中立や客観性を意識した言葉の繕いはない。誤解を恐れる記述もない。植民地を歩き、見たまま聞いたままを考え、韓国人の反日感情の根源を探求し、韓日関係の悪化原因を率直に綴っている。韓日両国人の相互理解を進める解説書として評価している。
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崔吉城
5.0 out of 5 stars 山路と下川両先生の書評
Reviewed in Japan on October 15, 2019
崔吉城 先生
『帝国の植民地を歩く』、ありがとうございました。興味深い内容で、一気に読み通しました。以下、読後感を述べてみます。
「戦後、半世紀をはるかに超えているのに、韓国においてはまだ多くの国民の意識構造の中で植民地は終わていない」(p.26)という問題関心から出発した本書は、1970年代まで主流を占めていた植民地研究、具体的には井上清、遠山茂樹、家永三郎、大江志乃夫らの左派的、もしくはレーニン主義的立場の研究とは隔絶の差異を見せつけている。結論的に言えば、ホセ・リサールやガンジーを例に挙げながら、「植民地政府の恩恵を受け」つつ、彼らの内面的には「裏切りと報恩の葛藤が存在し」ていて、だからこそ一層、「民族主義的」立場を止揚して「人間の平等と平和を追求する」(p.176)立場からの歴史記述が必要だ、と説くことにある。この主張こそが、本書に一貫した立場である。この立場に賛同したうえで、いくつかの話題を取り上げてみたい。
1) 本書では、中心課題に植民地当局が建立した文化遺産の評価づけが大きな比重を占めている。ここで、評者が見聞した話を付け加えてみたい。中国東北部の長春には満州国皇帝の溥儀の宮殿が現存していて、今では観光名所になっている。しかし、この宮殿は仮の建物であって、終戦まじかには本宮殿を建てようとして、今の長春駅から南へ数キロの場所に敷地(公園)を用意し、その土台造りに着手していた。しかし、敗戦により計画は頓挫する。戦後、中国政府は、幸運にも残っていた設計図をもとに本格的な宮殿を建立する。現在、広大なその公園には復元された宮殿が威容をもって建っている。2010年、評者が吉林大学を訪れた時、そこの大学の先生に、こう質問した。「韓国では総督府の建物は日帝残滓ということで取り壊されたが、なぜ中国ではわざわざ復元したのですか?」その先生は笑って、「たぶん、もったいなかったからでしょう。」
その時、中国と韓国とで植民地遺産の扱いが違うのに、評者自身は戸惑ってしまいました。もっとも、歴史遺産は時の政治権力によって扱いが違います。1983年、中国の済南・曲阜にある孔子廟に行った時のこと。文化大革命が終わって7年後です。孔子廟内にあった康有為 (清朝末期の開明派)の銅像は無残に打ち砕かれたまま、そして東岳大帝を祀る岳帝廟はいまだ修復ならず、という状況でした。「文革四人組」による「四旧」打倒の爪痕、いまだ癒えずという状況は悲惨さを感じさせました。こうしてみると、時代によって、時の政権、権力の在り方によって、文化遺産は残されたり、復元されたりするものであって、韓国でも、いまは「日帝残滓」ということで破壊されていても、後世には復元されるのかも知れません。問題は、後世の人間が、いかなる歴史認識を持って植民地建造物に普遍的な美的価値を与えるか、ということになるでしょう。
2) この件で言えば、シンガポールのラッフルズの記述は興味がそそられました。軍政の問題と切り離して、文化遺産に関して本書に付け加えていえば、ラッフルズの業績は偉大です。ラッフルズ・ホテルはその一つですが、このほかラッフルズ博物館の存在も重要です。本書では触れられていないので、いささか補足しておきたい。ラッフルズを記念して命名された、この世界的に有名な博物館は、戦時中に危機に瀕しましたが、図書文献や展示品の散逸を防ぎ、その窮地を救ったのは、日本人学者の貢献でした(田中館秀三1944『南方文化施設の接収』、山路勝彦2004『台湾の植民地統治:無主の野蛮人という言説の展開』)。こうした学者の献身的行為でラッフルズの名は今もかがやき、文化遺産は守られてきました。文化遺産という観点から、こうした学者の存在は闇に消してはいけないと思いました。
3) アイルランドのケースメントの歴史的位置づけは、日本人には馴染みが浅かっただけに、貴重な紹介です。70年代の日本で紹介されても、植民地統治に加担した人物の典型として片付けられてしまうでしょう。ここで思いされるのは、独立宣言(3・1)の唱道者で、かつ建国大学(満州国)にいた崔南善であり、有名なダンサーであった崔承喜です。こうした人たちが、ケースメントとともに、再評価されるのは、「善と悪」との二分法では歴史は語れないという基本的事柄があることです。
本書の一番の評価点は、この論点を真正面から論題に据えたことにあります。植民地統治者と一般住民との間に立つ人物、すなわちコラボレーターに光を与えることによって、歴史記述はいっそう深みを増してきます。こうして、21世紀、人類学者が組み立てる歴史研究がさらに発展し、「善悪の彼岸」に到達できるよう願っています。本書が、そのための導き手になることを期待してやみません。
下川 正晴先生の書評
10月16日 15:45 ·
韓国の「反日」を、辺境から、考える!!!
崔吉城『帝国日本の植民地を歩く』(花乱社)を読み始めた。以前、韓国語版を読んだことがある。著者は歴史学者ではなく、文化人類学者である。つまり、思考が柔軟である。笑笑。フィールドワークを通じて感知した「反日意識の形成」考察がまことに興味深い。
ソウル大を卒業し、広島大学などで研究を重ねてきた崔教授は「反日だ、親日だと言われ、時には『日韓の架け橋』とも言われた」人物である。そのアンビバレンツな立ち位置が、民族感情の形成史研究を平衡感覚のあるものにした。
第1章「反日と嫌韓」は、一般的に「反日文化圏」と見なされる朝鮮、中国などでも地域によって色合いの違いがあることを指摘した。典型的な例が旧満州、樺太、中央アジアの朝鮮人の日本に対する視角である(写真参照)。文末にサハリン在住の韓国人のコメントが載っている。「日本がそのまま支配していれば、大金持ちになっていたのに」と言ったというのである。こういうコメントを平気で紹介するのが、崔教授の真面目である。
僕はソウルの大学で客員教授をしていた頃、似たような発言を耳にした。MBCテレビの女性レポーターが、独島(竹島)問題取材のために鬱陵島に出かけて、島民をインタビューした。すると、ある老女が「鬱陵島もそのまま日本領土だったら、もっと発展していただろうに」と言ったのだという。もちろん、彼女はその話を放送しなかった。笑笑
日本にしろ、韓国にしろ、何処にしろ、辺境に行くと、国家の正統的な言説が突き崩される証言に遭遇する。崔教授はそういうフィールドワークを重ねてきた碩学である。考えるヒントがあちこちに散りばめられた良書である。
菅野 修一
20時間前 ·
最近、崔吉城先生の最新の『帝国日本の植民地を歩く』(花乱社)1600円 を読ませていただいた。
私は、チェキルソン先生の本は『恨の人類学』『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実』『朝鮮戦争で生まれた米軍慰安婦の真実』を読んでいるが、今度の本はタイトルとは異なって南アフリカ共和国、アイルランド、フィリピンなども含めて、世界各地を旅して、旧植民地国の人々の旧宗主国に対する感情を調査した旅行記のような体裁をとったノートであった。ホセ・リサールやセシルローズやラッフルズなど、日本の高校の世界史B教科書ではおなじみの人物が登場し、それだけでも世界史B学習者にはとりつきやすいと思う。
その結果、結論は言わずもがなで、韓国だけが異常に旧宗主国日本に対する反日意識が高いとしている。何故そうなるのかについては、マスコミ、教育の問題、反日意識が韓国の政治抗争の道具として利用される傾向などがあげられており、したがってまだ意識の上で植民地状態を逃れられていないという分析であった。
そして、旧ヨーロッパの植民地には、本国人の白人が今でも現地で生活している例が一般的だが、旧日本植民地では満州国も含めて、日本人は一掃されたという指摘もある。
私は日本の植民期間が短かったことも理由であると思うが、旧植民地側が中国や朝鮮のように、かつて高い文明を保持していたのを、山県有朋などの(田舎者のー半藤一利氏)明治政府の指導者がこれを理解していなかったことが大きな原因であると思う。朱子学などは全く理解できなかったわけだ。(この話については、これからもつづきを書きたい)。
学術論文ではなく旅行記の体裁で読みやすく、そのうえ大変内容的に斬新な良い本なので、(ただし近所の本屋には未だ無いようなので注文になるが)、是非、買って読むと良いと思います。決してお若いとは言えないチェキルソン先生が若い時期のレヴェストロースのように、研究のためなら地球の反対側までも飛び出していくという行動力には、大きな敬意を表したいと思います。
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酒井董美
5.0 out of 5 stars 他国を侵略することは害悪である。
Reviewed in Japan on January 22, 2020
著者は文化人類学者。1940年韓国京畿道揚州生まれ。広島大名誉教授、現・東亜大教授である。
本書は題名の通り、第2次大戦時代、日本の植民地だった国々を訪問し、それぞれの国の人びとが、どのように日本を感じているかを確かめ、冷静に分析した労作である。内容は以下の6章から成っている。反日と嫌韓、反日暴力、シンガポールの植民地遺産、展示された「戦争」広島平和記念館と南京大虐殺記念館、植民地残滓の肯定、植民地と被植民地の狭間で。
著者は「はじめに」で…日本植民地だけではなく、世界史的な植民地を歩いて調査した事例を挙げてその意味を考察してみたい。私自身が反日だ、親日だと言われ、時には日韓の〝架け橋〟とも言われたが、その橋から落下してしまうようなことも多かった。…と書いている。「おわりに」では…私は日韓の狭間で生きる。ある出版社は私に「中立派」だというタイトルを付けてくれた。光栄である。…としている。そして次のように両国を観察し、分析している。
祖国である韓国に対して…私は八月十五日を、解放記念日であり、同時にもう一つの暗黒の始まりとして重く受けとめるべきであると思う。(中略)…戦後指導者たちが南北の民族分断を固め、朝鮮戦争、独裁軍事政権への暗黒の道を辿ることへの批判として受け止めたからである。韓国は反独裁民主化によって独立したのであり、解放によって独立したとは思えない。(86ページ)…と述べている。一方、日本について、原爆ドームを見る人びとを…戦争を起こした日本人自身がこの展示を観ながら、日本人が加害者であったことをまったく意識していない。(90ページ)…と手厳しい。
本書によって、両国の中に占める歴史問題をはじめ、考えなくてはならない課題がいろいろと見えてくる。両国の為政者にこそ必読を勧めたい書でもある。
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徐 淑子
5.0 out of 5 stars 「植民地遺産」をどのように受け止め解消していくか
Reviewed in Japan on February 27, 2020
日本と韓国の両国で多数の著作がある文化人類学の第一人者による書物である。副題は「文化人類学者の旅ノート」となっている。著者によるフィールドワークに基づいてはいるものの、この本自体は学術書ではないという構えである。しかし、旅行記として読める部分の間あいだに、植民地支配と近代化、植民地からの独立・解放と民族主義・愛国主義、暴力と破壊、文化表象、歴史の記憶などの問題についての、著者の長年の研究成果を踏まえた論考が挟まれている。つまり、本書は、植民地遺構(主として戦前の日本領)を巡るダークツーリズム・エッセイにとどまらない内容を持っている。
特筆すべきは、その構成である。研究者として、生活者として、日韓関係の変化にじっくりと向き合ってきた著者は、本書でもまず、韓国における反日感情の問題から筆を起こす。そして、アジアには反日文化圏と親日文化圏が存在するとして、中国・南京大虐殺記念館の展示を大陸中国における反日文化の一例として触れながら、次いで、台湾やシンガポール、パラオなどいわゆる旧「南洋」社会における、日本や日本人に対する肯定的な態度について、考察をめぐらせる。
「植民地残滓」を経済的にも活用可能な「植民地遺産」として肯定するのは、日本の支配下にあった旧「南洋」だけでなく、欧米が宗主国となっていた旧植民地などにもしばしば見られる。著者の旧植民地をたどる長い旅は南回りにアジアを離れ、アパルトヘイトという深い傷を負った南アフリカ共和国にまでおよぶ。南ア社会に旧宗主国イギリスが残した影響を、近代化プロセスと関連させながら考察する。
その後、旅の目的地は、本の構成上は南アフリカから北上し(時系列的には、著者のフィールドワークと一致していない)、同じくイギリスによる支配を長年受けてきたアイルランドに向かう。よく知られているとおり、アイルランドでは今でも英国への反発が強い。それに重ね合わせて、著者は、東アジア植民地支配の特徴とされる「近接性と近似性」について検討する。「似ている」「近い」という感覚は、他者認識の弱さとなり、同化政策が強く発想されることにつながる。
著者の旅の最後は、スペイン、日本、アメリカの植民地支配を経験したフィリピンである。独立運動の父と呼ばれるホセ・リサールの足跡を追いながら、締めくくりで、民族的な英雄に悲劇の構造を重ねて神格化する現象と、愛国主義の限界などを指摘する。本書の第1章では、朝鮮半島の愛国者(金日成や安重根)や、中国の愛国志士の物語化について触れており、本書の終章で、長い旅の始まりに戻っていくという構図が見える。
本書は、著者が、自分の生まれた国である韓国社会における反日感情を、文化人類学の立場から批判的に検討するという動機によって書き始められている。しかし、本書はいわゆる親日・嫌韓を煽る書物ではなく、日本の読者にとっては耳を塞ぎたいこと、罪悪感を感じたり、逆に反発したくなるようなことがらも、率直に記されている。著者は、東アジアの反日感情に非合理的な側面を認めるが、そのことと引き換えに、日本の植民地支配による被害や非人道性を帳消しにしはしないのである。むしろ、直接的な植民地経験をもたない現代の日韓市民が、反日か親日か、嫌韓か親韓か、善か悪かという単純な二元論に身を委ねてしまうのは、どのような意識構造に由来するのか見定めることを静かに主張している。本書による長い「旅」の後には、東アジアに限らず、世界の旧宗主国・旧植民地が、それぞれ「負の植民地遺産」をどのように受け止め解消していくかという課題を負っていることが理解できる。日韓関係の困難な時代であるからこそ、読者に薦めたい書である。
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