『人新世の「資本論」』斎藤幸平さんインタビュー
マルクスを新解釈、「脱成長コミュニズム」は世界を救うか
気候変動を日本で論じる必要性を感じた
――人新世とはどういう時代でしょう?
まだあまり一般的には使われていないので、難しそうなイメージを抱いてしまうかもしれません。地質学の概念なのですが、言わんとすることは単純です。人類の経済活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味です。
たとえば、地球のすみずみまで、人間が作った道路やビル、河川敷、農地などがありますよね。海に目を向ければ、海洋プラスチックゴミだらけ。大気には、拡大する経済活動のせいで、二酸化炭素が増え続けています。さらにはプルトニウムやセシウムが飛んでいる地域もある。とにかくどこに行っても、人類の活動がなんらかの形で覆ってしまっています。
これをどう見るべきでしょうか。人間が地球全体を自由に支配し操れる時代になったわけではありません。むしろ逆に人間が制御できないような、様々な自然現象が生じている。その際たる例が気候変動です。気候変動の影響で、スーパー台風、ハリケーン、山火事などの異常気象が発生しています。このまま放置しておくと、水不足や食糧危機などの問題が起き、生物の多様性が失われて、多くの場所が人間の住める地球環境ではなくなってしまう。そういう時代に突入しているということです。
――日本でも近年台風や洪水などの異常気象が発生していますが、なんとなく他人ごとのように考えている人が多いように思います。しかしかなり喫緊の課題であると。
他人ごとのように感じているのは、東京など大都市に住んでいる人が多いと思います。東京はインフラが凄く整備され、守られていて、水害の被害も少ない。仮にどこかで水害が起こったとしても、スーパーの食品棚に直ちには影響はありません。しかし地方では、農業を営む人たちは台風で収穫が台無しになるたび、危機感を募らせています。漁業を営む人たちは、獲れるはずの魚が獲れなくなっていることに気づき、すでに困っています。
『人新世の「資本論」』では、他者の犠牲の上に成り立つ大量生産・大量消費型の社会を「帝国的生活様式」という用語を使って批判しました。日本などの先進国で暮らす人々は、豊かで便利な暮らしを送ってきました。スーパーやコンビニに行けば何でも手に入ります。しかし、それは途上国の人々の犠牲の上に成り立っているのです。
資本主義は徹底的にグローバル化を進めることで、フロンティアを開拓し、そこで自然や労働者を搾取してきました。例えば、大量生産されるファスト・ファッションの洋服のコットンのためにインドの土地は疲弊し、労働者たちの健康は蝕まれています。そして、コットンを縫製するのは、劣悪な労働条件で働くバングラデシュの労働者たちです。しかし、それらは、遠い外国の話なので、その劣悪さは不可視化されてきました。しかし、グローバル化が行き着くところまで行き着いた結果、ついにフロンティアがなくなり、外部化する余地がなくなってしまった。だから、日本でも少なからぬ人が否定的な影響に直面するようになり、安い労働力として搾取されています。自然環境を痛めつけてきた典型例が気候変動ですが、日本国内でも異常気象による災害が起きています。このまま資本主義が続けば、ますますひどい事態になるでしょう。
すでに多くの日本人は、おかしなことが起きていると感じている。でもこれまで通りのやり方を続けることしか知らないし、続けたいと思ってしまっている。そうじゃない別の道について、ほとんど誰も議論していません。私は今回の本でその見方を変えていく必要があるということを書きたかったのです。
気候変動という「人新世」の危機の乗り越え方も、経済成長して技術を発展させ、その技術で対処するという考え方が主流です。しかし、経済成長が続く限り、二酸化炭素の削減は間に合いません。だから、資本主義による経済成長外の道があることを示さないといけないと思いました。欧州ではグレタ・トゥーンベリ(2003年生まれの環境活動家)たちが「新しいシステム」を求めている。そういう明確なメッセージ、つまり資本主義ではない別の経済システムが可能であることをこの本で打ち出せば、日本でもその考えに賛同し、行動してくれる人たちも出てくるんじゃないかと考えたのです。
晩年のマルクスの研究ノートにヒント
――本書ではその状況の解決策として「脱成長コミュニズムが世界を救う」としていました。これはどういう概念でしょう?
最初に触れたように、「人新世」に人間は地球環境から収奪を繰り返し、このままでは後戻りできないところも越えてしまう。そのような状況で、これ以上成長をやみくもに追求することは不合理でしかない。たとえば、リニアを新しく建設して東京から大阪まで1時間早く到着できるようになり、1時間多く働けるようになったところで、人が住めない環境になれば意味がないわけですよ。害悪をもたらす成長や効率化を目指すのではなく、地球の特定の限界の中で生きていく。これが脱成長のメッセージです。
脱成長というと一般には、清貧とか、貧困のイメージがあるかもしれません。しかし、むしろ経済成長を求め続ける間に、労働条件も、地球環境も悪化しているじゃないですか。むしろ、生活は豊かさを奪われる一方です。飽くなき成長を求める資本主義から脱出したほうが、99%の私たちは、豊かになれるはずです。
資本の増殖に歯止めをかけるのは、資本主義にとっては致命傷なわけです。資本主義は絶えず膨張していくシステムなので、脱成長と資本主義の両立は不可能なのです。資本主義を超えるような社会に移行することでしか、脱成長社会は実現できない。その時に決定的に重要なのが、<コモン>(注:社会的に人々に共有され、管理されるべき富のこと)の領域を広げていくことです。資本によって独占されてしまったものを、もう一回人々のもとに取り返していくということです。
今は一部のIT企業やその経営者があらゆる資産や知識を独占してしまっているわけです。彼らはものすごくお金持ちになっている。しかしそうした企業の倉庫で働いている人は不安定な生活を送っている。
ありとあらゆるものを囲い込んで商品にしていく社会ではなく、そうした状況を解体していって、みんなで<コモン>の領域を再建したほうが、多くの普通の人たちの生活は安定していきます。つまり、教育、医療、家、水道、電気などのいろんなものを、市場の論理、投機・投資の論理から引き上げていく。みんなでみんなのものとして共有財産にしていく。<コモン>を広げていった社会がコモン型の社会、つまりコミュニズムということですね。そういう意味で、脱成長コミュニズムを提唱しています。
――斎藤さんは晩年のマルクスを新しく解釈することで脱成長コミュニズムというヒントを得たそうですね。新たなマルクス・エンゲルス全集のプロジェクト『MEGA』の刊行が進んでいるそうですが、特にその中の新資料のマルクスの研究ノートに着目していました。どのような新しい解釈ができるのでしょう?
今まで一般には、マルクスはこんなふうに理解されてきました。資本主義の発展とともに、資本家は労働者を搾取し格差が拡大する。資本家は競争に駆り立てられて、生産力をどんどん発展させていく。ますます多くの商品を生産するようになる。しかし、低賃金で搾取されている労働者たちはそれらの商品を買うことができず、最終的には過剰生産による恐慌が発生する。ついには労働者たちが団結し、社会主義革命が起こし、労働者は解放される。
だから今は労働者は搾取されて貧しくても、資本家の独占を打破すればみんなが資本家のような生活ができるようになると考えられていた。そのためにテクノロジーをどんどん発展させていけばいいんだと。でもやっぱりそうはならないわけですよね。「生産力至上主義」でコミュニズムに到達したとしても、その生産が環境破壊を引き起こしてしまう。地球にかかる負荷は、コミュニズムでも変わらないわけです。
そうなってくると、やっぱりコミュニズムでも、経済成長には、ブレーキをかけざるをえない。ところが、そういう発想は今までのマルクス主義からはまったく出てこなかったんです。
しかし『MEGA』に収録される晩年のマルクスの研究ノートや手紙を読んでいくと、実はマルクス自身も単にテクノロジーを発展させていけばいいと考えているわけではないことが分かります。むしろ前資本主義社会の共同体が、いかに無限の資本の増殖欲求や構成員の間の支配・従属関係にブレーキをかけていたかを考えていました。そうした「持続可能性」と「社会的平等」の原理を、西洋社会においても高いレベルで導入しようと言っていたんです。それを今日風にいうと「脱成長型のコミュニズムに移行しよう」と読めるんじゃないかと思います。もちろんマルクスは脱成長という言葉は使っていないし、気候変動の問題を論じていたわけでもないんですけど。そういう風に読む可能性が十分開かれているということですね。
――マルクスはゲルマン民族の共同体、古代ローマ、アメリカの先住民、ロシアの農耕共同体といった、前資本主義社会の共同体に関心を持っていたそうですね。マルクスがそこに見たものとは何でしょう?
昔の共同体の社会というのは、「無知だから生産力が低かった、働きもしなかった」と誤解されがちですが、そうじゃないんですよ。彼らはもっと働くこともできたし、もっと豊かになることもできたわけです。だけど、そういう豊かさを目指してしまうと、そこから富の偏りが生じる。すると富を持っている人たちが、持っていない人たちに対して、恣意的な振る舞いをするようになる。それを防ぐために、土地の所有や生産方法の規制といったルールを作ったり、宗教的な儀式を行ったりしていました。マルクスはそれを研究していく中で、共同体社会は平等で持続可能だということに気がついていく。
今までのマルクスの進歩史観、つまり無知な人類からだんだん賢くなって、最終的にコミュニズムに到達すると一番賢い、みたいなモデルじゃないんですね。実は資本主義より以前の社会は劣っているわけではなくて、むしろ「持続可能性」や「社会的平等」の観点からみると、資本主義よりも優れている。さらに資本主義で獲得された知識も使いながら、資本主義にブレーキをかけるために再利用していく。マルクスはそれを目指していたということですね。
――そうした前資本主義社会の共同体にあったものが、先ほどのお話にあったコモンズだそうでした。今でも学べる点がとても多いとのことでした。
生活に絶対必要なもの、たとえば農地、森林、河川の水も含めて、誰のものでもなかったわけです。みんなのもの、コモンズでした。一部の人が独占してしまったら、大勢の人たちが生活に必要なものを手に入れられなくなる。あるいは一部の人が独占してしまうことで、他の人たちを支配するようになってしまう。それを避けるために、みんなで管理していました。貨幣を持っている・持っていないか関係なしに、みんなが利用することができた。
そういう意味で土地などは潤沢に存在していたわけです。しかし、資本主義が解体していった。ありとあらゆるものを商品化していく。私たちは本当に何にしても常に貨幣が必要になりました。ありとあらゆるものへのアクセスが阻まれていく。むしろ希少になっていく。そういう転倒した状態になっています。
豊かさの再定義、新しい価値観を作ること
――若い世代は大量生産・消費の社会で、働きすぎることにしんどさを感じている人も多いと思います。また社会主義やコミュニズムといった言葉に抵抗がなく、どちらかと言うと資本主義に対する違和感がある人も多いような気がします。今、世の中は変化してきていると思いますか?
世界的なトレンドとしては間違いなくそうです。ジェネレーション・レフト(左翼世代)とも呼ばれる若い世代は、資本主義よりも社会主義のほうが好ましいと考えています。たとえば、アメリカのZ世代の半数以上が社会主義のほうに肯定的な見方を抱いているという調査結果もあります。それはある意味で当然だと思います。安定した仕事はない。学生ローンはたくさんある。年金はもらえそうにない。気候変動でますますしんどくなっていく。このままのシステムを続けることで、いいことがあるとは思えない。そう感じる若い人たちが大勢いたとしても、本来おかしくないことです。
ただその違和感をどう表明したらいいのか。どこに問題の本質があるか分からず、モヤモヤしている人たちがたくさんいると思うんですよね。そういう人たちにこそ、この本を読んでほしい。「人新世」という環境危機の時代に、資本主義の限界がきているんだということ、そこで脱成長のコモン型社会に移行していくことが、むしろ豊かな社会に繋がっていくんだという風に感じてもらえればと思います。
もちろん生きていかないといけないから、資本主義というゲームに乗り続けなければいけない。でもどこかで相対化できるし、何かチャンスがあれば別の船に乗り移ることができるかもしれない。新しい社会の見方、もっと別の道を模索することもできるはずです。発想の転換ができるようになると、今の社会のしんどさもうまく対処できるようになるかもしれません。それは豊かさを再定義して、新しい価値観を作っていくことです。本来クリエイティブだし、楽しいことなんですよね。
この本では何をすればいいかの具体的な項目をすべての分野にわたって羅列しているわけではありません。ただし、大きな指針は打ち出してあるし、現実の社会で、脱成長コミュニズムに向かって活動している人たちの事例も紹介しました。これを読んだあとは、一人ひとりが自分の現場で何ができるかを考えて、アクションを起こしてほしい。そういう試みが100あったら、そのいくつかは必ず成功するし、それをみんなが真似し始めたら、どんどん広がっていくはずです。この本で、そういう種をまけたという手応えを感じています。
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