2020-07-08

直情の朝鮮の詩人の数奇な半生 金素雲「天の涯に生くるとも」(講談社学術文庫) : 梟通信~ホンの戯言

直情の朝鮮の詩人の数奇な半生 金素雲「天の涯に生くるとも」(講談社学術文庫) : 梟通信~ホンの戯言





直情の朝鮮の詩人の数奇な半生 金素雲「天の涯に生くるとも」(講談社学術文庫)

先日書いた四方田犬彦の「われらが<他者>なる韓国」で知った金先生、韓国文化の日本への紹介者として第一人者、の自叙伝だ。



先生の年譜から。

1908年、釜山・絶影島に生まれる。
翌年、役人だった父が親日派とみなされ同胞の銃弾に倒れる。日韓併合の前年である。

母が祖父母との親権をめぐる争いの末、ひとり帝政ロシアに去る(4歳)。

8歳のときに単身母を訪ねてロシアに行こうとするが途中で断念(当り前)。
釜山の叔父のもとに身を寄せる。
1919年3・1独立運動を受けて絶影島少年団を結成(叔父のおぜん立て)、団長になるが憲兵隊によって解散させられる。

12歳で密航して日本へ。
苦学。
16歳で、ソウルに、年齢を偽り新聞社に、翌年詩集を出すが印刷代を払えず沈没。
再び日本へ。
一年半、徒歩旅行で日本各地を放浪。
このときの体験が日本人の心情(普通の日本人の優しさ)や方言などを知るのに役だった。

19歳、「朝鮮の農民歌謡」を「地上楽園」に連載したのをきっかけに、口伝民謡の採集、紹介に情熱を傾ける。
この年、日本人と結婚、その頃から警察による執拗なマークが始まっている。
”不逞鮮人”の疑いというわけ!

20歳、北原白秋を訪ねて認められる。
<北原白秋>という日本の詩人に、私は字一文字習ったこともなく、詩文一編の添削を受けたこともなかった。けれども、そんな実際的な恩誼とは比べものにならない大きな借りを私はこの人に負った。単身で自宅に押しかけ「この原稿を読んでもらわなければなりません」と、当時カリスマ的な地位にいた白秋が風邪に伏していたのに強引に読ませる方も凄いが、原稿を一読、すぐに金を囲む会を主唱する白秋も偉かった。
1929年、日本語訳「朝鮮民謡集」を刊行、ソウル・毎日申報社の記者になり、全国の口伝民謡を採集。
25歳、版元探しに万策尽きて岩波の茂雄社長に突撃を敢行、認められて「朝鮮童謡選」「朝鮮民謡選」を岩波文庫から刊行。

このあたりの金青年の決断、実行、有無を言わせぬ迫力がある。
迷い多く錯誤も重ねて苦労する人だがいつもこの状況打開力とでもいうべきパワーを発揮する。
詩集を出したい、それだけの価値があるのだから、という自信と失うものを持とうとしない潔さがその源だろうか。

「朝鮮児童教育会」を設立、断続的に児童雑誌を刊行するが資金面などに行き詰って終わる。
日本統治下にあって日本語の、日本に対する迎合的な記事を隠れ蓑に朝鮮の子どもたちに本当の朝鮮を伝えたいという苦労と情熱の頓挫。

(小雨の銀座、人通りが少ない)

1937年、予防検束的に検挙され半年間、大森署に勾留される。
戦時中は主として日本で童話集や歴史物語などを出版する。
日本人として“愛国的に”なっていく妻と別れる。
ソウルに帯同したときの朝鮮の人びとが彼女に向ける冷たい視線にも傷ついたのだ。
民族や所属する国家以前に一人の人間ではないか、人間としてどう生きるかが一番大切だという金には理解しがたいのだ。

朝鮮人として日本の国策協調に取り込まれることを避けて日本を去ったのが1945年、37歳のときだ。

1951年、動乱下の韓国を地獄と呼び、敗戦国日本を天国と呼ぶ「サンデー毎日」の座談会記事に抗議、日本への公開状「木槿通信」を「大韓日報」に連載、それは川端康成の仲介で翻訳が「中央公論」に掲載されたという。
読んでみたい。

1952年、東京でのインタビュー記事が舌禍事件となり駐日韓国代表部に旅券を没収され以後13年間滞日を余儀なくされる。
反日を国是とした大韓民国、李承晩政権は、金を親日分子として追放処分にした。
その後も旺盛な著作活動を行う。

57歳、韓国に戻る時は、再び日本への発言はすまいと心に誓う。
その後韓日辞典の編纂、「韓国美術全集」15巻、「現代韓国文学全集」5巻などを刊行する。

1980年、72歳、大韓民国銀冠文化勲章受章。
1981年、73歳で永眠。

死の直前に書いた文章で、自らを
祖国でも、またよその国ででも、定着ということを知らずに過ごしてきた人生。

転がる石には苔が付かぬとは言うけれど、私は自分自身の持ち物を、どれ一つとして大事にし、尊重したことはなかった。

一生を通じて一度も「卒業証書」を貰うことのできなかった人間である(小学校すら卒業していない)。
20歳前にニーチエを読んだ私が決して学問に無関心であったはずはない。ただ方法と手段が世間の常識とは少し異なっていただけである。大学を終えたらやめる、そんな勉強ではなかった。今でも私は一日に10回、20回、辞典を必ず開く。一生を終える日まで、私には「卒業」がない。

敢えて目をつむってきた自然の息吹きー、野に、山に茂った草木、咲いた花にも、前にはなかったおどろきを感ずるようになったのも、齢を重ねたおかげかもしれない。そうしようとして自然に背を向けて生きたわけではないけれども、そんなものに目をむけるゆとりがなかった。
切符なしに裸足で歩いてきた人生行路だったからー。

私も(日本の詩人、福士幸次郎の詩にあるように)人生に別れを告げる時には、帽子を脱いで、おじぎをするつもりである。
祖国にも、人生にもー、「まことにありがとうございました」と。と書いている。


(銀座・「松濤」、昼懐石の先付け、30年も前に一緒に戦った先輩たちと。今は昼からの懇親会になるのだ)
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女性関係は複雑というか、小説を読むようにいろいろあって、その真相は本人が書いている通りか否か、疑問はある。
彼自身が
平凡ななりゆき、平凡な妻を得た人に、私は無限の羨ましさを覚える。しかし蓮(最初に婚約して破談になった)に過ちがなく、私の妻になったとしよう。はたして私自身、一生をその平凡に安住できたであろうか?その確率は極めて低いということを自認せざるを得ない。といってるのだ。
又常にスッカンピンというより莫大な借金を抱えていたから金銭面などで悪く言う人もいるようだ。
北原綴「詩人・その虚像と実像ー父・金素雲の場合」、金纓「チマ・チョゴリの日本人」はいずれも金の子どもが書いたものであるが、本書では述べられていない意外な金の姿を伝えているそうだ(四方田本に教わった)。

しかし、俺はそういうことがあったとしても、金先生が好きだ。
怖いけれど生きているうちに会いたかった。

戦前から戦中、戦後の日韓の関係が両国の詩人や市民たちにどのような影を落としていたかについての証言でもある。
ひたぶるに生きた天才の物語につきものの哀切と滑稽が本書でも語られている。
生き生きとした文章で読んでいるのが楽しかった。

韓国語で書かれた部分の訳は崔博光、上垣外憲一。

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