2017-12-20

盧武鉉 - Wikipedia

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日本[編集]
日本との主な外交問題については対日外交戦争竹島問題靖国神社参拝問題歴史教科書問題日本海呼称問題を参照

就任当初は歴代の大統領と同様に「未来志向」を謳い、日本と良好な関係を結ぶと期待された。初めての訪日が顕忠日という殉国者に敬意を払う日と重なり批判を浴びたが、盧武鉉は「私たちはいつまでも過去の足かせに囚われているわけにはいかない」[38]と主張して、訪日の重要性を強調した。日韓首脳が頻繁に会談し意見交換する必要があるとの認識から、当時の日本の首相である小泉純一郎との間でシャトル首脳会談を推進することで合意し、相互を往復して会談を重ねた。

従来から日韓双方がこれまで必要に応じて棚上げしてきた問題について、人権派弁護士として軍部独裁に反対する学生とともに歩んできた盧武鉉は文民政権の正当性を確立するために歴史の清算にこだわった。

また、セヌリ党の鄭夢準によると、盧武鉉は司令官が出席する長官会談でアメリカに日本を共通の仮想敵国に規定しようと提案し、アメリカは非常に当惑していたと語った[39][40][41]。韓国や日本では報道されていなかった。

2005年3月、盧武鉉は三一節の演説で日本に植民地支配への明確な謝罪と反省、賠償を要求し、ついに対日強硬政策へと舵を大きく切り直した。丁度この時期は小泉首相が靖国参拝を続け、かつ国連の常任理事国入りを目指しており、韓国では反日デモが起こる等国内での反日感情が増幅していた時期であった。しかし演説への論評を求められた当時の小泉首相は、盧武鉉の発言は「国内向け」と応じて取り合わなかった[42]。両者の亀裂は決定的なものとなり、盧武鉉は「外交戦争も辞さない」というきわめて強い表現で日本への批判を続け、最終的には小泉の靖国神社参拝を理由として首脳会談を中止した。北朝鮮による拉致が明らかになることで日本の世論は小泉支持に変わっていった。盧武鉉は日韓首脳会談で靖国神社について「過去の戦争を誇り、栄光のように展示していると聞いている」と述べ、続けて「(靖国神社は)過去の戦争と戦争英雄を美化し、これを学んだ国が隣りにあり、こうした国が膨大な経済力と軍事力を持っている。(韓国など)その近隣国が過去に何度も苦しめられたことがあるならば、国民は未来を不安に思わざるを得ない」と強い懸念を示し、日韓シャトル外交も以後中止となり、盧武鉉は退任までにシャトル外交に出席しなかった。数ヵ月後には小泉は靖国参拝は「不戦の誓い」だと主張、これに対し盧大統領は「いくら小泉首相の考えを善意に解釈しようとしても韓国の国民には決して受け入れられないだろう」と言明した。

2005年4月、盧武鉉がドイツを訪問し日本の国連常任理事国入りに反対を表明し(一方でドイツの常任国入りは支持すると発言)更に日本をナチスドイツと同様に批判しようと共同宣言を持ちかけるもドイツ政府から猛批判・猛反発を受け相手にされなかった。ホルスト・ケーラー大統領との会見では事前に「日本が過去に清算しないことについても話したい」との申し出を行ったが、ドイツ側からは「現在の重要なテーマを優先する」とかわされた。またゲアハルト・シュレーダー首相との会談でも、同様に平行線で終わった。こうした頑なな姿勢に対しては、独韓議連のメンバーからも疑問の声が上がったという[43]。ドイツ在住ユダヤ人代表団からは「ナチスドイツによるホロコーストは人類史上最大で他に例をみない反人類的な犯罪であって、これを日本の韓国統治と同一視することは、ユダヤ人虐殺の人類史的意義を不当に貶める、きわめて非国際的で悪辣な議論である」という厳しい批判を受け、ドイツのメディアからも発言また訪問それ自体が無視され、何の成果も得られなかった、としている[44]

2005年の8月15日の3日後の18日に親日派財産を取り戻すための汎政府機構である「親日反民族行為者財産調査委員会」 が本格発足した[45]。盧武鉉政権では日本統治時代の「親日派」の子孫を排斥弾圧する法律(日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法及び親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法)が施行された。しかしこの法律は明らかに法の不遡及の原則に反し憲法違反である。そのためか韓国のメディアや親日派名簿のリストに載った者から批判を受けた。

ジャーナリストの池東旭と評論家の金完燮によると、盧武鉉がこのような強固な反日政策をしたのは、韓国社会の主流が日本統治時代に生まれた日本語世代から戦後から日韓国交正常化までに激しい反日教育を受けたハングル世代へと入れかわったため、としている。大の日本嫌いであった初代大統領の李承晩は反日教育を行ったが、朴正煕金泳三金大中達はそれ以前の日本統治時代の生まれで対日感情は悪くなかった。

2006年4月25日に盧武鉉は特別談話を発して、日本にこれ以上の新たな謝罪を求めないとしながらも、幾度か行われた謝罪に見合った行動を求めた[46]

2006年のAPEC首脳会議時の日米韓3か国会議にて、ジョージ・W・ブッシュ内閣総理大臣安倍晋三と(役職はいずれも当時)

2006年7月5日には竹島(韓国名:独島)周辺の日本の排他的経済水域および領海内で、韓国船が日本の抗議を無視し海洋調査を行った。日本が海洋調査を実施しようとした際には「武力行使もありうる。国際法上合法だというならば、そんな国際法に意味はあるのか」本側の制止を無視して竹島の海洋調査をおこない、事実、島根県内の防衛庁(現防衛省)施設に対して軍事攻撃を行なうよう検討[47] [48]と猛反発したことから、一連の動きは露骨な対決姿勢の表れとみなされ日本との外交関係は更に悪化した。同日に北朝鮮が行ったミサイル乱射に対しても両国は連携できず、国連安保理での制裁議論に際しても日本は韓国に対する配慮を行わなかった。 また、2006年4月21日付のワシントンポストにおいて、盧武鉉政権が海上保安庁の竹島周辺海域海洋調査を阻止するために日本政府への具体的な圧力として、「島根県内の防衛庁(現防衛省)施設」に対する軍事攻撃を検討していたことが明らかとなり、仮に攻撃が行なわれたとして自衛隊との軍事的衝突はおろか国際的な非難と信用の失墜及び最悪経済制裁を受けていた可能性もあり、韓国国内からも盧武鉉政権の独断ぶりに憂慮の声が強く挙がった[49]

2006年10月9日、小泉のあとを受けて首相に就任した安倍晋三とのあいだで約11カ月ぶりに日韓首脳会談が行われた。しかし盧武鉉は同日に北朝鮮による地下核実験があったにも関わらず、会談時間の半分近くを歴史認識問題に割いたために両国の溝は埋まらず、共同文書の発表に至らなかった[50]

2007年1月、盧武鉉が前年ハノイで行われた安倍との会談の席で、日本海呼称問題の解決のために日本海(韓国名「東海」)を、日韓どちらの名称でもなく新しく「平和の海」と呼称するよう提案し、即座に拒否されたことが報じられた。この提案は政府内の調整を経ておらず、国際社会に「東海」への改名を働きかけている韓国官民の努力を無にするものであると保守派・右派を中心に非難された[51]

俳優・草彅剛との対談を行った時は、両国で生中継された。ここで草彅剛が韓国の日本文化開放計画について聞くと、盧武鉉大統領は全面開放を約束し、実際に盧武鉉政府で日本文化は全面開放される。

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アメリカ[編集]

盧武鉉は大統領選挙の前から反米主義で知られていたが、事実彼は竜尾主義を掲げた。 それは選挙戦の間も不利な条件とはならなかった。特に在韓米軍による女子中学生死亡事故と、北朝鮮に対するブッシュの強硬姿勢によって高まった反米機運が、2002年には特にそうだった。盧武鉉の当選は反米路線であるが故ともされている。盧武鉉は大統領に当選する前「反米だからどうだと言うのだ?」と述べ、それは盧武鉉への支持に繋がると同時に、多くの国民に彼がアメリカとの関係に独立した一線を導くと信じさせた[52]

2003年5月、ホワイトハウス訪問時の盧武鉉

しかし大統領就任後、この様な見解が負債として彼に圧し掛かり、2005年10月の米韓相互防衛条約に基づく定例の米韓安保協議会(SCM)においても反映された。国防について「自主国防」を強調した韓国側は、戦時統制権の米軍からの移譲を求めるとともに、日本を「仮想敵国」と示したことなどから、米国側は困惑し、国防総省の長であった米国ラムズフェルド国防長官は韓国に対して不信感を持つに至る[53]。韓国の保守派とアメリカは疑念を抱き、反共の野党ハンナラ党はたびたび盧武鉉を極左として非難した。

盧武鉉はこの否定的なイメージを覆すべく、初訪米の際に「もし53年前にアメリカが韓国を助けなかったら私は今ごろ政治犯収容所にいたかもしれない」[54]と発言したが、大きな反響を与えられなかった。事実、盧武鉉(ノ・ムヒョン)個人の性向もあっただろうが、当初から、イデオロギー的に米国の共和党と韓国民主党の相性が合わないこともあった。

そしてこのような一環として盧武鉉がアメリカのイラク戦争を支持して軍を派兵する事を決めた時、多くの国民は裏切られたと感じた。あくまでも平和維持任務であることを説き、北朝鮮の核危機を解決するにあたり、アメリカの支持を得るために派兵が必要なのだと主張したが、反対勢力は盧武鉉をアメリカの傀儡と非難した。イラクに派遣された韓国軍は3260人に及び、これは英米以外で最大の規模である。

アメリカとの関係は、北朝鮮の核危機が進むにつれ悪化した。アメリカは、韓国の宥和政策はアメリカの強硬政策と両立せず、韓国による北朝鮮への経済援助が、北朝鮮の頑なな態度を強化させて交渉のための協調を傷つける、と繰り返し主張した。

韓国が北東アジアのバランサーの役目を果たすという盧武鉉の宣言は、さらにアメリカを苛立たせた。周辺諸国と案件ごとに選択的協力関係を築くという基本方針は、アメリカが紛争当事者になったときに韓国は中立的立場を維持する可能性があると受け取られた。国防次官補のリチャード・ローレスは露骨に不快感を示し、米韓同盟の役割に疑問を呈した[55]

盧武鉉は親北、親露政策をとり、共産圏を擁護する発言が見られた。韓国の中央日報が2005年9月に伝えた報道によると、「朝鮮半島分断の責任はどこの国にあるか」というアンケートにおいて、アメリカ53%、日本15.8%、ロシア(ソ連)13.7%、中国8.8%という結果になっている。統一に最も友好的な国としてロシア(37.1%)が挙げられ、反面、最も敵対的な国は米国(44.7%)、日本(28.8%)などの順だった。ヘリテージ財団のピーター・ブルックス上級研究員はダグラス・マッカーサー将軍の銅像撤去論争に言及して「恩を忘れる者ほど悪いものはない。今週の『恩知らず大賞』は韓国が獲得した」と皮肉った[56]。 ダグ・ベンド米カント研究所研究員は、 「アメリカにおいて韓国は莫大な費用と犠牲を注ぐほどの 死活的な利益の対象ではない、韓米両国は友好的な決別を準備しなければならない」と述べた[57]

2006年3月、韓国はアメリカとの自由貿易協定(FTA)締結に向けた交渉を開始すると発表した。盧武鉉の元経済政策助言者を含む多くは、政府があまりにも拙速であり韓国経済に否定的な影響を与えると懸念を表明した。そのような反対にも関わらず、盧武鉉は繰り返し自由貿易協定を支持し、それが韓国経済に良い影響を与えると主張した。

2006年9月14日、ホワイトハウスにて、ジョージ・W・ブッシュと

アメリカとの伝統的な関係が変化する過程で、戦時作戦統制権[58]の移譲問題が浮上した。盧武鉉はこの問題を「自主国防」という視点で捉えて積極的に推進した。アメリカは当初、韓国にその能力が整っていないと消極的だったが、盧武鉉が「作戦統制権こそ自主国防の核心、自主国防こそが主権国家の花」と政治テーマに掲げて自国のメディアに喧伝する[59]につれ、積極姿勢に転じた。これは、韓国が自国の防衛に主要な責任を持つことはアメリカにとって損とならず、北朝鮮の侵攻を抑止するために朝鮮半島に固定された在韓米軍を抽出して、他の目的に再活用し得ると意識されたことが大きいとされる。 冷却化する米韓同盟に危機感を覚えた歴代の国防長官や退役軍人などの一部が、尹光雄英語版韓国語版)国防長官に戦時作戦統制権の返還推進を中止することを求めたが、この意見は容れられず、10月の米韓定例安保協議会(SCM)で、移譲が正式に決定した。これにより、現在まで韓国の安全保障を担保してきた米韓連合司令部は近い将来に解体され、韓国防衛における在韓米軍は副次的地位に引き下げられることとなった。

2006年9月14日(日本時間15日0時)、盧武鉉は欧州歴訪についでアメリカを訪問し、ブッシュと6回目の首脳会談を行った。冷却化する米韓関係を象徴するようにアメリカのメディアの扱いは冷淡であり、同日付のニューヨーク・タイムズ紙では「米韓関係はここ数ヶ月で『日本海ほど広がった(as wide as the Sea of Japan)』」と評された[60]。また、会談後の共同文書の発表に至らず、一つの時代の終わりと、同盟構造の解体を視野に入れた「白鳥の歌」を世界に知らしめることとなったと評す者もいた[61]
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北朝鮮[編集]

北朝鮮に対しては金大中の太陽政策を引き継ぎ、関与政策と包容政策を継続している。2004年11月にはロサンゼルスで「核とミサイルが外部の脅威から自国を守るための抑制手段だという北朝鮮の主張には一理ある」と述べ[62]、北朝鮮の主張に理解を示した。経済破綻状態にある北朝鮮を安定させるべく、肥料や米などの物質的支援、開城工業団地や金剛山観光開発といった経済的支援を行い、北朝鮮への圧力を強めるアメリカと意見の違いを見せた。

このような盧武鉉の配慮にも関わらず、北朝鮮は2006年7月5日、ミサイルを発射し、盧武鉉の立場を苦しいものとした。しかし、7月9日、政府見解として「果たしてわが国の安保上の危機だったか」「(政府対応が遅れたのは、国民を不安にしないために敢えて)ゆっくり対応した」「敢えて日本のように夜明けからばか騒ぎを起こさなければならない理由は無い」などと、国際社会の見方とは非常に大きな隔たりのある見解を発表し[63]、韓国国内からも批判を受けた(当時、着弾海域付近では韓国漁船が操業していた)。日本政府が国連安全保障理事会へ北朝鮮への制裁決議案を提出した事については強い警戒感を示し、包容政策を継続する韓国政府と、制裁論に向かう日本政府との間で明白なズレが生じた。

7月13日には第19次南北閣僚級会談が決裂。「南は北の先軍政治の恩恵をこうむっている」という恩を仇で返される言葉をもらい、宥和政策の行き詰まりを示す出来事となった。それでも8月15日の第61周年光復節では「決して容易なことではない」としながらも、北朝鮮が過去に行った戦争や拉致を赦すと演説し[64]、宥和的姿勢を維持した。そして同時期に発生した北朝鮮の水害に対する援助として、米、セメント、重機などの支援を行った。

10月9日、北朝鮮は「核実験実施」を発表した。それを受けて国連安全保障理事会は2006年10月15日に制裁決議を採択した。一時は与野党代表や歴代の大統領経験者を集めて意見を聴くといったふらつきを見せたが、その後は従来の路線に立ち戻り、アメリカから求められた対北朝鮮への制裁拡大に同意しないなど、なおも宥和姿勢を継続する意思を明らかにしている。
中国[編集]
中国との主な外交問題については東北工程蘇岩礁を参照

「北東アジアバランサー論」に沿って、日本や伝統的な同盟国であるアメリカとの関係を見直しながら、中国との接近を図っている。北朝鮮の核開発問題では宥和的姿勢で協調し、また靖国神社問題歴史教科書問題では暗黙の共闘を演じた。2006年11月には、自由貿易協定(FTA)締結に向けた交渉を始めることで合意している。

中国の推進する東北工程では高句麗を古代中国の地方政権と見なし、これを自国の歴史の一部であるとする韓国側と意見の相違がある。2004年には、中国外交部がこれまで韓国の歴史として紹介していた高句麗の記述をホームページから削除し、韓国政府がこれに抗議するという騒ぎが起こった[65]。しかしその後、両国外交部の間で「民間レベルの学術討論で解決していき、政治問題としない」という口頭の合意を交わして関係の修復を図った。この合意は2006年10月に盧武鉉が中国を訪問した際にも、胡錦涛国家主席との間で再確認された[66]

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