在朝日本人二世の朝鮮・朝鮮人に対する意識形成の研究 一在釜山日本人を中心に一
曹龍淑
1.はじめに
「在朝日本人」とは19世紀後半の釜山開港(1876年)以降、日本の敗戦 (1945年)までの時期に、朝鮮に居住していた日本人の総称である1)。既存 の植民地史研究の多くが、日本からの資本の流れがいかに統治に対して影響 を及ぼしたのか、あるいはいかなる制度で統治を効率的に行い、強化したの かという側面から問われたものであるのに対して、在朝日本人に着目した研 究は、植民地統治に携わった人的側面を解明しようとする試みから定立され たものである2)。但し、とりわけ総督府官吏など直接的に統治を担ったもの たちにではなく、いわゆる「下からの侵略」 「草の根の侵略」という観点を背 景に宿しつつ行われてきたのがこの研究の特徴である3)0 本稿はそうした先行研究を活用しつつ、またそれに連なる研究であること. は言うまでもない。そして在朝日本人という存在が朝鮮植民地統治、あるい はその後の韓国社会、さらには日本社会に対してどのような影響を及ぼした のだろうかということに関心を注いでいる。しかし、在朝日本人研究は在朝 日本人の実態に関しても、彼・彼女らの「意識」がいかに形成され、いかな るものであるのかに関しても、それを描き出すまでに至っていない4)。その ため、本稿の課題は「植民者」として位置づけられるところの在朝日本人が 植民地朝鮮においていかなる役割を担い、どのような影響を及ぼしたのかと いう考察-と至る前段階の基礎作業として、在朝日本人が自らの植民地経験 をいかなる形で捉え、いかに語っているのか、またその際、朝鮮・朝鮮人を どのように把握していたのかを比較的長いタイムスパンから考察することと する。彼・彼女らの意識形成の過程を朝鮮在住時から日本-帰還し、同窓会 を組織して活動するまでという比較的長いタイムスパンでみるのは、彼・彼
-50-女らの「内的葛藤」及びその要因に着目したいためである。
従って、以下本稿では在朝日本人らが意識形成を行う背景となるであろう
在朝日本人社会について、生活様態、教育状況を中心に詳述する。その上で、
朝鮮在住時、日本-の帰還後、現在の社会により良く適応するためにいかな
る心の動き-意識形成一を経てきたのかを分析する.その際、本稿では分析
資料の中心をなすものとして、在朝日本人二世らの集い(同窓会)から発行
された回想記(『幻の名門校』)や会報(『龍頭山』)を用いるとともに5)、筆
者が自ら行ったアンケート調査6)で補強・検証するという方法を採用する。
その結果として、在朝日本人の朝鮮・朝鮮人に対する意識としてどのような
ことが言えるのかをまとめ、今後の課題を提示したい。
ここで、 「二世」を積極的に取り上げる理由について述べたい。既存の在朝
日本人研究で「一世」と「二世」とを区別して論じた研究は、高の著作を除
けば皆無に近い。だが、本論で詳述するように、 「二世」たちは朝鮮に対する
素朴な故郷感情を持っていることが特徴的であり、かつ植民地に対する感情
においても、明らかに「一世」とは異なった認識を保有している。それは恐
らく、出自においても、自己の意識を形成する学齢期の生活環境においても
「一世」とは異なるからであろう。そうした研究上の理由に加えて、資料的
制約並びに「二世」の方々の多くがご存命であり、植民地の生き証人である
という理由から、本稿では「二世」を取り上げる。
最後に、二点ほど予め断っておかねばならないことがある。まず、本稿で
は在朝日本人の存在及び意識が植民地朝鮮(または、それ以後の韓国・日本
社会)においてどのような役割を担ったのか、またいかなる影響を及ぼした
のかという機能的側面に対して常に関心を持ちつつも、それ自体についての
検討は行っていない。そのため、彼・彼女らの存在や意識に対する歴史的評
価や解釈を行うという観点は欠落している。それゆえ、本稿で明らかにされ
る在朝日本人の意識が植民地統治という韓国人にとっても、日本人にとって
も、負の遺産でありながら、そうした歴史的側面を反映しない一面的なもの
となるかもしれない。しかし、既述のように、本稿の目的は在朝日本人の意
識がどういうものであるかをできる限り客観的に描き出そうとすることであ
る。彼・彼女らの意識がいかに形成されたのかということと、その意識がど
151-のように表出され影響を及ぼしたかということとは、連続性を持ちつつも別
の問題であると考えるからである。
次に、当然ながら、分析によって得られた在朝日本人二世の意識をそのま
ま備えた典型的人間が実際に存在するわけではない。あくまで在朝日本人二
世集団の傾向として考察するものであり、それゆえこの基礎作業を経て、植
民地統治と在朝日本人との関係を初めて問うことができると考えるのである。
2.在朝日本人社会
(1)在朝日本人社会の概況
日本が朝鮮の釜山を開港せしめた明治9年(1876年)当時、 54名に過ぎ
なかった在朝日本人の人口は、日露戦争が終結した明治38年(1905年)に
4万名を越え、日本が韓国を併合した明治43年(1910年)には17万名強
に達した。続いて、終戦の前年にはその人口が71万余名に上った(53ペー
ジの表1を参照)。その在朝日本人人口の男女構成比率は男性が女性よりも
常に高かったが、日露戦争以降、朝鮮を保護国化する一方で、現地の娯楽施
設などが整い定住化が進むと、構成比率は平準化に向かう7)。ちなみに、昭
和19年5月の統計では逆に女性が男性よりも2万人ほど多くなっているが、
これは戦時召集によって男性が朝鮮を離れたためである8)0
在朝日本人人口の基本的な動態を内地の出身地別にみると、植民地統治時
代の全時期を通じて大きな変動はなく、朝鮮に近い九州・中国地方出身者が
圧倒的に多い。割合的には、九州が全体の三分の一以上、中国地方が全体の
約五分の-以上を占めており、これを都道府県別でみても、順位の上位は九
州・中国地方の県によって占められている9)0
朝鮮における日本人の在住地を人口の多い道別にみると、京畿道、慶尚南
道、成鏡北道、成鏡南道の順になっている。朝鮮人、日本人、外国人を合わ
せた人口総数に対する日本人人口の割合をみると、もっとも多い道は成鏡北
道であるO都市別にみると、京急道の京坊、仁川や慶尚南道の釜山、威鏡南
道の元山、成興、輿南、成鏡北道の清津に日本人が多い10)しかしながら、
植民地末期においては成鏡南・北道をはじめ北朝鮮地域で日本人の数が顕著
に急増する。これは日本の軍需工業化政策並びに満州に対する政策に関連す
-52-午
明 治 9
10
l l
12
14
16
18
2 0
2 2
2 4
2 6
2 8
3 0
3 2
3 4
3 6
3 8
4 0
4 2
表1朝鮮在住日本人人口および戸数(明治9年~昭和19年)
女 l 年
総 数
5 4
3 4 5
1 17
16 9
3 , 4 17
4 , 0 0 3
4 , 5 2 1
6 4 1
5 , 5 8 9
9 , 0 2 1
8 , 8 7 1
12 , 30 3
13 , 6 1 5
15 , 0 6 8
17 , 9 2 8
2 9 , 19 7
4 2 ,4 6 0
9 8 ,0 0 1
14 6ー14 7
男
5 2
32 0
18
13 9
2 ,8 3 1
3 ,2 8 4
3 , 7 10
4 6 8
3 , 4 9 4
5 , 6 0 1
5 , 16 8
7, 3 15
7, 8 7 1
8 , 5 0 7
9 , 9 5 7
16 , 8 8 8
26 , 4 8 6
5 5, 6 6 9
79 , 9 4 7
2 明 治 4 3
2 5 大 正 1
9 9
3 0
5 8 6
7 1 9
8 1 1
1 7 3
2 , 0 9 5
3
5
7
9
l l
13
14
3 , 4 2 0 昭 和 1
3 . 70 3
4 , 9 8 8
5 . 7 4 4
6 . 5 6 1
7 , 9 7 1
12ー3 0 9
15 ,9 7 4
4 2 , 3 3 1
6 6 , 2 00
3
5
7
9
l l
13
15
17
1 9
総 数
17 1, 5 4 3
2 4 3 , 7 2 9
2 9 1, 2 17
3 2 0 , 9 3 8
3 3 6 , 8 7 2
3 4 7 , 8 5 0
3 8 6 , 4 9 3
4 1 1 . 5 9 5
4 4 3 . 4 0 2
4 4 2 , 3 2 6
4 6 9 , 0 4 3
5 2 7 , 0 1 6
5 2 3 . 4 5 2
5 6 1 . 3 8 4
6 0 8 ,9 8 9
6 3 3 , 3 2 0
7 0 7 , 7 4 2
7 5 2 , 8 2 3
7 1 2 , 5 8 3
男
9 2 , 7 5 1
1 3 1 , 5 1 8
1 5 6 , 1 4 9
1 7 1 , 7 1 3
1 79 ,6 8 6
18 5 , 1 9 6
20 4 ,8 8 3
2 16 ,4 2 9
2 4 2 , 15 8
2 3 0 ,2 28
2 4 3 ,3 8 4
2 8 5 ,9 6 6
2 6 8 ,3 1 1
2 8 7 ,9 64
3 13 ,2 1 1
3 2 3 , 2 10
3 7 4 , 2 12
3 8 5 , 3 2 5
3 4 5 , 5 6 1
女
78 , 79 2
1 12 , 2 1 1
1 36 ,0 6 8
1 49 ,2 2 5
1 5 7, 18 6
1 62 , 6 5 4
18 1, 6 10
19 5 , 16 6
2 0 1, 2 4 4
2 12 , 0 9 8
2 2 5 , 6 5 9
2 4 1, 0 5 0
2 55 , 14 1
2 73 , 4 2 0
2 9 5 , 7 7 8
3 10 , 1 10
3 3 3 , 5 3 0
3 6 7 , 4 9 8
3 6 7 , 0 2 2
戸 数
5 0 ,9 9 2
7 0 ,6 8 8
8 3 , 4 0 6
9 0 , 3 5 0
9 3 ,6 26
9 4 ,5 14
10 6 ,9 9 1
1 1 1 ,9 19
1 1 3 ,2 54
1 1 7 ,0 0 1
1 2 2▼7 73
1 2 6 ,3 12
1 2 9 ,9 4 8
14 1 ,4 17
1 5 2 ,8 9 1
1 5 8 ,8 4 3
16 5 ,9 0 0
17 9 ,3 4 9
注1.明治9年~明治42年は、朝鮮総督府調査資料第22輯「朝鮮の人口現
象」による。
2.明治43年~昭和17年の人口総数、男、女および戸数ならびに大正
14、昭和5・10・15年の戸口は、朝鮮総督府「朝鮮総督府統計年報」に
よる。
3.昭和19年5月は、朝鮮総督府r人口調査結果報告其の-」 (昭和19
年9月10日刊)による。 5月1日の調査である同資料には「精査の結
果とは、かならずLも一致しない」と記している。
4.大正14、昭和5・10・15・19年以外は、 12月末現在の数である。
5.大正14、昭和5-10-15年の人口総数及び男女は、同年10月1日現
在の数である。大正14、昭和5- 10年は、朝鮮総督府「朝鮮国勢調査
報告」全鮮憲により、昭和15年は、総理府統計局r昭和25年国勢調査
報告」第8巻「最終報告書」による。
[出所]森田芳夫『朝鮮終戦の記録』厳南堂書店、 1964年、 2ページを参考
-53-に筆者が簡略化し作成した。
るものと考えられるO逆に、純農村地域では日本人の占める比重は高くないO
このことは、在朝日本人の大多数が基本的に都市生活者であったことを物語
っているII)
下の表2から分かるように、 1890年時点で在朝日本人の最も多くが居住
していたのは釜山であり、ついで仁川と元山である。これは1876年の日朝
修好条規により、当初釜山のみが開港されたため、多くの日本人が釜山に生
活基盤を形成していたからである1907年には京城、仁川が釜山とほぼ同水
準の人口となり、 1910年には、京城の在朝日本人人口が仁川や釜山をはるか
に上回ったO この背景には、日韓併合で朝鮮総督府が京力釦こ設置されること
により、政治経済の中心都市としての首都京城の役割の増大が指摘される12)。
居 留 地 18 9 0 年
釜 山
元 山
京城
仁川
木 浦
鎮 南補
群 山
馬 山
平壌
大邸
新 義州
4 , 3 4 4
6 8 0
6 0 9
1 ,6 1 2
表2 朝鮮・居留地在留日本人数(単位:人)
19 0 0 年
19 0 7 年
5 , 7 5 8
1, 5 7 8
2 , 11 5
4 , 2 0 8
S 9 4
3 3 9
4 8 8
2 5 2
15 9
16 . 0 4 0
3 , 6 3 3
13 , 4 16
l l ,4 6 7
2 , 8 7 3
2 , 7 2 9
2 , 9 5 6
3 , 2 1 9
6 , 17 4
2 , 4 6 8
1, 4 7 1
19 10 年
2 4 , 9 3 6
4 , 6 3 6
3 8 , 3 9 7
l l , 1 2 6
3 , 6 1 2
4 , 19 9
3 , 73 7
7 ,0 8 1
6 ,9 1 7
6 ,4 9 2
2 , 74 2
19 13 年
2 7 , 6 10
6 , 9 6 6
5 5 , 6 2 8
l l, 4 4 0
5 , 6 2 8
5 ,2 3 4
5 , 1 8 1
5 , 3 1 5
8 ,4 22
7 ,6 84
2 , 7 68
『日本帝国統計年鑑』各年、 『韓国統監府統計年報』、 『朝鮮総督府統計年報』
各年より作成。
[出所]木村健二「在外居留民の社会活動」 『岩波講座近代日本と植民地5
-膨張する帝国の人流-』 1993年、 33ページの表を筆者が簡略化し作成し
た。
-54-在朝日本人の職業についてみると、昭和17年末の統計によれば、朝鮮の
主産業である農業に携わるものが、朝鮮人の68.1%であるのに対して、日本
人は3.9%に過ぎない。これは内地の日本人の42.6% (但し、昭和15年の統
計)に比べてもかなり低い数字である。今ひとつ特徴的なのは公務自由業が
39.5%を占めていることである。以下、工業18.7%、商業18.2%、交通業
7.2%と続く13)公務自由業が40%近くを占めていることは、内地の比率と
比べても5倍以上に達する。これは朝鮮において日本人が特殊な地位を占め
ていた一面を物語っているが、植民地期後半の統計であるので、それ以前の
時期やさらに遡って日韓併合以前の時代とは異なることに注意すべきであろ
う(56ページの表3を参照)0
ここで、在朝日本人が朝鮮-と大量に移住することを実質的に後押しした
日本の政策について簡単に触れておこう。日本政府は日本人の朝鮮-の渡航
と定住化に対して、様々な便宜を図った。とりわけ、日露戦争を前後して旅
券の必携を免除し、兵隊検査の実施場所を朝鮮内各地に設定するなどの便宜
を図った。また、文化的施設についても、高級官吏に対する舎宅や居留民に
対する娯楽・慰安・衛生施設の建設、さらに祭礼・イベントなどを推奨した。
在朝日本人もこれらの後援に呼応し、彼らによって結成された居留民団を中
心に水道・消防・衛生組合・公園などの公共施設や組織を完備し、文化財団・
劇場を設けた。日露戦争後に東京在住の官吏が数多く渡航するようになって
以降は、 「東京風と大阪風の融合は進み、日本人の朝鮮化・朝鮮理解も、定住
化が進行して、気候風土や取引・雇用関係などの面で朝鮮式に合わせていか
ざるを得ないことが分かるようになり、進んでいく」 14)
最後に、在朝日本人の渡航背景と社会の特徴とを時期区分し概括する。
1905年から1910年の間を一つの基準にして、この時期以前(以下「前期」)
に日本から渡来した在朝日本人とこの時期以後(以下「後期」)に日本から渡
来した在朝日本人の間には大きな差違がみられる。
前期に朝鮮-渡来した在朝日本人はその大部分が明治前半期の急激な資本
主義化、社会変動による日本国内の生存競争からはみ出た失業者または没落
商人や貧農、さらには没落士族層であった。彼らは出稼ぎや移民のために朝
鮮へ渡り、朝鮮での-獲千金を夢見た人々が多数であった。日露戦争以降、
-55-職
官 吏
公 吏
教 員
新 聞及 雑 誌 記 者
神 官
僧 侶及 宣教 師
弁 護 士及 訴 訟 代 理 人
医 師
産 婆
農 業
商 業
工 業
漁 業
雑 業
芸娼 妓 酌 婦
労 力
無職 菜
計
8 (0 . 2 )
l l (0 . 3 )
7 (0 . 2 )
2 3 (0 . 6 )
1 ,6 6 0 (4 5 . 1
7 5 2 (2 0 . 4
12 7 (3 . 4
5 4 7 ( 14 . 8
2 6 0 (7 . 1)
9 (0 . 2 )
3 , 6 8 4 ( 10 0 )
表3 朝鮮居留地在留日本人本業者別人数(単位:人)
18 9 7 年 (% )
種
2 6 6 (7 . 2 )
1 4 (0 . 4 )
19 0 6 年 (% )
2 , 10 7 (6 . 7 )
1 36 (0 . 4 )
18 1 (0 . 6
5 (0 . 0
7 2 (0 . 2 )
3 2 (0 . 1
2 0 0 (0 . 6
6 2 (0 . 2
1, 0 6 3 (3 . 4 )
9 , 3 5 0 (2 9 . 8 )
3 , 8 5 8 (1 2 . 3
7 9 3 (2 . 5 )
6 , 4 3 5 (2 0 . 5 )
2 , 5 0 0 (8 .0 )
3 ,6 18 (l l. 5 )
9 3 5 (3 . 0 )
3 1 , 34 7 ( 10 0 )
19 10 年 (% )
4 , 16 9 (8 . 7)
9 9 5 (2 . 3)
34 5 (0 .8 )
16 5 (0 .4 )
2 5 (0 . 1〉
12 1 (0 . 3 )
6 0 (0 . 1)
2 16 (0 . 5 )
12 1 (0 . 3 )
1, 18 0 (2 . 7 )
10 , 8 8 4 (2 5 . 3 )
5 , 0 6 4 ( l l. 8 )
1, 15 3 (2 . 7 )
9 , 9 7 8 (2 3 . 2
2 , 5 1 7 (5 . 8 )
4 , 7 0 5 (1 0 . 9 )
1 , 3 9 7 (3 . 2 )
4 3 , 09 5 (10 0 )
1897年は『東邦協会会報』第38号、 1897年9月、他は表1に同じ資料
による。 1897年は釜山、元山、京城、仁川、その他の年は木浦、鎮南浦、那
山、平壌、馬山、大邸、新義州が加わる1897年の「官吏」が記載がなかっ
たため、 『帝国統計年鑑』所載の「公用」男子人数を使用した。
[出所]同上、木村、 34ページ。
日本の朝鮮植民地化が本格化する過程で在朝日本人社会の構造にも一種の変
動が現れ、統監府とその後の朝鮮総督府体制の確立により、在朝日本人の主
流は官僚及び軍人そして企業の中堅エリート・教員となり、植民地権力を頂
点として朝鮮人社会の上に君臨する植民者社会が形成されたという)5)。
また、前期に渡来した在朝日本人の行状を分析した研究によれば、彼らは
朝鮮人に対して、国家の論理で完全武装した冷酷なエゴイストであり、あけ
すけな偏見の持ち主、差別・加害の実行者であった。日本国家の侵略の先頭
に立つ朝鮮植民者が、一方では日本国家のピラミッド構造の中では被害者で
-56-あると自分自身を意識し、そのため損な役まわりを引き受けているという気
持ちがとても強かったという】6)。それに対して、後期に渡来した在朝日本人
は単に腰掛け的にやってきたに過ぎず、朝鮮人社会とは隔絶した大都市の日
本人町で「優雅に」生活していた。彼らの多くは意外なほど朝鮮の土地や人
に馴染まず、良くも普くも愛着も認識も持たずに過ごしたという17)。
(2)在朝日本人の生活様態
次に、在朝日本人の生活様態に関してもう少し具体的にみておく。植民地
朝鮮は在朝日本人にとって官公吏においても、技術者、教員、その他の職業
の人々にとっても、内地より増給が得られる土地であった18) 『東邦協会会
報』によれば、 1897年時点での仁川と日本国内の職種別賃金を比較すると、
大工が仁川80銭-115銭に対し、日本国内は44銭で、以下同様に、左官が
80銭に対し、 43銭、石工が80銭に対し、 47銭、日僻が60銭に対し、 26
銭(以上は日給)、下姥が350銭-500銭に対し、下僕226銭・下婚123銭
(月給)であった19)このことは朝鮮内の日本人と朝鮮人の賃金についても
言えた。当時、朝鮮総督府鉄道局に奉職していた下値藤雄によれば、 「ソウル
より北の日本人鉄道員は本給にその七〇%アップ、南の日本人鉄道員は六
〇%アップでした。これを『加俸』と云いました。月給の本俸が三十円とし
たら、朝鮮人の月給は三十円、日本人は四十八円、五十一円でした」と回顧
している20)
実際に、筆者が行ったアンケートでもこうした事情が伺える。まず朝鮮に
渡航したきっかけ・理由に対して、経済的理由を挙げるものが半数以上を占
める。次に多いのが親類を頼っての渡航という回答であるが、例えばr農家
のため、貧困で、将来の夢がもてず、釜山にいた親戚を頼って行った」 (1931
年生、男)というように経済的理由と重なるところが多い。もう一つ特徴的
なことは在朝日本人たちの暮らしぶりが比較的良かったことである。この点
は先行研究でも指摘され、回想記や会報でも伺われる。また、アンケートに
おいても、その半数以上が「最も良かった思い出」として、豊かな生活や遊
び・旅行、平和などを挙げており、このことからもその暮らしぶりの良さが
伺われよう。
-57また、在朝日本人たちの生活様態における特質は日本人町を形成し、朝鮮
人と接触しないで生活していたことである。在朝日本人たちが都市生活者で
あり、日本人町を形成していたことは上述したが、それを裏付けるように、
アンケートでも三分の一以上が朝鮮在住時に朝鮮で親しく接した朝鮮人はい
ないと回答している。もちろん、親しく接した朝鮮人はいると回答したもの
が半数以上を占めるが、その場合でも、当時例外的に日本人学校-入学が認
められていた朝鮮人同級生や総じて朝鮮社会では生活が豊かな階層に属して
いたと思われる近所の人々を挙げたものが多い20
以上をまとめるなら、在朝日本人二世たちの生活様態について次のように
言えるであろう。彼・彼女らは当地の朝鮮人と交わることなく、日本式の生
活を、しかも内地よりも総じて比較的豊かな生活を送っていた。それは彼・
彼女らの両親(あるいは祖父・祖母)が内地での生活苦境からの脱出のため
に朝鮮-移住し、そこは内地より増給が得られる土地であったからである。
(3)在朝日本人の教育動向
本節の最後に、本論で活用する資料に即して、在朝日本人の教育史・機関・
実態に触れておこう。朝鮮-と渡航し居住した在朝日本人らの子弟の教育は
当初からの問題となっており、釜山が開港された翌年の夏には在釜山の総代
役所の一室を割いて、 「共立学校」と称する教育機関が初めて設置された22)
その後、明治15年に元山、明治16年に仁川が開港されるに伴い、当地-敬
育施設が設置されたが、いずれも当初は仏教寺院(本願寺)の一室を借り、
僧侶による「読書、習字、算術」が教授されるにすぎなかった23)
本格的に学則が発布され、内地と同様の制度が整えられたのは日韓併合に
伴う明治45年のことであった。むろんそこでは、 『朝鮮公立小学校規則』第
9条第1項「忠君愛国の志気を発揚し思量なる国民を育成するは小学校教育
の主要なる目的なれは常に深く比に注意す-し」とあるように、 「忠君愛国」
「国民の育成」が強調された。ただし、同じ第3項では、 「-土地の状況に
適応せむことに注意す-し」とあり、朝鮮の状況を鑑みることを指摘してい
るが、それが教育内容や指導に反映された形跡はない2<l)
その後、大正11年には朝鮮新教育令が発布され、 「朝鮮にある国民は内鮮
-58-人を問はず同一の教育を受くることになった」が25)、 r朝鮮の国民中には現
実に於て言語風俗習慣の同じからざるものがある」との理由から、 「普通教育
に於ては国語を常用するものと然らざるものとを区別の標準として」、一般的
に日本人の子弟は小学校、中学校、高等中学校に通い、朝鮮人は普通学校、
高等普通学校、女子高等普通学校に通うという具合に、日本人と朝鮮人とは
区別された26)。
本稿において検討される釜山では、上述の通り、開港後まもなくの明治10
年に朝鮮初の在朝日本人子弟に対する初等教育機関である「共立学校」が設
立され、それが後身の「釜山第-公立尋常小学校」となるOその後、大正2
年には中等教育機関である釜山公立中学校が創立された。大正15年5月末
現在の統計によれば、釜山に小学校が8校、 105学級、児童が5,392名在籍
しており、中学校が3校、 37学級、生徒数が1,735名にのぼり、その他に園
児や補習学校生を加えた総合計は16校、 164学級、 7,849名であった27)
そうした規模で行われていた在朝日本人の教育であったが、回想記や会報
などを通読してみるとき、意外にも教育内容に関する外地独特の描写は伺え
ない。同窓会の回想録という体裁であるから至極当然のことながら、母校を
取り上げた思い出の記が多く、軍事教練の思い出や戦前教育の優秀さなどを
指摘するものが多い。このことは闇在」から見れば異質な体験であるが、
とりたてて外地で教育を受けたのもたちの回想記でなくとも、同世代ならば
同様であろう。そのことから見ても内地教育と変わらない教育を受けていた
ことが伺われる。
以上の事柄をまとめれば、在朝日本人の教育は内地と同様の国民教育が図
られ、それは法的にも、制度的にも実施された。また、日本人と朝鮮人を挙
校の名称、すなわち通学する学校自体を区別し、 「併合」 「内鮮一体」と言い
つつ、日本人と朝鮮人との人的な相互浸透は行われなかった。こうした事実
は在朝日本人らが内地と何ら変わりのない学校生活を送ることに拍車をかけ
た。さらに、前述した日本人町の形成と重ね合わせれば、彼らは朝鮮という
外地で生活しながら、常に内地を共時体験していたと言えるのである。この
ことはおそらく彼・彼女らの意識に多大な影響を及ぼしたであろう。
-59-3.意識形成の過程一在朝日本人二世の意識
(1) 「朝鮮時代」 :故郷として存在していた朝鮮
朝鮮で生まれ育った在朝日本人二世は日本-の引き揚げまで朝鮮を自分た
ちの「故郷」 (自分の生まれ育っているところ)と認識していた。これは内地
から渡って行った一世が既に朝鮮をr異国」として、あるいは「日本の植民
地」として認識していたこととは異なる。それゆえ、敗戦を迎えた後に、日
本に引き揚げなければならない状況に置かれた彼らは自分たちが生まれ育っ
た場所から何故離れなければならないのかがよく分からなかった。つまり、
在朝日本人二世と親世代との最も異なるところは、 「朝鮮」を故郷であると認
識しているか否かということである。一世にとって朝鮮が単なる異国であっ
たり、日本の植民地という存在であったり、内地よりも増給が得られる場で
あったりするとすれば、二世にとって朝鮮は自分達が生まれ育った故郷であ
るということに大きな意味が置かれる。アンケートによれば、実に90%以上
の者が、朝鮮在住当時「朝鮮」を何も意識していないか、自分が生まれ育っ
ているところであると考えていた。以上のような意識を持っていた二世だが、
植民地当時、時々直面する出来事により朝鮮を異国として認識させられる事
態に陥り、そこで初めて複雑な心情にさらされる。
「入学後それほど経過しない頃と思うが、公設グラウンドで釜中、
-商、東莱高普、二商の四校対抗の競技会が開催された時の事件
が、最も印象に残っている。当時のことだから、教練の服装で、
銃を持っての障害物競争など戦時色の濃い種目ばかりである。各
校全生徒が応援していたO競技も終わりに近づいたと思われる頃、
何かの競技の判定で、東莱側から抗議があり、場内に不穏な空気
が漂った。そうこうするうちに、騒然となって、 「○○を殺せ」と
いうようなことを口々に叫び、競技は続行不能となった。計画的
なものとは思えないが、朝鮮人の反日感情の噴出した行動であっ
た。 〔-〕釜山で生まれ、釜山で育ち、釜山が自分の世界であった
が、ここは異郷であると痛切に感じさせられた出来事であった」
28)
-60-むろん、こうした在朝日本人二世の意識は筆者が行ったアンケート調査に
おいても伺われる。先に、 90%以上の者が、朝鮮在住当時「朝鮮」を何も意
識していないか、自分が生まれ育っているところであると考えていたと記述
したが、同じ質問項目に重複する形で、 「日本の植民地」と回答をした者が4
名(11%)いた。また、朝鮮在住当時「朝鮮人」を同じ民族で同じ国の人で
あると考えた者は皆無であり、大半は違う民族であるが同じ国の人、あるい
は何となく違う存在であると感じていた。さらに、朝鮮が日本の植民地であ
ることを認識したのはいつかという質問項目では、 「朝鮮に在住していた
頃」と回答した者が約半数の17名(46%)にのぼった。これは先のアンケ
ート結果と明らかに矛盾する。おそらく、家庭生活においても、学校生活に
おいても朝鮮人との関わりを持たなかったことが故郷としての朝鮮意識と
植民地という異質な朝鮮意識との断絶を容易にしたと思われる。換言すれば、
朝鮮の地における内地の共時体験が異質な朝鮮・朝鮮人意識を希薄化させ、
自分の生まれ育っているところにすぎないという意識との両立を可能にさ
せたのであろう。そのように考えれば、植民地当時、在朝日本人二世は朝鮮
という存在自体に対して何の自覚もしていなかったことが読み取れるO徒つ
て、その後においても自分が生まれ育った朝鮮をどのように捉えればよいの
かよく分からなかった二世は、時折直面する朝鮮人とのトラブルにより、自
らの生まれ育った地に対する混乱の心情を持ったのだと考えられる。ただし、
上に引用した下線部の記述「釜山で生まれ、釜山で育ち、釜山が自分の世界
であったが、ここは異郷であると痛切に感じさせられた出来事であった」こ
とが意味するところは朝鮮を日本の植民地として、あるいは異国として認識
するに至った契機として考えるのは早計であろう。それは「自分の世界」あ
るいは自分の存在に対する異質な他者の存在を意識し、その存在をどのよう
に受け止めればいいのかということ-の動揺にすぎなかったと捉えるべき
である。
かかる二世の存在は、 「 "中には韓国に誕生して母国の何物たるを実験せざ
る生徒も鮮なからざれば任に教育に在るものの最も注意すべきは、如何にし
て愛国心を酒養すべきやに存す"と危機感を持ち、増加しつつある二世に向
-61-けて内地観念の鼓舞-愛国心の鼓舞-国威の発揚に努める。つまり、母国を
愛慕する観念を持ち、朝鮮に新日本を建設すべく奮闘せよという発想である。
国家の意向とそれに沿ったジャーナリズムの役割をよく示している」 29)との
先行研究の分析からも明らかなように、日本にとっても大きな課題になって
いたのである。次に引用する回想記からも朝鮮で生まれ育った二世たちのア
イデンティティ確立のため、教育者の側が彼らに対して注意を払っているこ
とが伺われる。
「四年の春の修学旅行は、従来満州行きでしたが、この目的は、
卒業後は朝鮮はもとより満州支那方面で活躍すね者が多いだ
ろうから予備知識を得するためだと聞いておりました。だが、
青柳校長は、釜中生の大多数は朝鮮で生まれ育ち、むしろ内
地の事情に疎いため北方に飛躍するには兵法の極意である
『己を知り敵を知る』に習うて先ず内地の現状を把握しなけ
ればならないとお考えになったようです」 30)
従来の在朝日本人二世に対する研究では、国家の意図的政策や教育、親の
影響などによって、彼らが無意識的に朝鮮は植民地であると考えるようにな
り、そして日本の植民者として君臨するようになっていたという。だが、上
記において検討したように、一世とは異なり二世は朝鮮を意識下に置かない
か、単なる生まれ育ったところと考えていた。ただし時折異質な他者の存在
を意識する出来事により混乱した心情を持っていたことは確かである。しか
し、そうした「内的葛藤」も彼・彼女らが当地の社会によりよく適応するた
めに意識下に押し込められていたのである。
(2)朝鮮時代以後: 「ノスタルジア」としての朝鮮
在朝日本人二世たちが記した回想記の記述の中で最も頻出する共通意識と
しては、朝鮮のこと、植民地統治当時のことを「郷愁」として捉えているこ
とである。彼らは何故、どのような部分に「懐かしさ」を感じるのであろう
か。
-62-i)故郷としての郷愁
在朝日本人二世は「生の原点である故郷としての郷愁」に「懐かしさ」を
感じている。彼らにとって釜山は思い出の源泉である。例えば、下に引用し
た次のような記述にあらわれている。
「釜山で生まれ育った者として、テレビ等に釜山が出ると懐
かしく昔を想い出しています。 〔-〕釜山は、私の故郷、釜中
は私の少年時代を育んでくれた人間形成の場として懐かしい
想い出で一杯です」 31)
「日本人もよく口にするが、 『釜山港に帰れ』のカセットテ
レビに映し出される釜山港の画像は、私たちが校庭から眺め
続けた情景とは全く異なるものである。それは、永遠に私た
ちの心の中のみ生き続けることのできるものなのである」 32)
つまり、 「テレビ等に釜山が出ると懐かしく昔を想い出して」いるが、それ
は近代化や都市化された釜山ではない。また、それゆえ「私達が校庭から眺
め続けた情景とは全く異なるものである」。すなわち、 「生の原点である故郷」
の変化は彼・彼女らの共鳴感や朝鮮観に影響を与えることはない。あくまで、
朝鰍ま無自覚に「郷愁」の地として措定される。それはわれわれが生まれ故
郷に持つ懐かしさと変わりないものである。
ii)自然、幼年時代の友人・先生、学校-の懐かしさ
また、在朝日本人二世は「自然-の懐かしさ」、 「幼年時代の友人・先生・
学校があった思い出の場」に対する郷愁を感じている。例えば、次のような
記述にあらわれている。
rすばらしい恩師たちに教えを受けられたことも幸せであ
った。 〔-〕戦後の教育の混沌の中でよく釜山時代を思い出
し、戦前の教育はすばらしかった、特に先生は小学校を含め
て優れた方が多かったとつくづく感じ入ったものである」 刀)0
-63-r今にして思えば、釜中時代の少年期、あの時期が一番私
にとっては貴重な時期であったように思う。戦時中とはいっ
ても、後に体験した程の物資不足とか、戦争の切実感はなく、
大らかな平和な時世の中で、良い恩師や、心の通じ合う友人
に恵まれて、スクスクと伸びた時間だった。 〔-〕私自身の
心身にいろいろな物を芽ばえさせ、育て上げていてくれたの
だ」34)
「これからは、在りし日の釜山の山や海、そして活き空
と釜中の思い出と共にまだまだ頑張っていきたいと思って
いる」35)
「釜山での生活は私の少年期の全てである。海あり、山あ
り、河も温泉もあった。人も風物もみな懐かしい思い出に結
びつき、還暦を経た今日でも、釜山、釜中と聞くと、何か熱
いものがこみ上げてくる」 36)
このことはアンケートの結果にも表れている 90%以上のものが朝鮮を懐
かしく感じると答え、 「どんな理由から懐かしさを感じるか」との追跡質問に
対して、 70%以上のものが何らかの形で、故郷-の郷愁、幼少期の思い出に
より懐かしさを感じると回答した。また、その具体的な情景としては遊び・
旅行によって触れた山河や自然、学校生活などである。
こうした、彼・彼女らの回想は、高も指摘しているように、後年感じたで
あろう朝鮮に対する後ろめたさから、 「朝鮮を『懐かしいと言ってはならぬ』
という立場からすれば、放田の姿勢[本論に即して言えば、上記のように回
想した彼・彼女らの姿勢一筆者註]は必ずしも肯定されるべきものではない。
しかし生の原点であり、 『自己』の一部であった朝鮮を懐かしく思う気持ちを、
抑圧することだけでよしとすべきなのだろうか」 37)とひとまず言える。
だが、ここに表れているのは懐かしさを抑圧するどころか、率直かつ無邪
気に故郷や自然、そして学友や恩師、学び舎を懐かしむ姿である。もちろん、
それが語れている場が幼・少年時代を共有した同じ過去を併せ持つ者達の集
いであり、そうした気軽さの中で語られたということについては注意を払わ
-64-なければならないであろう。しかし、在朝日本人二世たちの多くが一世たち
とは異なる形で朝鮮を想起したことと同様に、朝鮮に対する後ろめたさ、す
なわち植民地に対する判断は自らの意志とは無関係のことであり、かつまた
当時の実感として希薄であるがゆえに、当時の懐かしさに対する語りとして
入り込む余地はない。ところが、こうした一方で現在から朝鮮以後(過去の
記憶としての引き揚げ以後)を語る時、彼・彼女らの意識は複雑(内的葛藤)
なものであることが明らかになる。
iii) <植民地マイナス(-)意識>とく植民地プラス(+)意識>の
交差38)
①植民地マイナス(-)意識
日本に引き揚げてから朝鮮が日本の植民地であったことを認識するよう
になった在朝日本人二世たちの意識は他の日本人と異なると思われる。当時
は何の意識も持たず朝鮮で普通の生活をしていたのに、後日気付いて見たら
自分の生まれ育った朝鮮が日本の植民地であったこと、この事実は彼らを普
しめることにもなる。このことに関する記述を拾い出してみると以下のよう
である。
「なぜ日本は無暴な戦争に突入したのだろうか。生まれ育っ
たふるさと釜山を失い、また釜山第六小学校・釜山中学校の二
つの母校をも失ってしまった。戦争の混乱期、復興期、高度成
長期を経て、現在の日本は経済的繁栄を謁歌しているが、これ
からの日本は経済大国としての国際的責任が問われる時代と
なった。戦争のないこの四十年間がいかに大切なものか痛感、
平和な時代がいつまでも続いてほしいと念じている」 39)
「〔-〕次に想いが別の問題になりますが、当時の韓国人と
日本人の差別問題です。今から考えますと確かにあったこと
ではないでしょうか。強制的な日本名-の創氏改名、日常会
話及び学校での韓国語禁止、韓国人居住街の分離等、又当時
私も子供でしたので余り関心もありませんでしたが、現業関
-65係の従事者は殆んど韓国の方であった様な気がします。 〔・・.〕
以上の小さな日常行為が、目に見えない精神的な差別でなか
ったかと思い、幾ら親の時代のこととは云え、一日本人とし
て反省とお詫びの気持で一杯です」 40)
自己による選択でないにもかかわらず、朝鮮で生まれ何の自覚もせず普通
の生活をしていた在朝日本人二世にとって、自分の存在自体が日本の植民者
として位置づけざるを得なくなった時、後ろめたさを感じ、日本の植民地統
治に対する反省の心情も抱くようになる。上の下線部「小さな日常行為が、
目に見えない精神的な差別でなかったかと思い、幾ら親の時代のこととは云
え、 -日本人として反省とお詫びの気持ちで一杯です」と吐露しているよう
に、直接的に植民地統治の官吏として貢献したわけではないが、普通の生活
自体が、植民地統治構造の中に存在していたことを語り、自分を反省すべき
日本人として位置づけている。また同時に、 「無暴な戦争」と言い、 「母校を
も失っ」たと、自分をも被害者として捉えながら、日本植民地統治を批判す
ることもある。
②植民地プラス(+)意識
その一方で、植民地肯定の立場を見せる在朝日本人二世もいる。次にかか
る態度がどのように表われているのかをみてみる。
「日韓合併以前韓国はすでに清国の支配下にあり、又不凍港を
求め南進政策を進めてゐた帝政ロシャに領有されていたかも
知れない。このことも日清、日露の二大戦争の原因になってゐ
る。又韓国社会は、両班(ヤンバン)中人(チュ-イン)常人
(サイン)奴婚(ノビ)のきびしい階級制度が有り、一般大衆
は実に苦しい日々を送ってゐたのである。日韓合併による朝鮮
総督府の第-の努力は、朝鮮人の教育だったと思ふ。 〔-〕日
韓合併以前、釜山はすでに完全な日本人町になってゐたが、日
本が韓国を合併せず、保護国程度にしてゐたら、我々釜山子は
終戦により追出されずに今も釜山に居て、朝鮮の発展の為、貢
-66-献出来てゐるのではないかと思はれる」 41)
「一年生の一年間は、太平洋戦争開戦の前後であったため、軍
蝣V
T
事教練とか体力章検定等にかなりの時間が割かれた他は、授業
も平常通りに行われた。 〔-〕勤労動員は、おおむね辛い事が
多かったが、いま振りかえってみて結構懐かしく思い出される
事も幾つかある。 〔-〕まさに、疲労と空腹の数年だったが、
今にして思えば、その時の体験が、戦後の混乱と困難の時代を、
へこたれる事もなく切り抜けて、今日の豊かな日本を築く原動
力となったのだと思うと、誠に得難い体験を為し得た事を神に
感謝しなければならないのかも知れない」 42)
-上のように、日本の植民地統治自体を明確に肯定する在朝日本人二世の回
想記は、しかしながら、自分の植民地体験、例えば、軍事教練や戦争遂行の
ための勤労動員などの経験が植民地の構造の中から行われたにもかかわら
ず・自分の個人的な体験としてのみ捉えているところが特徴的である。二世
が植民地体験を語る目的・意義はさしあたり、 「今にして思えば、その時の
体験が、戦後の混乱と困難の時代を、 -こたれる事もなく切り抜けて、今日
の豊かな日本を築く原動力となったのだと思うと、誠に得難い体験を為し得
た事を神に感謝しなければならないのかも知れない」という記述からも読み
取れる。つまり、現在の自らの存在を肯定すること、すなわち意識にのぼっ
た朝鮮体験が社会により良く適応するためになされたことであると肯定す
るために過去の経験が寄与したということを強調したいがためであろう。こ
のことは既存の研究で意味づけられてきた在朝日本人の持つ「日本植民者と
しての意識」とは言えない部分があると思われる。
以上、在朝日本人二世の朝鮮-過去に対して感じる"郷愁"は共通してい
るものの、自分が生まれ育ったところが植民地であったという事実に対する
意見には差異があることを明らかにした。一方では、 「植民地マイナス(-)
意識」的に自らを位置づけるものがいる。敷術すれば、自らをも植民地の被
害者であると捉えつつ、それを踏まえた上で後ろめたさを感じながら、謝罪
感情を持つのである。それは自分自身の存在を問う際には、否定の否定が肯
-67-定になる作用を働かせる。これとは逆に「植民地プラス(+)意識」的な考
えを持つものがいる。同じく敷術すれば、この場合も自分自身の存在は肯定
的である。従って、ここで重要なことは二世が自らを植民者として意識する
かどうかという問題よりも、彼らが朝鮮のこと、過去のことに思いを巡らす
時、あるいは自分自身の存在を客観化しようとする時、その過程には好悪を
超えた、自らの境遇に対する葛藤を巡って複雑な心情にさらされるというこ
とに注目すべきだということであろう。彼らはおそらく朝鮮という土地、あ
るいは朝鮮人という存在をその都度、社会により良く適応するために意識に
のぼらせたり、取り下げたりしたのであろう。また、それに加えて注目すべ
きは、二世が自ら過去のことを語るようになったというよりも、集いなどを
通じて過去を語るようになり、自分の存在に関して考えるようになったとい
うことである。このことは彼・彼女らの自己存在の肯定論が同じ境遇の集団
間でしか持ち得ない限界性と脆さを示唆していよう。
(3)拡大され・整えるノスタルジア
i) 「ニュー釜山会」の活動を通じて
在朝日本人二世たちは、朝鮮で生まれ育ったという出自のゆえに、一方で
幼少期の思い出に対する切なさを、他方で<植民地の子>として朝鮮で生ま
れたという自分の出自-の後ろめたさを背負って生きざるを得ない内的葛藤
を内在した存在となったのであろう43) 『アカシアの大連』で芥川賞を受賞
した清岡卓行は、 "書く"行為を通じて旧植民地を自らのノスタルジーの地と
するような一定のイメージを形成していった。同様に、多くの在朝日本人二
世たちは、同じ記憶を共有するもののみで構成された同窓会や親睦会など
様々な集いの場を通して朝鮮-のノスタルジアをより強化していくのせはな
いだろうか。川村は、過去を懐かしむゆとりなど殆どなかった二世たちはr時
の経過とともに、かつての悲喜こもごもの体験が、ふとしたことから浮び上
がってくることもあった」と記述している朋)。ここでは、 「ニュー釜山会」
の活動を取り上げて在朝日本人二世たちの朝鮮に対するイメージがどのよう
に現れているのか、またどのように拡大していくのかをみてみることにする。
「ニュー釜山会」は様々な活動を行っている。主要な活動を挙げれば、里
-68-帰り旅行(各出身校親善訪問、母校-の記念品贈呈、日韓合同同窓会の開催、
旧住居訪問、釜山各小学校の校長との交流など) 、 <望郷釜山の歌>の製作、
練習曲カセットの頒布、などであるO例えば、 「釜山-里帰り旅行ご案内」に
ついて、次のように記述している。
「会員の皆様、大変お待たせ致しました!予てから、会員皆様
より、第二の故郷釜山-の里帰りの旅行の希望が寄せられて
居りましたが、事務局では、終戦引き揚げから今年が五十年
に当り、その記念行事の一環として釜山里帰り旅行を企画致
しました。終戦の混乱の中で、悲惨な引き揚げの際、幾度も
振り返った、私達が生まれ育った母校や幼時から遊び廻った
近所の町の景色を今でも夢に見る会員は多い事でしょう。特
に同窓生として、同じ窓から見た同じ風景を夫々のアルバム
に収め幼かった頃の心象風景が重なり合う幼友達と一緒に、
懐しい母校や昔の想い出を釜山の街の片隅に訪ねませんか」
45)
また、この里帰り旅行に参加した女性は、この旅行の感想を次のように
記している。
「旧南富民町旧我が家訪問Oこれが此の度の一番の目的でした.
ほとんど昔の姿を残している我が家は健在でした。門の前で
スナップを撮って貰いこれで満足ですと言いましたら、李先
生と金嶋さんが声をかけて下さり、思いがけず住んで居られ
る韓国のご夫婦の方が出てこられ、奥さんがコンニチワと流
ちょうな日本語で挨拶され驚きました。今は韓国の方のお宅
で有る事も忘れ、お座敷迄上がらせて戴き、磨き上げられ手
入れされている昔のままの室内を見せて戴き、最高の喜びで
した。玄関前での記念写真も心良く笑顔で応じて下さり、韓
国のご夫婦と私と三人でカメラマンの方に撮影して貰いまし
-69-たo比の写真は生涯私の宝物として大切に致します」 16)
旧住居訪問をしてきた男性は、 <原点にかえる>という感想を寄せ、次の
ように述べている。
「"さらば釜山よ また来る日まで しばし別れの涙がにじむ''
〔.・・〕私が育った駅前の大倉町四丁目森山旅館も、東大新町二
丁目の家も跡かたもなく、わずかに四十段の階段で"この辺だ
ろう" "総合グラウンドがここだから、高速見水源池はないが、
わが家はこの辺だったろう"と見当をつける位しかないのだが
一。また来年も来ようと思う。 "私が今あるのも、ここで育っ
てられたからだ。あの時、あの先生と、あの友達と、こんな話
しをしたっけ、あんなこともあっだ'想いは五十数年前にすぐ
逆のぼる。この気持ちをよみがえらせたいために私はニュー釜
山会の里帰り旅行に参加しているのである。 〔-〕何時ものこ
とですが、私は釜山滞在中、ほとんど連日お酒を飲んでいまし
たが、これは、頭の中にあまりにも昔日の想い出が浮んでくる
からで、自分の生の原点にもどったという、一種やるせない気
持ちの表現でしょう」 47)
「旧住居訪問」は、里帰り旅行の中の一つのプログラムでもある。以上の
記述からも分かるように、自分が生まれ育った「家」を訪問することによっ
て、彼らの過去の思い出を現在に呼び戻しているのである。つまり、過去-
の懐かしさが整えると同時に廷らせるのである。
また、ニュー釜山会では年中行事として各出身校と様々交流を行っている。
例えば、 「各出身校(小学)親善訪問」、 「母校-の記念品贈呈」、 r日韓合同同
窓会の開催」などであるが、これも彼らの懐かしさを拡大させるのに重要な
活動となるo r各出身校(小学)親善訪問」のことを次のように記述している。
「到着の夜のコモドホテルでの招待晩餐会は、 〔-.]寄付金
-70-贈呈及び記念品贈呈式等が行われる。片山会長の挨拶、乾杯
で始まり盛大なパーティであった。 〔・・・〕翌日は各出身校の表
敬訪問である。 〔-〕各小学校とも校門には歓迎の横断幕あり、
玄関には歓迎の看板有りで大変な歓迎である。校長先生を始
め職員方、又児童及びPTA父兄の方々の歓迎には感謝、感激
であった。特に児童の器楽の演奏やPTAのご婦人方の合唱は
素晴らしかった。アリランの合唱ではなっかしさのあまり、
みんなで口ずさみ踊りだし、知らず知らずに涙が頬を伝わる
のをおぼえた」 48)
自分の母校を訪問し、学校の人々と様々な交流を行うことによって二世た
ちの過去-の郷愁はより深くなることが分かる。 「日韓合同同窓会の開催」に
参加したある女性は、 「十一月六日夜、三小講堂で現地の同窓生と、日本から
の卒業生が計二百人以上集まっての初の同窓会は全国的に大変な反響を呼ん
だ」という文章を書いているが49)、自分たちの活動が社会からも注目を集め
たという事実が彼らをより積極的に過去-と結ばせることにもなるのである。
「ニュー釜山会」では、会独自に「望郷釜山の歌」を製作し、それを練習曲
カセットとして頒布している。望郷歌は卒業生で会のメンバーが作詞を手が
け、歌唱した曲であるが、この望郷歌も在朝日本人二世たちの思い出を深め
させる一つの要素になっていると思われる。ある女性は望郷歌についての感
想を次のように記述しているが、望郷歌は自分が生まれ育った場所-の愛情
を深めさせ、さらに言えば過去の懐かしさをより強化させていることが読み
取れる。
「曲が流れ、歌がのった時、最初にフッと涙ぐんだの。気が
ゆるんで了った。引揚げ以来緊張して、別な自分ばかり外に
見せて来た。何か内地を警戒してた。それがとれて了ったの
ネ。 〔-〕植民地政策、敗戦、ザンゲ、 ?それが一体何のサ。
S^^^Bi
みんなミンナけっ飛ばせ。釜山は生きているんだボク達は-
``釜山と一声聞く丈けで"なのヨ。 〔=・〕日本とは、内地とは、
-71-マカ不思議な所ネ。どうしても内地になじめない私の心、そ
の原因が今回あなたのテープで初めて分りました。 (内地は
セマいのネ。私達大陸育ち、港町育ちには)」 50)。
また、上記以外にも、 「釜山案内地図販売」 「釜山訪問のビデオ」を頒布し
ているが、これらも集いの様々な活動自体が在朝日本人達を過去-浸らせる
一役を担っている。
「今は異国となっている釜山にかかわる会は言いようもなく
なつかしい。あの町、この町、あの人、この人。うれしいこと
も悲しいことも思い出はいっぱいある。そして、その思い出の
中に、なつかしいという気持ちだけでなく、意外なよろこびと
生き甲斐が生まれてくることを感ずる。それは、もはや老いを
生きていく上での新しい活力であり、エネルギーとなっている
ように思う。新しい発見である」 51)。
''′ I′
「戦後、呼吸の大分に帰ってからも釜山のこと、第三小学校、
釜山中学のことは片時も忘れたことはないが、平素は生活に
忙殺されて心の奥に大切に蔵っていたのである。しかし、大
分での亀峰会の集いは年に盛会となり、会の時は釜山時代の
話しで感激し、これまで大切に蔵っていたことをすべて吐き
出して満足している」 52)。
ii)自分史を紡ぐために
在朝日本人二世たちは、どのような理由から自らの過去-と遡り、それを
懐かしむのだろうか。 「人は老年期に入ると、自らの人生の統合という課題に
向かって、ますます過去を振り返り内省的になり、幼年期の記憶がよりはっ
きり廷る場合がある」という53)回想記を発行し、同窓会という一時代の記
憶を共有するものたちとの集いの中で、在朝日本人二世たちが個々に今まで
省みることのなかった自らの「朝鮮時代」を振り返ることは、自らが納得し
て解釈のできる歴史(自分史)を紡ごうとしている過程と思われる。
-72-もちろん、在朝日本人二世たちの場合には、普通誰もが持っている故郷に
対する記憶や思い出とは異なる側面が存在する。それは自己の生まれ育った
場所が自国の支配下に置かれた植民地であったという事実、そして故郷が自
分の意思とは無関係に突然異国となっていたことが大きく影響しているだろ
う。このことは彼・彼女らが自らの過去を解釈しようとするとき、それを困
難にさせ、内的葛藤-と導いている一因といえる。だがそれゆえに、在朝日
本人二世たちは自らの故郷を問い、彼・彼女らの集いである同窓会は自らの
人生の統合という課題-自分史を紡ぐ作業、換言すれば、内的葛藤を克服し、
自らが社会によりよく適応するためにその都度形成してきた意識の正当化を
促進させる役割をする。過去を語り、里帰りをし、自分の旧住居を訪ね、そ
して母校を訪問するなど、自分の一部である朝鮮は自分史を紡がせる作業を
図らせる鏡のような存在として捉えられる。そうして結局、過去の記憶の中
で後ろめたさを感じながら自分を反省すべき日本人として位置づける人も、
自分を日本の植民者として位置づける人も、傍観者的な立場で過去を眺める
人も、最後に帰結するのは日本と韓国の友好関係を願うことである54)
4.おわりに-まとめと今後の課題
以上、在朝日本人二世の集いから発行された『幻の名門校』と会報『龍頭
山』の二つの回想記、及びアンケートを通して、彼らの朝鮮・朝鮮人に対す
る意識を検討してきた。
在朝日本人二世は彼らの親世代である一世とは異なり、自分の意志とは焦
関係に朝鮮で生まれ育ち、日本の植民者として位置づけられることを余儀な
くされた。彼・彼女らが成長するにつれ、徐々に朝鮮が日本の一部であるこ
とを意識し、動揺したにせよ、二世はあくまで当時朝鮮を単なる自分が生ま
れ育ったところとしてしか捉えきれていなかった。換言すれば、時折直面す
る出来事により朝鮮を異国として認識する場面に遭遇することがあったにも
かかわらず、その意識は環境と自らの意識調整により、自覚されないままで
あった。終戦を迎え日本に引き揚げてきた在朝日本人二世は、様々な集いを
形成し、過去-の懐かしさを交わすようになり、そうした集いは多くの在朝
日本人たちに懐かしさを感じさせる契機になる。在朝日本人二世の懐かしさ
-73-は、単なる過去-のく懐かしさ>ではなく、集いの活動を通して<煙らせか
つ建った懐かしさ>であると言えよう。しかしながら、一方で彼・彼女らが
植民地朝鮮を思うとき、その意識は植民地マイナス(-)意識、植民地プラ
ス(+)意識に分化する。また、二世が過去を語り、多様な形で過去を懐か
しむ背景や意図は、自らの歴史を納得して解釈し、紡いでいこうとするもの、
すなわち自らの人生の統合を通じて、内的葛藤を克服し、自らが社会により
よく適応するためにその都度形成してきた意識の正当化を行うためのもので
ある。
梶村は、 「今日の日本のあちこちで、相変わらず、昔どこそこに住んでい
た人々の会、どこそこの学校の同窓会という形で、もと在朝日本人の集まり
が無数に持たれているが、それらは全て『古きよき朝鮮』 -の郷愁と植民者
意識を温め合う場でしかない。そして、それらは決して単純な形で後継ぎを
持てない宿命にあり、もはや相当に老化しはじめてもいる」 55)と言い、ある
いは「今日の数多くの植民者の同窓会は、まさにこの楼小な自己に執着する
思想の、そのまま化石した姿であるといえよう。植民者の自己否定の問題だ
けを繰り返し書き続けた故小林勝の『朝鮮をなっかしいといってはならぬ』
という言葉は、そこにまっすぐに向けられている。植民者の歴史的体験の再
生の回路はこの言葉のなかにだけ含まれている」 56)と述べている。だが、在
朝日本人二世の同窓会を通して分かったことは、梶村が言うようには断言す
ることができないということである。在朝日本人二世にとって同窓会は、梶
村の言う「植民者意識を温め合う場」ではなく、彼らの「自分史を紡ごうと
する場」としての意味が大きい。また、在朝日本人二世にとって「懐かしさ」
は、単なる「古き良き日本」 -の懐かしさではなく、自らの生の原点である
故郷、幼年時代の自然や友人、そして学校に対する懐かしさである。
自分が生まれ育った朝鮮-韓国、故郷を植民地として統治していた自分の
国である日本との間で感じられる複雑な気持ちを、日韓友好関係を通して統
合しようとしていた。そうした役割を果たしており、また託している存在が
同窓会であるのだといえよう。
しかし、そのように総括できるとはいえ、彼らの存在そのもの及び彼らが
植民地朝鮮に暮らしていたという事実は日本の朝鮮植民地統治、あるいはそ
-74-の後の韓国社会、さらには日本社会に対して大きな影響を与えていたと思わ
れる。たとえば、日本人町で日本式の豊かな生活を送っていたということ、
そして朝鮮人と人的相互浸透しない形で教育が行われたことは支配・被支配
の二重構造の形成を促した要因であると考えられるからである。
このように、彼・彼女らの存在から朝鮮の植民地統治をどのように考える
かは非常に重要な問題でありながら、資料面、その他の面でまだまだ克服し
なければならない課題は多い。今後、本稿の分析を踏まえたうえで、関連資
料の収集、専門諸領域のさらなる研鎖を経て、他日に期したいと思う。
註
1)とはいえ、 「在朝日本人」は明確に定義されうる存在ではない。それは一
方で「朝鮮在留日本人」 (木村健二)と簡明に定義されることもあれば、
他方で「朝鰍こおける植民者、すなわち日本帝国主義による植民地化過程
及び植民地支配下の朝鮮に在住した日本植民者」 (咲本和子)と定義され
ることもある。つまり、在朝日本人のいかなる側面に焦点をあてるかによ
り、様々な定義づけが可能で複雑な存在であると言えよう。実際に、在朝
日本人をどの程度の範囲で把握すればよいかを考えてみても、生活拠点が
朝鮮にあったものたちは全て含めてよいかどうか、内地に留学しているも
のはどのように扱えばいいのかなど、不確定にならざるを得ない要因は多
い。また、植民者として捉えるといっても、それには時間的制約を考慮し
なければならないし、その視点には明らかに「下からの侵略」といった実
証性のない二分法的な負の観点が入り込まざるを得ない。従って、本稿で
は在朝日本人を「朝鮮に在住していた日本人」と大まかに定義し、彼・彼
女らの子女で、朝鮮に生まれ、朝鮮に育った「在朝日本人二世」に焦点を
あてて考察しようと思う。ここで、二世を積極的に取り上げる理由は後述
してある。また、同様の理由から、本稿では主として植民地統治期を通じ
て敗戦まで釜山に在住していた日本人を対象にしている。
2)木村健二『在朝日本人の社会史』未来社、 1989年、 8-9ページ、咲本和
子「『皇民化』政策期の在朝日本人「京城女子師範学校を中心に-」 『国際
関係学研究』 (津田塾大学) No.25、 1998年、 79-80ページO
-75-3)こうした観点に基づく、在朝日本人に関する先行研究には註で挙げたも
のの他に以下のよう.なものがある。梶村秀樹「植民地と日本人」 『日本生活
文化史第8巻一生活の中の国家』河出書房新社、 1974年。梶村秀樹「植民
地朝鮮での日本人」 『地方文化の生活史第9巻一地方デモクラシーと戦争』
文一総合出版、 1978年。
4)ここでは、 「意識」は認識と行動とに影響を与える心の動きとして捉えた
い。なお、 「意識」については、井筒俊彦『意識と本質一精神的東洋を索
めて-』岩波書店、 1983年、 5ペ-ジ、苧坂直行『意識とは何か-科学の
新たな挑戦-』 (岩波科学ライブラリー36)岩波書店、 1996年、 12-14ペ
ージを参照のこと。また、具体的な「意識」の分析に関しては、五十嵐徳
子『現代ロシア人の意識構造』大阪大学出版会、 1999年に示唆を受けた。
5)回想記は釜山公立中学校の同窓会である亀峰会が編集した亀峰全編『幻
の名門校(釜山中学回想記)』リベラル社、 1988年を用いた。以下同回想
記から引用する場合には、書名(『幻の名門校』)とページ数のみ表記するo
また、会報は釜山所在の小学校の合同同窓会であるニュー釜山会が編集・
発行している『龍頭山』 (1992年に創刊され、毎年発行。現在まで15号刊
行)を用いた。以下、同会報から引用する場合には、タイトル、号数とペ
ージ数のみ表記する。
6)アンケートは2002年7月1日~15日にかけて、中国地方在住の在朝日
本人第19回~25回小学校卒業生61名をニュー釜山会名醇より抽出し、郵
送で行った。有効回答数37名(全体の60.7%)、男17名、女20名であり、
生年の幅は1926年生-1937年生である。従って、アンケートに回答を寄
せて下さった方々の終戦時の年齢幅は8歳~19歳であり、彼・彼女らの植
民地朝鮮体験は学齢時のものであると言える。以下、アンケート結果から
引用する場合には本文中にそれを示し、個別的なものはカッコ書きで生年
と性別のみを記す。なお、アンケート調査の具体的な項目などについては
紙幅の関係上省略した。
7)木村健二「朝鮮居留地における日本人の生活態様」 『一橋論叢』第115
巻第2号、 1996年2月号、 396ページ。
8)森田芳夫『朝鮮終戦の記録』厳南堂書店、 1964年、 1ページ。
-76-9)同上、 3,6ページ。
10)同上、 3-4,7-11ページ。
ll)梶村秀樹『梶村秀樹著作集第一巻朝鮮史と日本人』、明石書店、 1992年、
229ページ。
12)辛美善r在朝日本人の意識と行動- 『韓国併合』以前のソウルの日本人
を中心に-」 『日本学報(20周年記念特集号)』 (大阪大学)、 1996、 44ペー
ジ。
13)前掲、 『朝鮮終戦の記録』 4, 12ページ。
14)以上の記述の詳細は、前掲「朝鮮居留地における日本人の生活態様」を
?mt
15)声健次「植民地日本人の精神構造-『帝国意識』とは何か-」 『思想』No. 778、
1989年4月号、 7-8ページ。
16)前掲、 『梶村秀樹著作集』 194ページ。
17)同上、 211ページ。
18)小田倉徳寿『朝鮮の過去現在及未来』近躍印刷部、 1929年、 109-111ペ
ージ。
19)前掲、 『在朝日本人の社会史』 17ページ。
20) 「札幌民衆シリーズ8」編集委員会編集『証言:植民地体験ボンソンフア
(鳳仙花) -日本統治下の朝鮮・サハリンの生活-』札幌郷土を掘る会、
1997年、 75ページ。
21)親しく接した朝鮮人がおり、それとの関係が近所の人であると回答した
在朝日本人によれば、それらの職業は「銀行員、新聞記者、医者、大学の
先生、写真業、地主」 (1931年生、女)であり、総じて当時の朝鮮社会の
中では生活の豊かな階層に属している。
22) 『旧植民地教育史資料集2』青史社、 1982年、 『朝鮮教育要覧』 114ペー
ジ。なお、本資料集は朝鮮総督府編『朝鮮教育要覧』 (大正8年刊行)及び
釜山教育会編『釜山教育五十年史』 (昭和2年刊行)の合本複製である。以
下、引用した方の書名のみを記し、ページ数を表記する。
23)同上、 『朝鮮教育要覧』 123-126ページ。
24)同上、 『朝鮮教育要覧』 119ページ。
-77-25)同上、 『釜山教育五十年史』 38ページ0
26)同上、 『釜山教育五十年史』 1,38-39ページ。
27)同上、 『釜山教育五十年史』 47-48ページ.
28) 『幻の名門校』 520ページ(下線部筆者)。
29)前掲、 「朝鮮居留地における日本人の生活態様」 392ページ。
30) 『幻の名門校』 355ペ「ジ。
31) 『幻の名門校』 450-451ページ(下線部筆者)。
32) 『幻の名門校』 462-463ページ(下線部筆者)0
33) 『幻の名門校』 238-239ページ.
34) 『幻の名門校』 373ページ。
35) 『幻の名門校』 375ページ。
36) 『幻の名門校』 521ページ。
37)高書照『(在朝日本人二世)のアイデンティティ形成一旗田税と朝鮮・日
本』桐書房、 2002年、 285ページ。
38)ここで筆者は在朝日本人二世の意識構造を理解する際に、 「植民地マイナ
ス(-)意識」と「植民地プラス(+)意識」というタームを用いる。こ
のタームは従来しばしば用いられた概念とは異なっている。すなわち、こ
れまでは自分を一人の日本の植民者(加害者)として位置づけ、その植民
地統治を否定する論理を示す言葉として「否定論」あるいは「植民地否定
論」という言葉が用いられた。しかし、在朝日本人二世の意識を見た場合、
そうした否定論に加えて、自分の存在を植民地時代の被害者として捉え、
それゆえ植民地統治そのものを否定する立場を持つものがいる。つまり、
その力点は歴史的評価という意味での否定に置かれているのではなく、自
己が被害者であるというところからくる否定に置かれている。このため、
そういう論理・意識を持つものに対するタームとして「植民地マイナス(-)
意識」という言葉を充てる。そして同様に、 「植民地プラス(+)意識」と
は、植民地当時そのものを肯定する従来の「肯定論」あるいは「植民地肯
定論」に加え、植民地統治そのものについてはネグレクトし、自分の存在
がそこにあり、そこで育まれたこと自体をもってしてその時代を肯定する
論理・意識を含めたタームとして「植民地プラス(+)意識」という言葉
-78-を充てる。ここには植民地統治を肯定・否定する論理の中で、植民地統治
そのものの評価を考えているのか、それとも自分自身の経験・実感を第-
にし、それを植民地統治の評価と連動させようとしているのかを区別して
考えたいという意図がある。
39) 『幻の名門校』 534-535ページ(下線部筆者)0
40) 『龍頭山』 10号、 12ページ(下線部筆者)0
41) 『龍頭山』 IO昔: 14-15ページ。
42) 『幻の名門校』 535-537ページ(下線部筆者).
43)前掲、 『 (在朝日本人二世)のアイデンティティ形成』 284ページ。
44)川村邦光「植民地体験と"内地人" - 『アカシアの大連』をめぐって」
栗原他編『越境する知6知の植民地:越境する』東京大学出版会、 2001
年、 109-111ページo
45) 『龍頭山』 4号、
46) 『竜頭山』 9号、
47) 『龍頭山』 15号、
48) 『竜頭山』 15号、
49) 『竜頭山』 7号、
50) 『龍頭山』 2号、
51) 『龍頭山』 14号、
2ページ。
17ページ。
llペ-ソ。
ヽ .チ
9ペ-ソ。
3ページ。
3-4ページ。
13ペ-ソ。
ヽ .チ
ヽ .ヽ
52) 『幻の名門校』 475ページ。
53)前掲、 『 (在朝日本人二世)のアイデンティティ形成』 286ページ。
54)例えば、次のような文章からそのことが伺われる。
「〔-〕ところで、ソウルオリンピック-主人と行きました時、少し韓国
語を勉強していきましたが、その時主人から『君はどうしてハングル文字
を知らないの?生まれ育ったのに』と云われましたO現在帰国子女が英語
がよく話せるのにと思ったのでしょう。 『あの頃は市内にハングル文字の
看板もなく、日本人の学校と朝鮮人の学校も別々だったのよ』と云うと、
『そんな差別をしていいのか』と云われた時、胸グッと来るものがありま
した。近くて遠い国と云われていますが、近くて近い国になる事を願いま
す。何故ならば、私達の故郷ですもの」 『龍頭山』 8号、 14ページ。
-79-55)前掲、 『梶村秀樹著作集第-巻朝鮮史と日本人』 241ページ0 56)同上、 242ページ。
(hothot血a go n@hotm ail. com ) -801
No comments:
Post a Comment