2021-11-16

人に会いたい、文化に触れたい 波多野淑子 사람을 만나고 싶다, 문화를 접하고 싶다 하타노 요시코

人に会いたい、文化に触れたい

  ―わたしが日韓合同授業研究会に参加しているわけー

                                 波多野淑子

 この文は、わたしがどのように韓国(あるいは朝鮮)と出会い、どのような経路をたどって日韓合同授業研究会に参加するようになったかという、心の軌跡を述べたものです。文中に韓国(あるいは朝鮮)に対して失礼な文言がありますが、それは主として10代の頃のわたしの気持ちをありのままに記したものなので、ご容赦ください。

 また、韓国(あるいは朝鮮)の呼称についてはできるだけ当時一般的だった言い方を使いました。大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国成立後も、日本人は一般的に朝鮮、あるいは北朝鮮・南朝鮮という呼び方をし、日本に住んでいた朝鮮人(以下、「在日」とします)もしばらくは韓国籍を名乗ることはありませんでした。ちなみに「在日」の人びとは日本の敗戦後、日本国籍を失い「朝鮮籍」になりました。1965年の日韓基本条約によって、「大韓民国籍のものに日本永住権を認める」と規定されたために、徐々に「韓国籍」を取得する人が増えました。

 

1)      朝鮮の印象

 物心ついてから朝鮮人に直接、接したことは無かった。朝鮮と言えば、玄界灘を越えてラジオから聞こえてくる耳慣れないことば。たまに見かける白いチマチョゴリ(チマの裾がゆったりと揺れてきれい!)と爪先が上を向いている白いコムシン。博多駅近くの石堂川に沿って並ぶ汚い掘っ立て小屋の集落。ときどき新聞に載る「どこそこの朝鮮人集落で密造酒を摘発」とか、「窃盗あるいは強盗犯なにがし、コト〇」という記事など。コトのつぎには李・金などの一文字の姓が書かれていて、それは朝鮮人が日本人の姓を名乗っているのだそうで、よいことをした朝鮮人に関する記事はなく、犯罪を犯したときだけ実名が報道されるのだった。朝鮮戦争がはじまると米軍の軍需物資輸送を阻止しようとした吹田事件などが起こり、「朝鮮人が騒擾を起こした」と報道されたので、朝鮮人と言えば貧しく、汚く、すぐに騒ぎを起こす、どこか胡散臭い人たちのように思えた。また博多湾周辺の漁船が銃撃されたり拿捕されたりして漁民が苦しんでいるのは李承晩大統領が引いた李承晩ラインのためだったから、李ラインを突破して操業に行くという『月の朝鮮海峡』という歌(西条八十作詞、古賀政男作曲)を好んで歌ったりしていた。

 朝鮮に対して暗いイメージしかなかったわけを考えてみる。わたしの親たちは差別的なことを言う人ではなかったから、新聞やラジオの報道と、3歳上の兄の影響だろうか?また、幼いころからグリム童話やアンデルセン童話、小学生の頃には『ああ無情』『アルプスの少女』『若草物語』など欧米の文化に接して親しんでいたし、中国文化には漠然と尊敬の念を持っていたが、朝鮮の文化に触れる機会はなかったのも残念なことだったと思われる。

2)転換点

 高校生だった1954815日の朝、遊びに来ていた東京で花火が上がる音を聞いた。戦争の犠牲者を思って悲しく過ごすべきこの朝にお祝いの花火?と不思議に思って考えてみると、近くに駐日韓国代表部(のちの韓国大使館)があることに気づいた。「ああ、そうなんだ、815日はあっちでは日本の支配から解放されたお祝いの日なんだ!」初めて同じ日でもこちらとあちらでは意味が違うこと、ものごとは双方向から見なければならないことを知った。

 1958年小松川事件。小松川高校定時制の生徒、18歳の李珍宇は二人の女性を辱めたのち殺害して、死刑を宣告された。かれは中学では生徒会長を務めるほど人望もあり成績もよかったが、朝鮮人集落の中でも極貧の家に生まれたため進学できず、働きながらひたすら読書する日々だった。明らかに差別と貧困が生んだ犯罪だった。「かわいそうな李珍宇!」このとき「在日に対する日本人の民族としての責任」を感じた木下順二・大江健三郎・大岡昇平らが助命運動を展開し、被害者の親たちさえもそれに加わった   李珍宇書簡集

のだった。

 1960年、わたしたちが新日米安全保障条約締結反対のデモに明け暮れていた(そして敗北した)ころ、韓国では学生たちが命がけのデモをおこなって李承晩大統領をハワイに逃亡させた(四月革命)。これには本当に驚き、韓国の学生たちの力量に感嘆した。

 大阪で私立女子高校の教師になったわたしは、1961年に初めてクラス担任になり、当時は提出が義務付けられていた生徒の戸籍謄本を見ていた。「全羅南道○○」というのが、3通もあって隣の先生に尋ねると「ああ、それは朝鮮」とこともなげな返事が返ってきた。しかし3人とも日本名ではないか?! わたしは創氏改名も知らなかったのだ。本名を名乗って溌剌としている中国人生徒たちとは違って、おとなしく控えめだったその生徒たち。自分とは関係ないと思っていた朝鮮人が目の前に現れてうろたえるばかり。何かしなければと思いはしたが、何もできないまま、わたしは間もなく大阪を離れた。

 次の転機は1967年ごろ、日本史の授業の自由課題で生徒が「朝鮮」というレポートを提出した。朝鮮について何も知らないままそれを評価できないので、当時たぶん唯一の入門書だった金達壽の『朝鮮』(岩波新書)を読んだ。朝鮮の風土・文化・歴史のアウトラインを述べ植民地化の過程や土地調査事業などその現実、そして日本への抵抗などを詳しく書いた名著だ。「口の利ける野郎は監獄に/ 野良に出る奴ア共同墓地に/ 餓鬼の一匹も生めるあまっちょは色街に/ もっこのかつげる若けえのは日本に/ こんで何にもかんもすっからかんよ/ 八間新道のアカシヤ並木 自動車の風に浮かれてる」という詩(本文より)のように、日本に抵抗するものは死ぬか監獄に入るかであり、農地を失った男たちは日本へ出稼ぎに行くしかなく、女は遊郭に売られ、空っぽになった朝鮮では総督府が作った幅広い道路に日本人が乗る自動車が走るばかりという状況がありありと浮かんできて、初めて植民地になるとはどういうことかわかった。李珍宇が貧しく「かわいそう」だったのはまったくかれの責任ではなく、日本がしたことなのだった。

1968年には殺人を犯した金嬉老が寸又峡温泉に立てこもって、日本人(とくに警察官)に対して民族差別への抗議を突き付けた。かれの行為や人となりは決してよいものではなかったが、鈴木道彦・日高六郎・中野好夫ら多くの文化人がその主張を真摯に受け止めた。現代語学塾など、朝鮮語を学び朝鮮を知ろうという動きもそこから始まる。

わたしは金嬉老の主張を全面的に支持した。朝鮮を勝手に植民地にし出稼ぎに来た朝鮮人たちを差別・虐待する、すべて日本がしたことなのだ。「わたしは正義の味方だ!」―ところで、そのとき自分はどうなのか?という問いが生まれたきっかけは永山則夫だった。永山は19歳だった1968年、拳銃で4人を殺害して「連続射殺魔」と呼ばれた。獄中で全共闘運動の学生たちに会って刺激を受け、1971年に自伝的エッセイ集『無知の涙』(合同出版)を発表する。赤貧の8人きょうだいの母子家庭でネグレクトされて育ち、学校にもろくに行けないまま、中卒で東京に「金の卵」として集団就職したのち、職を転々とする。そのかれがひとたび目覚めるとこのように深い自己省察の文を書く、という衝撃。人間は環境によっていかようにも作用されるのだ。とすると、これまでの自分は?当時日大や東大などの学生たちがくり広げていた学問の意味・自らの在り方を問う全共闘運動の影響もあって、自分ははたしてどういう存在なのかという問いが生まれた。たとえば自分が大学に入ったのは普通のことだと思っていたが、当時の大学進学率は男性は10%、女性は5%に過ぎなかったのだ。はたして自分は本当に「正義の味方だ」と言えるのだろうか、「差別する存在」ではないのかと。

いっぽう教室には初めて「わたしは朝鮮人です」と実名を名乗る、朝鮮学校からの転校生があらわれた。彼女に勧められて朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)を読んでまた衝撃をうけた。強制連行もショックだったが、それまでにも多くの工事現場に朝鮮人労働者の姿があったのだ。日本近現代史は朝鮮との関係を抜きにしては語れない。日朝関係を知らなければ日本史はわからない。この生徒が教室にいる限り(そしておそらく常に実名を名乗らない朝鮮人生徒がきっと居るはずだから)、彼女が聞いておかしいと思わない日本史を語らなければならない、勉強しなければと肝に銘じた。金嬉老事件以来あちこちで開かれる集会にも行きたかったが、生まれたばかりの二人の子どもを抱えて身動きがつかない。ひたすら読書するしかなかった。

在日朝鮮人の自伝やエッセイ、ルポルタージュ、植民地時代を描いた小説、日朝関係の歴史など、手当たり次第に読んだ。とくに中塚明『近代日本と朝鮮』(三省堂新書)は授業を作る上で大いに役立った。日本に対する朝鮮の抵抗については朴殷植『朝鮮独立運動の血史』(東洋文庫)に驚き、ニム・ウェールズ、キム・サン『アリランの歌』(みすず叢書)では初めて尊敬すべき素晴らしい朝鮮人の革命家キム・サンに出会って、本書を読んだだれもが言うように「目からウロコ」だった。李進煕『好太王碑の謎』(講談社)などをきっかけに古代史の見直しも進んで読むべき本は際限がなかった。

3)『海峡を越えて일본と朝鮮』

そうして10年あまりが過ぎた1979年、友人の誘いで初めて韓国に行き、小グループで1週間ほど各地の文化遺産を見て回った。扶余の武寧王陵では塼を組んだ石室の美しいアーチの高い技術に感嘆し、慶州出土のきらびやかな金冠も美しかったが、予備知識が無いために景福宮を見ても仏国寺を見てもどうということもなく、金ぴかの仏像や見慣れない石塔、ガイドが語る古代史の人物にもなじめなかった。ただ慶州の低い山並みと韓屋の屋根の線が美しかった。当時韓国はまだ貧しく、デパートに行っても買いたいものは無く、釜山ではどこまでも高く高く続く貧民街に目を見張った。通りには韓服姿が溢れていた。植民地にされて辛かった朝鮮の人びとは日本人に怒りを抱いているだろうと、申し訳なくて頭を下げて歩くような思いだったが、マイクロバスで移動しホテルと食堂と観光地を行き来するだけなので、普通の人に会ったのは友人と一緒に行った美容院でだけで、人に対して親しみを感じるまでにはいたらなかった。ガイドが「朝鮮と呼ばないでくれ、言っていいのは朝鮮日報、朝鮮銀行、朝鮮人参だけ」と言うので、わたしは初めて韓国という呼び方をし始めた。(誘ってくれた友人も「ねえ、朝鮮に行かない?」と言ったのだ。)

1982年、日本の歴史教科書に対して韓国・中国から侵略を美化し歴史を歪曲しているという抗議が起こった。わたしもかねてから教科書の日朝関係の記述に関心があったので、少し前から参加していた高校教師が中心の「日本史教育研究会」の仲間とともに教科書を検討した。担当した部分は1868年から1910年までで、日本史教科書9点を、たとえば日本の朝鮮侵略とそれを土台にした欧米との条約改正の関係、東学など朝鮮の抵抗、土地調査事業や創氏改名など植民地支配の内容、日本人の国権意識と朝鮮観の変化など30の項目について点検した。結果はほとんどの教科書が半分ぐらいの項目については記述しているが、植民地支配の実態や日本人の意識の変化に言及しているものはほとんどなく、教科書からは朝鮮で何が起こっていたかを学びにくいというものだった。その結果を「日本史教育研究会」の大会で発表すると、「朝鮮は当時平安時代のような状態で遅れていた」「開明が遅れた国が強い国の圧力を受けるのは国際的な力学の問題である」という日本の侵略を肯定するような意見や「‘日本人教師’として生徒に日本に対して嫌悪感を持たせてはならない」「いきなり朝鮮問題を取り上げても生徒はシラケルだけだ」と、日朝関係学習に無関心な発言が続き、残念ながら一部の「同志」を除いてはほとんど支持を得られなかった。わたしはまさに「‘日本人教師’として、日本史をどう考えるか」という問題提起をしたかったのだが。

しかしその発表が契機となって日朝関係史の記述を勧められ、1986年わたしは『海峡を越えて・일본と朝鮮ー日本と朝鮮の2000年を考えるー』(評論社)を出版した。古代から現代までの通史で、古代~近世はなるべく新しい資料に基づいて日朝の交流や親善を描き、近代以降は両国の民衆の立場から見ることに努め、当時の「在日」の状況にも触れた。書くことを通じて、日朝関係を知ることは日本を知ることだという思いを新たにした。

ところで問題は、このような本を書きながらも、それはすべて机上で学んだことであり、生身の「在日」にも韓国人にもなかなか会えないことだった。「調布ムルレの会」で朴慶植・李進煕先生らの講演を聞き、フィールドワークで金達壽さんにお目にかかったりし、朝鮮と名がつく集まりに片っ端から行ってみたりするものの、個人的な知り合いはできない。まるで日本人と朝鮮人とは同じ世の中に背中合わせで別々に生きているみたいだった。だから「日韓合同授業研究会」が発足すると聞いたとき、それこそ喜び勇んで参加したのだった。発足の集会には大勢が集まり熱気にあふれていた。

 

4)日韓合同授業研究会

 1995年第1回大会はソウルで開かれた。発起人のひとりで、わたしが通い始めていた「多摩市ハングル講座」の創設者、故村松豊功さんに勧められてわたしも授業報告をすることになった。テーマは「近現代の日韓関係史」で、朝鮮の開国から1945年までの日朝関係を発表形式で学んだ高校の授業の内容と生徒の感想を整理したものだった。それまで「原爆の被害を受けたかわいそうな日本」「日本が悪いことをするはずがない」と思い込んで来た生徒は、加害者としての日本に触れて衝撃を受け戸惑いながら知ってよかったと思ったり、「先生、日本のことを悪く言わないでください、悲しくなります」と言ったり、さまざまな反応をする。一方わたしは生徒たちがいくら歴史の真実を知って申し訳ないと思っても、それだけでは韓国に対する親近感は生まれないことに悩んでいた。韓国の教師たちと話し合いたかったのだけれど、大会直前に体調を崩して参加できず、当然ながら何の反応も得られなかった。

 第2回は東京で開かれ、「高等学校日本史教科書に見る日韓関係の記述―近現代」という発表をした。23種の教科書を簡単に調べたのち、占有率が高い4種を詳しく調べ、とくに日本と朝鮮の民衆についてどの程度言及しているかに力点を置いた。当時韓国では国定教科書1種のみであったためか、マスコミの報道もあって日本の教科書は偏向していると思われていたが、日本には何種もの教科書があって中にはかなり詳しく日朝関係を扱ったものもあるし、民衆史観を取り入れるなど、多様な考えと試みがあることを知ってもらい、どのような歴史教育が望ましいかを共に考えたかった。しかし発表にあたえられた時間は短く討議の時間もほとんどなくて、その願いはかなわなかった。

さらに何かのきっかけで竹島が話題になると、韓国側の参加者が一斉に立ち上がって「独島は韓国の領土だ、ちゃんと証拠がある!」と叫んだことに、わたしは茫然とした。竹島がどこの領土かという問題ではなく、それを感情的に主張する態度に違和感を覚え、これでは話ができないとがっかりした。ただある先生が「日本の悪い点ばかりしか知らない生徒に何とか友好の種を蒔こう」と、日本の子どもがやさしい気持ちでヒマワリを育てる日記を紹介した授業を発表されたことは嬉しかった。いくら歴史的事実を知っても親近感は生まれないことに悩んでいたので、とてもよい授業だと思われた。

いま振り返ってみると、当時、わたしは自分をわかってもらいたい気持ちばかりが強く、韓国の人たちがどんな思いでそこに参加しているかを思い見る余裕がなかったことを残念に思う。

 第3回大会はソウルで開かれたが、前回あまりに落胆したため参加しなかった。ただみなができたばかりの独立紀念館に行くと聞き、それは見ておかなくちゃと初めて一人旅をして見に行ったのだった。第4回ソウルも不参加。第5回は東京。西澤さんと柳虎順さんが共同授業の発表をされ、アニメーション映画『火垂るの墓』に対して韓国の生徒の中には「日本が被害者づらをしていて不愉快だ」という感想があると聞いて、誰が見てもかわいそうに思える話でも反対側から見ると違うのだと、ショックを受けた。歴史分科会では、古代には日本とか朝鮮とかいう国の感覚はなかったこと、韓国の歴史教育は自国中心的すぎることなどが話題になった。

 2001年、第5回慶州大会はわたしにとって忘れられない会になった。出発当日まで補習授業をして空港に駆け付けたための疲れ、山下さんがとってくださったソウルの安ホテルでの眠れぬ一夜、食べつけないニンニク、バスでの長距離移動…などのためか胃潰瘍を発症し、かろうじて自分の発表だけはしてフィールドワークも頑張ったが、そのほかの会議やレセプションのときなどは別室で寝ていた。「ヒマワリ先生」の権大勲さんに薬や栄養点滴・お粥などのお世話になり、帰途のソウルでは高享玉さんが救急車の手配を、中国朝鮮族の金丹實さんが病院での付き添いをしてくださった。救急車で大病院に行ったものの検査しなければ治療はできないと言われて待たされていたとき、救急車の運転手がどうなったかと電話してきて、まだ治療は受けていないと言うと、迎えに来てほかの病院に連れて行ってくれた。驚いたことには点滴が終わった4時間後、またかれが来てホテルまで送ってくれたのだ。―このような暖かい親切を受けて、初めて韓国の人びとが親しく、等身大で見えてきた。この人たちと通訳なしで話したい!と、韓国語の勉強にも熱が入った。

 

5)歴史分科会

 大会では第5回から歴史・教育人権・文化交流・環境などの分科会ができた。わたしは2001年慶州で「歴史を学んで自由を得ること」という発表をした。ともすれば身の回りにしか関心が無く、あたえられた環境がすべてだと思いこむ生徒たちに、歴史を学ぶことで視野を広げ、多角的・巨視的にものを見る目を養って欲しいという願いを込めて授業をしたいという内容だった。またそのとき、韓国の歴史教科書の「(壬辰倭乱のとき)われわれの民族は身分の貴賤・老若男女を問わず、文化的優越感に満ち、自発的戦闘意識を持っていた」という記述について、どういう史料に基づいているのかと質問した。それに対して「史料は無くてもいいのだ。歴史教育は民族としての一体感を持つことが目的だ」という韓国側の発言があって「史料に基づかない歴史教育?」と、当時問題になっていた日本の扶桑社教科書と同様の危うさを感じた。「文化的優越感」というのも、当時韓国では「古代の韓国はすぐれた文化を日本に伝えてやった」という記述が一般的で第5回東京大会でも話題になっていた。一方鄭光植さんは韓国の教科書は行き過ぎた民族中心主義であり、客観的な記述が望まれると述べた。これらの点がその後の歴史分科会でのテーマになっていく。

 第8回江華島大会のハイライトは、田鍾翼さんの「高等学校『国史』教科書の民族主義的傾向に関する分析」という発表だった。「…国難克復の歴史が強調され、平和な交流は描かれない。民族中心史観では民衆や女性の生活にはまったく目が向けられていない。…国家・民族のための歴史教育から生徒個々人のための歴史教育に変えていくべきであり…歴史的思考力養成に向かうべきだ。」権大勲さんも「歴史の授業では歴史の経験を通じて、わたしたちがどのように存在すればいいのか、どうすれば平和な社会になるか、そういうことを研究し教えるこ  

歴史分科会 2004年密陽大会       とが重要だ」と言い、藤田さんも「誤った民族主義を捨てることが平和につながる」と述べた。また翌年朴鍾善さんは壬辰倭乱の授業で「勝敗を語るよりも命の尊さに気付かせることが大切であり、歴史を学ぶことで生徒をイデオロギーから解放することが重要だ」と言った。 

9回福岡大会では、宋錫鍾さんとわたしが生徒のレポート交換の発表をした。「日本はなぜ植民地にならなかったか」「日本はなぜ朝鮮を植民地にしたのか」という二つのテーマでそれぞれの生徒たちが書いたレポートを交換して、感想を述べ合うというやり方だった。わたしの学校(千代田女学園)ではまだ近代を学んでいない時点の課題で、「わたしも正解は知らない」と言うと生徒は喜んで取り組み、国際的・国内的条件を考えて書いていたが、植民地支配の実態を知らないので相手国に対する配慮が足りなかった。それに対して韓国の白岩綜合高校からは「永遠の敵日本」「団結して日本より強くなる」と日本の過去の行動を非難する声が多く寄せられて千代田の生徒は戸惑っていた。また「文化的にはるかにすぐれたわが国」と書いたり、為政者の行動を無条件に肯定する姿勢には違和感を覚えた。しかし、日本の生徒が冷静に取り組める課題でも韓国の生徒は熱くなってしまうのが現状であり、日本の生徒が相手国の生徒の感情を知ったことは「多角的に見る」貴重な経験になり、相手国の人を身近に感じたことにも意義があった。宋錫鍾さんは「植民地ということばにアレルギーを起こし感情的になったが、この学習は、現世代と祖父母世代の痛みの共有・一体感を確認でき、自発的な民族アイデンティティの伸長に役立った」と述べた。前年の歴史分科会で、一方に「グローバルな視点から批判的・未来志向的に歴史を見よう」という考えがあり、他方に「韓国には韓国の特殊性を強調する教育が必要だ」という意見があったことは、常にわたしの念頭にあったが、宋錫鍾さんは「相互理解」を言いつつもやはり民族的アイデンティティの確立が一番の目標だったらしく、「いろいろな視点から科学的に見ること・既成概念から自由になること」を目標にしたわたしとは、食い違いがあった。

かつて民族を奪われた人びとが、それを取り戻し自分の民族を誇りたい気持ちをわからないわけではないが、盲目的に自民族の優秀性を信仰することは、ときには排他的になり、たとえばユーゴスラビア紛争のような「民族浄化」にまで及ぶ危険性がある。昔、幼いわたしは「ニッポンヨイクニ キヨイクニ セカイニヒトツノ カミノクニ」と教えられ、「勝ち抜く僕ら少国民 天皇陛下のおんために 死ねと教えた父母の 赤い心を受け継いで 心に決死の白だすき かけて勇んで突撃だ」と、わけのわからない何か神秘的なものを崇めてそれに命を捧げることを当然だと思い込んだのだ。敗戦後、その権威は崩れたが、「権威を崇める姿勢」はわたしの中に長く残って、そこから抜け出すのに長い歳月を要した。

12回抱川大会でわたしは「『勝ち抜く僕等少国民』―『愛国』教育の私的体験とそれを相対化する方法」と題して自分の経験を語り、大江健三郎のエッセイ『シンガポールのゴムマリ』(『自分の木の下で』朝日新聞社所収)を引用して、自国を相対的に見る視角は、自分の状況を縦(歴史的に)・横(周囲との関係の中で)から見ることであり、それを通じて人はその状況から自由になれるだろうと述べた。

民族的アイデンティティについて付け加えれば、先年ウズベキスタンで会った女性が「わたしはロシアとウズベキスタンのダブル、夫はタタール、娘は、さあ、何じんかしらね」と面白そうに笑った姿がさわやかだった。

歴史分科会では長年にわたって民族主義について語り合うことで議論が深まったが、ほかの大会参加者にどれぐらいそれが伝わったかは心もとない。分科会をするにはそれだけの数の会場と通訳を確保することが負担であり、またすべてを共通の場で語り合いたいという意見もあって、2008年第14回安城大会を最後に分科会は行われなくなった。

 

6)これから

 韓国・朝鮮と日本の間には長い友好の歴史と、日本が傷つけた消すに消せない近現代がある。それらを踏まえて両国の人たちが互いに理解し合おうと集まってから27年、これまで大会に参加した人数は200人を越えるだろう。毎年34日の合宿をして討議し論争し、ともに遊んで培ってきた友情は稀有なものではないだろうか。授業・教育研究会を名乗っているから、当然それが中心である。教師でなくなってから20年近くになるわたしが、退会しないでいる理由は、まず第一にあの人たちに会いたいからだ。

さらにわたしたちが交流して得たものを、ほかの人たちにも広めたい。今回この文を書くためにこれまでの大会報告書を何冊か、ところどころ読み返した。発表されたレポートや討議記録の中にはいいものがたくさんある。整理して広く世間に発信できるといい。

 大会でおこなわれるフィールドワークも印象的だ。これまで多くの近現代史の現場を歩いてきた。日本では足尾鉱毒事件や関東大震災時の朝鮮人虐殺の跡、差別を受けている零細な皮革工場地帯、横須賀の米軍基地、「在日」が住む集落、韓国では38度線間近の緊迫した現場や外国人労働者の町、光州抗争の跡、被爆者の集落など。なかでも沖縄と済州島を訪ねて過酷な歴史の傷跡にともに涙した記憶は鮮やかだ。環境分科会の主導で江華島や沖縄の干潟にも裸足で入った。文化遺産の旅も楽しい。美しい飛鳥・奈良や陶磁器の町・有田、のどかな佐原を韓国の友人たちに案内できたのも嬉しかった。今後もっとたくさんの韓国・朝鮮民主主義人民共和国の土地を訪ねたいし、日本の各地も紹介したい。

 日韓の会員の中には教育・学問・環境のプロから音楽・美術・文学に明るい人、社会運動をしている人など、いろいろな人材がいる。それぞれが得意分野を生かして自国の文化を紹介すれば互いの理解はもっと深まるだろう。フィールドワークの足元も覚束なくなったわたしだが、生きている間は、この交流をずっと続けたいと願っている。


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사람을 만나고 싶다, 문화를 접하고 싶다

  내가 한일합동수업연구회에 참가하고 있는 와케


                                 하타노 요시코

 이 글은 제가 어떻게 한국(혹은 조선)과 만나게 되었고, 어떤 경로를 거쳐 한일 합동수업연구회에 참여하게 되었는가 하는 마음의 궤적을 서술한 것입니다.글 중에 한국(혹은 조선)에 대해서 실례인 문언이 있습니다만, 그것은 주로 10대 무렵의 제 기분을 있는 그대로 적은 것이므로, 양해해 주세요.

 또 한국(혹은 조선)의 호칭에 대해서는 되도록 당시 일반적이던 표현을 사용했습니다.대한민국·조선민주주의인민공화국 성립 후에도 일본인은 일반적으로 조선, 혹은 북한·남조선이라고 부르며, 일본에 살고 있던 조선인(이하, 「재일」이라고 합니다)도 당분간은 한국 국적을 자칭하는 일이 없었습니다.덧붙여서 「재일」의 사람들은 일본의 패전 후, 일본 국적을 잃어 「조선적」이 되었습니다.1965년 한일협정에 의해 '대한민국 국적자에게 일본 영주권을 인정한다'고 규정되었기 때문에 점차 '한국적'을 취득하는 사람이 늘었습니다.


1) 조선의 인상

 철들고 나서 조선인을 직접 접한 적은 없었다.조선 하면 현계탄을 넘어 라디오에서 들려오는 생소한 말. 간혹 눈에 띄는 흰치마 저고리와 발끝이 위로 향한 하얀 곰신.하카타역 근처의 이시도가와를 따라 늘어선 더러운 판잣집 마을. 가끔 신문에 난 「도대체 조선인 마을에서 밀주 적발」이라던가, 「절도 혹은 강도범 모하, 코토0」이라는 기사등.그 다음엔 이, 김 등 한자 성이 적혀 있는데 그것은 조선인이 일본인의 성을 따르는 것이지 좋은 일을 한 조선인에 관한 기사는 없고 범죄를 저질렀을 때만 실명이 보도되는 것이었다.한국전쟁이 시작되자 미군의 군수물자 수송을 저지하던 취전사건 등이 일어나고 조선인들이 소요를 일으켰다고 보도되었으니 조선인이라고 하면 가난하고 더럽고 툭하면 소란을 피우는, 어딘가 수상쩍은 사람들 같았다.또 하카타만 주변 어선이 피격되거나 나포돼 어민들이 고통을 겪는 것은 이승만 대통령이 친 이승만 라인 때문이었으므로, 이 선을 뚫고 조업을 나간다는 「달의 조선해협」이라는 노래(사이조 80작사, 고가 마사오 작곡)를 즐겨 부르기도 했다.


 조선에 대해 어두운 이미지밖에 없었던 이유를 생각해 본다. 우리 부모들은 차별적인 말을 하는 사람이 아니었으니 신문이나 라디오 보도와 세 살 위인 오빠의 영향일까?또한 어려서부터 그림동화나 안데르센동화, 초등학생 시절에는 '아아무정' '알프스의 소녀' '어린애자 이야기' 등 서구 문화를 접하고 친숙해 왔고, 중국 문화를 막연하게 존경하는 마음을 갖고 있었으나 조선 문화를 접할 기회가 없었던 것도 아쉬웠던 것 같다.


2) 전환점

 고등학생이던 1954년 8월 15일 아침, 놀러온 도쿄에서 불꽃이 오르는 소리를 들었다.전쟁의 희생자를 생각하며 서글프게 지내야 할 이날 아침에 축하 불꽃놀이? 하고 이상하게 생각해 보니 근처에 주일한국대표부(후의 한국대사관)가 있다는 것을 알게 되었다."아, 그렇구나, 8월 15일은 저쪽에서는 일본의 지배로부터 해방된 축하의 날이구나!" 비로소 같은 날이라도 이쪽과 저쪽에서는 의미가 다름을, 사물은 쌍방향에서 봐야함을 깨달았다.

 1958년 고마쓰카와 사건.고마쓰카와고교 정시제 학생인 18세 이진우는 두 여성을 욕보인 뒤 살해해 사형을 선고받았다.그는 중학교에서 학생회장을 맡을 만큼 명망도 있고 성적도 좋았지만 조선인 취락 중에서도 극빈의 집에서 태어나 진학하지 못하고 일하며 독서하는 나날이었다.분명히 차별과 빈곤이 낳은 범죄였다.'불쌍한 이진우!' 이때 '재일에 대한 일본인의 민족으로서 책임'을 느낀 기노시타 준지(木下純二)·오에 겐자부로(大江健三郎)·오오카 쇼헤이(大岡承平) 등이 구명운동을 벌였고, 피해자의 부모들마저 동참했다. 것이었다.  

이진우 서한집

 1960년 우리가 신일미안보조약 체결반대 시위를 일삼을 무렵, 남한에서는 학생들이 목숨을 건 시위를 벌여 이승만 대통령을 하와이로 도망치게 했다(4월혁명). 이것이 정말 놀랍고 대한민국 학생들의 역량에 감탄했다.

 오사카에서 사립 여고 교사가 된 나는, 1961년에 처음으로 학급 담임이 되어, 당시에는 제출해야 했던 학생의 호적 등본을 보고 있었다.전라남도○○라는 것이 세 통이나 있어 옆 선생님에게 물었더니 아, 그건 조선이야라고 천연덕스러운 대답이 돌아왔다.하지만 셋 다 일본 이름 아닌가?! 나는 창씨개명도 몰랐던 것이다.본명을 자처하며 발랄한 중국 학생들과 달리 다소곳했던 그 학생들.자신과 상관없다고 생각한 조선인이 눈앞에 나타나 어리둥절할 뿐이다.뭔가 해야겠다고 생각은 했지만 아무것도 하지 못한 채 나는 곧 오사카를 떠났다.

 다음 전환기는 1967년경 일본사 수업의 자유과제로 학생들이 '조선'이라는 리포트를 제출했다.조선에 대해 아무것도 모른 채 그것을 평가할 수 없어 당시 아마 유일한 입문서였던 김달수의 조선(이와나미신서)을 읽었다.

조선의 풍토·문화·역사의 줄거리와 식민지화 과정, 토지조사 사업 등 그 현실, 그리고 일본에 대한 저항 등을 상세히 다룬 명저다.

  • 말 잘 하는 놈은 감옥에/ 
  • 들에 나가는 놈아 공동묘지에/ 
  • 아귀 한 마리도 낳는 맛초는 유랑에/ 
  • 먹코의 메는 와카케에는 일본에/ 
  • 붐벼서 아무렇게나 빈털터리 되네/ 
  • 팔간신도의 아카시야 가로수 자동차 바람에 들떠있네

라는 시(본문에서)에 갓난 놈들은 일본으로 가고 아무렇게나 가는 놈들은 일본으로 가는 놈들은 일본으로 가고 아무렇게나 빈 놈들은 도로 팔간 놈들이라 일본 도로 팔간 신도의 아카시야 가로수라 일본 도로로 가는 놈들은 도로로 가는 놈들은 도로로 가는 놈들은 도로로 가는 놈들은 도로 팔린 놈들이라 일본 땅에 팔림

이진우가 가난하고 불쌍했던 것은 전적으로 그의 책임이 아니라 일본이 한 일이었다.

1968년에는 살인을 저지른 김희로가 촌마타쿄 온천에서 농성해 일본인(특히 경찰관)을 상대로 민족차별에 대한 항의를 제기했다.그의 행위나 인품은 결코 좋지 않았지만 스즈키 미치히코, 히다카 로쿠로, 나카노 요시오 등 많은 문화인들이 그 주장을 진지하게 받아들였다.현대어학원 등 조선어를 익혀 조선을 알려는 움직임도 거기서 비롯된다.

나는 김희로의 주장을 전적으로 지지했다.조선을 멋대로 식민지로 돈 벌러 온 조선인들을 차별 학대하는 모두 일본이 한 짓이다.나는 정의의 편이다!라는 물음이 나온 계기는 나가야마 노리오(永山則夫)였다.나가야마는 19세이던 1968년 권총으로 4명을 살해해 연쇄 사살마로 불렸다.옥중에서 전공투 운동 학생들을 만나 자극을 받았고 1971년 자전적 에세이집 무지의 눈물(합동출판)을 발표한다.가난뱅이 8남매의 모자 가정에서 네글렉트돼 자랐고 학교도 제대로 가지 못한 채 중졸로 도쿄에 황금알로 집단 취업한 뒤 직장을 전전한다. 그런 그가 한번 눈을 뜨면 이와 같이 깊은 자기성찰의 글을 쓴다, 라고 하는 충격. 간은 환경에 의해서 어떻게든 작용된다. 그렇다면, 지금까지의 자신은? 당시 일본대학이나 도쿄대학등의 학생들이 펼치고 있던 학문의 의미·스스로의 본연의 자세를 묻는 전공투 운동의 영향도 있어, 자신은 과연 어떤 존재인가 하는 물음이 생겼다.이를테면 자신이 대학에 들어간 것은 예사롭게 생각했지만 당시 대학진학률은 남자는 10%, 여자는 5%에 불과했던 것이다.과연 자신은 정말 정의의 편이라고 할 수 있을까, 차별하는 존재가 아닐까.

한편 교실에는 처음으로 「나는 조선사람입니다」라고 실명을 밝힌, 조선학교로부터의 전학생이 나타났다.그의 권유로 박경식 조선인 강제연행의 기록(미래사)을 읽고 또 한번 충격을 받았다.강제연행도 충격적이었지만 그동안 많은 공사현장에 조선인 근로자들의 모습이 있었던 것이다.일본 근현대사는 조선과의 관계를 빼놓을 수 없다.북-일 관계를 알아야 일본사를 알 수 있다.이 학생이 교실에 있는 한(그리고 아마 항상 실명을 밝히지 않는 조선인 학생이 분명 있을 것이기 때문에), 그녀가 듣고 이상하다고 생각하지 않는 일본사를 말해야 한다고 명심했다.김희로 사건 이후 곳곳에서 열리는 집회에도 가고 싶었지만 갓 태어난 두 아이를 안고 오도가도 못하고 있다.오로지 독서할 수밖에 없었다.

재일교포 자서전과 에세이, 르포르타주, 식민지 시대를 그린 소설, 북-일 관계의 역사 등을 닥치는 대로 읽었다. 특히 나카츠카 아키라『근대 일본과 조선』(三省堂新書)은 수업을 만드는데 큰 도움이 되었다.일본에 대한 조선의 저항에 대해서는 박은식 조선독립운동의 혈사(동양문고)에 놀랐고, 님 웨일스 김상 아리랑의 노래(미스즈총서)에서는 처음으로 존경할 만한 훌륭한 조선인 혁명가 김산을 만나 이 책을 읽은 누구나 말하듯 눈에서 비늘이었다.이진희 『호태왕비의 수수께끼』(고단샤) 등을 계기로 고대사 재평가도 자진해서 읽어야 할 책은 끝이 없었다.


3) 해협넘어 일촉과 조선

그러다 10여 년이 지난 1979년 친구의 권유로 처음 한국에 와 소그룹으로 일주일가량 각지의 문화유산을 둘러봤다.부여 무령왕릉에서는 전돌을 깐 석실의 아름다운 아치의 높은 기술에 감탄했고, 경주에서 나온 찬란한 금관도 아름다웠지만, 예비지식이 없어 경복궁을 보나 불국사를 보나 할 것도 없었고, 금빛 불상이나 낯선 석탑, 안내원이 말하는 고대사의 인물도 낯설었다.다만 경주의 나지막한 산세와 한옥 지붕의 선이 아름다웠다.당시 한국은 아직 가난해서 백화점에 가도 살 게 없었고, 부산에서 끝까지 높이 치솟은 달동네에 눈이 휘둥그레졌다.거리에는 한복 차림이 넘쳐났다.식민지로 몰려가 힘들었던 조선인들이 일본인들에게 분노를 품고 있을 것이라고 미안해하며 고개를 숙이고 걷는 것 같았지만, 마을버스로 이동해 호텔과 식당과 관광지를 오가는 것뿐이어서 보통 사람을 만난 곳은 친구들과 함께 간 미장원에서뿐이었고 사람에 대한 친밀감은 이루지 못했다.안내원이 "조선이라고 부르지 말아줘, 할 말은 조선일보, 조선은행, 인삼뿐" 이라고 말하자 나는 비로소 한국이라는 호칭을 붙이기 시작했다.(초러 온 친구도 "여보게, 조선에 가지 않을래?" 라고 말했던 것이다.)

1982년 일본 역사교과서에 대해 한국과 중국의 침략을 미화하고 역사를 왜곡한다는 항의가 일어났다. 필자도 이미 교과서의 북-일 관계 기술에 관심이 있었기 때문에 얼마 전부터 참가했던 고교 교사들이 주축이 된 '일본사교육연구회' 동료들과 함께 교과서를 검토했다.담당한 부분은 1868년부터 1910년까지로 일본사 교과서 9점을, 예컨대 일본의 조선 침략과 이를 바탕으로 한 서양과의 조약 개정의 관계, 동학 등 조선의 저항, 토지조사사업과 창씨개명 등 식민지배의 내용, 일본인의 국권의식과 조선관의 변화 등 30개 항목을 점검했다.결과는 대부분의 교과서가 절반 정도의 항목에 대해서는 기술하고 있지만 식민지배의 실태나 일본인의 의식 변화에 대해 거의 언급하고 있지 않아 교과서에서는 조선에서 무슨 일이 일어났는지를 배우기 어렵다는 것이었다. 그 결과를 「일본사교육연구회」대회에서 발표하면, 「조선은 당시 헤이안 시대와 같은 상태로 뒤쳐져 있었다」 「개명이 늦은 나라가 강한 나라의 압력을 받는 것은 국제적인 역학의 문제이다」라고 하는 일본의 침략을 긍정하는 의견이나 「일본인 교사」로서 학생에게 일본에 대해서 혐오감을 갖게 해서는 안 된다」 「갑자기 조선 문제를 다루어도 학생들은 시라켈만 하고 「일본인 교사」라고 하는 일본의 침략을 긍정하는 의견이나 「일본인 교사」로서 학생에게 일본에 대해서 혐오감을 갖게 해서는 안 된다」라고만 하고, 거의 무관심한 발언이나마, 무관심하게 해서는 안 된다」라고 하는 것. 나는 바로 "'일본인 교사'로서 일본사를 어떻게 생각하는가"라는 문제 제기를 하고 싶었지만.

그러나 그 발표가 계기가 되어 북-일 관계사 기술이 추진됐고 1986년 나는 해협을 넘어 일촉과 조선-일본과 조선의 2000년을 생각하다-(평론사)를 펴냈다.고대부터 현대까지의 통사에서 고대~근세는 되도록이면 새로운 자료를 바탕으로 북-일 간 교류나 친선을 그려왔으며, 근대 이후에는 양국 민중의 입장에서 바라보고자 노력하여 당시의 '재일(在日)' 상황에 대해서도 언급하였다.글을 쓰면서 북-일 관계를 아는 것이 일본을 아는 것이라는 생각을 새롭게 했다.

그런데 문제는 이런 책을 쓰면서도 그것은 모두 탁상에서 배운 것이며, 살아 있는 재일 한국인도 쉽게 만날 수 없다는 점이었다.조포물래모임에서 박경식 이진희 선생 등의 강연을 듣고 답사차 김달수 씨를 뵙기도 하고 조선이라는 이름이 붙는 모임에 닥치는 대로 가보기도 하지만 개인적으로 아는 사이는 없다.마치 일본인과 조선인은 같은 세상에 등을 대고 따로 사는 것 같았다.그래서 '한일합동수업연구회'가 발족한다고 했을 때 그야말로 기뻐서 참가한 것이었다.발족의 집회에는 많은 사람이 모여 열기에 넘쳤다.


4) 한일합동수업연구회

 1995년 제1회 대회는 서울에서 열렸다.발기인 중 한 사람으로, 내가 다니기 시작했던 「타마시 한글 강좌」의 창설자, 고 무라마츠 토요노리씨의 권유로 나도 수업 보고를 하게 되었다.주제는 근현대 한일관계사로 조선의 개국에서 1945년까지의 북-일 관계를 발표 형식으로 배운 고등학교 수업 내용과 학생들의 감상을 정리한 것이었다.그동안 원폭 피해를 입은 불쌍한 일본 일본이 나쁜 짓을 할 리가 없다고 믿었던 학생들은 가해자로서의 일본을 건드려 충격을 받고 당황하면서 알게 됐다고 생각하거나 선생님, 일본을 나쁘게 말하지 마세요, 슬퍼져요라고 말하거나 다양한 반응을 한다.한편 나는 학생들이 아무리 역사의 진실을 알고 미안해해도 그것만으로는 한국에 대한 친근감이 생기지 않는다는 것을 고민하고 있었다.한국 교사들과 이야기를 나누고 싶었지만 대회 직전 몸이 아파 참가하지 못해 당연히 아무런 반응을 얻지 못했다.

 2회[년도?] 는 도쿄에서 열려 '고등학교 일본사 교과서에서 볼 한일관계의 기술-근현대'라는 발표를 했다.23종의 교과서를 간단하게 조사한 뒤 점유율이 높은 4종을 자세히 조사했고 특히 일본과 조선의 민중에 대해 어느 정도 언급하고 있는지에 역점을 뒀다.당시 한국에서는 국정교과서 1종뿐이어서 그런지 언론보도 때문에 일본교과서가 편향된 것으로 여겨졌지만 일본에는 여러 종의 교과서가 있고 그 중에는 상당히 자세하게 북-일관계를 다룬 것도 있고 민중사관을 도입하는 등 다양한 생각과 시도가 있다는 사실을 알게 되어 어떤 역사교육이 바람직한지를 함께 생각하고 싶었다.그러나 발표에 걸린 시간은 짧고 토의 시간도 거의 없어 그 바람은 이뤄지지 않았다.

더욱이 무슨 계기로 죽도가 화제가 되자 남측 참가자들이 일제히 일어서서 독도는 우리 땅이다, 분명히 증거가 있다!고 외친 것에 나는 망연자실했다.죽도가 어디 영토냐의 문제가 아니라 그것을 감정적으로 주장하는 태도에 위화감을 느껴 이래서는 이야기를 할 수 없다며 실망했다.  다만 한 선생님이 일본의 나쁜 점만 아는 학생에게 어떻게든 우호의 씨를 뿌리자며 일본 아이가 착한 마음으로 해바라기를 키우는 일기를 소개한 수업을 발표한 것은 기뻤다.아무리 역사적 사실을 알아도 친근감이 생기지 않을 것을 고민했기 때문에 아주 좋은 수업이라고 생각되었다.

지금 돌이켜보면 당시에 나는 나를 알아주기를 바라는 마음만 간절했고 한국인들이 어떤 마음으로 거기에 참여하고 있는지 돌아볼 여유가 없었다는 것이 유감이다.

 3차 대회는 서울에서 열렸으나 지난번 너무 낙담해 불참했다.단지 모두가 생긴지 얼마 안된 독립기념관에 간다고 해서, 그것은 봐두지 않으면 안 된다며 처음으로 혼자 여행을 해 보러 간 것이었다.제4회 서울도 불참.제5회는 도쿄. 니시자와씨와 유호순씨가 공동수업 발표를 했고 애니메이션 영화 화수의 무덤에 대해 한국학생들이 일본이 피해자 행세를 하고 있어 불쾌하다는 느낌을 받는다고 해서 누가 봐도 불쌍한 이야기라도 반대편에서 보면 다르다고 충격을 받았다.역사분과회에서는 고대에는 일본이라든가 조선이라든가 하는 나라의 감각이 없었던 점, 한국의 역사교육은 지나치게 자국중심적인 점 등이 화제가 되었다.

 2001년 제5회 경주대회는 나에게 잊지 못할 모임이 됐다.출발 당일까지 보충수업을 하고 공항으로 달려온 탓에 피로, 야마시타 씨가 잡아주신 서울 안호텔에서의 잠 못 이루는 하룻밤, 못 먹는 마늘, 버스에서의 장거리 이동 등으로 인해 위궤양이 발병해 간신히 자신의 발표만 하고 실사도 열심히 했지만 그 외의 회의나 리셉션 때 등은 별실에서 자고 있었다.해바라기 선생님 권대훈 씨에게 약과 영양 링거, 죽 등이 있어 귀가길 서울에서는 고형옥 씨가 구급차 수배를 맡았고 조선족 김단실 씨가 병원 수발을 들었다.구급차로 큰 병원에 갔지만 검사해야 치료를 받을 수 있다고 해 기다리고 있을 때 구급차 운전사가 어떻게 된 거냐고 전화해 아직 치료는 받지 않았다고 하자 마중을 나와 다른 병원으로 데려다 주었다.놀랍게도 링거를 맞은 지 4시간 만에 다시 그가 찾아와 호텔까지 데려다 주었다.이런 따뜻한 친절을 받고 나서야 비로소 한국 사람들이 친근하고 등신대로 보였다.이들과 통역없이 이야기 하고 싶다!며 한국어 공부에도 열을 올렸다.


5) 역사분과회

 대회에서는 제5회부터 역사·교육인권·문화교류·환경 등 분과회가 마련됐다.나는 2001년 경주에서 역사를 배우고 자유를 얻는 것이라는 발표를 했다. 자칫 신변에만 관심이 있고 주어진 환경이 전부라고 생각하는 학생들에게 역사를 배움으로써 시야를 넓히고 다각적 거시적으로 사물을 보는 눈을 길러달라는 염원을 담아 수업을 하고 싶다는 내용이었다.또 그때 우리 역사교과서의 (임진왜란 때) 우리 민족은 신분의 귀천·남녀노소를 불문하고 문화적 우월감에 가득차 자발적 전투의식을 지녔다는 기술에 대해 어떤 사료를 갖고 있느냐고 물었다.이에 대해 사료는 없어도 되는 것이다.역사교육은 민족으로서 일체감을 갖는 것이 목적이라는 한국 측 발언이 나오자 사료에 근거하지 않는 역사교육?이라고 당시 문제가 되고 있던 일본 후소샤 교과서와 같은 위험성을 느꼈다.문화적 우월감이라는 것도 당시 한국에서는 고대의 한국은 뛰어난 문화를 일본에 전해 주었다는 기술이 일반적이어서 제5차 도쿄대회에서도 화제가 되고 있었다.반면 정씨는 한국 교과서가 지나친 민족중심주의이며 객관적인 기술이 필요하다고 말했다.이러한 점이 그 후의 역사 분과회의 테마가 되어 간다.

 제8회 강화도대회의 하이라이트는 전종익 양의 고등학교 국사 교과서의 민족주의적 경향에 관한 분석이라는 발표였다.국난극복의 역사가 강조되고 평화로운 교류는 그려지지 않는다.민족중심사관에서는 민중이나 여성의 삶을 전혀 바라보지 않는다.…국가·민족을 위한 역사 교육에서 학생 개개인을 위한 역사 교육으로 바꿔 나가야 하며…역사적 사고력 양성으로 가야 한다.' 권대훈 씨도 "역사 수업에서는 역사 경험을 통해 우리가 어떻게 존재해야 하는지, 어떻게 하면 평화로운 사회가 되는지, 그런 것을 연구하고 가르치는 것  

2004년 밀양대회가 역사분과회 중요하다며 후지타 씨도 잘못된 민족주의를 버리는 것이 평화로울 수 있다고 말했다.또 이듬해 박종선 선생은 임진왜란 수업에서 "승패를 말하기보다 생명의 고귀함을 깨닫게 하는 것이 중요하며, 역사를 배움으로써 학생들을 이데올로기에서 해방시키는 것이 중요하다"고 말했다. 

제9회 후쿠오카 대회에서는, 송석종씨와 내가 학생의 리포트 교환의 발표를 했다.일본은 왜 식민지가 되지 않았나 일본은 왜 조선을 식민지로 만들었나라는 두 가지 주제로 각각 학생들이 쓴 리포트를 교환하며 소감을 나누는 식이었다.나의 학교(치요다여학원)에서는 아직 근대를 배우지 않은 시점의 과제로, 「나도 정답은 모른다」라고 하면 학생은 기꺼이 임해, 국제적·국내적 조건을 생각해 쓰고 있었지만, 식민지 지배의 실태를 모르므로 상대국에 대한 배려가 부족했다.반면 한국의 시라이와종합고등학교에서는 영원의 적 일본 단결해 일본보다 강해진다며 일본의 과거 행동을 비난하는 목소리가 많이 올라와 치요다 학생들은 당황했다.또 문화적으로 훨씬 뛰어난 우리나라라고 쓰거나 위정자의 행동을 무조건 긍정하는 자세는 위화감을 느꼈다.그러나 일본 학생이 냉정하게 임할 수 있는 과제물에서도 한국 학생은 흥분해 버리는 것이 현실이었으며, 일본 학생이 상대국 학생의 감정을 알게 된 것은 '다각적으로 볼 수 있는' 귀중한 경험이 되었고, 상대국 학생을 친밀하게 느꼈다는 것에도 의의가 있었다.


제9회 후쿠오카 대회에서는, 송석종씨와 내가 학생의 리포트 교환의 발표를 했다.일본은 왜 식민지가 되지 않았나 일본은 왜 조선을 식민지로 만들었나라는 두 가지 주제로 각각 학생들이 쓴 리포트를 교환하며 소감을 나누는 식이었다.나의 학교(치요다여학원)에서는 아직 근대를 배우지 않은 시점의 과제로, 「나도 정답은 모른다」라고 하면 학생은 기꺼이 임해, 국제적·국내적 조건을 생각해 쓰고 있었지만, 식민지 지배의 실태를 모르므로 상대국에 대한 배려가 부족했다.반면 한국의 시라이와종합고등학교에서는 영원의 적 일본 단결해 일본보다 강해진다며 일본의 과거 행동을 비난하는 목소리가 많이 올라와 치요다 학생들은 당황했다. 또 문화적으로 훨씬 뛰어난 우리나라라고 쓰거나 위정자의 행동을 무조건 긍정하는 자세는 위화감을 느꼈다.그러나 일본 학생이 냉정하게 임할 수 있는 과제물에서도 한국 학생은 흥분해 버리는 것이 현실이었으며, 일본 학생이 상대국 학생의 감정을 알게 된 것은 '다각적으로 볼 수 있는' 귀중한 경험이 되었고, 상대국 학생을 친밀하게 느꼈다는 것에도 의의가 있었다. 송석종씨는 식민지라는 말에 알레르기가 생겨 감정적으로 변했는데 이 학습은 현 세대와 조부모 세대의 아픔 공유일체감을 확인할 수 있어 자발적인 민족 정체성 신장에 도움이 됐다고 말했다.작년의 역사 분과회에서, 한편에 「글로벌적인 시점에서 비판적·미래 지향적으로 역사를 보자」는 생각이 있고, 한편에 「한국에는 한국의 특수성을 강조하는 교육이 필요하다」라고 하는 의견이 있던 것은, 항상 나의 염두에 있었지만, 송석종씨는 「상호 이해」를 말하면서도 역시 민족적 정체성의 확립이 제일의 목표였던 것같아, 「여러 가지 시점에서 과학적으로 보는 것」을 말하는 것.

일찍이 민족을 빼앗겼던 사람들이, 그것을 되찾아 자신의 민족을 자랑하고 싶은 기분을 모르는 바는 아니지만, 맹목적으로 자민족의 우수성을 믿는 것은, 때로는 배타적이 되어, 예를 들면 유고슬라비아 분쟁과 같은 「인종 청소」에까지 미칠 위험성이 있다.옛날, 어린 나는 「일본 요이쿠니 키요이쿠니 세카이니히토노카미노쿠니」라고 가르쳐져 「이겨내는 우리들 소국민 천황 폐하의 은혜를 위해서 죽으라고 가르친 부모님의 붉은 마음을 계승해 마음에 결사의 백다기를 걸고 용감하고 돌격이다」라고, 알 수 없는 무엇인가 신비스러운 것을 숭상하고 있다.비록 패전 후 그 권위는 무너졌지만 권위를 숭상하는 자세는 내 안에 오래 남아 그곳을 벗어나는 데 오랜 세월이 걸렸다.

제12회 포천대회에서 나는 이겨내는 우리 등소국민 애국 교육의 사적 체험과 그것을 상대화하는 방법이라는 제목으로 자신의 경험을 말했고, 오에 겐자부로의 에세이 싱가포르의 곰마리(나의 나무 아래에서)아사히신문사 소장)을 인용해 자국을 상대적으로 보는 시각은 자신의 상황을 가로(역사적으로)부터 보는 것이며 그것을 통해 사람은 그 상황으로부터 자유로워질 수 있을 것이라고 말했다.

민족적 정체성에 대해 덧붙이자면 연전 우즈베키스탄에서 만난 여성이 나는 러시아와 우즈베키스탄 더블, 남편은 타타르, 딸은 글쎄 몇 명이지 하며 재미있다는 듯 웃는 모습이 산뜻했다.

역사분과회에서는 오랜 기간에 걸쳐 민족주의에 대해 이야기하는 것으로 논의가 깊어졌지만, 다른 대회 참가자에게 얼마나 그것이 전해졌는지는 불안하다.분과회를 하기 위해서는 그만큼 많은 수의 회의장과 통역을 확보하는 것이 부담스럽고, 또 모든 것을 공통의 장소에서 이야기하고 싶다고 하는 의견도 있어 2008년 제14회 안성대회를 마지막으로 분과회는 열리지 않게 되었다.


6) 앞으로

 한국·조선과 일본 사이에는 오랜 우호의 역사와 일본이 손상시킨 지울 수 없는 근현대가 있다.이를 토대로 양국 사람들이 서로 이해하려고 모인 지 27년, 지금까지 대회에 참가한 인원은 200명을 넘을 것이다.매년 3박 4일씩 합숙하며 토론하고 논쟁하고 함께 놀고 쌓아온 우정은 드물지 않은가.수업·교육연구회를 자칭하고 있기 때문에, 당연히 그것이 중심이다.교사가 된 지 20년이 다 되어 가는 내가 탈퇴하지 않고 있는 이유는 우선 그 사람들을 만나고 싶기 때문이다.

더 나아가 우리가 교류하고 얻은 것을 다른 사람들에게도 알리고 싶다.이번에 이 글을 쓰기 위해 그동안의 대회 보고서를 몇 권씩 꼼꼼히 읽었다.발표된 리포트나 토의 기록 중에는 좋은 것이 많이 있다.정리해 널리 세상에 알릴 수 있으면 좋겠다.

 대회에서 열리는 답사도 인상적이다.그동안 숱한 근현대사 현장을 걸어왔다.일본에서는 아시오 광독사건과 간토대지진 때의 조선인 학살의 흔적, 차별받고 있는 영세한 피혁공장 지대, 요코스카의 미군기지, 「재일」이 사는 마을, 한국에서는 38도선에 가까운 긴박한 현장과 외국인 노동자의 마을, 광주 항쟁의 자리, 피폭자의 마을 등.특히 오키나와와 제주도를 찾아 혹독한 역사의 상처에 함께 눈물지었던 기억은 생생하다. 환경분과회 주도로 강화도와 오키나와 갯벌에도 맨발로 들어갔다.문화유산 여행도 즐겁다.아름다운 아스카·나라와 도자기 마을·아리타, 화창한 사하라를 한국 친구들에게 안내할 수 있던 것도 기뻤다.앞으로 더 많은 한국의 조선민주주의인민공화국을 방문하고 싶고, 일본 각지도 소개하고 싶다.

 한일 회원 중에는 교육·학문·환경의 프로부터 음악·미술·문학에 밝은 사람, 사회운동을 하고 있는 사람 등 다양한 인재가 있다.각자 잘하는 분야를 살려 자국의 문화를 소개하면 서로의 이해는 더욱 깊어질 것이다.답사의 발밑도 불안해진 나지만, 살아 있는 동안 이 교류를 계속했으면 하고 바라고 있다.

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波多野 선생,

우선 짧게 답합니다. 

저에게는 상당히 감동적인 글이었습니다. 하타노 상에 대해 더 알고 싶어서 한국여행기를 사 놓고도 아직 못읽었는데, 이 글로서 하타노 상의 전기를 읽는 듯했습니다. 글에서도 나오지만 한국의 역사교사들 사이에서도 하타노 선생의 글에 동감이지 않은 사람들도 있겠다고 생각됩니다. 민족주의를 넘는 것이 쉽지는 않겠지요. 또 한편으로는 일본인 역사교사는 또 그 반대가 될 수도 있지 않을까 생각되기도 합니다. 2017년 ? 일한시민동학기행의 버스에서 처럼 박유하 선생의 제국의 위안부같은 책은 읽어서 안되는 책으로 취급하는 사람들도 있지 않을까 생각됩니다. 저에게는 이 글에서는 무엇보다 하타노 선생의 사명감같은 것이 읽어지고, 그런 것을 알게되어 좋았습니다. 감동인 동시에 동감입니다.

波多野さん、まずは短く答えます。私にとってはかなり感動的な文章でした。波多野さんについてもっと知りたかったので、波多野さんの韓国旅行記を買ってもまだ読んでいないのですが、この記事で波多野さんの伝記を読むようです。文でも出てきますが、韓国の歴史教師の間では、波多野さんの文に同感する人もいて、同感でない人もいると思います。民族主義を超えることは容易ではないでしょう。また一方では日本人歴史教師はまたその反対になることもできるかと思われることもあります。 2017年?私たちが一緒にした日韓市民東学紀行のバスでのようにパク・ユハさんの<帝国の慰安婦>のような本は読んではいけない本として扱う人もいるのではないかと思います。私にとっては、この文では何より、波多野さんの使命感のようなものが読まれ、そういうことを知ることができてよかったです。感動であると同時に同感です。



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