朝鮮をどう教えるかー日本人の立場からの総説ー
梶村 秀樹(神奈川大学教授)
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教える側と教えられる側
朝鮮をどのように教えるか、と言うとき、その教えるということは教材の中だけではない。しかし、ここでは、教室の授業で、ということを中心に具体的に考えてみたい。例えば教室の中に朝鮮人生徒が何人かいて、そして多くは日本人の生徒という場でどのように朝鮮を教えるか。日本人生徒に必要なことと在日朝鮮人にとって必要なことは、大きくは重なっても、少しポイントが違うということがあるが、ともかく、教える側の問題があり、また、教えられる側の問題がある。
まず、教える側の問題について。
教える側にとって、朝鮮をどのように教えるかということは、自分が朝鮮のことをどう思っているかということと同じことだ。一般に、自分の過去の生活史、経験の上に立って、根拠はあいまいだが朝鮮国朝鮮史についてあるゆがんだイメージをもつている。それをそのままにしておいて、ただ技術的に上手に、ハウトゥー式に、朝鮮をどう教えるかということを定式化できるものではない。教師が本気で思っていることでないと、生徒はやはりわかってしまうものだ。おそらく、だいたいの先生自身、自分の教育過程で朝鮮についてまともに教わった人はほとんどいないし、朝鮮を主題にすえて学習の機会をもつこともなかったと思う。日本の、文部省のカリキュラムでは、それは必要がないとされる。自分で学習しなければ、正しい知識がない。朝鮮のことを自問自答してみることなしにきた、それが普通だ。だから、断片的情報、マスコミ、一般的知識だけでこなしてしまうことになりかねない。だから、一年に一度くらいは何冊かの本を読み、また意識的に朝鮮を主題として本格的に考えてみる機会をもつことは不可欠なのだ。近年関西の大学では、教員志望の学生は、朝鮮についての課目を必ずとるようにということになってきているそうだが、その必要性が気づかれてきたといえる。
では、朝鮮を主題としてどう学習して行けばよいのか。とにかく、自分の思う所に従って見つけて行く、と言うしかない。現在は、朝鮮関係の書物が氾濫しすぎて、玉石混淆でどれがよいかかえって見つけにくい状況だが、とにかく、自分が朝鮮をどう考えているのか、これが根本なのだ。
次に、教えられる側の問題。
教えられる日本人生徒たちの意識状態は決して白紙ではなく、偏見や差別意識に満ちている。その中であえて朝鮮を教えていく、これには慎重な考慮が必要だ。教師が、正しくはあってもきれいごと、上すべりなことを理屈で展開する。それが生徒にはそのままうけとってもらえないで、まぜっかえすような反応がおこる。これは避け難い。そこでどうするか。
いいことを言っても、それに対して「ほんとかな?」と反応する。これには地域差や個人差も大きい。白紙に近い状態からどぎつい差別意識までバラバラの生徒たち、教室の中での日本人と朝鮮人の違い。そして朝鮮人もまた日本人の通念をうけいれつつある現状もある。これにどう関わるのか。
そこで、朝鮮の歴史をどことどことでどう教えるか、ということよりも、朝鮮のイメージにどう切り込むか、が重要となる。それがないと先へ進めないのだ。
朝鮮のことを話す場合でも、正面から話をすると、きれいごとで終ってしまう。ところが、何の気なしに学生と雑談していると、突然ギョッとするような話を聞くことがある。それにハッと気づいて反撃をする。特に、最近では、朝鮮人の苦労する姿、必死の姿、人間的に生きている姿を笑いものにするような風潮、必死に生きる様子をダサイといって切り捨てる二次的な差別、いまこれが強まってきている。
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朝鮮を教える際の基本的観点
歴史の事実は一つであっても、それがどんな意味をもっているかは個々人で違うものだ。朝鮮を教えるのに、この手でいけば絶対うまくいくというようなやり方はない。けれども、総じてこれだけは、というものはやはりある。
朝鮮を教える際の基本的観点、それはたった一つのこと。何でもよいけれど、朝鮮のいい所、前向きの所、積極的なところ、何であっても自分自身が感動できること、そのことを先頭に出す、ということだ。
歴史の教科書の中でも、朝鮮は刺身のツマのように出てくるだけだ。そのうちのどこでやるかを考えておく。とにかくどこかをつかまえて、一年の中で一度は朝鮮を主題にすえて、歴史の「自主的発展」を感じられるところを、自信をもって強くおし出すこと、これを必ずやる。
前向きの所、積極的なものとは何か。自分でもピンとこないようなことを、すばらしいと書いてあるからすばらしいと言うのではなく、自分が本当にそう思うものを出していく。縁遠い英雄よりもむしろ朝鮮の民衆の生きざま、その中でたくましく力強い感動できるもの、それを教室の中にもち込むのがいい。
その際の生徒の反応は、様々なものがあるだろう。反発もあるに違いない。それが表に出てくれば、そこから緊張したやりとりが始まる。むしろ出てこない時が困るのだ。
私自身、そのようなすばらしいもの、感動するものを朝鮮についてのものから見つけ出してきた。それは人によって、社会科、歴史の教科に限定されるものではないと思う。文学・回想記などを材料にとりこんで行くことも大切だ。私が自分の朝鮮像を改あるきっかけになったのは、むしろ歴史の専門書ではなかった。なま身の朝鮮人の伝記や回想記、そのようないわゆる「雑書」の中からより多くのものを学んできた。自分の朝鮮についてのイメージが一新されるような経験をしてきた。
私の場合、朝鮮史を最初にやるきっかけとなった『アリランの歌』という本があった(みすず書房)。これは、中国の延安で、アメリカのリベラルなジャーナリスト、ニム・ウェールズがある朝鮮人から聞きとりをした書物だが、それまでは、きびしい植民地支配に悲鳴をあげる同情の対象でしかなかった朝鮮人のイメージが、その本を読むことによって逆転させられた。キム・サンという仮名の、いわば無名の人物、この朝鮮人が一つ一つの出来事を見る見方の深さに感嘆させられた。今から考えると、それは自分には合っていたということだろう。それ迄に1930年代の民族解放闘争への関心を深めていて、しかもアメリカ人ぼいで表現されているので、アメリカ式の感覚の中でなじめたのかもしれない。誰でも自分の個性のあり方に応じて、感動のし方にかたよりをもっている。かたよりがあっても、とにかく感動できるものから入っていくこと、それが大切だ。そんな書物の一冊に出会っていただけるとありがたい。例えば、私の主観でいえば、日帝支配下の農村での民衆を描いたシム・フン(沈薫)の『常緑樹』(龍渓書舎/緑蔭書房)、民族史学の最高峯といわれるシン・チェホ(申釆浩)の『朝鮮上古史』(緑蔭書房)、国民学校しか卒業できなかった女工さんの労働運動の手記ソン・ヒョスン(宋孝順)『ソウルへの道』(教文館』などが参考になるかも知れない。
朝鮮人の積極的に生きていく姿が直接感じとれるような機会に、自分が一度めぐりあうことが、絶対に必要不可欠だ。そして私たち自身が、感性的認識、自分の感覚で確かあられる像を、意識的にこしらえなければならないのだ。
以上は、教科の問題に入る前の、前置き。
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教科(社会科)で朝鮮をどう教えるか
a.社会科教科書の中の朝鮮
さきの基本的観点からすると、教科書はどう見えるか。
文部省の立場からすれば、教科書の中で朝鮮が主題となることはありえない。日本との関係だけだ。だから、教科書をやっていけば自動的に朝鮮について教えるということには決してならない。しかし心ある執筆者によって教科書の、内容もジリジリと改善されつつはある。その成果は、資料の教科書抜粋にもあらわれていないことはない。事実面でも、あまりにもひどいということはなくなりつつある。「教科書にない朝鮮をどこかで意識的に教える」というよりも、「教科書を利用しながら、朝鮮を教えることができる」ということは、まだしもいいことだろう。それは、たとえ差別との闘いを貫くことはできなくても、どこかでそれを入れようとしている執筆者がいないではないということだ。
この観点からすると、「悪名」高い山川出版社の受験用「世界史」、これには一番低い評価を与えざるをえない。朝鮮についての記述は、量的にも少ないし、悪しき「客観主義」に基づいているようでいて、事実関係のレベルでも正確かどうか疑わしい部分がある。そこから、まとまった積極的な朝鮮像は全く生れてこない。
一般に世界史よりも日本史の方が朝鮮に関わる記述が多いが、やはり日本史では、日本との関係で断片的に飛び飛びに、しかも侵略の対象としてしか登場しない。侵略を批判的にとりあげるものはあっても、不十分だ。
先年の教科書問題で批判にさらされた点は、つきつめると次の二点になる。
①日本国家の過去の侵略を美化、あるいはごまかすこと。
②侵略の対象となったアジアの歴史をわざとおとしめること、低くとらえること(内在的発展の歴史を意図的に欠落させる)。
文部省や執筆者の大多数の姿勢では、これがきちんと克服できない。
朝鮮をひとつのまとまった形で教えようとすれば、それができるのはむしろ歴史よりも地理などの方がかえってやりやすいのかもしれない。また、小学校でなら、多少の工夫をすればかためてやれる余地がある。ともかく、どこかで、正面から、朝鮮を真ん中にすえてやらなければならない。
教科書を見る場合、細かい言葉じりにも気をつける必要がある。文部省は、中立、価値観ぬきと言うが、どうしても既存の日本社会の支配的価値観を補強しそれを支えることになっていがちだ。それが言葉じりに出ている。そのために、侵略の事実を主観的には批判的にさんざん教えることが、逆に差別感を助長することもある。例えば、資料の中の三省堂『高校日本史』の太閤検地と朝鮮侵略の項、「武士の統一権力の威光を外国にまで示そうとした」の「威光」という言葉はどうだろう。また、韓国併合の項、「日本政府は……韓国人の独占運動を取り締まった」の「取り締まる」という言葉を考えてほしい。こと価値感にかかわることは、どんな細かいことも、逐一問題にしていく必要がある。そうでないと教科書を使うことによってマイナス・イメージにつながるものが出てくるのを防ぎきることができない。
b.朝鮮を教えるポイント
教科書では触れられていないものと、どこかから補強して入れていく、このことは朝鮮を教える場合欠くことができない。歴史の教科の中で朝鮮をどう補強するかの参考になることを考えてみよう。
普通の教科書の中でも必ず詳しく触れられている、朝鮮がやられてしまう四つのポイントがある。それは①大和朝廷の「任那支配」、②倭寇、③豊臣秀吉の侵略、④日韓併合、この四つのポイントだ。これに対して、普通触れられることのない三つのポイントをあげたい。
①前近代の朝鮮の民衆文化、特に日本にも大きな影響を与えた生活文化について。
この点については全斗煥大統領に対する天皇の発言にみられるように、日本の支配層でさえ少しは認識するようになってきている。つまりむしろとりあげ易いことに属するはずだ。
②18世紀から19世紀初めにかけて、封建体制が崩れて自主的近代へ向かう新しい動きが生れるが、日本と対比しつつ、基本的には同じでしかも朝鮮の伝統をふまえて個性的なその内容についてふれる。典型的には、丁若鏞(ていじゃくよう、チョン・ヤギョン)を最高峯とする朝鮮の実学思想。
これは教科書には全然でてこない。実学というのは、日本でいえば江戸後期の儒学や国学と同じ位置に立っている。伝統的哲学をひっくり返して、近代的・科学的・合理的な精神に立脚したものの考え方や近代ナショナリズムを生み出すその芽ばえに当るものだ。そして朝鮮の実学思想はその中で社会変革構想を育み、丁若鏞に至ってそれが完成された。
丁若鏞、号をとって丁茶山(チョン・タサン)ともいうが、彼は李朝の支配階級であった両班の中の反対派で、朝鮮南部の海岸で長い間流刑生活を送った。その間に書かれた著作には、「民主主義、主権在民」に相当するようなものの考え方が意外なほど朝鮮に表明されでいる。日本で敢えていえば、安藤昌益に似ている。しかし、丁茶山は「忘れられた思想家」ではなく、朝鮮でもずっと広く知られていた。その社会変革構想の具体例として、閭田(りょでん)制という構想がある。当時の民衆の生活破壊を防ぐ方法を考えたもので、後世、「空想的社会主義」によく似ていると言われた程だ。農民を基本にした共同体社会で、搾取するもの、されるものがなく、生産を統轄する者は指導者としてその職分に応じた分配にあずかるしくみになっており、他は一年間にどれだけ労働したかの労働日数と作業の質に応じて生産物を分配する。その原則は社会主義的なものと同一だともいえる。
丁若鏞の思想を歴史的にどのように位置づけるかについては、むつかしい問題もあるが、とにかくユニークな内容だから、世界史の教科書でたまにはとり挙げるものがあってもよさそうなものなのにと常々思っているが、全然ない。そのほかでもこの時代には、教材となるべき素材がいくらでもある。実際、朝鮮史の「停滞」論が克服され、戦後の研究によって一番全面的に歴史像が書き替えられたのは、この時代の部分だった。日本、朝鮮は共に自主的近代への道を鎖国の中で芽ばえさせて来て、その途中で西欧のインパクトに出会った、という認識、これが実証されてきた。
③植民地支配下の朝鮮の民衆運動のイメージについて。
日帝支配下の朝鮮については、教科書では、三・一運動だけで、あと1945年まで何もないかのごとくに無視してきた。これではだめだ。1920年代から1930年代にかけては、植民地下で一方的支配のみという平板なイメージではなく、層の厚みをもつ力強い民衆運動が存在した。文字を身につけていく自主的な常なみの中で歴史を動かす民衆の役割を自覚することをめざす啓蒙運動の存在や個別の農民運動の状況について、実証が積み重ねられてきている。私の著書『朝鮮史』(講談社現代新書)では、小冊子ということもあって項目の羅列に終っているが、ともかくそこを重点的にかいておいたつもりだ。植民地支配の不条理の中で闘いつつ生きてきた民衆の姿が、近現代の時期において、生き生きとイメージされるべきだと思う。
現代の韓国を見る場合でも、その近年の高度経済成長を評価するのに、一面では民衆が歴史的に受け継ぎ、そして植民地下で抑えられてい.たものが、近年現われてきたのだという角度から見ることもできる。だだし、それが真に民衆のものになったかどうかは別の問題だ。とに角、民衆の力量が基本だ。現代韓国の経適状況も、それを底辺から支えさせられている民衆の側からそれを考えることが大切だ。
「教科書問題」の時、韓国側から多くの指摘があったが、その一つ一つの問題についてどう考えるべきか、逐条的に検討する作業をいま自分の大学の授業の中で試みている。ただ、ごもっともですとうのみにするのでなく、深く吟味することが必要だ。将来皆さんともそういう機会がもてればよいと思う。
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朝鮮を教えることと侵略を教えること
例えば三・一運動を教える場合、先にのべた『アリランの歌』の冒頭に出てくる体験記録をその導入に置くということが考えられる。そういう工夫をして、朝鮮の積極的な側面を教室で出すと、教室の中には複雑な反応が生じることになる。今まで思ってきたこととは違う、実感的イメージにそぐわない、など。また、私たちの意識の中では、現在特に「民族」ということが、「階級」と切り離されてわからないものにさせられている。頭の中だけでインターナショナリズムをうけいれている。だから民衆のナショナリズムというものをピンとうけとめることができない。
南北分断の問題にしても、しばしば、まとまりがない国だ、仲間うちで争っているというようなことが、ある種の事実をひき合いに出しながら言われる。そういうことに対しては、相当抵抗があっても、朝鮮の積極的なものを強く出さなければならない。すると、「それじゃ、なぜ統一してないんだ」ということになる。そこで朝鮮史の個々の側面についての偏見も表に出てくる。そうしたらどうするか。
みなの問題意識がここまでくれば、初めてそれはなぜかと理づめで考えていくことができる。一つ一つの現象について問いつめていけば、日本側の植民地統治の罪がそれに対応して存在することがわかってくる。
現在では、侵略の歴史をきちんと教えなければならないという認識自体は、かなり一般的になりつつある。しかし、「じゃ、侵略はなぜ悪いんだ」ということの認識があいまいだと、かえって悪い日本がしかしいかに強かったかを浮彫りにするだけになってしまう。結果としてうまくいかないことが多い。
積極的なものがありながら、それをこわしてしまったことにこそ、侵略の罪の本質をみるという、この順序が大切なのだ。
侵略を教えるというさい、その物理的残酷さも強調するだけでなく、朝鮮民族全体の文化を積極的にとらえた上で、日本人がそれを否定的なものとみなしていく心理構造やその意図的な背景を、実感的にピンとくるようなしかたで教材化すること、これはちよっとむずかしそうにみえるが、中学校や高校の段階なら、不可能ではないのではないだろうか。
この点を、大きな流れとしてしばしば問題にされる日本史と朝鮮史の比較論を例として考えてみよう。どうして日本の明治維新は成功し朝鮮は失敗したかという問題だ。
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朝鮮は植民地に転落した-なぜ?そして独立後は南北に分裂した一なぜ?
新しい紙幣が出される時話題になったが、一万円札の福沢諭吉、彼は「脱亜論」を主張したし、五千円村の新渡戸稲造はヨーロッパ的な植民政策学を初めて日本に導入した人で、在日朝鮮人の側からすれば二人とも、気持の上で抵抗感がある人物だ。もちろん、諭吉の思想の中にも色々な側面があり、封建思想と闘って社会を前へ進ある性格の思想家だったというのも事実だ。しかし、国内での一定の民主主義思想が、外に対しては貫かれてはいない。外に対しては悪い意味で歯切れのよいところがある。
19世紀の中頃、西欧のインパクトに出会った時点での日本と朝鮮を比較すれば、社会経済的な発達の度合、貨幣経済の状況、新興ブルジョアの存在、新しい文学の出現、身分制度を打ち破るような思想、そして封建支配体制が揺らぎ、それが新しい動きと一面では妥協しつつ本質的には反動化する-このようなプロセスは日本でも朝鮮でも大同小異に始まっていた。やがて両国は、一方は帝国主義へ、」方はその植民地へと分れていくが、ここまでの時点では、発展の差は、事実として、見られない。それがどうして、そのように分れてしまったのか。
近代は一つの「世界」を形造る。先に資本主義化した国がまわりに影響を及ぼし、おくれた国はその外圧にさらされつつ開国してその中で近代化を図る。日朝両国は古代以来そこまで共通の歴史を経て、開国に当っても共通の対応を示した。即ち、支配層の一部から富国強兵策をめざす改革派が生み出されたこと。明治維新の指導層と朝鮮開化派。自由民権運動と独立協会運動。明治維新と甲申政変。みな対応関係がある。しかし、開国から始まるその両国の対応に十数年の時間的な差があった。
両国とも開国後、西欧のインパクトに対応しつつ、政治的変化が生じてきて、開国後十数年目に決定的な転機が訪れる。ここで近代国家を作る政治変革が成功あるかいなかが、決定的なのだ。この、ある意味では一回だけのチャンスが、日朝両国でどのように表われたか。その決定的時点にどのような圧迫をうけ、あるいはうけずにすみ、また内部の変革をめざす力を解体するほどの外からのカが及んできたかどうか。
日本については、明治維新についての遠山茂樹氏の説にあるように、1860年代は欧米の国内支配体制の変動期に当り、インド・中国では民族的な民衆反乱が起り、全体として世界の資本主義の次の段階への過渡期で、欧米が日本へ全力で介入することのできなかった、いわば「運のよい」時期に政治変革を成功させた。これについてのいわれなき優越感は非科学的だ。
朝鮮については、外圧の加わり方が日本の場合とは全く違っている。甲申政変あるいは甲午農民戦争について比較して考えてみるのだが、それを挫折させたのは、英米のバックアップをうけた清国・日本の介入だった。1894年の時点でも、国内の軍事的力関係では農民軍は明らかにもう官軍に勝っていた。朝鮮一国の問題としては、そのような民衆の力を背景にした近代国家の樹立は客観的に展望できた。問題は、この決定的な転機における外からの、世界史の側からのインパクトなのだ。「アジアの中で日本だけが近代化に成功した、その理由は……」という優越感は、論理的に打ち破っていくほかない。
日本と朝鮮の近代思想のあり方についてみると、その出発点は、日本では荻生徂徠に始まる新しい儒学思想、朝鮮では丁茶山に代表される実学、新しい儒学思想ということになる。そこから展開されるプロセスの中で、人間中心の、伝統にとらわれない価値観、民主主義思想が芽ばえて、それがヨーロッパの思想と重なっていくことになる。近代をどういう側面からとらえるかについては、
(イ) ヨーロッパの軍事技術、統治技術、制度を重視するとらえ方
(ロ) 主権在民、民主主義の側面を重視するとらえ方
この二つがあるが、日朝両国とも、各々萌芽的にはこの両方がみられる。しかし、荻生徂徠にはどちらかといえばマキャベリ流の、プラグマチックでドライな傾向が強く見られたのに対し、丁茶山にはより原理的な、新しい人間観を確立しようとする方向性があった。日本の思想家は(イ)の見方が多い。それが富国強兵の明治の政策につながっていく。勝てば官軍ということになる。そして(ロ)の方向は根絶しになった。朝鮮はそれとは違って、抽象的な原理から固めていこうとする傾向が強かった。哲学的原理に固執する。この両国の違いは、文化の個性の問題だ。日本型はうまく小回りがきいていちおう成功した。そうでない中国や朝鮮は、まわり道を余儀なくされた。そしてそれを今でも背負っている。日本も、一見これまでの百年はうまくいったようにみえるとしても、将来はどうだろうか。人間が人間を差別してはいけないということを問題にせずにやっていけるだろうか。
朝鮮の南北統一問題について。
しばらく前の教科書では、1945年の解放後、突然いきなり南北分裂ということになっているものが多かった。ここは、南北分裂の理由を絶対にきちんと教える必要がある。それは簡単明瞭でよい。即ち、朝鮮民衆が望んだ分裂や戦争ではなく、基本的には連合国の一員であった米ソ両国が朝鮮を引き裂いてしまった、というように。
特に大切なことは、解放の時点で朝鮮の民衆がどのような国を創ろうとしていたか、という点だ。その基本は、①土地改革を行なって(地主制の廃止)、②商工業を公的に発展させることにより産業全体を民衆に奉仕させるものにつくり変え、③そのための民主主義的な国家を創ろうというものだった。そのための人民委員会は、占領軍を待たずに下からの動き、下からの力によって朝鮮全土に生れていた。特にむしろ南部でそうだ。そこには社会主義者や民族主義者が共に加わっていた。それを放っておいてよいのかどうかが占領軍当局に問われることになった。アメリカはその大きな力を軍事的に猛烈に弾圧して、その後1948年に李承晩政権をつくった。だから、新しい統一した独立国家の創立を挫折させたのは、一言でいえば、アメリカのごり押しのせいだと言うことができる。
韓国の歴史家たちは、このごり押しを防げなかった点を自分たちの問題としてひきうけ、深刻に考える。外からの分断の圧力を乗り越えて、外からの力がどんなに強くても統一をめざす、そのような立場を確立しようとしている。結局は分断にまき・こまれてしまった点を、国内問題として正面から向きあおうとするのだ。逆に我々の立場では、日本も含めて統一と邪魔している外からの圧力について、強く問題にしなければならないのだ。
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おわりに
日本人であるわれわれには、無意識のうちに、あるゆがみが存在する。朝鮮のある問題が、一見理解しがたく見えたとして、本当はそういうことではなく、日本人の眼の方が問題なのかも知れないのだ。日本の民衆として、統一した朝鮮をめざしつつある朝鮮民衆をふまえて、真の朝鮮を見つけ出す必要がある。
〈編集委員付記〉
以上は1984年11月17日(土)午後、部落解放教育研究センターで開かれた考える会「歴史講座」の記録です。色々な手違いから掲載が遅くなりましたが、文章化に際してまで骨折りを頂いた梶村先生に感謝します。なお文責は編集委員にあります。
(『むくげ』109号1987.6.20より)
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