Title <論説>植民地朝鮮に渡ったコロニアルミッショナリー : 日本人女教員を中心に (特集 : 移動)
Author(s) 朴, 宣美 Citation
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/240339/1/shirin_097_1_171.pdf
史林 (2014), 97(1): 171-203 Issue Date 2014-01-31 URL Right Type Journal Article Textversion publisher https://doi.org/10.14989/shirin_97_171 Kyoto University植民地朝鮮に渡ったコロニアル・ミッショナリー(朴)
ここでいうコロニアルこ・、ッショナリーとは、日本日先進・文明、朝鮮H後進・野蛮という観点から、日本人として朝
171 (171)
とする人びとが登場し、植民地の人びとに向かって帝国の様々な価値を伝えようとした。
するコロニアル・ミッショナリー(植民地伝道者)を朝鮮に送った。帝国の形成とともに、自らの信念で帝国を支えよう
日本帝国主義は西洋帝国主義と岡様、遅れた朝鮮の文明化という支配の正当化の論理に立って、文明の「福音」を伝播
はじめに
と役割はどうだったかを分析する。史林九七巻一号二〇一四年一月
かという帝国の困難な課題が台頭する中、日本人女教員はどのような存在として考えられ朝鮮に送られたか、そして彼女らの意識 を、日韓併合以前と以後にわけて明らかにする。第三章では、日本の朝鮮支配によって遅れた朝鮮・野蛮な朝鮮人を誰が教え導く な日本女性たちが朝鮮に渡り、何を見て、どのように認識したかを分析する。第二章では、日本人女教員が朝鮮にどれほどいたか 識や、帝国の担い手論の観点から分析するものである。第一章では、九〇〇年代初期から臼韓併合直後までの時期に、どのよう 【要約】本稿は、植民地朝鮮に渡ったコロニアルこミッショナリーとしての日本人女教員について、日本女性の朝鮮認識・帝国意
ー日本人女教員を中心に一
植民地朝鮮に渡ったコロニアル
O
朴
ミッショナリー
宣
美らかにされた。そこで日本人教員が朝鮮で果した役舗に関して概ね異論はない。彼らは、朝鮮支配の第一線に立って朝鮮
②
従来、朝鮮における日本人教員について、朝鮮総督府の教育政策の観点から、主に師範学校制度や初等教員の実態が明
ルこ、、ッショナリーとして認識され朝鮮へ送られたと言えよう。
し、受容した西洋文明を他のアジア地域や諸民族に普及する立場に転じた日本社会において、日本人教員は、コロニア
教員は、かつて日本に渡って教育事業等を行った西洋宣教師のような存在として見なされた。西洋列強の尋問入りを果た
へと、日本の朝鮮支配が確実に拡大していく中で、日本の知識人による朝鮮論が盛んになり、そこで、朝鮮に渡る日本人
基づく自発的な本来のミッショナリーとは異なる。しかし、本論で詳しく述べるように、日清・日露戦争を経て日韓併合 施された師範教育制度によって鴛出された者も多い。国家によって養成され、派遣・配置された教員は、宗教的使命感に
できない。彼女らは、日本の師範教育制度によって養成され、朝鮮へ渡った人たちである。初等教員の場合は、朝鮮で実 もとより、日本人女教員を欧米のキリスト教海外伝道組織が異教徒地に送った宣教師と同質の集団として見なすことは
「移動」した日本人女教員という教育者集団をコロニアル・ミッショナリーの視点から分析する。
国の中で新たに登場したコロニアル・ミッショナリーの一例として分析したが、本稿では、朝鮮人の教育のために朝鮮に を取り上げる。すなわち先行研究では、朝鮮の女子日本留学生を支援する教育事業を行った柳原吉兵衛という人物を、帝
本稿では、日本帝国のコロニアルこ、、ッショナリーに関する筆者の先行研究の展開として、朝鮮に渡った日本人女教員
①
朝鮮近代史や日本近代史の両研究分野において立ち遅れていると三口わざるをえない。
国の存立と繁栄を支えた人的基盤の構築を明らかにするために解明しなければならない重要な課題であるが、その研究は ような宣教師不在の日本において、帝国の価値を植民地の人びとに伝道する役割を担った。彼らの意識と行動は、日本帝
ちを指す。朝鮮人の指導・教化を自己の使命とした彼らは、キリスト教宣教師を前面に押し立てた西洋列強に対し、その 鮮で教育・医療・社会福祉等の活動を行い、朝鮮の文明化に努めることで支配秩序の安定と浸透に貢献しようとした人た
172 (172)植民地朝鮮に渡ったコロニアル・ミッショナリー(朴)
研究以来、戦前、女性運動家などとして名を挙げた日本女性たちがいかに植民地統治に加担したかの問題が取り上げられ
173 (173)
⑤
程度蓄積されてきた。朝鮮に渡った日本女性(奥村五百子、淵当量恵、津田節子)の生涯を明らかにした任展慧の先駆的な
日本女性の帝国意識の問題は、日本の女性史・ジェンダー史研究において早くからその重要性が認識され、成果もある
日本女性の朝鮮認識・帝国意識はどのようなものだったのかを分析する。
た女子高等師範学校と日本女子大学校の同窓会機関紙(今まで学校史研究の他にあまり史料として利用されなかった)を用いて、
④
を及ぼした婦人雑誌(『婦女新嬰、『女学世界㎏、嬬人界蜘、『ムラサキ睡といった明治の婦人雑誌)や、卒業生が朝鮮に渡ってい
日本人女教員を送り出す日本社会の朝鮮認識に関して、本稿ではまず、女子教育などの女性関連問題の世論形成に影響
役割によってより、彼女たちの意識が朝鮮人にもたらしたものは何だったかを考えることができよう。
らを送り出すB本社会の認識と彼女らの自己認識を棄して捉えることができよう。また、国家との関係で担った公的な 帝国意識という土壌が産み育て、植民地に供給したコロニアル・ミッショナリーとして分析する。この視点からは、彼女 本稿では、朝鮮に渡った日本人女教員を、国家の教育政策によって養成された帝国の担い手としてではなく、人びとの
が不十分だった。とりわけ、日本入女教員の意識はあまり取り上げられてこなかった。
を持ち、植民地政策の中で与えられた役割を忠実に遂行したとされたが、その遂行者としての意識の中身については分析 併合になんら疑問を抱くことなく、朝鮮人に同化教育を施すことはむしろ彼らに対する恩恵である」という植民地教育観
③
の存在がいかに認識されたかは、あまり明らかにされてこなかった。また、日本人教員の意識に関しても、総じて「日韓
しかし、日本入教員を朝鮮に送り出す帝国の内部において(帝国の担い手を培う土壌である日本社会の世論において)、彼ら
になる朝鮮の女子生徒の婦徳の酒煎に努め、朝鮮家庭の改良・日本化を行い、支配の安定化を図った。
教育の基本理念通りに、日本という国家に忠良な臣民を作り出そうとした。特に、日本人女教員の場合は、母・妻・主婦
人の同化・皇民化の先棒を担いだ、植民地支配の買い手として位置づけられている。彼らは、朝鮮総督府が実施した学校教員集団と植民地支配⊥(九州大学出版会、二〇一年)は、代 ②数多い先行研究の申で、山下達也『植民地朝鮮の学校教員-初等
刊ロ万、二〇〇〇年、一一=一〜=二六頁。
の登場1」『二十世紀研究』京都大学二十世紀研究編集委員会、創
窓会櫻町会(一九〇三年創立)は、咽下蔭会会報㎞(一九〇三〜四三 ④女子高等師範学校(一九〇八年に東京女子高等師範学校と改称)同
一年)二〇一頁。
③稲葉継雄『旧韓国〜朝鮮の日本人教員』(九州大学出版会、二〇〇
①拙稿「柳原吉兵衛の研究-地域における『帝国』の新しい担い手
表的な研究の}つと言えよう。
ちの自己認識、ならびに彼女たちの果した役割は何だったかを分析する。
は、朝鮮にいた日本人女教員の数的実態を明らかにする。第三章では、日本社会における女教員に対する認識と、彼女た 第一章では、日本の膨張・帝国の展開をうけて、女性たちがいかなる朝鮮認識を持っていたのかを分析する。第二章で
に難点があるが韮観的認識・意識を媒介とする点や、史料が少ない点など)、事例を手がかりとして分析を行う。
なる意識を持ち、朝鮮人に影響を及ぼしたのかを検討する。コロニアル・ミッショナリーの役割を解明するには、史料的
る。
最後に、以上のような日本社会の土壌(女性知識人の認識や社会世論)に培養されて送り出された日本人女教員は、いか
本稿ではその第一歩として、女子教育の拡大や内容の充実を訴え言論活動を行った女子教育関係者などの考えを取り上げ
こうしたコロニアル・ミッショナリー論は、戦前の日本においていかに生成・展開したかを解明しなければならないが、
って明らかにする。これは誰が朝鮮人を教え導くのかに関する議論として、コロニアル・ミッショナリー論といえよう。
さらに、本稿では朝鮮へ渡る日本人女教員は日本社会においてどのように認識されたかを、『婦女新聞』の社説等をも
日本女性の問に広がっていた帝国意識・植民地認識を明らかにする。
⑧
しが呼びかけられもした。本稿では、名のある日本女性個別の帝国意識や行動を例に挙げる今までの方法論から脱却し、
⑦
い直されており、帝国主義の支配の下に苦しむ植民地女性を「救済」することのできない日本女性のフェミニズムの見直
てきた。近年、日本女性の戦争協力問題、「従軍慰安婦問題」研究の進展につけ、日本女性の植民地認識・帝国意識が問
174 (174)
⑥植民地朝鮮に渡ったコロニアル・ミッショナリー(朴)
した日本」という見方が固定し、朝鮮蔑視観が広がった。併合後、朝鮮総督府による各種調査報告や官製の言論は、こう 晒、卑劣、瀬惰、国家観念の欠如等)を繰り返し否定的に語った。それらの言説によって日本社会に「遅れた朝鮮・文明化
175 (175)
者・知識人は、朝鮮人の生活風習(早婚、劣悪な住居環境、虐げられる女性の生活等)や朝鮮人の特徴(無規律、無気力、頑迷固
く述べられた。とりわけ、日清・日露戦争をへて日韓併合へと、日本の朝鮮支配が加速する時期において、少なからぬ学
聞や雑誌の朝鮮事情に関する記事のなかで、朝鮮はいかに遅れ、野蛮か(例えば、禿山、頑固、無礼、怠け者、不潔等)が多
日本人の朝鮮認識については、明治時期を中心に明らかにされている。朝鮮の開港以後、朝鮮旅行記や調査報告書、新
第【章日本女性は朝鮮をいかに見たか
裕子咽フェミニズムと朝鮮輸(明石出版、一九九四年)。石井智恵美 ジア認識」糊歴史評論輪第六二四号、二〇〇二年、〜一五頁。鈴木
八年、五〜三三頁。米田佐代子「『帝国㎞女性のユートピア構想とア
ェンダー1)」『韓国女性学』韓国女性学会、第二四巻四号、二〇〇
た帝国女性一在朝日本女性、津田節子を通して見た植民地主義とジ
明想歴叫早き呈暑暑口器薯剤露草スT潮舛遡司i(植民地に渡っ
⑥アン・テユン(曽嘲。τ)刃「魁囚剣舎刈号斜明楽-妥結翌製讐
一四四頁。
ト女の百年(五)1女と権力-匝(平凡社、一九七八年)八七〜
⑤任展慧「朝鮮統治と日本の女たち」もろさわようこ編糊ドキュメン
された。
刊された。休刊中、櫻楓会により『花紅葉㎞や『櫻直会通信』が刊行 版の『女子大学講義』付録唄家庭』に合併されたが、一九〜二年に再 は、一九〇六年六月二五日発行の一九〇号をもって休刊し、同大学出 『家庭週報』(九〇四〜五…年〉を刊行した。しかし、門家庭週報』
年)を刊行した。日本女子大学校同窓会櫻際会(一九〇四年設立)は、
一九九七年)を参照。
は『婦女親聞』を読む会編『『婦女新聞』と女性の近代』(不二出版、
の女性を読者とし、女性関連問題の世論形成に影響を及ぼした。詳細 ど、その記事は多岐に渡った。主に中等程度の教育を受けた中産階級 人界や女学界も編広く報道)、家事・家政学関連の知識、文学作品な 題、婦人問題、婦人界や女学界の動向(霞本内はもちろん、朝鮮の婦 行された週刊誌として、社説は創刊者の福島四郎が担当した。時事問 等教育が開始され、軌道に乗りだした頃であった。一九四二年まで刊 校(一八九〇年)、高等女学校令2八九九年)など、女子中等・高
子教育の研究を主要な陰的として創刊された。女子高等師範学校の開 ⑧『婦女新聞』は、教師であった福島四郎によって、一九〇〇年に女
一』(有志舎、二〇〇九年)。
⑦宋連玉『脱帝国のフェミニズムを求めて1朝鮮女性と植民地主義
五号、一九九二年、六五〜八八頁など。
チャンの一断面1」糊基督教論集』青山学院大学基督教学会、第三 「淵沢能平と『内鮮融和』1日中の朝鮮統治下における女性クリス種太郎夫人)、廣瀬咲子(企業家夫人)、安田靖子(統監府招驚技師夫人)の他、萩原夫人(韓国日本公使館萩原書記官夫人)、岡
④
滞在中または帰国後に朝鮮について書き記した女性として名が挙がっているのは、目賀田逸子(統監府財政監査長官目賀田
まず、日本公使館・統監府の官僚および職員の妻、企業家の妻、または朝鮮視察に出た政治家の妻として朝鮮に渡り、
改めて後述する。
である。以下、彼女らは、どのような立場で朝鮮に渡り、何を書き記したかを概略する。その朝鮮認識については、節を
家等の家族として朝鮮に渡った人か、朝鮮で活動した人(学校設立者・教員・ジャーナリスト)・視察に渡った人・旅行者等
朝鮮に渡り、見聞した朝鮮について、本国の女性たちに報告を行った日本女性は、大きくわけて、政治家・官僚・企業
第一節誰が朝鮮を表象したか
して表されており、文明化という「福音」を朝鮮がいかに必要としているかを強調するためのものであった。
れた朝鮮女性と朝鮮女性の生活は、それが女性によってであれ、男性によってであれ、基本的には遅れた朝鮮の}断面と いて書き記したのは、日本女性だけではなく、朝鮮を旅行した日本の男性知識人たちにもいる。つまり、当時、書き記さ
③
ジア人、アジア民族を蔑視する日本式オリエンタリズムに深く影響を受けていた。また、朝鮮女性の後進性・劣等性につ
②
もとより、日本女性は、当時すでに日本社会に流布していた朝鮮に関する民族誌的な知識や人種的な偏見、いわゆるア
らかにする。
や家庭生活を見た日本女性が、そこで何をどのように語ったのかを分析し、日本女性の中で芽生えた帝国意識の一端を明
鮮支配は文明社会の当然の権利であると岡時に、遅れた朝鮮の文明化を進める道として正当化された時期)を中心に、主に朝鮮女性
本章では、一九〇〇年代初期から日韓併合直後まで(遅れた朝鮮・野蛮な朝鮮人という蔑視観が日本社会に浸透し、日本の朝
した日本人の朝鮮観(朝鮮人劣等論)を増幅したという。①
176 (176)植民地朝鮮に渡ったコロニアル・ミッショナリー一(朴)
【】の説明は筆者、以下同)
でも日本の婦人が確乎と奮発をして交際の道を開き少し教育をしたならば、立派な国民になるであらうと思ひます」(下線および
⑮
はれません。併し婦人方の交際振りから何かを見ましても決して愚といふ方の人民ではありません。寧ろ怜倒であるのですから、何
177 (177)
の大層不自由な国ですから無理もありませんが、
「朝鮮といふ国は磁い国です。
溝のやうな細い汚い川で、ちょいと濡らしてはこすりこすりして居る様は何とも云
そして人民は呑気な入婿です。女が洗濯なぞして居る処を見ましても実に焦れったい様です。最も水
「当国【大韓帝国】の風習には中々奇異なる事も紗からず、日本の三四十年前の事ども思ひ出さる・なり--扁
気持と嘲笑という両面を持ち、啓蒙的立場から書き記した。例を挙げれば、次のようなものである。
⑧
彼女らは、進んだ日本から来た女性の臣に映った、落後した朝鮮の風習や女性の生活環境について、同情やいたわりの
た寄稿文(五回)を書き記した。
⑬
報告した「鎮南浦より」。一九〇八年に京城に移ってからも、「結氷の南浦」(七回)の他、統監府の行事や寺等を紹介し
⑪⑫
出会った人たちについて書き記した「鎮南浦まで」(六回)。鎮南浦で見た朝鮮文化や生活風習について二六回にわたって
⑩
稿した。釜山に着いてから夫の赴任先である平安南道鎮南浦に到着するまでの道のりで見たもの(風景、施設、生活等)や
安田靖子(筆名黒戸女史)は、一九〇七年八月に朝鮮に渡って以来、朝鮮の風習や文化について『婦女新聞』に多く寄
⑨
報』(一九〇八年六月=二日〜一九〇九年六月五日)に四回寄稿し、また、一九○年には『櫻楓会通信』に二回寄稿した。⑧
廣瀬咲子は日本女子大学校卒業生であり、同窓会櫻楓会京城支部の結成(九〇八年一〇月)前に朝鮮に渡り、『家庭週
活、住居環境、朝鮮の学校、朝鮮人の特徴等、多岐に及ぶ朝鮮談を各種の婦人雑誌に掲載した。⑦
そのうち、圏賀田逸子は、朝鮮滞在を終え帰国したのち、一九〇六年頃から一九=年までの間、上流階層の婦人の生
部夫人(おそらく岡部長職子爵夫人)、伊藤富貴子(伊藤染工軍慮伊藤琴三夫人)等である。
⑤⑥行の㎎婦女新聞隔(第四八九号)に京城支局開設の社告を載せ、同書から「京城支局だより」、「京城だより」、「京城通信」
ジャーナリストとしては、『婦女新聞』京城支局の記者を挙げることができる。婦女新聞社は、一九〇九年九月三日発
【朝鮮】に来られ、婦人を導いて戴き度いと存じます」と呼びかけた。
⑳
た上は、彼等も又私共と同じ日本婦人であり、同胞姉妹であります。何卒教育あり、同情ある日本婦人はどしどし当地
今にして気附いたのであります」といい、朝鮮婦人の家庭問題(ここでは畜妾問題)を紹介した後、「然し合併になりまし
⑲
う。金森は、「朝鮮人とて、決して私共と異って居るわけでございませんが、唯、文明に後れたのであって、其の一事を
ち、遅れた妹たる朝鮮女性に対する先に進んだ日本女性の姉意識は、おそらく日本人女教員の大多数が持っていたであろ
日本女子大学校卒業生として一九〇九年に朝鮮に渡り、淑明高等女学校の教員となった金森京子に見られる意識、すなわ
や朝鮮人学校の両方)に二〇人足らずの日本人女教員が派遣されていた。彼女たちが朝鮮について書き記した例は少ないが、
次に、女教員である。この時期の女教員については第二章で詳しく述べるが、例えば官公私立高等女学校(日本人学校
たりする朝鮮人の有様を未開・野蛮だと見た。
⑱
とも野蛮とも云ひ様がありません」と、朝鮮農村の在り方や、日本人の教えを拒んだり、規則的に学校に出席できなかっ
⑰
は殆んど一年間草鮭を脱がずに辛抱したのです。後には先方からも尋ねて来る様になり好結果を奏しましたが、実に未開
がないもので、斯う云ふ事を云ふのです。学校へは行って上げたいが、とても時間を定めて行く様な事は出来ぬ。……私 の募集にかかりました。そして只で教へて遣るから時間を定めて来いと云ったのです。処が未開国の人民といふのは仕様
より先んじて朝鮮に渡り(一八九六年)、全羅不道光州で実業学校を設立した。彼女は、「さて漸と学校が出来たので生徒
まず、奥村五百子である。愛国婦人会の創立者(一九〇一年)である奥村は、日本の朝鮮進出に大きな期待を抱き、誰
⑯
性がいた。この女性らに関しても、誰でどのような立場・観点から朝鮮について書き記したか見てみよう。
つづけて、朝鮮に渡って朝鮮を書き記したもう一つのグループとして、朝鮮で活動した女性や、視察・旅行で渡った女
178 (178)植民地朝鮮に渡ったコロニアル・ミッショナリー(朴)
を支援するため募金活動を成功裏に行ったりした。⑳
愉快限りなく候ひき」と。そして、朝鮮視察の成果を受け櫻楓会は、朝鮮女学生二人(淑明高等女学校)の日本留学の経費
179 (179)
熱心か又は力からの不足より、甲斐もなう過し居り候折柄、両姉の御話は誠によき刺戟にこれあり忘し、鈍りし私共さへ、
候に支部の現状を点れば誠にお恥かしく、如何にもして新領地の会員として、価値ある働きを為さんと願ひ居り候へど、
ると、在朝日本女性に使命意識を鼓舞するという目的もあったようだ。「思へば併合此の方、私共の責任は愈々重く相成
鮮家庭を訪問して交流を行ったりした。彼女らの朝鮮視察には、例えば訪問を受けた櫻楓会会員の次のような報告から見
四・柴田とうである。彼女たちは日韓併合直後に朝鮮に渡って、組織関係者と会合したり、学校や病院を見学したり、朝
⑳
次に、婦人組織からの派遣を受けて朝鮮視察を行ったのは、日本キリスト教婦人矯風会の渡邊常子と、櫻楓会の小橋三
は分からない。
て朝鮮人がいかに遅れ、野蛮かを書き記した他の例として、櫻楓会会員による例があるが、彼女がなぜ朝鮮を旅行したか
⑳
満ちており、日本人居留民の無茶な振舞いさえも、野蛮な朝鮮人からの悪影響と見なすほどだった。短期問の旅行者とし
⑯
で教えていた夫を息子とともに逢いに渡り、『櫻蔭会会報㎏に朝鮮での経験を詳しく語った。朝鮮人を野蛮託する態度に
⑳
朝鮮へ旅行または視察のために出かけ、旅行記を記した女性として、まず、塚本はまが挙げられる。彼女は朝鮮の学校
⑳
て、「あはれ溌潮たる帝国の新婦人は、日に月に日化し来るぞ頼母しき」と称賛したりした。
㊧
の交際という社交的理由で婦人組織に参加している)を慨嘆したり、養蚕施設で働く朝鮮女性が日本式に生活している姿をみ
⑫
しが貫かれている。例えば、朝鮮婦人界の未熟さ(例えば、朝鮮婦人は婦人組織の活動やその目的を十分目認識しておらず、人と
観、施設や交通など多岐にわたる。それらは、朝鮮事情の紹介を主としているが、ここにも進んだ者としての啓蒙的眼差
⑳
で書かれており、その内容は、日本人居留民社会の動態・行事、学校案内、婦人界・婦人会の紹介、朝鮮各地の地理や景
というタイトルの記事を掲載した(一九一七年六月二九日付の第八九三号まで続く)。京城特設通信人、京城支局記者などの名例えば、「彼等門朝鮮人】は猜疑心深くて、籍聞をしたりする事を何とも思ひません。又思想が単純なのにも依りませう
また、朝鮮人は時間観念がなく、マナー・礼儀が不足し、公共意識・秩序意識・国民観念が養われていないと指摘した。
旧態から抜け出せない無気力な病人の姿であった。
いませう……」と。彼女らの目に映った朝鮮は、文明の空気を吹き込む外部からの助けがなければ、自らは旧慣・旧習・
⑭
馴れて了って所謂病膏盲に入るといふやうな姿なのですから今更其風を改良するといふのも、却々骨の折れることでござ
至って卑屈なものと云はれて居りまする位で、妾達から見ますると随分馬鹿げたこともございますが、是も永い間馴れに
るを得べからず。果して何れの日か、此のミイラを起した・しめて文明の空気を呼吸せしめ得るものぞ」、「朝鮮の婦人は
⑬
例えば、「要するに八道の天地【朝鮮】は遊惰、不潔、虚栄、旧来の習慣のミイラにして、進取の気象等は地を彿って見
まず、朝鮮人は、卑屈、不潔、遊惰な人で、そのような旧来からの劣等な特徴が朝鮮を落後させたと、
彼女らは見た。
朝鮮女性との関係をどう認識したかである。
上げる。一つは、朝鮮・朝鮮人がどのように遅れているかという点である。二つは、日本と朝鮮の関係、
特に日本女性と
ここでは、一九〇〇年代初期から併合直後まで朝鮮を経験し書き記した日本女性の朝鮮認識について、
二つの点を取り
する。
第二節彼女らは朝鮮をどう見たか
日本・野蛮な朝鮮、進んだ日本女性・遅れた朝鮮女性という視点から朝鮮を見た。次節で彼女らの朝鮮認識を詳しく分析
のは併合直後のことだった。彼女らの多くは、高学歴者であり、多様な立場で朝鮮を経験した。彼女たちは、文明化した
を見た。日清戦争直後に朝鮮に渡った奥村五百子の他は、日露戦争後に朝鮮に渡ったが、婦人組織から朝鮮視察を行った
⑫
以上で、一九〇〇年代初期から併合直後までを中心に、朝鮮を経験した日本女性が何をどのような視線で書き記したか
180 (18e)植民地朝鮮に渡ったコロニアル・ミッショナリー(朴)
性しか接近できないという朝鮮の文化的環境が考慮されており、社会改良は家庭改良からという視点に支えられていた。
朝鮮女性・家庭の教化・同化を日本女性の役割とみる考えには、外から隔離され生活する朝鮮の両班階層の女性には女
義を、帝国のなかに拡散していこうとする日本帝国主義の断面を垣間見ることができよう。
ヤンバン
すると考えられたのだった。近代国民国家のジェンダー秩序としての性別役劇分業やジェンダー規範としての良妻賢母主
181 (181)
なるが、言いかえれば、日本の膨張・帝国主義によって日本女性の領域は、自国の家庭から他民族の女性や家庭まで拡張 家庭の教化・同化に求められた。そこで、近代国民国家の性別役割分業論に依拠して展開される帝国主義の本質が露わに
⑳
たる内地婦人の義務たるのみならず、我が日本の政策としても、轟轟至要の事なり」と、日本女性の役割は、朝鮮女性・
⑲
られていた。「朝鮮婦人は我が新姉妹なり、之をして、わが国民性に同化せしめ、新文明の恩沢に浴せしむるは、先進者 こうした「帝国の女性」の自己認識は、朝鮮支配に当って日本女性の果すべき役割は何かに関する考え・議論に裏付け
が、それは他民族を支配して「帝国の女性」(植民地本国の女性)の地位を得た者の自己認識であった。
姉たる資格を養はなければなりません」と認識した。つまり、日本女性は朝鮮女性に対して母・姉の立場に立つと考えた
⑳
本女性と朝鮮女性の関係については、「今や日本婦人は身にしみてわが身を省み、わが持てるものを与へて他を導くてふ 朝鮮の関係について、「彼我の関係、単に隣国たるに止まらで、親子の愛あり、師弟の義あり……」と考えたり、特に日
⑰
彼女たちにとって朝鮮は、ただの遅れた異国ではなく、親子関係、師弟関係、姉妹関係の国として認識された。日本と
した近代啓蒙主義的な意識の発露でもあった。
朝鮮人には近代意識が生成していないという判断を下したが、遅れた朝鮮・野蛮な朝鮮人という見方は、彼女たちのこう
とか、公共とかの考は片影だもなく、唯自分の安逸、栄華を計りて生息せるのみ」と。彼女たちは、人々の行動を観察し、
へすれば、即坐に罪は悉く消去ってしまふものと思って居り-
⑳
:」、「実に上、
⑳
皇室より下庶民に至る迄、国家とか、団体
が、一体に徳義の観念が至って薄く、他人の品物を取ることを何とも思はず、
仮令一度とつても見露された時に返却しさ育っていったのだろう。次章では、日本人女教員は朝鮮にどれほど送り出されたのかをみる。
そしてこうした認識の広がりのなかで、日本人女教員をコロニアル・ミッショナリーとして朝鮮に送りだす帝国の力量も
のないものだった。しかし、その共鳴・拡散こそが、日本帝国を支える人的基盤の広がりを示すものであったと言えよう。
持ち合わせている。その認識は、当時、日本社会に広がっていた朝鮮認識や帝国における日本女性の役割論と何ら変わり 日本女性の朝鮮認識は、遅れた朝鮮・妹たる朝鮮女性という上からの視線と、姉たる日本女性の使命という啓蒙意識を
も今少し当方の事情をよく知りて、玄海位何のその、〜人で押し渡る位の立派な覚悟と勇気とがあらまほしくと存候」⑫
に永住し、戸籍も移す位にして、健全なる家庭生活を営み、朝鮮人に模範を示す位の意気込みあらまほしく異名。早れには日本婦人
の如く絵り惨酷なる待遇を為すが如き事なく、親切に指導し行くべき事と存じ候。又之迄の如く腰掛けの様な有様より脱して、此所
【朝鮮】に在るものは、直に朝鮮入に接し居り候間、其の責任は殊に大なるものにて候。在住日本人も少しく態度を些しみて、今迄
「此の時に当り新附の民に、衷心よりの同情を注ぎ同化誘導に勉むべき事は、日本人の何れも等しく負へる責任にて候が、殊に当地
在朝日本人の高慢な振舞いに対し反省を促し、また本国から女性たちが使命感を持って渡航するよう呼びかけた。
視せざるを得ない問題だった。次の例から分かるように、彼女たちは、在朝日本女性の啓蒙者としての使命を強く意識し、
いずれにせよ、朝鮮・朝鮮女性の教化・同化問題は、植民者として朝鮮に渡って暮らしている日本女性にとっては、直
今日の場合、ただ一日本婦人の手に椅るの外なし」という。
然の傾向なり。而して、
⑧
男子には同国人にすら接近せざる国柄なれば、
此国を文明に導き、此家庭を改善せしめんには、
如く、婦人の閉居を以て俗とせる国に於いては、其婦人の見聞狭く、外冠をのみ黙旨して、新進研究の精神に乏しきは自
「社会の改善は家庭に初まり、家庭の改善は婦人の方寸に存すること今更事新しくいふまでもなき事なり。而して韓国の
182 (182)植民地朝鮮に渡ったコロごアル・ミッショナリー(朴〉
四〇〜四六頁など。
頁。川尻琴湖「朝鮮の婦人」『ムラサキ』第七巻一〇号、一九}○年、 鮮の家庭」欄女学世界㎞第五巻一〇号、一九〇五年、一一二〜一八 四〜一八○号、一九〇三年九月七日〜一〇月一九日。金澤庄三郎「朝 〇一年。福島岩之助「朝鮮風俗談(一)〜(七)」隅婦女新聞㎞第一七
③例えば、木村睡虎「朝鮮婦人」『女学世界㎞第一巻三〜六号、一九
報告を行った。
彼女も他の日本女性も、遅れた朝鮮・野蛮な朝鮮入という見方からの 田は、朝鮮に渡って考えが変化した点を強調しているが、全体的には
聞』第三八七号、一九〇七年一〇月七日、四頁)と語った。ここで安 笑しさに堪へられないので御座います」(「鎮南浦まで(六と魍婦女新
まぬ次第ですが)予想と違ひ事々に案外するばかりで、自分ながら可
「最初私は韓国を余りに野蛮視して見くびって居ましたので(甚だす
②例えば、安田靖子は、一九〇七年八月に朝鮮に渡ってニカ月後に、
歴史学会、第四四号、二〇〇八年、六六〜九六頁など。
-構成される他者・〈良妻〉論を背景に一」蓄寸修史学㎞専修大学 九頁。小薗崇明「一九〇〇年代の鯛婦女新聞㎞にみるく朝鮮〉の女性
みるく文学〉』(佐藤印面株式会社筑波営業所、二〇〇〇年)四六〜六
を軸にして一」筑波大学近代文学研究会編『明治期雑誌メディアに 南富鎮「近代日本の朝鮮人観の形成-総合雑誌『太陽』と『朝鮮』 題とは何か一』(日本経済評論社、二〇〇一年)六七〜一〇六頁。
鮮人の対応」三宅明正・山田賢編『歴史の中の差別1「三国人」問
日。
⑫『婦女新聞』第四五三〜四六五号、一九〇九年一月一五日〜四月九
⑬噌婦女新聞』第四九〇〜四九六号、一九〇九年一〇月日〜=月
183 (183)
〇八年九月二八日。
⑪『婦女新聞』第三八九〜四三七号、一九〇七年一〇月二…日〜一九
七日。
⑩欄婦女新聞㎞第三八一〜三八七号、一九〇七年八月二六日〜一〇月
史学会、第〜朝集、一〜〇一〇年、一五一〜一八七頁を参照。
旭剋刃「(日本人女性安田靖子の対朝鮮認識)」隅女性と歴史㎞韓国女性
⑨安田靖子については、菅原ユリ「望暑勉φ層叶ム身叶ム至潮曙蚤
三三頁。
「朝鮮の女」㎎家庭』日本女子大学校、一九一〇年…一月号、三〇〜
より」『家庭週報』第七四号、一九〇六年八月二五日、四頁。陶子
した人がいるが、どのような立場の人かは分からない。秀子『韓国た
⑧他に日本女子大学校卒業生として朝鮮に渡り、朝鮮について書き記
一年、二八〜三一頁。
号、一七〜〜=頁。同「朝鮮の婦人」㎎ムラサキ隔第八巻一号、一九
て知って居るべきこと」魍家庭㎞日本女子大学校、一九○年○月 『婦女新聞』第五三七号、一九一〇年九月二日、四頁。同「朝鮮に就
一四←二一五号、一九〇六年五月一四日←=日。同「朝鮮の婦人〕
⑦欝賀田婦人談「朝鮮婦人の交際振り(上)・(下)」『婦女新聞』第三
年)四〜七頁。趙景達「近代日本における朝鮮蔑視観の形成と朝
幻想i「大東亜共栄圏」の思想と現実1』(青木書店、一九九八
五巻一四号、一九一〇年、四八〜五一頁。
⑥伊藤富貴子門朝鮮貴族の家庭を訪問して感じた事」『婦人世界h第
期の支醗イメージ!」ピーター・ドウス・小林英夫編『帝国という 前掲書、九七〜一二二頁。ピーター・ドウス「朝鮮観の形成-明治 ①永原和子「『婦女新聞』にみるアジア観」『婦女新聞㎞を読む会編、
一九〇五年、三三〜三九頁。
⑤岡部子爵夫人豊門韓国貴婦人の交際」欄女学世界』第五巻一四号、
一一日、山ハ頁。
④萩原夫人「韓国の婦人」噛婦女新聞』第二七九号、一九〇五年九月⑮塚本はま「韓国」㎎戦雲会会報臨第〜四号、一九〇八年、六六〜七
女は、日本家政学を開拓した第世代家政学者である。
れた。また、一九〇六年には『実践家政学講義㎞を刊行するなど、彼 した。一九〇〇年刊行の『家事教本全』は、各女学校から広く採用さ 範学校(一八九七年〜一九〇〇年)等で教える一方、家政学書を出版 〇年に女子高等師範学校を卒業(第一回)した。塚本は、女子高等師
⑳塚本はまは、〜八八五年に東京師範学校女子部に入学し、一八九
号、一九一一年七月一四日、六頁。
⑬京城一記者「朝鮮婦人と養頚事業(つづき)」『婦女新聞㎞第五八二
号、一九二年五月二六日、六頁。
⑫京城支局〜記者門朝鮮愛国婦人会(つづき)」『婦女新聞』第五七五
ものである。
投稿されており、これらも、朝鮮の風景、風習、生活等を書き記した ⑳その他に、京城みやこ、京城西さは子という名による記事が、多く
⑳同上、五七頁。
口万、一九一〇年、五六頁。
⑲金森京子「同情に堪へぬ朝鮮貴婦人の生活」『櫻楓会通信㎞第三二
日、二頁。
「奥村五百子氏談片」欄家庭週報㎞第四〇号、一九〇五年一}月一八
⑱奥村は、一九〇五年に櫻楓会で講演を行い、朝鮮での経験も触れた。
一六七頁。
⑰奥村五悪子「朝鮮観光談」『女学世界伊野二巻七号、一九〇〜年、
⑯奥村五百子に関しては、任展慧、前掲書。鈴木裕子、前掲書を参照。
一九〇六年五月二一日、三頁。
⑮目賀田逸子「朝鮮婦人の交際振り(下)」『婦女新聞睡笙三五号、
⑭萩原夫入、前掲書。
二日。
女性として辰已柳子(門朝鮮の婦人」噸婦人南口第三巻七号、一九〇三
⑳朝鮮へなぜ渡ったかは分からないが、他に朝鮮について書き記した
一九一一年、二二〜二五頁。
⑳社会部「朝鮮婦人内地留学費募集の成績」『櫻楓会通信㎞第三五号、
通信』第三四号、一九一〇年、三七〜三八頁。
⑳廠瀬咲子「本部からの珍客-朝鮮貴婦人との会合一」㎎櫻楓会
〜九〜○年、五〇〜五九頁。
⑳小橋三四・柴田とう門朝鮮よりのハガキ」欄櫻楓会通信㎞第三三号、
二年。
⑳)渡邊常子「朝鮮旅行記」『婦人新報』第一七七・一七八号、一九一
差九月二九日・一〇月=二日。
⑳一櫻楓会員「韓国瞥見」『家庭週報』第七八・七九号、一九〇八年
責めざるべからず」塚本はま、前掲書、七五〜七七頁。
醜体を伝ふるに至りては、まつその功績をたたふる前に、その罪悪を し、年に幾度か内地と相往来して、美麗なる蛮行を輸入し、風流なる らず識らず、自ら品位を落として、劣等国民となり下るは、猶忍ぶべ
も、下女も馬丁も、劣等国民を交りて、その劣等なる所以を学び、知
し。……朱に交れば赤くなる世の諺に洩れず、男も女も、窟吏も商人 自身は懐手にして彼れ等を叱咤するのみなるは、一種の奇観といふべ 運搬する運び麗】をして、炭毒酒醤油の類も、花客の家に運ばしめ、 隠憐閥の念少なく、酒やの御用ききも亦例の『チゲクン㎞【背負子で 僕小僧番頭のたぐひに至るまで韓人を駆使するに優等国民ぶりて、測 織すなどといへる理由をとなへて、豪奢を街ひ、古塁をむさぼり、碑 を恥ちとせず、労働をいやしむ習ひ上下通じて行ばれ、祖国の体面を の風、縞所にも吹きすさみ、男子は飲酒遊蕩に耽り、女子は虚飾贅沢
⑳「居留民が生活の程度は、一般に高く、新開地の鴬なる、浮華遊惰
七頁。
184 (184)植民地朝鮮に渡ったコロニアル・ミッショナリー(朴)
つた。しかし、就職に困る教員希望のB本女性に対し、日本人女教員が不足する朝鮮に渡ることを奨励する当時の記事か
①②
一八七六年目日朝修好条規の締結以後、開港地や漢城(後の京城)に日本人居留民の移住が増加し、日本人教育も始ま
185 (185)
第一節日韓併合以前の朝鮮における日本人女教員
第二章日本人女教員は朝鮮にどれほどいたか
勤勉、快活で、吾輩は支那も、安登も、ビルマも、サイアムも、馬来
朝鮮を開発誘導し得べしと思ふは、恐くは誤りである。朝鮮の女子は 立場から、より多面的に朝鮮を見るよう促している。「日本の女子が 鐘を鳴らす立場で表わされており、比較的長年、朝鮮を見てきた者の
ある。これは、朝鮮・朝鮮女性の同化に対する日本の過剰な自信に警
に捉える意見が全くなかったわけではない。次の引用文はその一例で ⑳当時、朝鮮女性・家庭の同化に当る日本女性の姉たる役割を否定的
〇年一〇月二八日、}頁。
⑲社説「朝鮮貴婦人の歓迎に就て」咽婦女新聞㎞第五四五号、一九一
庭臨日本女子大学校、一九一〇年一二月号、三頁。
⑳「姉となりし日本婦人-最もめざましき今年の出来事i」明家
第三二号、一九一〇年、五四頁。
⑫廣瀬咲子門合邦に対する在留邦人と朝鮮入の態度」『櫻協会通信』
月}四日、〜頁。
⑪社説「在韓婦人の任務」魍婦女新聞』第三八八号、一九〇七年一〇
⑳塚本はま、前掲書、六六頁。
⑳一嘗楓会員、同上。 年五月二五臼、四頁。
⑳秀蘭女史「鎮南浦より(一七)」㎎婦女新聞㎞第四二〇号、〜九〇八
⑭辰已柳子、前掲書、九四頁。
⑳一櫻楓会員、前掲害(七八号)、三頁。
年、九四〜九八頁)がいる。
〇年一〇月口口、〜六〜〜七頁。
である扁長井金風「合邦後の朝鮮」『家庭』日本女子大学校、一九一 朝鮮婦入は日本婦人を圧倒するに至るは吾聾の明罰して繹らぬところ で行けるものと自信するのは、日本女子の大誤りで、十年も出ぬ中に 恐るべきものである。故に何時までも日本の女子は、朝鮮女子の姉分 (而して事実に於いては十分解けつつある)、朝鮮婦人といふものは り)によりて、女子は妙な束縛を受けて居るが、一旦これが解くれば は社会的の法令(即ち文公家礼やその他過度に朱子学を強行するよ 族は決して衰亡するものでない。現今は妙な習俗-習俗といふより 朝鮮の女子は極めて進取的である。女子のあんなに勤勉で、快活な民 る。日本の女子は総べてに於いて、ヒッコミ算段で、臆病であるが、 される。少し教育すれば朝鮮の女子は日本の女子より遙かにエラクな のは無い。蒲して朝鮮の有望なのは、朝鮮婦人の優れて居るので証明 諸島も、印度も知って居るが、亜細亜の亡国で朝鮮民族程有望なるも〜四人程度いたと考えられる。しかし、一八八六年以来、朝鮮で開校された梨花学堂を始めとするミッション系女学校に
(一
④
縺Z八開校)の他、淵沢能恵が設立に関与した私立淑明高等女学校(一九〇六年開校)に、日本人女教員がそれぞれ三
程度であったかは推測できない(一九〜○年度の統計にも性別教員数は無表記)。高等女学校の場合は、官立漢城高等女学校
関するものである(同年度の私立学校統計はない)。日本人女教員は普通学校と高等女学校で教えていたに違いないが、どの
もちろん、当時、日本人教員は朝鮮人教育も担っていた。次の表2は、一九〇九年度の官公立朝鮮人学校および教員に
の日本人女教員がいたと考えられる。
年度の女教員の比率は約二三%)、高等女学校教員三七人のうちの約一一割(三校の高等女学校に各二〜三人が勤めていたとみて)
表1 1909年度における日本人学校と日本人教員
生徒数
学 種 学校数
小学校
商等女学校
申学校
商業学校
専門学校
102
3
1
2
1
男 子 女 子
6,712
5,918
397
一
154
143
30
注1)教員数には兼務者も含む。
2)性別教員数は示されていない。
出典:朝鮮総督府『学事統計』1910年度。
て生じた特徴であろう。ともあれ、小学校教員三六三人のうちの約二割(一九一〇
③
生徒の場合は内地留学よりなるべく親元で教育させたいという居留民の要望によっ
張していったことがわかる。それは、小学校卒業後の進学率が低いとはいえ、女子 て、朝鮮における日本人女子中等教育機関は、男子のそれより先んじて発足し、拡 また、一九〇九年度の中等学校における女子生徒数が男子生徒数より多い点から見
に釜山商業学校が一九〇六年に、京城中学校が一九〇九年にそれぞれ設立された点、
〇四年に開設された仁川小学校補習科)である。日本人が通う男子中等学校として最初
〇四年に開設された京城女学会)、九〇八年開校の仁川実科高等女学校(前身は一九
九〇二年に発足した釜山小学校補習科)、一九〇七年開校の京城高等女学校(前身は一九
表1の日本人高等女学校の三校は、一九〇六年開校の釜山高等女学校(前身は一
学校へ配属されたと考えられる。
ら推測して、この時期の朝鮮における日本人女教員は少数で、主に小学校と高等女
186 (186)
一
一
一
20
20
教員数
363
37
8植民地朝鮮に渡ったコロニアル・ミッショナリー(朴)
普通学校
高等女学校 1
2
高等学校
法学校
外国語学校
師範学校
成均館
までの日本人女教員の推移は、以下の表3の通りである。
彊員数は、民族別と性別に示されていない部分がある。一九二九年度から四三年度
注 典 表表
し、一九二九年度以前の富公私立の初・中等学校および高等教育機関における教
187 (187)
学 種 学校数
2辻の教育統計から朝鮮に日本人女教員はどれほどいたかを知ることができる。しか
123
1
1
1
1
㎜彫計』をはじめとして、一九四三年度まで『朝鮮諸学校覧』を刊行した。これら
男 子 女 子 日本人 朝鮮人 外国人
689
15,465
コむ
一
鞭最初の公刊年度は明確ではないが、朝鮮馨府は、一九学年度の『学事統
248
138
420
206
30
生徒数
囎箋節贔併ム.以後の朝鮮における日本人三豊
143
一
一
一
一
校第三章で取り上げる。
13
10
8
9
一
156
4
教る。そこで帝国の担い手としての女教員への期待が見受けられるが、この点は、
5工6
5
14
11
27
7
7
4
閨
}
一
4
の 雌
と 員
教員数
一
少ないが朝鮮に渡って女子教育に従事している卒業生に注目し、関心を寄せてい
このように女子中等教員を輩出していた女子高等教育機関の同窓会は、人数は
に手紙を寄せ、釜山高等女学校について紹介した。⑦
れそれ釜山高等女学校と漢城高等女学校に勤務)のうち、内山美は、『櫻蔭会会報』
⑥
いていると報告した。また、女子高等師範学校(後の東京女子高等師範学校)卒業生として併合前に朝鮮に渡った二人(そ
⑤
よりが掲載されたりしている。例えば、日本女子大学校同窓会櫻楓会は、}九〇八年に卒業生三人が教員として朝鮮で働
当時、日本女性向けの雑誌や同窓会の機関紙には、朝鮮に渡っている日本人女教員が紹介されたり、彼女たちからのた
人教員を雇用するようになってからのことであろう。
は進出しておらず、彼女らがミッション系女学校で勤めるのは、一九一〇年代後半、朝鮮総督府の学校認可のために日本初等教育
年 度 日本人
w 校
622
1929
1931
1932
1933
1934
1936
1937
1938
1940
194ユ
1942
1943
645
651
682
685
734
752
774
887
1,011
1,053
1,206
朝鮮人
w 校
389
362
343
356
370
431
506
588
1,266
2,029
2,591
2,844
表3 朝鮮における日本人女教員数の推移
中等教育
小 計
1,011
1,007
994
1,038
1,055
1165P
1,258
1,362
2,153
3,040
3,644
4,050
日本人
w校
147
180
175
194
202
179
215
232
257
256
289
275
朝鮮人
w 校 小 計
232
85
77
88
97
79
97
104
100
122
145
170
151
257
263
291
290
276
319
332
374
40ユ
459
426
高等教育 合 計
2
3
14
2
2
5
6
11
24
30
33
47
1,245
1,267
1,271
1,331
1,347
1,446
1,583
1,705
2,551
3,471
4,136
4,523
注1)1938年に従来の日本入学校と朝鮮人学校の名称が統一されるが,実際には新設学校を除けば
依然として分離教育が維持されていたので,1938年度以降も日本人学校と朝鮮人学校を分離
して示した。
2)日本人初等学校:宮公立小学校(41年からは国民学校)
日本人中等学校:公私立の中学校・高等女学校・実業系学校
朝鮮人初等学校:官公私立普通学校(38年遅らは小学校,41年からは国民学校)・簡易学校
等・初等レベルの各種学校
朝鮮人中等学校:公私立の高等普通学校・女子商議普通学校・実業系学校・中等レベル各種
学校
高等教育機関:帝国大学・専門学校・師範学校・專門レベルの各種学校
3)教員数には兼務者も含む。
4)1932年度に高等教育機関の日本人女教員数が急増したのは,私立専門学校に兼務する12名が
含まれているからである。38年度以降は,師範学校に勤める日本人女教員数が増えた。
出典:朝鮮総督府『朝鮮諸学校一覧』1929年度~1943年度(30年度,35年度,39年度は欠落)。
女教員は、すべての年度において朝鮮 その一方、中等学校における日本人
)
魎。
一九三八年設立)
から輩出された者も多
校・一九三五年設立、公州女子師範学校・
た女子師範学校二校(京城女子師範学
本人女教員の中には、朝鮮に設立され 勤める者が多くなった。初等学校の日
鮮人生徒の急増に伴い、朝鮮人学校に
本人学校に多くいたが、四〇年代は朝
一九三八年度までは朝鮮人学校より日
初等学校における日本人女教員は、
その最大の理由があろう。
よって初等教員数が拡大したことに、
以上増加した。初等教育の量的拡大に
⑨
規模であったと推定すれば、三十五倍
る。併合前の一九〇九年に百十数人の
⑧
四三年には四五〇〇人以上に達してい
朝鮮における日本人女教員は、一九
188 (188)植民地朝鮮に渡ったコロニアル・ミッショナリー(朴)
初等教育
年 度 日本入
雷ウ員
1929
1931
1932
1933
193喋
1936
1937
1938
1940
!941
1942
1943
LOU
朝鮮人
雷ウ員
928
1,007 1,005
994 LO24
1,038 LO81
LO55 1,217
1,165 1,412
1,258 1,660
1,362 1,750
2,153 2,462
3,04G 3,0QG
3,644 3,177
4,050 3,256
外国入
雷ウ員
51
57
39
38
27
28
26
14
3
2
3
闇
注・出典:褒3と同じ。
*1942年度には私立専門学校に40人の朝鮮人女教員がいたが,43年度には5人に減った。
員は一〇八人であった(表4の数字には実業系や各種中等学校に勤務す
189 (189)
人)はほぼ差がないのに、日本人女子教員は三二六人、朝鮮人女教
における日本人生徒数(一六四七八人目と朝鮮人生徒数(〜六二七
おいてである。例えば、一九四三年度、公私立高等女学校(七六校)
は三四四二人)が、両者の人数の差が特に顕著なのは、中等学校に
教員より多い(一九四三年度の日本人女教員は四五二三人、朝鮮人女教員
三〇年代半ばを境に減り続けた。全体的に日本人女教員が朝鮮人女
けた。しかし、外国人女教員(ほとんどがキリスト教婦人宣教師)は
員と朝鮮人女教員は、すべての学校においてほとんど年々増加し続
日本入女教員を他の民族の女教員と比較してみよう。日本人女教
どなかったろう。
からみて、中等学校で教えた女教員たちと学歴の面では差がほとん
⑫
京都女子高等専門学校出身で公許女子師範学校で勤めた吉田重の例
一九三八年度以降、規模的には少人数に過ぎないが、増えつづけた。
高等教育機関のなかで、女子師範学校で教える日本人女教員は、
等教育を受けたと思われる。
ケースも多くなかったので、彼女たちのほとんどは、日本内地で高
⑪
校が設置されず、日本人女子学生が朝鮮の女子専門学校に入学する
人学校よりも日本人学校の方に多かった。朝鮮には男女高等師範学
表4 朝鮮における女教員数の推移
中等教育
小 計
L990
2,069
2,057
2,157
2,299
2,605
2,944
3,126
4,618
6,Q42
7,3G6
B本人
雷ウ員
232
257
263
291
281
276
319
332
374
4Qi
6β24 459
426
朝鮮人
雷ウ員
53
74
131
132
138
138
145
182
177
195
187
167
外圏入
雷ウ員
14
15
36
40
31
33
26
22
25
3
幣
小 計
299
346
430
463
450
447
490
536
576
599
646
593
一
日本入
雷ウ員
2
3
14
2
2
5
6
11
24
33
荏7
高等教育
朝鮮人
欄ヨ員
5
10
9
10
12
11
11
20
30
30 縫
59
19*
外国人
雷ウ員
ll
15
13
15
14
12
12
13
12
2
1
薗
合 計
小 計
18
28
36
27
28
28
29
44
66
66
93
66
2β07
2,443
2,523
2,647
2,777
3,080
3,463
3,7G6
5,260
6,707
7,563
7,965を経営する夫とともに朝鮮に渡った廣瀬咲子は、「此の地の高等女学
③第一章で紹介したように、日本女子大学校卒業生として朝鮮で工場
五年〜○月九日、二頁。
といふ」「韓国に於ける小学女教師」『婦女新聞』第二八三号、一九〇
を求めて得ざる女子は梢当の手続を履みて渡航すること有望なるべし 員を得るに至りたるが女教員の渡航は尚極めて少き由なれば内地に口 者も多くなり現今にては五百戸以上位の日本居留地にては容易に旧教 と内地よりは比較的高級を得らる・と近来交通の便開かれしため渡航 ②「韓国の日本小挙校にては従来教員を得るに苦みしが畿局者の奨励
を参照。
雄『旧韓国〜朝鮮の「内地人」教育』(九州大学出版会、二〇〇五年) ①併合前の朝鮮における日本人教育の成立と展開については、稲葉継
いる。
⑥稲葉継雄、前掲書、二〇〇一年、三〇五〜三二一頁にも紹介されて
二号、一九〇八年、一一六頁。
⑤日本女子大学校校同窓会桜楓会「韓国京城支部扁判桜楓会通信』第
本人女教員が勤めていた。
日、六頁)によれば、漢城高等女学校に赤穂千春学監の他、三人の日 ④『婦女新聞』の「京城だより」(第四八入号、一九〇九年九月一七
五月ニ期日、二頁)と報告した。
事でございます」(「京城土産」『家庭週報㎞第一八八号、}九〇九年
移住が遅れる其れ等の必要が迫って高等女学校の設立を急いだと云ふ 児を教育の為に本国に残して参る事を嫌がりますので、従って婦入の 校は中学よりも早く設立されました。其の理由は母親達がとりわけ女
いのは、朝鮮人生徒に対する彼女たちの影響はどうだったのかという事である。次章でこの点について取り上げる。
多数の朝鮮人の生徒たちは初等学校または女子中等学校で彼女たちの教えを受けていた。この点から考えなければならな
より日本人女子生徒の教育を担当するものが多かった。しかし、こうした日本人女教員数の推移や特徴がどうであれ、大
における朝鮮人生徒の教育により多く当てられており、女子中等学校の場合は、植民地統治時期を通して朝鮮人女子生徒 遙かに上回っていた。彼女たちは、朝鮮人生徒や次世代の植民者の教育に従事したが、一九三〇年代後半からは初等学校 以上で、朝鮮における日本人女教員は年々増加していき、朝鮮人女教員などより規模が大きく、特に中等学校において
よ・つ。
担ったのだろう。中等学校に進学する朝鮮人女子学生は、初等学校以上に日本人女教員の影響を受けるようになると言え
日本留学が必要だった。そのような朝鮮人女性は少人数で、高等教育を受けた日本人女性が朝鮮に渡って女子中等教育を
⑭
る教員数も含まれているので差異がある)。朝鮮には女子専門学校が少なく(三校)、朝鮮人女性が中等教員になるためには、
190 (190)
⑬植民地朝鮮に渡ったコロニアル・ミッショナリー(朴)
たのかを知ることにつながる。本章では、日本人女教員に期待された役割と、日本人女教員自身の意識を検討する。②
かに構想されたかの問題である。ひいては、日本入は他国家・他民族を包摂する帝国をいかなる帝国意識をもって構想し そこで浮上したのが、日本人女教員を朝鮮に送ることだった。誰がいかに遅れた朝鮮を教えるかは、帝国の担い手がい
191
(191)
界・言論界は、こぞって朝鮮教育論を打ち出した。①
れた朝鮮をいかに教えるのかは、植民地支配を本格化した帝国の大きな課題となり、政治家や教育官僚をはじめ、教育
第一章で述べたように、一九世紀末から日本で遅れた朝鮮・野蛮な朝鮮人という見方・イメージが広がっていった。遅
第三章日本人女教員はコロニアル・ミッショナリーとしていかに認識されたか
督府州朝鮮諸学校}覧紬}九三五年度〜図工年度。各年度の日本人卒
間四年)の日本人卒業生は、約工○○○人と推定できるので(朝鮮総
の講習科(在籍期間年)、演習科(在籍期間二年)、尋常科(在籍期
⑩一九三五年から四二年まで(三九年度欠落)、二二の女子師範学校
る権力関係1㎞(世織書房、二〇〇五年)を参照。
⑨金転子『植民地期朝鮮の教育とジェンダー1就学・不就学をめぐ
(山川出版社、二〇〇五年)を参照。
⑭拙著㎎朝鮮女性の知の回遊i植民地文化支配とB本留学i匝
⑬朝鮮総督府噸朝鮮諸学校一覧㎞一九四三年度。
⑫吉田重欄夕映㎞(三ケイ社、一九九八年)。 鮮総督府槻朝鮮諸学校}覧㎞{九四三年度。
ぶ。朝鮮総督府繋朝鮮諸学校一覧㎞一九四一二年度。
女教員(四五二三人)、朝鮮人女教員(三四四二人用の順に人数が並
男子教員(〜七五四六人)、日本人男子教員(一二五六二人)、日本人
⑧九四三年度における初等・申等・高等学校の教員全体は、朝鮮人
四五頁。
⑦内山美「釜山より」『櫻孫王会報』第ご一号、一九〇七年、四三〜
日本人女子学生八六人、朝鮮人女子学生二二四人遅在学していた。朝 それぞれ六七人と九八人)。同年度、京城女子医学専門学校には、
三七年設置の淑囲女子専門学校に九六人であった(朝鮮人女子学生は、
本人女子学生数は、一九二五年設置の梨花女子専門学校に五人、一九 ⑪一九四三年度、教員免許が得られる女子専門学校に在学していた日
約半数は、朝鮮の女子師範学校出身であろうと推測できる。
業予定者を集計すれば一九六四人)、一九四三年度の日本人女教員のべき也」
③
既に幾多の人才あるを信ず。学殖あり、識見ある女子は、今日の好機を逸せず、我が肉の肉、骨の骨たるべき韓国の為に大も奮起す
とは難ければ也。これ吾人が、我が婦人界に向ってここに声を大にして、韓国教育の事を云為する所以也。幸にして我が婦人界には、
ざるべからざる事情の存す。そは、韓国にては甚しき男女隔絶主義行はれ、男子にして、表面より婦人に接近し、婦人の間に働くこ
その女子教育費に上流社会の女子教育より始めざるべからざる也。而して、その女子教育の任にあたるもの、又必ず女子の手に侯た
単に外部より之が教育を強ふも、その内部の反撲を打破するに堪へずして、終に無効に摩せんのみ。然り、韓国の教育事業は、先づ
を奏する能はざる也。……韓国教育を実行せんとするには、まつ彼等婦人を動かさざるべからず、若しこの手段に出ですして、ただ
「韓国に重ては、婦人の勢力案外に強くして、如何なることをなすにも、まつ婦人を動かさずは、到底根本に立入って十分なる効果
本人女教員派遣の必要性を説いた。
なく、朝鮮入が内心から変化を望むような教育の効果をあげるためには、優先的に朝鮮女性を教育すべきだと主張し、日 次の『婦女新聞幅社説は、教育による朝鮮人の教化を朝鮮支配の最上の方法と見る立場に立って、変化を強いるのでは
る日本人女教員派遣の案が練られ、打ち出されたのであろう。
ねばならないが、朝鮮女性は内房で生活し、そこへの出入りは外部男性には許されない。そこから、当然、朝鮮人を教え る当然の結論だったと乞えよう。朝鮮を変えるためには、何より先に朝鮮女性や朝鮮の家庭を教え導き、日本に同化させ
朝鮮支配の方法論が続出するなか、遅れた朝鮮に日本人女教員を送ることは、第一章で取り上げた朝鮮認識から導かれ
第一節日本人女教員に期待された役割は何か
192 (192)植民地朝鮮に渡ったコロニアル・ミッショナリー(朴)
の経験と成果を活用することを主張したものに他ならない。そこには帝国の支配の成立が日本女性にもたらす新しい可能
193 (193)
分な知識と志を持つ女性たちを高く評価した人(福島四郎)が、植民地に対する帝国の支配の確立のためにB本女子教育
⑥
主体的で自立した女性を育てる女子教育は、男性・社会・国家のためにも必要であるという観点を持ち、社会に出るに十
教員の充員という教育政策の観点からみれば、いかにももっともな意見に過ぎないかもしれない。しかし、その意見は、
以上のような、遅れた朝鮮に日本人女教員を派遣することは、いずれ朝鮮で実施されるはずの公教育に必要な日本人女
とめば、其の感化は、彼の婦人のみに止らず、間接にはわが政府及び民人の施設する表面的事業をして、進捗を容易ならしめん」⑤
凡てが宣教師の如き考になり、彼等の神を思ふが如く我が国家を思ひ、機にふれ折にあふ毎に、同情を以て彼の婦人を指導するにつ
殊に吾等は、現に朝鮮に在住せらる・婦人に対して、余力を此の裏面的国家事情に致されん事を切望す。……要するに、我が婦人の
するは、高尚なる学科教師よりも寧ろ編物細工二等初歩の手芸にて事足れば、尋常小学専科教員位の技術あらば可なりと聞く。…-
「吾等は両者【女医と女教員】を職業とせる婦人が、成るべく多く渡航して此国家の裏面的事業に従事せん事を望む。……朝鮮に要
ての日本女性は、西洋の宣教師のような存在にならなければならないとした点は興味深い。
した考えを踏襲したのち、いかなる日本人女教員が必要かについて、以下のように付け加えた。そこで、朝鮮に渡るすべ そして、日韓併合という転換を迎えると、『婦女新聞』は、帝国はなぜ日本人女教員を必要とするかについて以前に示
確認される。
ず支那でも)の新教育の任に当って見たいと常に望んでをるものが少なくないさうである」という、具体的な提案からも
④
女教育家を遣って以てこの任にあたらせるといふ事である。今日、我国に於ける女教師の中には、喜んで韓国(のみなら 日本人女教員に大きな期待を抱くこの考えは、後の「韓国教育の第}歩を魚心にせんがため、我国より、まつ=一百の「在韓婦人が、身を以て模範とし、親切を以て指導し、不知不識の間に彼等韓国婦人をして自覚せしむるにあらざれば、教育の普
と考えられた。
鮮女性を感化させ、尊敬の念を抱かせ、朝鮮入の内心からの同調を得て朝鮮家庭を文明化・日本化へ導く人となるべきだ 導者として振舞ったり、大きな態度で押しつけたりする人ではない。自らが模範になることで、知らず知らずのうちに朝
べきであると考えられたのか。例えば、次の例から分かるように、彼らは(ここでは朝鮮に渡った日本女性)、大っぴらに指
帝国の担い手をコロニアル・ミッショナリーのような存在として捉えた場合、彼らは朝鮮でどのような心構えで行動す
生み出すとみた。
さに「福音」であり、朝鮮人のための最良の道であると信じ疑わなかったのだろう。そして、それが帝国の安定と利益を 秩序意識も公共意識も国民意識も持ち得ていない遅れた朝鮮人に、文明の光を当て心を改めさせること(日本化)が、ま
いう、コロニアルこミッショナリーのモチーフを見出したのだろう。彼らは、頑固で、無礼で、怠け者で、不潔な朝鮮人、
朝鮮蔑視観を肯ずる優越者・支配玉の特権(指導権)と「善良さ」が、日本の文明によって野蛮な朝鮮人の心を改めると クールが日本近代化に果した役割を大いに評価する見方から来た着想だろう。それに、〜九世紀末以来、日本に広がった
る考えに結びついている。こうした帝国におけるコロニアル・ミッショナリーの役割論は、西洋宣教師とミッションス
ともあれ、遅れた朝鮮に日本人女教員を送ることは、帝国が必要とする担い手を西洋の宣教師のような存在として捉え
ていたかどうかは不明である。
縮させてしまうものだった。要するに、帝国意識は自国の女子教育の発展を抑圧する縛りにもなるが、その点が自覚され
学校教員を想定するなど、日本と朝鮮の女子教育に差別を置くその考えは、日本女性に開かれる新しい活動を最初から萎
性も意識されていた。しかし、朝鮮が必要とする日本人女教員は、最高の学歴や学問を有する人物より、手芸に詳しい小
194 (194)植民地朝鮮に渡ったコロニアル・ミッショナリー(朴)
きった生活をしみじみ可愛さうに思った。:…二時はやくめさめたばかりに一足さきに、文明にたどりついただけで、決して私達は
195 (195)
「ヨボ階級の人達【労働者等の貧しい人】をみて私は、ただもうみじめだといふ感にうたれた。うるほひもない。涙もない。荒み
して、遅れた朝鮮人を改める存在だとみた。
下に挙げた例には教員全般について書かれたが)は、同情、友愛、親和等の普遍的なヒューマニズムに満ちた、真の勝利者と
一九一七年度に学生有志による朝鮮・満州旅行に参加した東京女子高等師範学校学生は、朝鮮における日本人女教員(以
⑩
れる。その一例として、将来に帝国の女子教育を損う人材として養成を受けている女子学生の認識を挙げることができる。
リーのマインドが求められたことだ。そして、そのことは、B本女性の中である程度自覚的に受け止められていたと思わ
に影響を与えていたかどうか分からない。ただここで言えるのは、朝鮮に渡る日本人女教員にコロニアル・ミッショナ
しかし、帝国におけるコロニアル・ミッショナリー役割論は、首尾一貫した帝国論として人々の植民地認識や国家政策
になってくる帝国の担い手の質が違うのだ。
の育成を目標にすることと、朝鮮人を改心させ、彼らを精神的に文化的に日本人に作り上げようとすることとでは、必要
同じではないはずである。例えば、自己の劣等や日本の優越を認め、やむを得ず朝鮮の日本化を受け入れる従順な朝鮮人 や立場によって、誰が遅れた朝鮮入をいかに教えるのかという、帝国の困難を解決するのに必要な担い手に関する考えも
日本が朝鮮支配の理念として打ち出した同化主義は、日本人の中でもその理解や政策的な立場は多様だった。その理解
⑨
辱しめざらん孕め、積極的には彼等【朝鮮人】を感化して、欽慕せられ敬服せらる・まで、其の身を慎まざるべからず」⑧
「在韓の臼本婦人は、自ら巳本の婦人を代表せるものなる事を覚悟し、一挙手一投足にも、十分の注意を加へ、消極的には母国を
及は望むべからず、家庭の改善は期すべからず、韓国を真の文明の域に進めて、帝国の天職を全うすることは能はざるなり」⑦題を起こさぬよう事前に統制するための目的も認識された。彼女らは、コロニアルこミッショナリーの置かれる難しい立 を習得する理由として、朝鮮人と円満なコミュニケーションをとり、より彼らを理解するためだけではなく、朝鮮人が問
する人はその言語の理解を第一要件として、出発点としてなさるべき前途を持つのだ」と。ここでは日本人教員が朝鮮語
⑬
来した。鮮人の教師と生徒は朝鮮語をしらぬ、指導者の下に何事を企画するか実に恐ろしい事だと思った。朝鮮教育に任 彼らの思想を解する為に自由に朝鮮語を語る人がはじめて彼等を理解し指導し得るのではないかといふ、不安が胸底を往
語さへあれは事足る故を以て鮮人に日本語で知識を注入することが出来るとしても、決して教育は徹底したとはいへぬ。
鮮語を十分に理解してみなければならぬ。教師の過半は日本人である外に鮮人の教師がみる。……ここに生活するに日本
語を習得すべきだとして、次のように語った。「若しも徹底した教育で、此朝鮮人を開発し啓蒙するにはまつ教師自身朝 また尊墨会幹部として朝鮮を視察した日本女性は、日本人女教員が真に朝鮮人を理解し指導するためには、十分な朝鮮
菰に至って、教育者の責任の大なるを切実に感ずる」
⑫
まった彼等に勤労の楽しさと、尊さとを自覚させるのは、日本入の使命である。これは第㎝に、教育の力に侯つより外に仕方がない。
愛とを以て接した時、初めてほんとうの融和ができるのではなからうか。……固く閉された彼等の個性を発展させ、遊惰となってし
教へる事も、導く事もできるのではあるまいか。感服せしめるのみであったならば、いつまでも不徹底に終らなければならぬ。真と
「未開な無頼な、彼等【朝鮮人】は、導くよりもまつ第〜に、愛しなければならないと思ふ。親和を以て、彼の心服を得てこそ、
ても迎へたい。ひろい心で迎へたい」⑪
に威張りたがる。強いやうだがここが人間の弱いところ。私は朝鮮入をみてしみじみこんなことを思った。どんな優しい手をひろげ
る理由もなければ、溶しつける権利もない。同胞にはかはりない。威張るのが勝利者ではない。梢もすれば弱いもの、あはれなもの
タイラント【な鑓艮暴君】の様な心地であってはならぬ。姉さん分といった様に、やさしくそろそろと導いてやらねばならぬ。侮
196 (196)植民地朝鮮に渡ったコロニアル・ミッショナリー(朴)
手に存する事を自覚し給ひて、新領土の開拓を、唯に男子にのみ待つ事なく、進んで自ら玄海の浪を越え来給へよ。然ら 子の考えである。彼女は、「同胞姉妹よ、韓土の赤き山を青くし、荒れたる畑に水々しき苗を作る責任は、愛する諸姉の
197 (197)
最初の例は、第一章でもあげたが、日韓併合の当時、朝鮮の私立女学校の教員であった日本女子大学校卒業生の金森京
ったかについてふれる。
中にあったコロニアル・ミッショナリー意識をみてみる。最後にそのような意識を持つ日本人女教員が果した役割は何だ
を明らかにするのは難しいが、ここでは、日本人女教員が自身の役割について述べた次の三つの例を用いて、彼女たちの
意識のうちで、国家や自他から認められるものが記録に残りやすい。それゆえ日本人女教員の意識全体や時期別の変化等
子どもたちからも尊敬された「善良な」教員の姿が多い(もともと「善良な」教員が多かったかもしれないが)など、教員の
⑭
う立場を意識した意見かもしれないし、戦後の回想記・聞き取り調査(男女教員)にも、朝鮮の子どもらを愛し、朝鮮の
た日本人女教員の例は少ない。たとえ見解が述べられた場合でも、それは公教育の教員(朝鮮支配の第一線に立つ者)とい
第二章でみたように、かなりの規模の日本人女教員が朝鮮で日本人生徒や朝鮮人生徒を教えたが、自身の考えを表明し
考察する。
第二節日本人女教員自身はいかに考えたか
点は、日本女性の中である程度共感を呼んでいた。次節では、日本人女教員が自分の役割をどのように見たのかについて
要するに、日本人女教員をはじめ、朝鮮に渡る日本女性にコロニアル・ミッショナリーとしての役割が期待され、その
安定と利益に奉仕する自分の役割や立場を忘れることの出来ない人なのだ。
ないが、朝鮮人も同じように考え信じているのだろうかと、朝鮮人の本心に対する募る不安と闘いながら、決して帝国の 場を理解したのだ。コロニアル・ミッショナリーは、遅れた朝鮮人を文明へ導くことが朝鮮人のためになると信じて疑わます。これが私の大きな務めの〜
つです。そしてやがてはこれ等の小さい女の子が日空融和のために働く人になって貰ひたいと思つ
鮮人は一人もゐません。-私はこれ等
【日本人】の生徒に本当に正しい鮮人に対する態度を悟らせなければならないと思って居り
て日本人のみの教育に従って居りますが、可成大きな女学校で内地の女学校に比して遜魚のない或はそれ以上の学校でありますのに
鮮人が低いものかよくは分かりませんがいつれにしても人間らしい温情で交らねばいけないと思ひます。……私は鮮人の教育でなく
ことが多うございました。私は鮮人を知る機会もなくその外見を見たにすぎませんから、まだどれだけひどいことが行はれどれだけ
ないのです。私はその店で買ったものをたたきつけてやりたいとさへ思ったことも度々ありました。さうして暗い気持で、家に帰る
本人の鮮人に対する態度です。それは買物にいった時に知ったのでした。店の子僧までが可成立派な鮮人をも人間として待遇してみ
なほな気持を味はせられました。そして是等の子供を本当に教育せねばならぬのだと思ひました。次に心を痛めましたのは心ない日
くる鮮人の汚いノラクラな風を見てなんともいひやうのない気持ちになりました。只子供が無邪気に遊んでみるのを見ると流石にす
「汽車に体を運んで窓から外をながめますとまだまだここ【朝鮮】は内地よりも人が少いと思ひました。次に処々の山蔭から出て
え、内鮮融和のために働く人材を養成するのが自分の役割だと自覚するようになったと述べた。
日本人と朝鮮人の分離教育などの朝鮮の現実を見て、次世代の植民者である日本人生徒に朝鮮人に対する正しい態度を教
考えである。彼女は日本人女学校の教員になるため朝鮮に渡ったが、貧困層の朝鮮の子ども、日本人に差別される朝鮮人、
次の例は、一九二一年、日本女子大学校を卒業して朝鮮の大郵高等女学校(日本人学校)に赴任して間もない浅井操の
実力・忍耐を備えている人であった。
土に渡る人、その荒れ地に文明の種を撒いて苗を育てる人、その地の惨めで苦痛に陥られている人を救い出す人、献身・
の気の毒なる婦人を、苦界より救ひ出す事が出来るのであります」と言う。彼女にとって日本人女教員とは、進んで新領
⑮
ば諸姉の前には広き働きの世界が開け、献身の誠心と実力と、忍耐とだにあらば、諸姉の欲するが儘に目的を実現し、此
198 (198)槙民地朝鮮に渡ったコロニアル・ミッショナリー(朴)
京で接し(当時、彼女は東京の実践女学校で教えていた)、『婦女新聞轍に淵澤のことを回顧し、次のように述べた。「ですか
199 (199)
文科に入学、卒業後は東京文理科大学へ進み、一九三二年に文学士を取得)は、一九三六年に京城で亡くなった淵澤の計報に東
淵澤能恵の教えを受けた趙慶喜(単離女子高等普通学校卒業後、新潟県立相当高等女学校に編入。さらに東京女子高等師範学校
だったかである。それによって帝国の担い手としてのコロニアル・ミッショナリーの意義を知ることになろう。
と見なし批判するのは容易いことかもしれない。しかし、ここで考えてみたいのは、「善良な」日本人が果した役割は何
かれる思いを見ない、いや見るすべを持ち得ていない、支配者の独りよがりの、薄っぺらで通り一遍の、偽善的な意識だ 意識は、外部から襲ってきた力の両面性、すなわち文明と暴力を同時に経験しなければならない朝鮮人の困難さと引き裂
配を正当かつ肯定的に捉え、日本の教えを朝鮮人にとっての「福音」として信じて疑わなかった。その意味で、彼女らの
がない。彼女ら自身もそのような日本人を嫌悪する。もちろん、彼女らは、当時の殆んどの日本人と同様、日本の朝鮮支 から見えてくるのは、心から遅れた朝鮮人を助け、導くのを願う「善良な」日本人である。彼女らには邪悪な支配者の顔
以上の三つの例から、朝鮮に渡った日本人女教員の持ったコロニアルこ、、ッショナリi意識の一端を見た。これらの例
鮮人の聞で士暴んで迎え入れられているという。
った。進んだ人が遅れた人を教え導くのは、進んだ人の天の使命に他ならないという。その進んだ人の「善良さ」は、朝 へに参ったと云ふ考へです。今頃は日本の善政に依って喜び懐くものが田舎の隅々まで行き渡らうとして居ります」と語
⑰
に在るは報恩の心です。昔朝鮮の開けて居た時は、我が国は導かれました。今は私共が少し進んで居るから、其方法を教 と思ひます。慾得忘れて彼等娘等が、私と一処に働く気に成って呉れるのは何時の事かと、それ計り思って居ます。朝鮮 最後の例は、淑明高等女学校の創立にかかわった玉澤能恵の考えである。彼女は、「私が朝鮮へ参ったのは、天の使命
て居ります」⑯まで成長させたのだった」と記された。
⑳
をいただける』と考へ、この栄へのあこがれの小さな芽生えが、女史をして遂に朝鮮女性最初のしかも唯一人の女学士に
に対する功労によって、表彰の栄に搬はれた。これを見た趙女史は、幼な心に『女も学問をすれば、天皇陛下から御ほめ て『婦女新聞臨で報道されたが、そこで「門趙が淑明女子高等普通学校に入学した頃に】淵七型刀自は、朝鮮女子教育界
次の趙塗装の事例から分かるように、あこがれの的だったり、模範だったりした。趙慶喜は、朝鮮女性最初の文学士とし 存在しない社会的地位を得た働く女性の存在感は、朝鮮の女の子らに大きな影響を及ぼしたのだろう。例えば、彼女らは、
思う彼女らの「善良さ」(しかも、押しつけがましい態度がない)、彼女らの手にある文明の力と魅力、朝鮮女性の中には多く
る力を発揮したのはコロニアルこ・、ッショナリーの意識を持った日本人女教員だったのではなかろうか。遅れた朝鮮人を
こうして時間とともに日本の朝鮮支配は多様な意味で進行していくが、そのなかで、朝鮮女性を日本の教えに惹きつけ
はなかろうかと親たちは考えたに違いない。⑲
国の支配下で生きていかなければならないとなれば、今以上に子どもたちに必要になってくるのは日本語の能力と学歴で
鮮支配が短期間に終息しないかもしれないという不安が朝鮮人を襲った。次世代の子どもたちも親世代と変わらず日本帝 いった。また、一九三一年に勃発した満州事変は、朝鮮民衆に日本帝国の「強さ」を思い知らせた事件として、日本の朝
ていき、朝鮮知識人の中からも、実力養成論者(独立運動に先んじて独立に必要な実力の培養を主張する立場)が支持を集めて
化統治を標榜する朝鮮総督府の政策によって、朝鮮語の新聞や雑誌が出版されるようになり、学校も就学者も徐々に増え 趙慶喜は一九二〇年代前半に淑明女子高等普通学校(光淑明高等女学校)で学んだ。一九一九年の三・一独立運動後、文
と。
傍に居ると和められるやうな温い先生の御人格が、積極的になさる以上に、立派に内鮮融和に役立ってるますものねえ」⑬
ら御自分の信仰を人にすすめることもなさいませんでしたし、内方融和なども積極的にはおっしゃいませんでしたが、お
20e (20e)植民地朝鮮に渡ったコロニアル・ミッショナリー(朴)
⑤社説「朝鮮開発と婦人」『婦女新聞』第五三八号、〜九一〇年九月
年七月二四日、四頁。
④基山望月「韓国の教育と女子」噌婦女新聞㎞第二七二号、一九〇五
一日、一頁。
③社説「韓国の女子教育」門婦女新聞』第二二一号、一九〇四年八月
朝日本女性の役割論を主張した。
関して、直接的な日本女教員論ではないが、それを補うものとして在
②第一章で取り上げた日本女性たちは、誰が遅れた朝鮮を教えるかに
三〇〜四〇頁を参照。
論」『アジア教育史研究㎞アジア教育史学会、第六巻、一九九七年、 由美「『併合』前後の教育のジャーナリズムにおける朝鮮植民地教育 ①併合前後における日本の教育関係者の朝鮮教育論に関しては、佐藤
題になろう。
年、四一〜五五頁を参照。
『修学旅行㎞」噸人文科学研究㎞お茶の水女子大学、第七巻、二〇一一 から一九二〇年度まで実施された。奥田環「東京女子高等師範学校の ⑩東京女子高等師範学生有志による朝鮮・満州旅行は、〜九…六年度
201
(201)
⑨佐藤由美、前掲書を参照。
九月三日、頁。
⑧社説「在韓婦人の任務(中)」『婦女新聞』第四八六号、一九〇九年
月一四日、一頁。
⑦社説「在韓婦人の任務」『婦女新聞㎞第三八入号、〜九〇七年〜○
聞』」『婦女新聞』を読む会編、前掲書、一四五〜エハ六頁を参照。
⑥彼の女子教育論については、友野清文「近代女子教育と開婦女新
九日、一頁。
の教育をどのようにみたか)。国家の暴力による朝鮮人弾圧の問題はいかに考えたか。これらの多くの問題は今後の検討課
として見たか(自分たちの助力者としてみたか)。在朝西洋宣教師をどのように認識したか(彼らの文明観やミッションスクール
人の内面を「回心」させ、日本人として作り直すため、具体的に何をなすべきと思ったか。朝鮮人教員をどのような存在
ようとした文明という「福音」の中身は何だったか(科学的な知識だったか、マナーだったか)。自分らの教えによって朝鮮
分析をしたが、その解明のためには次のような問題をさらに検討していかねばならない。例えば、彼女たちが朝鮮に広め
以上、本稿では、史料的な限界によって、日本人女教員のコロニアル・ミッショナリー意識や役割について、断片的な
ったと言えよう。そこで皇民化は遅れた朝鮮人を日本人に作り直す、最良の導きとされたのだ。
を輝かせ、朝鮮の子どもらと親たちに、さらには日本人自身に、植民地支配の邪悪さより「善良さ」を宣べ伝えることだ
こうしたコロニアル・ミッショナリーとしての日本人女教員の役割は、植民地支配の暴力性より、文明性・近代性の光れるが、彼女らの間に広がった帝国意識を分析し、その認識こそがコロニアル・ミッショナリーとしての日本人女教員を 定的にとらえ、それに加担したかの問題が主に検証されたが、本稿では、明治末期を中心に、教育のある日本女性に限ら い自己認識を生みだした。従来には、戦前に女性運動家として名を挙げた日本女性たちは、いかに日本の植民地支配を肯
た朝鮮人)について書き記しており、その遅れた朝鮮人、とりわけ朝鮮女性を姉意識から教え導く、「帝国の女性」の新し
女らは、遅れた朝鮮・野蛮な朝鮮人(頑固で無礼で怠け者で不潔な朝鮮人、秩序意識も公共意識も国民意識も持ち得ていない遅れ
朝鮮に渡った人か、自ら朝鮮で活動した人(学校設立者・教員・ジャーナリスト)・視察に渡った人・旅行者等であった。彼
国意識を論じた。朝鮮に渡り、自身の目で見た朝鮮について書き記した日本女性は、政治家・官僚・企業下等の妻として 第一章では、日本女性は朝鮮で自ら何を見て、どのように認識したかを分析し、彼女たちの中で芽生えた朝鮮認識・帝
す帝国内部の認識や日本人女教員自身の意識を明らかにしょうとした。
本稿では、植民地朝鮮に渡った日本人女教員をコロニアル・ミッショナリーとして捉え、日本人女教員を朝鮮に送り出
おわりに
⑮金森京子、前掲書、五七頁。
一九九八年、七九〜九四頁を参照。
中心に一」『国際関係学研究㎞津田塾大学紀要委員会、第二五号、 ⑭咲本和子「『皇民化㎞政策期の在朝日本人-京城女子師範学校を
〜九工ハ年、六七〜六八頁。
⑬阿部よしお・三浦千代「三論旅行日記扁鱗櫻蔭会会報㎞第四六号、
〜五四頁。
⑫重松ムラ「鮮満の旅」噸櫻藩士会報穂第五〇号、一九一七年、五三
頁。
⑪平山壽満「鮮満の旅」『櫻蔭会会報』第五〇号、一九一七年、四七
一九三三年三月五日、九頁。
⑳「朝鮮女性最初の文学士趙慶喜女史」『婦女新聞』第一七〇八号、
二〇〇五年を参照。
⑲日本支配下における朝鮮人の心理的変化については、拙著、前掲書、
女薪聞㎞第一八六二号、一九三六年二月一六日、七頁。
⑱趙慶喜「神と人との僕-教へ子として淵澤先生を憶ふi」槻婦
一七年、九頁。
⑰淵澤能恵「朝鮮における女子教育」『聴入新報』第二四〇号、一九
日、七頁。
⑯浅井操「朝鮮より」『家庭週報』第六一九号、一九〜=年六月二五
202 (202)植民地朝鮮に渡ったコロニアル・ミッショナリー(朴)
かねばならない。
(筑波大学大学院講師)
203 (203)
ついてはもとより、帝国の形成と共に台頭した帝国の撫い余論の全般について、資料と内容の両面から幅広く究明してい
いてコロニアル・ミッショナリー論を取り上げたが、今後、帝国におけるコロニアル・ミッショナリー論の生成と展開に
とした。当時の帝国論または帝国の担い画論について、本稿では主に女性むけの週刊誌・雑誌・同窓会機関紙の資料を用 た日本帝国が備える帝国の担い手論において、日本人女教員はどのような存在として位置づけられていたかを検討しよう
を教え導くコロニアルこ・、ッショナリーとしていかに認識され、送られたかを論じた。他民族・他国家を包摂して展開し
本稿では、帝国におけるコロニアル・ミッショナリー論と日本女性の役割論に結びつけ、日本人女教員が遅れた朝鮮人
帝国の様々な教えや価値を広めようとしたのだ。
明の魅力と人の「善良さ」で朝鮮人の子どもや親たちを惹きつけ、知らず知らずの内に、場合によってはあからさまに、
ない。彼女らは、近代的学校という場で、朝鮮を後進・野蛮という罪から救いだす文明の「福音」を片手にあらわれ、文
的な制約はあるが、彼女らは、日本社会の期待において、また自己認識において、コロニアル・ミッショナリーに他なら 人女教員はどのような存在として考えられ朝鮮に送られたか、そして彼女らの意識と役割は何だったかを分析した。史料
第三章では、日本の朝鮮支配の拡大によって遅れた朝鮮・野蛮な朝鮮人を誰が教え導くかの問題が浮上する中で、日本
人女教員の影響をより強く受ける環境下に置かれていた。
て)に達した。特に、女子申等教育機関において日本入女教員数が朝鮮人女教員数を増しており、朝鮮人女子生徒は日本
校と臼本人学校の両方)に里数十人程度の日本人女教員が教えていたが、一九四三年には四五〇〇人以上(私立学校も入れ
第二章では、日本人女教員は朝鮮にどれほどいたかを明らかにした。併合前に富公立の小学校や高等女学校(朝鮮人学
生みだす土壌であり、帝国の力量であると論じた。Hokkaido continued till 1937.
Missionaries in Colonial Korea: The Case of Japanese Female Teachers by
PARK Sunmi
In this paper, 1 analyze Japanese female teachers who traveled to colonlal Korea as colonial missionaries based on viewpoint that recognizes the imperialist se面me就s that motivated宅he Japanese women who can be regarded as upholding the Japanese empire. ln section one, which deals with the period from the early 1900s to just after the annexation of Korea by Japan, 1 clarify what the Japanese women saw in Korea and how they perceived it. ln section two, 1 examine the numbers of Japanese female teachers there were in Korea at the end of the Joseon era and under the Japanese occupation. Lastly, in section three, 1 analyze how Japanese female teachers can be considered as upholding the Japanese empire when facing difficult problems, such as who would lead undeveloped Korea and teach the uncivilized people who lived there as we}1 as the consciousness of the teachers and their role in colonlal Korea.
The Proximity Principle and the Movement of Waste by
WATANABE Kohei
The generation of waste is almost inevitable in daily life as well as in commercial activities. Historically, waste was dealt with on site where it had been generated, but wlth the advent of urbaRisation and increased use of materials that are difficuJt to deai with on site, waste has come to be collected, transported, and treated at dedicated facilities. ln most of the
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