2021-04-08

「引揚げ文学」に耳を傾ける1) 朴 裕河

 「引揚げ文学」に耳を傾ける1) 朴 裕河 

1.忘れられた「引揚げ文学」

日本の敗戦後,中国大陸や朝鮮ほかからいわゆる「引揚げ」をしてきた人の数は 650 万人に 及ぶという2)

む中国地域から 100 万人,朝鮮からおよそ 70 万人が引揚げている3)

。その半分は軍人たちで,残り半分が民間人であった。そのうち旧「満洲國」を含 。この数は,短期間に共通

の体験をした人々の数としては膨大なものと言えるだろう。 しかし,戦後の日本社会において「引揚げ」のことが十分に注目されてきた形跡はあまりない。 むろん,すでに成田龍一が指摘しているように4)

,ベスト・セラーになった藤原ていの自伝的エッ

セイ『流れる星は生きている』(日比谷出版社,1949)をはじめ,引揚げ体験は手記の形式を借 りて数多く書かれ,何度かは注目されてきた。 しかし,その体験の重大さに比べて,「引揚げ」や「引揚げ物語」に関する日本の戦後の思想・ 学界における注目度は,「終戦」や「原爆」などに比べるとあきらかに低い。『流れる星は生き ている』や,引揚げ = 帰還できなかった元軍人の物語である『人間の条件』(1955)などがベス トセラーになることはあっても,「引揚げ」という集合的体験―植民地・占領地からの帰還 ―が学問的な考察の対象となることは最近まであまりなかったのである。たとえば,90 年代 以降に日本の政治・思想・運動界をゆるがした「慰安婦」問題は,現代日本社会に大きな衝撃 を与え,「戦後」がいまだ終わっていないことを明らかにしたが,同じく植民地・占領地の「被害」 体験である「引揚げ」が「内地」においてそのように受け止められることはなかった。 おそらく,戦後日本において「引揚げ」が,一般に国民の物語になりやすい「受難」物語で ありながらも原爆物語と違って日本人の「公的記憶」にならないままなのは,まずはそれが植 民者たちの物語であったことにその理由を求めることができるだろう。すなわち「加害者とし ての日本」を含む物語は,戦前とは異なるはずの「戦後日本」では受け止められる余地がなかっ たのである。

<「引揚げ」の忘却>という事態は,ひとことでいえば,「外地」からの引揚者たちが「内地」 でおかれることになった複雑な地政学的・思想的・ 情緒的配置によるものだった5)

。とりわけ強

調しておきたいことは,「引揚げ」とは,占領地や植民地との関係でのみ考えられるべきことで はなく,「本土」(=内地)との関係,さらに引揚者同士の関係をも考慮に入れてはじめてその 全容が見えてくるということである。すなわち,占領地や植民地に出かける前の「帝国日本」 との関係,帰ってきてからの「戦後日本」との関係,さらに引揚者同士の関係を総合的に捉え てはじめて「引揚げ」は理解しうる事柄なのである6)

。そして,そのような単純ならざる事態こ そが,戦後日本において「引揚げ」が忘却されるにいたった重要な動因であったと私は考える。 - 115 -立命館言語文化研究24巻 4 号

先取りして言えば,「本土」の人たちは,政策的には引揚者を迎え入れながらも,植民地・占領

地に出かけた人々に対して差別と軽蔑,哀れみのまじった複雑な感情を抱いており,そのよう

な状況の中で,「引揚げ」の経験を本土の人々が記憶化し共有する可能性はなかった。さらに,

引揚者たち自身も,さまざまな理由から,引揚げ体験を語ることに積極的ではなかった。その

意味では,「外地」の人々と「内地」の人々がともに抱えるようになったそのような心理こそが,

「引揚げ」の物語を,国民の「集合的記憶」として定着させ,国民が共有できる「国民物語」た

らしめなかったものなのだと言えるだろう。

その複雑な関係のすべてをここで提示することはできないが,本稿は,とりあえず,このよ

うな事態の中でやはり忘却されたに等しい「引揚げ文学」について,今日的な眼から,おおま

かなスケッチを試みるものである。

「引揚げ」に対する無関心は,文壇・文学界においても例外ではなく,「引揚げ」との関係で

考えるべき作品が少なからず存在するにもかかわらず,戦後日本の文壇や学界は引揚者による

文学に大きな関心は払ってこなかった。

たとえば 後藤明生をはじめ,日野啓三などは,戦後・現代の文壇において高い評価を受けた

作家たちではあるが,彼らを「引揚げ」とのかかわりで考える試みはあまり見られない。現在

流通している膨大な数の文学史や文学事典,そして研究書の類の中にも「引揚げ」の項目は皆

無で,そのことも戦後日本文学の中で「引揚げ文学」が軽んじられてきたことを証明していよう。

もっとも,引揚げ体験や植民地・占領地での生活を題材とした詩・小説が多くあらわれた

1970 年代後半までは,引揚げてきた作家たちの表現や問いかけの意味に対しては,わずかなが

らも注目が向けられていた。同時代の選評や座談などには「引揚げ」という言葉がたびたび登

場し,彼らの植民地・占領地体験に関して真摯な関心を寄せる空気があったことが確認される

のである。

たとえば,尾崎秀樹は,五木寛之の「外地引揚派の発想」という文章に注目して,清岡卓行

や生島治郎,梶山季之などに触れながら次のように述べている。

ではなぜ今日,このような時点で,「外地引揚派の発想」が問題にされるようになったのか。

これは一つに昭和一ケタ世代が,やっとその文学的な発言の場をもちはじめたということ

であり,さらにいうならば既成の文壇文学に対する新しいバイアスを,そこに求めようと

する読者の要求と交錯するところから生れた声だといえよう。(尾崎秀樹『旧植民地文学研

究』勁草書房,1971・6,327頁 )

尾崎は引揚げ文学にきちんとコミットできた数少ない批評家の一人であったが,それも,お

そらくは彼自身が台湾からの引揚者だったことに関係しているだろう。

1979 年の雑誌記事「特別企画インタビュールポルタージュ日本の “ カミュ ” たち」(『諸君!』

1979・7)も,「引揚げ」に対する当時の関心の伝わってくる企画である。これは,記者でもあっ

た評論家本田靖春が,映画・漫画・文学分野における「旧植民地育ちの引揚者」16 人を「イン

タビューし,まとめた」ものである。この企画でインタビュアを務めている本田靖春も「やは

- 116 -「引揚げ文学」に耳を傾ける(朴)

り植民地で生まれた」(本田,同) 評論家であった。

この企画は副題が「「引揚げ体験」から作家たちは生れた」となっていて,引揚げ体験が「作家」

などの表現者の誕生と不可分の関係にあると強く意識されていたことが示されている。本田は

ここで(彼らが表現者になったことを)「偶然ということは出来ない。おそらくは,一人一人の

深部に引揚げ体験が重苦しくわだかまっているのではないか。そして,各自の表現は,取りも

直さず,その「後遺症」であるに違いない」7)

としている 。先の尾崎同様,本田も「引揚派作

家と呼ばれる人たちがいる」と書いており,当時は「引揚げ派」という概念で一定数の作家た

ちが括られていたことがここからも分かるのである。

しかし,以後,このような尾崎や本田の関心が受け継がれることはなかった。つまり,彼ら

を旧植民地からの引揚者とみなして「日本の “ カミュ ”」と呼ぼうとする認識が戦後日本社会に

根付くことはなく,彼らの植民地・占領地体験は,たとえ触れられるにしても「戦争」の枠組

みの中で論じられるにとどまることになるのである。

先の尾崎秀樹の言葉を借りれば,引揚げ文学は「日本文学史のなかでは,まま子」8)

のよう

なものとして扱われていたが,そこには「日本は,敗戦後二十数年を経た今でも,まだ旧植民

地問題についての精神的な決算書をまとめてはいない」と認識される程度には,転機の訪れる

可能性は見出されていた。ところが,戦後日本において「アジアの中の日本の位置を,旧植民

地という分光器にかけてとらえなおす必要は,文学の場合にかぎらず重要なこと」9)

だったに

もかかわらず,そのような尾崎の認識が,広く,重く受け止められることはついになかったの

である 10)

とはいえ,本稿は,「植民地」体験の忘却とその背景にある意識を指摘し,そのことを戦後日

本の限界として指摘することを目標にしているわけではない。

「引揚げ」は,決して一様には語れない,多様で複雑な体験であった 11)

。五木寛之や宮尾登美

子のように「書く」までに長い時間がかかった作家がいたのは,その体験のつらさと複雑さを

物語るものにほかならない 12)

。重要なのは,そのような「遅延」と「忘却」を認識し,その背

景を考察し,さらに,忘れられた「引揚げ文学」の声を今一度聞くことであろう。本稿は,む

しろその可能性を探るための試みである。

このような問題意識に基づいて本稿ではまず,日本の戦後文学に植民地・占領地体験とその

後の引揚げの体験を素材とした表現者たちの試みを「引揚げ文学」と命名し,その概略につい

て整理しておきたい 13)

対象としては,明治以降,朝鮮や中国などへ渡っていった日本人の子供として生まれ育ったか,

幼少期に親とともに渡っていって,青年期の前後までをそこで過ごし,敗戦後に戻ってきた人

たちを中心としている。

「外地」に渡った日本人たちは,子弟が上級学校に進学する頃になると,彼らを「内地」へ送っ

ていた。そのような子弟たちは,学校卒業後ふたたび占領地・植民地に戻るか「内地」に残る

かの選択をすることになるが,いずれにしても家族はそのまま「外地」に残る場合がほとんど

であった。すなわち作家本人が「引揚げ」を経験していなくても「家族の引揚げ」を経験して

いるケースは少なくない。あるいは家族の安否を案じていったん戻った後に同じ引揚げを体験

する場合もあった。

- 117 -立命館言語文化研究24巻 4 号

「引揚げ」関連手記や文学作品をひもといてまず気づくのは,作品の中の物語が,「日本」と

いう主体の統合化に微細ながら決定的な亀裂を入れていることである。つまり,そこでは植民

地の日常の記憶や,戦後日本への違和感とともに,植民地から持ち帰った言葉や文化の「混交」

の現場も語られていて,植民地・占領地返還後の「日本」が決して単一の言葉・文化・血統を

共有する「単一民族国家」ではあり得なかったことが,そこからは見えてくるのである。

たとえば彼らは雑煮に納豆をまぶした「植民地雑煮」を食し(後藤明生『夢かたり』),「お袋

の味とは餃子」というような日常を生きていた。植民地で身に付けた食文化を維持していたの

であり,それは少なくとも当事者たちの代では続いていたのである。さらに,「標準語」であり

ながらさまざまな国の人々が使う型破りな日本語に加え,植民地の言葉をさえ含んでしまった,

いわば「汚染」された「植民地日本語」(後藤明生)を話す存在でもあった。何よりも,「内鮮

一体」や「五族協和」のキャッチフレーズのもと行われた日朝・日中結婚の結果としての混血

児たちの存在も,そこには見え隠れしている。目立たないながらも,そのような光景を描く「引

揚げ文学」が,「まま子」(尾崎)扱いを受けたのはある意味では当然と言うべきだろう。

植民地・引揚げ体験を書いた作家たちがそれなりの評価を受けながらも,その作品を「帝国

日本」とのつながりで考えるような動きがこれまであまりなかったのは,そのような言葉・文化・

血の「混血性」が絶えずあぶり出されるジャンルとして,それらが成立してしまっていたから

かもしれない。「引揚げ文学」は,「引揚げ」そのものの悲惨な記憶を忘却せんとする欲望に加

えて,「帝国」政策の結果としての混血性を露わにし,新しいはずの「戦後日本」がほかならぬ「帝

国後日本」でしかなかったことをつきつける存在でもあったのである。

2.「少年・少女」たちの引揚げ文学

先の本田のインタビューは,昭和 3 年から昭和 12 年までの生まれの人にその対象をしぼって

いる。すなわち「敗戦・引揚げ体験をもろにかぶったに違いない,昭和一桁組」の詩人や作家,

漫画家たちで,そのような体験が彼らの作品に様々な形で影を落としている点では,本田の人

選はまことに的を射ていた。

本田は,その「敗戦・引揚げ体験」が彼らの「少年期」であったことにあえて触れてはいな

いが,本稿で彼らのことにとりわけ注目する理由は,彼らが自らの意志とは関係なく植民地で

生まれ育った少年や少女であったということ,つまり自らの意志とは関係なく,占領地・ 植民

地に身をおかれ,かかわってしまったという,その微妙な「位置」にある。当然ながら,彼ら

の意識は自らの意志でかの地にやってきた親の世代(もっとも,「自らの意志」とは言っても,

その多くは家庭・社会構造が強いたものだった。注 11 論文参照)とは,かなり異なった様相を

示している。つまり,彼らにとっては良くも悪くも占領地や植民地が「故郷」14)

だったのであり,

彼らの感受性は,程度は異なっていても植民地の風景や人々によって培われたものでもあった。

しかも,たとえば同じく植民地で育った兄弟の中でも,上級学校進学のために敗戦前に「内地」

に帰っていった年上の兄や姉たちともその思いは異なっていた。たとえば後藤明生は作品の中

で, 母親や兄にとって帰国とは故国へ「帰る」ことを意味したが,自分にとっては「連れてこら

れた」(『夢かたり』ほか)ことになるとしている。つまり,植民地体験と「引揚げ」は,たが

- 118 -「引揚げ文学」に耳を傾ける(朴)

いに重なる部分を有しながらも,場所や年齢や環境によって,当事者ひとりひとりの思いには

大きな差があったのである。

周知のとおり,「引揚げ」は植民地化された「満州」や朝鮮半島・台湾だけでなく,東南アジ

アや太平洋諸島からも行われた。しかし本稿では,とりあえずその数がもっとも多かった台湾

と朝鮮半島,そして旧満州地域のみを対象とする。

なお,在日朝鮮人の引揚者(サハリンから)として李恢成がいるように,「引揚げ」とは,単

に日本人に限った事柄ではなかった。日本人の移動に押しあげられるような形で多くの朝鮮人

たちも満州などに数多く移動しており,彼らの出身地への帰国もまた,日本人の引揚げととも

に行われたのである。そういう意味では彼らの引揚げやその文学も,「引揚げ」を考える際には

合わせて考察されるべきであろう。しかし,ここではとりあえず日本人を中心にその概略を示

しておくことにする。

尾崎秀樹『旧植民地文学の研究』と同じ 1971 年に出た「引揚者 100 人の告白」(『潮』142号,

1971・8)というインタビュー記事には, 新田次郎,藤原てい,宇能鴻一郎以外にも,楳本捨三,

宮本元,島田一男,原田統吉,潮壮介,大牟羅良,樫原一郎,中園英助,椿八郎,森田雄蔵な

どが作家や評論家として登場している。知名度が高くない文学者のなかにも引揚者は少なから

ずいたのである。このような文学者たちを対象とする調査・研究も必要と思われるが,本稿で

はある程度知名度を得た詩人・作家だけを対象とした。

最初に,占領地・植民地で幼少期・青少年期の大半を過ごした作家たちの名前とともに,生

年と出身地,占領地・植民地における最終学校,敗戦時の年齢あるいはいた場所を推定しうる

学校などを,年齢の順に記しておく。

埴谷雄高(1909,台湾・新竹生まれ・敗戦前の小学校 5 年の時本土へ帰国),湯浅克衛(1910,

幼少時に朝鮮・水原。京城中学),森敦(1912,幼少時に朝鮮・京城。京城中学),五味川純平(1916,

中国・大連生まれ。大連中学), 古山高麗雄(1920,朝鮮・新義州生まれ。新義州中学),清岡卓

行(1922,中国・大連生まれ。 大連第一中学), 村松武司(1924,朝鮮・京城生まれ。青州師範

学校),安部公房(1925,幼少期に中国・奉天。奉天第二中学), 小林勝(1927,朝鮮・晋州生ま

れ。大邱中学四年の時陸軍予科士官学校に入学),森崎和江(1927,朝鮮・大邱生まれ。金泉高

等女学校),日野啓三(1929,幼少時に朝鮮・大邱。後に京城・龍山中学),澤地久枝(1930,

幼少期に旧満州・吉林),梶山季之(1930,朝鮮・京城生まれ。京城中学),林青梧(1930,朝鮮・

平壌生まれ),富島健夫(1931,朝鮮・京城生まれ),後藤明生(1932,朝鮮・永興生まれ。元

山中学),五木寛之(1932,幼少期に朝鮮・論山。平壌中学),生島治郎(1933,中国・上海生

まれ),池田満寿夫(1934,中国・奉天生まれ。長家口),宇能鴻一郎(1934,中国・奉天生まれ),

三木卓(1935, 幼少期に大連,新京),大藪春彦(1935,朝鮮・京城生まれ,新義州小学校 15)

天沢退二郎(1936,幼少期に「満州」16)

),

),別役実(1937,中国・新京生まれ),なかにし礼(1938,

中国・牡丹江生まれ)。

このほかに評論家として 尾崎秀樹(1928,台湾・台北生まれ。台湾帝国大学付属医学専門部

中退),山崎正和(1934,幼少時に中国・奉天),そしてノンフィクション作家として本田靖春(1933,

朝鮮・京城生まれ)がいる。名前が広く知られるには至らなかったが,林青梧は芥川賞や直木

- 119 -立命館言語文化研究24巻 4 号

賞の候補に何度もあがっていた作家だった。1930 年生まれの林京子も生まれてまもない頃上海

に移り住み,1945年敗戦直前に内地の学校に編入学している。彼女の場合,いわゆる「引揚げ」

は体験していないが,彼女もまたまぎれもない「帝国の子供たち」には違いないので,事件と

しての「引揚げ」は経験していなくてもその原爆体験と植民地体験を重ねて考える必要もある

と思われる。

さらにドラマ作家だが現存する作家として橋田壽賀子(1925,朝鮮・京城生まれ)も記憶に

とどめるべきであろう。

中島敦,宮尾登美子,木山捷平,新田次郎,辻亮一,有吉佐和子も朝鮮や「満州」や「東イ

ンド」を体験しているが,大人になってからの体験だったり,数年間の滞在だけで敗戦前に帰っ

てきたケースであり,本稿の考察の関心とはずれるのでここでは触れない。

植民地・占領地で育った作家のうち,湯浅克衛,森敦は敗戦前に本土に帰って成人になった

世代として作品活動を開始しているが,ここにあげた文学者たちのほとんどは成人になった戦

後に活動を始めている。以下,その文壇デビュー時の活動を簡単に整理しておこう。

埴谷雄高は,敗戦直後の 1946 年に平野謙や荒正人とともに『近代文学』を創刊し,同じ年に 『死

霊』を連載しはじめた。安部公房は 1947 年に『無名詩集』を自費出版し,1948年に満州体験を

背景においた『終りし道の標べに』を出している。五味川純平は 39 才になった 1955 年に 『人間

の条件』を出してベストセラー作家となった。梶山季之は 1952 年に朝鮮における創氏改名の問

題を扱った「族譜」を含む作品集を自費出版し,小林勝は「フォード・一九二七」(1956)で芥

川賞候補になっている。森崎和江は,1958年に筑豊の炭坑町で谷川雁らと文芸誌『サークル村』

を創刊して活動した。林青梧は,1958 年に敗戦直後の緊迫した状況を描いた「第七車両」で芥

川賞を受賞している。江戸川乱歩の推薦で作品を雑誌に掲載したこともある大藪春彦は,1958

年にいわゆる「伊達邦彦シリーズ」の連載を始めるようになる。

こうしてみると,「引揚者」の文学は戦後の早い時期から出されていて,中でも五味川純平,

梶山季之,林青梧,そして小林勝はすでに 50 年代に占領地・植民地・引揚げ体験を作品化して

いたことが分かる。

しかし,植民地・占領地で少年時代を過ごした人々による作品群が集中的に出て評価もされ

るようになるのは,1960年代以降だった。

というのも,1963 年には別役実が『マッチ売りの少女』で岸田國士戯曲賞を受賞し,1964 年

にデビューした生島治郎は 1967 年に『追いつめる』で直木賞を受賞している。村松武司は 1965

年に 『朝鮮海峡』を出し,以後次々と朝鮮関連の詩集やエッセイを出すようになっていた。五木

寛之も,1966 年に「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞を受賞し, 1967 年に「蒼ざめた

馬を見よ」で直木賞を受賞している。この作品は,後述するように,引揚げ体験を目立たない

形で挿入している作品でもあった。後藤明生は 1967 年に「人間の病気」で第 59 回芥川賞候補

になり,以後二回候補となっている。

1970 年には古山高麗雄が「プレオ- 8 の夜明け」で,同じ年に清岡卓行が「アカシアの大連」

で,ともに芥川賞を受賞している。 サハリンからの引揚者,李恢成が サハリンを舞台とした「砧

を打つ女」で 芥川賞を受賞したのも 1971 年のことだった。ただし,李は朝鮮人であり,「国籍

国家への帰還」という意味での「引揚げ」には該当しないので,ここでは省いておく。

- 120 -「引揚げ文学」に耳を傾ける(朴)

翌 1972 年には,日野啓三が引揚げ前後の朝鮮での体験を書いた小説集『還れぬ旅』を刊行し,

1974 年に『彼岸の家』で平林たい子賞を,1975 年に「あの夕日」で芥川賞を受賞している。す

でに 1967 年に詩集『東京午前三時』 でH 氏賞を受賞していた三木卓は,1969年に,はじめての

長編として児童向けの『滅びた国への旅』を出し,1973 年に,のちに『砲撃の後で』に収めら

れる小説「鶸」で 芥川賞を受賞した。1974年には,彼らよりはるかに年長である森敦までがこ

の年に芥川賞を受賞しているのである。画家としての美術活動を 50 年代後半からはじめていた

池田満寿夫も,1977 年に「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞を受賞している。早くに作品活動を始め

ていた安部公房も,戦後 20 年になる 1965 年に,引揚げ体験を本格的に扱った作品『けものた

ちは故郷を目指す』を出している。

評論家の尾崎秀樹も 1963 年に評論集『近代文学の傷痕』の中で植民地文学の問題を考察し,「引

揚げ文学」関連研究書では最初のものとなった。同じ年に山崎正和は『世阿弥』で岸田國士戯

曲賞を受賞し,本田靖春は『私のなかの朝鮮人』を 1974 年に出している。そしてその 5 年後の

1979 年に,本田は先のインタビューでインタビュアをつとめることになるのである。

こうしてみると,植民地出身の「青少年」たちの活躍はある意味では戦後絶え間なく続いて

いたと言えるだろう。わけても,1960年代半ばから 70 年代の半ばまでのおよそ十年の間に,占

領地・植民地出身の人々が次々と登場し,評価も受けていたことが分かる。先の李恢成を含め,

受賞にはいたらなかったが,この時期に在日作家の金石範,金鶴泳も何度か芥川賞候補にあがっ

ていることを考え合わせると,引揚げ作家と在日作家の登場の時期はほぼ一致していたとも言

える。

とはいえ,文壇は,彼らが引揚者であることに特に注目していたわけではない。村松武司は

日韓基本条約が結ばれた 1965 年に『コロンの碑』などの詩集を出して,元植民地と新たな関係

を結ぶにあたっての複雑な心境を描いていたが,そのような作品はほとんど注目されなかった。

評価された作家たちにしても,必ずしも「帝国」やその終焉とのかかわりにおいて論じられた

わけではない。たとえば後藤明生が「内向の世代」とくくられていたことが示すように,彼ら

を「歴史」の中において考える試みはむしろ希薄だったと見るべきだろう 17)

。引揚げ文学が提

示した政治的意味と問題がきちんと受け止められることはなく,逆に「政治に無関心な世代の

登場」といった枠組みでのみ捉えられていたのである。

その後もこの枠組みは変わらず,たとえば日野啓三の作品を語る際には「廃墟」(川本三郎に

よる「解説」,『昭和文学全集〔30〕』小学館,1988),後藤明生については「笑い」(三浦雅士に

よる「解説」,同上)がその特徴として挙げられている。そのような捉え方は間違ってはいない

にしても,結果としては引揚者としての体験を無化するものとして働き,その後の「忘却」に

一助をなしたと言える。日本の「戦後文学」は,帝国の申し子たちが残した文学をその歴史的

意味合いにおいて正面から受け止め,考察の対象としようとはしなかったのである。

もっとも,引揚げてきた作家が必ずしもその体験を書いていたわけではない。たとえば埴谷

雄高は大岡昇平との対談で次のように語っている。

「(台湾で)最高に悪いやつは日本人である,日本人である事はとても耐え難いこと」

「そのためにあなたみたいに日本そのものを描く気になれなくなってしまった。僕は妄想

- 121 -立命館言語文化研究24巻 4 号

と言っているけど,最高に美化した日本人だけを書こうとしているわけなんだ」(『埴谷雄

高作品集〔15〕』河出書房新社,1981)

この発言は,植民地から帰ってきて作家になった人たちのすべてがその体験を書くわけでは

なかったことを教えてくれる。さらに,書かないことが必ずしも植民地問題に関心がなかった

ことを示すわけでもない。そういう意味で,引揚者による文学は,体験も多様であれば表現の

あり方も様々であった。

3.引揚げ文学者の体験と意識

すでに知られているとおり,引揚者の中でも旧満州地域と朝鮮の北側にいた人たちは,突然

ソ連が参戦してきたため,他の地域の引揚者にくらべて遥かに凄惨な体験を余儀なくされた。

彼らは,米軍によって日本人保護対策が設けられた朝鮮の南部とは異なって,暴力や強姦, 飢え,

伝染病,酷寒, 集団自殺などの極限状況を経験し,そのさなかで多くの人が命を落とすことにな

る 18)

。朝鮮の平壌から引揚げた五木寛之が,1970 年,三島由紀夫の死に際して「私は質の死に

あまり関心がなく,敗戦のあの時点から引揚げの過程で見た量の死にずっと関心を持ち続けて

きた」(「作家の日記」)と語っているのは,その凄惨さを語ってあまりある。

たとえば五味川純平は 1943 年に満州で現地召集され,ソ連軍と交戦し,部隊の壊滅状態の中

で生き残った体験をしている。敗戦を 29 才で迎えるが引揚げてきたのはそれから三年後のこと

だった。 古山高麗雄は,1942 年に召集されて,1943年からビルマ,雲南省などで戦闘を経験す

るが,捕虜収容所の仕事をしたために敗戦後は戦犯容疑者としてサイゴン刑務所に送られ,

1947 年に日本人収容所に移される体験をしている。安部公房も,奉天(現・瀋陽)に帰省して

いた際終戦を迎え,医者だった父親を伝染病で失っている。(五木寛之や後藤明生など,引揚げ

文学者の多くは,一般の引揚者の多くがそうだったように敗戦直後に肉親の死を経験している。)

清岡卓行は進学のために敗戦前に「内地」に戻って第一高校と東大に入学していたが,敗戦

の年(22才)に大連に帰省して敗戦直後の貧乏生活を経験した末,舞鶴に引揚げている。日野

啓三は 38 度線以南の京城(現・ソウル)にいたため満州や北朝鮮ほどの厳しさは経験していな

いが,父の郷里の広島に引揚げてから山畠を耕すような体験をしている。後藤明生は,北朝鮮

の元山中学 1 年の時に敗戦を迎え,引揚げの途中,祖母と父を伝染病で亡くし,自らの手で埋

めた経験をしている。さらに母や妹たちとともに,夜の38度線を歩いての逃避行も経験している。

「量の死」発言をした五木寛之は,突然ソ連軍が家に侵入し,病気の母親を床ごと庭に投げつけ

られ,その際無力だった父親を生涯許せずに不和を通した(『運命の足音』41 頁)。その後母親

は死に,わずか 13 才の五木少年は,母親をリヤカーに乗せて共同墓地へ運んでもいる。さらに

引揚げの際,日本人の「赤ん坊を引き取ってくれる相手を探し」,「朝鮮人のおばさんに,その

話をもちかけた」(同,47-48 頁)ともいう。大藪春彦は,引揚げの際,「暴力」を目にし,1946

年に闇船で引揚げた。そのような暴力体験は,後に大藪の小説の主調音ともなるのである。

三木卓は,10才のときに新京(現・長春)で敗戦を迎え,空き家で暮らしながら街頭でタバ

コ売りをする体験を持ち,この間やはり父親と祖母を亡くしている。なかにし礼も,敗戦直後

- 122 -「引揚げ文学」に耳を傾ける(朴)

に父親を亡くし「死体を山積みにしたトラックに積み込まれ,ハルビンの郊外へ運び去られて

しまった」体験をしている 19)

。別役実は,8 才のとき,新京(現・長春)でソ連軍占領下の飢

えや恐怖を経験,父親を亡くした。1946 年に母や兄弟たちとともに引揚げたものの,高校卒業

まで全国を転々するような体験をしている。なお,評論家の山崎正和も 1946 年に奉天で父親を

亡くしている。

このように,植民地・占領地の少年・青年たちは,貧困,肉親の死,逃亡,飢えなど,多く

の引揚者たちが経験したことを同じく経験していた。そのような苛酷な経験を彼らが自らの「原

体験」20)

とするのは不思議ではないだろう。

そのような「原体験」を持つ「明太の子」21)

から出会った「祖国」における「内地」体験や認識はきわめて複雑なものだった 22)

劣等感と優越感の入り混じったものであり,以後彼らは日本における「異邦人」23)

(= 朝鮮生まれの朝鮮育ち)たちが日本に帰って

。それは,

としての自

己認識を育てて行くことになるのである。

彼らが帰国後に最初に感じたのは,それまで観念的に注入されてきた「祖国」の,想像と期

待とは違っていた,失望のまじった驚き,それにともなう優越感であった。

ところが,われわれは裏切られたのである。最初の驚きは,朝鮮人のように働く日本人が

いるということであった。〔中略〕日本人も他人のものを盗む―この驚きは大きな衝撃で

あった。(本田靖春)24)

帰って来ていちばん驚いたのは,日本にも労働者がいるんだと。(尾崎秀樹)

上陸したときだって,おれ,日本はずい分汚ねえところだなっていう印象しかないもの,

まずトイレがひどいよね。水洗じゃないんだから。おれ,汲取り式なんていうの,想像も

してなかったからね。(生島治郎)

転入したのが世田谷の中学校だったせいで,ひどく遅れたところへやって来たという,か

なり大きな落胆があった。(略)京城の私の卒業した小学校でさえ,堂々たる鉄筋コンクリー

トの三階建てだったのである。(略)地つきの家庭の子弟たちは,風貌からしていかにも野

(傍点引用者),すでに多くの人たちによって語られている閉鎖性を露骨に私に対

0

暮ったく

0000

して示した。(本田靖春)

それまで 「手を汚す仕事はもっぱら朝鮮人」(本田靖春)であるような環境で育った少年たち

が「水道も電灯もな」い 25)田舎に引揚げて来て,「植民地育ちの特有の優越感」26)

を覚えたの

はむしろ自然なことであった。彼らが住んでいた植民地や占領地は,近代実験的な経営の結果

として本土より文明化された設備を備えていたのである。植民地の少年たちは,「内地」=「本土」

への同化意識を強化するような教育を受けていたので(たとえば,朝鮮では本籍地の住所を暗

誦することが,中学の入試問題にもなっており,教科書に載っている伊勢神社,富士山などは「外

地」の人間でも同じく「日本人」であるとの意識を植え付けるには欠かせない教育材料であった。

- 123 -立命館言語文化研究24巻 4 号

後藤明生や小林勝の作品はそのようなことにたびたび触れている),いまだ見ぬ「内地」に対し

ては強い憧れを持っていた。そこで日本の豊かな木々に驚き,愛国心をかき立てられながらも,

失望もまた大きかったのである。

しかし,まもなくそのような優越感は劣等感に変わる。

植民地生まれには内地に対する強い憧れがあって,イマジネーションの世界は純化される

一方である。

実際の生活面でも日本人は一段と高いところにいて,手を汚す仕事はもっぱら朝鮮人がす

ることになっていた。つまりは支配者である。だが,そういうわれわれの上位に,別の人

種がいる。それが内地の人たちであった。(本田靖春)

ぼくらが学校へ入って行くと,日本は食う物ないのに,お前らまで帰って来た,とほかの

子供にダイレクトにいわれるわけですね。そうすると,あ,本当にすまないな,という感

じはするわけです。(三木卓)

このように,600万人以上の人々が一斉に帰国してきたことを本土の人たちから「ムダめし食

いの連中が帰ってきた 」27)

た。

と受け止められたことに気づき,引揚者たちは深く傷つくことになっ

しかも,そのような差別は, 単に貧乏という要因のみに向けられていたのではなかった。引揚

者たちが使用していた「言葉」もまた,彼らの異質性を際立たせ,本土の均質性に亀裂を入れ

るものとして差別の対象となっていたのである。

〔新潟に行って〕そうしたら言葉が通じなくて,朝鮮人,朝鮮人っていうわけですよ。関西

弁ですからね。(赤塚不二夫)

地方から出て行った人が多かった親世代と違って,引揚者・子供の世代はいわゆる「植民地

標準語」(後藤明生)で教育されていた。しかも,教科書は標準語でも,親たちの方言と学校で

の標準語,さらに植民地の人々やそこに来ていた他民族が使うピジン的日本語と植民地言語の

中で,彼らは「どうも日本語に自信がない」(後藤明生『夢かたり』)状況で育ってもいた。父

親を「おとうさま」と呼ぶような奇妙に上品な「標準語」(=植民地弁)の日常を生きた引揚者

少年・少女の多くは,そのことによっても差別されていたのである。

そのことは,「おれが喋ることが通じない人間がいるのが当り前だと思っている世界と,そん

なのいるはずないと思っている世界とは,かなり違う」との認識を作り出し,わけてもそのよ

うな閉鎖性が強かった日本社会や田舎の閉鎖性を強く意識する心情をも育てていた。

大藪春彦は,「青空闇市場へ行ってかっぱらっちゃ,捕まったときには殴られ」たという体験

を語りながら,「ところが日本へ帰ってみると,それどころじゃない」,「言葉がだいたい違」う

世界で「転校するごとにチェーンで殴られ」たと書いている。「そのうちこっちもドス持って。

最初にいっぱつやっておかないとやられますからね。ほんとに血まみれで闘って,やっと生き

- 124 -「引揚げ文学」に耳を傾ける(朴)

延びました」と言う。日本社会の差別と暴力が引揚者少年たちの暴力性をも育てていったこと

が分かるのである。

「方言が物凄く強い」田舎で「お前のいうことは分からない―それでずい分いじめられた」

とする,漫画家,赤塚の言葉は,戦後日本において,「田舎」といえども「内地」人としての中

心意識を共有しており,その上での周辺部差別,つまり外地差別や引揚者差別があったことを

教えてくれる。しかも,植民地・占領地の都市部の多くが本土の田舎より文明化されていたこ

とを考え合わせると,このような差別の構造のねじれも見えてくる。すなわち,植民地に対す

る帝国の差別意識は「文明化」された側としての優越感に支えられていたにもかかわらず,そ

のような差別構造が,「内地人」と引揚者の間で必ずしも成立していなかったことが分かるので

ある。そこでは文明度よりも定住者としての権力が発動され,引揚者たちは都会・田舎といっ

たそれまでの差別構造を超えたところで差別されていた。引揚者の成績が「上位」(後藤明生)だっ

たことも,占領地・植民地の文明度を暗に示すものだったが,それは引揚者たちのひそかな優

越感を支えはしても彼らの居場所を作るほどの効はなさなかった。そこで彼らは「わざと負ける」

(同)ような屈折した選択を繰り返しつつ,「本土」の人々に表面的に同化しながら戦後日本を

生きていくことになる。

引揚者が差別された原因については別稿でも述べたが 28)

,目立つ原因のひとつとして彼らの

貧困をあげておくことができる。 引揚者のほとんどは,それまで築いてきた地位と財産,さら

に家族を含む「人」的財産をすべて失い,結果として総体的「貧困」に陥った。彼らの多くは,

近代日本の国策としての「海外移住」政策に乗せられて国外へ追われていった貧しい人々だっ

たが 29)

,戻ってきた後も依然として貧乏で,物資の足りない戦後日本ではお荷物な「余計もの」

でしかなかったのである。

そこで引揚少年や少女たちは ,支配者であり,世界と呼吸する ‘ 文明 ’ 都市出身者としての誇

りや優越感を胸に抱きながらも,帰ってきた「祖国」としての「戦後日本」では,「適応不全意識」

(本田靖春)と言われるような劣等感に悩まされることになる。長い歳月を,「心の底の泥」(日

野啓三『彼岸の家』,83 頁)の中で,時として「リューマチ」(森崎和江『こだまひびく山河の

中へ―韓国紀行八十五年春』,朝日新聞社,1986,8 頁)のような痛みを鋭く感じる身体をか

かえつつ,戦後日本を生きてきたのである。

4.「記憶」の抑圧と封印

植民地・占領地体験を伴う引揚げ体験は,必ずしも簡単に語り得る体験ではなかった。むろん,

手記などが膨大に存在することは確かだが,だからと言ってそのようなもののすべてが語るべ

きことがらをすべて語っているとは言えない。なんらかの言葉を紡ぎながらも,いざ話すべき,

話したいことは語られてないこともありうるからである。

たとえば,以下の一文はそのことをめぐる心理的抑制の存在を気づかせてくれる。

私は礼をいうと,そのまま待合室を通り抜けて,駅前の様子を一渡り眺めました。駅員の

教えてくれた橋は見えませんでしたが,駅前はタクシー乗り場とバス停を兼ねた広場になっ

- 125 -立命館言語文化研究24巻 4 号

ており,目の前にまっすぐ広い道路が走っています。その道路を行けば,多分橋につき当

たるのでしょう。広島に原子爆弾が落とされたことは,お父さんもご存知でしょう?もっ

とも当時は特殊爆弾とかいわれていたようですが,現在広島の人たちは原子爆弾のことを

「あれ」と呼んでいるそうです。横川付近が果たしてその原爆の被爆地であったのかどうか

さえ知らない私にも,その気持ちだけはわかるような気がします。原爆は現在では世界と

0000000000

か人類とかの問題として議論されておりますが

000000000000000000000

もの

00

「あれ,

00

」としか名付けたくないものは

0000000000000

,誰にでも

0000

,ある

00

,「あれ

00

」としか呼びようのない

0000000000

(傍点引用者)だろうからです。原爆を「あ

れ」と呼んでいる人たちの気持ちが私にもわかるような気がするというのは,そういった

意味です。お父さんにも「あれ」がありますか?それとももう「あれ」などというものは

お父さんとは縁無きものなのでしょうか? (後藤明生「父への手紙」『思い川』講談社,

1975)

「あれ」という言葉は,具体的な表現を拒んでいる。ここで言われる「あれ」が植民地体験全

体ではなく事件としての「引揚げ」を指していることはあきらかである。そして,引揚げの際

に見聞きしたこと,恐怖,悲しみ,寂しさ,絶望,さらにそれらをめぐる醜悪な欲望の模様は,

語りえない,語ること自体が苦痛な体験だったとも言えるだろう。そうである限り,当事者た

ちにとっては口にすることさえ躊躇されることが「世界とか人類とかの問題として議論」され

ることに抵抗を感じたとしても当然だ。しかしそのことは,逆に「あれ」が,そんなふうに単

純に語られるようなことではなく,そしてたとえ語ろうにも,それがかえって自己と周辺の抑

制や抑圧を意識させてしまうような体験だったことを教えてくれるのである。

たとえば,五木寛之が直木賞を取った小説「蒼ざめた馬を見よ」(『別冊文芸春秋』第 98 号,

1966・11)は,そのような,語ることの不・可能性について考えさせるテキストとしても興味

深い。

「―あれは,何の音だ」

「誰かが階段のバケツをけとばしたのよ。一階まで落ちて行ったらしいわ」

鷹野は大きな息をついた。そして,起ち上がると,テーブルの上のブランデーをコップに

半分ほどついで,一息にあおった。

椅子に腰をおろし,もう一杯ついだ。オリガは床に寝転んだまま,そんな鷹野をじっとみ

つめていた。

「あの音は嫌いなんだ」

と鷹野は言った。「バケツを叩く音を聞くと,たまらなくなる。いやなことを思い出すんでね。

変な話だが」

鷹野はそれを振りはらうように,顔を反らしてコップをあおった。だが,やはり駄目だった。

<焼き日ですよう>

とあのいまわしい声

000000

を叩く音から

000000

だが

00

(原文傍点)が,ふっときこえた。彼は

00

,いまだに逃れられないでいた

0000000000000

,時間の淵をひと跳びにして

000000000000

,その声はやってきた

000000000

- 126 -

,その間のびした声と

000000000

(傍点引用者)。

, バケツ

000

。あれから二十年ちかい年月が流れている

000000000000000000

。「引揚げ文学」に耳を傾ける(朴)

それは日本が戦争に敗れた一九四五年の冬,発疹チフスの発生した北鮮の邦人収容所で,

毎週月曜日の朝,火葬当番が各棟の間を叫んで回る奇妙な挨拶だった。当時,十二歳だっ

た鷹野とその家族は,敗戦と同時に延吉から南下して,その街で長い当てのない冬を過し

たのである。(五木寛之「蒼ざめた馬を見よ」『五木寛之小説全集〔1〕』,講談社,1979,

207-208 頁)

日本とロシアを舞台に,一種の推理小説の形式を取っているこの若き日の小説において,主

人公が「バケツの音」に悩まされることはさして重要な伏線になっているわけではない。主人

公を心を病む人物として設定するだけなら,家庭内暴力や失恋の話でも充分その役割は果たし

たであろう。

しかし,ここで主人公を苦しめているのは,まさに引揚げの際に見た場面である。しかも,

この作品はそのことをとりわけ強調して書いているわけではない。体験としては書きながら,

これがどういう体験だったのか,なぜこういうことがあったのかに関してはいっさい説明がな

いのである。

つまり全体のストーリーからすると,ここにおける「引揚げ」の話はほとんど目立たないと言っ

てもいいくらいだ。しかし,それでもこのように書いてしまったというのは,このことこそが

書きたかった,というふうにみなしていいはずである。

もちろん,だからといってきちんとこれを耳にとめてくれる「聞き手」を想定しているわけ

ではない。そのようなことを期待したのなら,数十年経ってから語りだしたように,前後の関

係を筋道をつけて語ったであろう。

つまり,ここでの語りは「語っていながら語っていない」ものとも言える。つまり語ること

の不・可能性が書かれているのである。つまり,引揚げ体験は,当時の五木にはまだ正面から

書くことはできないようなものだったが,間接的な形ででも書かねばならないものだったこと

が分かる。それは,後藤の語る「あれ」というような語り方と通じるものと言えるだろう。

「引揚げ」とは,このように,語ることの不・可能性を顕してしまうものだった。しかも,書

くこと = 表現をめぐる格闘は,単に「引揚げ」に限ることではなかった。生まれ育った植民地

の記憶について,たとえば後藤明生は次のように語っている。

戦争が終わったとき,私の少年時代は終わりました。

そして私は,同時に「生まれ故郷」も失ってしまったわけです。つまり私たちは「生ま

れ故郷」を追放されて「祖国日本」へ引き揚げてきたわけです。(中略)確かに私は日本人

であるという理由によって二十七年後の今もなお「生まれ故郷」から拒まれているのかも

しれません。しかし

000

はずです

0000

「生まれ故郷

00000

」についての私の記憶だけはだれも拒むことはできない

000000000000000000000000

(傍点引用者)。(後藤明生「父への手紙」)

「少年時代は終わった」とは,単に年齢のことを指しているのではない。それは,もはや「少年」

に甘んじていられる甘美な時代が終わった,ということであろう。それは,「少年」の思い出の

背景となる空間が失われてしまったからにほかならない。すなわち「追放」と「「生まれ故郷」

- 127 -立命館言語文化研究24巻 4 号

から拒まれている」という拒絶ゆえのものだ。しかし後藤は実際には,群を抜く緻密さで植民

地の風景と人々の記憶を書いている。そしてそのような,「記憶の追放」にあらがうことは,植

民地の「定住者中心主義」をあぶり出すものにもなった。

後藤は,「懐しいと言ってはならぬ」として,甘い記憶と表現を極力抑制した小林勝と違って

繰り返しさまざまな記憶を振り返り書き残し,「語る」ことの可能性と権利を主張した。それは,

帝国・植民地の記憶を封印し忘却しようとする日本と朝鮮の「定住者」の抑圧に対抗すること

でもあった。そしてそのように定住者の共通の記憶に亀裂を入れることで,「非定住者」の感覚

を維持し続けていたのである。

後藤は,次のような興味深い発言をしている。

面白いのはね,引揚者が二通りになるんですね。つまり積極的にというか,友達をつくっ

て同化して行こうというグループと,それから標準語を守って,本当につながった二,三人

の引揚者だけでかたまっているのと,この二通りに分れましてね 30)

後藤は,はじめは「同化」しようとして結局はやめてしまった経験を話しているが,実際に

は「記憶」では同化しなかった。そして,後藤の言う「同化」に,引揚者の「戦後」を解く鍵

が存在する。つまりその「同化」の形や深さによって,引揚者は様々な形で戦後日本を生きる

ことになったからである。そして作家となった人の多くは,「初めからわりにさめた傍観者とい

うか,観察者という感じで,日本の社会へ入って来た」とする澤地久江や,「おれは違うんだなあ,

招かれざる人間なんだなあ,と。この実感は,三十何年たってもなくならないね」とする尾崎

秀樹の感覚を共有するものだった。つまり,彼らは表面的な「同化」いかんにかかわらず「招

かれざる人間」としての疎外感をもとに,「傍観者」「観察者」たろうとしたのである。

本土に引き揚げてきたのではない。本来の土地を追われて異郷に強制送還されたのだ。

魂のなかの母親的なものの現実的対応物を奪われ,消されてしまったのだ。〔中略〕どうし

ても違和感を感じまして〔中略〕自分の中の小鳥をひねり殺した気がしますね。そのときに,

自分の中の人間らしい感情のある部分を殺したって気がしてしようがない。〔中略〕そうし

なければ生きて行けなかった。(日野啓三)

「自分の中の小鳥」とは「魂の中の母親的なもの」をおいてきた故郷にほかならない。そこを「追

われて」きて「現実的対応物を奪われ」た少年たちが,「本来の土地」ならぬ「異郷」で,居場

所を見いだせずに浮遊するであろうことは想像に難くない。しかしそれでも「祖国」の中で生

き続けるためには「自分の中の小鳥をひねり殺」すほかなく,彼らはいわば母親を失った孤児

のようなものになるほかなかった。彼らが「異郷に強制送還された」存在だったということは,

引揚げ少年たちが,戦後日本における精神的ディアスポラにほかならなかったことを示す。「帝

国」= 支配する側もまた,ディアスポラを生むのである。

「戦後三十四年も経て,私はこの風土に根づいたという感覚を,いまだに持てない。〔中略〕

自分がこの国の人たちと,かなり異質だという認識を捨てることが出来ない」(本田靖春)と吐

- 128 -「引揚げ文学」に耳を傾ける(朴)

露させるような違和感の根源はここにある。さらに,「よくばりの農民に対しては憎悪を抱いて

いる」とする別役実の言葉は,ナショナリズムを支えてきた農本主義の主役 =「農民」たちが,

ほかならぬ「定住者」の中心的存在だったことも示すものである。

引揚げ派は地元から拒絶される一方で,自分からも “ おりた ” ところがある。地方にいた

人は,とくにその感じが強い。そして,そこには,植民地育ち特有の優越感が働いている。(略)

おりたのは,文学書に親しんだのがきっかけであった。小説でも書こうというのは,まぎ

れもなく,通常の競争をおりた人たちである。作家に引揚者が多いのは,いまさらこと新

しくいうことではないかも知れない。(本田靖春)

「引揚げ」体験を経た少年少女たちを「書くこと」にせき立てたのは,ひとえに,そのような「定

住者」の世界に対する違和感,優越感,劣等感,引け目,不遇感に基づく,外部者,余計もの

としての自己認識を進んで受け止める「非定住者感覚」だった。日本人を「原住民」(別役実)

と眺め,自らを「在日日本人」31)

と認識させ,書くことを,「下宿料」(本田靖春)を支払う行

為として認識させていたのは,「戦後日本」の定住者中心主義だったのである。

それにしても,「祭り」などに感情移入せず,「つけものなど数ヶ月切らしてもよし」との感

覚を持ちつづけて「日本の伝統的なものって,ぼくの中には何もない」32)

(天沢退二郎)と言わ

せていた感覚は,日本が「日本自体が変化しなければいけなかった」(後藤明生)とする期待を

満足させるものだったかどうか。いずれにしてものその射程の中に「引揚げ文学」の可能性は

存在していると言える。

三木卓は,初めての長編童話のなかで次のように語っている。

こうして,ぼくは知ってます。楊が撫順で技師になっていることも,白系ロシア人の女

の子のアンナがソビエトに帰ってピアニストになっていることも,そのほかの子供たちも,

みんなこの世界のどこかにいるのです。

幼い日々,それに続く日々がどういうおとなを作っているのだろう。ぼくたちの子供だっ

た日々は,不幸せだった。国境が,差別が,政治が,僕らをともに共に未来をつくる仲間

にさせなかった。

(三木卓『滅びた国の旅』 1969, 講談社 2009 年復刊,220頁)

引揚げ文学は,彼らの「幼い日々」にあたる植民地占領地体験と「それに続く日々」にあた

る戦後体験をもとどめている。そして彼らが「どういうおとな」になったのかも見えてくるの

である。しかし,その「子供」「少年」たちの成長を,戦後日本は見ようとはしなかった。

5.もうひとつの「植民地」風景―「子供」の可能性

「引揚げ文学」から見えてくるのは,「再ディアスポラ」感覚で眺めた「戦後日本」の姿だけ

ではない。言うまでもなくその前史としての「引揚げ」の際の「難民」としてのトラウマ,さ

- 129 -立命館言語文化研究24巻 4 号

らにそのような「引揚げ」を強いた原因となる植民地体験がそこには描かれている。引揚げの

際の凄絶な悲惨とともに,被植民者に対する植民者の抑圧(小林勝)や様々な人種が入り乱れ

る植民地の帝国的風景(三木卓,小林勝ほか)が描かれるのは当然として,注目すべきは,植

民者の棄民性(三木卓)や,被植民者と植民者間の転倒した心理的暴力(小林勝)などが描か

れるということである。それらは,これまで考えられてきた「植民地」や「引揚げ」の姿にい

くつもの亀裂を入れている。それはおそらく,引揚者たちが「引揚げ」という再移動の経験を

したからこそ書けたといえるだろう。その諸相の詳細については稿をあらためて論じたいが,

ここでは参考までに西洋の引揚げ(植民者)文学をとりあげてその一端を見ておくことにする。

日本の「引揚げ」文学が「帝国」が生んだものであるように,日本より先に帝国主義に身を

乗り出した西洋諸国にも当然ながら「引揚げ文学」とみなすべき作品は多く存在する。そして

ここでも「植民地」と「帝国」についてすぐれた考察を残してくれているのは,植民地で育っ

た「子供」たちである。

日本の引揚げ文学の多くのなかで,大人の植民者たちは,その子供たちに,被植民者との間

に横たわる空間的・文化的・心理的境界を越えることを禁止している。それは,支配者であり

ながらも,数の上ではマイノリティでしかなかった植民者たちの,被植民者に対する潜在的な

恐怖ゆえのものと言っていい。ところが, 植民者の子供たちの一部は,「混交」を恐れてのその

ような憂慮と恐怖を無視し,その世界へ果敢に入ってもいた。たとえば,『ジェイン・エア』(シャー

ロット・ブロンテ,1847年)におけるロチェスター夫人(=「狂女」とされた女性)を主人公に

設定してその前史とも言える作品を書いたジーン・リース(1890-1979)は,『サルガッソーの

広い海』(1966)の女主人公に次のように言わせている。

いいえ,朝は幸せだったと言ったのよ。午後はそうではなく,日が沈んだ後はいつも不

幸せだった。日が落ちるとあの家は不吉だったわ,そういう場所もあるのよ。そして

000

の日がやってきた

00000000

…… 白い黒んぼのように育った私に気づいて母が恥じた日が

0000000000000000000000000

らなにもかも変わってしまったわ

000000000000000

,あ

0

。あの日か

0000

(傍点引用者)。そう,あれは私のせいよ,母が私たちの

生活を変えようとやみくもに計画をたてはじめたのは私のせいだったの。(小沢瑞穂訳,『世

界文学全集Ⅱ-01』河出書房新社, 2009,384 頁)

イギリスの植民地ドミニカ島で生まれた主人公は,植民地の人々に「白いゴキブリ」と言わ

れながら育つが,そのような嫌悪の視線は,単に被植民者からのものではなかった。それは「純

粋な」植民者一世にあたる親たちからの視線でもあったのである。植民地の子供たちの遊びや

食べもの,さらには仕草までまねることを禁じられていたことを湯浅克衛(「カンナニ」)や後

藤明生(『夢かたり』ほか)も書き残していて,そのような禁止と嫌悪は実のところ「帝国人」

に共通のものだったことがわかる。

そして,「植民地」の惨めさと悲惨を誰よりもしっかりみつめていたのは植民地で育った少年・

少女だった。彼らは,被植民者に加えられる拷問の痛みと恥をあたかも自分の痛みであるかの

ように感じとり(小林勝,五木寛之),植民地の飢えにも想像力を働かせ(小林勝「赤ん坊が粟

になった」),植民者の前で泣き叫ぶ被植民者の姿(村松武司「朝鮮植民者」)や,植民者と被植

- 130 -「引揚げ文学」に耳を傾ける(朴)

民者の住まいの差異をもしっかり見届けていたのである。

たとえば,旧東インド地域を植民地化したフランスの作家,マルグリット・デュラス(1914

-1996)は,『太平洋の防波堤』(1950)のなかで,フランス領インドシナについて次のように

書く。

まさに植民地全盛時代だった。何十万という現地人が,十万ヘクタールに及ぶ赤土に生え

ている木の樹液の採取に従事し,その木に刻み目をつけて液汁を取るために,彼らは自分

の血を採取されていた。その十万ヘクタールの土地は

0000000000000

白人の栽培場主の所有物となる前から

00000000000000000

血も流れる

00000

。だが

00

血は無駄に流れてゆくだけだ

0000000000000

,莫大な財産を持った

000000000

,たまたま赤土と呼ばれてはいた

00000000000000

,貴重なのはゴム液だけで丹念に採取され

000000000000000000

,何百人かの

00000

。ゴム液が流れ

000000

,採取されれば利益を生む

00000000000

。(傍点引用者)いつかは大群衆が立ち上がって流した血の代

価を問いに来る日がくる,などということはまだ考えるのを避けていた時代なのだ。(田中

倫郎訳,『世界文学全集Ⅱ-04』河出書房新社, 2008,158 頁)

このようにデュラスは,植民地における搾取をしっかり描いている。しかもそれだけでなく,

「植民地の小さな植民者」たちは,被植民者による植民者の蹂躙(= 関係の転倒)をも見逃さず

に描いているのである。あるいは,リースは次のようにも書いている。

それから疲れたらしくロッキング・チェアに腰をおろした。黒人の男が母を椅子から抱き

あげてキスするのが見えた。男が口を母の口に重ねると,母は彼の腕の中でぐったり柔ら

かくなり,男は声をあげて笑った。黒人の女も笑ったけど怒っていたわ。それを見て私は

逃げ出したの。泣きながら帰っていくとクリストフィーヌが待っていたわ。(前掲『サルガッ

ソー の広い海』387頁)

森崎和江は,被植民者少年たちによる好奇の目―あきらかに性的まなざしである―を描

いているが,リースが描いたのはその欲望が完遂された場面だと言えるだろう。この場に「黒

人の女」も同席しているのは,この蹂躙が,男女の間の性的関係を超えての民族的 = 人種的,

つまりは植民者と被植民者のそれであることを示す。この場面における「母」の受動性,男の

笑い,黒人の女の笑いは,そのことを通してあらゆる愛の可能性を無化する。子供の白人少女

が「逃げ出す」ほかなかったのは,そのキスが愛のキスではなく制裁の場でしかないことを感

づいてのことなのだ。

そのような転倒した構図に気づき書きとめ得たのは,作家がすでに「元植民者」でしかなく,

植民者でありながら権力の中心とはなりえない弱者性を帯びていたからと言える。

植民者の多くはあきらかに裕福な支配者だったが,だからといって必ずしも幸せだったわけ

ではない。さきの例文ですでに彼女はその不幸を記しているが,さらに,リースは「私の母に

したって,どんな正義が与えられたというの?」(『サルガッソーの広い海』398頁)と訴えてい

て,植民者たちにおける「正義」がすべての植民者に分け与えられていたわけではなく,ジェ

ンダーや階級によって区別される,留保つきのものだったことを示す。

- 131 -立命館言語文化研究24巻 4 号

そもそも,植民者の多くは「棄民」であった 33)

。湯浅克衛の「カンナニ」の父親は「馘になっ

た」地方都市労働者だったし,五木寛之の父親は農村部に残ることのできない三男だった。彼

らは植民地に渡ることによって多くはそれまで以上の生活資源を得ることができたが,湯浅の

「移民」の松次郎のように,東洋拓殖株式会社に詐欺に近いやり方で分譲してもらい,その後は

25 年かけて耕作した土地を近代化の波に飲まれる形で取り上げられる(こぎれいな家をあてが

われはするが)ことも少なからず存在していたのである。つまり,帝国が求めた文明化は被植

民者のみならず,帝国民をもその犠牲にしていた。そしてそれは,帝国内の植民地・本土内の

内国植民地においてであった 34)

同じく,デュラスも「耕作に向かない土地を総督府が分譲する」(『太平洋の防波堤』19 頁),「誤っ

た希望を抱かせるためのまさに囮」(同 265 頁)などと書くことで,彼らが国家にだまされて植

民地へ行かせられ,そこへの定住を余儀なくされることで帝国の領土拡張の一翼を担わされて

いたことをも書き残している。

このような,植民地における逆転やねじれを見逃さずに描き得たのも,彼女たちが「子供」だっ

たこと,つまりまだ「植民者」としてのアイデンティティが充分に身についていない立場にい

たからこそ可能なことだった。構造的には植民者にほかならないにしても,ジェンダー性や年

齢や階級によって彼らは弱者でもありえたからである。植民者でありながら女たちが狂気にな

り,子供たちが心に傷を負うというようなことがありえたのもまさにそれゆえのことだった。

同じデュラスの『愛人(ラマン)』(1984)には次のような一節もある。

彼女たちのうちのあるものは気が狂ってしまう。またある女たちは口をきかぬ若い女召

使いに見かえられて,捨てられる。見捨てられた女たち。この言葉が彼女たちをぐさりと

刺す音が,この言葉とともに広がるうわさが,この言葉とともに与えられる平手打ちの音

が聞こえる。自殺する女たちもいる。( 清水徹訳,前掲『世界文学全集Ⅱ-04』, 2009,356 頁)。

日本なら小林勝が,植民地や被植民者に対する無限の愛情を書き留めながらも,被植民者の

暴力とそれによる違和感をも同時に書き残している。それはたとえば植民者少年にセクハラま

がいのことをする被植民者の女性や,お土産を持って見舞いに来た植民者少年にお土産を投げ

つける大人の被植民者に対するものである。そこでは,被植民者でありながらも彼らが「大人」

や「男性」としての属性を使っての暴力を働くことが可能だったことが示されるのである。

もっとも,このようなことが植民地における差別構造を覆すことになるわけではない。とは

いえ,このようなことは,これまでのポストコロニアリズムの認識の修正を迫るものではある。

何よりも,「植民地」とは,植民者にとっても(自発的に見えても構造的に)「移動させられた」

場所にほかならず,そうである限りそこは植民者たちにとっても決して安穏たる場ではあり得

なかった。この点を認識することこそ,帝国主義に対する根源的な批判となりうるはずだ。

このように,「植民地」のもう一つの姿を見ることは,ポストコロニアリズムの修正を迫ると

同時にポストコロニアリズムの思想を強化する。重要なのは,「祖国」であれ「植民地」であれ,

そこはしょせん「元定住者」の空間であるほかなく,そうであるかぎりそこではつねに定住者

中心主義が暗に働いていたということである。そのことは,植民者がその地を「追放」される

- 132 -「引揚げ文学」に耳を傾ける(朴)

ことでようやく露わになるのである。

6.「当事者=非定住者」感覚から

激励されると,いくらか気持ちが安まるのだった。だが,西野から激励されると,何か載

せられているような感じがつきまとう。やはり久治は,西野が手伝わないことにこだわっ

ているのである。しかし記念碑といってもなぁ―久治は思うのだった。―やがてこの

市街図を見ても,何の感慨も感興も起こさない人たちばかりになるわけだ。シーちゃんや,

シーちゃんに惚れた人たちには,カフェー千城という文字は心に響く。畳屋の清さんには,

磯野旅館という文字は胸に沁みる。―だがシーちゃんも死んでしまうし,清さんも死ん

でしまう。千城も磯野旅館もなくなってしまう。建物はもう,とっくになくなっているか

もしれないのだ。それは思い出の中にしかない。その思い出がなくなる時,千城も磯野旅

館も消えて,紙の上に文字が残るだけだ。 記念碑とは,そういうものなのだろうか?そし

て自分たちが死んだ後,子供たちは,その記念碑の紙切れを見て,どう思うのだろう?シ

ノは市街地を見て,どう思うのだろう。(古山高麗雄『小さな市街図』 河出書房新社,1972,

212 頁)

古山高麗雄は植民地体験の「記憶の死」(同)を恐れた。そして,「戦後日本」の状況は,そ

の憂慮が間違いではなかったことを示している。そのような「記憶の死」は,実のところ植民

地でも起こるのであって,「解放」後の韓半島でも,百万人近くその地に住んでいた日本人のこ

とはすっかり忘れ去られている。そのことは,「移民」=非定住者のことは「定住者」には関心

を払うべき対象ではなく,「国民国家」というものが所詮定住者中心のものであることを示すも

のだ。そこにかつて存在した人々の記憶が忘却されてきたのは,「国民国家」の共有すべき「単

一民族」の記憶と相反するものだからである。

引揚者の記憶を受け止めることは,国民国家がほかならない「定住者中心」の機構だったこ

とを知る上でも必要だ。それは,「在朝日本人」や「在満日本人」たちがどのように「在日日本人」

となり,そのうち「在日」の認識を捨て去り,あるいは維持し続けていたのかを見ることでも

ある。それは,「戦後日本」と「戦後日本文学研究」が排除してきた帝国の記憶の様相に向き合

うことでもあり,それは「移動」と「定着」にまつわる,近代国民国家の権力構造を見極める

ことにもなるだろう。

満州などに渡っていった人たちには反体制的な人たちが多いが,五味川純平の『人間の条件』

も冒頭からそのことはしっかりとおさえて書いている。「植民者」たちが必ずしも「帝国野望」

や「一攫千金」を夢見ての人々だけでなかったことを知ることは,「帝国」の複雑な構造を今一

度見るためにも必要だ。

そして,引揚者たちもまた,植民地での安泰な記憶を囲いつつ「帝国意識」を温存し自らの「在

日日本人」性を封印して他の「在日」朝鮮人などへの差別意識を温存し続けたひとたちと,反

体制的でナショナリズムに批判的なひとたちとに別れた。それはどちらも彼らにおける「移動

と再移動」体験ゆえの認識と姿勢だったが,「戦後日本」は,その体験をどのように生かしたのか。

- 133 -立命館言語文化研究24巻 4 号

そのことが今後検証されるべきであろう。

わけても引揚者の一部が維持した「まま子」意識は,「内地」の嫡子性をめぐるイデオロギー

をあぶり出し,「内地」(=本土)中心主義や混血性を隠蔽したことが「単一民族国家神話」を

支えたことも見せてくれるだろう。

これまでは,帝国と植民地を語る際,「当事者」の語りが参照されることはほとんどなかった

と言っていい。奇しくも,引揚げの過程で亡くなり,北朝鮮に埋葬されているままの三万人近

くと言われている遺骨の返還をめぐる協議がいまようやく始まろうともしている 35)

日本の「戦後」は,300万人もの引揚者を受け入れながら,「元定住者」たちの記憶のみを特

権化してきた。そういう意味では,彼らを送り出し,「定住者」のままでいられた「元内地人」

たちがあいもかわらず国家の中心に居ながらの再統合化の時代だったとも言えるだろう。その

ことが,植民地への移動,数年から数十年に及ぶ「仮定住」の記憶,そして内地への「再移動」

の記憶をとどめた自伝や引揚げ文学を「記憶の死」の対象にしてきたのである。

もっとも,いわゆる「満州文学」やその他のアジア関連文学への関心が戦後日本にまったく

なかったわけではない 36)

。しかし,それらはしょせんそこにいた元定住者たちの視点から眺め

られた関心でしかなかったのではないか。たとえば「外地日本語文学」といった視点は,その

後再移動できなかった者,「未引揚げ者」たちについての想像―いまだ書かれない,あるいは

目に触れることのできない「未引揚げ文学」の可能性には目を向けない。植民地や占領地に残

ることを余儀なくされた人々の物語,すなわち「日本人妻」,中国や朝鮮人の間に生まれた混血

の子供たち,孤児たち,売られた子供たちの物語などである。それらは,定住者マジョリティ

社会の中でマイノリティ化され,いまのところその声が「文学」として聞こえてくることはない。

そして,そのように考えたとき,戦後日本文学の中では長らくマイノリティ文学でしかなかっ

た「在日文学」もまた「未引揚げ文学」のひとつであるという,その特質が見えてくるだろう。

なにより「未引揚げ者」の聞こえない物語としてとりあえず耳を澄ますべきは,ついに「移動」

できずに亡くなった大人と子供たちの物語であるはずだ。

みんなじっとして動かないで冷たくなっているのでした。この土地での働いていた日本人

の子どもでした。今はもう何のくるしいこともなく,たのしい安らかな世界にいるのでした。

もうにげなくてもいいのです。こうして子供たちは満州国のつぐないのために

000000000000000000000

失ってしまったのでした

00000000000

の上で死んだのです

000000000

。この子たちは

000000

,おとなの罪のために

000000000

いや,日本人の子どもだけではない,たくさんの

00000

卓『滅びた国の旅』,213-214 頁)

彼らが戻ってこれなかった理由を単に「戦争」に見いだすことはできない。彼らの死は,直

接には命の管理者でもあった男性や大人によるものでもあったのであり,その背後には国家,

階級,ジェンダーなど,さまざまな権力と欲望のせめぎあいが存在した。その「声」と,生き残っ

た混血児たちの複数の言葉の声が聞こえてきたとき,「植民地」と「帝国」,「戦後アジア」「戦

後日本」との新たな姿も見えてくるはずだ。

- 134 -

,短い命を

0000

,また土へ帰ったのです

0000000000

,いろんな国の子どもたちが

000000000000

,満州の土

0000

(ともに傍点引用者)。何の理由も意味もなく殺されたのです。(三木「引揚げ文学」に耳を傾ける(朴)

最後に,後藤明生の言葉を引用して終わろうと思う。それは,「移動」から「場」を考える 37)

ことの意味を痛切に教えてくれる。

日本が植民地政策をとって,満州,朝鮮,台湾,中国の一部でやって来たことはですね,ま,

その善し悪しはこの際おくとして,歴史的にそういうことをやったことは動かない。それ

によって日本自体が変化しなければいけなかったんですね。

ところが,全然,化学的変化を起こしていない。そこにやっぱりぼくは,日本の不思議さ

があると思うんですよ。とにかく事実として植民地政策をとっちゃったんだから,国家観

念とか,民族意識とかいうものに,化学的変化を起こさせなきゃいけないと思うんですがね。

それが物理的に拡がっただけで,また物理的に収縮したわけでね。全然,質的に変化してい

ない。実になんの影響も及ぼしてないというところに,ぼくは不思議さを感じたんです 38)

1)この論考は,韓国で発表した「引揚げ文学論序説―戦後文学の忘れもの」(『日本学報』第 81 輯,

2009・11,韓国日本学会)をもとに,早稲田大学国際日本文学・文化研究所・同比較文学研究室主催の

講演会と 2012 年 6 月の日本比較文学会大会シンポジウム「比較植民地文学の射程―「引揚者」の文

学を開く」での報告を追加する形で補足・修正したものである。なお,個別引揚げ作家に関する論とし

て「小林勝と朝鮮」(『日本文学』2008・11),「後藤明生『夢かたり』論―内破する帝国主義」(『日本

学報』第 86 輯,2011・2,韓国日本学会),「後藤明生『夢かたり』―植民地的身体の戦後の日々」(『日

本学報』第 90 輯,2012・2,韓国日本学会)においても本稿における問題意識の一端に触れている。

2)民間人だけで 341 万人,軍人・軍属 311 万人であった。このうち 朝鮮から 70 万,満州から 123 万,

満州以外の中国 から 46 万としている(浅野豊美『帝国日本の植民地法制』2008・2,名古屋大学出版会,

568 頁)。

3)若槻泰雄 「図海外引揚者の地域別分布」(『戦後引揚げの記録』時事通信社,1991・10)。また, 加藤聖

文は引揚者のうち「朝鮮在住日本人 85 万人のうち 65 万人」と 「満州及び華北からの引揚者 130 万人」,

合わせて 200 万人が朝鮮・中国からの引揚者としている(「海外引揚げ団体と日本人援護団体―戦後

日本における帝国意識の断絶」,小林英夫編『戦後アジアにおける日本人団体―引揚げから企業進出

まで』所収,ゆまに書房,2008・3)。

4)成田龍一「引揚げと抑留」(『岩波講座アジア太平洋戦争4』,2006・2,179-208 頁)。成田は「引揚げ,

および抑留の体験記」が 1950 年前後,1970 年前後,1990年前後に集中して出たと指摘している。

5)このことに関して,2012年2月,国際日本文化研究センターにおける講演「引揚げを考える―冷

戦と帝国のはざまで」において報告し,注 11 の論文にまとめている。

6)この三つの関係項はいずれもほとんど考えられてこなかったが,なかでも引揚者同士の関係や葛藤は

手記や小説に多数書かれながらも注目されたことはなかった。

7)本田靖春「特別企画 インタビュールポルタージュ 日本の “ カミュ ” たち」(『諸君!』1979・7)。

五木寛之,日野啓三,尾崎秀雄,池田満寿夫,小田島雄志,山田洋次,大藪春彦,赤塚不二夫,藤田敏八,

三木卓,別役実,後藤明生,生島治郎,澤地久枝,山崎正和,天沢退二郎の 16 人のインタビューをま

とめて載せている。

8)尾崎秀樹『旧植民地文学の研究』(勁草書房,1971)335頁。

9)尾崎,前掲書 328 頁。

10)植民地問題に関してもっとも自覚的な作家だった小林勝や村松武司が今ではほとんど忘れさられてし

まったのも,その結果と見るべきであろう。

- 135 -立命館言語文化研究24巻 4 号

11)拙稿「「引揚げ」と戦後日本の定住者主義」(『日本学報』第 93 輯,韓国日本学会,2012・11)参照。 12)たとえば宮尾登美子は「満州体験を書くために作家になった」(『日本人脈記 2 アジアの夢』(朝日 新聞社,2006・10)としているが,満州体験を書いた小説 『朱夏』が書かれたのは,引揚げから 30 年 以上の歳月を経た時点であった。

13)本稿のもとになった論文を発表したあと,1970 年代に「引揚げ文学」という言葉が存在したことを 発見した。そういう意味では新しい命名ではないが,現代においてはその言葉が存在しないので,最初 の指摘を維持しておく。

14)本田靖春インタビュールポルタージュ「日本の “ カミュ ” たち―「引揚げ」体験から作家たちは生 れた」(『諸君!』1979・7)。 15)前掲「日本の “ カミュ ” たち」158頁。 16)「引揚者 100 人の告白」(『潮』142 号,1971・8)160 頁。 17)「内向の世代」とは周知のとおり, 1970 年代に入って登場した一群の作家たちを称する概念である。 古井由吉,黒井千次,阿部昭など,いわゆる「生の不安」を存在論的に扱った作家たちがその範疇の作 家として考えられていた。当時彼らを川村二郎が高く評価したのにたいして, 小田切秀雄はおおむね批 判的に論じていた(「内向の世代―根拠と打開と―」『早稲田文学』1976・7 ほか)。秋山駿は彼らが敗 戦時の少年であることに注目して高く評価したが(「新世代の作家たち―内向の世代について」『解釈 と鑑賞』1973・5など),この対立的な評価についての再検討も必要となるだろう。 18)前掲「引揚者 100 人の告白」ほか各種引揚げ手記。 19)前掲「引揚者 100 人の告白」142頁 20)尾崎,前掲書 323 頁。 21)前掲「引揚者 100 人の告白」183頁。 22)朴裕河,前掲論文。

23)五木寛之・日野啓三「異邦人感覚と文学」(『文学界』1979年4月号) 24)前掲「日本の “ カミュ ” たち」204-205 頁,以下の引用は特に言及しない限り同文献からの引用。 25)五木寛之『運命の足音』2003,幻冬舎,35頁。 26)前掲「日本の “ カミュ ” たち」209頁。 27)前掲「引揚者 100 人の告白」164頁。 28)朴,前掲論文。 29)朴,前掲論文。 30)前掲「日本の “ カミュ ” たち」209頁,以下特に言及しない限り,同文献からの引用。 31)以上,前掲「引揚者 100 人の告白」138頁。 32)前掲「日本の “ カミュ ” たち」,以下同じ。 33)朴,前掲論文。 34)朴,前掲論文。 35)『朝日新聞』2012年8月13日。

36)たとえば「植民地文化学会」とその機関紙『植民地文化学会』は,そのような動きの数少ない試みと いえる。ただし,この学会の掲げる「植民地文化」という言葉のベクトルが,その意図に反して過去の 「帝国」の痕跡をたどることになりうる危険性があることに関しては十分な検討が必要だろう。 37)伊豫谷登志翁編『移動から場を問う―現代移民研究の課題』(有信堂高文社,2007) 38)前掲「日本の “ カミュ ” たち」225頁。

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"인양 문학 '을 듣고 1) 박 裕河

 "인양 문학 '을 듣고 1) 박 裕河 


1. 잊혀진 "인양 문학"


일본의 패전 후 중국 대륙과 조선 외에도에서 이른바 '귀환'을 해 온 사람의 수는 650 만명에 이른다고 2) 무 중국 지역에서 100 만 명, 조선에서 약 70 만명이인양하는 3). 그 절반은 군인들로, 나머지 절반이 민간인이었다. 중 구 "満洲國"를 포함. 이 숫자는 단기간에 공통 경험을 한 사람들의 숫자로 방대한 것이 있겠다. 그러나 전후 일본 사회에서 '귀환'의 수만큼 주목 받고 온 흔적은별로 없다. 물론 이미 나리타 류이치가 지적하고있는 것처럼 4) 베스트 셀러가 된 후지와라 테이의 자전적 에세이 "흐르는 별은 살아있다"(히 비야 출판사, 1949)을 비롯해인양 체험 수기의 형식을 빌려 수많은 쓰고 여러 번 주목되어왔다. 그러나 그 경험의 중요성에 비해 '귀환'이나 '인양 이야기 "에 관한 일본의 전후 사상 학계의 주목도는"종전」나 「원폭」등에 비교하면 분명하게 낮다. "흐르는 별은 살아있다 '와인양 = 귀환하지 못한 군인 출신의 이야기 인'인간의 조건 '(1955) 등이 베스트 토세라이 될 수는 있어도'인양 '라는 공동 체험 - 식민지 · 점령지에서의 귀환 -이 학문적 고찰의 대상이되는 것은 최근까지 그다지 없었던 것이다. 예를 들어, 90 년대 이후 일본의 정치 · 사상 · 운동계를 뒤흔든 '위안부'문제는 현대 일본 사회에 큰 충격을 주었다 "전후"이 아직 끝나지 않았 음을 밝혔다 있지만, 같은 식민 땅 · 점령지의 '피해'체험 인 '귀환'가 '내지'에서 그렇게 받아 들여지는 것은 아니었다. 아마도 전후 일본에서 '귀환'이 일반 국민의 이야기가되기 쉽다 "수난"이야기이면서도 원폭 이야기와 달리 일본의 '공적 기억'이되지 못한 채 것은 우선 그것이 식물 국민들 우리의 이야기였던 것에 그 이유를 구할 수있을 것이다. 즉 "가해자로서의 일본」을 포함한 이야기는 전쟁과는 다른 것의 '전후 일본'는 받아 들여진다 여지가 없었던 것이다.


< "귀환"망각> 사태는 한 마디로 말하면 '외지'에서의 귀환 자들이 "내지"에 처해지게 복잡한 지정 학적 사상 정서적으로 배치 의한 것 이었다 5). 특히 강도 강조하고 싶은 것은 「귀환」은 점령지 및 식민지와의 관계에서만 생각되어야 할 것이 아니라, '본토'(= 내지)과의 관계, 심지어 귀환 자끼리의 관계 도 고려 비로소 그 전모가 보인다는 것이다. 즉 점령지 및 식민지에 나가기 전에 '제국 일본'과의 관계, 돌아와서에서 '전후 일본'과의 관계, 심지어 귀환 자끼리의 관계를 종합적으로 파악하여 처음으로 '귀환'은 이해 할 수있는 일들 인 것이다 6). 그리고 그렇게 간단하지 않을 상황이 소가 전후 일본에서 '귀환'망각되기에 이르렀다 중요한 동인이었다고 나는 생각한다. - 115 - 리츠 메이 칸 언어 문화 연구 24 권 4 호  선취하고 말하면, "본토"사람들은 정책적으로는 귀환 자를 영입하면서 식민지 · 점령 땅에 나간 사람들에 대한 차별과 경멸, 동정 섞인 복잡한 감정을 안고 있으며, 이러한 상황 속에서 '귀환'의 경험을 본토 사람들이 기억하게하고 공유 할 수는 없었다. 또한,


귀환 자들 자신도 다양한 이유로인양 경험을 말하기는 적극적이지 않았다. 그


의미는 "외지"사람들과 "내지"사람들이 함께 안게되었다 그런 심리야말로


"귀환"의 이야기를 국민의 '집단 기억'으로 정착시켜 국민이 공유 할 수있는 '국민 이야기 "했다


らしめ 없었던 것으로 같은 것이라고 할 수 있겠다.


그 복잡한 관계를 모두 여기에 제시 할 수 있지만, 본고는 우선이 있어요


우나 사태에서 역시 망각 된 평등 "인양 문학 '에 대해 오늘적인 눈에서 이마


가나 스케치를 시도하는 것이다.


"귀환"에 대한 무관심은 문단 · 문학계에서도 예외가 아닌 '귀환'과 관련하여


생각해야 작품이 적지 않게 존재에도 불구하고, 전후 일본 문단과 학계는 귀환 자에 의한


문학에 큰 관심을 지불하지 않았다.


예를 들어 고토 아키오를 비롯해 히노 啓三 등은 전후 · 현대 문단에서 높은 평가를 받았다


작가들이지만 이들을 '귀환'과의 관계에서 생각할 시도는별로 보이지 않는다. 현재


유통되고있는 수많은 문학사와 문학 사전, 그리고 연구서의 종류 중에도 "귀환"항목 모두


무에서 그것도 전후 일본 문학에서 "인양 문학 '이 경시되어 온 것을 증명하고 있자.


무엇보다,인양 경험과 식민지 · 점령지에서의 생활을 소재로 한시 · 소설이 많이 나타난


1970 년대 후반까지인양 온 작가들의 표현과 질문의 의미에 대해서는 약간의 만


알 주목을 향할 수 있었다. 동시대의 選評과 좌담 등은 '인양'라는 말이 종종 등록


장하고 그들의 식민지 · 점령지 경험에 대해 진지한 관심을 갖는 공기가 있었음이 확인된다


이다.


예를 들어, 오자키 히데키는 이츠키 히로유키의 「외부 예인 아게하의 발상 "라는 문장에 주목하여 清岡 卓行


나 쿠시마 지로, 가지 야마 季之 등에 접하면서 다음과 같이 말하고있다.


그럼 왜 오늘 이런 시점에서 "외부 예인 아게하의 발상"이 문제에되게 되었는가.


이것은 하나 쇼와 자릿수 세대가 겨우 그 문학적인 발언의 장을 갖고 시작한 것


이며, 또한 말한다면 기성 문단 문학에 대한 새로운 편견을 거기에 구하려고


독자의 요구와 교차하는 곳에서 출생 한 목소리라고 할 수있다. (오자키 히데키 '구 식민지 문학 연구소


연구 "勁草 書房, 1971 · 6,327 페이지)


오자키는인양 문학에 제대로 커밋 할 수있는 몇 안되는 비평가 중 한 명 이었지만, 그것은도,


는게 아무도 자신이 대만에서의 귀환 자 였음에 관계하고있는 것이다.


1979 년 잡지 기사 "특별 기획 인터뷰 르포르타주 일본의"카뮈 "우리"( "여러분!"


1979 · 7)도 "귀환"에 대한 당시의 관심이 전해져 온다 기획이다. 이것은 기자이기도


평론가 혼다 靖春가 영화 · 만화 · 문학 분야에서 '구 식민지 성장의 귀환 자 "16 명"인


인터뷰하여 정리 한 "것이다. 이 기획 인터뷰 약속을 맡고있는 혼다 靖春도 "및 버튼은


- 116 - "인양 문학 '에 들어요 (박)


거나 식민지에서 태어난 "(혼다 동) 평론가였다.


이 기획은 부제가 ""인양 체험」에서 작가들은 출생했다 "고되어 있고,인양 경험이"작가 "


등의 표현의 탄생과 불가분의 관계에 있다고 강하게 의식되고 있었던 것이 나타나있다. 혼다는


여기에 (그들이 표현자가 된 것을) '우연이라는 것은 없다. 어쩌면 한 사람의


심부인양 경험이 답답 도사리고있는 것은 아닐까. 그리고 각자의 표현은 가지고도


치유하고, 그 '후유증'임에 틀림 없다 "7)


하고있다. 앞의 오자키뿐만 아니라 혼다도 "귀환 파 작


집이라는 사람들이있다 "라고 써있어 당시는"인양 파 '라는 개념으로 일정 수의 작가 기


치가 괄하고 있었던 것이 여기에서도 알 수있다.


그러나 이후이 같은 오자키와 혼다의 관심이 이어지는 것은 아니었다. 즉, 그들은


를 구 식민지에서의 귀환 자로 간주하고 "일본의"카뮈 ""라고 부르려고하는 인식이 전후 일본 사회에


뿌리 것은 아니라 그들의 식민지 · 점령지 경험은 비록 만지는해도 '전쟁'의 틀


몸 속에서 논할에 머물게되는 것이다.


앞의 오자키 히데키의 말을 빌리면,인양 문학은 '일본 문학사 속에서 의붓 자식 "8)


같은


같은 것으로 취급되어 있었지만, 거기에는 "일본은 패전 후 두 수십 년이 지난 지금도 여전히 옛 식민지


땅 문제에 대해 영적인 결산서를 정리하지는 않았다 "고 인식되는 정도는 전기의 방문


가능성이 대두되고있다. 그런데 전후 일본에서 '아시아 속의 일본의 위치를 ​​구 식민지


땅이라는 분광기에 걸쳐 파악 고칠 필요는 문학의 경우에 한하지 않고 중요한 것은 "9)


이었음에


에도 불구하고, 그런 오자키의 인식이 널리 무겁게 받아 들여지는 것은 결국 없었다


이다 10)


.


하지만 신문은 "식민지"체험의 망각과 그 배경에있는 의식을 지적하고 그 일을 전후 일


책의 한계로 지적하는 것을 목표로하고있는 것은 아니다.


"귀환"은 결코 한결같이 말할 수없는 다양하고 복잡한 경험이었다 11)


. 이츠키 히로유키와 미야 토미


아이처럼 "쓰기"까지 오랜 시간이 걸렸다 작가가있었습니다 그 경험의 괴로움과 복잡성을


말해주는이 아닐 수 없다 12)


. 중요한 것은 그러한 '지연'과 '망각'을 인식하고 그 키


경을 고찰하고 또한 잊혀진 "인양 문학 '의 목소리를 한번 더 듣고 것이다. 본고는 무


하라 그 가능성을 찾기위한 시도이다.


이러한 문제 의식에 따라 본고에서는 우선 일본의 전후 문학 식민지 · 점령지 체험과


후인양 경험을 소재로 한 표현들의 시도를 "인양 문학 '으로 명명하고 그 개략에 대해


て 정리하고 싶은 13)


.


대상으로는 메이지 시대 이후 조선과 중국 등으로 건너간 일본인의 아이로 태어나 자란 나


어린 시절에 부모와 함께 건너가 청년기 전후까지 거기에서 보내고, 패전 후 돌아온 사람


들을 중심으로하고있다.


"외지」으로 건너간 일본인들은 자녀가 상급 학교에 진학 할 무렵이되면 그들을"내지 "에 보내


있었다. 그런 자녀들은 학교 졸업 후 다시 점령지 · 식민지로 돌아가거나 "내지"에 남아


지의 선택을하게되지만, 어쨌든도 가족은 그대로 "외지」에 남는 경우가 대부분


였다. 즉 작가 본인이 "귀환"을 경험하지 않고 "가족의 귀환 '을 경험하고


있는 경우가 적지 않다. 또는 가족의 안부를 염려 해 일단 돌아온 후 같은인양 체험


하는 경우도 있었다.


- 117 - 리츠 메이 칸 언어 문화 연구 24 권 4 호


"귀환"관련 수기 나 문학 작품을 끈 풀어 보면 변경된은 작품 속 이야기가 '일본'과


말하는 주체의 통합에 미세하면서 결정적인 균열을 쓰고있는 것이다. 즉, 거기에서는 식민지


땅의 일상의 기억과 전후 일본에 위화감과 함께 식민지에서 가져온 언어와 문화의 "混交"


현장 얘기를 있고, 식민지 · 점령지 반환 후 '일본'이 결코 단일 단어 · 문화 · 혈통을


공유하는 '단일 민족 국가'에서는있을 수 없었던 것이 거기에서 보이는 것이다.


예를 들어 그들은 떡국에 낫토를 뿌렸다 "식민지 떡국 '을 먹으며 (고토 아키오 「꿈 사기꾼"), "어머니


맛은 만두 '와 같은 일상을 살고 있었다. 식민지에서 익힌 음식 문화를 유지하고 있던


이며, 그것은 적어도 당사자들의 대에서 계속되고 있었던 것이다. 또한 '표준어'입니다


하면서 다른 나라의 사람들이 사용 파격적인 일본어뿐만 아니라 식민지의 말을 마저 포함했다,


이른바 '오염'된 '식민지 일본어」(고토 아키오)를 말한다 존재이기도했다. 무엇보다 "내선


도대체 '나'오족 협화 '의 캐치 프레이즈하에 행해진 날 아침 · 낮 결혼의 결과로 혼혈


아동들의 존재도 거기에 보일 듯 말듯하고있다. 눈에 띄지 않으면서도 그런 모습을 그리는 「할인


튀김 문학 '이'양아들 '(오자키) 취급을받은 것은 어떤 의미에서는 당연하다고 말할 것이다.


식민지 ·인양 경험을 쓴 작가들이 나름의 평가를 받으면서도 그 작품을 "제국


일본 '과의 관계에서 생각 같은 움직임이 지금까지별로 없었던 것은 그런 말 · 문화 ·


혈액 "혼혈 성」이 끊임없이 구워 나오는하는 장르로 그들이 성립 버리고 있었기 때문


지도 모른다. "인양 문학 '은'인양 '자체의 비참한 기억을 망각 천도하는 욕망에 가입


테 "제국"정책의 결과로 혼혈을 표출하고 새로운 것의 '전후 일본'이 바로 '황제


시리 일본」에서 밖에 없었다는 것을 들이대는 존재이기도 한 것이다.


2. "소년 · 소녀 '들의 귀환 문학


앞서 혼다의 인터뷰는 1928 년부터 1937 년까지 태어난 사람에게 그 대상을 짜서


있다. 즉 "패전 ·인양 경험을 모로 니 쓴 것임에 틀림 없다, 쇼와 한자리수 조」의 시인이자 작가,


만화가들에서 그러한 경험이 자신의 작품에 다양한 형태로 그림자를 드리 우고 있다는 점은 혼다의 사람


선택은 참으로 초점을 사정했다.


혼다는 "패전 ·인양 체험"그들의 "소년기"이었음 감히 건드리지 예 마라


가시, 종이 그들의 수에 특히 주목하는 이유는 그들이 자신의 의지와는 상관없이 식민지


태어나 자란 소년과 소녀 였다는 것, 즉 자신의 의지와는 상관없이 점령지 · 식민


땅에 몸을 두어, 포함 버렸다는 그 미묘한 '위치'에있다. 당연히 그들은


의식은 스스로의 의지로 그 땅에 온 부모 세대 (무엇보다, "스스로의 의지"라고는해도,


그 많은 가정 · 사회 구조가 강한 것이었다. 주 11 논문 참조)과는 상당히 다른 양상을


나타내고있다. 즉, 그들에게는 좋든 나쁘 든 점령지 및 식민지가 「고향」14)


이었다이며,


그들의 감도는 정도는 다른 있어도 식민지의 풍경과 사람들에 의해 축적 된 것이기도했다.


게다가, 예를 들어 같은 식민지에서 자란 형제 중에서도 상급 학교 진학을 위해 패전 전에 "내지"


에 돌아갔다 연상의 오빠와 언니도 그 생각은 달랐다. 예를 들어 고토 아키오는 작품 속


에서 어머니와 동생에게 귀국는 고국에 "돌아 간다"는 것을 의미했지만, 자신에게는 '데려 이거


한 "("꿈 사칭」외)하게된다고하고있다. 즉, 식민지 경험과 '귀환'은했지만


- 118 - "인양 문학 '에 들어요 (박)


있고 겹치는 부분을 가지면서도 장소와 연령이나 환경에 따라 당사자 개개인의 생각은


큰 차이가 있었던 것이다.


아시다시피 "귀환"은 식민 된 「만주」과 한반도 · 대만뿐만 아니라 동남아시아


아와 태평양에서도 이루어졌다. 그러나 본고에서는 우선 그 수가 가장 많았다 대만


과 한반도, 그리고 구 만주 지역만을 대상으로한다.


또한 재일 조선인의 귀환 자 (사할린에서)로 이회성이있는 것처럼 "귀환"은 단


일본인에 한정된 것은 아니었다. 일본인의 이동에 눌러 줄 수있는 형태로 많은 조선인


들도 만주 등에 많이 이동하고, 그들의 고향에 돌아온 또한 일본인의 귀환과 함께


열린 것이다. 그런 의미에서 그들의인양과 그 문학도 '귀환'을 생각 때


함께 고려되어야 할 것이다. 그러나 여기에서는 우선 일본을 중심으로 그 개략을 표시


해두기로한다.


오자키 히데키 '구 식민지 문학 연구 "와 같은 1971 년에 나온 「귀환 자 100 명의 고백」( 「조류」142 호,


1971 · 8)라는 인터뷰 기사에는 닛타 지로, 후지와라 테이, 宇能 鴻一郎 이외에도 楳本 捨三,


미야모토 원래 시마다 카즈오 하라다 統吉, 潮壮介 큰 牟羅 좋음, 樫原 이치로, 중원 英助, 椿八郎 모리타 雄蔵 인


등이 작가와 평론가로 등장하고있다. 지명도가 높지 않은 문학자 속에도 귀환 자 적지


챘다이다. 이러한 문학들을 대상으로 조사 · 연구도 필요하다고 생각되지만, 종이


어느 정도 지명도를 얻은 시인 · 작가만을 대상으로했다.


첫째, 점령지 · 식민지에서 유년기 · 청소년기의 대부분을 보냈다 작가들의 이름과 함께 생


년과 출신지, 점령지 · 식민지에서 최종 학교 패전시의 나이 또는 한 위치를 추정 할 수있는


학교 등을 나이 순으로 적어 둔다.


하니 야 雄高 (1909, 대만 신죽 출생 · 패전 전의 초등학교 5 학년 때 본토에 귀국) 유아사 克衛 (1910,


어린 시절에 조선 · 수원. 경성 중학교) 森敦 (1912 어린 시절에 조선 경성. 경성 중학교), 고미 카와 쥰 페이 (1916,


중국 대련 출생. 대련 중학교) 古山 고려 수컷 (1920, 조선 신의주 출생. 신의주 중학교) 清岡 광주


행 (1922, 중국 대련에서 태어났다. 대련 제일 중학교), 무라 다케시 (1924, 조선 경성 출생. 청주 사범


학교), 아베 코보 (1925 어린 시절에 중국 봉천. 봉천 둘째 중학교), 고바야시 마사루 (1927 조선 · 진주 낳지


되고. 대구 중학 사년 때 육군 예과 사관학교에 입학), 모리 사키 태화강 (1927 조선 · 대구 출생. 김천 높은


등 여학교), 히노 啓三 (1929 어린 시절에 조선 · 대구. 후 경성 · 용산 중학교) 澤地 久枝 (1930,


어린 시절에 구만 · 길림), 가지 야마 季之 (1930, 조선 경성 출생. 경성 중학교) 林青梧 (1930 조선 ·


평양 출생) 富島 다케오 (1931, 조선 경성 년생), 고토 아키오 (1932 조선 · 영흥 출생. 위안


산 학) 이츠키 히로유키 (1932 어린 시절에 조선 · 논산 평양 중학교) 쿠시마 지로 (1933 중국 상하이 생


드물게), 이케다 마스 오 (1934, 중국 봉천 출생. 長家口) 宇能 鴻一郎 (1934, 중국 봉천 출생)


미키 타카시 (1935 어린 시절에 대련, 신징) 大藪 하루히코 (1935, 조선 경성 태어나 신의주 초등학교 15)


天沢 退二郎 (1936 어린 시절에 「만주」16)


),


) 別役 실제 (1937, 중국 신징 년생), 나카니시 레이 (1938,


중국 목단강 년생).


이 밖에 비평가로 오자키 히데키 (1928, 대만 타이페이 출생. 대만 제국 대학 부속 의학 전문 부


중퇴), 야마자키 마사카즈 (1934 어린 시절에 중국 봉천), 그리고 논픽션 작가로 혼다 靖春 (1933,


조선 경성 출생)가있다. 이름이 널리 알려진에는 이르지 않았지만, 林青梧 아쿠타가와 상과 나오키


- 119 - 리츠 메이 칸 언어 문화 연구 24 권 4 호


상 후보에 여러 번 올라 있던 작가였다. 1930 년생의 숲 쿄코도 태어난 지 얼마되지 않은 무렵 상하이


으로 옮겨 1945 년 패전 직전 내지 학교에 편입학하고있다. 그녀의 경우 이른바 '귀환'


체험하고 있지 않지만, 그녀도 틀림없는 '제국의 아이들'에 틀림 없다 그래서 사건과


하여 「귀환」은 경험하지 않아도 그 원폭 체험과 식민지 경험을 쌓아 생각할 필요도있다


것으로 보인다.


또한 드라마 작가이지만 현존하는 작가로 하시다 수하자 (1925, 조선 경성 년생)도 기억에


세울 할 것이다.


나카지마 아츠시, 미야 아들, 야마 捷平, 닛타 지로 츠지 료이치 아리 요시 사와코도 조선과 「만주」나 「동의보감


명령 "을 경험하고 있지만, 어른이되고 나서의 경험하기도하고, 몇 년간의 체류 만에 패전 전에 돌아


온 케이스이며, 본고의 고찰 관심 지나쳐 때문에 여기에서는 다루지 않는다.


식민지 · 점령지에서 자란 작가 중 유아사 克衛, 森敦 패전 전에 육지로 돌아 성인이 된


세대로서 작품 활동을 시작하고 있지만, 여기에 올린 문학들의 대부분은 성인이 된 전쟁


후 활동을 시작했다. 다음 그 문단 데뷔시의 활동을 간단하게 정리해 두자.


하니 야 雄高은 패전 직후 인 1946 년에 일반 謙や荒 마사토와 함께 '현대 문학'을 창간하고 같은 해에 "죽음


영 "을 연재하기 시작했다. 아베 코보는 1947 년에 "이름 시집」을 자비 출판하고 1948 년에 만주 체험을


배경에 둔 '최후하고 도로 표 종로'를 내놓고있다. 고미 카와 쥰 페이는 39 살이되던 1955 년에 "인간


조건 "을 내고 베스트셀러 작가가되었다. 가지 야마 季之은 1952 년에 조선의 창씨 개명의 질문


제목을 다룬 '족보'를 포함 작품집을 자비로 출판 한 고바야시 마사루는 "포드 일구 이칠"(1956)에서 쓰레기


강 후보가되고있다. 모리 사키 태화강은 1958 년에 치 쿠호 탄광 도시에서 타니 雁ら와 문예지 「서클 마을 "


를 창간 해 활동했다. 林青梧은 1958 년 패전 직후의 긴박한 상황을 그린 「일곱 차량 "쓰레기


강 상을 수상하고있다. 에도가와 란포의 추천으로 작품을 잡지에 게재 한 적도있다 大藪 하루히코 1958


년에 이른바 '다테 쿠니히코 시리즈」의 연재를 시작하게된다.


이렇게 보면, "귀환 자"문학은 전후 초기부터 나오고 있고, 특히 고미 카와 쥰 페이,


가지 야마 季之, 林青梧, 그리고 고바야시 마사루는 이미 50 년대에 점령지 · 식민지 ·인양 경험을 작품 화하고


있었으면 알 수있다.


그러나 식민지 · 점령지에서 소년 시절을 보낸 사람들의 작품 군이 집중적으로 나오고 평가도됩니다


있도록하는 것은 1960 년대 이후였다.


왜냐하면 1963 년에는 別役 열매가 '성냥 팔이 소녀'에서 키시 國士 희곡 상을 수상, 1964 년


데뷔 한 쿠시마 지로는 1967 년에 "사냥"으로 나오키 상을 수상하고있다. 무라 마츠 타케시 1965


년에 '조선 해협'을 냈고, 이후 순차적으로 조선 관련 시집이나 에세이를 내도록되어 있었다. 이츠키


히로유키도 1966 년에 「안녕히 모스크바 불량배 "소설 현대 신인상을 수상하고 1967 년에"蒼ざめた


말을 보라 "로 나오키 상을 수상하고있다. 이 작품은 후술하는 바와 같이,인양 경험을 눈에 띄지 않는


형태로 삽입하고있는 작품이기도했다. 고토 아키오는 1967 년에 "인간의 질병"으로 제 59 회 아쿠타가와 상 후보


하게되고, 이후 두 번 후보가되고있다.


1970 년에는 古山 고려 수컷이 "뿌 레오 - 8의 새벽」에서 같은 해에 清岡 卓行가"아카시아의 대련 "


그리고, 함께 아쿠타가와 상을 수상하고있다. 사할린에서의 귀환 자, 이회성가 사할린을 무대로 한 '다듬이


를 치는 여자 '에서 아쿠타가와 상을 수상한 것도 1971 년의 일이었다. 그러나 이승엽은 조선인이며, "국적


국가의 귀환 '이라는 의미의'귀환 '에 해당하지 않기 때문에 여기에서는 생략 둔다.


- 120 - "인양 문학 '에 들어요 (박)


이듬해 1972 년에는 히노 啓三가인양 전후의 조선에서의 경험을 쓴 소설집 「돌아갈 수없는 여행」을 간행하고


1974 년 "피안의 집 '에서 히라 타이코 상을, 1975 년에"저 석양」으로 ​​아쿠타가와 상을 수상하고있다. 해야


에서 1967 년에 시집 「도쿄 3시 '에서 H 씨 수상했다 미키 광주는 1969 년에 처음


장편으로 아동을위한 "망한 나라로의 여행」을 내고 1973 년에, 후에"포격 후에 "에 포함이


하는 소설 '방울새'에서 아쿠타가와 상을 수상했다. 1974 년에는 그들보다 훨씬 나이 인 森敦 までがこ


년에 아쿠타가와 상을 수상하고있는 것이다. 화가로 미술 활동을 50 년대 후반부터 시작했다


이케다 마스 오도 1977 년에 「에게 해에 바친다」으로 아쿠타가와 상을 수상하고있다. 빨리 작품 활동을 시작


있던 아베 코보도 전후 20 년이되는 1965 년에인양 경험을 본격적으로 다룬 작품 '짐승 기


치 고향을 목표로한다」를 내고있다.


평론가 오자키 히데키도 1963 년 평론집 「근대 문학의 상흔」에서 식민지 문학의 문제를 고찰하고, "인수


튀김 문학 "관련 연구서에서는 첫 번째가되었다. 같은 해에 야마자키 마사카즈는 "아미 '에서 키시 國士 희


노래 상을 수상 혼다 靖春는 "내 안의 조선인 '을 1974 년에 내놓고있다. 그리고 5 년 후


1979 년 혼다는 앞서 인터뷰에서 인터뷰 약속을 근무하게 될 것이다.


이렇게 보면, 식민지 출신의 '청소년'들의 활약은 어떤 의미에서는 전후 끊임없이 이어


있었다고 할 수 있겠다. わけても 1960 년대 중반부터 70 년대 중반까지 약 십 년 동안 차지


영지 · 식민지 출신의 사람들이 속속 등장하고 평가도 받고 있었다는 것을 알 수있다. 앞서 이회성을 포함하여


수상에는 이르지 않았지만,이시기에 재일 작가 김석범 금 鶴泳도 여러 번 아쿠타가와 상 후보에 올라


있는 것을 감안하면인양 작가와 재일 작가의 등장시기는 거의 일치하고 있었다고도 말


루.


하지만 문단은 그들이 귀환 자인지에 특히 주목하고 있던 것은 아니다. 무라 마츠 타케시는


한일 기본 조약이 체결 된 1965 년에 "콜론의 비」등의 시집을 내고 원래 식민지와 새로운 관계


를 잇는있어서의 복잡한 심경을 그려 있었지만, 그런 작품은 거의 주목하지 않았다.


평가 된 작가들도 반드시 「제국」과 그 죽음과의 관계에서 논의되었다


뜻은 아닙니다. 예를 들어 고토 아키오가 "내향의 세대 '로 열중하고 있었던 것이 같이 그들은


를 '역사'속에서 생각 시도는 오히려 희박하다고 봐야 할 것이다 17)


. 인양 문학 제출


보여준 정치적 의미와 문제가 제대로 받아 들여지는 것이 아니라 오히려 "정치에 무관심한 세대


등장 "라는 틀에서만 파악되고 있었던 것이다.


그 후에도이 틀은 변함없이, 예를 들어 히노 啓三의 작품을 말할 때에는 '폐허'(카와 모토 사부로에


의한 「해설」, 「쇼와 문학 전집 [30] "쇼우 갓칸 1988), 고토 아키오 대해서는 「웃음」(미우라 아사에


따르면 "주의"저두 요)가 그 특징으로들 수있다. 그런 파악하는 방법은 잘못이 없다


해도 결과적으로는 귀환 자로서의 경험을 무화하는 것으로 일 이후 '망각'에


도움을 이룬 셈이다. 일본의 '전후 문학'은 제국의 산물들이 남긴 문학을 역사적


의미에서 정면으로 받아 들여 고찰의 대상으로하려고하지 않았기 때문이다.


무엇보다,인양 온 작가가 반드시 그 경험을 쓰고 있던 것은 아니다. 예를 들어하니 야


雄高는 오오오 승평와의 대담에서 다음과 같이 말하고있다.


"(대만) 가장 나쁜 놈은 일본인 인 일본인 인 것은 너무 참을 것"


"그래서 당신처럼 일본 그 자체를 그리는 마음이 생기지 않게되어 버렸다. 나는 망상


- 121 - 리츠 메이 칸 언어 문화 연구 24 권 4 호


고 있지만, 가장 아름답게 일본인만을 쓰려고하는 것은구나 "("하니 야 수컷


높은 작품집 [15] "河出書房新社 1981)


이 발언은 식민지에서 돌아와 작가가 된 사람들 모두가 그 경험을 쓰는 것은


없었다는 것을 말해 준다. 또한 쓰지 않는 것이 반드시 식민지 문제에 관심이 없었다


것을 나타내는 것도 아니다. 그런 의미에서 귀환 자에 의한 문학은 체험도 다양이면 표현의


방식도 다양했다.


3. 인양 문학의 체험과 의식


이미 알려진대로 귀환 자 중에서도 구 만주 지역과 조선의 북쪽에 있던 사람들은 갑자기


소련이 참전 해 왔기 때문에 다른 지역의 귀환 자에 비해 훨씬 처참한 경험을 강요했다.


그들은 미군에 의해 일본인 보호 대책이 마련된 조선의 남부와 달리 폭력과 강간, 굶주림,


전염병 혹한 집단 자살 등의 극한 상황을 경험하고 그 와중에 많은 사람들이 목숨을 잃는 것에 마라


다 18)


. 조선 평양에서인양 한 이츠키 히로유키가 1970 년, 미시마 유키오의 죽음에 즈음하여 "나는 품질의 죽음에


별로 관심이없고, 패전의 그 시점에서인양 과정에서 본 양의 죽음에 계속 관심을 계속 가지고


왔다 "( '작가의 일기」)라고 말하고있는 것은 그 처참함을 말하고도 남는다.


예를 들어 고미 카와 쥰 페이는 1943 년에 만주에서 현지 소집 된 소련군과 교전 부대의 괴멸 상태 중


살아남은 경험을하고있다. 패전을 29 세에서 맞이하지만인양 온 것은 그로부터 몇 년 후의 일


이었다. 古山 고려 수컷은 1942 년에 소집되어 1943 년부터 버마, 운남 등으로 전투를 경험하기


있으나, 포로 수용소의 일을했기 때문에 패전 후 전범 용의자로 사이공 감옥에 보내지고,


1947 년에 일본인 수용소로 옮겨진다 체험을하고있다. 아베 코보도 봉천 (현 심양)에 귀성하고


있던 때 종전을 맞이 의사였던 아버지를 전염병으로 잃고있다. (이츠키 히로유키와 고토 아키오 등인양


문학의 대부분은 일반 귀환 자 대부분이 그러했듯이으로 패전 직후에 육친의 죽음을 경험하고있다. )


清岡 卓行 진학을 위해 패전 전에 "내지"다시 제일 고등학교와 도쿄 대학에 입학했지만 패전


년 (22 세) 대련에 귀성하고 패전 직후의 가난한 생활을 경험 한 끝에 마이즈 루에인양있다. 히노


啓三은 38 도선 이남의 경성 (현 서울)에 있던 위해 만주와 북한 정도의 어려움은 경험하지 마라


가시 아버지의 고향 히로시마에인양 후 山畠을 경작 같은 체험을하고있다. 고토 아키오는 북한


의 원산 중학교 1 학년 때 패전을 맞이하여인양 도중 할머니와 아버지를 전염병으로 잃고 자신의 손으로 매


메타 경험을하고있다. 또한 어머니와 동생들과 함께 밤 38 도선을 걸어 도피도 경험하고있다.


"양의 죽음 '발언을 한 이츠키 히로유키는 갑자기 소련군이 집에 침입, 아픈 어머니를 바닥마다 정원에 던져


수 그 때 무기력 한 아버지를 평생 용서하지 않고 불화를 통한 ( "운명의 발자취」41 페이지). 그 후 어머니


죽음 불과 13 세의 이츠키 소년은 어머니를 리어카에 실어 공동 묘지로 옮겨도있다. 더


인양시 일본인의 "아기를 데려다주는 상대를 찾고 ','조선인의 아줌마에게 그


이야기를 갖고 치고 있었다」(동, 47 ~ 48 쪽)라고도한다. 大藪 하루히코는인양시 '폭력'을 눈 1946


년에 밀항 선에서인양했다. 그런 폭력 경험은 후에 大藪 소설 主調音도되는 것이다.


미키 타카시는 10 살 때 신징 (현 장춘)으로 패전을 맞아 빈집에 살면서 거리에서 타바


코 매도를하는 경험을 가지고 그동안 역시 아버지와 할머니를 잃고있다. 나카니시 礼も 패전 직후


- 122 - "인양 문학 '에 들어요 (박)


아버지를 잃은 "시체를 무더기로 트럭에 실어 하얼빈의 교외에 도취되어


아차 '체험을하고있다 19)


. 別役 열매는 8 살 때 신징 (현 장춘)에서 소련군 점령 기아


えや 공포를 경험 아버지를 잃은. 1946 년에 어머니와 형제들과 함께인양했지만 고등학교 졸업


까지 전국을 전전하는 것 같은 체험을하고있다. 또한 평론가 야마자키 마사카즈도 1946 년 봉천에서 아버지를


잃고있다.


이처럼 식민지 · 점령지의 소년 · 청년들은 빈곤, 직계 가족의 죽음, 도망 기아 등 많은


의 귀환 자들이 경험 한 것을 똑같이 경험하고 있었다. 그런 혹독한 경험을 그들이 스스로의 「원


체험」20)


로하는 것은 당연 할 것이다.


그런 '원 체험'을 가진 '명태의 아들 "21)


에서 만난 「조국」에서 "내지"경험과 인식은 매우 복잡한 것이었다 22)


열등감과 우월감의 뒤섞인 것이며, 이후 그들은 일본의 「이방인」23)


(= 조선에서 태어난 조선 성장)들이 일본에 돌아


. 그것은


로 자동


자기 인식을 키워 가게 될 것이다.


그들이 귀국 후 처음으로 느낀 것은 지금까지 관념적으로 주입되어 온 「조국」의 상상과 기


대기와는 달랐다 실망 섞인 놀라움 그에 따른 우월감이었다.


그런데 우리는 배신당한 것이다. 첫 번째 놀라움은 조선인과 같이 일하는 일본인이


있다는 것이었다. [중략] 일본인도 남의 것을 훔치는 -이 놀라운 큰 충격으로


있었다. (혼다 靖春) 24)


돌아와서 가장 놀란 것은 일본도 노동자가 있구나라고. (오자키 히데키)


도착했을 때도, 오레 일본은 골수 분 오 헤이 곳이다라는 인상 밖에없는 것,


우선 화장실이 심한군요. 수세 아니니까. 꺾어 져 汲 잡기 식 뭐라고 상상도


하지 않았 으니까군요. (쿠시마 지로)


전입 한 것이 세타 가야 중학교이었다 탓에 심하게 늦은 곳에 왔다는, 또는


수 큰 실망을했다. (생략) 경성 나의 출신 초등학교조차 당당한 철근 콘크리트


트의 2 층 이었기 때문이다. (생략) 땅 대해서 가정의 자녀들은 풍모에서하고 그야말로들


(방점 인용 자) 이미 많은 사람들에 의해 말해지고있다 폐쇄성을 노골적으로 나를 대


0


쿠렛 타쿠


0000


해 보였다. (혼다 靖春)


그때까지 "손을 더럽히는 일은 전적으로 조선인"(혼다 靖春) 인 환경에서 자란 소년


이 「수도도 전기도 없어 "있어 25) 시골에인양 와서"식민지 성장의 특유의 우월감 "26)


기억 한


오히려 자연스러운 일이었다. 그들이 살았던 식민지와 점령지는 현대 실험적인 경영의 결과


로 본토보다 문명화 된 시설을 갖추고 있었던 것이다. 식민지 소년들은 "내지"= "본토"


에 동화 의식을 강화하도록 교육을 받고 있었기 때문에 (예를 들어, 조선에서는 본적지 주소를 어두운


誦する 수 중학교의 입시 문제가되고 있으며, 교과서에 실려있는 이세 신사, 후지산 등은 '외부


땅 "인간도 마찬가지로 '일본인'이라는 인식을 심어줄에 필수적인 교육 자료였다.


- 123 - 리츠 메이 칸 언어 문화 연구 24 권 4 호


고토 아키오와 고바야시 마사루의 작품은 그런 것을 자주 언급하고있다), 아직 보지 못한 "내지"에 대해


밖으로는 강한 열망을 가지고 있었다. 그래서 일본의 풍부한 나무에 놀라 애국심을 불을하면서도


실망 또한 컸다이다.


하지만 곧 그런 우월감은 열등감으로 바뀐다.


식민지 태어나는 내지 대한 강한 동경이 있고, 상상력의 세계는 순화되는


한편이다.


실제 생활면에서도 일본인은 한층 높은 곳에 있고, 손을 더럽히는 일은 전적으로 조선인이 있습니다


하도록되어 있었다. 즉 통치자이다. 하지만, 그러한 우리의 상위에 다른 사람


종류가있다. 그것이 내지 사람들이었다. (혼다 靖春)


우리가 학교에 들어가면 일본은 먹는 것 없는데 너희들까지 돌아왔다, 그리고 다른


아이에게 직접 말해지는 것이군요. 그러면 아, 정말 미안 하군라는 느낌


글자는 할 것입니다. (미키 타카시)


따라서, 600 만명 이상의 사람들이 일제히 귀국 해 온 것을 본토의 사람들에서 "낭비 볶음밥 음식


있던 녀석이 돌아왔다 "27)


했다.


받아 들여지고있는 것을 알고, 귀환 자들은 깊은 상처를 입기가


게다가 그러한 차별은 단순히 가난이라는 요인에만 향하고 있던 것이 아니었다. 귀환


사람들이 사용하고 있던 "말씀"또한 그들의 이질성을 돋보이게 본토의 균질성에 균열을 내며


것으로서 차별의 대상이되고 있었던 것이다.


[니가타에 가서] 그러면 말이 통하지 않아서, 조선, 조선인이라는 것이에요. 간사이


밸브니까요. (아 카츠 카 후지오)


지방에서 나간 사람이 많았다 부모 세대와 달리, 귀환 자 · 자녀 세대는 이른바 '식민지


표준어」(고토 아키오)에서 교육되어 있었다. 게다가 교과서는 표준어로도 부모들의 방언과 학교에서


표준어 또한 식민지의 사람들과 거기에와 있던 다른 민족이 사용 피진으로 일본어와 식민지 언어


중간에서 그들은 "아무래도 일본어에 자신이 없다"(고토 아키오 「꿈 사칭 ') 상황에서 자라고도 있었다. 아버지


부모를 "아버지"라고 부르는 이상한 품위있는 '표준어'(= 식민지 밸브)의 일상을 살아 귀환 자


소년 · 소녀의 대부분은 그 수에 따라 차별 된 것이다.


그 것은 「나는이 말하는 것이 통하지 않는 사람이있는 것이 당연하다고 생각하는 세계와 응


같은 것있을 리 없다고 생각하고있는 세계와는 사뭇 다르다 '는 인식을 일으키고 わけても 그 요


우나 폐쇄성이 강했던 일본 사회와 시골의 폐쇄성을 강하게 의식하는 심정도 키우고 있었다.


大藪 하루히코는 "푸른 하늘 암시장에 가서 かぱらっ 버립니다, 잡힌 때 구타"고하는 체험


을 말하면서 "그러나 일본에 돌아와 보니, 그럴 상황이 아니다", "말이 대체로 차이"우


세계에서 "전학 할 때마다 체인에서 구타"고 쓰고있다. "중 여기도 도스 가지고.


먼저 一髪 해 두지 않으면 당해 있으니까요. 정말 피투성이로 싸워 겨우 살아


- 124 - "인양 문학 '에 들어요 (박)


연장했다 "고 말했다. 일본 사회의 차별과 폭력이 귀환 자 소년들의 폭력성도 키워 가고있는 것


알 것이다.


"사투리가 굉장히 강하다"시골 "네가 말하는 것은 모르겠다 - 그래서 골수 분 위협되었다"


으로하는 만화가 아 카츠의 말은 전후 일본에서 "시골"라고해도 "내지"사람으로 중


마음 의식을 공유하고, 그 위에 주변부 차별, 즉 외지 차별과 귀환 자 차별이 있었다는 것을


가르쳐 준다. 게다가 식민지 · 점령지 도시의 대부분이 본토의 시골보다 문명화 된 무녀


그리고 감안할 때이 같은 차별의 구조의 왜곡도 보인다. 즉 식민지 타이스


하는 제국의 차별 의식은 "개명"한 측면으로서의 우월감에 힘 입어 있었음에도 불구하고 그


같은 차별 구조가 "내지 인"과 귀환 자 사이에서 반드시 성립하지 않았다는 것을 알 수 있으므로


있다. 거기에서 문명도보다 정주자로의 권력이 발동되어 귀환 자들은 도시 · 시골이라


그것까지 차별 구조를 넘은 곳에서 차별 받고 있었다. 귀환 자 성적이 "상위"(고토 아키오)이었다


적도 점령지 · 식민지 문명도 은근히 나타내는 것이었지만, 그것은 귀환 자들의 은밀한 유


왕위 느낌을 지탱는해도 그들의 거처를 만들 정도의 효과는 제출하지 않았다. 그래서 그들은 "일부러지는"


(동) 같은 굴절 된 선택을 반복하면서 "본토"사람들에게 표면적으로 동화하면서 전후 일본을


살아 가게된다.


귀환 자 차별 된 원인에 대해서는 별고에서도 말했지만 28)


눈에 띄는 원인의 하나로서 그들의


빈곤을 올려 둘 수있다. 귀환 자 대부분은 지금까지 쌓아온 지위와 재산, 또한


가족을 포함한 '사람'으로 재산을 전부 잃고 결과로 총체적 '빈곤'에 빠졌다. 그들의 대부분은


근대 일본의 국책으로서의 「해외 이주 '정책에 실려 국외로 쫓겨 갔다 가난한 사람들이었다


하지만 29)


, 돌아온 후에도 여전히 가난하고, 물자가 부족한 전후 일본에서는 수하물의 "불필요한 것들"


에 지나지 않았던 것이다.


그래서인양 소년과 소녀들은 통치자이며, 세계와 호흡하는 '문명'도시 출신으로 자랑


됨과 우월감을 가슴에 품 으면서도, 돌아온 '조국'으로 '전후 일본'에서 '적응 장애 인식 "


(혼다 靖春)로 불리는 같은 열등감에 시달리는 것이다. 긴 세월을 '마음의 진흙 "(일


野啓三 "피안의 집」, 83면)에서 때로는"류머티즘」(모리 사키 태화강 '메아리 울리는 산하의


안으로 - 한국 기행 85 년 봄」, 아사히 신문사, 1986,8 쪽)과 같은 통증을 예리하게 느끼는 신체를 가지


바꾸어하면서 전후 일본을 ​​살아온 것이다.


4. '기억'의 억압과 봉인


식민지 · 점령지 체험을 수반인양 체험은 반드시 쉽게 말해 얻는 경험은 없었다. 물론


수기 등이 방대하게 존재하는 것은 사실이지만, 그렇다고해서 그런 것들을 모두가 말하는 종


수 일을 모두 말하고 있다고는 말할 수 없다. 어떤 말을 쏟아하면서도 정작 말해야한다,


하고 싶은 이야기는 얘기 지 않을 수도 있기 때문이다.


예를 들어, 다음 문장은 그 수를 둘러싼 심리적 억압의 존재를 깨닫게 해 준다.


나는 예를 말하면 그대로 대기실을지나, 역전의 모습을 한 걸쳐 전망했습니다. 역무원의


가르쳐 준 다리는 보이지 않았습니다 만, 역 택시 승강장과 버스 정류장을 겸한 광장이


- 125 - 리츠 메이 칸 언어 문화 연구 24 권 4 호


때문에 눈 앞에 똑바로 넓은 도로가 달리고 있습니다. 그 길을 가면 아마 다리 당 당


다가오는 것입니다. 히로시마에 원자 폭탄이 떨어진 것은, 아빠도 아시죠? 가지고


도 당시는 특수 폭탄 라든지 말해지고 있었던 것입니다 만, 현재 히로시마의 사람들은 원자 폭탄을


"어"라고 부르고 있다고합니다. 요코가와 부근이 과연 그 원폭 피폭 지인 여부


조차 모르는 나에게도 그 마음 만은 알 것 같은 생각이 듭니다. 원폭은 현재 세계와


0000000000


또는 인류 이라든지의 문제로 논의되고 있습니다 만


000000000000000000000


물건


00


"어라,


00


"밖에 명명 싶지 않은 것들은


0000000000000


누구나


0000



00


"어


00


"밖에 호출 할 수없는


0000000000


(방점 인용 자) 것이다 때문입니다. 원폭을 '아


れ」이라고 부르고있는 사람들의 마음이 나에게도 알 것 같은 생각이한다는 것은 그러한


의미입니다. 아버지도 "어"가 있습니까? 아니면 또 "어"같은 것은


아버지와는 인연없는 것일까 요? (고토 아키오 「아버지의 편지」 「思い川 "코단샤,


1975)


"어"라는 말은 구체적인 표현을 거부하고있다. 여기에서 말하는 "어"가 식민지 경험 전


몸이 아닌 사건으로 "귀환"을 가리키는 것은 분명하다. 그리고인양시


이보고들은 것, 두려움, 슬픔, 외로움, 절망, 또한 그들을 둘러싼 추악한 욕망의 모습은


말 수없는, 말하는 것 자체가 고통스러운 경험이었다고도 할 수 있겠다. 그러 한 당사자했다


ちにとて 입에조차 주저하는 것이 '세계 라든지 인류 이라든지의 문제로 논의 "된


할 저항을 느꼈다고 것도 당연하다. 그러나 그 것은 반대 "어"가 그런 식으로 단


그물에 거론되는 같은 것은 아니고, 그리고 비록 말하자에도 그것이 오히려 자신과 주변의 억제


제이나 억압을 의식시켜 버리는 경험 이었다는 것을 말해주는 것이다.


예를 들어, 이츠키 히로유키가 나오키 상을 취한 소설 「蒼ざめた 말을 보라 "( 「별책 문예 춘추」제 98 호,


1966 · 11)는 그런, 말하기의 불 · 가능성에 대해 생각하게 텍스트로도 관심


깊다.


"- 저게 뭐죠 소리 다"


"누군가가 계단 양동이를 걷어 찼다거야. 일층까지 떨어 갔다 같다거야."


타카노는 큰 숨을 내 쉬었다. 그리고 지났 올라가면 테이블에 브랜디를 컵에


절반 가량 이어 한숨을 부추겼다.


의자에 걸터, 한 잔 붙어있다. 오리가는 바닥에 드러 누워 채 그런 타카노을 じとみ


채우고 있었다.


"그 소리는 싫어"


와 타카노 말했다. "물통을 두드리는 소리를 듣고 참을된다. 싫은 것을 기억 뭐든지 네요.


이상한 이야기이지만 "


타카노는 그것을 떨쳐 버려야 얼굴을 젖히고 컵을 부추겼다. 하지만 역시 안이었다.


<구운 일이에요 우>


그리고 그 불쾌한 목소리


000000


를 비난에서


000000


하지만


00


(원문 방점)가 문득 들려했다. 그는


00


아직도 자유롭지 못하고 있었다


0000000000000


시간의 후치를 한 점프하고


000000000000


그 소리는하고왔다


000000000


- 126 -


그동안 뻗어 목소리와


000000000


(방점 인용 자).


양동이


000


. 그로부터 이십 년 가깝 세월이 흐르고있다


000000000000000000


. "인양 문학 '에 들어요 (박)


그것은 일본이 전쟁에 패한 1945 년 겨울, 발진티푸스가 발생한 北鮮의 일본인 수용소에서


매주 월요일 아침 화장 당번이 각 동 사이를 외치고 다니는 이상한 인사했다. 당시 열두 살


한 타카노와 그 가족은 패전과 동시에 연길에서 남하하여 그 도시에서 긴 맞추고없는 겨울을 보내고


것이다. (이츠키 히로유키 "蒼ざめた 말을 보라」 「이츠키 히로유키 소설 전집 〔1〕」, 코단샤, 1979,


207-208 페이지)


일본과 러시아를 무대로 일종의 추리 소설의 형식을 취하고있는이 젊은 날의 소설에서 주로


사람 공이 "양동이의 소리 '에 시달리는 것은 그다지 중요한 복선이있는 것은 아니다. 주인


공을 마음을 앓는 인물로 설정하기 만하면 가정 폭력과 실연의 이야기도 충분히 그 역할을 담당


한 것이다.


그러나 여기에서 주인공을 괴롭 히고있는 것은 바로인양시에 본 장면이다. 게다가


이 작품은 그 것을 특히 강조하고 쓰고있는 것은 아니다. 체험으로 쓰면서


이것이 어떤 경험 이었는지, 왜 이런 일이 있었는지에 관해서는 일체 설명이 없


이노이다.


즉 전체 스토리에서하면 여기에서의 '귀환'의 이야기는 거의 눈에 띄지 않는다고


도 더할 나위없이 좋다. 하지만 그래도 이렇게 썼다는 것은이 것이야말로


쓰고 싶다,라는 식으로 간주해 좋은 것이다.


물론 그렇다고 제대로 이것을 귀에 세워주는 '청자'를 상정하고있는 것은


이 아니다. 그런 것을 기대했다면 수십 년이 지난 후 이야기 낸 바와 같이 전후의 관


관계를 갈피를 달아 말했다 것이다.


즉, 여기서의 이야기는 "말하고 있으면서도 말하지 않은"것으로 할 수있다. 즉 말할


불 · 가능성이 적혀있는 것이다. 즉,인양 경험은 당시의 이츠키는 여전히 정면에서


쓸 수없는 것이었지만, 간접적 인 형태로도 쓰지 않으면 안되는 것이었다


알 수있다. 그것은 고토의 이야기 "어"라고하는 이야기 방식과 통하는 것이라고 말할 것이다.


"귀환"은 이렇게, 말하기의 불 · 가능성을 나타내고 버리는 것이었다. 게다가 책


くこと = 표현을 둘러싼 격투는 단순히 '인양'으로 제한하는 것은 아니었다. 태어나고 자란 식민지


기억에 관하여 예를 들어 고토 아키오는 다음과 같이 말하고있다.


전쟁이 끝났을 때 내 어린 시절은 끝났습니다.


그리고 나는 동시에 '고향'도 잃어버린 것입니다. 즉 우리는 "낳지


れ 고향 '을 추방 "조국 일본」에인양 온 것입니다. (중략) 물론 나는 일본인


한다는 이유로 스물 일곱 년이 지난 지금까지도 「고향」에서 거절 있는지도


모릅니다. 그러나


000


것입니다


0000


"고향


00000


"에 대한 내 기억 만은 누구도 거부 할 수없는


000000000000000000000000


(방점 인용 자). (고토 아키오 「아버지의 편지」)


"소년 시대는 끝났다"는 단순히 나이를 의미하는 것은 아니다. 그것은 더 이상 "소년"


에 만족하고있는 감미로운 시대가 끝났다,라고하는 것이다. 그것은 "소년"의 추억


배경이되는 공간이 없어져 버렸기 때문이 아닐 수 없다. 즉 「추방」과 「 「고향」


- 127 - 리츠 메이 칸 언어 문화 연구 24 권 4 호


에서 거절한다 "라고 거절 이유의 것이다. 그러나 고토 사실은 빼어난 치밀 함에서 식민


땅의 풍경과 사람들의 기억을 쓰고있다. 그리고 그런 '기억의 추방 "에 대항 것은 심기


민지의 '정주자 중심주의'를 구워내는 것에도되었다.


고토는 "즐거운 말을해서는 안된다"며 달콤한 기억과 표현을 최대한 억제 한 고바야시 마사루와 달리


반복 다양한 기억을 회상 남긴 '말하다'의 가능성과 권리를 주장했다. 그것은


제국 · 식민지의 기억을 봉인 망각하려는 일본과 조선의 '정주자'의 억압에 대항 할


하지만 있었다. 그리고 그렇게 정주자의 공통의 기억에 균열을 넣는 것으로, "비 정주자"의 감각


를 유지하고 있었던 것이다.


고토는 다음과 같은 흥미로운 발언을하고있다.


재미있는 것은 말이죠, 귀환 자이 두 가지가되는군요. 즉 적극적으로 할까, 친구를 만들어


밖으로 여하튼 가자는 그룹과 그리고 표준어를 지켜 정말 이어졌다 두세 명


의 귀환 자만으로 뭉쳐있는 것과이 두 가지로 나뉘어 서요 30)


.


고토는 처음에는 '동화'하려고 결국은 그만 버린 경험을 얘기하고 있지만 실제로


는 '기억'은 동화하지 않았다. 그리고 고토 말하는 '동화'에 귀환 자의 '전후'를 푸는 열쇠


가 존재한다. 즉 그 "동화"의 모양과 깊이에 따라인양들은 다양한 형태로 전후 일본을 ​​살


하게 된 때문이다. 그리고 작가가 된 사람의 대부분은 "처음부터 비교적 깨어 방관자이라는


여부 관찰자라는 느낌으로, 일본 사회에 들어왔다 "고하는 澤地 久江이나 「나는 다른구나,


초대받지 않은 인간구나,라고. 이 실감는 서른 몇 년이 지나도 없어지지 않는다」라고하는 오자키


히데키의 감각을 공유하는 것이었다. 즉, 그들은 피상적 인 "동화"여하에 불구하고 "초청


か받지 않은 인간 '으로서의 소외감을 바탕으로 "방관자" "관찰자"타로로 한 것이다.


본토인양 온 것이 아니다. 본래의 땅에서 쫓겨나 이방으로 강제 송환 된 것이다.


영혼 속의 어머니 인 것이 현실적인 대응 물을 빼앗겨 지워져 버린 것이다. [중략] 어떻게


위화감을 느껴서 [중략] 내 안의 작은 새를 왜곡 죽인 생각이 드네요. 그 때,


내 안의 인간 다운 감정이있는 부분을 죽인라는 생각이 견딜 수 없다. [중략] 그렇게


없으면 살아 갈 수 없었다. (히노 啓三)


"내 안의 작은 새 '는'영혼 속의 어머니 인 것 '을두고 온 고향이나 다름 없다. 거기에 '추가


잡혀 "와서"현실적인 대응 물을 빼앗겨 "기 소년들이 '본래의 땅"ならぬ "객지'에서 居場


소를 찾지 못하고 부유하는 것이라고는 상상하기 어렵지 않다. 하지만 그래도 '조국'중 생


수 으려고은 "내 안의 작은 새를 왜곡 살"すほか없이 그들은 말하자면 어머니를 잃은 고아


같은 일이 될 수밖에 없었다. 그들이 "타향으로 강제 송환 된"존재 였다는 것은


인양 소년이 전후 일본의 정신적 디아스포라와 다름 없었다는 것을 보여준다. "일제


국가 "= 지배하는 측도 또한 디아스포라를 낳는 것이다.


"전후 서른 네번째 년 거쳐,이 풍토에 뿌리 내린 그 느낌을 아직도 가질 수 없다. [중략]


자신이이 나라의 사람들과 꽤 이질적이라는 인식을 버릴 수 없다 "(혼다 靖春)과 토


- 128 - "인양 문학 '에 들어요 (박)


이슬시키는 위화감의 근원은 여기에있다. 또한 "욕심의 농민에 대한 증오를 품고


있다 "고하는 別役 실제 단어는 민족주의를지지 해 온 農本主義의 주역 ="농부 "들이


바로 '정주자'의 중심적 존재였던 것도 나타내는 것이다.


인양 파는 현지에서 거절되는 한편, 자신도 "내린"그런데있다. 지방에 있던


사람은 특히 그 느낌이 강하다. 그리고 거기에는 식민지 성장 특유의 우월감이 일하고있다. (생략)


내린 것은 문학서를 즐긴 것이 계기였다. 소설에서도 쓰려고하는 것은, 마기


れ없이 정상적인 경쟁을 내린 사람들이다. 작가에 귀환 자이 많은 것은 새삼 것을 신


시구 말하는 것이 아닐지도 모른다. (혼다 靖春)


"귀환"체험을 통해 소년 소녀들을 "쓰기"를 촉구 한 것은 오직 그러한 "정


주거 자 '의 세계에 대한 위화감, 우월감, 열등감, 引け目 불우한 느낌에 근거 외부인 불필요한 물건


로서의 자기 인식을 기꺼이 받아 "비 정주자 감각 '이었다. 일본인을 '원주민'(別役 열매)


로 전망 스스로를 '재일 일본인 "31)


인식시켜 쓰는 것을 "하숙 비용"(혼다 靖春)을 지불 행


때문에로 인식 둔 것은 '전후 일본'정주자 중심주의였던 것이다.


그렇다 치더라도, '축제'등으로 감정 이입하지 않고 "청구서 등 몇 달 헐떡도 좋아」라는 느낌


각서를 가지고 계속해서 "일본의 전통적인 물건은, 내 안의 아무것도 없다"32)


(天沢 退二郎)라고


둔 감각은 일본이 "일본 자체가 변화하지 않으면 안되었다"(고토 아키오)로 기대를


만족시키는 것이었다 여부. 어느쪽으로 든 그 사거리에서 "인양 문학 '의 가능성은


존재하고 있다고 할 수있다.


미키 타카시는 첫 장편 동화 속에서 다음과 같이 말하고있다.


그리하여 저는 알고 있습니다. 楊가 무순에서 기술자가되어있는 것도 백계 러시아인 여자


아동 안나가 소련으로 돌아 피아니스트가되어있는 것도 다른 아이들도


모두이 세상 어딘가에있을 것입니다.


어린 매일 연속 날들이 어떤 어른을 만들고있는 것이다. 우리들의 아이 일


날들은 불행이었다. 국경이 차별이 정치가, 우리들을 모두 함께 미래를 만드는 동료


하게했다.


(미키 타카시 "망한 나라 여행"1969, 코단샤 2009 년 복간 220 페이지)


인양 문학들은 "어린 날들 '에 해당 식민지 점령지 체험과"연속 날들'로 따뜻


하는 전후 체험도 간직하고있다. 그리고 그들이 "어떤 어른 '이 된지도 보여 오는


이다. 그러나 그 '아이' '소년'들의 성장을 전후 일본은 보려고하지 않았다.


5. 또 하나의 '식민지'풍경 - "아이"의 가능성


"인양 문학」에서 보이는 것은 '다시 디아스포라'감각으로 바라본 '전후 일본'의 모습 만


이 아니다. 물론 그 前史으로 "귀환"시 "난민"으로 외상, 수


- 129 - 리츠 메이 칸 언어 문화 연구 24 권 4 호


더욱 그런 "귀환"을 강한 원인이되는 식민지 경험이 거기에 그려져있다. 인양의


시의 처절한 비참하고, 피 식민에 대한 식민지 사람의 억압 (고바야시 승)과 다양한 인종이 뒤섞여


하는 식민지 제국으로 풍경 (미키 광주 고바야시 마사루 등)이 그려지는 것은 당연하고, 주목해야 할 것은 심기


백성들의 기민 성 (미키 타카시)과 피 식민들과 식민지 사람 사이의 전도 된 심리적 폭력 (고바야시 승) 등이 그려져


된다는 것이다. 그들은 지금까지 생각해온 '식민지'나 '귀환'의 모습에 있던


신발도 균열을 가하고 있습니다. 아마 귀환 자들이 '인양 "라고 다시 이동의 경험을


했기 때문에 쓰여지는 말할 수있을 것이다. 그 측면에 대한 자세한 내용은 원고를 다시 논의 싶지만,


여기에 참고로 서양의 귀환 (식민자) 문학을 취해 그 일단을 봐두기로한다.


일본의 '귀환'문학 '제국'이 낳은 것이다 같이 일본보다 먼저 제국주의에 ​​몸을


나선 서양에도 당연히 "인양 문학 '으로 간주 할 작품은 많이 존재한다. 그리고


여기에서도 「식민지」과 「제국」에 뛰어난 고찰을 남긴 것은 식민지에서 자랐


한 '아이'들이다.


일본의인양 문학의 많은 가운데, 성인 이민자들은 자녀에 피 식민지 사람 사이


누워 공간적 · 문화적 · 심리적 경계를 넘는 것을 금지하고있다. 그것은 통치자가


하면서도 몇 위에서는 소수에 지나지 않았다 식민지 인들의 피 식민지에 대한 잠재적 인


공포 때문에의 것이라고 말해도 좋다. 그런데 식민지 사람의 아이들 중 일부는 "混交"두려워 그


같은 우려와 두려움을 무시하고 세계로 과감히 들어도 있었다. 예를 들어, 「제인 에어」(샤


로트 브론테 1847 년)에서 로체스터 부인 (= "狂女"으로 한 여성)을 주인공으로


설정하고 그 前史이라고도 말할 수있는 작품을 쓴 진리스 (1890-1979)는 "사루갓소의


넓은 바다 "(1966)의여 주인공으로 다음과 같이 말씀하고있다.


아니, 아침은 행복했다고 말했어. 오후는 그렇지 않고, 해가 진 후에는 항상 불


행복했다. 해가 떨어지면 그 집은 불길 이었어, 그런 장소도 있어요. 그리고


000


날이왔다


00000000


...... 백색 검정 맘보처럼 자란 나에게 눈치 어머니가 부끄럽게 여기는 날이


0000000000000000000000000


외 무엇이든 변해 버렸어


000000000000000



0


. 그날 가지


0000


(방점 인용 자). 그래, 그건 내 잘못이야, 어머니가 우리의


생활을 바꾸려고 맹목적으로 계획을 세우고 시작한 것은 내 잘못 했어. (오자와 미즈호 역, 「세상


동그라미 문학 전집 Ⅱ-01 "河出書房新社, 2009,384 페이지)


영국의 식민지 도미니카 섬에서 태어난 주인공은 식민지 사람들에게 "흰 바퀴벌레"라고


되면서 성장하지만, 그런 혐오의 시선은 단순히 피 식민지 인의 것이 아니었다. 그것은 "순


멋진 "식민지 사람 일세에 해당하는 부모들로부터의 시선이기도 한 것이다. 식민지 아이들의 놀이 나


음식, 심지어 행동까지 흉내내는 것을 금지 한 것을 유아사 克衛 ( "칸나니")과 후


등나무 아키오 ( "꿈 사기꾼 '등)도 못 쓰고 있고, 그런 금지와 혐오는 사실"제국 인 "


에 공통적 이었다는 것을 알 수있다.


그리고 '식민지'의 비참과 불행을 누구보다 잘 바라보고 있던 것은 식민지에서 자란 소년


소녀였다. 그들은 피 식민에게 가해지는 고문의 고통과 수치를 마치 자신의 고통 인 것


같이 느끼고 (고바야시 마사루 이츠키 히로유키) 식민지의 굶주림에도 상상력 (고바야시 마사루 "아기가 조


됐다 ") 식민지 사람 앞에서 울부 짖는 피 식민지 인의 모습 (무라 마츠 타케시"조선 식민지 사람 ")과 식민자와 被植


- 130 - "인양 문학 '에 들어요 (박)


백성들의 거주지의 차이도 제대로 지켜 있었던 것이다.


예를 들어, 동독 인도 지역을 식민지화 한 프랑스 작가 마르그리트 뒤라스 (1914


-1996)는 "태평양의 방파제」(1950) 속에서 프랑스 령 인도 차이나에 대해 다음과 같이


쓴다.


바로 식민지 전성 시대였다. 수십만 현지인이 수백 헥타르에 이르는 붉은에 나


나무의 수액 채취에 종사하고 그 나무에 흠을 달아 액즙을 데리고 그들이 자신


혈액을 채취했다. 그 수백 헥타르의 토지는


0000000000000


백인 재배 장 주님의 소유가되기 전부터


00000000000000000


피도 흐른다


00000


. 하지만


00


피가 낭비 흘러 간다 뿐이다


0000000000000


막대한 재산을 가진


000000000


우연히 붉은이라고는 있었다


00000000000000


소중한 것은 고무 액만으로 정성껏 채취


000000000000000000


수백명 가지


00000


. 고무 액이 흘러


000000


채취되면 수익성


00000000000


,


.


. (방점 인용 자) 언젠가는 큰 무리가 일어나서 흘린 피에 대


원자를 물음에 오는 날이 올 등이라는 것은 아직 생각을 피하던 시대 인 것이다. (타나카


倫郎訳 "세계 문학 전집 Ⅱ-04"河出書房新社, 2008,158 페이지)


이처럼 라스 식민지에서 착취를 잘 묘사하고있다. 게다가 그뿐만 아니라,


"식민지의 작은 식민지 사람 '들은 피 식민지 사람에 의한 식민지 사람의 유린 (= 관계 전도)도 놓치지 않고


에 그리고있는 것이다. 또는 임대는 다음과 같이도 쓰고있다.


그 때 지친 듯 흔들 의자에 허리를 내렸다. 흑인 남자가 어머니를 의자에서 안아


올리고 키스하는 것이 보였다. 남자가 입을 어머니의 입에 대면 어머니는 그의 팔에 미약 짚


흘리는 것, 남자는 소리를 높여 웃었다. 흑인 여자도 웃고 있었지만 화가 났었어요. 그것을보고 나는


도망 간 것. 울면서 돌아 가면 크리스토 휘누이 기다리고 있었어요. (전게 "사루갓


톱 넓은 바다 "387 페이지)


모리 사키 태화강은 피 식민지 인 소년들의 호기심의 눈 - 명확하게 성적 눈빛이다 -를 그려


상태 여야가 임대가 그린 것은 그 욕망이 완수 된 장면이라고 할 수 있겠다. 이 자리에 "블랙


사람의 여자 '도 동석하고있는이 유린이 남녀 사이의 성적 관계를 넘어 민족적 = 인종,


즉 식민자와 피식 민자의 그것임을 나타낸다. 이 장면에서 "어머니"의 수동성, 남자


웃음 흑인 여성의 웃음은 그 것을 통해 모든 사랑의 가능성을 무화한다. 아이의 백인 소녀


가 '도망'수밖에 없었다 것은 그 키스가 사랑의 키스가 아닌 제재 장소에서 밖에 없음을 느낌


잡고의 일이다.


그런 넘어진 구도에주의 기록해 얻은 것은 작가가 이미 "원래 식민지 사람"에 지나지 않고,


식민지 사람이면서 권력의 중심이 될 수 없다 약자 성을 띠고 있었기 때문이라고 할 수있다.


식민지 사람의 대부분은 분명히 부유 한 통치자 였지만, 그렇다고해서 반드시 행복했던 것은


이 아니다. 앞의 예문에서 이미 그녀는 그 불행을 담고 있지만, 또한 임대는 "내 어머니


했다고 어떤 정의가 주어 졌다는? "("사루갓소 넓은 바다」398 쪽)라고 호소하고있다


て 식민지들에서 '정의'가 모든 식민지 사람에게 나누어졌다 것은 아니고, 제


알렉산더와 계급에 의해 구별된다 유보 대해서 것이었다 것을 보여준다.


- 131 - 리츠 메이 칸 언어 문화 연구 24 권 4 호


원래 식민지의 대부분은 "기민 '였다 33)


. 유아사 克衛의 "칸나니"아버지 "馘가


한 "지방 도시 노동자 였고, 이츠키 히로유키의 아버지는 농촌에 남아있을 수없는 삼남이었다. 그


알은 식민지에 통과해서 많은 사람들이 그것을 때보 생활 자원을 얻을 수 있었지만, 유아사의


"이민"의 松次郎처럼 동양 척식 주식회사에 사기에 가까운 방식으로 분양 받아, 그 다음은


25 년 동안 경작한 토지를 현대화의 물결에 마셔지는 형태로 다루어지는 (깔끔한 집을두고이


하나님은하지만)도 적지 않게 존재하고 있었던 것이다. 즉, 제국이 요구 한 문명은 피 심기


백성들뿐만 아니라, 제국 사람을 그 희생했다. 그리고 그것은 제국의 식민지 · 본토의


내국 식민지에서였다 34)


.


마찬가지로 라스도 "경작에 적합하지 않은 토지를 총독부가 분양하는"( 「태평양의 방파제」19 페이지) "잘못된


희망을 안겨주위한 바로 미끼」(동 265 쪽) 등으로 작성하여 그들이 국가에 속아 심기


민지에 가게되고, 거기에 정착하도록 강요 됨으로써 제국의 영토 확장의 일익을 담원되고


있었으면도 못 쓰고있다.


이러한 식민지의 반전이나 뒤틀림을 놓치지 않고 그려 얻은 것도 그녀들이 '아이'였다


것, 즉 아직 "식민지 사람"으로서의 정체성을 충분히 몸에 붙어 있지 않은 입장에


있었기에 가능한 것이었다. 구조적으로는 식민지 사람이 아닐 수 없다해도, 성별 성과 년


연령이나 계급에 따라 그들은 약자도있을 수 있었기 때문이다. 식민지 사람이면서 여자들이 미치게 마라


하거나 아이들이 마음에 입을라고하는 일이있을 것도 바로 그 때문의 것이었다.


같은 라스의 '애인 (라만)」(1984)에는 다음과 같은 구절이있다.


그녀들의 집이있는 것은 미쳐 버린다. 또 어떤 여자들은 입을 듣지 못한 젊은 여자 부름


사용에보고 돌아 오지되어 버려지. 버림받은 여인들. 이 말이 그녀들을 ぐさり하게


날카로운 소리가이 말과 함께 펼쳐지는 소문이이 말과 함께 주어지는 때리는 소리


이 들린다. 자살하는 여자들도있다. (시미즈 徹訳 앞서 말한 "세계 문학 전집 Ⅱ-04」, 2009,356 쪽).


일본이라면 고바야시 마사루가 식민지와 피 식민지 사람에 대한 무한한 애정을 적어하면서도 피 식민지 인의


폭력과 그로 인한 위화감을 동시에 남긴있다. 그것은 예를 들어 식민지 사람 소년 세쿠하라ま


외부 일을 피 식민지 인 여성과 기념품을 가지고 문병하러 온 식민지 사람 소년 기념품을 던져


점화 성인 피 식민에 대한 것이다. 거기에서는 피 식민지 사람이면서도 그들이 "성인"


과 "남성"으로 속성을 사용하여 폭력을 일이 가능했던 것이 나타날 것이다.


무엇보다, 이런 일이 식민지의 차별 구조를 뒤집는 것이되는 것이 아니다. 과


아니, 이런 것은 지금까지 포스트 콜로니 아 리듬의 인식의 수정을 강요하는 것이있다.


무엇보다 '식민지'는 식민지 사람에게도 (자발적으로 보여도 구조적으로) "이동 당했다"


장소와 다름없이 그러 한 거기는 식민지들에게도 결코 안온 한인 장소가 얻어


없었다. 이 점을 인식하는 것이야말로 제국주의에 ​​대한 근원적 인 비판이 될 수있는 것이다.


이와 같이, "식민지"의 또 다른 모습을 볼 수는 포스트 콜로니 아 리듬의 수정을 강요하면


동시에 포스트 콜로니 아 리듬의 사상을 강화한다. 중요한 것은 "조국"인 "식민지"이든,


거기는 어차피 "원래 정주자 '의 공간이다 수밖에 없으며 그러 한 그곳에서는 항상 정주자


중심주의가 암암리에 근무했다는 것이다. 그 것은 식민지 사람이 그 땅을 '추방'되는


- 132 - "인양 문학 '에 들어요 (박)


수 간신히 표출되는 것이다.


6. "당사자 = 비 정주자"감각에서


격려되면 약간 기분이 안 하루 것이었다. 하지만 니시노에서 격려되면 뭔가 적재


실려있는 것 같은 느낌이 활보. 역시 久治는 니시노이 돕지 않는 것에 집착


있는 것이다. 그러나 기념비라고해도구나 - 久治는 생각이었다. - 곧이


시가도를 봐도 아무런 감회도 감흥도 일으키지 않는 사람들 만이 될 것이다. 시 야와


시 야에 반한 사람들은 카페 千城라는 단어는 마음에 울린다. 다다미 の清 씨는


이소 여관이라는 단어는 가슴에 스며드는. -하지만시 짱도 죽어 버리고, 청 씨도 죽어


로 만다. 千城도 이소 여관도 없어져 버린다. 건물은 이미, 벌써 사라지고 있는지


도 모르는 것이다. 그것은 추억 속에 수밖에 없다. 그 추억이 없어지는 때 千城도 이소 여행


관도 사라지고, 종이에 문자가 남아 뿐이다. 기념비는 그런 것 인 것인가? 그리


하며 자기들이 죽은 후, 아이들은 그 기념비의 종이를보고 어떻게 생각 할까? 시


노 시가지를보고 어떻게 생각 것이다. (古山 고려 수사 "작은 시가도"河出書房新社 1972,


212 페이지)


古山 고려 수컷은 식민지 경험의 '기억의 죽음」(동)을 두려워했다. 그리고 '전후 일본'의 상황은 그


우려가 틀리지 않았 음을 보여주고있다. 그런 「기억의 죽음 '은 사실 식민지


땅에서 일어나는 것이지, '해방'후 한반도에서도 백만 명에 가까운 그 땅에 살고 있던 일본인이


는 완전히 잊혀졌다. 그 것은 "이민"= 비 정주자의 것은 '정주자'에 관심


을 지불 할 대상이 아니라 '국민 국가'라는 것이 결국 정주자 중심의 것임을 나타내는도


것이다. 거기에 이전에 존재했던 사람들의 기억이 망각되어 온 것은 '국민 국가'공유해야 "단


한 민족 '의 기억과 상반되는 것이기 때문이다.


귀환 자 기억을 받아들이는 것은 국민 국가가 아닐 수 없다 "정주자 중심"계획이었다이


그리고 아는 데에도 필요하다. 그것은 "재 한국 일본인」나 「재만 일본인 '들이 어떻게'재일 일본인"


되고, 그 중 '재일'의 인식을 버리고, 혹은 유지하고 있었는지를 보는 것도


있다. 그것은 '전후 일본'과 '전후 일본 문학 연구 "가 배제해온 제국의 기억 양상으로 방향 경우


うこと이며, 그것은 '이동'과 '정착'에 얽힌, 근대 국민 국가의 권력 구조를 파악


것에도 될 것이다.


만주 등으로 건너간 사람들은 반체제적인 사람들이 많지만, 고미 카와 쥰 페이의 '인간의 조건'


도 처음부터 그 수는 단단히 제치고 쓰고있다. "식민지 사람"들이 반드시 '제국 야망'


나 "일확천금 '을 꿈꾸며 사람들뿐만 않았다는 것을 아는 것은'제국 '의 복잡한 구조를 지금 한


마다보기 위하여도 필요하다.


그리고 귀환 자들도 또한 식민지에서의 평안 기억을 둘러싸면서 "제국 의식 '을 살려주는 자신의"재


일 일본인 '을 봉인하고 다른'재일 '조선인 등에 대한 차별 의식을 살려주는 계속 사람들과 반


체제적이고 민족주의에 비판적인 사람들과 헤어졌다. 그것도 그들에게있어서 「이동


로 다시 이동 "체험 따라서 인식과 자세 였지만, '전후 일본'은 그 경험을 어떻게 활용 했는가.


- 133 - 리츠 메이 칸 언어 문화 연구 24 권 4 호


그 것이 향후 검증되어야 할 것이다.


わけても 귀환 자 중 일부가 유지 한 '양아들'의식은 "내지"의 적자를 둘러싼 이데올로기


를 あぶり出し "내지"(= 본토) 중심주의와 혼혈을 은폐 한 수 '단일 민족 국가 신화 "를


지원 것도 보여줄 것이다.


지금까지 제국과 식민지를 말할 때 "당사자"의 이야기가 참조되는 것은 거의 없었다


라고 좋다. 기이하게도,인양 과정에서 사망 북한에 매장 된 채 세 만명 가까운


구라고되어있는 유골의 반환을 둘러싼 협의가 지금 드디어 시작 되려도있다 35)


.


일본의 '전후'는 300 만명의 귀환자를 받아들이면서, "원래 정주자"우리의 기억만을 특


화신 해왔다. 그런 의미에서 그들을 발송하고 「정주자」에 유지 된 "원래 내지 인"


들이 뚫려도 불구하고 국가의 중심에 있으면서 재 통합의 시대 였다고도 할 수 있겠다. 그


수 식민지로 이동 몇 년에서 수십 년에 걸친 '임시 정착'의 기억, 그리고 내륙에 "다시 이동"


기억을 간직 자서전이나인양 문학을 '기억의 죽음'의 대상으로 해 온 것이다.


무엇보다, 이른바 '만주 문학'과 기타 아시아 관련 문학에 대한 관심이 전후 일본에 전혀


없었던 것은 아니지만 36)


. 그러나 그들은 어차피 거기에 있던 원래 정주자들의 관점에서 바라


한 관심 밖에 없었던 것은 아닐까. 예를 들어 "외지 일본어 문학」라는 관점은 그


후 다시 이동 못한 자 "미 귀환 자 '들에 대한 상상 - 아직 작성하지 않거나


눈에 닿을 수 없다 "미 귀환 문학 '의 가능성에 눈을 돌리고 없다. 식민지와 점령지에 남아


할을 강요받은 사람들의 이야기, 즉 "일본 유부녀"중국과 조선인 사이에 태어난 혼혈


어린이, 고아, 판매 된 아이들의 이야기 등이다. 그들은 정주자 주


사회에서 소수자 된 지금까지 그 소리가 '문학'으로 들려오는 없다.


그리고 그렇게 생각했을 때 전후 일본 문학 속에서 오랫동안 소수자 문학에 불과


'재일 문학'역시 "미 귀환 문학 '의 하나라는 그 특성이 보인다 것이다.


무엇보다 "미 귀환 자 '먹은 이야기로 우선 귀를 기울인다 할 것은 결국"이동 "


못하고 돌아가신 어른과 아이들의 이야기 일 것이다.


모두 가만히 움직이지 않고 차가워지고있는 것이 었습니다. 이 땅에서 일했던 일본인


아이였습니다. 이젠 어떤 괴로운 것도없고, 즐거운 편안한 세계에있는 것이 었습니다.


또 도망쳐 않아도 좋습니다. 이렇게 아이들은 만주국의 속죄를 위해


000000000000000000000


잃은 것이 었습니다


00000000000


위에서 죽었습니다


000000000


. 이 아이들은


000000


어른의 죄를 위해


000000000


아니, 일본인의 자녀뿐만 아니라, 많은


00000


광주 "망한 나라의 여행」, 213-214 쪽)


그들이 돌아 오지 못한 이유를 단순히 '전쟁'에 찾아 낼 수 없다. 그들의 죽음은 직


연은 생명의 관리자이기도 한 남성과 성인에 의한 것이기도했다이며, 그 배후에는 국가,


계급, 젠더 등 다양한 권력과 욕망의 せめぎあい이 존재했다. 그 "소리"와 살아


혼혈인들의 여러 단어의 목소리가 들려왔다 때, '식민지'와 '제국', '전후 아시아」 「전쟁


나중에 책 "고 새로운 모습도 보인다 것이다.


- 134 -


짧은 생명을


0000


또한 흙으로 돌아갔습니다


0000000000


여러 나라의 아이들이


000000000000


.


만주 땅


0000


(함께 방점 인용 자). 아무 이유도 의미도없이 살해당한입니다. (미키 "인양 문학 '에 들어요 (박)


마지막으로, 고토 아키오의 말을 인용 해 끝나려 생각한다. 그것은 '이동'에서 '장'을 생각 37)


의미를 뼈 저리게 가르쳐 준다.


일본이 식민지 정책을 취하고, 만주, 조선, 대만, 중국의 일부에서 온 것이군요, 뭐,


그 잘잘못이 때 안쪽으로 역사적으로 그러한 일을 한 것은 움직이지 않는다. 그것은


인해 일본 자체가 변화하지 않으면 안되었다 네요.


그런데 전혀 화학적 변화를 일으키고 있지 않다. 거기에 역시 저는 일본의 신비


가 있다고 생각합니다. 어쨌든 사실로 식민지 정책을 취해 버렸다니까, 국가관


만약 이라든지, 민족 의식 이라든가 물건에 화학적 변화를 끌지 않으면 안된다고 생각 합니다만 네요.


그것이 물리적으로 확대 된 것만으로도 육체적으로 수축 한 것이군요. 전혀 질적으로 변화하고 있습니다


없다. 실로 아무런 영향도 미치지 않다고하는 곳에, 저는 경이로움을 느꼈습니다 38)


.


참고


1)이 논고는 한국에서 발표 한 '인양 문학론 서설 - 전후 문학의 분실물」( 「일본 학보」제 81 輯,


2009 · 11 한국 일본 학회)를 바탕으로 와세다 대학 국제 일본 문학 · 문화 연구소 · 동 비교 문학 연구소 주최


강연회 및 2012 년 6 월 일본 비교 문학회 대회 심포지엄 '비교 식민지 문학의 사정 - "귀환 자"의 문장


학 열기 "의보고를 추가하는 형태로 보충 · 수정 한 것이다. 또한, 개별인양 작가에 관한 이론으로


て 「고바야시 마사루와 조선」( 「일본 문학」2008 · 11) "고토 아키오 「꿈 사기꾼 '론 - 내파 제국주의」( 「일본


학보」제 86 輯 2011 · 2 한국 일본 학회) "고토 아키오 「꿈 사기꾼"- 식민지 적 신체의 전후의 나날」( 「일


본교 보」제 90 輯 2012 · 2 한국 일본 학회)에서도 본고의 문제 의식의 일면을 접해있다.


2) 민간인 만 341 만명, 군인 · 군속 311 만명이었다. 이 중 조선에서 70 만 만주에서 123 만,


만주 아닌 중국에서 46 만하고있다 (아사노 도요 미 '제국 일본의 식민지 법제」2008 · 2, 名古屋大学出版会,


568 페이지).


3) 와카츠키 야스오 "그림 해외 귀환 자의 지역별 분포」( 「전후인양 기록"시사 통신사, 1991 : 10). 또한 카토 성


문장은 귀환 자 중 「조선 거주 일본인 85 만명 중 65 만명 '과'만주와 화북에서의 귀환 자 130 만명 "


총 200 만명이 조선 · 중국에서의 귀환 자하고있다 ( 「해외인양 단체와 일본인 원호 단체 - 전후


일본의 제국 의식의 단절 "고바야시 히데오 편 「전후 아시아에서 일본인 단체 -인양에서 기업 진출


까지 "에 수록된 유마에 서점, 2008 · 3).


4) 나리타 류이치 "인양과 억류"( '이와 나미 강좌 아시아 태평양 전쟁 4', 2006 · 2,179-208 페이지). 나리타는 "인양,


및 억류 체험기 '가 1950 년 전후, 1970 년 전후, 1990 년 전후에 집중하고 나섰다 지적하고있다.


5) 이에 관하여 2012 년 2 월 국제 일본 문화 연구 센터에서 강연 '인양 생각 - 냉


전쟁과 제국의 틈새에서 "에서보고, 주 11의 논문에 정리하고있다.


6)이 세 관계 항은 모두 거의 생각할 오지 않았지만, 그 중에서도 귀환 자끼리의 관계와 갈등은


수기 나 소설에 다수 작성하면서 주목 된 것은 아니었다.


7) 혼다 靖春 "특별 기획 인터뷰 르포르타주 일본의"카뮈 "우리"( "제군!」1979 · 7).


이츠키 히로유키 히노 啓三 오자키 히데오, 이케다 마스 오, 小田島 웅자 (雄姿), 야마다 요지, 大藪 하루히코, 아 카츠 카 후지오, 후지타 敏八,


미키 타카시, 別役 열매, 고토 아키오, 쿠시마 지로, 澤地 久枝 야마자키 마사카즈, 天沢 退二郎 16 명의 인터뷰를합니다


한꺼번에 싣고있다.


8) 오자키 히데키 '구 식민지 문학 연구 "(勁草 書房, 1971) 335 쪽.


9) 오자키, 상 게서 328 쪽.


10) 식민지 문제에 대해 가장 자각적인 작가였던 고바야시 勝や 무라 다케시가 지금은 거의 잊혀지고합니다


기다린 것도 그 결과로보아야 할 것이다.


- 135 - 리츠 메이 칸 언어 문화 연구 24 권 4 호


11) 졸고 ""귀환 "과 전후 일본의 정주자주의」( 「일본 학보」제 93 輯 한국 일본 학회, 2012 : 11) 참조. 12) 예를 들어 미야 아들은 "만주 체험을 쓰기 위해 작가가되었다"( '일본 인맥 기 2 아시아의 꿈'(아사히 신문사, 2006 : 10)하고 있으나, 만주 체험을 쓴 소설 "朱夏" 이 쓰여진 것은인양에서 30 년 이상의 세월이 지난 시점이었다.


13) 본고의 토대가 된 논문을 발표 한 후 1970 년대에 "인양 문학 '이라는 단어가 존재하는 것을 발견했다. 그런 의미에서 새로운 이름은 아니지만, 오늘날은 그 말이 없기 때문에 첫 번째 지적을 유지 둔다.


14) 혼다 靖春 인터뷰 르포르타주 「일본의 "카뮈"우리 - "인양"경험에서 작가들은 원시 된 "("제군!」1979 · 7). 15) 전게 "일본"카뮈 "우리"158 페이지. 16) 「귀환 자 100 명의 고백」( 「조류」142 호, 1971 · 8) 160 페이지. 17) "내향의 세대"는 아시다시피 1970 년대 들어 등장한 일군의 작가들을 일컫는 개념이다. 체 由吉, 쿠 로이 千次 아베 아키라 등 이른바 '삶의 불안'을 존재 론적으로 다룬 작가들이 그 범주의 작품들로 간주했다. 당시 그들을 무라 지로가 높이 평가 한 대하고, 오다기리 히데오는 대체로 비판적으로 논의하고 있던 ( "내향의 세대 - 근거 타개와 -」 「와세다 문학」1976 · 7 등). 아키야마 하야오 그들이 패배 전시 소년임을 주목하고 높이 평가했지만 ( "신세대 작가들 - 내향의 세대에 대해" "해석과 감상"1973 · 5 등)이 대립적인 평가에 대해 의 재검토도 필요로 될 것이다. 18) 전게 「귀환 자 100 명의 고백」외 각종인양 수기. 19) 전게 「귀환 자 100 명의 고백 "142 페이지 20) 오자키, 상 게서 323 쪽. 21) 전게 「귀환 자 100 명의 고백 "183 페이지. 22) 朴裕河, 전게 논문.


23) 이츠키 히로유키 · 히노 啓三 "이방인 감각과 문학」( 「문학계」1979 년 4 월호) 24) 전게"일본 "카뮈"우리 "204-205 페이지 다음 따옴표는 특별히 언급하지 않는 한이 문헌에서 인용. 25) 이츠키 히로유키 「운명의 발자취」2003, 겐 토샤 35 페이지. 26) 전게 "일본"카뮈 "우리"209 페이지. 27) 전게 「귀환 자 100 명의 고백 "164 페이지. 28) 박, 전게 논문. 29) 박, 전게 논문. 30) 전게 "일본"카뮈 "우리"209 페이지 다음 특별히 언급하지 않는 한이 문헌에서 인용. 31) 이상 앞서 말한 '귀환 자 100 명의 고백 "138 페이지. 32) 전게 "일본"카뮈 "우리"이하 같다. 33) 박, 전게 논문. 34) 박, 전게 논문. 35) 「아사히 신문」2012 년 8 월 13 일.


36) 예를 들어 "식민지 문화 학회 '과 기관지 「식민지 문화 학회'는 그런 움직임이 드문 시도라고 할 수있다. 그러나이 학회 내세우는 '식민지 문화'라는 말의 벡터가 그 의도에 반해 과거의 '제국'의 흔적을 추적 할 수있다 위험성이있는 것에 관해서는 충분한 검토가 필요할 것이다. 37) 이탈리아 豫谷 토시 옹 편 "이동에서 장소를 묻는 - 현대 이민 연구의 과제」(有信堂 高文社, 2007) 38) 전게"일본 "카뮈"우리 "225 페이지.


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