海外大学院とのジョイント教育:歴史と文学の対話
新渡戸稲造の植民思想と中国観
李 青青
一 新渡戸稲造の植民思想概観 1 新渡戸稲造という人
『武士道』の著者として名高い新渡戸稲造は、1862 年盛岡に生まれた。明治8 年(1875 年)頃からのほぼ十年弱の期間に日本で高等教育をうけ、それから6 年間あまりの留学生活を送った、西洋文明に精通したキリスト教徒である。彼は生涯、多方面にわたって活躍していた。まず一高の校長、東京女子大初代学長につとめ、札幌農学校、京都帝国大学、東京帝国大学などで教鞭をとり、エリート教育と通俗教育に大いに貢献した教育者として、戦前はよく知られていた。農業を研究して、多数の著作を著し、台湾糖業の改良事業を担当した農政学者としても認められていた。また京大、東大で植民地政策論の講座を開設した植民政策論者でもある。晩年、国際連盟事務局事務次長、貴族院議員、太平洋問題調査会理事長などを務めて、政治的活動をしていた。また、生涯を通じて、日本文化を広く西洋に紹介し 1、西洋のことを日本に紹介した国際的な知
識人として戦前の国際社会に名をとどめた。
2 新渡戸稲造に対する評価の変遷
しかし、こんなに活発な活動をしていた新渡戸稲造は、今日の日本での知名度が必ずしも高くはない。戦後になって、彼は一般の人々にほとんど忘れられていた。戦前日本の植民地主義を代表する一人だけではなく、軍部の満州での拡張を是認し、軍国主義に屈服した「軍国主義の弁明者」と見なされたことなどもその原因であろう。しかし、1981 年7 月7 日に五千円札の新紙幣の肖像に新渡戸が採用されることが公表されてから、彼は再び人々に注目されるようになった。政府はその「品位」と「国際性」などを基準にして決定したそうである 2。彼に関する研究論文や本も多くなった。2000 年から 2006 年まで彼に関する論文数は、毎年十本以上である。
3 新渡戸稲造に対する評価の分岐
それでは、新渡戸稲造に対する評価と位置づけを検討してみたい。彼の事績は多方面にわたっているが、教育者、敬謙なクエーカー教徒として一応積極的な評価を受けた。しかし、彼に対する総合評価は、大体二つに分かれている。一つは肯定で、もう一つは否定である。肯定か否定の評価は、彼の対外思想特に植民思想をめぐって議論された。つまり、「太平洋の架け橋」として東西融合を目指して、国際平和を主張した自由主義、人道主義、国際主義者であるか、それとも拡張主義、帝国主義者であるかによって、評価は相反するものになる。後者に関しては主に彼の植民思想や晩年の政治活動特に満州事変に対する姿勢をめぐって議論されてきた。
それに関して、飯沼二郎氏と佐藤全弘氏の朝日新聞夕刊紙上の論争 3がよくあげられる。飯沼氏は新渡戸稲造に人道主義思想があるが、人種優劣を肯定し、アジア諸民族を劣等視して、原住民独立への思考がないとの理由で、欧米の植民思想を学び誤って、大東亜戦争を導いた「大アジア主義」の流れにあったとして評価するのに対して、佐藤氏は新渡戸稲造の「歓待の濫用」、「消えゆくカミ」などを取り上げて、彼はむしろ人種偏見と高慢を戒めることを論証し、土地の世界社会主義実現が目的であったと反論した。飯沼氏は温情主義と植民思想が両立して、地主的温情主義が彼の思想の基底を形成したと論じるのに対して、佐藤氏はむしろ温情主義を排して、正義にたつ愛を主張し、日本の政策を批判し、侵略と逆の志向を持ったと反論した。
また太田雄三氏が「『太平洋の橋』としての新渡戸稲造」4で、新渡戸稲造が日本文化に精通していないのに外国に日本文化を紹介するのが失格だと論じた後、彼の満州事変に対する弁護的姿勢を詳しく検討して、彼に対する「自由主義」評価を修正しようとした。また三輪公忠氏は、新渡戸は植民地国の倫理的義務として植民地化することは文明化と世界平和のためであるように考えて、日本の大陸での拡張政策を大目にに見てしまうと評価する5。
新渡戸稲造には、人道的、道徳的思考があることは事実である。しかし、彼の生涯を概観してみると、日本の対外拡張を事実として承認し、その現実を前提にして、台湾や朝鮮での植民政策を研究して、政府に協力した活動が多かったと思われる。次に、彼の植民思想の特徴を彼の朝鮮観、台湾観に即しながら検討してみたい。
李 青青:新渡戸稲造の植民思想と中国観
4 植民思想の特徴 ① 植民の究極目的と現実
「植民最終の目的即ち地球の人化と人類の最高発展とを実現するには少なくとも土地に就きては世界社会主義の実現を要すべし」6。「土地を最もよく利用するもの、或る意味に於いては土地を最も深く愛する者こそ土地の主」であることを主張する。全人類のためという理想主義的な視点で列強の植民活動、他国への拡張活動に倫理的意味を付けて、それを正当化する。日本の場合、「アジアに国を樹つる所以のものは、人道の為」であると主張して、日本の植民活動にも倫理的意味をつけている。
しかし、各国の植民活動は人類の最高発展のためであっても、そうでなくても、現実としては、「女子が妙齢になると赤い帯を欲しがる様に、国家も亦発展すると赤道に領地を得ん事を望むようになる」といっているように、新渡戸稲造は国家拡張の趨勢を倫理的であるかどうかを検討しないまま、事実を事実として承認している。其の趨勢の原因が何かと言うと、「最適者生存の法則」である。当時の一般傾向は近代国家が互いに張り合って、領土を拡張(民族植民)することである。「最適者生存の法則は国民の拡張を正当化する」ものである。ここに見られるのは彼の現実相応的思考であろう。
こうしてみると、新渡戸は近代国家の生存法に倫理的意味をつけて、理想主義と現実主義との両方面から近代国家の植民活動を正当化していると思う。
② 植民理由、目的、利益
植民の直接理由として資本投下の拡大、移民の増大、原料供給支配の必要や国内産物のための市場需要などがあげられた。しかし、近代日本植民初期の主要動機は国家安全(国境防衛、安全保障)であった。
③ 文明観
「植民は文明の伝播である」。
④ 人種観
新渡戸稲造は明らかに人種優劣の存在を認めている。
「植民とは大体に於いて優等なる人種が劣等なる人種の土地を取ることである」。
しかし、その標準は特別なものである。「人種に優劣が存するが、標準によって優劣にも差異がある」。「民族としての優劣はあるが、その標準は団体としての能力、殊に国家的機関の具備に求むべきであって、個人の才能を比較すべきではない」。
それでは、新渡戸稲造が台湾人、朝鮮人をどのように見ていたのかを検討してみる。上記の基準によって、台湾人も朝鮮人も国家機関を組織する能力においては日本人に劣ると主張している。
ⅰ台湾
台湾の民衆が「賢くて働き者」である。しかし、中国、スペイン、オランダ、フランスなどに統治されたことがあって、民族の士気が挫かれて、「愛国心がない」。政治的には不安定である。「住民に『法』意識や『秩序』がなくて、慢性的悪政状態」(李鴻章のいう山賊、悪疫、原住民の問題)である。だから、台湾では民族自決のことはきかないといって、台湾人の政治的能力を認めていない。
ⅱ朝鮮
朝鮮人は「体力旺盛だが、道義不活発;資源豊富だが、資金不足で無能」である。彼らは「為すある国民」であって、「訓練さえすれば高度の自治にいたることができる」。しかし、「自治を収めるには適当な時があり、この時は、自治を求める民衆の政治的成熟にかかっている」。いまは朝鮮人の「修業時代」であって、民衆の政治能力はまだまだ自治の任務を果たせるレベルになっていない。「極東を興す大事業」をしている日本人の役割は「彼らにわれわれの行っているところを学ばせ」ることである。
⑤ 原住民政策
新渡戸稲造の植民政策論のもう一つの特徴は「原住民の利益を重んず」ることである。原住民に対して権利を制限すべきであって、彼らには主権を与えないことを主張する。しかし、原住民の個人を尊重し、彼らを対等視すべきである。また原住民の風俗、思想を尊重しながら融和することを主張する。ここには彼の人道主義的側面が窺われる。
彼は自分が親しく経験した台湾の経営を事実に則して紹介した時、台湾植民の目標は防衛、生命財産保全と法律制度、健康保護、産業交通の振興、そして教育 ――まとめれば確固不動の統治と社会的自由であるといって、日本植民成功の秘訣が「慈悲で味つけした正義」だと、其の人道的意義の重要性を強調した。
しかし、同時に彼は「ギブ・アンド・テイク」という植民の規則をはっきり認識している。そういう規則で、朝鮮を搾取の場、単なる国境線、住民を弾丸のえじき、労動力源とみてはならない。彼は、植民地の人民が外国の統治を嫌うことがよくわかっているから、原住民の反抗を招かないように、「ギブ・アンド・テイク」の規則を守るように、日本人に警告している。ここではや
はり現実相応的な姿勢が見られる。
海外大学院とのジョイント教育:歴史と文学の対話
以上は主に植民の究極目的、人種観と原住民政策に重点を置きながら、新渡戸稲造の植民思想をごく大雑把に概観してみた。総じて言えば、新渡戸稲造は、理想主義、人道主義と現実相応主義との二方面から近代国家の生存法則としての植民を意義付け、そして日本の植民活動の事実を踏まえて、時の状況にあわせて植民政策論を展開したように思う。それは新渡戸の植民思想に対する私なりの総体的でありながら、初歩的な認識である。
二 中国・満州問題
以上は新渡戸稲造の植民思想の特徴を台湾観、朝鮮観に則しながら考察してみたが、東アジアといったら、朝鮮、台湾のほか、中国大陸の問題が残っている。日露戦争後、日本がロシヤの中国東北での利権を接収して、関東州の租借権及び長春・旅順間の鉄道の譲渡を得た。関東州は日本の準植民地となったが、完全な植民地ではなかった。それでは、新渡戸稲造がどう中国を認識したのか、日本の対外拡張、植民活動の中で、中国特に満州をどう位置づけたのか、彼の中国・満州認識に上述の植民思想の特徴があるかどうかなど、彼の植民思想の全体像、ひいては晩年の思想を理解するには大変重要な課題だと思われる。
ところが、新渡戸稲造が中国問題を正面切って論じたのは、満州事変以後のものは別として、きわめて少ない 7。大体彼の著作や文章の中に散見している。満州事変以前の彼の中国観に関する先行研究もごく少ない。本稿は以上のような認識を踏まえながら、さらに論を進めて、明治末期から大正までの中国に対する認識を見ていきたいと思う。ここでとりあえず中国問題
を扱った三つの資料を使って分析する。
1 日露戦争直後の中国視察
日露戦争直後の1906 年に、新渡戸稲造は中国の東北地方を視察した。『随想録』の中に収録されている「大帝国の墟址」(奉天にて1906 年)、「支那は孔子の賜乎」
(奉天にて1906 年)を材料として分析する。
彼は戦後の奉天で、感想を述べている。「過去の栄華、多様なる頽廃の状観を呈す」と「中華帝国」の衰微を慨嘆する。そして、中国の政治状態に対して、「斯国の政府は腐敗其極に達す......治者と被治者とほとんど融和すること」がない。政治は「腐敗の気」に満ちて、「卑陋の人の高位にをりて、令を四億の民に布く」、「不義の輩が正義の名の下に不義を同胞に行ふ」、「治政の形態は憎悪失望すべきもの」である。このような政治道徳腐敗の国は聖人孔子の賜とは信じられない。圧迫されている民衆も「水は上より圧せらるると雖も、容易に之に耐へて、毫も圧力を受けざるものの如くに行動す」ると認識している。つまり中国の政治は民主政治ではなくて、腐敗に陥っていて、政治道義など失われている状態である。人民も自由民主の精神に欠如している。
しかし、民衆にはまだ「生きいきたる熱火」があり、「絶大の活気」があると、中国人の潜在能力を積極的に評価している。そして彼が期待したのは「往時の栄華は奴隷はた又た、苦役の労夫の手に依らずして、自由にして善き労銀を受くる工人の手に依って回復せらる」ことであるが、一方「其業の了りたる時...侫臣の廟堂に坐する無からんことを」といって、懸念を示している。
2 辛亥革命最中の中国観
「中国は共和国になれるか――人種、範囲、国民統一の難問解決が大切」
(1912.1.13 号「コリヤーズ」に掲載)。この文章はあたかも辛亥革命の真最中、まだ革命の帰趨が不明な時期に書かれたのである。1911 年武昌で革命が起こって、以後各省ついでに独立して、南京に仮共和国政府ができた。清国は鎮圧したが成功せず、 11 月に袁世凱を起用する。そして、孫文が急に帰国して臨時大総統になったのが、1912 年1 月1 日のことである。新渡戸稲造の論文はここまでの経過を踏まえている。8
論文の中で、中国が民主政治となることに対して抱いている懸念を示している。
①「共和国の重圧を支える力を有し、その指導に民衆が内心あつい信頼をよせているような人物は想像できない」。
②民衆は民主精神に欠如していて、公共心や愛国心がなくて、民主政治にふさわしい訓練を受けていない。
民主政治の基盤がよわい。
③中国は巨大すぎて、指導者になりたがる人が多すぎる。互いに闘って、内紛が起こりやすい。
④人口過多、人口調査が困難である。
そして、いまの中国人は地方意識がつよくて、分裂しやすいという認識をふまえて、「外国の介入を招き、国の破滅になる」危険があると指摘する一方、「それでも一つの国民」、「河川文明は統一へ均質へ向かう」という見通しを示している。
中国民族のよい性質として正直、知的、遵法心あり、
我慢強く、よく働くことなどをあげている。
3 第一次世界大戦中の中国人観
論文『文明国民南下の大勢』(大正5 年4 月15 日『実
李 青青:新渡戸稲造の植民思想と中国観
業之日本』に掲載)。
この中で黄色人種は白色人種、マレー人種より熱帯地方に適すると論じた後、日本人と中国人のそれぞれの特質を分析して、南洋開発の担い手は日本人と中国人であると主張する。
「支那人種」は「従順にして穏健勉励、善良なる市民」であるといって、中国人の勤勉の性質を高く評価する。そして商業に於いても「契約を守る、信用を博せる」のである。しかし、中国人の能力は「非政治的」である。「漢族には大きな且つ堅固な団体を組織することは望まれない」。「彼らは一定した政府の下に於いてならば立派な臣民となれるが、その政府そのものを構成する才能に至りてははなはだ疑わしい」。「政治的才能に於いて、或は人を統御する気力に於いては、遥かにわが国民が優っている」。だから、南洋の開発は「支那人の力」と「日本人の指揮命令」によるものでなければならない。
以上に見られるように、新渡戸は主に中国人の勤勉性、労働者としての性質を中心に評価しているが、政治能力に於いては始終懐疑の態度を示している。彼の朝鮮観や台湾観にも見られるのは、日本を除く東アジアの民族は一応民衆によい性質があるが、国家機関を組織する能力が日本人に劣っているという人種観であろう。日露戦争後、日本が「極東を興す大業」という新責任を負うべきだと言っている 9新渡戸稲造は、日本が実際において中国に対してどういうような姿勢で接するべきか、どういうような政策をとるべきかはまだ不明だと思う。これからの課題にしたいと思う。
注
1. 代表的な著書として、『武士道』(1900 年)、『日本国民』(1912 年)、『日本人の特質と外国の影響』(1927 年)、『日本』(1931 年)、『日本文化の講義』(1936 年)があげられる。
2. ジョン・F・ハウズ編『新渡戸稲造--日本の太平洋の架け橋』 国際学論集 (通号 41) 上智大学国際関係研究所。
3. 飯沼二郎「新渡戸稲造の『西洋メガネ』」1984 年 11 月 27 日。同「新渡戸稲造と植民思想」1985 年2 月1 日。佐藤全弘「新渡戸稲造の植民思想」1984 年12 月25 日。同「むしろ温情主義を排す」1985 年3 月1 日。
4. 太田雄三「『太平洋の橋』としての新渡戸稲造」(1)――
(5)、『みすず』(1984 年8 月―1985 年5 月)。
5. ジョン・F・ハウズ編『新渡戸稲造--日本の太平洋の架け橋(国際学論集 通号 41 智大学国際関係研究所)参照。
6. 『新渡戸稲造全集』4『植民政策講義及び論文集』論文「第八 植民の究極目的」。以下の引用は全部『新渡戸稲造全集』
(教文館1969-2001 年)によるものである。
7. 佐藤全弘「『中国は共和国になれるか』解説」(『新渡戸稲造全集』第二十一巻)参照。
8. 同上掲。
9.『随想録』全集第五巻「日本国の時刻」(M38.11)、「日本の新責任」(M38.10)参照。
参考文献著作:
新渡戸稲造『新渡戸稲造全集』教文館1969-2001 年
松隈俊子『新渡戸稲造』みすず書房, 1981 年8 月
内川永一朗『余聞録 新渡戸稲造』岩手日報社 昭和 60 年
10 月
佐藤全弘『新渡戸稲造の信仰と理想』教文館 1985 年12 月
新渡戸こと『父新渡戸稲造の思い出』基督友会日本年会
1966 年
論文:
西田毅 「新渡戸稲造の植民政策論」『文学・社会へ地球へ』
1996 年9 月
宇野田尚哉 「武士道論の成立――西洋と東洋のあいだ」『江戸の思想』1997 年11 月
小林善彦 「新渡戸稲造」『講座比較文学 第 5 巻 西洋の衝撃と日本』東京大学出版会 1973 年10 月佐藤全弘 「新渡戸稲造は『生粋の帝国主義者』か」、「付論―― 新渡戸稲造の植民思想の一端」(上掲『新渡戸稲造の信仰と理想』)
ジョン・F・ハウズ編『新渡戸稲造--日本の太平洋の架け橋』
『国際学論集』 通号 41 田中愼一 「新渡戸稲造の朝鮮(韓国)観」『經濟學研究』 54(4)、
2005 年3 月
平瀬徹也 「新渡戸稲造の植民思想」『東京女子大学附属比較文化研究所紀要』 (通号 47) 1986 年
速水敏彦 「近代日本における宗教と国家--新渡戸稲造の場合
(共同演習報告)」『キリスト教学』 (通号 19) 1977 年鵜沼裕子 「新渡戸稲造のアメリカ観とクエーカー主義 (<特集論文>アメリカ研究)」『聖学院大学論叢』16(2) 2004 年3 月加藤憲一 「新渡戸稲造の<軍部>認識に関する覚書」『児童教育学会研究集録』 2004 年3 月飯沼二郎 「新渡戸稲造の『西洋メガネ』」1984 年11 月27 日朝日新聞夕刊。同「新渡戸稲造と植民思想」1985 年 2 月 1 日朝日新聞夕刊。
佐藤全弘 「新渡戸稲造の植民思想」1984 年 12 月 25 日朝日新聞夕刊。同「むしろ温情主義を排す」1985 年3 月1 日朝日新聞夕刊。
り せいせい/北京日本学研究センター 21 期生
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