2026-10-03

大山倍達 - Wikipedia 日本の空手家 최영의

大山倍達 - Wikipedia

大山倍達

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本の旗 日本の空手家
大山 倍達
おおやま ますたつ
巻藁突きをする大山倍達
(1954年 撮影)
生年月日1923年6月4日
出身地大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮 全羅北道金堤市
死没1994年4月26日(70歳没)
日本の旗 日本 東京都中央区
国籍大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮 →
大韓民国の旗 大韓民国
日本の旗 日本(1968年[1])
民族韓民族
スタイル空手道、柔道、合気柔術[2]、朝鮮古武術(借力、テッキョン)、ボクシング
師匠船越義珍、山口剛玄、曺寧柱
大学早稲田大学高等師範部除籍
著名な親族大山智弥子(妻)
大山喜久子(三女)
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大山 倍達(おおやま ますたつ、1923年〈大正12年〉6月4日[3] - 1994年〈平成6年〉4月26日)は、日本の空手家。国際空手道連盟総裁。段位は十段。

世界最大の実戦空手流派「極真空手」の創始者。戦後を代表する空手の大家である。師は船越義珍(松濤館流)、山口剛玄(剛柔流)、曺寧柱(剛柔流)、韓武舘師範ら。

漫画『空手バカ一代』の主人公として人気を博し、英文による初の空手書『What is Karate?』を執筆しアメリカでベストセラーにするなど、日本と世界各地において空手普及の立役者となった。韓国名は崔 倍達(チェ・ベダル、韓: 최배달)。出生名は崔 永宜(チェ・ヨンイ[4]、韓: 최영의)。海外における通称はマス大山(英: Mas Oyama)。

生涯

生い立ち

1923年〈大正12年〉6月4日、日本領朝鮮全羅北道金堤市にて、父・崔承玄と母・金芙蓉の間に6男1女の第4子として生まれる。太平洋戦争終結に伴い日本が朝鮮半島から撤退し、1948年に同地に大韓民国が建国された後は朝鮮籍[注釈 1]となったが、1968年(昭和43年)に日本国籍を取得する。この時、以前から名乗っていた「大山 倍達」を本名とした。姓である「大山」は書生として住み込んでいた朝鮮人民族活動家の大山高誉(大山茂、大山泰彦の父)の恩義からとする説がある。大山高誉は統一教会を興した文鮮明の側近であったが、1970年代に起きた外為法違反(無許可で数億円単位の小切手持ち出し)容疑で警察の捜査対象となったが時効まで逃げ切った。また「倍達」とは朝鮮や朝鮮民族の雅名の一つである。

幼少期は満州国と朝鮮半島で育ち、中学でボクシングを習う。16歳で日本一の軍人を志し、山梨県の山梨航空技術学校(現・日本航空高等学校)に入学。日本航空高校50周年記念アルバムにも昭和17年卒業写真が現存する。過酷な肉体労働に従事しながら通学し、難関であった陸軍士官学校へ入学するための受験勉強も限られた時間の中で行う苦学生であった。当初は崔猛虎、大山猛虎、大山虎雄、大山鷹雄、崔倍達[注釈 2]など複数の名前を名乗っていた。

昭和15年当時大山が下宿していた家の娘で、当時14歳だった女性の証言
「いつもボクシングのグローブを持って、拳闘のことや本のことばかり考えてるような感じでしたね。(中略)庭でグローブをつけてボクシングの型をしたり、トレーニング。(中略)あと、虎雄さん(大山)は喧嘩が強くて有名だったんですよ。当時としちゃ、あんな大きい人はいなかったですから。近所の人も喧嘩を見たってよく聞きましたよ。」[5]

空手

1943年(昭和18年)6月に空手道を松濤館流の船越義珍に師事、その後山口剛玄に剛柔流を主に学ぶ。山梨少年航空技術学校卒業後に陸軍士官学校を受験するも失敗し挫折する。だが、当時拓殖大学学生であった木村政彦が、柔道界最高の栄誉であった天覧試合優勝を成し遂げた事に感動し、同じ拓殖大学に入学したとされる。同大学では司政科に在籍したとされ、政治家を志したらしい。

石原莞爾主催の東亜連盟協会に参加する等の活動をするも、昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争が勃発。徴用工として千葉県館山郊外の飯場で軍関連の土木工事に従事。終戦前に海軍の「特攻隊」に志願したが終戦を迎えて出撃出来なかったらしいという逸話もあるがそのような事実はない(これは梶原一騎原作の劇画『空手バカ一代』の主人公、大山倍達のキャラクター設定となっている)。 終戦直後の1945年に組織された在日朝鮮人による「健青」「健同」「民団」などの争いで、それらの団体の黒幕の一人である曹寧柱の直弟子である大山は組織間の衝突の際に、最前線に経って大人数相手の喧嘩を続けた。まだ若くすぐに腕力に訴える大山は当時の民族運動家の間では評判が悪かったという[6]。

1946年4月に早稲田大学高等師範部体育科に合格し入学する。大山曰く「こう見えても私の頭はボンクラじゃなかったんだ」

しかし、体育科は、戦後の時代は入学しやすかったと言われている。1946年に「国民体練科」が「体育科」に名前を変えて再スタートしたばかりで、競争率が高くない時期だったので他の難関大学を落ちた学生でも入学出来た。

  • 早稲田大学調査
    • 入学期間中(1941-1943)は本名の崔永宜(チェ・ヨンイ) を名乗り大山倍達名義は帰化した1968年~。大山はスポーツ特待生ではなく一般入試の学籍証明書が早稲田大学から発行されている)中退[注釈 3]。
  • 【早稲田大学・学籍証明書】
  • 〈早稲田大学教務部長〉
    • 氏名〈崔永宜 (改姓届:1968年 (昭和43年) 大山倍達〉
    • 生年月日〈1923年 (大正12年) 6月4日生〉
    • 学部・学科・専修〈早稲田大学高等師範部体育科〉
    • 入学年月日 〈1946年 (昭和21年) 4月〉
    • 卒業・退学等年月日〈1948年 (昭和23年) 除籍〉
    • 【調査項目】学籍の有無・学籍簿・高等師範部
    • 入学時及び在籍時は「崔永宜」と名乗る。

課長:谷××× 取扱責任者:池×××

除籍の理由について大山は「学費が払えなかった」とか「学業以外にやりたいことがあった」等と答えている。

終戦後は千葉を中心に、日本の領土から離れた朝鮮半島の民族運動に参加したとする説もある。また、「山籠もり」で空手修行に励んだともいう。1946年(昭和21年)6月に俳優の藤巻潤の実の姉である智弥子と結婚。このときの媒酌人は田中清玄。3人の女の子(留壹琴・恵喜・喜久子)をもうける。

空手日本一

1956年田園コロシアムで牛と戦う大山倍達。この戦いは1954年『猛牛と戦う空手』という映画に続く2回目の公開闘牛であった。

1947年(昭和22年9月)に京都で開催された戦後初の空手道選手権で優勝[注釈 4]。

1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約発効以降は日本国籍を喪失し朝鮮籍となるが、引き続き日本で活動を続ける。 同年、プロ柔道の遠藤幸吉四段と共に渡米[7]。全米各地で在米のプロレスラーグレート東郷の兄弟という設定(Mas. Togoのリングネーム)で空手のデモンストレーションを行いながら、プロレスラーやプロボクサーと対決したとされる。帰国後大山は、(薬で弱らせた)牛を素手で倒し(合計47頭、うち4頭は即死)[要出典]、その映像は映画『猛牛と戦う空手』1954年(昭和29年)として公開された[8]。

極真会館設立

多くの武道家と交流し、また世界各国を巡りさまざまな格闘技を研究、空手の指導を行い、直接打撃制の空手(極真空手・フルコンタクト空手)を作り出した。短期間ではあるが、1956年(昭和31年)に大東流合気柔術の吉田幸太郎から合気柔術とステッキ術も学んだ。その他、講道館柔道を曾根幸蔵九段に、ボクシングをピストン堀口にそれぞれ師事。

目白の自宅の野天道場、池袋のバレエスタジオ跡の大山道場を経て、1964年(昭和39年)国際空手道連盟極真会館を設立し、数々の名だたる弟子・名選手を輩出している。多くのフルコンタクト系各流派を生み出す元ともなった。

死去

大山倍達の墓(護国寺)

1994年(平成6年)4月26日午前8時、肺癌による呼吸不全のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去。71歳没。豪快で情に厚い人物であったという。訃報を受けて、添野義二、東孝など、既に極真を去った元弟子達も多数極真会館総本部に駆けつけ、その死を悼んだ。特に添野は「極真会館」という組織は除名されていても、大山とは私的に家族ぐるみでの交友が続いていたこともあり、「悲しいねえ…!」と人目も憚らず泣き崩れていた。

国際空手道連盟・極真会館葬には中村忠・大山茂・大山泰彦・三浦美幸・岸信行・佐藤勝昭・東孝など独立した門下生も多数参列した。

死亡直前の4月19日に立会証人5人の下で松井章圭を後継者とする旨などとした危急時遺言が作成されたが、公証役人がいなく、妻の智弥子に知らされていなかったことから大きな確認裁判へと発展。裁判ではこの危急時遺言について、立会証人の中に遺言によって組織上の地位を得る利害関係者がいたこと、その利害関係者が立会証人として遺言内容の決定に深く関わったことなどから、大山が遺言者として遺言事項につき自由な判断のもとに内容を決定したものか否かにつき疑問が強く残ると判断されて、1995年4月に「遺言書は無効」と家庭裁判所に却下された。

大山が亡くなる前に病院へ呼ばれた兵庫県・大阪南支部長である中村誠は「大山総裁から松井を頼む」と言われ松井館長を支えてきたが松井派から離脱する際に「松井を頼む、と大山総裁から言われたのは嘘だった」と証言した。支部長間で大変な騒ぎになっており騒ぎを収めるために自身で創作した、と取材に答えた。

大山には、「韓国にも戸籍があり妻と3人の息子がいる」と言われたが、韓国の戸籍とされた書類は生年が違うことから、「同一人物ではない」と東京法務局と裁判所で認定された。なお、韓国の戸籍では1922年生まれとなっており、実際の生年は通例の1923年ではなく、1922年と推定される資料もあるが、死亡時の裁判にて否定されている。

一方で韓国にいる3人の息子は、長男が医師、次男は会社員、三男はバリスタとして活躍しているという情報もある[9]。

日本がまだGHQ統治下であった時代に 日本人も朝鮮人も配給制度で日々の食糧を得ていた時代がある。当然ながら、より多くの食糧を得ようと不正の戸籍申請をする者も後を絶たなかった。姓名の一文字や生年月日を変えることによって複数の戸籍を取得するのである。 日本人が飢えを凌いでいた時代、朝鮮人の中にはかなり羽振りのいい者たち(大山もそうだった)がいたというが、こういった種々の不正行為にあったことだろう。在日韓国・朝鮮人の多くが通名の他に複数の韓国名を持つ理由もこの辺りに起因していると思われる。

大山は生涯にわたって、本名の崔永宣を筆頭に、崔猛虎、大山猛虎、大山虎男、大山鷹雄、大山信達、それに大山倍達の名を使い分けていたが 1923年生まれの日本製「朝鮮籍」はこのような過程で作られた偽造戸籍であろう。帰化申請の際には、この偽造戸籍をもとに新たな日本国籍が作られたのだ。そして、祖国・韓国にもまた崔永宣名義のまっさらな戸籍が残っていることを確認した上で大山は帰化に踏み切った。

大山は、多額の財産を残したものの、極真会館を法人化するなどの措置は一切とらず、その財産が、誰のものかという点が曖昧になっていたため、裁判沙汰になってしまっている。

人物

日本に渡る前の朝鮮時代、中学入学後に、中退するまでの三年間はボクシングを習う。その後1939年、釜山にやって来た曺寧柱の講演に感動して、その場で曹に日本行きを直訴、同年の暮れに渡日して曺のもとで剛柔流空手を学ぶ[10]。

ウエイトトレーニングに励む28歳の大山倍達。

青年時代より、日本ボディビル界の祖と言われた若木竹丸の著書「怪力法」に影響を受け、戦後実際に若木よりウエイトトレーニングの指導を受けた。発達した胸筋と背筋のためレントゲン撮影では薄く影が出来るほどであったといわれる。またパンチ力の増強のために懸垂が有効と聞けば、最後は片手懸垂を連続20回こなすほど腕力があった。

その反面、若い頃の大山の空手は、荒々しく実戦を重視しすぎていたため、巻き藁突き・サンドバッグ・組手稽古・ボディビルの鍛錬ばかりして、型の稽古を嫌い、たびたび先輩方から苦言を受けるほどであった。ボディビルに関しては1972年に出版された著書「闘魂」の中で”牛殺しの条件はベンチプレス135kgを挙げること”と記されていることから おそらくこれが自己ベスト記録だと思われる。

大山に黒帯を允許した松濤館の船越義珍。1年3カ月での異例のスピードだった

空手修行時の大山を知る空手関係者は異口同音に「彼は力は強いし、組手や実戦は強いが型は下手」と語っていた。ただし、壮年期から晩年にかけて好んで剛柔流の「転掌」や「鉄騎」を演じるフィルムが現存し型稽古を見ることができる。第5回オープントーナメント全世界空手道選手権大会において、最後の演武は創作型「円転掌」であった。

『空手バカ一代』の爆発的人気により、伝説的存在として「大山神話」が広まったが、実際のところ戦後の一時期においては、敗戦という心の痛手のために、暴力団の用心棒稼業を行ったり、娼婦といちゃつく連合国軍の兵士を叩きのめして回り、指名手配されるなどの荒れた生活であった。連合国軍の憲兵隊から追われる身となった大山は一度逮捕されるが、すきを見て脱走。衆議院議員であった小沢専七郎の助力で身を隠すために仕方なく身延山、それに引き続き清澄山に山籠もりすることとなった。

松濤館の船越義豪から1年3か月で初段を得て以降、剛柔流の山口剛玄や曺寧柱(書籍における日蓮宗僧籍“曺七大師”)、大東流合気柔術の吉田幸太郎、朝鮮YMCAからアマチュア・ボクシング、ピストン堀口からプロボクシング(実際地方のボクシング興行で大山猛のリングネームで試合をした経験もあるが0勝2敗でボクシングは断念)、曾根道場での講道館柔道(四段)、若木竹丸や井口幸雄などからボディビルや重量挙げ、金城裕から沖縄空手との交流や空手界の古老との仲介役になってもらったりと、当時としても多岐に渡る格闘技、武術関係者との親交を深める。

柔道家の木村政彦。大山は木村とも親交があった

また、武術修行のみならず、船越門下では実力随一であった船越義珍の三男「義豪」を見舞ったり、本部朝基の弟子、山田辰雄(書籍では由利辰朗)、太気拳の澤井健一、玄制流空手、躰道の祝嶺正献、虎殺しの空手家である山元勝王などとも親交を結んでいた。

合気道家の塩田剛三は拓殖大学の先輩にあたるとされ、澤井健一と共に養神館本部道場で稽古を見学したこともある。拓殖大学には先輩とされる、木村政彦も居る。大山は若い頃この木村の強さに惹かれ柔道の試合を観戦しているが、晩年「木村の全盛期ならヘーシンクもルスカも3分もたないと断言できる」と言っている。

この木村政彦との戦後の深い親交については『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也)に詳述されている。この作品は、木村政彦vs力道山戦で木村が力道山のブック破りでKOされた時にリングサイドにいた大山を克明に描写している。木村がリングに倒れた時、大山はその場で立ち上がってリングに上がろうとするが、周りの人間が必死に止めている。また増田は、柔道側からの新視点による綿密な取材から「大山は間違いなく日本屈指のストライカー(打撃格闘家)だった」と断言している。

極真会館初代会長の佐藤栄作首相。大山は政治家などとも親交を持っていた。

著名な政治家とも親交があり、極真会館の初代会長を衆議院議員の佐藤栄作(極真会館設立の3か月後に首相に就任)、副会長を衆議院議員の毛利松平が務めた。衆議院議員であった辻兼一や同じく衆議院議員の小沢専七郎は、戦後の荒れた時期、大山の庇護を行っていた。

他に親交があった人物としては漫画原作者の梶原一騎が挙げられ、双方が互いに精神的・物質的に大きく影響し合った[11]。『空手バカ一代』の制作などを通じ大山は梶原とその実弟である真樹日佐夫それぞれと義兄弟の契りを結ぶ[11]など親交を深めていくが、やがて映画『地上最強のカラテ』の利益分配をめぐるトラブルなどから関係が悪化し[11]、義兄弟関係も絶えることになる[11]。ただ晩年は梶原に対する気持ちは氷解していたようで入院中の梶原に対し匿名で励ましのハガキを出すなどしていた[12]。その他に親交のあった作家としては森川哲郎が挙げられる[11]。

1991年(平成3年)の第5回全世界選手権におけるアンディ・フグ - フランシスコ・フィリォ戦で、試合終了の合図が入ったが、フィリォが構わず左上段回し蹴りをして、アンディ・フグが失神したのを見て「止めが入ってたとはいえ、倒された者は勝者にふさわしくない」とし、フグの反則勝ちにはせずフィリォの一本勝ちを認めた。

大山は極真会館の門弟にとっては何者にも代え得ない絶対無比のカリスマであった。それゆえに1994年(平成6年)の大山の死は、上位クラスの指導者や大山の遺族などの間で“極真”の主導権や方向性・商標、そして大山の後継者の座を巡っての数多くの諍いが繰り広げられる直接の引き金となった。かくて、大山が作り上げた極真空手は内紛と分裂、さらには大山の“極真”の正当後継を自認する団体の乱立で現在に至るまで揺れ続けている。

一方で極真会館(松井館長)の機関紙、ワールド空手の編集を請負い、大山倍達正伝などの著作がある作家小島一志は大山を「劇画や著書の内容は95%が虚飾であり何もかも嘘で固めた人生を送ったのが大山倍達という人間の素顔」[13]と評し、小島が聞いたとする黒崎健時の大山倍達に対する評価として「何一つ師らしいことをしていない」「喧嘩ができない最低の大法螺吹き」「最低の人間」と記している。なお黒崎は件の発言の前に「空手では私より強くても」と前置きしている[14]。また、全盛期の大山の強さを知らない入門したての東孝に、「(大山)館長は若い頃強かったですか?」と聞かれ「強かったよ。俺が勝てなかったんだから」と答えている[15]。なお大山茂は創生期の極真会館で大山倍達は本気で弟子の中段を突くことはKO必至のために避けていたと証言する(後述)。

組手スタイル

大山の組手スタイルについて高弟はそれぞれ次のように証言している。

石橋雅史
立ち方は両足に均等に体重をかけた「自然体」に近い立ち方を用い、片方の掌でみぞおちをカバーしている。構えから間合い[注釈 5]をつめる場合は、ただ歩を進めるのではなく、掌を外側に向けて回しながら、掌の旋回がそのまま「掛け受け」になっている状態で前進する。大山先生は組手では決して後ろに下がることはなく、攻撃を捌きながら側面に回って反撃する動きを身上としていた。剛柔流の型を生かし、など、円型逆突きを基本にした掛け受けからの手技を多用し、手刀・回し打ち・掌底打ちなどの円の攻撃、また、相手の攻撃をかわしながら入る柔の歩法などに長じていた。しかも、その動きは剛柔流の型の中に見出せるものが多く、大山先生は、ある意味で伝統の空手の動きを組手でそのまま体現できる数少ない達人のひとりであった。[16]
安田英治
僕が見てきた大山先生の組手は、様々な要素を取り入れて相手に応じて変えていくもので、これと決まった形はなかった。追い突きよりも右の逆突きを得意とし、蹴りでは前蹴りが多かった。直線よりも、当然受けて打つんだけれども、それを円を描きながら回り込んでといった動きであった。受けるというのも普通にパンと受けるのではなく、引っ掛けていた。僕らなら上段受け、中段受けなんてやるけれども、大山先生は受けて掛ける。いろいろな武道を先生は学ばれたから、その中から生まれてきたのかもしれない。掛けて、相手の動きに合わせて捻ったり関節技をかけたり、それでも完全に極めることはあり得ないわけで、ある程度で止めていた。空手の中に違うものを入れていく、これは他の空手の師範にはない所で、格闘技的な要素を追求されていたのだと思う。前手か両手で掛け、回り込んでしまえば横に行く、相手は死に体になるから、後は突いても先生は柔道もなさっていたから、ポンと投げていた。蹴りがきたら、受けずに肘で落としたりもしていた。正拳突きを当てるにしても中段で、顔は掌底で押したりして、まともに当てることはしなかった。裏拳・回し打ち・振り打ちなどを回り込みながら使っていたが、剛柔流的な要素でしょう。とにかく技は多彩で、最終的には正拳が威力あることははっきりしてるけど、それをみぞおちにも形でしか当てなかった。接近したらヒジで突き上げるだけでなく、力があるからそのまま持ち上げて、3~4メートルも投げてしまったり、縦横無尽だった。[16]
大山茂
まず、大山倍達総裁の組手の構えは左足前の猫足立ちが多かった。得意技は貫手で目突きと金的蹴りという激しいものだった。貫手の目突きは、バラ手にして、スナップをきかせて目を突かれると、もう目から涙がポロポロ止まらない。左前蹴りのあと、右のバックハンドという回転技も良く使っていた。それとよく使っていたのは左足前の構えから「尾麟(びりん)の構え[注釈 9]」のように右手を前に出す。接近戦だと左足前なのに右手を前に出してきた。これで上体を逆にタメておいて左の掌底を出す。この掌底が真っ直ぐ来る時と振り打ち気味に来る時がある。ほとんど正拳は使わないで、ボディーを突く時でもコントロールして、ほとんど生徒にケガさせなかった。私は右の正拳が得意だったが、胸などはわざとたたかしてもらったが、胸の汗が私の目にバシッと入り、目がヒリヒリしたことを覚えている。「今のはいいね。もう1回来なさい」という感じだった。でもたいていは右の正拳で行くと左の掌底がカウンターで顔面に来て、次に総裁の右の拳などが飛んでくる。 総裁の組手で多かったものは、遠い間合いは両手を前に出して「前羽の構え[注釈 10]」で構えて、近づくとダイナミックな動きになる。よく使われていたコンビネーション[注釈 11]は、左足前の構えのままで右手を前に出し相手の前手をひっかけ左の掌底、このあとに右の貫手・右の金的蹴りへと繋げる。ストレートな攻撃が得意だった。蹴りも前蹴り・後ろ蹴りといった直線的な攻撃が得意だった。左の前蹴りを出して、回転して右の後ろ蹴りを出したりね。この時の後ろ蹴りは、腰を入れた横蹴りぎみのやつだね。私も参考にさせてもらった。でも、総裁の蹴りの中で一番危なかったのは何と言っても金的蹴りだね。泰彦なんかも当時一番動いたからね。よく金的蹴りを喰らっていた。当時は毎日、総裁ひとりで何十人も組手の相手をしていた。とにかく総裁との組手はいい思い出ですよ。[16]
大山泰彦
大山総裁は左足前の半身の組手立ちに構えて、スーと前に出て左手で相手の前の手を落とす。その時総裁の右手は掌底で顔面カバーする。払った左手で裏拳左右打ちのような感じで「最破(サイファ)」の型通りに下からポーンと来る。時には奥の右手で髪を掴まれ、それで裏拳を決められたこともある。総裁は相手の左手を払った後、受けた自分の左手を胸までもってくる。そうすると相手の胸に向かって肘が出る。そこからパーンと裏拳がきて右の正拳がゴチン。勿論強くは当ててこなかった。あとよくもらったのが、右の踏み足で間合いを詰めて右の掌底の回し打ち。だいたい耳の辺りをパチンと引っ叩かれた。また私が左の前拳で突くと総裁は左手で突きを受け引っ掛けながら、右手は私の肩を摑んで私の体をくるっと回し、それからドーンと押したり、投げ技はずいぶん使っていた。

総裁は体は大きかったけれども、組手になると動きに柔らかさがあり、手が上から下から横から出たりしていた。普通の人だと一、二と真っ直ぐに来てそれから横の技となるんだけど、総裁の場合、いきなり裏拳だったり回し打ちが下からくる。ある時は裏拳打たれて右の正拳をお腹にポーンともらったり、ある時は摑まれて投げられたりした。とにかく総裁の両手が変幻自在で何が来るか、全く分からなかった。あとは目突きと金的蹴りかな。目突きは横から下からパッと入れられてしまうので「アッイテ」と思ったときには涙が出てた。金的蹴りも総裁の得意技で、蹴りを大きく蹴っていくとパチンとスナップをきかせて蹴られる。すると総裁は「キミ、金的は男の魂だよ。ケ、ケ、ケ」と(笑)。金的蹴りは私もよく真似した。

総裁はよく私の突きや蹴りをその大きな体で受けてくれた。「叩いてこい」というので、思い切り叩くと汗がパチッとはね返ってくる。「もっと強く」と再び言われ、「よーし」ともう1回叩くと上から掌底で頭をガチンと叩かれ、グシャと総裁の足元に潰されてしまう。でも、私たちには思い切りは攻撃しなかったね。裏拳でもキチっと握るんじゃなくて軽く握ってパンという感じだった。だから、総裁と組手をして次の日に残るケガというのはなかった。他の黒帯の人たちの方がイヤだったよ。総裁との組手は「パチっ」とのばされるんだけど気持ちよかった。「泰彦、頑張れ」という意味で叩いたと思う。それだけ弟子のことを思っていたんだと思うよ、総裁は。[16]
中村忠
大山館長が僕らと組手をする時は、いつも受けの組手ですからね。攻撃をさせて、それを受ける。僕らは腹や胸をポンポンと突いても蹴っても構わない。そんな時の大山館長の組手の構えは、最初は「前羽の構え[注釈 10]」で、次に寄り足をして、「尾麟の構え[注釈 9]」、そして「龍変の構え[注釈 12]」で、スッと踏み込んでくる。この上下に回転する手が、裏拳に変化したり、相手の道着を手刀で引っ掛けたり、様々に変化する。今度は手が来ると思って上段をガードすると、ローキックのように足払いでいきなり倒される。まさに変幻自在で、こちらからは動きが読めない。でも、僕ら生徒とやるときはほとんど正拳を使わず、掌底で顔面にバチンときたり、みぞおちやアバラを狙う時も掌底でしたね。掌底と言っても体重を乗せ、踏み込んで打ってくるのですごく効きますよ。僕も大山館長の掌底を脇腹に喰い、動けなくなったことがあります。

でも、僕なんかじゃなく、もっとうまい上手な先輩とやる時は正拳も使うこともありましたよ。僕は高一でまだ始めて間もない頃で館長も手加減してくれていましたが、安田先輩や茂さん、泰彦さんなんかと、組手をするときは激しくやってましたね。大山館長は右の正拳が得意だったようですが、直線的な正拳だけでなく、回して打つ正拳もよく使っていましたね。それが回し打ちとは違って、正拳の背刀部側の拳頭で打つんです。館長の正拳は普通の人の何倍も拳頭が大きく、いろんな角度から鍛錬されていましたから、その拳頭の背刀部側をフックのように使い、相手が前へ出てくると、サッと左側45度へ体サバキして、すれ違いざまに右の正拳回し打ちを当てるんです。ただし、顔面やみぞおちは危ないので、わざと胸を狙って入れてましたね。

館長の組手は柔らかく受け、変幻するけれども、極めの時は「ウウッ!」と腹から呼吸というか気合を出し、瞬間的にすごい威圧感を感じさせるんです(原文ママ)。こちらは自由に攻撃させてくれるんですが、他から見るとあまり動いていないように見えるんです。実際に大山館長と向き合うと、撹乱されて攻められないんですね。「上からくるか下からくるか?」と思っているうちに倒されてしまう。最初は間合いが遠くて、こちらは突いたり、蹴ったりできるんですが、わからないうちにスーッと入ってきて、瞬間に何か小技を出してきてやられてしまう。今思うと、遠い間合いの攻撃も全て館長にコントロールされていたんでしょうね。館長はダイナミックな攻めの方に、接近すると相手の突きを孤拳で受け、その手を掌底に返して腹を打ったり、手刀に変化させたり非常に小技もうまい方でした。たぶん当時は30代前半の一番円熟していた時期だったんじゃないでしょうか。大山館長はあの大きな体で動きが速く、足も股割りで全部開く柔軟性をお持ちでした。回し蹴りも横蹴りも上段にヒュッと上がりましたよ。組手のときはほとんど中足で回し蹴りを使い、やはり強く当てないように気を使っていましたね。でも一番の得意技はやはり右の正拳で、掌底や孤拳はそれを使うための付随する技だったと思います。[16]
山崎照朝
組手において私が大山総裁から学んだ最も重要なことは「技は力の中にあり」で、相手の構えを正面から崩していく破壊の組手であった。フットワークを使う動きをしてくる相手よりも、ガードが固く、どっしりと腰を落とした静の動きを持つ相手の構えはなかなか崩せない。総裁はこういう状態のとき、よくこう言われた。「何も体を打つ必要はない。正拳を打つんだ。相手の手を殴って崩せ。相手の出している前手を殴って、構えを崩して相手の中に入れ!」ということをいつも言っていた。「相手の構えが固ければ、それを力で崩していけばいいじゃないか」という正面突破の理論が総裁の考え方の根本にあると思った。「相手の拳が強かったら、相手の拳を殴って使えなくしてしまう。蹴りが強かったら逆に蹴り返して折ってしまう。相手の最も自信のある技を受けるのではなく、打ち砕いて戦意をなくしてしまう。これが極真カラテであり、組手の極意である」と常々仰っていた。相手の攻撃を受けるときも極真では真っ直ぐ直線で中に入って受ける。他流の場合、サイドに出て捌くのが一般的だけど、相手にしてみたら体勢をそれほど崩されないから、不利にならない。直線で受けるということは相手の攻撃のラインを変えるということだから、無駄な動きは不要になる。総裁の理論で「点を中心に円を描き、線はそれに付随するものである」という言葉があるが、これは自分が点になって直線で進むことによって相手を崩し、また相手の攻撃ラインを変えて、相手の背後に回りこむことで結果的に円を描かれるということで、自分の攻撃が必然的に防御になり、防御は攻撃になる「攻防一体」を意味している。総裁は私に「点を中心に円を描く、破壊の組手」を伝授してくれたと思っている。[16][17]
真樹日佐夫
大山先生は強かったよ。スタイルは地味なんだ。でも肘と膝が強い。左右の肘が横っ腹にくる。みんなその場でバタッといくくらい肘が強かった。蹴りは、俺がいたころはもう肉がついてて脚が太すぎてあんまりだったけどな。だからな、ないものねだりじゃないけど東谷巧とか、華麗な蹴りを持っているのを可愛がってたな。[18]

異種格闘技戦

遠藤幸吉の証言

大山の異種格闘技戦について、遠藤幸吉は極真会館の機関誌であるパワー空手の取材に対して「いろんな事がありました。詳しい事は大山さんに聞いて下さい」と多くは語っておらず、1995年発売の〈大山倍達とは何か?〉というムックの中で、アメリカでの大山は試し割りなどのデモンストレーションだけで実際に闘ってはいないと語り、そのインタビューの時は「私が知らないところでやったんじゃないの?」と話していた。

  • 基佐江里の告白
    • パワー空手のインタビュアーである基は大山没後に出版した〈大山倍達の真実〉の中で遠藤に〈大山倍達とは何か?〉と同じ内容の話を聞かされていた、と告白している。が、存命中の大山に質す事が出来ず遠藤の「いろんなことがありました。詳しいことは大山さんに聞いて下さい」と〝創作した〟と書いている。

後年「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で改めて当時の発言について聞かれ、再び否定し、〈大山倍達とは何か?〉内での「私が知らないところでやったのでは」との部分すら、「ないない(笑)。間違いなくないよ。何年後かに東郷が日本に来たでしょう? でもそこまでやったなら大山のところに連絡が行くだろうに、何もないんだから」と完全に否定している。強さそのものを否定しているわけではなく、その演武を見て「間違いなく威力があると思った」としており、「空手については『強かったんでしょうね。』としか言いようがないけどね」と語っている。また遠藤は大山のみならず力道山についても、米国修行時代の戦績を「年間300試合」と喧伝していた事について、年間300試合をこなすのに一日何試合のペースで試合をしなければならないか、という数字上の矛盾を挙げて否定し、「だから大山だけを責められない」と嘆息している。だが遠藤の発言に首を傾げる人物もいる。

  • 東京スポーツ・櫻井康雄
    • 「私は昭和30年代に遠藤の口から大山が戦ったレスラーや試合の模様を直接聞いている。ディック・リール(全米チャンピオン)は遠藤の口から聞かされた。力道山が負けたタム・ライス(レッド・スコーピオン)と大山との対戦も私が梶原一騎さんに教えたんですよ」と答えている。
  • 木村政彦の証言
    • 木村が本格的にプロレスラーに転向する前、昭和26年から28年頃、大山倍達は一緒に地方巡業に回っている。その際、木村と遠藤幸吉らがプロ柔道の試合をやったりプロレスの試合をやったりしていた。試合が終わると「誰か挑戦する人はいませんか」と観客の飛び入りを求めた。相手をするのは大山であった。

ある地方興行で元大相撲の力士が挑戦してきた。大山はこれを簡単に倒してしまった。次に名の知られた全日本クラスの柔道家が挑戦してきた。大山はこれも簡単に料理してしまった。大山は今度は「2人同時でいいですよ」と言った。大山の強さを知る木村政彦は客に「もう危ないからやめた方がいい」と止めたが、この相撲取りと柔道家は大山が当時まだ名を知られていなかったのでまた「やらせろ」と上がってきた。後ろから柔道家が、前から相撲取りが迫ってくるのを、大山はまずは後ろ蹴りで柔道家を倒し、前蹴りで相撲取りをKOしてしまった。どちらも一発であった。そのあまりの技の速さに観客たちは騒然となった。2人ともそのまま病院送りとなった。相撲取りは肋骨が2本折れていた。

この木村政彦の証言は「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」に出てくる[19]。著者によると木村は他の格闘家の強さという物に厳しく、自分が「本当に強い」と思った格闘家しか絶対に認めない男で、その木村が言うのだからこのエピソードは間違いなく事実だとしている。また大山が当時の大学柔道チャンピオンとの喧嘩に勝ったことも、柔道家や空手家への取材で事実だろうと書いている。

中村頼永の証言

US修斗の中村頼永は、1990年にロサンゼルスで出会ったミツ山下という柔術家から「大山倍達の異種格闘技戦を見たことがある。彼は凄い」という話を聞かされた[16]。当時、山下はグレイシー柔術の中級者であり、ホリオン・グレイシー(ヒクソン・グレイシーの長兄)の道場でアシスタント指導員をしていた[16]。山下から聞かされた話を中村は次のように語る[16]。

40年くらい前に中学生の頃、ミツ山下氏はテレビで見たそうです。大山総裁は空手着でリングに上がり、相手は大柄なボクサーだった。大山総裁は素手でどっしりと腰を落として構え、フットワークは使わない。その周りを長身のボクサーがジャブを出しながら、フットワークを使い、回るという展開から始まりました。ボクサーはなかなかスピードのあるパンチを出すので、大山総裁も構えたままスキをうかがう展開が続きましたが、そのうち、なかなか飛び込めないので大山総裁はあきらかにイライラした表情になってきたそうです。大山総裁はしびれを切らしたように、相手に向かってジャンプ。これは前に鋭く飛び込んだのを外人(ミツ山下)だからこう表現したのでしょう。飛び込むや否やボクサーのボディーになんと貫手を一撃。みぞおちにモロに決まり、一発でボクサーはKOされたそうです。山下氏はグレイシー柔術をやっているため、空手や打撃系の格闘技はあまり認めない立場ですが、「あの試合だけは凄かった。それは凄かった」とマス大山に関しては別格の存在として尊敬しているようです。また、ゴッドハンドが実際に戦ったときの様子を見たことを誇らしげに思っているようです。山下氏は格闘技の専門家であり、立場もある人物であり、さらに立場としては空手の敵役にある人物。その彼が話すことなので、これは信憑性のある話として受け取っていいと思います。[16]

以上が中村の証言だが、大山茂はこの話を聞いて、「大山総裁の現役時代は、貫手はほとんど目を狙って出しており、右中段逆突きが非常に強く、それを喰って立ってられる人間はいないだろうというほどの威力だったから、おそらく、正拳だったであろう」と語っている[16]。ただ、素手で手を開いて構えたところから、握りながら突き、即引き手をとると、空手を見慣れていない人(当時のアメリカ人で見慣れた人物がいるとは考えにくい)にとっては、貫手に見えることがある[16]。いずれにしても仮にボクサーを倒したのが貫手ではなく正拳だったとしても、この話の価値や信憑性が全くさがるものではない[16]。

逸話・エピソード

10円硬貨曲げ

非常に握力の強い空手家であった。著書『強くなれ! わが肉体改造論』によると、若い頃の握力は100キログラムを超えていたとのこと。最近の検証では120〜130キログラムあったと言われている[注釈 13]。若い修行時代から、両手の五指の訓練は欠かさなかった。その結果、硬貨を、親指・人差し指・中指の腹の部分で押さえて曲げることが出来たとされる(「パワー空手」の記事による)。未だにこの記録を打ち破る者は、自らの弟子からも、それ以外からも出ていない。大山の著書には柔道家の木村政彦が実見しているとある。

目撃談として、剛柔流の山口剛史(山口剛玄の息子)が「1953年(昭和28年)に浅草公会堂で演武会を開いた時、10円玉を曲げていた。後で目の前でやってもらったこともある[16]」と言い、南本一郎[注釈 14][20]は「初めて会った時に、3つの指で10円玉を曲げたんですよ。それもハンパな曲がり方じゃなくて、しっかり曲がってた[20]」と証言している。

『空手バカ一代』などの漫画でもこのエピソードが語られ、この際全身にジンマシンが出るという話を聞き、当時の週刊少年マガジン編集長が連載を決意したという逸話がある。劇中では「原因は不明だが人間の限界を超えた動きの副作用」というような表現がされていた(『男の星座』)。まだ極真会館が設立される前、饗応を受けた際お礼としてこの技を披露したといわれている。

これら(硬貨曲げ等)はトリックがあったと指摘する関係者もいるが、昭和26年から昭和33年に作成された10円玉(いわゆるギザ十)は現行の10円玉よりも若干薄く、大山倍達は実際に曲げたという説が有力となっている。10円玉の硬貨折りを実見したと語る人も多数存在する。前述の証言をした山口剛史は幼少の頃、新年会や演武会で大山の硬貨折りやビール瓶の手刀斬りなどの神技を見るのが楽しみだったと語っている。なお、硬貨を曲げることは貨幣損傷等取締法違反である。

  • 大山没後
    • 自宅で家族が遺品整理の際に曲がった十円玉 (昭和27年) が発見され『月刊大山倍達』に掲載され雑誌にも転載されている。
  • 渡辺一久の実演
    • 大山道場時代の門下生で〈This is Karate〉のモデルも努めた渡邊一久は自身が曲げた10円玉をブログで公開した。「黒崎健時先輩と一緒に挑戦し黒崎先輩は出来なかったが自分は3枚連続で曲げた。最盛期は両手で2枚曲げることも出来た」と、当時を実演して見せた。
  • 大塚剛プロ空手創設者
    • 大塚は雑誌の対談で100円玉をプロ空手の試合の後楽園ホールで500円玉を両手で曲げて見せ、ハワイで横綱・輪島の前で25セント・コインを曲げて見せ大関・若嶋津が記念に貰った。

その他

  • 吉行淳之介
    • 宮本武蔵を深く尊敬していた大山は、作家・吉行淳之介と対談した際[21]、吉行から「五味康祐によると武蔵はホモだったそうですね」と言われたため(なお17世紀の武士において同性愛は珍しいものではなかった)、怒りのあまり吉行を殴りそうになったが、自制して手を出さず、怒りを顔に表すことすらしなかった。このため吉行は大山の怒りに気付くことなく平然と対談を終えたが、後日、知人を介して大山から危うく暴行を加えられる寸前だったと知り、恐怖におののいたと語っている。
  • 今東光
    • 週刊プレイボーイに連載していた極道辻説法の中で、今東光が「大山倍達は韓国人」と答え、読者から多数の手紙が来た、と大山倍達が言っていたが「私はアジア人です」と返答した。
  • 張本勲
    • 大山倍達を「ばいたつ」と呼称した張本勲。TBS『サンデーモーニング』で張本が極真空手創始者・大山倍達を「ますたつ」と呼ばず「ばいたつ」と連呼した事がSNSでバズった。これは書き込んだ者が大山倍達の出自の知識に乏しいのを露呈しただけであった。在日朝鮮人であり帰化した時に通名「大山倍達=おおやまますたつ」を本名として登録したが、帰化する前に空手道・剛柔流に在籍してた当時は「ばいたつ」と名乗っていた。大山倍達本人も当初は「ばいたつ」と名乗っていたが "揶揄われる" のが嫌で「ばい」は「ます(増す)」と言う事なので「ますたつ」と呼び名を変えたとインタビューに答えていた。大山倍達と無名時代から同胞として知己のあった張本が誤読した訳ではない。
  • 吉川英治
    • 大山は歴史小説『宮本武蔵』を愛読しさらに作者である吉川英治に知己を得ており、極真会館の道場訓は吉川の監修を得たものである。
  • 石橋貴明
    • 高校時代に極真会館が近くにある池袋の中華料理屋でバイトをしていた頃に大山倍達が現れ、ビンビールを注文した時に『空手バカ一代』に影響を受けていた石橋は栓を抜かずに持っていけば、手刀で割ってくれるのではないかと期待したが普通に「栓抜きは?」と聞かれて拍子抜けした挿話を語っている[22]。
  • 空手の門
    • 大山は常々「握り方3年。立ち方3年。突き方3年。9年やらないと空手の門には立てない」といっており、それでも晩年、夜中に目が覚めて「自分の拳の握り方が本当に正しいのか?」と自問することがあったという[23]。

主な門下生

空手バカ一代の登場人物、大山の内弟子、元支部長、全日本大会入賞者など、著名な人物に限る。

直弟子(大山道場、本部道場、総本部内弟子、総本部へ入門した者)
孫弟子(支部出身者)

著書

技術書

  • 『What is Karate?』 日貿出版社、1958年(昭和33年) ※世界で25万部のベストセラー
  • 『This is Karate』 日貿出版社、1965年(昭和40年)
  • 『Vital Karate』 日貿出版社、1967年(昭和42年)
  • 『ダイナミック空手』 日貿出版社、1967年(昭和42年)
  • 『Advanced Karate』 日貿出版社、1970年(昭和45年)
  • 『空手教室』 秋田書店、1970年(昭和45年)
  • 『少年空手教室』(ぜったい負けない護身術) 講談社、1970年(昭和45年)
  • 『空手を始める人のために』 池田書店1971年(昭和46年)
  • 『100万人の空手』 講談社、1975年(昭和50年)
  • 『わんぱく空手』 KKベストセラーズ、1976年(昭和51年)
  • 『秘伝極真空手』 日貿出版社、1976年(昭和51年)
  • 『続・秘伝極真空手』 日貿出版社、1977年(昭和52年)
  • 『史上最強の空手を始める人に』 みき書房、1982年(昭和57年)
  • 『極真カラテ入門・マス大山が教える武道カラテの神髄』 池田書店、1983年(昭和58年)
  • 『これが試し割りだ』 日貿出版社、1984年(昭和59年)

自伝

武道論

  • 『わが空手五輪書』 講談社、1975年(昭和50年)
  • 『極真への道-私の空手哲学』 日貿出版社、1975年(昭和50年)
  • 『世界に賭けた空手-5000万人日本脱出への提言』 潮出版、1976年(昭和51年)
  • 『わがカラテ革命』 講談社、1978年(昭和53年)
  • 『The Kyokushin Way』 日貿出版社、1979年(昭和54年)
  • 『わがカラテ日々研磨』 講談社、1980年(昭和55年)
  • 『わがカラテ覇者王道』 サンケイドラマ出版、1982年(昭和57年)
  • 『わがカラテ求道万日』 講談社、1982年(昭和57年)
  • 『極真大道空手一代』 日貿出版社、1982年(昭和57年)
  • 『わがカラテ武道教育』 講談社、1983年(昭和58年)
  • 『青春をどこまでも熱く生きよ』 みき書房、1983年(昭和58年)
  • 『空拳士魂・わが極真の実像』 テレハウス、1985年(昭和60年)
  • 『昭和五輪書(地之巻)』 PHP研究所、1983年(昭和58年)
  • 『昭和五輪書(水之巻)』 PHP研究所、1985年(昭和60年)
  • 『昭和五輪書(火之巻)』 PHP研究所、1986年(昭和61年)
  • 『昭和五輪書(風之巻)』 PHP研究所、1987年(昭和62年)
  • 『昭和五輪書(空之巻)』 PHP研究所、1987年(昭和62年)
  • 『極真カラテ21世紀への道』 徳間書店、1992年(平成4年)
  • 『武道論』 徳間書店、1992年(平成4年) ※平岡正明と共著
  • 『勝負の鉄則』 PHP文庫、1993年(平成5年)

写真集

  • 『爆発マス大山空手』 勁文社、1974年(昭和49年)
  • 『極真空手世界を征く』 講談社、1975年(昭和50年)
  • 『一撃必殺空手いのち』 講談社、1976年(昭和51年)
  • 『必殺カラテ! わがいのち』 講談社、1979年(昭和54年)
  • 『大山倍達 空手極限の世界』 朝日出版社、1984年(昭和59年)
  • 『ゴッドハンドの軌跡』 コア出版、1987年(昭和62年)

漫画原作

(梶原一騎との連名)

その他

  • 『限界の挑戦』 宝友出版、1977年(昭和52年)
  • 『強くなれ! わが肉体改造論』 講談社、1985年(昭和60年)
  • 『自分に勝て! わが性格改造論』 講談社、1990年(平成2年)
  • 『わがカラテ日本への提言』 サンマーク出版、1991年(平成3年)
  • 『マス大山の正拳一撃』 市井社、1994年(平成6年)

出演

映画
テレビドラマ

題材にした作品

アニメ
漫画
  • 「大野望(テーヤマン)」大韓民国にて、「空手バカ一代」と全く同じ期間(1971~1977年)に発表された「韓国版空手バカ一代」。大山の韓国名の一つである「崔倍達(チェ・ペダル)」を主人公として、空手バカ一代とストーリーはほぼ同じだが、主人公が使う武術がテコンドーである、朝鮮民族を押さえ付ける日本人に立ち向かうなど、全ての要素を韓国に置き換えて連載された[27]。
映画

パチスロ

2007年1月にオリンピアから発売。販売はフィールズが担当[28]。

演じた俳優

脚注

注釈

  1. 北朝鮮国籍ではなく、1947年以降の外国人登録制度において「旧朝鮮戸籍登載者及びその子孫(日本国籍を有する者を除く)のうち、外国人登録上の国籍表示を大韓民国に変更していない者」に登録された便宜上の国籍である。
  2. 大山茂が「大山倍達は当時『崔倍達』と名乗っていたがいつの間にか『大山倍達』と名乗るようになった」と、格闘技雑誌の中で語っている。
  3. 早稲田大学高等師範部国民体錬科は、第二次世界大戦終戦後の1946年(昭和21年)に「体育科」と改称され、1951年(昭和26年)に高等師範部は「教育学部」に改組された。
  4. 京都座における京都文化協会主催の体育大会を指すとして、はっきりとしたルールのある「大会」では無いとする説がある。なお、元極真会館本部直轄大阪道場責任者の岩村博文は、その大会の優勝後大阪に立ち寄った大山と出会ったとしている。
  5. 対戦相手と自分の距離のこと。間合いを見極めることで自分の技を相手にヒットさせることができる。間合いには以下の3通りがある。
    • 限度間合い - 一撃では攻められず、かといって追撃をかけても逃げられる間合いで、相手の攻撃パターンを読むまでの一時的なものとして用いられる。
    • 誘導間合い - どちらか一方が誘いを入れる間合いで、待ち拳として用いる。
    • 相応間合い - 両者が互角の力量で戦う場合の、共に攻撃範囲内にある間合いのこと。
  6. 手首を掌底とは逆にそらし、曲がった関節部分のこと。
  7. 後屈立ちよりも歩幅が狭く、体重は100%後足にかけ、前足はつま先が床に触れている程度にする。
    後屈立ち - 前足はつま先を床につけ、前足と後足は30対70の割合で体重をかける立ち方である。
  8. 構えた手を相手の顎や身体の肝臓などに下から突き上げる。ボクシングのアッパーカットに類似した技である。
  9. 「龍尾の構え」とも呼ばれ、前足側の手で手刀受けから上体をひねり後ろ足の手を上から落としてくる構えのこと。
  10. 両手刀を前に出し、前足側の手をやや上にした防御力のある構えで後屈立ちか、猫足立ちで構える。
  11. 複数の技を組み合わせ、連続で繰り出し攻撃すること。
  12. 「上下の構え」とも呼ばれ、手刀受けから相手の突きを落としたり、蹴りへ移行する時などに使われる。両腕を地面に平行にして交互に円を描き、間合いをつめる。
  13. 日本拳法の選手が握手をしてもらった後に、選手の手の平には手形の跡が残るほど強烈な握手だったとの伝聞が存在する。
  14. 大山道場で師範代を務めた強豪。日本大学剛柔流空手道部出身で石橋雅史の後輩である。大学在学中に浅草の剛柔流本部で大山倍達と知り合い、大山が池袋の立教大学裏で道場を開設した時に南本は道場での指導を頼まれ、大山道場初期の門下生を指導した。相手を羽目板まで追い込んでも攻め続けたという厳しい姿勢を持ち、大山道場に「負けてはいけないんだ」という闘争心を持ち込む指導をした。その後、仕事の都合で道場へ通えなくなったことから、指導の引継ぎを先輩の石橋に頼み、大山道場を去った。
  15. 第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会から第6回まで連続出場し、第6回全日本選手権で4位に入賞した。現在は国際武道連盟・極真空手 清武会の師範である。
  16. 故人。極真会館秋田支部所属で、第3回全日本空手道選手権に初出場。第4・5回全日本選手権は共に3位、第6回全日本選手権5位、第1回全世界選手権5位とそれぞれ入賞し、第8回全日本選手権で念願の初優勝を遂げた。正拳突き・前蹴り・回し蹴りを得意とし、その戦いぶりから闘将と呼ばれた。第2回全世界選手権に推薦枠で出場。5回戦でウィリー・ウィリアムスと対戦し、延長戦でウィリーの正拳突きと下突きの連打で一本負けをし、引退。晩年は新極真会の秋田本庄道場の師範を務めていた。
  17. 浜井識安の石川支部出身。第13回全日本選手権初出場し、4回戦で竹山晴友に敗退。しかし、第14回全日本選手権では中村誠を破ったブラジルのアデミール・ダ・コスタ、松井章圭に勝ち、決勝進出。三瓶啓二に惜敗したものの準優勝した。第3回全世界選手権にも出場し、第16回全日本選手権では竹山と再戦したが、判定負けで3位入賞。これを最後に選手権大会から退く。岡山県支部長に就任して、現在では極真会館 松井派から離れて、極真会館 極眞會の代表である。
  18. 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也)のインタビューで、本書に関しては真樹日佐夫が「俺がゴーストライターをやった」と証言している。逆に後述の『大山カラテもし戦わば』は「違うと思う」と否定している。

出典

  1. 官報「昭和43年5月16日第12423号」
  2. 小島一志, 塚本佳子 (2006). 大山倍達正伝. 新潮社
  3. “大山倍達総裁 紹介”. 極真会館. 2022年11月30日閲覧。
  4. “大山 倍達とは”. コトバンク. 2022年7月31日閲覧。
  5. 増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』458~459頁。同書では女性の名は実名。この引用はムック本『最強最後の大山倍達読本』からだが、著者の増田はこの本を、大山を盲目的に持ち上げる類のものではなく、かなり抑制の効いた検証本だと評している。
  6. 増田俊也〈木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか〉460~461頁。著者の増田は「混乱した時代に生きた修行中の若い格闘家にとって、この悪評は勲章である。」と肯定的に評している。
  7. 在米期間は公称1年であるが、実際には6ヶ月弱で帰国し『東亜日報』『週刊サンケイ』等の取材を受けている
  8. https://www.youtube.com/watch?v=Y9tdov_8r_Q
  9. “「風のファイター」が3人の息子に教えた技術が本に(1)”. 中央日報 - 韓国の最新ニュースを日本語でサービスします. 2026年7月9日閲覧。
  10. 増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』457頁
  11. 斎藤貴男 『梶原一騎伝』 新潮社、2001年(平成13年)4月1日発行、311頁、337頁、348頁、357-359頁、372頁。
  12. 斎藤貴男 『梶原一騎伝』 新潮社、2001年(平成13年)4月1日発行、466頁。なお梶原もそのハガキが大山の物からであることに気付いており、妻に「これは大山館長からだよ。俺にはわかるんだ」と涙ぐみ語っていたという。
  13. “「[改訂版]今度、某TVに出ますよ!!”. 小島一志-公式BLOG (2014年9月25日). 2015年2月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月23日閲覧。
  14. 小島一志 『芦原英幸正伝』283頁
  15. 増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』480頁
  16. 『拳聖 大山倍達 地上最強の空手』 福昌堂、1998年(平成10年)4月1日発行、3-19頁、23-46頁、117頁。
  17. 山崎照朝 『無心の心』 スポーツライフ社、1980年(昭和55年)、156頁。
  18. 増田俊也 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』 新潮社、2011年(平成23年)477頁。
  19. 同書471~473頁。空手専門誌『ワールド空手』における基佐江里のインタビュー引用だが、著者増田が基に直接聞いたという。
  20. 『蘇る伝説「大山道場」読本』 日本スポーツ出版社、2000年(平成12年)1月4日発行、42-49頁。
  21. 『吉行淳之介 対談 浮世草子』 三笠書房・集英社、1971年(昭和46年)。
  22. 『おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE!』(100回記念の回のゲスト)
  23. 消費税が日本を救う(日経プレミアシリーズ)p297
  24. 渡邊一久 著「梶原一騎氏に伝えた実戦談」、フル・コム 編『幻の大山道場の組手 かつて地上最強の空手は実在した』(初版第1刷)東邦出版〈BUDO-RA BOOKS〉(原著2013-5-6)、54 - 55頁。ISBN 978-4-8094-1118-2。OCLC 841143377。C0075。
  25. 「空手バカ一代」では『サンダクレス』
  26. 『新・極真カラテ強豪100人(ゴング格闘技1月号増刊)』 日本スポーツ出版社、1997年(平成9年)、49頁、60頁、114頁、116-117頁、150-151頁。
  27. 増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』456~457頁
  28. “オリンピア社製パチスロ機『空手バカ一代』発売のお知らせ” (PDF). フィールズ (2006年12月13日). 2018年8月31日閲覧。

関連項目

外部リンク

==

최영의

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오야마 마스타쓰
大山 倍達
작가 정보
본명귀화 전 이름: 최영의(崔永宜)
귀화 후 이름: 오야마 마스타쓰(大山倍達)
출생1923년 6월 4일
일제 강점기 조선 전라북도 김제군 용지면 와룡리
사망1994년 4월 26일(70세)
일본 도쿄
직업무예가, 저술가
학력일본 와세다 대학교 체육학과 중퇴
활동기간1953년 ~ 1994년
장르실전 가라테 무예학 저술
부모최승현(부), 김부용(모)
배우자오야마 치야코, 홍순호
자녀슬하 3남(한국) 3녀(일본)

오야마 마스타쓰(大山倍達) 혹은 최영의(崔永宜, 1923년 6월 4일 ~ 1994년 4월 26일)는 전라북도 김제 출신으로 일본에서 활동한 한국계 일본인 무술가로, 극진가라테의 창시자이다. 국제가라테연맹 총재와 극진회관의 관장을 지냈다. 한국에서는 최배달(崔倍達)이라는 별칭으로도 잘 알려져 있으며, 대한민국 영화 《바람의 파이터》의 실제 주인공이기도 하다. 영어권에는 Mas Oyama라는 이름으로 알려졌다.

출생과 삶

최영의는 일제강점기인 1923년 7월 전라북도 김제군 용지면 와룡리에서 아버지 최승현과 어머니 김부용 사이의 6남 1녀중 넷째로 태어났다. 본관은 전주[1]이다. 청소년시기에 일본으로 건너와 야마나시 항공기술학교에 입학하였다. 가라테의 본가인 송도관에 들어가 근대 가라테를 확립한 후나코시 기친(船越義珍)에게 사사받았다.

1944년 태평양 전쟁 시 학도병으로 착출되었는데[2], 최영의를 주제로 한 일본의 일부 저작물들이 이를 과장하여 마치 일제에 충성하는 카미카제 조종사였던 것처럼 표현하기도 했다. 이에 대해 그의 아들 최광범은 "아버지가 비행학교에 다닌 적은 있지만, 비행훈련은 받지 못했다."고 증언했으며[3], 또, 최영의 자신 또한 자신이 만화에 그렇게 묘사된데에 불쾌해 했다고 아들 최광범은 증언했다.[4]

전쟁이 끝난 후 와세다 대학 체육과에 입학한다.(이후 중퇴) 재일조선인 민족운동가이자 무술가인 조영주(전 민단 단장)에게 또다른 가라테 유파인 강유류를 배우고, 1947년 전일본 가라테 선수권에 출전하여 우승하며 일본 무술계에 본격적으로 등장한다. 조영주의 권유로 기요즈미산에서 입산수련을 하게 되는데, 입산 수련중 읽은 미야모토 무사시의 오륜서에 많은 영향을 받았다고 한다. 이후에는 세계를 돌면서 각국의 강자들과 대결하면서 이름을 얻는다. 맨손으로 소를 잡은 일화는 특히 유명하다.

극진회관 설립

1953년에 최영의는 도쿄에서 '오야마 도장(大山道場)'이라는 이름으로 자신의 도장을 열었다. 처음에 그의 도장은 벌판에 자리 잡고 있었지만 1956년에 이르러 발레학교 안으로 옮겼다. 강하고 맹렬하며 날카로우면서도 실전 스타일이었던 최영의만의 수련방식은 1957년에 '극진(極眞)'이라는 이름으로 알려지게 되었다. 극진이란, '궁극적인 참됨을 찾는 것'이라는 뜻이다. 그는 또한 수련 중 제자들을 다치게 하는 등 '거친' 스타일로도 유명했다. 도장이 명성을 얻어감에 따라 제자들은 그곳에서의 수련에 매력을 느끼게 되었고, 수련생의 수도 늘어났다. 오늘날 극진가라테를 기반으로 하는 다양한 단체의 지도자들은 바로 이 시기의 방식으로 기술을 연마하였다. 1964년 도장 건물이 옮겨진 후에는 그곳이 극진가라테 국제본부 역할을 하게 되었다. 이와 함께 그는 또한 공식적으로 '국제가라테연맹 극진회관'(약칭 IKO 또는 IKOK)을 설립하여 극진 스타일을 가르치는 수련장을 많이 세웠다. 같은 해, 그의 도장은 무에타이 수련생들의 도전을 받았다. 자신의 것을 다른 스타일에 견줄 수 없다고 믿었던 최영의는 그 도전을 받아들였고, 세 명의 제자(구로사키 겐지, 나카무라 타다시, 오사와 노보루)를 태국으로 보내 3전 2승1패를 기록했다. 다만 당시 최영의의 제자들은 당시 극진가라테 수련생중에서 가장 강했던 3명이었던것에 반해서 이들과 대결했던 무에타이 수련생들은 경량급에 프로 선수급은 아니었다는 이야기도 있다.

극진회를 공식 설립한 후 최영의는 조직이 확장될 동안 관리감독을 맡았다. 최영의 및 그가 직접 뽑은 사범들은 극진 스타일을 소개하고 새 회원들을 유치하는 데 탁월한 능력을 보였다. 최영의는 일본 내 다른 지역이나 도시에서 도장을 열 사범을 고르려 했다. 선택된 사범은 그 지역으로 가서, 대개는 공공체육관, 지역 경찰무도관(유도를 수련하는 사람이 많음), 공원과 같은 공공장소에서 자신의 가라테 실력을 선보이거나, 지역 축제 또는 학교 행사에서 무술 시범을 지도하는 등의 활동을 하였다. 그 후 그 지역 전체에 입소문이 퍼지고 도장은 수련생들이 따르게 되었다. 최영의는 같은 방식으로 사범들을 미국, 네덜란드, 영국, 호주, 브라질 등 외국으로 보내 극진가라테를 전파하였다. 또한 최영의는 누구나 어떠한 스타일로든 입문할 수 있도록 매년 전일본 풀컨택트 가라테 선수권대회를 열고, 4년마다 세계 풀컨택트 가라테 선수권대회를 열어 극진가라테의 발전을 도모했다.

주요 수련생

일화

  • 최영의는 무술의 기본기를 이해하기 위해 유도를 연마하기도 했다. 전설적인 유도가인 기무라 마사히코는 도쿄 나카노에 있는 소네 도장에 최영의를 소개하였다. 그는 그곳에서 4년간 수련하여 유도 4단이 되었다. 그는 그래플링에 있어서는 기무라가 한수위라고 인정하기도 했다.
  • 최영의는 쿠미테를 통해 자신의 실력을 시험했다. 쿠미테는 2분동안 상대방과 겨뤄 승자를 판명하는 대련이다. 최영의는 100인 쿠미테를 만들었는데, 이는 100명의 상대와 3일에 걸쳐 대결하며 3번 이상 연속으로 승리하면 성공으로 치는 승단 심사의 종류이다.
  • 최영의는 맨손으로 황소와 싸운 것으로도 유명했다. 일생동안 그는 52마리의 황소와 격투를 벌였는데 그 중 3마리가 격타 한 번 만에 즉사해 최영의에게 '신의 손'이라는 별명이 붙여졌다. 다만 이에 대한 증거 영상이라곤 기력이 없어 보이는 코뚜레를 한 소와 싸우는 편집된 홍보 영상뿐이라 사실 여부는 불분명하다.
  • 최영의는 미국에서 지내는 동안 프로 레슬러들과 많은 시합을 벌였다. 최영의는 1958년 개정판 <What Is Karate(한국어 제목: 가라테는 무엇인가)>에서, 자신은 그 때까지 하와이에서 활동하던 프로 레슬러 3명과 시합을 가졌으며 부상으로 장학금을 30번 받고 텔레비전에도 9번 방영되었다고 적었다.
  • 가장 가라데에 이상적인 인물은 자신의 내제자 니콜라스 페타스라 하였다.

노년기부터 임종까지

  • 노년기에 최영의는 관절염을 앓았다. 몸이 아픈데도 불구하고 그는 수련을 결코 포기하지 않았으며, 격파 시범 등을 통해 가라테를 계속해나갔다.
  • 최영의는 약 80권 가량의 책을 썼고, 일부는 한국어를 비롯한 외국어로도 번역출간되었다. 일본에서는 최영의가 쓴 책은 물론 그에 대해 쓴 책들도 출판되었으며, 그의 파란만장한 생애를 조명하여 스크린에 담은 장편영화나 모험담을 자세히 다룬 만화책도 큰 인기를 끌었다.
  • 최영의가 사망하기 전, 그가 창립한 국제가라테연맹 극진회관은 세계 120여개국에 지부를 두고 공식인원 5백만 명 이상의 수련생을 자랑하는 세계 주요 무술단체 중 하나로 손꼽히게 되었다. 그러나 최영의의 사망 이후 후계문제의 갈등으로 극진회관은 다양한 단체로 분리되었다.
  • 최영의는 1994년 4월 26일, 70세의 나이에 폐암으로 사망하였다.
  • 최영의는 1968년 일본 국적을 취득하였으나, 귀화 후 국적 말소 신청을 하지 않아 한국에도 호적이 남아있는 것으로 알려져 있다. 다만 국적 상실 신고를 하지 않았기 때문에 호적이 남아 있는 것일 뿐 그가 귀화할 당시 한국은 이중국적을 허용하지 않았던 시기이기 때문에 국적 상실 신고 여부와 관계없이 최영의는 이중국적자가 아니다.[5]
  • 최영의는 한국과 일본에서 중혼을 했다. 즉 이혼없이 두 가족을 가지고 있었는데, 일본에서도 중혼은 금지되어 있으나 도쿄 법무국과 일본 법원에서 일본과 한국의 호적상 생일이 다르기 때문에 동일인물이 아니라고 판결한 덕분에 처벌을 받지는 않았다. 1946년에 일본인 오야마 치야코(1926-2006)와 결혼하여 딸 3명을 낳았고, 70년대에 한국인 홍순호와 결혼해 아들 3명을 낳았다. 평소에는 일본에서 생활하다가, 한달에 한번씩 한국에 들어와 휴식을 취했다고 한다.[6] 오야마 치야코는 최영의 사망 이후 극진회관이 분열되었을 때 극진회관 오야마파의 관장으로 활동하기도 했다. 최영의의 딸과 아들들은 각각 일본과 한국에서 최영의 총재를 기리는 사업들을 펼치고 있다.
  • 묘소는 일본 도쿄도 분쿄구 오쓰카 5-40-1 고코쿠지(護国寺)에 있다.

작품 속 최영의

  • 1971년, 최영의의 일대기를 그린 만화 《空手馬鹿からてばか 一代いちだい》(한국판 제목: 《무한의 파이터》)가 주간 소년매거진에 실렸다.[7] 1973년에는 47화로 각색한 애니메이션에서는 내용이 일부 변경되었고, 어떤 이유에서인지 주인공인 최영의, 즉 오야마 마스타쓰가 가상의 캐릭터인 아스카 켄으로 바뀌었다. 비록 이 애니메이션은 그 내용이 원작만화와 다소 다르기는 하지만, 만화에서처럼 최영의의 활약상을 그려내고 있다는 점은 변함이 없다.
  • 가지와라 잇키, 쓰노다 지로, 가게마루 조야의 만화를 원작으로 한 3부작 무술 영화 《けんか空手 極真拳 겐카 가라테 교쿠신켄[*](Champion of death, 1975)》, 《けんか空手 極真無頼拳 겐카 가라테 교쿠신 부라이켄[*](Karate bearfighter, 1975)》, 《空手馬鹿 一代 가라테 바카 이치다이[*](Karate for life, 1977)》에서는 일본 배우 치바 신이치가 최영의 역을 맡았다. 처음의 두 영화에는 최영의도 나온다.
  • SNK 비디오 게임인 <킹 오브 파이터>, <용호의 권> 시리즈에서 사카자키 다쿠마(미스터 가라테라고도 함)는 최영의를 묘사한 캐릭터이다. 사카자키 다쿠마는 최영의의 극진가라테를 주 기반으로 한 가상무술 '용호의 권'의 창시자이자 달인으로 묘사되었다.
  • 이타가키 케이스케의 만화 <격투맨 바키>에서 최영의를 기반으로 하여 만들어진 캐릭터인 오로치 돗포는 가라테의 달인이며, 자신의 가라테 학교인 신심회의 창시자이다. 이타가키의 또 다른 작품 중 널리 알려진 것으로는 <아랑전>이 있다. 이 작품에서도 최영의를 묘사한 것으로 보이는 인물 마쓰오 쇼잔이 주요 캐릭터로 등장한다.
  • 한국 영화 《바람의 파이터》에서는 극진가라테를 개발하기 전 가라테 수련생이었던 청년 최영의를 그리고 있다.

저서

영어판

일본어판

  • 世界ケンカ旅
  • 強くなれ!わが肉体改造論
  • わが空手五輪書
  • 大山倍達もし戦わば
  • 強敵こそが己を磨く
  • 強くなる東洋食のすすめ
  • 自由自在の境地をひらく
  • マス大山の正拳一撃

가족 관계

  • 아버지 : 최승현(1890년 ~ 1953년)
  • 어머니 : 김부용(1888년 ~ 1955년)
  • 본인 : 최영의 (1923년 6월 4일 ~ 1994년 4월 26일)
  • 배우자 : 오야마 치야코(大山智弥子, 1926년 ~ 2006년)
    • 장녀 : 오야마 루이코(大山留壹琴, 1965년 ~ 1996년)
    • 차녀 : 오야마 에키(大山恵喜, 1969년 ~ )
      • 외손자 : 션 다케시 오야마(Sean Takeshi Oyama, 大山武史, 1990년 ~ )
      • 외손녀 : 델파이 모모카린 오야마(Delphi Momokarin Oyama, 大山桃加林, 1994년 ~ )
    • 삼녀 : 오야마 기쿠코(大山喜久子, 1971년 ~ )
      • 외손자 : 오야마 아키라(大山照羅, 1997년 ~ )
  • 배우자 : 홍순호
    • 장남 : 최광범(1974년 ~ )
      • 친손녀: 최수빈
      • 친손자: 최준원
    • 차남 : 최광수(1976년 ~ )
      • 친손자: 최준형
    • 삼남 : 최광화(1982년 ~ )
  • 형 : 최일운(崔逸雲, 1915년 ~ 1995년)
    • 종손자 : 최원희(1972년 ~ )
    • 종손부 : 유현영(柳賢榮, 1976년 ~ )
  • 동생 : 최영정(崔永定, 1931년 ~ 2021년 10월 16일)
    • 조카 : 최미나, 최혜련, 최연수, 최승욱
  • 처남 : 후지마키 준(藤巻潤, 1936년 ~ )

각주

외부 링크

  • 위키미디어 공용에 최영의 관련 미디어 분류가 있습니다.

같이 보기

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