2020-06-06

城田すず子 - Wikipedia



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城田すず子
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しろたすずこ城田すず子(仮名)
生誕 1921年大正10年)6月30日
日本 東京府東京市深川区森下町
(現:東京都江東区森下
死没 1993年
職業

公娼


城田 すず子(しろた すずこ、1921年6月30日 - 1993年)は、日本の元娼婦。17歳で芸者屋に奉公に出たのを皮切りに、南洋の遊郭等で働く。太平洋戦争慰安所の帳簿係を務めたこともある。戦後はGI(アメリカ軍軍人)を相手に娼売した。更生施設でキリスト教に入信。


目次
1生涯
1.1公娼時代
1.2戦後
1.3更生施設へ
1.4自伝出版と慰霊碑
2備考
3著書
4脚注
5参考文献
6外部リンク
生涯[編集]
公娼時代[編集]

下町のパン屋の5人兄弟の長女として生まれ、14歳で母親と死別。17歳[1]神楽坂の芸者屋に奉公に出た。横浜の新天地の遊郭に住み替えした時点では、芸者屋に1800円ほどの借金があったという。その後、3年契約2500円の話を受け、台湾澎湖島の妓楼に移る。同地では8か月間働いたが、生活費や着物代で借金は減らなかった。一度東京に戻るも、弟妹の暮らしぶりを見て、3000円の借金で南洋行きを決断する。サイパントラック島で働いた後、現地で身請けされる。その後一旦内地に帰ってから再び南洋へ。他人の世話で慰安所の帳簿係も経験した。

戦後[編集]

戦後は九州神戸などでアメリカ兵を相手に体を売っていた。この頃薬物や博打に溺れる。荒んだ生活の末、豊橋の遊女屋で知り合った学生と出奔。逗子の海岸で心中を図るが、一人命を取り止める。この頃の借金は2万5000円ほど。暫くして吉原を経て、外国の高級船員を目当てに横浜の本牧へ。病気で借金が5万円まで膨らむが、他人の厚意で返済。

更生施設へ[編集]

借金返済後も堅気の仕事は見つからず、御殿場の駅で購入した『サンデー毎日』で赤線出身者や家出少女の為の更生施設の存在を知り、大久保矯風会慈善寮に入寮。入寮中にキリスト教徒となる。二度の手術も経験する。洗髪中に背骨を骨折して以来寝たきりの生活になり、晩年は社会復帰困難な女性たちの為の長期収容施設「かにた婦人の村」で過ごす。

自伝出版と慰霊碑[編集]

1985年、城田は自伝『マリヤの賛歌』を出版した。その第二版のあとがきには「中国、東南アジア、南西諸島アリューシャン列島で、性の提供をさせられた娘たちは、さんざん弄ばれて、足でまといになると、放り出され、荒野でさまよい、凍てつく原野で飢え…」と書いているが、城田は戦中に南西諸島にしか行っておらず、中国等の当時の状況を見ているはずがない。また、凍てつく原野も南西諸島にはない。そのため、この自伝に書いてあることは誇張されている可能性が高い。 1986年、城田の希望を受け、戦時中の慰安婦の為の慰霊碑「噫従軍慰安婦」が建てられた。1998年に韓国挺身隊問題対策協議会尹貞玉が訪問したことにより、慰安婦問題に大きな影響を与えることになった。[2]

備考[編集]

大高未貴は、 城田が日本国外では日本軍の性奴隷の一人とみなされているとして、『正論』誌上で反論をおこなった[3]

著書[編集]
『愛と肉の告白』桜桃社(1962)
『マリヤの賛歌』日本基督教団出版局(1971)

脚注[編集]
^ 「マリヤの賛歌」に拠る。15歳とする資料もある[要出典]。
^ 安房文化遺産フォーラム 「噫(ああ) 従軍慰安婦」石
^ 大高未貴 「深層解明 元日本人慰安婦を「性奴隷」にした嫌らしい面々」 『正論』2014年5月号
参考文献[編集]
『マリヤの賛歌』日本基督教団出版局(1971)
大高未貴 「深層解明 元日本人慰安婦を「性奴隷」にした嫌らしい面々(特集 慰安婦・歴史戦争、我らの反撃)」 『正論』2014年5月号 508:82-97
外部リンク[編集]
安房文化遺産フォーラム 「ああ従軍慰安婦」の石碑
カテゴリ:
娼婦
慰安婦問題
東京都区部出身の人物
1921年生
1993年没

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