[IX-057]
前便では、ポーランド留学の時代にショパン漬けになって以来、子どもにピアノを習わせる名目で、自分も暇に飽かしてピアノを弾くようになったことを書いた。それはどんな名演奏を聴く以上の陶酔を弾く者に与えてくれて、和音から和音へと渡り歩いていくだけで、ショパンと直にふれあっているかのような恍惚感が得られた。どれだけのピアニストが、ショパンとともに恍惚感を味わっているのかと思うと、それは恐るべき数だと思う。
他方、私は学部時代に東大駒場のブリティッシュ・ロック研究会にいたこともあり、簡単な和音から、ややトリッキーな和音まで(ジャズやボサノバの方向にはいかなかったが)、ギターで鳴らす技だけは会得していた。だから、和音から和音へのサーフィンのような「滑走感」には酔いしれたし、和音が使えれば作曲もできないことはなく、自分で曲を作ったりもしていた。いまから思えば、ジェネシスやキング・クリムゾンを目指しながら、結局は、ニール・ヤングやアメイジング・ブロンデル(ポップス化してからの)どまりだったが、それはそれで、そのあたりの身近なアコースティック・ポップスには今でも愛着はある。
https://www.youtube.com/watch?v=2SxjMWAtlpM
https://www.youtube.com/watch?v=okfnePofVmA
しかし、楽譜を読みながらショパンを弾く楽しみを覚えてからは、しょせん手癖でコードを進行させ、それにあわせて弦をつま弾くだけのギターでは飽き足りず、無理やりな運指を指にたたきこんで弾くピアノの方が楽しくなったのだった。これで「高速道路の星」や「黒い犬」がピックさばきで弾きこなせたらまた違っていたのだろうが、初歩のフォークギター・レベルで終わってしまっていた私のギター修行は、早々に終りを告げたのだ。
一度だけ、ポリスの「ドゥードゥードゥー・ディ・ダーダーダー」Do Do Do De Da Da Da(『ゼニヤッタモンダッタ』Zenyatta Mondatta, 1980)を譜面で覚えて、アンディー・サマーズ(1942- )の絶妙のリフを覚えた時は興奮したが、つづかなかった。
https://www.youtube.com/watch?v=7v2GDbEmjGE
ともあれ、ロックからショパンまで、フルートやサックスからギターやピアノまで、自分なりの音楽経験を経てきて、はじめて1990年代に入ってからの私なりの「音楽論」が書けることになったのだった。
『森のゲリラ 宮澤賢治』(岩波書店、1997)所収の「植民地の擬人法」(初出:『現代思想』1993年8月号)では「セロ弾きのゴーシュ」に出てくる四種類の動物たちのそれぞれに人間の音楽経験を重ねるという読みを提示した。
あの生意気な「三毛猫」は、パトロン気取りの「音楽通」で、現代の音楽好きには、みなあの「三毛猫」のように「芸人」を顎で使う、上から目線のところがある。
次の「かっこう」は、誰からでも教われれる者なら教わるという向学心に満ちた技術習得に余念のない健気な学習者だ。
そして、音楽の喜びは「合奏」にこそありという信念をもって、ゴーシュの前にあらわれた「狸の子」。
最後に、音楽がもたらす振動に身を預けることで、体も心も癒やせると考えている「ねずみの母と子」。
どれもこれも他人事ではないし、しかもそれぞれにおいて生きものが音楽に見出している機能は別々なのだ。
その論文を書いてから、音楽への向き合い方自身が理解しやすくなったし、音楽を自由に楽しめるようになったのだった。
前便では、ポーランド留学の時代にショパン漬けになって以来、子どもにピアノを習わせる名目で、自分も暇に飽かしてピアノを弾くようになったことを書いた。それはどんな名演奏を聴く以上の陶酔を弾く者に与えてくれて、和音から和音へと渡り歩いていくだけで、ショパンと直にふれあっているかのような恍惚感が得られた。どれだけのピアニストが、ショパンとともに恍惚感を味わっているのかと思うと、それは恐るべき数だと思う。
他方、私は学部時代に東大駒場のブリティッシュ・ロック研究会にいたこともあり、簡単な和音から、ややトリッキーな和音まで(ジャズやボサノバの方向にはいかなかったが)、ギターで鳴らす技だけは会得していた。だから、和音から和音へのサーフィンのような「滑走感」には酔いしれたし、和音が使えれば作曲もできないことはなく、自分で曲を作ったりもしていた。いまから思えば、ジェネシスやキング・クリムゾンを目指しながら、結局は、ニール・ヤングやアメイジング・ブロンデル(ポップス化してからの)どまりだったが、それはそれで、そのあたりの身近なアコースティック・ポップスには今でも愛着はある。
https://www.youtube.com/watch?v=2SxjMWAtlpM
https://www.youtube.com/watch?v=okfnePofVmA
しかし、楽譜を読みながらショパンを弾く楽しみを覚えてからは、しょせん手癖でコードを進行させ、それにあわせて弦をつま弾くだけのギターでは飽き足りず、無理やりな運指を指にたたきこんで弾くピアノの方が楽しくなったのだった。これで「高速道路の星」や「黒い犬」がピックさばきで弾きこなせたらまた違っていたのだろうが、初歩のフォークギター・レベルで終わってしまっていた私のギター修行は、早々に終りを告げたのだ。
一度だけ、ポリスの「ドゥードゥードゥー・ディ・ダーダーダー」Do Do Do De Da Da Da(『ゼニヤッタモンダッタ』Zenyatta Mondatta, 1980)を譜面で覚えて、アンディー・サマーズ(1942- )の絶妙のリフを覚えた時は興奮したが、つづかなかった。
https://www.youtube.com/watch?v=7v2GDbEmjGE
ともあれ、ロックからショパンまで、フルートやサックスからギターやピアノまで、自分なりの音楽経験を経てきて、はじめて1990年代に入ってからの私なりの「音楽論」が書けることになったのだった。
『森のゲリラ 宮澤賢治』(岩波書店、1997)所収の「植民地の擬人法」(初出:『現代思想』1993年8月号)では「セロ弾きのゴーシュ」に出てくる四種類の動物たちのそれぞれに人間の音楽経験を重ねるという読みを提示した。
あの生意気な「三毛猫」は、パトロン気取りの「音楽通」で、現代の音楽好きには、みなあの「三毛猫」のように「芸人」を顎で使う、上から目線のところがある。
次の「かっこう」は、誰からでも教われれる者なら教わるという向学心に満ちた技術習得に余念のない健気な学習者だ。
そして、音楽の喜びは「合奏」にこそありという信念をもって、ゴーシュの前にあらわれた「狸の子」。
最後に、音楽がもたらす振動に身を預けることで、体も心も癒やせると考えている「ねずみの母と子」。
どれもこれも他人事ではないし、しかもそれぞれにおいて生きものが音楽に見出している機能は別々なのだ。
その論文を書いてから、音楽への向き合い方自身が理解しやすくなったし、音楽を自由に楽しめるようになったのだった。
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