ェ81 論説。調査研究
北朝鮮の拉致,テロ,核開発,有事の国際関係
重 村 智 計
https://www.waseda.jp/prj-wipss/ShakaiAnzenSeisakuKenkyujoKiyo_03_Shigemura.pdf
第1章朝鮮半島有事と拉致,核開発
第一節 リべラリズム理論の崩壊
日本と朝鮮半島は, 2010年に日韓併合から100年を迎えた。この歴史的な年に,韓国では北朝鮮や中国に対するリべラリズム1的な考えが,消滅した。北朝鮮と中国に対するリアリズム2的な見方が,支配的になった。その意味で, 2010年は極めて歴史的な年であった。
2010年の12月に,日韓両国は「防衛協力」に△音した。防衛協力といっても,本格的に軍事協力を実行し,自衛隊の航空機や艦艇,兵力が朝鮮半島で活動するといった内容ではない。海外でのPKOや国連平和維持軍の活動の際に,互いに共通の武器や部品,弾薬等の融通を行うというものだ。物品役務相互提供協定(ACSA)と呼ばれる。
それでも,こうした低いレベルの合意でも,それまでの韓国の国民感情からは,考えられないことだった。
「日本との防衛協力は,やがてまた侵略を招く」というのが,韓国民の一般的な感情であった。
だから, 2010年の合意は, 1945年の日本の敗戦と,韓国の植民地からの独立以来,初めてのことであった。歴史的な事件であった。韓国民は,近代に朝鮮半島への軍事侵略を許したことが,日韓併合と植民地化につながった, と考えている。
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この感情を変化させたのは, 2010年3月に起きた北朝鮮による韓国海軍哨戒艇への魚雷による撃沈と,北朝鮮に近い北方の延坪島に対する11月の砲撃であった。北朝鮮は,哨戒艇事件への関与を「証拠が無い」と否定し砲撃については「韓国側が挑発した」と主張した。この北朝鮮の対応に,韓国民は北朝鮮への「甘い期待」を裏切られた。
この事件で,金大中大統領が推進した「太陽政策」が,完全に崩壊した。北朝鮮と対話し,経済支援をすれば北朝鮮は変化し核開発を放棄する,との期待が完全に打ち破られた。北朝鮮へのリべラリズム戦略が,効果を生まなかったのである。リべラリズム政策は,結局は北朝鮮の核開発を推進しただけで,北朝鮮の国民の食糧難解決にはまったく役に立たなかった。
北朝鮮による二回にわたる「冒険主義」で,日本は朝鮮有事への対応を考えざるをえなくなった。もし,有事が起きた場合には,邦人救出をどうすべきかが,切実な問題になった。また,米国が日韓の協力体制作りを強く要請
これに応えるように, 2012年12月に菅直人首相は唐突に,邦人救出のための自衛隊機の覇権に言及した。また,前原外相は「日韓同盟」を口にした。
こうした発言は,韓国内で反発を呼んだ。
第ニ節朝鮮半島軍事不介入の理論
韓国民の意識を変えたひとつの事件は,中国の対応であった。中国は,北朝鮮による韓国哨戒艇撃沈事件し延坪島砲撃事件に関して,北朝鮮を非難する態度を示さず,国連安保理での北朝鮮非難決議に反対し,これを事実上潰してしまった。この中国の姿勢に,韓国政府と韓国民は,「中国は信頼できない」との感情を抱いた。
これに加え,中国の経済発展で,「韓国経済は,いずれ中国にやられるのではないか」との不安が,広がった。また,「中国と対抗するには日本との協力が,不可欠だ」との判断が生まれた。
韓国は,哨戒艇の撃沈事件では,米国,オーストラリア,スウェーデン, イギリスの四カ国を含む国際調査団を構成し,北朝鮮製品とみられる魚雷の部品などを発見した。調査団は,「北朝鮮による魚雷攻撃」との調査結果を
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明らかにした。これに対し,中国とロシアが「確実な証拠が無い」として, 調査結果を認めなかった。
また,問題は国連安保理に持ち込まれたが,中国が北朝鮮の犯行とする証拠が無い,と安保理での北朝鮮非難決議採択に反対した。この結果,米国と韓国は決議案の採択を,あきらめた。
Ⅱ月の延坪島攻撃でも,中国は同じ態度を示した。北朝鮮は, 11月23日に北朝鮮に隣接する韓国領の延坪島に,突然砲撃を加えた。これは,朝鮮戦争以来初めての,事件であった。1953年に朝鮮休戦協定が締結されて以来,南北がお互いに相手に対し,砲撃を加える事は無かった。これは,休戦協定と国連憲章に違反する,軍事攻撃であった。
これに対し,米国と韓国は国連安保理での非難決議採択を目指したが,またしても中国に反対された。六カ国協議の再開を目指す中国が,非難決議は北朝鮮のメンツを傷つけ,問題の平和的解決を損なうと主張したのだ。また,韓国が軍事演習を継続し,北朝鮮を挑発したとも主張した。 こうして, 北朝鮮非難の国連安保理決議は,二度も実現しなかった。これに対する,韓国政府と韓国民の反発は強かった。
どうして,中国は北朝鮮の軍事攻撃を非難しないのか。どうして,国連安保理決議に反対するのか。
韓国の多くの研究者の結論は,中国は北朝鮮の崩壊を恐れている,というものであった。中国は,どんな犠牲をはらっても,北朝鮮を崩壊させない方針ではないか。北朝鮮が崩壊すれば,韓国に統一される。そうなると,在韓米軍の基地が中国との国境近くまで,移動するかもしれない。これは,中国の安全保証にとって,脅威である。それならば,南北が統されない方が, 中国にとっては安全だ。
もうーっの論議は,中国はすでにアメリカの衰退を見越して,アメリカの衰退を加速させようとの戦略を立てている,との指摘だ。北朝鮮の核問題が継続している限り,アメリカにとってはやっかいなお荷物である。この問題を,アメリカに押し付ける事で,アメリカの力を削ぐことができる。また, 北朝鮮がアメリカに届くミサイルを完成し,核を保有すれば,米国のアジアでの影響力が弱体化する,と計算しているのではないか,というのだ。
そう考えると,中国の一連の動きは,理解しやすくなる。結論的にいえば,中国は「核保有の北朝鮮」と「北朝鮮の崩壊」のどちらかを選ぶとすれば,「核保有をしても,崩壊しない北朝鮮」を選択したということになるのだ。つまり,中国は「北朝鮮を崩壊させない」方針を決め,「たとえ核を保有してもいい」との戦略に立っていることになる。
韓国は,一連の中国の対応から,中国のこうした方針を確認した。となると,米韓同盟を強化し,日本との協力を強化するしか選択の余地はないのだ。これが,日韓の防衛協力に初歩的な段階ながら,韓国が同意した背景である。もちろん,韓国も中国をいたずらに刺激したくはない。このため,本格的な防衛,軍事協力には応じられないのが,現実だ。これを,日本側は誤解してはならない。
日本は,日韓の防衛,軍事協力に深入りしてはならない,というのが歴史の教訓である。日本は,百済が滅亡した白村江以来,朝鮮半島に5回にわたり,出兵してる。いずれも,敗北した。日清戦争では勝利したが,当時の中国が弱かっただけの話しだ。また,朝鮮戦争では軍事介入せずに,朝鮮特需で利益を得た。
この歴史の教訓は,何か。日本が,朝鮮半島に軍事介入すると,必ず中国と衝突するという現実である。白村江の戦いも,中国が出て来たために負けた。豊臣秀吉も同じだ。こうした歴史からみると,日本は軍事介入しない場合は,後方支援基地として利益を得るという構図になる。軍事介入すれば, 恨まれるというのが歴史の教訓である3。
第三節核開発の理論ーパワー。バランスから核パワーへの転換
北朝鮮は,なぜ核兵器開発に踏み切ったのか。最大の理由は「バランス。オプパワー」の崩壊と「恐怖」である。もうーっの理由は,「指導者の判断ミス」だ。さらに,「パワー。バランス理論」や「囚人のジレンマ」「同盟の理論」からも説明できる4。
旧ソ連のシェワルナゼ外相は, 1990年9月に北朝鮮を訪問し,韓国との国交正常化に踏み切る方針を伝えた。これに怒った北朝鮮は,「新兵器を開発する」と,核兵器開発の意向を表明した。1992年には,中国が韓国と国交正ェ85 常化し,北朝鮮の核開発に拍車をかけた。
北朝鮮は,なぜ「恐怖」を感じたのか。朝鮮半島での南北対立は,ソ連と中国が北朝鮮を支援し,日米が韓国を支援する「バランス・オプパワー(勢カ均衡)」の理論で,独立はもとより平和と安定を維持して来た。有事の際には,ソ連と中国が北朝鮮を支援するとの保証があったから,北朝鮮は安心していたのだ。その勢力均衡が崩れれば,米韓両国が北朝鮮に攻め込むかもしれない。また,東欧諸国の崩壊が,北朝鮮を崩壊の恐怖に直面させていた。
北朝鮮が安定と独立を維持するもうひとつの理論は,「パワー・バランス」であった。これは,大国の力を競わせ,どちらかの大国に飲み込まれないようにする外交戦略である。北朝鮮は,冷戦下での中ソ対立でどちらあかの陣営に組み込まれることを,嫌った。このため,中ソを競わせ大国の影響力バランスを均衡させる「パワー・バランス」の手法を取った。これが,北朝鮮の基本的な外交戦略であった。
冷戦崩壊後,ソ連が手を引いた北朝鮮では中国の影響力が,強大になった。このままでは,中国のシステムに組み込まれてしまう。これを避けるために,米国の影響力を導入して,中国を牽制する「パワー・バランス」作戦に出た。このため,米朝交渉を行った。96年の米朝の枠組み合意では,米朝正常化の目標に基本合意し連絡事務所の設置にも合意した。この時点では,北朝鮮は明らかに米朝正常化による「パワー・バランス」外交を目指していた。
ところが, 2001年頃から北朝鮮は,米朝正常化と「パワー・バランス」外交を明らかに変更した。その代わり,核兵器は放棄しない,との核保有国へ方向転換した。米国の力を導入する「パワー・バランス」外交から,核兵器の保有で崩壊を阻止し,大国を牽制する核兵器による「核パワー」外交に, 方向を変えたのである。この結果,北朝鮮は米朝正常化を急がず,また, 6 カ国協議への参加にも意欲を見せなくなった。
日米韓中の周辺諸国は,北朝鮮のこの戦略転換を理解できなかったため 6カ国協議や米朝協議を継続させようとして,多くの「戦利品」を与えてしまった。北朝鮮は,核開発を放棄する意志はなく,当面は米朝,日朝正常化を考えていないという現実に,早く気づくべきであった。
北朝鮮のもうーっの外交戦略は,大国分断である。大国が一致して,北朝鮮に圧力をかけないようにさせるのが,「大国分断外交」である。中国と旧ソ連の対立が,北朝鮮に「分断外交」を余儀なくさせた。中ソどちらかの一方に傾斜せずに,中国が冷たくなるとソ連に傾き,ソ連が冷淡になると中国に傾く,「振り子外交」をこの時代に身につけた。
この振り子外交を,日米韓三国の分断を図る外交にも,使用している。南北対話が行き詰まると,日朝対話を始め,それも暗礁に乗り上げると米朝交渉に乗り出す。三国の団結と連携を粉砕するための,外交戦術だ。三国は, どこかが北朝鮮との関係を改善するのではないか,と疑心暗鬼になる。各国に,「乗り遅れるのではないか」との,不安真理を抱かせると北朝鮮の勝ちだ。日本は,こうした戦術によく乗せられた。
第四節拉致と工作組織の改廃
北朝鮮は, 2010年に工作機関の大幅な改組を行った。北朝鮮の工作機関としては,「統一戦線部」「作戦部」「社会文化部(対外連絡部)」「対外情報調査部」「人民軍偵察局」の5組織があった。2010年春に,これらの組織がほとんど改廃され,人民軍の偵察総局に吸収された。簡単に言うと,労働党に所属した工作機関が改廃,縮小され「偵察総局」に吸収されたのだ。つまり, 労働党から工作機関が無くなり,工作活動は人民軍に集中して行う事になったのである。
この背景には,先軍政治の進展があったと思われる。北朝鮮は,もともとは社会主義国であるから,「党が軍を指導する」のが原則で「党優先」の国家であった。それが, 2000年過ぎから「先軍政治」「軍優先政治」のスローガンが生まれ,「軍が党に優先」するような行為が目立ちだした。これを決定的にしたのが, 2009年の憲法改正であった。この改正憲法では,国防委員会の権限が強化された。この憲法改正に伴い,工作機関が党から軍に移転させられた,とみられた。
だが,何よりも奇妙なのは, 党と軍に別個に工作機関があるから,金正日総書記の権力は維持されて来たのである。それが,軍に集中するし金正日総書記の指導力は弱体化する。独裁者は,情報工作機関が一カ所に集中する 187 のを,嫌う。間違った情報や工作が行われても,チェックすることができないからだ。このため,複数の情報工作機関を設置し,互いに競わせるのが統治の技術であった。だから,北朝鮮でも複数の情報工作機関が存在し,互いに競争していたのだ。それをやめるという事は,北朝鮮内部の勢力争いや, 軍と他の組織の対立があった,と見るのが常識だろう。結局,軍が勝利したということになる。
党の作戦部は,金正日総書記の側近と言われた呉克烈将軍が,握っていた。六千人の実戦部隊を抱える大きな組織であった。そのうちの半分の三千人の兵力が,偵察総局に編入された。これは,呉克烈将軍の影響力低下を, 意味する。また,金正日総書記も自分の側から三千人もの部隊を失う訳で, 指導力が弱体化しかねない。作戦部は,韓国への工作員の送り込みや,要人暗殺,工作員教育を担当していた。
さらに,対外情報調査部は,海外での拉致や情報工作,破壊活動を行って来た,日本人拉致は,この機関が行ったといわれる。社会文化部は,対外連絡部とも呼ばれ,韓国内での協力組織の構築などの工作を,行って来た。日本の朝鮮総連への支持と連絡は,この社会文化部が行って来た。朝鮮総連は,それまでは労働党直轄の重要組織として扱われて来たが, 2010年の工作機関の改編以降は,上部組織としての扱いから外された。党の工作機関の担当から,政府の「海外僑胞局」の扱いに変わった。これは,相当に低い地位に落とされたことを意味する。北朝鮮にとって,朝鮮総連は重要な工作組織ではなくなった。
統一戦線部は,一種の公然組織で,南北対話を担当した。また,日本の政治家,文化人,ジャーナリストなどへの工作活動を行って来た。
こうした組織の改廃は,何を意味するのかは,なお定かではない。いずれにしろ,労働党の工作機関が廃止,縮小されたのは事実である,また,朝鮮総連が急速に信頼を失っている事実が,明らかになった。
第2章朝鮮間題と国際関係理論
第-節理論を欠く朝鮮問題研究
日本での朝鮮問題研究には,理論がないと批判される。これは,朝鮮問題に限らず,中国問題も含めアジアの地域研究の弱点とされる。特に,国際政治や国際関係論の理論研究者からは,やや皮肉を込めて「理論的アプローチがほしい」と言われる。 言で言うと,多くの研究者,学者が時事的な問題に集中し,国際政治理論からの分析が弱い,という批判である。
これは,アジアの地域研究に対する,共通する批判でもある。どちらかというと,新聞の記事を集めたような研究や出版が多く,理論がないという指摘だ。もちろん,多くの問題に対する分析や解釈は存在する。だが,社会状況や権力闘争,文化的側面からの分析と解釈であって,理論ではない。よく言えば,アプローチということになろうか。
なぜ,朝鮮間題や中国問題等のアジアの問題で,国際関係の理論と理論的取り組みが,遅れたのか。その最大の理由は,理論的取り組みや学問研究よりも,常に「韓国支持か」「北朝鮮支持か」の立場を問われ色分けされたため,独自の研究や信念を貫く事が難しかったからだ。個人攻撃や誹謗中傷し日常茶飯事だった。
朝鮮問題の研究では,研究よりも運動論が先行した。北を支持するのか, 南を支持するのかの「運動論」が,自主的で冷静な学問研究を常に妨害した。次の文章を読んでいただきたい。韓国,北朝鮮問題に携わる研究者,学者の暗い心情を十分に説明している5。
『朝鮮半島における(韓国か,北朝鮮どちらかの)「否定的」な部分を強調する「専門家」と,「肯定的」な部分を強調する専門家は,事あるごとにいがみ合い,論議はいつまでも平行線をたどることとなった。 ・・わが国においては,「専門家」たちもまた朝鮮半島に対す二つのステレオタイプ(否定論と肯定論)に深くおかされてきた。私自身も,それぞれのステレオタイプを奉じる「専門家」たちから何度となく旗幟を明らかにするように,迫られてきた。朝鮮半島に対して「否定的な見方」を持つ人々からは「あなたの描く朝 189 鮮半島には史観がない」と言われ,逆に「肯定的な見方」を持つ一部の人々からは「あなたの描く朝鮮半島には史観がない」と言われ,逆に「肯定的な見方」を持つ一部の人々からは「朝鮮半島についてそのような否定的な問題を扱うとは,私はあなたの人間性を疑う」とまで罵倒される。
仕事で研究をしていて,「人間性」まで疑われてはかなわない・・・・・・愚痴を言うのはやめておくことにしよう。ともあれ,重要なのは,日本の「専門家」はもはや自分たちのステレオタイプ以外の朝鮮半島を認める事さえできなくなっている,ということだ。このような「専門家」に多くをたのむことは難しい。世界がそんなものに注目しないのも,当たり前だ。残念ながら, 日本の朝鮮半島専門家たちは,そのような情けない状況に置かれている』
これは,神戸大学の木村幹教授の告白である。木村教授の発言は,戦後の日本における研究の水準や流れについて,真実を語っている。日本における朝鮮問題の研究は,「韓国を支持するか」「北朝鮮を支持するか」の運動論が主流で,学問研究がおろそかにされた。冷戦崩壊までは多くの学者や研究者が,北朝鮮支持に傾いた。その一方で,冷戦崩壊後は「反韓」「嫌韓」「自虐史観批判」の運動も始まった。
学問研究には,思想や運動論に左右されずに,独自の自主的で学問的で, 客観的な取り組みが大切である。真理を曲げてはいけない。これは,早稲田大学の卒業生である石橋湛山が我々に残した教訓である石橋は, 1919年の 3 ・1独立運動の直後に,これを支持する社説を東洋経誌上に掲載し,朝鮮の独立を主張した。当時の日本で,こうした主張は相当な勇気を必要とし
矢内原忠雄・東京帝大教授も,朝鮮人に対する「(日本人への)同化政策」を批判し,植民地議会開設による自治や独立への覚悟を訴えた。こうした, 時代の空気と流れに抗する勇気が,朝鮮問題研究では重要になる。
学者やジャーナリストが,勇気を失い運動論に利用されたらおしまいだ。運動は,目的のためにウソをつく。学問研究とジャーナリズムは,真実を追
究する。運動論とは,対局にあることを理解すべきである。
たとえば,運動論はかって北朝鮮を「地上の楽園」と表現した。本人の拉致問題についても,「北朝鮮は日本人を拉致していない」また,日と主張し
た。しかし, これらはいずれも誤りであった。これが,運動論である。
さらには, 1994年の金日成主席死去後には「年内に朝鮮半島で戦争が起きる」「近く北朝鮮は崩壊する」との言説を,学者や研究者が説いた。だが, その後15年が過ぎても,北朝鮮は崩壊せず戦争も起きなかった。これも,石橋湛山のような冷静な学問的姿勢と,歴史観が欠如していたからである。
第ニ節「韓国不存在」と「北朝鮮礼賛」の理論
例えば,中国問題の専門家の場合は,かって毛沢東を無条件に支持し,文化大革命を熱烈支持する学者が多かった。さらには,失脚した鄧小平を激しく批判する研究者が,少なくなかった。文化大革命のスローガンである「造反有理」を宣伝する学者もいた。さらに,一時は四人組を支持する研究者が,幅をきかせた。ところが,毛沢東批判が起き,鄧小平が復活すると,たちまち論調を変えた。
こうしてみると,中国問題の研究者や学者の研究は,ほとんど当てにならなかったことになる。死屍累々である。それでも,そんなことを気にしていたら学者はできないとばかり,平気な顔でロをぬぐって,昨日まで絶賛していた四人組を今日は激しく批判する,研究者や学者もいた。
判断や見通しを間違えたことを気にしていたら,学者はできないというのだ。そんな良心も勇気もない学者,研究者,新聞記者を多く目にした。もっとも,日本の社会や学界は, こうした学者や研究者の責任を余り問わない文化であるようだ。だから,勇気も信念もない学者たちが,生き残ったのである。判断を誤った理由は何か。ーっは,理論的な研究を欠いていたためだ。二つは,歴史観の欠如である。中国の歴史を考える理論と,国際関係や政治の理論的からの接近や分析を行っていれば,大きく誤ることはなかった。それが,中国国内の勢力や,公式の主張,仲間内の踏み絵を気にするから,勇気を失い間違った判断や見通しを語ってしまうのである。
これは,朝鮮問題でも同じだ。戦後の朝鮮問題は,「韓国は存在しない」という前提のもとで研究が行われた。多くの学者,研究者がいわゆる左翼か,北朝鮮支持の人たちだった。このため,朝鮮問題の研究者は韓国を「南朝鮮」と表記した。戦後の朝鮮問題研究が,旧日本社会党か日本共産党の関 19ェ係者によって始められたことにも,原因はある。
この「南朝鮮」の表記は,韓国という国は存在しない,という北朝鮮の立場を取っていた。北朝鮮は,朝鮮半島における唯一合法政権は,北朝鮮だけで,韓国は米帝国主義の傀儡政権との立場を明らかにしていた。だから,朝鮮半島の南には大韓民国という国家は存在せず,南朝鮮という一地方があるだけだ,という理屈だった。だから,南北対話の共同声明でも韓国側が「大韓民国」と表現するのを,嫌った。このため,「南を代表して」というような表現が使われた。
戦後の日本では,多くの研究者や学者が「南朝鮮」の表記を使った。少なくとも, 1970年前後までは「南朝鮮」の表記が支配的であった。この表記の仕方で,研究者や学者の立場が問われた。韓国と表記した人々は,保守反動や「韓国の手先」と陰に陽に批判された。
この「韓国不存在」の虚構の理論を推進したのは,岩波書店の雑誌「世界」であった。世界は, 1984年まで「南朝鮮」の表記を続けた。「世界」に寄稿した学者や研究者の多くが,「南朝鮮」の表記に従った。この存在する国を存在しないとして扱い,北朝鮮批判の論文を決して掲載しなかった。この岩波書店の「犯罪」が,日本での朝鮮間題研究をいびつにし,拉致問題から国民の目をそらせた責任は大きい。「世界」は,北朝鮮が日本人拉致を認める直前まで「拉致はない」との論文を,掲載した。
「世界」の韓国についての偏見にみちた対応と姿勢に関しては,韓国でも著名な政治学者である韓相ー教授が,『知識人の傲慢と偏見----ー「世界」と韓半島』との著作を刊行した6。これは「日本的オリエンタリズム」を詳細に分析した労作である。
第3章「踏み絵」としての朝鮮戦争研究
第一節「米韓北進説」の敗北
木村教授が指摘した「二つのステレオタイプ(北と南について,どちらを支持するかの肯定論と否定論,あるいは保守派と革新派の対立)」の起源は,「朝鮮戦争の責任」という問題への,国際政治学者たちの論争から始まった。今では信じられないだろうが,冷戦崩壊までは日本では「米韓が朝鮮戦争を始めた」との主張や考えが,支配的であった。それに反対すると,学界や研究者の社会から抹殺されかねない空気があった。
朝鮮戦争の起源は,韓国にあるのか北朝鮮なのか。責任をどちらが負うべきかについ,学者や研究者が激しい批判や対立を続けて来た。具体的には,
「北朝鮮南侵説」と「韓米北侵説」や「米国陰謀説」などが,長い間激しい論争を続けていた。簡単にいうと,北朝鮮を支持する左翼・革新系の学者は,「米韓北侵説」か「米国陰謀説」を主張した。それに対し,リアリズム系の学者は「北朝鮮南侵説」を譲らなかった。
韓国や欧米では,「北朝鮮南進説」が,定着していた。だが,日本では 1980年の初め頃までは「韓米北侵説」が,強い影響力を持っていた。この背景にあったのは,左翼の「米帝国主義によるアジア侵略理論」である。日本での社会主義革命を夢見た勢力にとっては,「米帝国主義のアジアからの追放」が,運動の目標であった。そのために,「米帝国主義のアジア侵略の証拠としての朝鮮戦争」といった理論が,必要だったのだ。これを,中国や北朝鮮が支援し,日本の学者や研究者が「運動」の手先になったわけだ。
朝鮮戦争についての学説や論争の研究では,著名な国際政治学者で朝鮮戦争研究の第一人者である,金学俊・元ソウル大教授の著書がある7。彼の『朝鮮戦争』を参考にすると,朝鮮戦争をめぐる学者の主張や,「学派」の対立は次のように説明できる。
朝鮮戦争に関して,最初に出版された書籍は,アメリカのジャーナリスト, I. F.ストーン8の『秘史朝鮮戦争』(日本語訳,新評論社, 1952)であった。彼は,朝鮮戦争はアメリカと韓国の共謀によって起こされた可能性が高い, と書いた。この本は,北朝鮮を支持する日本の左翼や革新勢力にとっては,
「韓米北侵説」というパラダイムの根拠となった。また,ジャーナリストのデービッド・コンデが,「朝鮮戦争の歴史ー1950~53」を書き,「北進説」を主張した。
この二つの著作が,韓国とアメリカの北侵説を主張し,日本の左翼系の研究者にとっては,最大の根拠になった。
しかし,大阪市立大の神谷不二教授が,『朝鮮戦争9』を出版し北朝鮮の
193 南侵を客観的に記述した。神谷教授の著作は,日本人が朝鮮半島の国際政治について書いた戦後初めてのものであった。さらに,神谷教授の『朝鮮戦争』出版の翌年には,左翼系の学者として知られた信夫清三郎教授が,『朝鮮戦争の勃発10』を出版し,ストーンとコンデの誤りを詳細に指摘し,北朝鮮による「南侵」を明らかにした。ただ,左翼系の学者である信夫清三郎教授は,朝鮮戦争を「内戦」とすることで,北朝鮮への非難を回避しようとした。内戦ならば,北朝鮮は開戦責任を問われることはなく,内戦に介入したアメリカを批判できるからだ。しかし北朝鮮による「南侵説」の正当性が高まると,左翼。革新系の学者たちは「修正主義学説」を唱えるようになっ
「修正主義学派」の理論は,「北の南進説」の根拠がしだいに危うくなってきたために,考え出された。いずれも,北朝鮮に好意を抱くか,支持する研究者や学者の意図的な主張である。これは,「内戦説」と「誘因説」に分かれる。学問的というよりは,政治的意図を含む研究である。
内戦説は,朝鮮戦争は, 1950年に突然始まったのではなく,それ以前の植民地時代まで遡る韓国内での左派勢力と右派勢力の対立に遠因があった,と指摘した。内戦説論者は,「朝鮮戦争の起源」は韓国国内に原因があった, と述べ北朝鮮責任説を回避しようとした。「誘因説」は,アメリカが北朝鮮の南侵を誘う陰謀をしかけた,というものである。この二つの学説は,冷戦終了まで日本の研究者を魅了しほとんどの学者がこの二つの説に便乗した。はっきりと「北朝鮮が始めた」と明言する研究は,極めて少なかった。
「内戦説」と「誘因説」は,いすれも北朝鮮と金日成首相に責任を負わせず,アメリカを非難するための理論であった。その政治的な目的と動機は, あきらかであったと言わざるをえないのだ。
第ニ節プルース・カミングスの威信崩壊
アメリカのプルース・カミングス(Bruce Cumings)教授Ⅱは,「誘因説」と「内戦説」学派を育てた「開祖」であった。カミングス教授は,修正説の旗手として韓国の左翼勢力に受け入れられた。また,日本の多くの学者や研究者も,彼の主張を受け入れた。一時は,彼の学説が大きくもてはやされカミングス教授は,朝鮮戦争の起源を日本の植民地支配まで,遡る。つまり,朝鮮戦争は日本に責任があるので,韓国人と朝鮮人には責任はない,ということになる。日本の植民地時代からの階級闘争や,独立と国家樹立をめぐる左右の対立と「葛藤」が,最終的に大規模な戦争に発展した,というのである。この「葛藤」の核心は,土地改革であった,というのがカミングス説である。彼は,米軍政当局が保守的な地主層を支援し,革命的な民主勢力がこれに抵抗したことから,「内乱的で革命的」な闘争がやがて戦争に発展したとした。
こうした「修正主義学派」として,金学俊教授は日本の小此木政夫慶大教授と,桜井浩久留米大教授などをあげている。小此木教授は,北朝鮮が「民族解放戦争」の論理のもとに,ソ連と共謀して朝鮮戦争を始めた,と説明したという。桜井教授は,北朝鮮が韓国での土地改革が成功する事を憂慮し, 朝鮮戦争を開始したと分析した12。
この他,イギリスのJohn HaⅡiday13教授やオーストラリアのGaban McCormack14教授も,「修正主義者」として知られた。McCormack教授は,「新修正主義者」として知られ,朝鮮戦争を内戦と規定し介入した米国と国連を批判した。「修正主義」論理の多くは,北朝鮮側に立ち北朝鮮を弁護しようとの意図がうかがえるものであった。いずれも,北朝鮮への理解をいまも主張する,革新系の学者だ。
しかし旧ソ連の崩壊で,「修正主義学派」の主張や論理が,論拠を失ってしまた。ロシアの公文書館から公文書が公開され,朝鮮戦争の経緯が明らかにされたのである。金日成首相(当時)が,戦争をはじめた事実が,公文書で確認されたのである。この結果,「修正主義者」の主張が,根拠を失ってしまった。米ソ冷戦の終結は,「修正主義学派」の終焉を招き,朝鮮戦争論争に終止符が打たれたのである。
旧ソ連の外交文書の公開で,朝鮮戦争の起源が明らかにされた。それによると,朝鮮戦争は「内戦」や「誘因」の展開ではなく,金日成首相(当時) がソ連の指導者スターリンを説得し開始した,「金日成」の戦争だったのである。また,「ヤルタ体制の崩壊」が生んだ戦争でもあった。
19ラこうした事実が明らかにされたことから,プルース・カミングス教授らの研究は批判され,価値と威信を失った。
第4章国際関係理論から考える
第一即/ヾワー。′ヾランス王里冊
朝鮮問題に適用できる国際関係論の理論としては, ①バランス・オプパワ (勢力均衡) ②リアリズム(現実主義)とリべラリズム(理想主義)の理論③ 安全保障ジレンマ理論④トウキディデス理論⑤ケーガン理論⑥囚人のジレンマ理論⑦儒教文化理論⑧同盟関係の理論⑨構成主義⑩振り子外交 などがある15。構成主義に関しては,理論ではなくアプローチである,とされる16。構成主義理論と関連して,筆者は朝鮮問題に対する理論的アプローチの構成主義的な取り組みとして,「日本的オリエンタリズム」からの取り組みを提唱している。
朝鮮問題に関する理論としては①渦巻き理論(中央集権政治を説明) ②風の政治③権威主義政治④みなしの理論⑤南北対話の理論⑥大国分断外交⑦日本的オリエンタリズム⑧パワー・バランス理論⑨大国分断外交論 があ
パワー・バランスの理論は,冷戦時代の韓国と北朝鮮の対立状況を説明する。冷戦時代には,中国と旧ソ連が北朝鮮を支援し,米国と日本は韓国を支援した。周辺大国が,二つに分かれて勢力均衡を図った。大国の勢力が均衡していた時代には,戦争の危険はあったが現実の戦争には至らなかった。周辺大国が,南北が直接に戦争を始めないように,手綱を締めていたからだ。
朝鮮半島が,核問題などの不安定な状況に直面したのは,このバランスが不均衡になったためであった。旧ソ連は,北朝鮮の反対にもかかわらず,
1990年に韓国との国交正常化に踏み切った。また,中国も1992年には韓国との正常化を実現した。その一方で,米国と日本は北朝鮮との国交正常化に応しなかった。北朝鮮の核開発と日本人拉致問題が,大きな障害になった。
しかし,旧ソ連の韓国との国交正常化が,北朝鮮の核兵器開発を本格化させた。つまり,朝鮮半島におけるパワー・バランスの崩壊が,北朝鮮の核問
題を浮上させることになった。パワー・バランスの崩壊と,旧社会主義国の崩壊を目にした北朝鮮は,自らの崩壊を防止するために核開発を決断したのである。北朝鮮の指導者は,核兵器を保有すれば崩壊させられない,と判断したのだ。
第ニ節リべラリズムとリアリズム
「ペロポネソス戦争」を書いた,古代ギリシャの歴史家トウキディデスはリアリズムの代表だ。キッシンジャー元米国務長官も,リアリストである。北朝鮮への太陽政策を推進した,韓国の金大中元大統領はリべラリストであった。北朝鮮との対話だけを主張するのが,リべラリストである。「制裁よりも対話」の論者が,リべラリストだ。だが,この主張は間違いだ。日本は,最初に日朝貿易を実現し食糧支援に応じるなど,リべラリズム的政策を推進した。だが,拉致問題はまったく解決しなかった。制裁は,あくまでも拉致解決を約束したうえでの対話に引き出すために行うので,無条件に対話をすれば問題が解決するほど,国際政治は甘くはない
この二0の理論で,日本の北朝鮮政策を分析すると,のようになる。北朝鮮外交は,長い間リべラリストに占拠された。日本は,北朝鮮への「帰国事業」を推進し,貿易の窓口を最初に開いた資本主義国であった。
旧社会党と自民党の実力者たちが,相次いで訪朝し130万トンものコメを支援した。だが,北朝鮮は「日本人を拉致していない」と繰り返した。日本人の学者や有力雑誌も,「横田めぐみさんの拉致はない」との論文を掲げた。
日本政府は,国際法に則った拉致問題の解決を求めず,「政治決着」での解決を目指したのだ。「国家の意思を表明」するリアリズム外交を放棄した。
これが,失敗の最大の原因である。「主権侵害だ」と,主張しなかった。
2010年に,リべラリズム理論は完全に破綻した。北朝鮮は, 2010年3月に韓国の哨戒艇を魚雷攻撃し, 10月には北朝鮮に近い韓国領の延坪島に対する砲撃を行った。この結果,韓国内で北朝鮮への支援や対話を求めるリべラリズムが,破綻した。
リべラリズムは, これ以前から破綻状態にあった。北朝鮮は,米朝ジュネープ合意に違反した。また,国連安保理決議にも違反し続けている。2度の
197
核実験で,日朝の平壌宣言にも違反した。拉致と核実験はもとより,偽札, 偽タバコも国際法違反であるとの自覚がない。
リべラリズム外交の破綻で,韓国と日本はリアリズム外交に転換した。「国家の意思」としての制裁を,科した。制裁は,外交的には北朝鮮をいじめるのが目的ではない。困らせて,対話に引き出し拉致問題を解決するための,手段である。手段と目的をすり替えた論議をしては,いけない。
しかし, 2002年以降の日本のリアリズム外交は,必ずしも成果をあげなかった。韓国の左翼政権(金大中,盧武鉉)が,無条件に多額の支援を行う太陽政策を推進したからだ。十年間でおよそ1兆円の巨額支援を行った。この支援が,北朝鮮を拉致や核問題で譲歩させなかった最大の要因である。これで,日本からの経済協力を必要としなくなった。日本外交は,韓国に妨害さ
金大中元大統領の太陽政策は, 09年の彼の死去と,同年五月の核実験で完全に崩壊した。太陽政策が,核開発を推進したからだ。李明博大統領は,
「核開発放棄を約束しない限り,支援しない」との立場を貫き,北朝鮮への支援を拒否している。米国のオバマ大統領も「核なき世界」を掲げ,「北朝鮮が核放棄を約束し,六カ国協議に復帰しない限り,米朝直接対話には応じない」と,明言している。
米韓両国は,リアリズム外交に転換した。李明博大統領は,訪韓した北朝鮮の金己男書記に「北は,パラダイム。シフトすべきだ(首脳会談や脅しで支援をもらえる時代は終わった,との意味)」と伝えた。
韓国政府高官たちは,これまで対話の再開や食糧支援を進言した力李明博大統領は応じなかった。
「支援を与える側にも礼儀は必要だが,もらう側はもっと必要だ。人を脅して金品を取る精神は,韓国民族の品位を落とす」韓国高官と大統領の間で,こんなやりとりもあった。
「北に少し支援をしたらいかがでしようか」
「支援しなければ,北は戦争するのか」
「いえ,そんな軍事力はありません」
「それなら,核を放棄するまで待てばいい。韓国は北を必要としていない
が,北は韓国を必要としている。いずれ譲歩する」
トウキディデス理論------戦争の原因は恐怖18
国際紛争の原因は,何か。これは,国際関係論にとって永遠の課題である。トウキディデスは,紀元前5世紀に国際紛争の原因を世界で初めて,明らかにした。彼は,国際関係論ではリアリズムの父と呼ばれる。
トウキディデスは,古代ギリシャ時代の歴史家だ。同時代に,アテネとスパルタが戦った「ペロポネソス戦争19」を記録し,それを書物として残した。彼は,この中で,戦争の原因は「恐怖であった」と書いたのである。
彼によると,べロポネソス戦争の最初の原因は,スパルタが新興都市国家のアテネに恐怖を抱いたためである,という。また,戦争が拡大した原因は,アテネがスパルタに恐怖を抱いたからだ,と指摘した。いずれにしろ, 相手への恐怖が戦争の原因であるというのだ。
この理論は,北朝鮮の核開発を解き明かす理論として,応用できる。なぜ,北朝鮮は核開発を決断したのか。理由は,軍事攻撃されることへの「恐怖」であった。北朝鮮の通常兵力は旧式化し,アメリカ軍と韓国軍にはとうてい太刀打ちできない。また,軍事用の石油は年間30万トンしかない。日本の自衛隊は,年間150万トンもの石油を消費している。30万トンでは,とても戦争はできない。この事実を,アメリカと韓国が知ったら,攻撃して来るとの「恐怖」を抱いたのだ。
それを阻止するには,核開発しかない,と考えたのである。核を保有すれば,米国と韓国は北朝鮮を攻撃できない,と判断したのだ。「恐怖」が,核開発の原因であった。また,核開発を放棄しないために,日米両国との国交正常化が実現しない。これは,「指導者の判断の誤り」である。
ケーガン理論 指導者の判断ミス
このトウキディデスの「恐怖理論」に対し,必ずしも正しくないとして, 修正を加えた学者がいる。米プリンストン大学の歴史学者,ロナルド・ケーガン教授20である21。彼は,戦争の原因は「指導者の判断ミス」だし明らかにした22。
ェ99 ケーガン教授によるしまずスパルタの判断は,間違いであったという。というのは,開戦直前のアテネには,それほどの国力はなかったというのだ。また,アテネも,スパルタとの全面戦争を決出したのは,判断ミスであったという。
スパルタは奴隷国家であるため,戦争には消極的であったという。スパルタは,戦争になるとほとんどのスパルタ市民が戦争に参加することになっている。このため,戦争で出払っている間に奴隷が反乱を起こす事を,最も恐れていた。この事情を,アテネが理解していたら,スパルタとの全面戦争に乗り出す必要はなかった,というのだ。
この理論は,多くの国際紛争に適用できる。ブッシュ前米大統領のイラク戦争は,明らかに判断ミスであった。また,日本の真珠湾攻撃も,判断ミスである。朝鮮戦争で,金日成主席が統一できる,と考えたのも判断ミスであ
北朝鮮が,食料難や経済危機に陥ったのも,指導者の判断ミスである。国家の力は,軍事力であると考え,経済開発に力を入れなかったからだ。核開発も,指導者の判断ミスだ。石橋湛山流に言えば,すでに社会主義は崩壊した。いずれ,北朝鮮も歴史の審判を受ける。その前に,核開発を放棄し,市場経済を導入し,人権弾圧をやめ拉致被害者を解放し,民主主義に移行すべ
0
北朝鮮の指導者は,朝鮮戦争を開始し,核開発を放棄しないうえ,拉致問題も解決しない。これらは,北朝鮮の指導者の判断の誤りである。この結果,北朝鮮の国民は毎年飢餓状態に直面し,国民生活は破壊されている。
囚人のジレンマ理論
「囚人のジレンマ」は, 1950年に米国の研究者によって創造された。ゲーム理論や経済学で使われる理論であった。最近では,国際関係論にも応用されるようになった。国際関係論の多くの教科書が,「囚人のジレンマ」を理論の一つとして紹介している。
囚人のジレンマは,次のように説明される(ジョセフ・ナイ『国際紛争』有斐
「二人の覚せい剤売人が,逮捕された。だが,有罪にする証拠が無い。覚せい剤の売人だとわかれば, 25年の刑。二人が,黙秘を続ければ,共に1年の刑。一人が相手を覚せい剤売人だと証言すれば;無罪放免。二人とも相手を売れば,共に10年の刑。二人は,互いに連絡できない状態に置かれた。さて,どの選択が,一番賢いか」
これは,人は最も合理的な判断をする,との前提で成り立つ理論である。
二人にとって,最もいい選択は黙秘することである。だが,相手が自分を売るかもしれない,という不安がつきまとう。それなら,先に売ってしまったら,自分は無罪になる。だが,相手も自分を売ったら,二人とも十年の刑になる。どうしたらいいのか。「不信」のジレンマに陥る。
日本で民主党政権が誕生した2009年に,日米韓三国は「囚人のジレンマ」に陥った。北朝鮮への制裁を強化している中で,どこかの国が柔軟政策に転換するのではないか,との恐れを抱いた。
韓国では,日本の民主党政権は党内に左派勢力を抱え,社民党と連立政権を組む。社民党は,北朝鮮に弱腰だから,鳩山政権は制裁緩和などに向かうだろうとの不安が生まれた。
日本は,どう考えたのか。韓国と北朝鮮の対話が行われ,離散家族の再会で合意した。金大中元大統領の国葬に,北朝鮮から代表団が来て,李明博大統領と会談した。韓国が融和政策に転換するのではないかと,不安になっ
米国ではどうか。南北対話が行われ,日本で「反米政権」が誕生した。対北朝鮮政策で,韓国や米国と協調しないのではないか。日韓両国は,対北朝鮮政策で,制裁を緩和するのではないかと,不安になった。
また,日韓両国も,「囚人のジレンマ」に陥った。米国は,クリントン元大統領を平壌に派遣し,金正日総書記と会談させた。米国は,これまでの方針を変え米朝直接対話に応じるのではないかと,不安になった。
日米韓三国の「囚人のジレンマ」は,誰かが北朝鮮への融和政策に転換するのではないか,との不安から生まれた。過去には,韓国の融和政策が,その原因であった。また,ブッシュ政権の末期には米国が政策を変えた事で, 日本と韓国が「囚人のジレンマ」に直面した。北朝鮮は,この「囚人のジレ
201 ンマ」を利用し,各国から譲歩を引き出したのである。
儒教文化理論23
韓国も北朝鮮も,儒教の価値観を生活まで深く浸透させている。金日成主席も,北朝鮮の政治で最も重要なのは,「儒教の価値観である」とソ連の指導者に説明した。
また,日本財団の笹川陽平会長が,「なぜ息子を後継者にしたのか」と聞くと,次のように答えた。
「北朝鮮の指導者になる最大の条件は,年長者をうまく扱える事です。朝鮮は,儒教の伝統と文化で,年長者を敬わねばならない。年長者が,強い発言力を持っています。年長者をうまく扱えないと,指導者にはなれない。息子は,若いにもかかわらす,年長者をきちんと扱い敬うことを知っています」
また,韓国・北朝鮮での文化伝統として,もっとも政治に影響を及ばす価値観は次の三つである。
①大儀名分②正統性③体面
韓国と北朝鮮は,長い間朝鮮半島における合法性をめぐり,「正統性」の競争を展開してきた。また,北朝鮮は今もなお国家としての「大韓民国」の存在を,認めていない。韓国には,朝鮮半島を代表する国家としての「大義名分」と「正統性」がない,という理由である。
韓国には在韓米軍が駐留しているので,北朝鮮からすれば「独立国の大義名分は立たない」ということになる。
北朝鮮は,米国や日本,韓国との交渉をはじめ国際理解でも, この三つの価値観をふんだんに使う。
第5章日本的オリエンタリズムの論理
第一節韓国人の「世界」批判
韓国国民大学の韓相ー教授は,韓国でも著名な政治学の教授である。彼
は, 2008年に『(日本の)知識人の傲慢と偏見-ー-「世界」と韓半島24』を書いた。この本は,日本的オリエンタリズムを,厳しく指摘し批判したものである。韓相ー教授は,この著書で,雑誌「世界」(岩波書店)の創刊号からの朝鮮問題に関する記述と言説を選び出し,日本的オリエンタリズムとネオコロニアリズムを鋭く指摘した。この著作は,日本の進歩的文化人たちの韓国への差別意識をえぐりだした韓国版「〇厩乙」として,高く評価すべき著作である。
韓相ー教授によると,「世界」が戦後最初に掲載した韓国関係の論文は, 日本の植民地化を正当化するネオコロニアリズムの論文であった。その後,
「世界」は1960年代, 70年代を通じ,韓国を「南朝鮮」と表現し,韓国について誤解と偏見に満ちた論文を掲載する一方で,北朝鮮を無条件に賞賛しその指導者とのインタビューを掲載した。
韓相ー教授は,「世界」は「反韓親北」路線を,一貫して維持した,と指摘する。これこそが,ネオコロニアリズムであり,日本的オリエンタリズムである。特に,「世界」が1973年5月から88年3月まで, 15年にもわたり掲載した「韓国からの通信」は,日本における「韓国否定」のイメージを強調した。筆者は,「TK生」とされたが,「世界」の編集長であった安江良介氏が執筆に深く関わっていた,と多くの朝鮮問題研究者とジャーナリストたちは,いまなお判断している。
この執筆者としては,韓国の池明観教授がかなり後になって,「自分が TK生である」と名乗りをあげたが,日本の専門家の間ではなお「池明観教授だけではない」と,疑問視されている。TK生が書き続けた日本語は,新左翼などの運動家が活用する特殊な日本語技術である。あれだけの日本語は,いくら池明観教授でも書けない。しかも,彼は東京で書いていたことを,認めたのだった。
「韓国からの通信」は,韓国から書簡が送られて来る体裁をとっていた。ところが,東京で書いていたというのだから,「韓国からの通信」ではなく「東京からの通信」である。ジャーナリズムの基本からすれば, ねつ造と批判されてもしかたがない。
さらに「韓国からの通信」は,北朝鮮の独裁や政治犯収容所,人権問題,
2丐民主化問題にはまったく言及しなかった。ただひたすら,韓国を批判し朴正煕政権を攻撃した。
ということは,池明観教授の行動は韓国的なネオコロニアリズムであり, 韓国的オリエンタリズム(北朝鮮に協力するという意味)ではなかったのか。韓相ー教授の表現を借りれば,日本という「パワー」と,「世界」という「権威」を借りて,ひたすら「反韓親北25」宣伝を続けたことになる。
韓国で長く牧師として活躍した日本人の,沢正彦26さんは,早くから「韓国からの通信」に疑問を呈していた。沢牧師は,「韓国からの通信は韓国に住んでいる韓国人ではない」「韓国人への愛情も連帯も感じさせない」 と指摘していた。この言葉に沢牧師が込めた意味は,旧約聖書の預言者たちは王や為政者を激しく批判したが,かれらの言葉には同じ人間への愛情と連帯意識があったという,聖書解釈からの言葉である。それに比べ,キリスト者であるはずの池明観教授の文章に,同じ国民と為政者への連帯も愛情も感じられない,との指摘は決定的である。
第ニ節反韓親北のオリエンタリズム
韓相ー教授は,雑誌「世界」を次のように批判した。
「『世界』は,心から金日成を世界でも例のない全知全能の指導者と考えていたのか。本当にそう考えていたのなら,飢餓に耐えかね命をかけて北朝鮮を捨てる脱北難民が増えている今日の現実を,どのように説明するのだろう
また,『世界』は,朴正煕が本当に理性も国家感もなく,ただ権力だけを追求した暴君のような存在と確信していたのか。もし,確信していたなら,今日の経済成長と歴代大統領の中で,最も能力があり国政遂行を効果的に行った大統領として,誰よりも朴正煕を高く評価する現実をどのように説明するつもりか27」
この指摘は,韓国について何も知らない外国人の日本人が,あたかも韓国について何でも知っているとの思い上がりで介入したことを,批判しているのである。これこそ,ネオコロニアリズムであり,日本的オリエンタリズムである。
また,韓相ー教授は,「世界」が抱いたネオコロニアリズムと日本的オリェンタリズムを,次のように指摘し批判した。
「韓国と日本は,民族和解が必要であり,アジアの平和のために協力しなければならず,このためには両国の知識人の役割は重大である。特に加害者であった日本の知識人の『真実』を基本にした役割が,一層重要であるといわざるをえない。これまで『世界』が過去の歴史について批判的な立場を堅持し,善隣関係のために努力した点を,否定はしない。しかし,そのような努力は真の民族和解のためであったというよりは, 心の底にある優越意識から人権と良心を口実に, 北をさらに支援し, 民主化の名のも とに, 韓国を非難する28方向に向かった。このため,和解からさらに遠ざかることになった29」
韓相ー教授が指摘する日本的オリエンタリズムの背景にあったのは,日本の世論,ジャーナリズム,学者の理想主義的平和主義と,知識人や学者,共産党,社会党などを中心とした「社会主義幻想」の広がりであった。こうした,オリエンタリズムの背後にあった日本の思想状況について,中央公論誌の元編集長として,日本の論壇で大きな影響力を持った粕谷一希氏は,次のように説明している30。
「東西冷戦の激化から朝鮮戦争勃発という国際緊張の中でもくろまれた講和条約に対して反対した広範な世論は,きわめてさまざまな主張,雑多な色彩を包含していた。とくに象徴的なものとして,南原繁東大総長を中心とした東大アカデミズム,あるいは岩波書店によって形成された平和問題懇談会, あるいは笠信太郎と朝日新聞を中心として主張された全面講話の理論は,形式的には冷戦理論そのものの否定,資本主義・社会主義体制の論理上の近似値的接近,ヨーロッパでのオーストリア,スイスといった冷戦離脱の中立国家への志向,といった理想主義的色彩が強かった。けれども,むしろそうしたシンポリックな主張の陰で,下部構造を握り,実際的政治工作に動いた勢力は,社会党・共産党・労働組合・急進派知識人の,共産陣営(平和勢力と規定された)と呼応した人民戦線理論であり,日本をアメリカ陣営から切り離し,中立化させることで,やがて社会主義革命への道を切り開こうとする 205 。。革命の理論"と区別することの難しい政治主体であった」
この粕谷元編集長の説明は,韓国に対する日本的オリエンタリズムの起源を十分に説明している。日本の知識人やアカデミズムを支配した「理想的平和主義」が,北朝鮮を平和勢力と規定し,韓国を米帝国主義勢力とみたことから始まる。また,左翼勢力の「人民戦線理論」が,北朝鮮の「統一戦線工作」と連動したからであった。
おわりに
日本では,韓国が「工作国家」であるというリアリズムは,ほとんどない。日本人拉致も,工作国家だから実行した。北朝鮮は,多くの工作機関を維持していた。この事実が,日本で理解され大きく報じられたのは, 2002年に北朝鮮が日本人拉致を認めた後である。北朝鮮が,工作国家であるとの理解は,学問的には難しい。「北朝鮮工作国家論」は,学問研究の対象としては,難しいからだ。また,そうした研究は北朝鮮や朝鮮総連の激しい妨害や,攻撃を受けた。
朝鮮問題の真実は,一般の報道や,専門家や学者の論文。著作の中には, なかなか見当たらない。真実を公表すれば,危害を加えられるかもしれなかったからだ。その意味では,朝鮮問題研究における学問研究の自由と,報道の自由は常に妨害されてきた。これが,日本での現実である。
だから,日本人による日本人のための独自の,主体的な研究が欠かせない。しかし,現実には北朝鮮や韓国の研究者や,工作機関の手先とみられるような学者,文化人が目を光らせ,自分たちに有利な言説をさせようとしている。日本の大学や研究機関に,韓国人や在日朝鮮人の研究者が増えた。
れは,日本の大学の国際化と競争力の強化としては,歓迎すべき現象だろ
だが,現実はそうした美辞麗句で語られる状況とはやや異なる。しかたがないことだが,韓国人の研究者は,どうしても韓国的な立場を離れられない。在日朝鮮人の研究者も,北朝鮮の立場から自由にはなれない。だから,
日本人による韓国, 研究は 常に学問と研究 自由のための戦いを要求されるのである。こうした状況を反映してか,日本の大学から日本人の韓国,北朝鮮研究者が減少しつつある。日本における韓国,北朝鮮研究は,大きな曲がり角にある。
以上
ーーーー
1国際関係論では国際政治のメイン・プレーヤーを国家とみるのがリアリズムで,国家以外の国際機関などの役割も重視する考えをリべラリズムとするが,朝鮮問題では北朝鮮への宥和派をリべラリズムと呼ぶ。
2 Joseph S. Nye, JR.膨の切gル朝Cの2ガななLongman N. Y. ,
2005 , pp. 25ー26
3重村智計『韓国ほど大切な国はない』,東京,東洋経済新報, 1998
4 Joseph S. Nye, JR.し% %sグ切gル"の2 Cの2アなLongman N. Y. ,
2005. pp. 15一20
5木村幹『朝鮮半島をどうみるか』集英社新書, 2005
6韓相ー『知識人の傲慢と偏見ーー-「世界」と韓半島』キパラン,ソウル, 2008
7金学俊『朝鮮戦争ーー-原因・過程・休戦・影響』東京,論創社, 2006
8 1. F. Stone The〃売% the Kの宅の2ルN. Y. Monthly Review
Press, 1952
9神谷不二『朝鮮戦争ーー米中対決の原型』中央公論, 1966
10信夫清三郎『朝鮮戦争の勃発』福村出版, 1969
11 Bruce Cumings The 0 lg切sの宅の2ル/ Princeton University Press, 1981
12金学俊前掲書, p. 88, 89
13 John Halliday "The Korean War: Some Notes and Solidarity ” Bulletin of
Concerned Asian Scholars, VoⅡ . 11 , NO. 3 (July 1979 )
14 Gavan McCormack COルの;〃のルのみ乞の2 P幻e e 0 the
Kの宅の2ル〃/ Hale & Iremonger, Sydney, 1983
15重村智計『最新北朝鮮データブック』東京,講談社, 2002
16 Joseph S. Nye, JR.しd切gルCの2ななLongman N. Y. ,
2005 , p. 8
17重村智計『北朝鮮の外交戦略』東京,講談社, 2000
18 Joseph S. Nye, JR.しの2切g剏"な2 I Cの2アなLongman N. Y. ,
2005 , p. 12
19 Thucydides T Pの0川2乞の2ルク% Free Press N. Y. , 2000
20 Joseph S. Nye, JR.し% d切gル〃朝CoななLongman N. Y. ,
2005 , pp. 18
2。7
21 Joseph S. Nye, JR.しd切gルCOアななLongman N. Y.
2005 , p- 18
22 Donald Kagan The 0房宅the Pの0川aesル〃% N. Y. Cornell University Press, 1969
23 重村智計『最新北朝鮮データブック』,東京,講談社, 2002
24 韓相ー『知識人の傲慢と偏見----「世界」と韓半島』キパラン, ソウル, 2008
25 韓相ー『知識人の傲慢と偏見-----「世界」と韓半島』キパラン, ソウル, 2008
26 沢正彦『ソウルからの手紙』草風館, 1984
27 韓相ー前掲書, pp. 341
28 下線は筆者による
29 韓相ー『知識人の傲慢と偏見ーー・「世界」と韓半島』キパラン,ソウル, 2008, pp. 342
30粕谷一希『戦後思潮ー一知識人たちの肖像』藤原書店, 2008, pp. 165
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