2018-12-31

愛国リベラル史観年表 日本と中国



愛国リベラル史観年表 日本と中国




愛国リベラル史観・近代史年表~日本と中国編
~今こそ真の和解を、そしてあなたの義憤は他国にではなく日本社会の改革に!~




〔はじめに~この年表のコンセプト〕

もう歴史問題に決着をつけて「仲良くしようぜ!」ということです。
中国政府はチベット弾圧、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)弾圧、格差問題、官僚腐敗、公害問題、内政に山のように問題を抱えており、対外的にはベトナム領パラセル諸島(西沙諸島)&スプラトリー諸島(南沙諸島)占領、フィリピン領ミスチーフ礁占領、尖閣をめぐっての日本との衝突など、強硬路線が軋轢を生んでいます。
天安門事件以降、愛国教育で政府への求心力を高め、民主化を求める者はノーベル平和賞受賞者であろうと国家転覆未遂で監獄へ放り込む滅茶苦茶なことをしています。
隣国日本としては「もっと国民の声に耳を傾け民主化を」と言いたいところですが、中国政府が批判をそらす為に「過去の戦争を反省してない日本に言われたくない」「靖国参拝は軍国主義の証拠」と国内世論を持っていき、こちらの言葉がうまく届きません。
僕としては、過去の中国侵略を美化したり開き直ったりする発言は、中国政府に日本叩きの口実を与えるだけなので控えて欲しい。でも、学校の授業では日本が中国大陸で何をやったのか殆ど教えてないので、「中国の歴史教育は何から何まで捏造!日本軍は悪い中国人を“懲らしめた”だけで、国際法は守ってた!」と思ってる人が少なくありません。それは正しくないし、とても危険な誤解です。

僕は以前からチベットの自治権拡大を訴えるページを作っており、共産主義の信奉者でもないので、先入観を捨てて以下の近代史年表を見て頂けると有難いです。自論に有利なデータ(数字)だけを引っ張るようなことはせず、基本的に日本軍の公式記録をもとに年表を作っています。
作成時に心がけたこと→
(1)中立的であること※参考資料後述
(2)単なる事件の列挙ではなく、昭和天皇や軍中央の言葉も数多く紹介し、歴史が動く現場を再現する
(3)文芸ジャンキーらしく、各時代の作家の言葉なども入れる
(4)従来の左派のように日本軍の戦争犯罪を糾弾するのではなく、最前線の軍医(精神科)の分析などから、“兵士の心が壊れていく過程”を描き出し、人間全体の体験として捉える
(5)南京事件、731部隊、重慶都市爆撃、毒ガス作戦、その他きわどい問題は、確定しているデータを基に語る

客観的な歴史を把握していないと、ニュースで日本批判のデモ映像が流れると「反日デモむかつく」「いつまで謝罪させる気だ」と怒りに支配され、君が代・日の丸で起立しない先生が何と戦っているのか分からず“売国教師”に見えてしまいます。
ですが、近代史を正確に知れば「反日デモは不愉快だけど彼らが(靖国参拝等に)反発している気持ちは分かる」「不起立教師の考え方には賛成しないけど、“立たない”のではなく“立てない”という心情は理解できる」と、自分と異なる意見であっても、尊重したり前向きに議論を重ねていくことができるようになります。中共政府からスケープゴートに利用されないよう、発言前に一呼吸置くことが大切です。

※年表を作成して実感したことを先に2点。
(1)昭和天皇が反戦・平和主義なのはガチ。例えば1938年の板垣陸相への怒り→「元来、陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条湖の場合といい、今回の事件(日中戦争)の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕(ちん)の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いる様なこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う」。
左派の多くは天皇を主戦派と思ってるけど大きな誤解。また、同様に右派も自分たちの行動が穏健な天皇を困らせていたことを理解していない。二・二六事件に際していわく「朕が最も信頼する老臣をことごとく殺すことは、真綿(まわた)で朕の首を締めるに等しい行為なり」。
(2)大陸の各師団長は命令無視のオンパレード。年表の途中まで何度命令違反したか数えていたけど、あまりに多すぎてカウントをやめました。一般兵が上官の命令に逆らえば「戦地抗命罪」で銃殺刑に処したのに、師団長クラスは、天皇の言葉も、軍中央(参謀本部)の命令も、政府の方針も、ことごとく無視して独断専行。執筆中、何度も絶句しました…。

★参考資料(視点が偏らないよう、保守、リベラル、両方に目を通してます)
『世界戦争犯罪辞典』(秦郁彦ほか/文藝春秋)、『教科書が教えない歴史』(藤岡信勝ほか/産経新聞社・扶桑社)、『アジアの教科書に書かれた日本の戦争』(越田稜/梨の木舎)、『戦争論』(小林よしのり/幻冬舎)、『新しい歴史教科書』(藤岡信勝/扶桑社)、『戦争案内』(高岩仁/映像文化協会)、『歴史修正主義の克服』(山田朗/高文研)、『昭和天皇語録』(講談社学術文庫)、『日本はなぜ戦争へと向かったのか』(NHK)、『シリーズ証言記録 兵士たちの戦争』(NHK)、『日中戦争~兵士は戦場で何を見たのか』(NHK)、『さかのぼり日本史 とめられなかった戦争』(NHK)、『世界人物事典』(旺文社)、『エンカルタ百科事典』(マイクロソフト)、ウィキペディア、ほか多数。

僕はいかなる政党、政治思想団体、プロ市民団体、宗教団体にも属していません。単純に「何があったか」、事実を知りたいだけです。



(ショートカット※管理人的には出来れば年表トップから順番に読んで頂きたいですが…)
勝海舟の反戦論 / 張作霖爆殺 / 満州事変 / 五・一五事件 / 熱河作戦 / 国際連盟脱退 / 二・二六事件 / 満州開拓移民 / 731部隊
盧溝橋事件 / 通州事件 / 第2次上海事変 / 南京事件 / 毒ガス戦 / 重慶爆撃 / 燼滅作戦(三光作戦) / 花岡事件


【日本と中国の近代史~日清戦争から終戦まで】

●1868 明治維新…旧幕府軍VS維新軍の戊辰(ぼしん)戦争を経て、薩長藩士が中心となった明治政府が樹立される。政治、経済、文化、すべてが大変革!

●1894.7.25 日清戦争勃発…朝鮮半島の支配権をめぐって日本と清が衝突。豊島沖の海戦をきっかけに戦端が開かれ、9月に日本軍が清国の拠点・平壌(ピョンヤン)を陥落。黄海の海戦でも大勝し、旅順を占領。翌年2月に威海衛(いかいえい)湾の北洋艦隊を壊滅させ戦局を決定づけた。

●1894.11.21-11.25 旅順虐殺事件…日清戦争の旅順陥落時に発生した事件。攻略したのは元薩摩藩士・大山巌率いる第二軍。占領2日目に旅順市内に入った国際法学者の有賀長雄いわく「市街に散在する死体の数はおよそ2千で、うち500の非戦闘員を含んでいた」。それからさらに3日間、掃討作戦が続いた。この様子は日本軍に従軍取材した複数の外国人記者から糾弾されることになる。『ニューヨーク・ワールド』特派員クルーリマンの記事「日本軍は11月21日に旅順入りし、冷酷にほとんど全ての住民を大虐殺した。無防備で非武装の住人達が自らの家で殺され、その体は言い表すことばもないぐらいに切り刻まれていた」。大本営に弁明を要求された大山は旅順住民の多くが軍関係者だったことをあげたが、記者たちは捕虜の不必要な殺害に抗議し、日本は国際社会から残虐行為を非難された。

●1895.4.17 下関条約締結…日清戦争の講和条約。日本は台湾と遼東半島(中国東北部、南満州)を清国から割譲させた。しかし、条約調印6日後にロシア・ドイツ・フランス3国の公使が外務省を訪れ、遼東半島の日本領有は東洋の平和をおびやかすとして、領有放棄を勧告した(三国干渉)。日本は圧力に屈し遼東半島を返還する。この一件で三国に借りが出来た清国は、3年後、ドイツに膠州(こうしゅう)湾の租借(そしゃく=領土の一部を貸す)を認めたのを機に、ロシアに旅順・大連を、フランスに広州湾を、イギリスに山東半島の威海衛を、次々に明け渡すことになった。
※ロシアは極東進出のため遼東半島・旅順の不凍港を必要としていた。

〔勝海舟「オレは日清戦争に大反対だった」〕
勝海舟は欧米列強のアジア進出に対抗する為に、日本、清、韓国がガッチリとスクラムを組むべきと考えていた。海舟は日本と清がアジアで戦えば欧米が喜ぶだけと思っていたんだ。
「日清戦争はオレは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も食わないじゃないか。たとえ日本が勝ってもどーなる。支那はやはり(謎の)スフィンクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力がわかったら最後、欧米からドシドシ押しかけてくる。つまり欧米人が分らないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。いったい支那五億の民衆は日本にとって最大の顧客さ。また支那は昔から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。おれなどは維新前から日清韓三国合従(がっしょう)の策を主張して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものさ」(海舟の談話を収録した『氷川清話』より)

※坂本龍馬は勝海舟の弟子。龍馬が平和的に幕府からの政権委譲(大政奉還)を実現させようとしたのは、西洋列強がアジアに進出してくるなか、国内で日本人同士が戦っている場合じゃなく、一致団結して対抗する必要性を感じていたから。その大局的な視野は海舟の影響が大きい。上記の“日清戦争反対論”も実に海舟らしい発言。欧米諸国の強大な力に対抗するにはアジアが一丸となる必要があり、アジア同士で戦って消耗している場合ではない。つけ込む隙を与えるだけだ。当時の欧米白人中心主義・植民地主義との戦いは、日本だけでは苦しいものだった。だからこそ、日中韓が互いに協力してWin-Winで国力をあげて、西洋列強から権利・独立を守るべきだった。(日清戦争は龍馬暗殺の27年後)

●1904.2.8 日露戦争勃発…日本海軍が旅順港のロシア艦隊を夜襲し、陸軍が仁川に上陸して日露戦争が始まった。後の真珠湾同様、奇襲によって当初は優位に戦局が展開する。開戦から半年後、乃木希典率いる第3軍がロシア艦隊基地・旅順の包囲戦に突入。5カ月に及ぶ激戦で6万人の死傷者を出しながら、翌年1月に“二〇三高地”を陥落させた。ついで3月に最大の陸戦となった奉天会戦を制し、5月に東郷平八郎率いる連合艦隊が日本海でバルチック艦隊を壊滅させる。日本軍は陸海に勝利したものの、兵力・弾薬共に底をつき、政府は講和を急いだ。一方、ロシア側も国内で革命運動が起きたことから、両国とも戦争継続が困難になり、アメリカの仲介で講和が成立する。日本側の戦死者は約8万4000人、戦傷者14万人以上。軍事費は国家予算の7年分にあたる18億円にのぼった。
※日露戦争で日本は戦費18億円のうち40%を英米などに日本国債(外債)を買って貰うことでまかなった。英国は南アのボーア戦争で疲弊しており、ロシアの力を削ぐため日本を後押しした。

〔幸徳秋水の日露戦争反対論〕
(開戦直前に)「世を見渡せば、ある者は戦勝の虚栄を夢想するが為に、ある者は乗じて私腹を肥やす為に、ある者は好戦の欲心を満足させんが為に、焦燥熱狂し、開戦を叫び、あたかも悪魔の咆哮に似たり。我らは断固として戦争を非認す。戦争は道徳的に恐るべき罪悪なり、経済的に恐るべき損失なり。社会の正義はこれが為に破壊され、万民の福利はこれが為に蹂躙(じゅうりん)せらる。(略)ああ愛する同胞よ、その狂熱より醒めよ。諸君が刻々と堕せんとする罪悪、損失より免がれよ。戦争は一度始まると、その結果の勝敗にかかわらず、後世の者に必ず無限の苦痛と悔恨を与える。真理の為に、正義の為に、天下万生の福利の為に、今こそ汝の良心に問え!」

●1905.9.4 ポーツマス条約締結…日露戦争の講和条約。日本は遼東半島の先端・関東州(旅順、大連)の租借権をロシアから獲得した。三国干渉で奪われたものを取り返した形。また、樺太の南半分やロシアが敷設した南満州鉄道も手に入れた。ただし賠償金は一文も貰えず。ロシアはまだ70万もの兵を温存していたが、日本はもはや戦う体力がなかったので賠償金を断念した。セオドア・ルーズベルトは講和条約成立の功績によりノーベル平和賞を受賞。
※日露戦争はあれ以上続いていたら日本が負けていたギリギリの勝利だった。国民は“一等国になった”と戦勝気分に酔っていたが、英国留学で世界を見ている漱石は内外の国力差を熟知しており、1908年に小説『三四郎』の中で「(日露戦争に勝ち)これからは日本もだんだん発展するでしょう」「滅びるね」と会話させた。

●1910.11 大逆事件…“明治天皇暗殺を計画した”という理由で、全国の多数の自由主義者・社会主義者らが検挙され、わずか2週間あまりの非公開裁判(1人の証人も出廷させず一審だけで終審)で24人に死刑判決が下り、判決6日後という異例の早さで幸徳秋水ら11人が絞首刑となった(翌日さらに1人執行)。12人が無期懲役に減刑されたが、うち5人は獄死。処刑は世界にも衝撃を与え、日本政府に諸外国の思想家から抗議が寄せられた。この後、大震災のドサクサの虐殺、治安維持法(最高刑・死刑)など、1945年の終戦まで政府による思想弾圧が続く。戦後、大逆事件に関して拷問による調書類の捏造や、被告の大半が無関係だったことが判明した。死刑を求刑した検事・平沼騏一郎は1939年に首相になっている。

〔作家・徳富蘆花、一高(現東大)の教壇から抗議〕
大逆事件による死刑の翌月、徳富蘆花(ろか)が学生たちに思想弾圧の危険を訴え、後に校長・新渡戸稲造の更迭問題に発展した。
「(明治初頭は)我らには未曾有の活力があった。誰がその潮流を導いたか。先見の目を持った志士たちである。新思想を導いた蘭学者にせよ、局面打破を事とした勤王攘夷の浪士にせよ、時の権力から言えば謀叛人であった。法律の眼から逆賊と見ても、天の眼からは彼らは乱臣でも逆賊でもない、志士である。無政府主義の何が恐い?幸徳らはさぞ笑っているであろう。何十万の陸軍、何万トンの海軍、幾万の警察力を擁する堂々たる明治政府をもってして、手も足も出ぬ者に対する怖(おび)え様も甚だしい。人間弱味がなければ滅多に恐がるものでない。幸徳ら冥福すべし。政府が君らを締め殺したその前後の慌てざまに、権力階級の器の大小は完全に暴露されてしまった。(政府は)吉田松陰に対する井伊大老になったつもりでいるかも知れない。しかしながら徳川の末年でもあることか、明治44年に12名という陛下の赤子(むろん彼らも陛下の赤子である)をいじめぬいて、謀叛人に仕立て上げ、臆面もなく絞め殺した一事に到っては、政府は断じて責任を負わねばならない。諸君、西郷も逆賊であった。しかし今日となって見れば、逆賊でないことは自明の理である。幸徳らも誤って逆賊となった。しかし百年後の世論は必ずこの事件を、この死を悲しむであろう」。

●1915.5.9 対華二十一カ条要求…前年に第1次世界大戦が勃発し、欧州列強は中国進出どころではなくなった。これを大陸への影響力拡大の好機とみた大隈重信内閣は、対中国要求を21カ条にまとめて袁世凱(えん・せいがい)大総統に提出。そこには、満州・内蒙古を日本が独占的に支配するため、日露戦争で手に入れた旅順・大連&満鉄の租借権を「99年間に延長せよ」というものを中心に、日本の軍部・財界の要求がズラリと並んでいた。日本は武力を背景に最後通牒を勧告、要求の大半を中国に受け入れさせた。これによって、中国民衆は要求をのんだ5月9日を国恥記念日と呼び、日本に対する激しい怒りが広がっていく。

●1928.6 治安維持法改正…治安維持法の最高刑が「死刑」となった(制定から3年で改正)。言論統制を強化され、国民は自由な政府批判、軍批判が困難に。これより3ヶ月前(1928年3月15日)、田中義一内閣は反共政策により全国で大検挙を行い、官憲によって左翼活動家1600名以上が一斉検挙されている。
※小林多喜二「(3/15の検挙で)雪に埋もれた人口15万に満たない北の国(小樽)から、500人以上も“引っこ抜かれて”いった。これは、ただ事ではない」。

●1928.6.4 張作霖爆殺事件…満州一帯に勢力を持っていた中国の軍閥政治家・張作霖(ちょうさくりん)が、欧米資本の提供を受けて満鉄の沿線に別の鉄道を建設し始めたことから、「このままでは日本の鉄道利権が失われる」「欧米への接近は許せぬ」と関東軍参謀・河本大作大佐は考え、1928年6月4日、張作霖を独断で列車ごと爆殺した。昭和天皇(当時28歳)は軍の独走を懸念して田中義一首相に関係者の厳罰と軍紀粛清を命じたが、陸軍の強い反対によって首相は軍法会議を開けなかった。これを立憲民政党(リベラル)は批判し、天皇も犯人不明で終わらせては帝国陸軍の綱紀を維持できぬと立腹。田中首相に「(厳罰に処すという)お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と叱責し、鈴木侍従長に「田中の言うことはちっとも判らぬ」と怒りを表明した為、翌年7月に田中内閣は総辞職した。終戦まで17年間も事件の犯人が公表されることはなかった。

※田中義一首相は天皇の叱責が相当こたえたのか、総辞職から2ヶ月後に急性狭心症で他界した。昭和天皇は自身の言葉の影響を考え「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮に自分が反対の意見を持っていても裁可を与えることに決心した」(『昭和天皇独白録』)という。内閣は選挙で選ばれた議員で構成されており、その国民の声に介入するのは(天皇の言葉一つで内閣が吹き飛ぶ)、民主主義ではなく独裁になると考えたからだ。
※関東軍…日本の植民地、満州(中国東北部)に常駐した陸軍部隊。1919年設置。旅順に司令部。日露戦争後、遼東半島の関東州租借地&南満州鉄道(満鉄)沿線の警備の為に組織された。大陸侵略の先鋒として、張作霖爆殺、柳条湖事件など様々な陰謀工作を行った。1941年の関東軍特種演習(関特演)時には約70万の大軍になった。
※一部保守論客が「張作霖爆殺はソ連・コミンテルンの陰謀」と唱えているけど、外務省・陸軍省・関東庁の「特別調査委員会」や、事件当時に現地へ派遣された峯憲兵司令官の調査で河本大佐の謀略であることが判明しており、また、鉄道大臣・小川平吉も事後処理にあたって河本大佐から直接事件の全容を聞いており、歴史学者から“コミンテルン説”は全く相手にされていない。

●1928.8.27 パリ不戦条約…国策による戦争を放棄。パリで列強15カ国が署名(最終63カ国)。日本も調印。パリ不戦条約の第一条は「締約国は国際紛争のため戦争に訴えることを非とし、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、各自の人民の名において厳粛に宣言す」。条約は自衛戦争以外の戦争、領土拡張の為の戦争や報復の為の戦争を禁止している。戦後の憲法第9条はこの法規を参考にしている。

●1930 満鉄赤字化…関東軍に暗殺された張作霖の息子・張学良は抗日を決意し、蒋介石の南京国民政府に合流する。南満洲鉄道を経営的に崩壊させるべく、満鉄のすぐ横に新しい鉄道を敷き、安価な値段で経営戦争をしかけた。満鉄は1930年11月から赤字に転落し社員3000人を解雇。張学良はさらに「盗売国土懲罰令」を制定し、日本人や朝鮮人に土地を貸し売りした者を処罰するなど、様々な方法で日本企業と対決した。

●1930.11 浜口雄幸首相狙撃…民政党(リベラル派)初代総裁として首相になり、ロンドン海軍軍縮条約を結んだ。これによって軍と関係が悪化し、東京駅で右翼に狙撃され翌年他界。浜口首相は風貌から「ライオン宰相」として親しまれていた。ロンドン海軍軍縮会議の首席全権・若槻礼次郎は、「骸骨が大砲を引っ張っても仕方がない」と国力にあった軍備を説き、若槻も右翼に糾弾された。
※民政党は協調外交方針、政友会は中国進出方針。

●1931.6.27 中村大尉事件…中国最北部をスパイ活動中の陸軍参謀・中村震太郎大尉と他3名が張学良配下の中国軍に殺害された事件。拘束された場所は、中国官憲が「盗賊が横行するので外国人(日本人)の旅行を禁止する」と通知した立入禁止区域だった(日本側は治外法権を理由に立入禁止区域設定に抗議していた)。中村大尉は農業技師と詐称していたが、多額の旅費を持っていること、所持品の測量機、地図、日記帳、ピストルから中国軍がスパイと判断し、金品没収のうえ銃殺、証拠隠滅のため遺体を焼き埋めた。4人を裁判もなく処刑したことは当然批判されるべきだが、軍部は中村大尉が軍事目的(兵要地誌調査)のため潜入していたことを“伏せて”発表した為(8/17)、日本の世論は「中国の非道許すまじ」「蛮族を征伐せよ」と憎悪で沸騰した。翌月、満州事変が起きていることから、陸軍は大尉の死を利用して対中強硬論を煽り、武力行使の環境を作ろうとしていた意図が見える。


★1931.9.18 満州事変/柳条湖事件…満州の関東軍高級参謀・板垣征四郎大佐(河本大佐の後任)と作戦主任参謀の石原莞爾(かんじ)中佐らは、豊富な石炭・鉄などの資源の確保、対ソ戦の前線基地強化、国民党政府・張学良の鉄道建設による満鉄線の貨物輸送率の激減、華人の日本商品ボイコット運動、昭和恐慌下の不景気の解決など、様々な理由から「武力による満蒙(満州と蒙古)領有計画」を立案。そして1931年9月18日夜、歩兵隊の河本末守中尉に奉天郊外の柳条湖村で満鉄線路を爆破させ(柳条湖事件)、この自作自演のテロを地元の軍閥・張学良軍の犯行とみせかけ、「中国軍の日本に対する挑発だ」として武力攻撃を開始した。
翌日、軍部の暴走に驚いた若槻礼次郎内閣は事態不拡大の方針を告げるが、事変3日後(9/21)、朝鮮にいた日本軍も独断で満州に越境した。これは国外出兵を天皇の命令なしで行った明確な違法行為。この時の朝鮮軍司令官・林銑十郎中将は“越境将軍”と呼ばれた。
その後、軍部は「自衛のため」と称してチチハル、錦州、ハルピンと次々に戦線を拡大していく。板垣(46歳)、石原(42歳)という若い急進派が起こした満州事変を、上官である関東軍司令官・本庄繁と同参謀長・三宅光治は追認した。陸軍中央も板垣、石原らを処罰するどころか論功行賞。国民は柳条湖事件が自作自演であることをずっと知らされなかった。
若槻首相は満洲国の建国工作にも反対していた為、10月に陸軍急進派が全閣僚殺害のクーデターを画策する。未遂に終わるが内閣は衝撃を受ける(十月事件)。政府運営に行き詰まった若槻内閣は12月に総辞職し、新たに犬養毅内閣が誕生した(12/13)。
満州事変以降、関東軍は(1)天皇の裁可がなくても(2)陸軍中央の許可がなくても(3)内閣が反対しても、勝手に国策を決定して実行するようになる。満州事変の独断行動を不問にしたことで、その後の手柄目当ての暴走も認めざるを得なくなった。歴史のターニング・ポイント。

※事変半年前の1931年3月、陸軍省の幹部5人--軍務局軍事課長・永田鉄山、人事局補任課長・岡村寧次、参謀本部の編制課長・山脇正隆、欧米課長・渡久雄、支那課長・重藤千秋が一年後をめどに満蒙で武力行使をおこなう旨の「満州問題解決方針の大綱」を決定している(五課長会議)。板垣、石原らは、6月頃には全満州占領の軍事行動の準備を本格化し、決行を9月下旬に決めていた。関東軍司令官・本庄繁中将、朝鮮軍司令官・林銑十郎中将、参謀本部第1部長・建川美次少将、参謀本部ロシア班長・橋本欣五郎中佐らも、この謀略に賛同していた。「中村大尉事件が事変のきっかけ」という意見は間違いで、大尉事件の前から武力行使が決まっていた。
※そもそも、爆破直後に急行列車が何事もなく通過しており、自作自演の爆破自体も非常に小規模だったことが伺える。ちなみに張作霖爆殺犯は河本大作、柳条湖の満鉄爆破は河本末守で、同じ河本だけと別人。 
※事変翌日、特務機関を運営していた甘粕正彦元大尉は、ハルピン出兵の口実作りのため、自分たちで奉天市内数カ所に爆弾を投げ込み、「居留民保護」を名目に関東軍を動かそうとした。このように、特務機関があらかじめ標的地に不穏な空気を作ってから、軍が日本人保護を理由に出兵するやり方が、当時の常套手段だった。
※昭和天皇「自分は国際信義を重んじ、世界の恒久平和の為に努力している。それがわが国運の発展をもたらし、国民に真の幸福を約束するものと信じている。しかるに軍の出先は、自分の命令もきかず、無謀にも事件を拡大し、武力をもって中華民国を圧倒せんとするのは、いかにも残念である。ひいては列強の干渉を招き、国と国民を破滅に陥れることになっては真にあいすまぬ」(文藝春秋/天皇白書)

●1932.1.28 第1次上海事変…満州事変勃発から4ヶ月後、国際社会の非難を満州からそらすため、関東軍・板垣征四郎大佐らは国際都市・上海で日中両軍を戦わせることを計画。上海公使館の陸軍武官補佐官・田中隆吉少佐に依頼して、「中国人に日本人托鉢僧を襲撃させる」という謀略工作を行った。僧侶は死亡。これがきっかけとなり10日後に海軍陸戦隊が中国の第19路軍と衝突。犬養毅内閣は上海派遣軍を増派したが中国軍の頑強な抵抗にあい、日本軍は769人の戦死者を出した。5月に停戦協定締結。中国では反日運動が盛り上がる。

●1932.3.1 満州国樹立…関東軍はわずか4ヶ月で奉天・吉林・黒竜江の3省など満州全土を武力占領。蒋介石は軍閥や共産党軍との戦いに手一杯で、関東軍と積極的に戦わなかった。同地域は中華民国からの独立を宣言し、清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を執政=国家元首とする日本の傀儡(かいらい)政権「満州国」を樹立させた。上海事変のさなかであり、外国の目を上海にひきつけて満蒙支配を狙うという板垣大佐らの目的は果たされた。満州国は建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を掲げていたが、終戦まで13年間選挙は一度も行われず、政治結社の組織も禁止されていた。
※国際連盟は日本を強く批判し、満州に調査団を派遣した。昭和天皇「いったい陸軍が馬鹿なことをするから、こんな面倒な結果になったのだ」(1932)。
※昭和天皇「日系官吏その他一般在留邦人が、いたずらに優越感を持ち、満人を圧迫するようのことなきよう、軍司令官に伝えよ」(1935)。
※満州国出身の著名人…小澤征爾、赤塚不二夫、ちばてつや、浅丘ルリ子、梅宮辰夫、加藤登紀子、草野仁、ジェームス三木、富山敬、板東英二、矢追純一。

★1932.5.15 五・一五事件…犬養毅首相(政友会総裁)は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、満州侵略に反対で、日本は中国から手を引くべきだとの持論をもっていた。それゆえ、満州国樹立から2ヶ月経っても、政府の満州国承認には慎重だった。5月15日、海軍急進派の青年将校らは総理公邸に乗り込んだ。犬養は落ち着いて応接室に案内し「話せばわかる」と語りかけたが、後から入って来た三上卓中尉の「問答無用、撃て」の一言で殺害された。息絶える前の犬養の言葉は「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」。あくまでも対話で解決しようとする民主主義と、話など聞かぬというファシズムを象徴。その後、クーデタ・グループは警視庁・日本銀行・内大臣官邸・立憲政友会本部・三菱銀行に手榴弾を投げつけた。政治家や財界人は震え上がり、軍部の発言権が増した。11日後、海軍大将・斎藤実が首相となる挙国一致内閣が成立し、政党政治はここに終焉した(1945年の敗戦まで13年間政党政治は復活しなかった)。6月14日、犬養が反対していた満洲国承認決議案が全会一致で可決された。
※反乱罪で死刑を求刑された海軍中尉の古賀清志・三上卓の判決は、首相暗殺にもかかわらず禁固15年となった。この軽い判決が、4年後の二・二六事件を起こす原因になる。
※戦前に衆議院議員で総理大臣になったのは3人だけ。全員が党首で、原敬、浜口雄幸、犬養毅の順。そして3人とも総理大臣時代にテロで殺害されている。

●1932.9.16 平頂山(へいちょうざん)事件…満州事変から1年が経過したこの頃、反日ゲリラの数は30万人にも達していた。事件前日、満鉄所有の撫順炭鉱(満州)がゲリラに襲撃され、炭鉱所長ら日本人職員など5人が殺害された。翌日、炭鉱を警備する日本軍守備隊は、近くの平頂山集落がゲリラをかくまっていると考え、“記念撮影をする”といって女性や赤ん坊を含む全村民400世帯3000人(日本側は400~800人と主張)を広場に集め、機関銃掃射で虐殺した。村民の死体はダイナマイトで崖を爆破して土石の下に埋められた。
※本当に村がゲリラと通じていたとしても、小さな子どもまで殺害するべきではない。この虐殺を主導した大尉は終戦時に服毒自殺している。



〔1933.2.20 小林多喜二の死〕
この頃の思想弾圧がどれだけ激しかったかを示すものとして、作家小林多喜二の拷問死の話をしたい。東北の貧農の家に生まれた多喜二は、1929年(26歳)、オホーツク海で家畜の様にこき使われる労働者の実態を告発した『蟹工船』を発表した。同作は、過酷な労働環境に憤ってストライキを決行した人々が、助けに来てくれたと思った帝国海軍により逆に連行されるという筋で、大財閥と帝国軍隊の癒着を強烈に告発した。読売の紙上では“1929年度上半期の最大傑作”として多くの文芸家から推されたが、天皇を頂点とする帝国軍隊を批判したことが不敬罪に問われ、『蟹工船』は発禁処分を受け、苦学して就職した銀行からは解雇通知を受け取ることになる。以降、ペンで徹底抗戦するために地下に潜って活動するが、『蟹工船』発表から4年後、密告によって特高警察に逮捕される。同日夕方、転向(思想を変えること)をあくまでも拒否した彼は拷問で虐殺された。まだ29歳の若さだった。3時間の拷問で殺されたことから、持久戦で転向させる気など特高になく、明確な殺意があったと思われる。彼の亡骸を見た者が克明に記録を残している。

「ものすごいほどに青ざめた顔は激しい苦痛の跡を印し、知っている小林の表情ではない。左のコメカミには打撲傷を中心に5、6ヶ所も傷痕があり、首には一まき、ぐるりと細引の痕がある。余程の力で絞められたらしく、くっきり深い溝になっている。だが、こんなものは、体の他の部分に較べると大したことではなかった。下腹部から左右のヒザへかけて、前も後ろも何処もかしこも、何ともいえないほどの陰惨な色で一面に覆われている。余程多量な内出血があると見えて、股の皮膚がばっちり割れそうにふくらみ上がっている。赤黒く膨れ上がった股の上には左右とも、釘を打ち込んだらしい穴の跡が15、6もあって、そこだけは皮膚が破れて、下から肉がじかに顔を出している。歯もぐらぐらになって僅かについていた。体を俯向けにすると、背中も全面的な皮下出血だ。殴る蹴るの傷の跡と皮下出血とで眼もあてられない。しかし…最も陰惨な感じで私の眼をしめつけたのは、右の人さし指の骨折だった。人さし指を反対の方向へ曲げると、らくに手の甲の上へつくのであった。作家の彼が、指が逆になるまで折られたのだ!この拷問が、いかに残虐の限りをつくしたものであるかが想像された。『ここまでやられては、むろん、腸も破れているでしょうし、腹の中は出血でいっぱいでしょう』と医者がいった」。
警察が発表した死因は心臓麻痺。母親は多喜二の身体に抱きすがった。傷痕を撫でさすりながら「どこがせつなかった?どこがせつなかった?」と泣いた。やがて涙は慟哭となった。「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか!」。特高の多喜二への憎しみは凄まじく、葬式に参列した者を式場で逮捕する徹底ぶりだった。彼の死に対して文壇では志賀直哉だけが“自分は一度小林に会って好印象を持っていた、暗澹(たん)たる気持なり”と書き記した。後年、多喜二の弟が兄の思い出を語っている「地下活動していた兄を訪ねたときに、2人でベートーヴェンを聴きました。バイオリン協奏曲です。その第一楽章のクライマックスで泣いていた兄の姿が忘れられません」。

★1933.2.23 熱河省侵攻/熱河作戦…満州の守りを固めるため、隣接する熱河(ねっか)省の張学良軍を倒そうと軍部が計画。満州西部の熱河省には約3万もの抗日軍がいた。斉藤実(まこと)首相も昭和天皇も、いったんは熱河侵攻作戦を認可したものの、侵攻が国際連盟規約に抵触することを知って首相は裁可を取り消し、また、天皇も宮中で「熱河攻略を取り消したい」と語っていた(2/8側近日記)。だが、宮中側近は天皇に“取り消してはいけません”と説得した。なぜか。もし天皇が「取り消す」と宣言した時に、それでも軍部が侵攻作戦を断行すれば、天皇の権威に傷がつくからだ。陸海軍の統帥者である天皇の権威が失われることを恐れた。
昭和天皇には関東軍の暴走を止めたいという明白な思いがあった。熱河侵攻の12日前には「“統帥最高命令によりこれを中止せしめざるや”と興奮あそばされて仰せあり」(2/11側近日記)と、大声を出すほど焦っている。だが天皇の意思は軍部に伝えられず2/23に熱河侵攻は決行された。天皇と政府・軍の中間にいた宮中側近には“大元帥・天皇が中止命令を出した時に軍が聞かなかったら大変なことになる”という思いがあった。
※ここは超重要。政府は国民を統治しやすいよう天皇の神格化を徹底する一方で、軍部は宮中を“天皇の命令に逆らうかも”と不安にさせている。要するに皇室を都合の良いよう利用しているだけ。

3月中旬、中華民国は中央軍約20万を派遣し日本軍の南下に対抗させる。激しい攻防戦を関東軍は制し5月12日には北京まで迫った。天津軍参謀長・酒井隆は同僚の中で自分だけ勲章がなく手柄を焦っており、陸軍中央に報告せず独断行動で北京市内に進駐、結果オーライで少将になった。関東軍も刺激され、中央に無断で満州を越え、華北地域(北京・天津など)へ進出を繰り返す。五・一五事件など右翼テロが吹き荒れて政治家は脅えきっており、内閣は「越境は認めないが軍の必要経費は認める」と弱腰対応になった。
※熱河作戦に際して「平津地方(華北地方)領有ノ為…作戦ヲ指導スル場合、本地方ヨリ一部ノ作戦ヲ行フノ有利ナルハ当然ニシテ…」(『熱河省兵要地誌』)と、北京や天津を“領有”すると書かれており、張学良軍討伐は口実で、ハナから土地を奪うことが狙いであると示唆している。
※昭和天皇「(すぐに軍を退くという)予の条件を承(うけたまわ)りおきながら、勝手にこれを無視たる行動を採るは、綱紀上よりするも、統帥上よりするも、穏当ならず」。

●1933.3.27 国際連盟脱退表明…熱河作戦の翌日(2/24)、国際連盟特別総会で「満州における日本の権益は容認するが満州国の建国は認めない」「満州を国際社会で共同管理する」と定めた『リットン報告書(国際連盟調査委員会報告書)』が42:1(日本)の圧倒的多数で可決された。タイは決議の時間に遅れ棄権となった。日本の権益は認められていたし、“柳条湖事件以前の状態に戻りなさい”という甘めの決議だったが、松岡洋右日本全権大使は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と抗議し、3月27日に国際連盟脱退を表明した。脱退前の日本政府は、6年間で7人も首相が交代しており、外務省、陸軍、内閣がバラバラだった。
※日本のマスコミは「国際連盟を脱退せよ!」と世論を焚きつけていたので、松岡大使が横浜に戻ってきた時に埠頭には約2000人が駆けつけ、「よくぞ日本の誇りを貫いた」「英雄、松岡」と歓声をあげた。松岡自身はジュネーブからの帰国途上で「これで日本は孤立してしまう、大変なことになった」と“敗戦将軍”の気持で落ち込んでいたので、「この非常時に私をこんなに歓迎するとは、皆の頭がどうかしていやしないか」と感じたという。

●1933.5.31 塘沽(タンクー)停戦協定…日本は中国の国民党政府と塘沽停戦協定を結び、満州支配を事実上認めさせた。これで柳条湖事件からの満州事変はいったん終息。しかし、新たに軍部は「満州国」治安維持の為に周辺の華北5省を占領する必要があると考え、やがて日中全面戦争に突入していく。
※華北分離工作…北京・天津など華北地方占領を目指した陸軍の『北支那占領地統治計画』では、占領目的を「重要資源の獲得」としている。鉄道管理、貨幣計画、重工業建設、様々な統治プランが練られているが、タテマエであるはずの「居留民保護」の文言はどこにもない。未占領地域の統治計画を事前に作っていながら“これは防衛戦争である”というのは無理がある。翌年の関係課長会議『対支政策に関する件』でも“日本の言う通りにしないと存亡の危機に陥ると脅せ”“国民党の影響を排除し地方政府の幹部を我々に都合の良い人物に置き替えさせる”と権益確保が論じられている。

★1935.8.12 永田鉄山暗殺…陸軍省軍務局長の永田鉄山は6年間の欧州駐在経験があり、日本と欧米の国力差を正確に把握していた陸軍きっての逸材。陸軍統制派の中心人物で「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と言われた英才。エリート将校40人が結集した一夕(いっせき)会のホープ。外務省が国際関係の修復に乗り出すと永田達は外務省幹部に接近した。「ソビエトと平和外交を進めようとする外務省の考えに賛成です」(永田)「できれば陸軍もそれに協力したい」(東條※この頃は東條も穏健派)。
永田達は宮中、元老、政党と支持を広げ、陸軍皇道派(急進派)を追い詰めていった。そして悲劇が起きる。8月12日、白昼の陸軍省で、永田が皇道派の相沢三郎中佐に斬殺されたのだ。発見時、刀が肺に突き刺さっていたという。
「永田が殺されていなければ日本の姿がよほど変わっていた。あるいは大東亜戦争も避けられたかもしれない」(元陸軍中将鈴木貞一)。

〔皇道派VS統制派〕
※皇道派…天皇中心の国体至上主義を信奉し、直接行動による国家改造を企てた急進派。反ソ・反共。中心人物は荒木貞夫大将、真崎甚三郎大将。
※統制派…合法的に陸軍大臣を通じて国家総力戦体制を樹立することを目指した。反英・反米。中心人物は永田鉄山、東條英機。永田の死後、全体主義色の強い軍閥に変容していく。永田さーん!!

〔陸軍と海軍の中核〕
作戦統轄機関は陸軍が「参謀本部」、海軍が「軍令部」。参謀総長と軍令部総長は内閣とは異なる独立機関(統帥部)であり首相に指揮権はなかった。
※陸軍三長官…陸軍大臣、参謀総長、教育総監。大臣は事務方のトップでしかなく、指揮をとるのは参謀総長
※海軍三長官…海軍大臣、軍令部総長、連合艦隊司令長官。こちらも指揮をとったのは軍令部総長

●1935.11 冀東(きとう)政権成立…国民政府が日本軍の圧力に屈して河北省北東部(冀東)に設立した親日的地方政権。日本は冀東を麻薬など密貿易の拠点として中国の貿易・経済を混乱させた。後の通州事件の舞台。


●1936.2.26 二・二六事件…陸軍皇道派の青年将校たち(安藤輝三、野中四郎、栗原安秀、中橋基明、磯部浅一、村中孝次他)が1483名の兵を率いて政府要人を襲撃したクーデター。「尊皇討奸」を掲げ、官僚・財界と通じる陸軍統制派を倒し、天皇に直結する政治体制をつくる「昭和維新」を計画した。国家社会主義者・北一輝の影響を受け、武力を以て元老・重臣を殺害すれば天皇親政が実現し、政治腐敗や農村の困窮が収束すると考えていた。
大雪の1936年2月26日未明に決起し、歩兵第1連隊400余名、歩兵第3連隊900余名、近衛歩兵第3連隊50余名、野戦重砲兵第7連隊10数名らが反乱に加わった。下士官兵は大半が反乱計画を知らず、命令に従って適法な出動と誤認して襲撃に加わっていた。北一輝やその弟子・西田税(みつぎ)ら右派思想家は「決起は時期尚早」といさめたが、青年将校らの満州派遣が決まったことから、決起が急がれた。

《死亡》
内大臣・斎藤実(海軍大将)…坂井直中尉、高橋太郎少尉、安田優少尉らが襲撃(約150名)。軍部穏健派で前総理。体からは四十数発もの弾丸が摘出され、なおも体内に残っていた。凄惨。
教育総監・渡辺錠太郎(陸軍大将)…斎藤殺害後に、高橋太郎少尉、安田優少尉らが襲撃。天皇機関説(国家>天皇)を支持していた。渡辺大将は自ら拳銃で応戦したが、機関銃掃射で足の骨が剥き出しになり、肉が壁一面に飛び散った様子を次女が目撃している。警護の憲兵2名も死亡。
大蔵大臣・高橋是清(これきよ)…中橋基明中尉らが襲撃(約120人名)。高橋は国民から人気があり、天皇も信頼していた名宰相。軍事費抑制を主張していたことから就寝中に射殺され、警備巡査も重傷を負う。陸軍の予算は元々海軍の10分の1しかなく、平素から陸軍は大蔵省に不満があった。
《重傷》
侍従長・鈴木貫太郎(海軍大将)…安藤輝三大尉らが襲撃(約200名)。複数の銃弾を撃ち込まれたが一命を取り留める。妻の捨て身の懇願を見た安藤大尉はトドメを刺さず敬礼をして立ち去った。
※昭和天皇にとって鈴木夫人は乳母で、鈴木夫妻はいわば両親のような存在。その父とも言うべき鈴木が殺されようとしたことが、天皇の反乱将校への怒りとなった。
《生存》
首相・岡田啓介(海軍大将)…栗原安秀中尉らが襲撃。約300名が首相官邸に踏み込む。4人の警官が応戦で殉職、容貌の似ていた義弟が誤認され射殺。
前内大臣・ 牧野伸顕…河野寿大尉らが襲撃。牧野は欧米協調主義者。警護の巡査が応戦(殉職)し脱出に成功。旅館で襲撃され民間人にも被害。
内務大臣・後藤文夫…鈴木金次郎少尉らが襲撃するも、私邸に不在で難を逃れた。治安維持担当。

警視庁は野中四郎大尉率いる約500人の襲撃部隊によって抵抗も出来ずに制圧された。陸軍省、参謀本部、東京朝日新聞も襲撃され、永田町、霞ヶ関、赤坂、三宅坂一帯が午前9時頃までに占拠された。夜が明けて事件を知った昭和天皇は、軍装に着替え、沈痛な声で「とうとうやったか」「まったく私の不徳のいたすところだ」としばらく呆然としていた。午前9時、川島陸相が天皇に拝謁して反乱軍の「決起趣意書」を読み上げた。天皇は「なにゆえそのような物を読み聞かせるのか」「速やかに事件を鎮圧せよ」と命じた。戒厳令について、警視庁・海軍は「軍政につながる恐れがある」と当初は施行に反対していたが、昭和天皇の意を受けて施行され、27日午前3時、軍人会館に戒厳司令部が設立された。東京警備司令官・香椎浩平中将が戒厳司令官に就き、早期討伐を主張した参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐が戒厳参謀に任命された。陸軍省では「陛下に直接奏上して反乱軍将兵の大赦をお願いし、その条件のもとに反乱軍を降参せしめ、軍の力で適当な革新政府を樹立して時局を収拾する」という案が出ていた。
27日午前8時20分、「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」(戒厳司令官は三宅坂付近を占拠する将校以下を早急に各原隊へ復帰させるべし)との命令が天皇裁可のうえ参謀本部から下る(この奉勅命令が反乱部隊に伝わるのはもっと後)。
侍従武官長・本庄繁は“決起した将校の精神だけでも何とか認めてもらいたい”と天皇に奏上したが、天皇は「朕ガ股肱(ココウ)ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕(ジョ)スベキモノアリヤ」(私の手足となって働く老臣を殺戮するという、このように凶暴な将校たちは、どんな理由があろうと許されはしない)と憤慨し一蹴した。※昭和天皇35歳。

午後0時45分、拝謁に訪れた川島陸相に対し、天皇は「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」(私が最も信頼する老臣をことごとく殺すことは、真綿(まわた)で私の首を締めるに等しい行為だ)、「朕自ラ近衛師団ヲ率イテ、此レガ鎮定ニ当タラン」(私が自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たる)と非常に強い怒りを表明した。午後1時過ぎ、憲兵が官邸から岡田首相を救出。午後2時、陸相官邸で皇道派の中心人物・真崎甚三郎陸軍大将など軍事参議官3人が反乱軍将校と会談を行い、真崎は青年将校らの間違いを説いて聞かせ原隊復帰をすすめた。軍上層部は同情論と討伐論で意見が分かれ、夜になっても武力鎮圧はいまだ行われず。
28日正午、山下奉文少将が「奉勅命令が出るのは時間の問題」と反乱部隊に告げる。決起部隊の栗原中尉は、反乱将校の自決の場に宮中からの勅使派遣を依頼。これを聞いた昭和天皇は「自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ」(自殺するなら勝手にすればいい。あのような連中に勅使などもってのほかだ)と激怒した。一方、青年将校らは「行動を起こせば天皇陛下はお喜びになる」と思い込んでいた。
※この凄まじいほどの気持ちのすれ違い。二・二六事件の悲劇を象徴している。なぜ暴力が天皇に肯定されると思っていたのか。僕は純粋な彼らをそのように教育した軍上層部が許せない。

午後11時、戒厳司令部が「断固、武力をもって当面の治安を回復すべし」と鎮圧の準備を命じ、クーデター部隊を「反乱部隊」と公に指定。反乱部隊兵士の父兄数百人が歩兵第3連隊司令部前に集まった。第3連隊付の天野武輔少佐が説得失敗の責任をとり29日未明に拳銃自殺。
29日午前5時10分、反乱部隊を三方向から包囲し投降の呼びかけ開始。午前8時半に攻撃開始命令が下るが、現場では師団長など上官が涙ながらに説得を続けた。投降呼びかけビラが飛行機で散布され、ラジオで「兵に告ぐ」と題した勧告が放送され、「勅命下る 軍旗に手向かうな」と記されたアドバルーンがあげられた。これらを受けて反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に復帰し、安藤大尉は自決を計ったが部下の制止で失敗した。野中大尉は自決、他の将校らも午後5時までに逮捕された。黒幕とされた超国家主義者の北一輝、西田税ら思想家も検挙された。事件9日後の3月9日、岡田内閣が総辞職。
真崎大将ら皇道派の陸軍上層部は多くが要職を解かれ予備役(引退=事実上の解雇)となり、皇道派は壊滅した。
※2月29日朝、青島謙吉中尉が自宅で切腹。妻も喉を突き自刃。同日、歩兵第一連隊岡沢兼吉軍曹も拳銃自決。3月2日、東京憲兵隊の田辺正三憲兵上等兵が拳銃自決。3月5日、河野大尉が自決を計り翌朝死亡。
※事件の余波は満州にも伝わった。当時、関東軍の憲兵司令官だった統制派の東条英機は、亡き永田鉄山の弔い合戦で満州の皇道派軍人を片っ端から監獄に送った。いわく「これで少しは胸もすいた」。
7月に開かれた特設軍法会議(弁護人なし、非公開)で、反乱罪で死刑になった青年将校らは実に17人。無期禁固は6人。“五・一五事件”では誰も死刑にならなかった為、栗原や安藤は「死刑になる人数が多すぎる」と衝撃を受けた。7月12日、磯部浅一・村中孝次を除く15名の刑が執行された。翌年8月14日に事件の首謀者とみなされた北一輝、西田税にも死刑判決が下り、5日後に、北、西田、磯部、村中に刑が執行された。

※二・二六事件については、41年が経った1977年2月26日になっても、卜部亮吾(うらべりょうご)侍従人に「治安は何もないか」と就寝前に尋ねており、事件の衝撃が脳裏に焼き付いていたことがうかがえる。

●1936 軍部大臣現役武官制導入…二・二六事件の後、新たな広田弘毅内閣は陸海軍の同意がなければ内閣が成立・維持できない状況になる。二・二六事件で皇道派を一掃した陸軍首脳の梅津美治郎、武藤章ら統制派が、“陸・海軍大臣を選ぶ時は現役の大・中将に限定する”という「軍部大臣現役武官制」を広田に認めさせたのだ。これによって、(1)軍部が気に入らない内閣であれば陸軍大臣を送らない=組閣できない(2)わざと陸相を辞任させ後任を送らないという戦法で政局を動かす、といった事態が度々起き、軍部の発言力をさらに強めた。

●1936.3 天皇機関説事件…政府が「天皇機関説」を排斥して「天皇主権説」を採る。天皇機関説とは憲法学者・美濃部達吉による明治憲法の解釈で、「天皇は国家に従う“最高機関”にすぎず、天皇は国家の統治権を持っていない。統治権は国家(法人)に属している」というもの。天皇の権限を憲法の枠内に限定し、議会が天皇の意思を拘束できるという考えは、当時多くの法学者に支持されていた。二・二六事件の翌月、政府は天皇の神格性・超越性を強調し、統治権は絶対無限であるとし天皇機関説を否定。機関説に関する書物は発禁処分となり、以降、軍部による思想統制が強化され、終戦まで「神である天皇の名で行動する軍部」への批判はいっさい禁じられた。
※天皇自身は美濃部を擁護していた。「機関説でいいではないか」「君主主権はややもすれば専制に陥りやすい。(略)美濃部のことをかれこれ言うけれども、美濃部はけっして不忠な者ではないと自分は思う。今日、美濃部ほどの人が一体何人日本におるか。ああいう学者を葬ることはすこぶる惜しいもんだ」。
※軍部や右派と戦い、戦前に思想弾圧されたリベラル派学者・思想家リスト→滝川幸辰京大教授(京大法学部教員は滝川を守るため全員辞表を出して戦うが敗北)、矢内原忠雄東大教授、加藤勘十、山川均、鈴木茂三郎、大内兵衛、有沢広巳、美濃部亮吉(美濃部達吉の長男)、津田左右吉(そうきち)、森戸辰男東大助教授、河合栄治郎東大教授など。1939年、昭和天皇は各大学総長との会食の場で「その後、京大は立ち直っているか」と語り、滝川事件に胸を痛めていたことが窺える。

●1936.5.7 斎藤隆夫の粛軍演説…二・二六事件後の帝国議会にて、陸軍大臣・寺内寿一に対して民政党・斎藤隆夫が1時間25分に及ぶ質問演説を行った。議会軽視の陸軍を批判し、また、軍部を利用せんとする政治家に対して猛烈に批判している。「いやしくも立憲政治家たる者は、国民を背景として正々堂々と民衆の前に立って、国家の為に公明正大なるところの政治上の争いをなすべきである。裏面に策動して不穏の陰謀を企てるごときは、立憲政治家として許すべからざることである。いわんや政治圏外にある所の軍部の一角と通謀して自己の野心を遂げんとするに至っては、これは政治家の恥辱であり堕落であり、また実に卑怯千万の振舞であるのである」。斉藤は1940年に日中戦争処理に関し「聖戦の美名に隠れて」無計画に戦線を拡大する軍への反軍演説を行い議会から除名された。4年後のこの演説は陸軍にとって「2個師団を失ったぐらいの打撃」であったという。

●1936 抗日運動激化…東京の陸軍中央が「軍事工作をやめろ」と言っても関東軍は聞かず、戦果を競って北支(中国北部)など領域を侵し続けた。陸軍中央は関東軍の北支進出を抑えるために、隣りの天津軍を3倍に増強するという手まで使った(天津の部隊で関東軍に睨みをきかせた)。しかし、中国に説明なく天津軍を増強したことから、現地では抗日運動が激化し全土に広がった。暴走する出先軍、あいまいな対応しかできない中央という構図が続く。

●1936.8 満州開拓移民推進計画決議…1931年の満州事変以降、国策により満州国への移民が本格化。1936年、広田弘毅内閣は“今後20年間で100万戸、500万人を移住させる”と「満州開拓移民推進計画」を決議した。実際、政府は1938年から4年間に20万人の農業青年を、そして1936年に2万人の家族移住者を送り込んでいる。移住責任者は加藤完治で「満州拓殖公社」が業務を担った。『王道楽土』『五族協和』といった言葉で大々的に開拓移民募集のキャンペーンが行われ、当時の日本、特に地方農村は昭和恐慌で困窮をきわめていたことから、多くの人々が募集に応じた。彼らは農業研修や軍事訓練を渡航前に受け「満州開拓武装移民団」として送り込まれた。
最大の問題は入植先の反日感情。これは日本側の横暴なやり方が原因だった。入植地の確保にあたって、一方的に先住農民が開墾していた土地を「無人地帯」に指定し、政府がこれらの「無人地帯」を格安で強制的に買い上げ、先住農民を新たに設定した土地(荒野)へ強制移住させ、その上で日本人開拓移民を入植させる政策をとっていた。約2000万ヘクタール(東京都の面積の約100倍)の移民用地が強制収容された。先住農民は苦労して開墾した耕作地を取り上げられる強制移住に抵抗し、衝突やトラブルに発展するケースが相次ぎ、関東軍が武力で鎮圧することもあった。1934年には中国人の日本人移民に対する武装蜂起で日本軍の連隊長が殺害される事件もおきている(土竜山事件)。

先住農民は自分たちの生活基盤を奪った存在として日本人開拓移民団を恨み、こうした反感が反日組織の拡大につながった。1942年以降は戦局の悪化で成人男性の入植が困難となり、15歳から18歳の少年で組織された「満蒙開拓青少年義勇軍」が移住のメインとなる(1938年4月に第1陣5千人が出発。最後は終戦2ヶ月前の214人。全体で86530人)。軍事上の理由でソ連国境に近い満州北部が入植先に選ばれた為、ソ連参戦時に移民団が現地住民たちに襲撃される伏線になった。戦争末期に大部分の男子が軍に召集され、残された婦女子はソ連軍による暴行や現地住民から報復的略奪にあい、集団自決や親子の生き別れ(中国残留孤児)など悲劇が起きた。青少年義勇軍を含む満州開拓移民は約32万人にのぼったが、殆どが国境地帯に取り残され、開拓民で帰国できたのは約11万人だけだった。
当時、満州開拓移民を訓練する指導者だった元第三師団上等兵・福手豊丸さん「名は開拓だったけど事実上は昔から住んでいた農家の人を強制的に国の力、軍の力で追い払った。満州の開拓政策は根本的に大きな誤りがあった」。
※「満州は今の中国人の土地でないから中国に謝罪する必要なし」というのは詭弁。当時の日本政府は、満州が中国の一部と思っていたからこそ、いろんな方便を使い「清朝・中国との交渉」を通して権益を獲得していった。
※参考にした外部サイト

●1936 第731部隊誕生…細菌兵器を人体実験で開発していた満州第731部隊。正式名称“関東軍防疫給水部”で、初代部隊長は石井四郎。陸軍内部では石井機関と呼ばれた。731部隊は中国東北部(満州)ハルビンに設置されたが、1938年に北京、1939年に南京、広東、そして1942年にはシンガポールにも関連部隊「防疫給水部」が派遣された。1939年末の総人員は10045人。このうち、組織的に人体実験を行っていたのは731部隊と南京の1644部隊。731部隊については敗戦後の米軍調査の記録が残っており概略が判明している。1943年7月までの人体実験の死者数は850人。人為的にコレラ、ペスト、赤痢、炭疽、その他様々な伝染病に感染させ、病原体ごとに「感染に必要な細菌の量」を調べて生物兵器に応用した。1940年10月27日の寧波(ニンポー)市に対する重爆撃機からの“ペストノミ”(ペスト菌を持つネズミの血を吸ったノミ)の散布は石井機関の作戦だ。1942年には戦場にコレラ菌を使った生物兵器を使用し、1万人以上を感染させたが、その全員が日本兵という大失態を犯してしまう。連絡ミスで日本軍が誤って散布地域に踏み込んでしまった為だ。1644部隊の調査では1700人以上の日本兵が主にコレラで死亡している。1944年末に米軍の捕虜となった衛生兵は「実際の死者数は1700人より多いはず。不愉快な数字は低く見積もるのが通例だから」と証言。この作戦で被害にあった日本兵は、上官から「中国の生物兵器の攻撃だ」と教えられた。
「ジュネーヴ議定書」(1925)は戦争で生物化学兵器の使用を禁じており、石井たちは生物兵器が議定書違反になることを認識していたが、戦後、帰国した部隊員は誰一人戦犯として訴追されていない。米軍が研究データを提供すれば戦犯を免責すると“取引”したからだ。
※戦後、薬害エイズ事件を引き起こしたミドリ十字の創始者は石井の片腕、内藤良一。
※陸軍が1940~42年にかけて中国で細菌兵器を使用していたことを示す陸軍軍医学校防疫研究室の極秘報告書が、2011年に国会図書館関西館で見つかった。細菌兵器の使用は1993年に発見された陸軍参謀の業務日誌にも記述があるが、研究室の公的文書でも裏付けられた。これまで日本政府は細菌戦について「証拠がない」との見解を中国人遺族らによる損害賠償訴訟で示している。態度を改めるべき時がきた。細菌戦を行ったとして記されていた場所と効果は次の通り。
  2011.10.15 朝日から

  笑顔で731号機に乗る安倍首相。あまりに無神経。普通避けるだろ…

★1937.7.7 盧溝橋(ろこうきょう)事件…牟田口歩兵第一連隊長が率いる天津軍は、連日のように国民党の精鋭部隊がいる北京郊外・盧溝橋付近で演習を繰り返した。7月7日、演習中の日本軍が何者かに数発の銃撃を受け、牟田口は国民党軍の挑発として独断で中国軍への攻撃を許可(外部サイトに詳細)。両軍が交戦に入った。日本政府は不拡大方針を打ち出し事態の早期解決を目指す。満州駐留の日本軍は強大な軍事力を持つソビエトと直接向き合っており、軍上層部も中国に戦力を割くのは危険と考えた。4日後に停戦協定成立。しかし1ヶ月後に上海で新たな武力衝突が起き、戦争が本格化してしまう。
※盧溝橋事件の時点では日本居留民に危機は迫っていない。日本側には華北5省(河北、山東、山西、綏遠(すいえん)、チャハル)を第2の満州国にしようという「華北分離論」があり、“この際事件を拡大して華北を分離し蒋介石を打倒しよう”という方向へもって行った。
※1937年から1941年に宣戦布告するまでの4年間、日本は大陸での戦いを“支那事変”と称した。この頃、アメリカには戦争当事国への戦略物資の輸出を禁止した“アメリカ中立法”があった。日本は石油や兵器の材料の多くをアメリカに依存していた。石油がなければ中国と戦えない。宣戦布告をするとアメリカが中立法を発動する恐れがあったので、“事変”であって国際法上の戦争ではないと主張し続けた。また、中国側も同様に1941年まで宣戦布告していない。

●1937.7.29 通州事件…冀東(きとう)防共自治政府(親日派)の首都・通州で起きた日本人・朝鮮人居留民虐殺事件。事件の背景は12日前に遡る。その日、中国軍と戦闘中の日本軍機が冀東政権の保安隊兵舎を誤爆。味方と思っていた日本軍に攻撃され、憤慨した保安隊が報復のため29日朝に日本守備隊や民間人を襲撃した。支那駐屯軍司令官・香月清司中将の当時の記録『支那事変回想録摘記』によると、日本人104名と朝鮮人108名、計212人が殺害された。襲ってきた保安隊は、日本軍が軍事指導していた部隊であり、飼い犬に手を咬まれたことになる。この事件が報道される際、軍部は誤爆が最初にあったことや、襲撃者が冀東政権の保安隊であることを隠し、「支那人部隊が突然やって来て虐殺した」と伝えた。当然、国民は支那人部隊=国民党政府軍と考え「鬼畜の行為」と激怒した。当時の日本政府が国民党政府を非難しなかったのは国民党が全く無関係だから。悲劇的な虐殺事件さえも反中国感情を煽る宣伝に使われた。
※元陸軍省新聞班の松村秀逸少佐いわく「橋本参謀長は“(新聞に書く時は)保安隊とせずに中国人の部隊にしてくれ”との注文だった。勿論、中国人の部隊には違いなかったが、私はものわかりのよい橋本さんが、妙なことを心配するものだと思った」。
※日本は通州を拠点に、大陸に麻薬を流す「毒化政策」を行っていた。満州でヘロインを製造した製薬会社社長・山内三郎いわく「冀東地区(通州)からヘロインを中心とする種々の麻薬が奔流のように北支那五省に流れ出していった」。
※この通州事件は当時だけでなく、今も「犯人は支那軍」と嘘をついて反中国感情を与える材料に使われている。しかも、彼らは被害者の半分以上が朝鮮人であったことや、通州にアヘン密貿易者がたくさん集まったこと、「毒化政策」に対する中国人の反感もスルーしている。民間人への無差別殺戮は絶対に許されるべきものではない。しかし、事件を意図的に政治利用するやり方は、それもまた死者に対する冒涜だ。

★1937.8.13 第2次上海事変…盧溝橋事件から続く日本軍の華北(北京など中国北部)侵略に対し、上海で激しい抗日運動が起こる。その渦中の1937年8月9日、虹橋飛行場を偵察中の海軍陸戦隊・大山勇夫中尉らが中国保安隊に射殺される事件が発生。日本政府はこれをきっかけに華北侵攻の「不拡大方針」を放棄し、「乱暴で道理に反する支那軍を懲らしめる」と積極的な武力行使に方針転換する。中国側も8月15日に総動員令を発して蒋介石を指導者とする抗日民族統一戦線を結成した。

日本側は中国の兵力を軽視していたが、中国は満州事変から盧溝橋事件に至る6年間で大きく変貌していた。ドイツから軍事顧問を招いて兵力を近代化し、屈強に生まれ変わっていた。蒋介石には30人のドイツ人軍事顧問団(リーダーはドイツ国防軍の将軍ファルケン・ハウゼン=歩兵部隊育成の第一人者)がいた。ドイツは日本と防共協定を結んでいたが、一方で中国に軍事支援を行い、大量に最新兵器(装甲車・戦闘機含む)を輸出していた。盧溝橋事件の年には前年の3倍の軍需品が中国に渡っている。ヒトラーいわく「日本との協調関係は維持する。しかし、中国への武器輸出も偽装できる限り続ける」。
一方、陸軍は日露戦争から武器がほとんど変わっていなかった。中国共産党と国民党政府は抗日意識でまとまり、中国軍はもはや清国とは異なる、手強い軍隊になっていた。

軍事顧問団ファルケン・ハウゼンは「中国の敵は日本が第一、共産党を第二」と思考、蒋介石に「今こそ対日戦に踏み切るべき、日本軍を攻撃すべし」と進言。蒋介石の日記「中国北部で戦っても世界は誰も注目しない。国際都市上海で戦争すれば世界中の関心を集め国際世論を喚起できる」。
1937年8月12日未明、中国正規軍本隊が上海まで前進、中国軍の屈指の精鋭部隊約3万人が国際共同租界の日本人区域を包囲した。上海にいた日本の海軍陸戦隊は5千人であり、6倍の勢力。そして、翌13日午前10時半頃、商務印書館付近の中国軍が日本軍陣地に対し突如として機関銃攻撃を開始した。ここから日中両軍は上海各地で戦闘に突入し、以降、8年の長きに及ぶ日中戦争が展開される。
※中国軍の先制攻撃は当然大問題だが、背景には満州占領からの北京侵攻、天津侵攻があり、「日本軍を追い出せ」と反日感情がピークになっていたことも理解しないと、「日本は何も悪くないのに当然攻撃された」と偏った視点になる。

増援の要請を受けた陸軍大臣・杉山元(はじめ)は「対ソ戦を考慮するとこれ以上中国に兵力を投入できず」としたが、陸軍強硬派の中心、参謀本部作戦課長・武藤章(あきら)は「大軍で一撃し威嚇すれば、中国はすぐに降参し事態の拡大を防げる」という“対支一撃論”を掲げ即時派兵を求めた。当時の日本では「支那兵なんて弱い」「中国に一撃を加えれば事態を収拾できる」と、軍上層部から一兵卒まで、兵隊だけじゃなく、普通の人まで支那人を侮蔑していた。海軍大臣・米内光政は長期全面戦争を強論。結局、軍の大増派が決定し、8/23に陸軍は上海へ“10万人”を上陸させる。

中国軍は日本軍の上海上陸を予測し待ち構えていた(盧溝橋事件の半年前には南京と上海の防御陣地が完成していた)。増援部隊10万が到着すると、上海戦では中国軍が装備したチェコスロバキア製のZB26軽機関銃が猛威を振るった。毎分550発。命中精度が高く当時世界最高水準の軽機関銃。これもドイツ経由で中国に売却された。
日中戦争当初、主力として活躍したのは北陸の第九師団。第九師団歩兵第七連隊戦闘詳報(当時の戦況公式報告書)によると、上海事変勃発から2週間で部隊2566人中、死者450人、負傷者905人、兵士損耗率53%。2人に1人が死傷者という壮絶な戦い。
※元第九師団歩兵第七連隊通信兵・小西輿三松は、通信兵として最前線と司令部を行き来しており、戦場の様子を逐一書き留め日記をつけていた。友軍がまさかの全滅。「1937年9月27日 部隊が反撃にあい驚いている」。“中国側の徹底抗戦など誰も予想してなかった、烏合の衆と思ってた”という。

第九師団は上陸1ヶ月で1万の兵を失った。幼友達の戦友を失った兵士(元第九師団山砲第九連隊・滝本孝之)の当日の陣中日記。「胸も張り裂けんばかりに激憤して暴支膺懲(ぼうしようちょう=支那軍の不法者を征伐して懲らしめる)の声が染みこむ」。翌日一人の中国兵を捕虜にした。「分隊兵全員で蒸し焼きにして殺せり。約30分ほどうめく」。最前線の誰もが親友や上官をやられ、中国兵への復讐心をつのらせていく。“支那兵を皆殺しにしてやる”と敵への憎悪が部隊戦隊を覆っていった。陣中日記「ある兵隊が集落で捉えたといって、真裸の男を後ろ手にくくって連行した。隊長はチラとその方を見たがすぐ新聞を頭に載せて“やっちまえ”と一言いわれた。もう一人農村青年がいることを告げると、もう一言“やっちまえ”。一言の取り調べもなく、よくその人物を見るでもなく、簡単に。2、3人“俺がやってやる”と銃をとって駆けて行った者もいる」。軍上層部の「中国は弱くすぐに降参する」という誤った認識が、末端の兵士たちを追い詰めていった。

※千葉県の浅井病院に日中戦争から太平洋戦争の間に心を病んだ兵士のカルテが8千人分も現存する。陸軍病院に勤めていた精神科医が戦場の実態を後世に伝えるべくコピーしたもの。終戦後、陸軍から焼却命令が出ていたが密かに保存された。オリジナルの記録者は当時上海の陸軍病院にいた軍医・早尾乕雄(とらお)中尉。早尾は第一次世界大戦の戦場神経症について欧州で学び、第九師団の兵士の心理状態を次のように分析、書き留めている。
「第一線で血を見た歩兵部隊ほど気分が荒々しくなっている。その有り様は狂躁状態と同じ。ここに絶大な力のエネルギーが働いて、十人斬りをやり刺殺できるようになるのである。戦友が辱められた、殺されたのを見ているから、余計に敵愾(がい)心が強くなり、思い切ったことをやった。抗日分子を全滅するには、老幼男女の別なく“支那人と見たら皆殺せ“とまで命令した部隊長さえあったくらいである。みな、これ激しき復讐心の表れである」。

戦闘開始から2ヶ月。東京の参謀本部は膠着状況を打開すべく、新たに大規模な増援部隊の派遣を決定(10/20)。同時に、軍上層部は戦いの早期終結をはかるため、戦場を上海周辺に厳しく限定した。蘇州と嘉興(かこう)を結ぶ制令線を越えて西(南京方面)に進軍することを制限した。11/5に7万の増援部隊が上海の南、杭州湾に上陸。これを機に日本軍が優位になり、11月上旬、上海は陥落した。この攻防戦は世界に伝えられ、蒋介石は欧米による日本への経済制裁を期待したが、この段階ではまだ列強は動かなかった。世界は上海のみを戦場にした局地戦と思っていたからだ。陸軍中央もこれで停戦になると考えていた。
だが!!!現地軍の司令部は敗走する中国軍を追撃するよう命じた。上海での死闘をかろうじて生き残った兵士たちは、今度は食糧など補給の遅れに苦しむことになった。日本軍はもともと「上海周辺」の限定された地域での「短期戦」を想定して補給の体制を組んでいた。追撃命令で作戦地域が拡大した結果、補給体制が破綻し始め、地元民に対する徴発(ちょうはつ=強制的に物資を取り上げること)が日常化されていった。

※前線の元第九師団歩兵・小西輿三松の陣中日記「皆、一様にもうしばらくだと語り合いながら、苦しい追撃を続行する。我々は一度交代になるべきはずなのに、次の攻撃命令が次から次と来る」「急激な追撃に後続部隊が続行できず、物品の運搬に泡を食っている」。
※元第九師団歩兵第三十六連隊・横山重(中国軍の手榴弾で右目を失う)いわく、「一週間も米粒なし。そこらの畑から取ってくるしかない。銭を払う時もあったが、無い時はどうしようもない。徴発をする。つまり泥棒だ。悪いことは分かっているがどうしようもない」。
※この頃、11/20に戦時の最高統帥機関・大本営が設置され、同時に大本営と政府の連絡機関「大本営政府連絡会議」も設けられた。

補給問題は陸軍が現地の地理を充分に調査していなかったことから深刻化した。作戦地域は船による水上運搬が適切だったのに、補給部隊の設備は陸上輸送を中心としていた。第九師団経理部は公式報告書に陸軍省に対する批判を書いている。「第一線の兵士は現地調達によって得た食糧によりかろうじて餓死を免れた」。徴発は本来、物資の対価を支払うことが軍規に定められていたが、戦闘続きでその余裕はなかった。兵士たちは徴発に奔走するようになり、上海から80kmの蘇州では、11月中旬に“部隊が百貨店になるほど”の大規模徴発があった。
11/22、蘇州における徴発で兵が鋭気を養ったと見た上海派遣軍司令官・松井石根は、東京の参謀本部に電報を打つ。「制令線(蘇州)に軍を留めていては戦機を逸する。南京に向かう追撃は可能なり」。松井は首都さえ落とせば蒋介石は屈服すると考え南京攻略を進言した。不安に包まれた軍上層部は参謀本部名で電報を返信「南京への追撃は制令線を定めた命令への逸脱行為であり断念すべし」。しかし松井ら現地軍は参謀本部の作戦部長・下村定と密かに呼応していた。
11/24、下村は御前会議で天皇に今後の作戦方針を説明することになった。下村の役割は、軍上層部が決めた“制令線を越えた進軍の予定はない”を伝えることであったが、独断で「南京その他を攻撃せしむることも考慮いたしております」と付け加えた。この発言で下村は叱責されたが何も処分されなかった。同24日、増派部隊は独断で南京への追撃を開始。第六師団は制令線の限界であった嘉興を越えて南京に出発。
11/30、蒋介石は日本軍の西進に備えて、南京郊外の農村に400カ所以上の陣地(内部に機関銃を設置したコンクリート製のトーチカ)を築き防衛ラインを引いた。トーチカが置かれた村々は日本軍を迎え撃つ“砦”となった。結果、多くの住民が戦闘に巻き込まれた。

南京事件の死者数が日中で大きく異なるのは、このように南京近郊の戦いで殺害された村民たちも中国側は南京事件の犠牲者と見なしているからであり、南京城内の死者しかカウントしていない日本側と数字が異なるのは当然のこと。どちらの数字が正確か非難しあう前に、対象にしている地域の範囲が違うことを知らねばならない。嘘の数字と批判するのは的外れ。
12/1、ここに至り、軍中央は南京攻略を正式に発令した。またしても、現地軍の独走と軍上部の追認という、満州事変と同じ構図が繰り返された。
12/7、蒋介石は南京防衛軍の兵士を残し、自らは戦線の立て直しを図るため南京を離れた。前後してドイツ軍事顧問団や国民党幹部も場外へ逃れた。南京の城内には南京在住の外国人商社員らによって難民区が設けられ、南京周辺からも戦禍を逃れた多くの民衆が集まり日本軍の攻撃から身を守ろうとしていた。

先述した第九師団担当の軍医・早尾乕雄中尉は、論文『戦闘神経症並びに犯罪について』で徴発の危険性を指摘。「実に徴発なる教えは、極めて兵卒の心を堕せしめたる結果を示せり。内地においては重罪のもとに処刑せらるべきものなり。しかるに戦場においては毫も制裁を受けず、かえってこれに痛快を感じ、ますます奨励せらるるが如き感ありき。徴発の如き、公然許されしこと、最初は躊躇(ちゅうちょ)せるものなり。ついには不必要なる物品を、自己の利欲より徴発なすに至り。実に日本軍人の堕落と言わざるべからず」。
徴発が兵士たちの倫理観を麻痺させていった。軍が公認した徴発が略奪や強奪となり軍規を崩壊させた。上海の激戦で多くの戦友を失い、復讐心をたぎらせ、飢えと疲労でギリギリの精神状態の兵士たちは、大陸上陸から4ヶ月、ついに南京へ到着した。



★1937.12.13 南京事件(注・先に「第2次上海事変」を必読。繋がっています)…蒋介石率いる国民政府の首都・南京は人口100万の大都市。日本軍は1ヶ月前に上海の激戦を制した後、7つの師団、計20万人を越える兵士が一斉に南京に進撃した。「南京を陥落すれば蒋介石は降参する」と信じ、上海から南京まで、徒歩で300km(東京~名古屋ほどの距離)を戦いながら進んだ。12/10、南京城を包囲した日本軍は総攻撃開始。南京防衛軍の司令長官は陥落が決定的になると部下を残して逃亡した。中国側の高級将校はみんな逃げた。そして、指揮系統を失った中国兵約10万人が退路を断たれて取り残された。武器も食料も尽きた。総攻撃3日後、12月13日南京陥落。日本の各師団は南京入城一番乗りの功名争い。以後、3ヶ月にわたって城内の掃討作戦が続く。

〔南京で何が起きたのか〕
いわゆる“南京大虐殺”については、当時の日本軍の作戦資料、従軍日記、外国人の証言など、様々な証拠が残されているため、実際に虐殺・強姦・放火などの残虐行為があったことは間違いない。中国側が主張する証拠写真・映像には宣伝用映画のものが数多く混じっており、それを理由に“虐殺はでっちあげだ”という意見もあるけど、当時現場で記録された膨大な第一次史料が、数々の悲劇を伝えている。

陥落の翌日に書かれた元第九師団歩兵第七連隊・小西輿三松の陣中日記「昨夜は気づかなかったが、一帯に正規兵の被服、兵器等、が多く散乱、放置してある。奴ら、便衣(べんい=民間人の平服)を着たらしい」。城内に脱ぎ捨てられた大量の中国兵の軍服。約10万もの中国兵が、軍服を脱ぎ捨てて民間人に混じってしまった。誰か敵兵なのか分からず、いつ狙撃されるか分からない。
皇族が参加する南京入城式典が3日後に控えており、不測の事態は絶対に避けねばならなかった。連隊に城内掃討命令が下る。「青壮年はすべて敗残兵、又は便衣隊と見なし、すべてこれを逮捕監禁すべし」。老人と子ども以外、すべての中国人男子を逮捕監禁せよという厳命だ。だが、“逮捕監禁”といっても、食料もなく10万の捕虜を収容する施設などない。やがて命令は「捕虜を処分、殲滅(せんめつ)せよ」に変更された。“処分”、つまり処刑だ。
再び小西の陣中日記。別部隊が、捉えた若者の中から中国兵をより分けているのを目撃。「運動場に人々を集めて、正規兵、及び嫌疑者を選り分けているのだった。肉親や妻、子ども達が哀れな声で泣きながら若い者達に飛びついてくる。憲兵達が抜刀して追い払えども、去らんとせず悲劇が展開される。“若い男はこれを全部捕虜とせよ”と聞いていたが一人一人掴んだのではきりがない」。結局殆どの若者がトラックで連行されたという。毎日新聞大阪本社にある、検閲で公開不許可になった当時の写真には「13日。避難民に紛れて逃亡せんとする正規兵約5、6千名」と書かれている。

12/15、入城式典が2日後に迫る。歩兵第七連隊に新たな掃討命令が下った。「連隊は明日16日、全力を難民地区に指向し徹底的に敗残兵を捕捉殲滅せんとす」。難民地区においても“捕捉殲滅”が行われた。
※「捕虜の始末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す 皆殺せとのことなり 各隊食料なく困窮す」(山田支隊長の日記12月15日)

12/16、入城式典前日、殲滅が続く。歩兵第65連隊第八中隊・遠藤高明少尉の陣中日誌「捕虜総数1万7025名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引き出しI(第一大隊)において射殺す。一日二合宛給養するに百俵を要し、兵自身徴発により給養しおる今日、到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるもののごとし」(十二月十六日)

元第九師団歩兵第七連隊・鍋島作二いわく「揚子江に飛び込んだ連中を機関銃で撃った兵士がいた。虐殺はあった。この目で見たし、私も一人斬った。敵の陣地に突っ込んで殺すのと全然意味が違う。それも非戦闘員かも分からん奴を。だから虐殺というふうに捉えている」。小西の陣中日記「昨夜から若者を5人ずつ縛って揚子江に連行して銃殺したそうだ」「捕虜を助けるなどという意識はまったくなかった。敵は殲滅(せんめつ)すべし、ただそれだけだ」。
軍の公式記録、歩兵第七連隊戦闘詳報によれば、小西、鍋島が所属した第七連隊の掃討は12日間続いた。刺殺、射殺した敗残兵は第七連隊だけで6670人。

他師団はどうなのか。城内の徹底掃討を行なった第16師団長・中島今朝吾中将は、捕虜を取らず、殺害する方針を日記に書いており、第16師団歩兵第33連隊は捕虜3096人を殺害している。同じく第16師団歩兵第30旅団は南京西部地区で捕らえた捕虜数千人を処刑。第114師団歩兵第66連隊は捕虜1657人を殺害。これらはすべて日本側の記録だ。南京北方の幕府山では山田支隊(歩兵第65連隊、約4千人)が捕虜約14000名を殺害したことを、山田少将が「この“処置”は上部組織からの命令であった」と記している。
数字が出ている公式記録だけで2万5千人以上。僕の感覚では2万5千人は大虐殺だ。中国が主張する30万人じゃなくても。

【幕府山事件は自衛のため?】
南京陥落翌日の12月14日、第13師団山田支隊の歩兵65連隊は揚子江岸に進軍、幕府山付近で約1万4000人の捕虜を捕らえた。“仕方なく殺した”説は次の通り。「捕虜のうち婦女子など非戦闘員約6000人を釈放し8000人を収容したが、火事騒ぎなどで当日夜に半数が逃亡、捕虜は約4000名に減った。食糧不足など大量の捕虜の処遇に苦慮した結果、17日夜に揚子江岸で釈放することにしたが、目的地に近づくと捕虜が暴動を起こしたため、自衛のため1000名を殺害、その際に日本兵7名が戦死した」、というもの。
この“自衛発砲説”の証言は連隊長や大隊長など虐殺責任が問われる指揮官クラスが後世にしたものであり、事件現場の一兵卒は誰1人として「釈放目的で河岸に集めた」と日記に書いていない。しかも「自衛説」は12月17日のことにしか触れておらず、翌日以降の大量処刑について一言も語っていない。反対に“1万人を超える捕虜大量処刑”を記した当日の従軍日誌は複数見つかっている。
※そもそも「自衛説」が載っている防衛研修所戦史室(現・防衛省防衛研究所戦史部)編の『戦史叢(そう)書・支那事変陸軍作戦1』(朝雲新聞社)は、出版されたのが戦後30年も経った1975年であり、判明している誤記は7000箇所以上。執筆者が旧軍関係者という身内による作成であり、その多くが当時参謀職であったため、「勝利をたたえ戦功を誇る」書き方が目立ち、住民を巻き込んだ戦闘などマイナス面の言及が欠けていることが指摘されている。

南京攻略に参加した日本軍は上記の部隊だけではなく、7師団約20万人の大軍団。各兵士が銃剣や銃弾を持っており、相当数の市民が巻き添えになったことは想像に難くない。城内で兵による婦女暴行や略奪が起きていると報告を受けた中支那方面軍司令官・松井石根大将の日記「日本軍の中にも不心得者もいる」。
※日本軍の名誉のために書いておくと、捕虜を殺害せず、武装解除したうえで釈放した部隊もある。第6師団歩兵第45連隊は5500人を、国崎支隊の歩兵第41連隊は2350人を解放している。

こうした状況に、難民区を運営していた南京安全区国際委員会(外国人商社員や宣教師等からなる)は、日本大使館へ360余件の強姦に関する非難報告を送り、参謀総長が軍紀風紀に関する異例の要望を発し、松井司令官が軍紀引き締めの訓示をしたことから、婦女に対する暴虐ぶりが垣間見える。また、安全区国際委員会は捕虜を国際法に従い人道的に扱うように求めた。日本は捕虜の扱いを定めた「ハーグ陸戦法規」を批准している。同法規では、兵器を捨て自衛の手段が尽きて降伏を請う敵を殺傷することは特に禁じられていた。陸軍省が現地軍の参謀長に出した通達は「日中両国は国際法上の戦争状態に入っていないため、陸戦法規の適用は不要。俘虜という名称も国際法上の戦争と見なされる恐れがあるため極力使用を避けるべし」であった。
南京駐在ドイツ外交官ゲオルク・ローゼンは30通に及ぶ報告書をドイツ本国に送った。「私は日曜日、日本軍の犯行現場と4人の犠牲者を見た。日本兵が一人の老人を銃で撃った。老人の家族や知人が彼を救おうとしたところ、日本兵はその4人全員を射殺した。日本がアジアに光明をもたらそうとするなら、まず日本は自らが持つすべての暗闇に光を当て、そこをしっかり検証しなければならない」「米国人宣教師ジョン・マギーが撮影したフィルムを(ヒトラー)総統閣下に見て頂きたい」。
※このフィルムは米国立公文書館に現存し、マギーの解説が付いている。「何千人もの民間人がロープで縛られ、川岸や池の縁、空き地に連行され、機関銃や銃剣、ライフル、手榴弾で殺された。2人の日本兵が(フィルムの)この女性の頭を斬り落とそうとし、脊椎まで首の筋肉を切断した」。南京陥落半年後に発行された写真誌『ライフ』1938年5月号でマギーのフィルムが紹介され、多くの米国市民が日本に対する批判を強めていった。そして米国の大都市を中心に日本製品の不買運動が広がり、1939年、米政府は日本との貿易を制限する政策を採り始める。

12/17、南京入城式。首都の陥落で日本国内は戦勝ムードに沸き返っていた。だが蒋介石は首都を漢口(武漢)に遷都し、漢口が陥落すると今度は重慶(四川省)に遷都させ、徹底抗戦の決意を新たにする。戦争は終わらず、戦線は南京から徐州へと拡大し、戦いが長期化していく。

12/18、歩兵65連隊第七中隊・大寺隆上等兵の陣中日記「昨夜まで殺した捕リョは約二万、揚子江に二箇所に山のように重なっているそうだ。七時だが片付け隊は帰ってこない」(十二月十八日)
※同上等兵の前日の日記には「時々(敵の)小銃弾が頭の上をかすめて行く」とあり、陥落4日後でもゲリラが出没する緊迫した状況であったと見られる。気持ちに余裕はなかった。

なぜこの虐殺が起きたのか情報を整理。
(1)数万人も捕虜をとることは物理的に不可能であったため、軍上層部から捕虜を作らない方針が下っていた。捕虜を“処分”しなければ命令違反になった(この理由が一番大きい)
(2)上海から南京に至る過程で、多くの兵士は仲間・親友を失っており敵への憎悪・復讐心が頂点に達していた
(3)中国人に対する根深い差別意識。“チャンコロ”と呼んで人間扱いしていない
(4)日本人は捕虜となることを恥じとし、同じ日本人であっても捕虜になったものを軽蔑した。まして敵軍の捕虜であれば侮蔑は凄まじいものとなった
(5)物資は現地補給方式(要するに略奪)であったため、必然的に地元農民と衝突するケースが増える
(6)12月17日に皇室参加の入城式があるのでそれまでに全ゲリラを捕らえる必要があった

※芥川賞作家の石川達三は中央公論会の特派員として、南京陥落の約20日後(1月5日)に入城し、むごたらしい有様を見て”日本人はもつと反省しなければならぬ”と痛感、小説『生きている兵隊』を発表した。結果、内容が「反軍的」として掲載された「中央公論」三月号は発禁、石川は「新聞紙法」違反で起訴され禁錮四ヵ月、執行猶予三年の判決を受けた。
昭和21年(1946)5月9日付の「読売新聞~裁かれる残虐『南京事件』」に石川の証言が載っている。
→女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、入城式におくれて正月私(石川達三)が南京へ着いたとき街上は屍累々大変なものだつた、大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた。また武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使ふのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で片ツぱしから殺害した。
戦争中の興奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合はいくら何でも無茶だと思つた、三重県からきた片山某といふ従軍僧は読経なんかそツちのけで殺人をしてあるいた、左手に数珠をかけ右手にシヤベルを持つて民衆にとびこみ、にげまどふ武器なき支那兵をたゝき殺して歩いた、その数は20名を下らない、彼の良心はそのことで少しも痛まず部隊長や師団長のところで自慢話してゐた、支那へさへ行けば簡単に人も殺せるし女も勝手にできるといふ考へが日本人全体の中に永年培はれてきたのではあるまいか。
(略)南京の大量殺害といふのは実にむごたらしいものだつた、私たちの同胞によつてこのことが行はれたことをよく反省し、その根絶のためにこんどの裁判を意義あらしめたいと思ふ。
…このように戦後一貫して南京の残虐行為を証言してきた石川だが、没後に虐殺否定派の評論家・阿羅健一は「南京での暴行は無かった」という手紙を石川氏から貰ったという、にわかには信じ難いことを言っている。真に石川の手紙か筆跡鑑定のため公開して欲しい。

※「日本軍は中国の卑怯なゲリラ戦法に手を焼いた。民間人に紛れているので仕方なく怪しい者を殺したわけで、無差別虐殺ではない」。侵略された側が抵抗するためゲリラになるのは昔からある常套手段。先の日中戦争において仮に中国軍が日本へ上陸してきて、市民に紛れてゲリラ攻撃していたのであれば大問題だけど、戦場は中国であり人々は生まれ育った土地を外敵から守っているだけだ。中国を侵略している大前提を無視して“ゲリラは卑怯”と虐殺を正当化するのはいかがなものか。捕虜ならば師団以上に設置された軍法会議、捕虜でないならば軍以上に設置された軍律会議の判決により処断すべきものであり、無抵抗で丸腰の人間を裁判なしで殺すのは文明国の所業ではない。



【南京事件まとめ】
南京占領軍への当初の命令は「青壮年はすべて敗残兵、又は便衣隊(ゲリラ)と見なし、すべてこれを逮捕監禁すべし」。つまり、老人と子ども以外の中国人男子は全員逮捕監禁せよという厳命。だが、食料もなく10万の捕虜を収容する施設もない。やがて命令は「捕虜を処分(処刑)、殲滅(せんめつ)せよ」に変わった。
ネットでは「日本軍は規律正しく南京事件などなかった」とする人も少なくない。僕も中国側の主張する被害者30万人は多すぎると思う。でも、“何もなかった”というのはあり得ない。否定派の疑問に答えるとすれば、
(1)死体はどこへ?→揚子江に流したという証言を、日本側、中国側、居留外国人が残している
(2)南京の人口20万人が陥落翌月に約25万人と5万人増えたから虐殺は無かった→20万人という数字は南京の人口ではなく、南京の中の国際安全区の人口。むしろ安全区の人口増加(避難民流入)は、区外での苛烈な残虐行為を示すものになっている
(3)20万都市で30万殺害は無理→“南京”の範囲が日中で違う。中国側はかなり郊外まで含めた南京一帯、日本側は城内だけを南京と見ている
(4)そんなに殺す事は不可能→1994年、ルワンダ100万人虐殺は3ヶ月の間にナタやナイフだけで行なわれた。まして日本軍は重火器で武装している(南京掃討作戦も同じ3ヶ月間)
(5)日支事変は国際法上の“戦争”ではないため『ハーグ陸戦協定』(捕虜殺害禁止)は当てはまらない。→ならば平時の殺人であり戦犯以前に殺人罪。
(6)難民の中に逃げ込んだ兵士は便衣兵ゲリラであり公式の捕虜ではなく『ハーグ陸戦協定』は当てはまらない。→“捕虜”でないのなら単なる非武装の「民間人」殺害であり、こちらも戦犯以前に殺人罪。そもそも、ハーグ条約に「便衣兵は捕虜資格がないため殺しても良い」という条項は存在しない。
(7)虐殺証言で登場する元日本兵は中国共産党に洗脳された中国帰国者(中帰連)。→南京戦に投入された歩兵第66連隊は捕虜にならず帰国しており、中国共産党は無関係。
(8)揚子江岸辺で捕虜が暴動を起こしたため、仕方なく銃殺した。→
(9)虐殺を見ていない海外ジャーナリストがいる。→虐殺現場は街から4キロも離れた揚子江の川岸。中心街で数万人を殺害したのではない。
(10)南京入りした後発補充部隊は「虐殺はなかったと聞いている」と証言している。→「なかった」と証言する元兵士は全員が事件後に南京市入りしている。しかも伝聞の証言であり説得力なし。何より、軍の公式記録である第66連隊の部隊記録に捕虜殺害の数が記録されており、その数は加害兵士の陣中日記や証言と一致している。
(11)米軍だって日本兵捕虜を殺害しており、どっちもどっち。→南京大虐殺と米軍による日本兵捕虜虐殺を並べるのは非論理的。中国人にとって無関係。また、米兵による捕虜殺害がある一方で、今日ガダルカナル、ペリリュー島、サイパン、テニアン、硫黄島などの激戦地で生き残った人たちが証言できるのは、捕虜として手厚く扱われたから。

その他、あらゆる南京事件否定派の意見は、リンク先の『南京事件FAQ』でクリアーに回答されているので、否定派の方はそちらを参照されたし。読む時間がない人は「南京事件 初歩の初歩」がオススメ。最低限でもこの初歩の知識を日本人として持っておきたい。
下記リンクの一般兵士の証言は衝撃的なものばかり。出典は証言者が匿名だったり一部の誤植から「捏造本」と批判されているけど、それに対してさらに反論しているサイトもあるし、何から何まで全部嘘とは思えない。70年以上前の記録の一部が間違っていたからといって、それを理由に全否定するのは無理がある。
歩兵65連隊兵士の日記
独立工兵第1連隊兵士の手紙
第6師団兵士の日記
これらは日本兵の当時の陣中日誌や手紙。後世に回想されたものではなく、南京の現場で記録した一次資料。ここに書かれた死者の数だけでも相当なもの。

〔まとめ〕南京では山田支隊1500人に対して15000人の捕虜が発生し幕府山事件が起きたように、各部隊とも自軍の10倍近くの捕虜を得て、その処理に困って殺害に至った。本来、捕虜ならば軍法会議、捕虜以外は軍律会議の判決で処断せねばならない。便衣兵が「ハーグ陸戦協定違反」であろうとなかろうと関係なく、丸腰の人間を裁判抜きで殺害するのは戦争犯罪。“南京事件否定派”の意見は国際社会で通用しない。

〔南京事件に関する第一級映像資料〕
●「日本軍の記録に残る南京大虐殺(軍命令により実施)」
http://youtu.be/20HWTlXY-Wc (7分)
●「南京大虐殺は100%あった 『兵士たちの記録 陣中日記』」
http://youtu.be/jt-9XweXSMY (32分)
●「南京大虐殺の証拠~当時の記録映像と生存者の確実な証言」
http://youtu.be/uyVeMusrS-k (32分)


他にも秀作ドキュメンタリーが多数ネットで見られる。右派は「証言者の帰還兵は中国に洗脳されている」と発言を頭から否定しているが、だったら部隊名も事件の場所も証言者も分かっているんだから、真実か嘘か自分で調査すればいい。それをすることなく、老兵達を嘘つき呼ばわりするのはどうなのか。
「中国帰還者たちの60年」(10分)
「戦犯たちの告白ー撫順・太原戦犯管理所1062人の手記」(45分)
「日本人中国抑留の記録」(45分)
「兵士たちが語ったこと」(52分)

※これは良記事。→『“men of military age”(兵役の年齢の男)を「便衣兵」と訳す秦郁彦氏に、朝日を批判する資格なんかないと思う』。南京事件の犠牲者数を低く見積もる日本の保守系学者のデマを、理性的に批判。



★外務省の公式見解
Q.「南京大虐殺」に対して、日本政府はどのように考えていますか。

(1)日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、多くの非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。
(2)しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。
(3)日本は、過去の一時期、植民地支配と侵略により、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことを率直に認識し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みつつ、戦争を二度と繰り返さず、平和国家としての道を歩んでいく決意です。


●1938.1 第1次近衛声明…南京陥落の1ヶ月後、ドイツに頼った和平工作が難航したことから、近衛文麿内閣は「今後、国民政府を相手とせず」と声明を発表。自ら国民政府とのチャンネルを閉ざし強硬路線を続ける。

●1938.5.5 国家総動員法施行…日中戦争の長期化にそなえて、軍需動員など強力な統制をはかるため立法。議会の承認をはぶいて勅令(ちょくれい、天皇の命令)だけで運用する前例のない法律であり、立法権を無視された議会は反発したが、政府は陸軍の圧力を背景に制定を強行した。総動員法の施行後は「国民徴用令」「新聞紙等掲載制限令」「価格等統制令」「生活必需物資統制令」「国民職業能力申告令」など多数の統制令がつくられ、法案の拡大解釈により思想統制、滅私奉公の肉体労働の強制、集会・大衆運動の制限など、国民生活は軍事一色になっていく。
※昭和天皇は板垣陸相と参謀総長・閑院宮(かんいんのみや)を宮中に呼びつけ「この戦争は一時も早くやめなくちゃあならんと思う」(7/4)。

●1938.7.11 張鼓峰(ちょうこほう)事件…満州・朝鮮・ソ連国境の交叉点“張鼓峰”にソ連が陣地を構築し始めたことから、日本軍がこれを攻撃し占領した。衝突10日後、陸相・板垣征四郎がさらなる武力行使の許可を天皇に上奏したところ、天皇は声を荒げて却下した。「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条湖の場合といい、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いる様なこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う」「今後は朕の命令なくして一兵でも動かすことはならん」(7/21)。ところが、現地の第19師団(師団長・尾高亀蔵/板垣陸相の同期)が「近隣にソ連兵が進出した」と独断で攻撃を開始し一帯を占領。2日後にソ連軍の大反撃を受けて壊滅寸前に追い込まれた。8/10停戦。命令違反に対する天皇の処罰は甘く、「もう積極攻撃をしないように」という注意にとどまった。
※関東軍にとって、この天皇の命令の軽さは何なんだ!?何度目の命令違反なのか、もう分からない。天皇をなめきっているとしか思えない。国民に対しては「天皇は現人神(あらひとがみ)」と畏怖させる一方で、出先の軍は平気で命令を破る。日本軍は上官の命令に逆らえば銃殺なのに、どうして師団長なら大元帥(最高司令官)天皇の命令に背いても許されるのか。


〔1938.9.14 川柳作家・鶴 彬(つる あきら)の死〕
少年期から新聞に俳句や短歌を投稿。1930年(21歳)、徴兵され金沢の第九師団歩兵第7連隊に入隊するも、陸軍記念日の態度が問題となり営倉に放り込まれる。翌年、満州事変。部隊内で反戦平和を語り“七連隊赤化事件”の主犯と判断され、治安維持法違反により1年8か月の間収監される。1937年(28歳)、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発。張り込みの特高警察に逮捕され、再び治安維持法違反に問われる。中野区の野方署に留置され、逮捕から9ヶ月後に同署で赤痢に感染し病死した。享年29歳。鶴彬はベッドに手錠で繋がれたまま絶命したらしく、憲兵によって毒(赤痢菌)を盛られたという説もある。
特筆したいのは1937年の時点で鶴彬が「葬列めいた花婿花嫁の列へ手をあげるヒットラー」「ユダヤの血を絶てば狂犬の血が残るばかり」と、第二次世界大戦開戦より2年も前に、ナチスの狂気を見抜いていること。アウシュビッツが作られるのはこの3年後だ。日本において、そういう人が市民にいたこと(外交官ではなく)、海外の情報が届いていたことに驚く。知る努力をすれば知り得たんだ。過去の戦争が語られる時、「政府にだまされた」「あの頃は何も知らなかった」という言葉をよく耳にする。実際、検閲など情報統制があったし、それも真実だろう。しかし、多喜二や鶴彬、幸徳秋水、ドイツ人でありながら反ナチ運動をして処刑された学生ゾフィー・ショル、彼らのことを思うと、「当時は仕方なかった」の一言で片付けてしまっていいのかと考えてしまう。
※鶴彬の本名“喜多 一二”は、特高警察の拷問で殺された6歳年上の作家・小林多喜二と、偶然にもよく似ている。両者は名前が似通っているばかりではなく、思想犯として数回逮捕され、拘留中に死んだ年齢が29歳というのも同じだ。びっくり。
【鶴彬の川柳10選】
・俺達の血にいろどった世界地図
・稼ぎ手を殺し勲章でだますなり
・殴られる鞭(むち)を軍馬は背負わされ
・ざん壕で読む 妹を売る手紙
・屍のいないニュース映画で勇ましい
・手と足をもいだ丸太にしてかえし
・万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た
・銃剣で奪った美田の移民村
・奪われた田をとりかえしに来て射殺され
・胎内の動き知るころ骨がつき(※遺句。赤ん坊の胎動を感じ始めた頃に夫の遺骨が届いたというもの)


●1938.11 東亜新秩序声明/第2次近衛声明…武漢陥落後、短期決戦が不可能と悟った近衛内閣は、国民政府との和平交渉の可能性を求めて対中政策を転換。「日本の戦争目的は日・満・支3国提携により東アジアに新秩序を建設すること」「東アジアから欧米勢力を駆逐する」と声明。「東亜新秩序の建設」は、後に「大東亜共栄圏」構想に発展していく。
※満州事変の前から東亜新秩序を言ってればもっと説得力があるけど…このタイミングで言っても…。あと、南京陥落後でも多くの日本国民は中国と戦争をしていると思ってなかった。戦力差が大人と子どもほどあると思っていたので、“懲らしめる”という感覚。アメリカが9.11後にアフガンやイラクに行った制裁感覚と似ている。

●1938.12.2 毒ガス戦/大陸指第345号発令…この頃、日本軍は中国で頻繁に毒ガスを使用していた。極秘にするため、“大陸指第345号”には「つとめて煙に混用し厳にガス使用の事実を秘し、その痕跡を残さざる如く注意すべし」とある。日本が毒ガスの生産を開始したのは1929年。広島県大久野島の陸軍施設で、皮膚に猛烈な炎症を起こすイペリット(マスタード・ガス)が製造された。翌年にはさっそく台湾で抗日蜂起をした原住民に“みどり弾”(塩化アセトフェノン)を使用。1937年から中国戦線で本格的に実戦投入を開始する。1939年になると大っぴらに使用するようになった。致死性の化学兵器でなくても、前線で中国軍に使用すると、戦闘中止ないし退却させることができ、容易に前進できるし苦戦から脱することが可能だった。防衛省が保管する資料によると、1937年から7年間に中国戦線で使われた化学兵器の量は次の通り。
あか弾(嘔吐、くしゃみ剤)2万発、あか筒12万8千本、みどり筒(催涙剤)2万3千本、みどり手投げ弾5発、きい弾(イペリット)2千発、投下きい弾78発、きい剤630kg。GHQ検察局の調査では使用回数1312件、中国軍の死傷者数36968人(うち死者2086人)。
日本軍による化学兵器の使用にブレーキがかかるのは、1943年6月にルーズベルト大統領が「同じ方法で報復する」と警告してから。この声明以降、大久野島での化学兵器生産は激減する。終戦時に日本軍が中国に残してきた化学兵器=“戦争廃棄物”は約70万発と見積もられている。
※日本軍は1941年12月のマレーシア・コタバル上陸戦で「チビ」と呼ばれる青酸液入りガラス玉をトーチカ攻撃に使用し、1944年にもモドブン高地で英軍戦車に歩兵第60連隊が「チビ」をぶつけて青酸ガスを発生させ、これを仕留めている。

●1938.12.26-1941.9 重慶爆撃…新首都となった重慶への大規模な戦略爆撃。航空部隊は軍事施設を目標に爆撃したが、視界不良、爆撃精度などの関係で、結果的に無差別爆撃になってしまった。特に1939年5月4日に27機が行った空襲では、死傷者5291人(うち死者1973人)を出し、前年4月にドイツ空軍が実施した、スペイン・ゲルニカへの世界最初の無差別爆撃の死者1654人を上回った。全期間(約5年間)を通じた重慶爆撃の中国側被害は死者11800人、家屋損壊17600棟。
※重慶爆撃に関して日本軍関係者で戦犯として訴追された者はいない。重慶爆撃を戦争犯罪として取り上げれば、それをはるかに上回る日本本土空襲や原爆投下が問題になるからだ。

●1939 日中泥沼化…日中戦争が始まって2年が経つと、大陸の派遣軍は当初の20万人から5倍の100万人に増加していた。組織の拡大に従って、元々は関東軍、台湾軍、朝鮮軍の3軍だったのが、現地に11の軍(北京、南京、済南、上海、武漢、張家口、太原など)を新たに組織し、20を越す司令官や参謀長クラスのポストが新設され、大臣経験者など大物軍人の栄転先となった。陸軍は組織全体の利益よりも、今自分が所属するセクションの利益を重視する巨大組織になっていった。
組織の肥大化で戦費は逼迫し、侵略戦争と非難するアメリカからの撤退要求もあり、軍務局長に就任した陸軍中将・武藤章(あきら)は危機感から派遣軍の縮小を検討し始める。交渉の矢面に立ったのが軍務局予算班・西浦進。軍備の近代化と引き換えに、段階的に現地軍の縮小を求めた。これに対し、支那派遣軍の司令官から一斉に反発の声が上がる。支那派遣軍総参謀長・板垣征四郎は帰国して縮小どころか増派を訴えた。日米通商航海条約が風前の灯に。

●1939.5.12 ノモンハン事件…満州国は西隣のモンゴルと国境問題を抱えていた。5/12、モンゴル軍が日本側の主張する国境線(ハルハ川)を越えたために満州国軍がこれを攻撃。満州国軍に日本軍第23師団が加わり、モンゴル軍にソ連軍が加わったため、日ソ両軍の戦闘となった。8/20、ソ連軍機械化部隊の総攻撃を受けて第23師団は壊滅し、戦死傷者は約1万数千名にも達した。翌月、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発。ソ連は欧州問題に集中する為これ以上の戦闘を望まず、両軍は9/15に停戦協定に調印。
※ノモンハン事件を聞いた昭和天皇「満州事変の時も陸軍は事変不拡大といいながら、かのごとき大事件となりたり」。

●1939.7.26 米が日米通商航海条約破棄…日本が中国で戦線を華南まで拡大して英米の権益を侵害し、さらに天津の英仏租界を抗日運動の拠点とみなして封鎖した為、怒ったアメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告した。

●1940.3 南京新政府樹立…親日派の汪兆銘に日本の傀儡政権を作らせる。

●1940.5 宣昌(ぎしょう)作戦…一撃を加えて和平に持ち込むことを目的に、支那派遣軍の総攻撃「宣昌作戦」開始。これによって、それまで政治に関心がなかった中国の若者が、次々と抗日に立ち上がりさらに泥沼。攻撃すればするほど中国のナショナリズムが盛り上がり和平交渉は頓挫する。国際社会の非難もどんどん吹き上がった。

●1940.7.19 荻窪会談…近衛文麿(後の首相)、松岡洋右(後の外相)、東條英機(後の陸軍大臣)、吉田善吾(後の海軍大臣)が行なった荻窪会談で、前月にフランスを征服したドイツのヨーロッパ戦勝に呼応して、「南方植民地を東亜新秩序(松岡曰く“大東亜共栄圏”)に組み込む積極的処理を行なう」とした。日独伊三国同盟に難色を示した吉田海相は“病気辞任”に追い込まれる。
※昭和天皇は軍部がしきりに“指導的地位”という言葉を掲げてアジアに進出しようとすることを批判。「指導的地位はこちらから押し付けても出来るものではない、他の国々が日本を指導者と仰ぐようになって初めて出来るのである」。

●1940.9.1 燼滅(じんめつ)作戦/三光作戦…燼滅作戦は八路軍(共産軍)を補給も休息も出来ぬように巨大な無人地帯を作る作戦。エリア内のすべての村を破壊した。その非情な内容から、中国語で「三光(さっこう)」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす)と恐れられる。9/1から開始した北支那方面軍第1軍の「晋中作戦」が最初の燼滅作戦となる。日本軍は“三光”という用語を使用したことがないため、「中国軍がやったことを日本軍に押しつけたもの」と一部の保守論客が主張しているが、1940年に内容が“三光”そのものの日本軍の作戦指令が実際に出ている。

《北支那方面軍司令部が発令した「第一期晋中作戦復行実施要領~燼滅目標及方法」》

1. 敵及び土民を仮装する敵…殺戮
2. 敵性ありと認むる住民中、16歳以上60歳までの男子…殺戮※敵国住民は普通敵性があるもの
3. 敵の隠匿する武器弾薬器具、爆薬等…押収携行できない場合は焼却
4. 敵の集積せりと認むる糧秣(りょうまつ、兵員用の食料)…同上
5. 敵の使用する文書…同上
6. 敵性部落…焼却
はっきりと「怪しげな男性はすべて殺し尽くせ」と上級司令部が命令として出している。敵国の住民は全員が潜在的には“敵性ありと認むる住民”であり、どの村も“敵性部落”の可能性を持っている。天津地域の第27師団は万里の長城に沿って、南側に幅4km、長さ約100kmの無住地帯を設定し、地域内の住民約10万人を強制移住させ、1万数千戸を焼き払って無人の大地とした。第27師団の歩兵団長鈴木啓久少将いわく「武力を用いて立ち退きを強制したが、この処置は特に住民怨嗟の的となり、三光政策だとして八路軍の宣伝に利用された」。もし三光作戦が八路軍の仕業であれば、民衆は八路軍ではなく日本軍を支持していたはずだ。

●1940.9.23 北部仏印(ベトナム)進駐…日本は「中国がずっと徹底抗戦しているのは、欧米諸国が支援しているから」と判断。日本軍は欧米から中国への補給ルートを断つため仏領インドシナ(ベトナム)北部に進駐した。

●1940.9.27 日独伊三国同盟締結…第二次大戦中の枢軸国であった日本・ドイツ・イタリア3国が締結した軍事同盟(近衛文麿内閣が締結)。ドイツと結んでアジアのヨーロッパ植民地に進出していこうとする方針。当時ヨーロッパで英国が戦っていた独と手を結んだことで、英米との関係が決定的に悪化し、太平洋戦争の要因となった。
※近衛首相や松岡外相が三国同盟にこだわったのは、ドイツとソ連が不可侵条約を結んでいる→三国同盟を通してソ連と関係が近くなれば、アメリカの対日開戦を抑制できると考えたから。結果的には米国の不信感を増大させ真逆の展開になったけれど。
※小林よしのり『戦争論』は、欧米白人列強の人種差別主義を批判しているれども、軍事同盟を結んだドイツこそ最悪の人種差別主義国家。人種差別に反対するならドイツと真っ先に手を切らねばならぬはず。戦争の大義に関わるすごく重要なとこなのに、保守論客はみんなここをスルーしている。

〔昭和天皇はずっと日独伊三国同盟に反対していた〕
締結の際の詔書(しょうしょ)には「日本とその意図を同じくする独伊と提携協力し、ここに三国間における条約の成立を見たるは、朕の深く喜ぶ所なり」と述べているが、これは全く天皇の本音ではない。ドイツと同盟すれば英米と対立することを懸念していることが成立前後の言葉からよく分かる。
・陸軍の意を受けて日独伊三国同盟を結ぼうと暗躍していた大島駐独大使と白鳥駐伊大使が、独伊に対して勝手に“独伊が第三国と戦う場合は日本も参戦する”と伝えていた。天皇は板垣陸相を激しく叱責。「出先の両大使がなんら自分と関係なく参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか」(『西園寺公と政局』)
・「参戦は絶対に不同意なり」「(中立の)米国が英に加われば、経済断交を受け、物動計画、拡充計画、したがって対ソ戦備も不可能なり」(『侍従武官長日記』)
・前年に海軍の三国同盟批判をうけて交渉がいったん打ち切りになった際「海軍がよくやってくれたおかげで、日本の国は救われた」(『岡田啓介回顧録』)
・「独伊のごとき国家とそのような緊密な同盟を結ばねばならぬようなことで、この国の前途はどうなるか、私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる」(『天皇秘録』)
・「この条約(三国同盟)は、非常に重大な条約で、このためアメリカは日本に対してすぐにも石油やくず鉄の輸出を停止するだろう。そうなったら、日本の自立はどうなるのか。こののち長年月にわたって大変な苦境と暗黒のうちにおかれることになるかもしれない。その覚悟がおまえ(近衛首相)にあるか」(『岡田啓介回顧録』)
天皇はファシズムの独伊に好感を持っておらず、民主主義の英米、特に英国に親しい感情を持っており、半月前に大英博物館がドイツのロンドン空襲で爆撃にさらされることを知った天皇は「なんとか独英両国に申し入る方法はないか」と側近・木戸幸一(木戸孝允の孫)に語っている。

●1940.10.12 大政翼賛会結成…第2次近衛文麿内閣は国民の効率的な戦争動員を目的に国民統合組織・大政翼賛会を結成。全政党が解党して同会に加わったことから、日本政治史上初めての無政党時代となった。“翼賛”とは時の権力者に協力するという意味。近衛が翼賛会の発足を天皇に報告した際、天皇は「これではまるで昔の幕府ができるようなものではないか」と批判した。


【1941年 ここから先の対米開戦は“日本とアメリカ編”に詳しく掲載】

●1941.7.2 御前会議…南方進出の為に「対英米戦を辞せず」と決定し、それに基づいて南部仏印(南ベトナム・カンボジア)に進駐し、そのために米国から石油を止められる。石油を止められたなら早く開戦した方が有利という早期開戦論が台頭。つまり、自衛の為と言うより、日中戦争に行き詰まった日本はドイツと連携して武力南進政策をとろうとし、その南進が米国の経済制裁を引き出したわけで、日本は「ABCD包囲陣を打ち破るためギリギリの選択をした」という見方は間違っている。
※三国同盟に消極的だった米内光政内閣が陸軍に倒され近衛内閣が発足。

●1941.7.28 南部仏印(ベトナム)進駐…仏印進駐に怒ったルーズベルトは、米国内の日本の資産を凍結し、石油の輸出を全面禁止にした。この対応に日本軍部はショックを受ける。石油の備蓄は2年分。石油が切れる前に戦争をすべきと考え、御前会議で「短期決戦なら勝算はある」と訴えた。
海軍省軍務局中佐・柴勝男「アメリカは欧州の戦争に関心が向いているから、東洋方面で自ら日本と事を構えることはしないだろうと。まさかそこまでは来んだろうと考えていた」。
参謀本部前作戦課長・土居昭夫「南部仏印の進駐が大東亜戦争のきっかけになると考えなかった。経済やアメリカの決意など情勢判断をできなくて進駐をやった」。
企画院総裁・鈴木貞一「あの禁輸の瞬間に戦になっていた」。

●1941.9 近衛文麿首相は米国に首脳会談の開催を訴えるなど、外交での解決を模索していた。だが、外交交渉に行き詰まり、翌10月に近衛内閣は総辞職。対米強硬派の東條英機陸軍大臣が首相になった。11月の御前会議で開戦の決意が固まる。

★1941.11.20 南方占領地行政実施要領…開戦前に大本営政府連絡会議決定が決めた占領方針。“アジアを独立させる”どころか、独立運動を封じる必要性に触れている。
南方占領地行政実施要領
第1 方針
占領地に対しては差し当たり軍政を実施し治安の回復(独立運動の弾圧)、重要国防資源の急速獲得及び作戦軍の自活確保に資す。
第2 要領
7.国防資源取得と占領軍の現地自活の為、民政に及ばささるを得ざる重圧はこれを忍ばしめ、宣撫(せんぶ、民族解放の宣伝)上の要求は右目的に反せざる限度に止むるものとす。(=資源取得と占領軍の食糧確保によって地元民にかかる重圧はこれを耐えさせ、民族解放の宣伝はこうした行動と矛盾しない程度に抑えておくように)
8.原住民に対しては皇軍に対する信頼感を助長せしむる如く指導し、その独立運動は過早(かそう)に誘発せしむることを避けるものとす。※当面独立運動は抑えておけということ。

●1941.12.8 日米開戦…日本は盧溝橋に始まった支那事変から対米戦争へと突き進んでいった。中国は一撃で倒せるという誤った見通し、軍の暴走を止めることが出来なかった国のシステム、戦線はアジア各地から太平洋へと拡大し、国民は次々と戦場へ動員された。戦争の大義が後付けの論理で二転三転し、軍も政府も戦争を収束できなかった。開戦時の日米国力差は、次のように米国が日本を圧倒している。
国民総生産12倍、鋼材17倍、自動車数160倍、石油721倍。
冷静に考えて勝ち目はないのに、軍首脳部は「日露戦争では1対10の国力差で勝てたではないか」という言葉で現実逃避し、真珠湾を奇襲した。

〔石橋湛山、魂の咆哮「日本は全ての植民地を一切捨てる覚悟をせよ」〕
「日本は生き残る為に戦争するしかなかった」いう意見がある。これについては戦争に反対していた反骨のジャーナリスト(後に首相)、石橋湛山(たんざん)のことを語りたい。第1次世界大戦が欧州で勃発すると、日本は欧米列強に対抗する為に、この混乱に便乗して大陸に勢力を広げようとした。世論も「これで一等国の仲間入りだ」と熱狂。でも石橋湛山は違った。湛山は“大日本主義の幻想”という題で「全ての植民地を一切捨てる覚悟をせよ」と経済誌に書いた。理由はこうだ。当時の日本とアジアの貿易額は約9億円。一方、英米との貿易額は倍の約18億円。日本が英米と衝突すればこの18億が失われるので、平和的な貿易立国を目指すべきと説いた。これは軍部が思いもしなかった主張だった。しかし1931年に満州事変が起き、大陸への進出が加速していく。世界各国から非難を受けた日本は翌々年に国際連盟を脱退。1934年、湛山は英字経済誌を創刊し、これを欧米で発行して「日本政府の政策は決して国民の総意ではない」と世界に訴えた。
湛山は権力ににらまれ、1942年に同誌の記者や編集者が逮捕されて4人が拷問で獄死する。さらに紙やインクの配給も大幅に減らされた。だが、それでも湛山は絶対にペンを折らなかった。「良心に恥ずる事を書き、国の為にならぬ事を書かねばならぬくらいなら、雑誌をやめた方がよい」。次男が南方で戦死したと知らせを受けた湛山は日記にこう刻んだ「汝が死をば父が代わりて国の為に生かさん」。
日本は戦後にゼロ(焼け野原)からのスタートで、わずか約20年で世界第2位の経済大国に登り詰めた。資源がないのは戦前と同じ条件だ。あのまま開戦せずに平和的な貿易立国になっていれば、有能な人的資源も失われず、さらなる発展を経ていただろう。本来、生きるべき人が死ぬ必要もなかった。“しかたなかった”論で過去を総括していては、あまりに死者が救われない。

●1942.4 翼賛選挙実施…第21回衆議院選挙は“翼賛選挙”と呼ばれ、東条内閣は体制を堅固にするため初めて候補者推薦制を導入。「政府と戦争に協力する人物」を推薦し軍事費から多額の選挙資金を与えると共に、他の非推薦候補者は警察・憲兵から激しい選挙妨害を受けた。推薦候補者で当選したのは466名のうち381名、一方、非推薦候補者は85名が当選した。政府の露骨な選挙圧力にもかかわらず、非推薦者の得票数は約419万票(得票率35%)もあった。その後、東条内閣は翼賛会に大日本婦人会や“労資一体”を掲げた大日本産業報国会などの官製国民運動団体を組込み、さらに町内会まで末端組織とし、国民生活の隅々まで国家権力による統制を実現していく。
※翼賛選挙の結果(得票率)を見ると、国民の3人に1人が強引な東条内閣に否定的感情を持っていたことが分かる。戦時中は全国民が政府を無批判に支持したイメージがあるけど、選挙データは政府とは異なる考え方を持った国民が3分の1もいたことを示している。

●1942.11.27 強制連行開始…「華人労務者内地移入に関する件」が閣議決定され、以後強制連行が始まる。約4万人の中国人が日本に連行され、死者・行方不明者は8823人にのぼった。詳細は後述(花岡事件)。

★1943.5.31 大東亜政略指導大綱…天皇列席の御前会議で決定された政略方針。いわゆる「大東亜戦争は正義の戦争で日本に領土的野心はなかった」というのが完全にまやかしと分かる最重要史料。あのまま戦争を継続していたら以下のように帝国領土に編入されていた。これは日本の戦争を「アジア解放の為の聖戦だった」と言い張る保守論客が絶対に触れようとしない史実だ。

《大東亜政略指導大綱 6(イ)》
「マライ(現マレーシア・シンガポール)」「スマトラ(現インドネシア)」「ジャワ(同左)」「ボルネオ(同左)」「セレベス(同左)」は帝国領土と決定し、重要資源の供給地として極力これ開発並びに民心把握に努む。


現マレーシア、シンガポール、インドネシアという重要な資源地帯を「日本領」にすることを、御前会議まで開いて決定している。一方、ビルマとフィリピンについては領土併合せず独立を容認した。なぜか。ビルマを独立させるのは、インドに対する戦略的工作だ。隣国ビルマを独立させることで、インドの対英独立運動に火が付くことを期待したんだ。フィリピンは戦争前から米国が既に独立を約束していたので、“解放”という大義名分の為にもアメリカが約束したよりも早く独立させるしかなかった。
日本政府は台湾や朝鮮など古くからの植民地を“解放”しようなどとは一度も考えておらず、アジア独立の意思があったとは思えない。対米開戦に踏み切る前に政府が考えていたアジア政策は、占領地の住民を労働力として動員し、占領地で生産された食糧を日本軍が徴発するというもの。大本営はこのような南方軍政が占領地住民に“重圧”を及ぼすことを予想していたので、「(重圧は)これを忍ばしめ」(=耐えさせる)と打ち捨てている。そして「アジア解放」というバラ色の宣伝をやりすぎると現実とのギャップが大きくなるので、あまり宣伝しないよう開戦前から決めていた(『南方占領地行政実施要領』1941.11.20)。最前線の日本兵には心底からアジア独立の高い理想を信じて戦い抜いた者も少なくないが、大本営においてはこれが“聖戦”の実態だった。

●1944.9.7 拉孟(らもう)守備隊玉砕…中国・雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近の拉孟には、援蒋ルート(連合国から中国への物資支援ルート)を遮断するため、1942年5月から日本軍守備隊1280人(3ヶ月前まで2800人)が警備していた。守備隊は少人数ながら堅固な防衛陣地を築きあげる。1944年6月2日、中国軍の雲南遠征軍20万のうち4万8千人の大軍が拉孟を包囲攻撃開始。蒋介石の直系の雲南遠征軍は、米軍の支援を受け近代化した精鋭部隊だった。
7月中旬、(悪名高き)辻政信参謀が、拉孟守備隊の救援作戦を発令し援軍を9月上旬に送ると約束した。既に生存兵が500人を切ってい守備隊は大いに希望を持つ。だが、直前のインパール作戦の歴史的敗北で、日本軍は食糧も兵力も涸渇し救援不可能なのが実状で、辻参謀は最初から拉孟守備隊を見捨てる気だった。8月2日、守備隊本部陣地が陥落。9月6日、指揮官の金光少佐が戦死。翌7日、全陣地が陥落し守備隊は「援軍」を待ちながら全滅した。拉孟守備隊は補給路を断たれ、撤退命令も出ず、また救援部隊もないなか、拠点死守のみを命じられ、兵力差約40倍の敵を相手に100日間も戦い抜いた。捕虜はゼロ。太平洋の孤島で守備隊が玉砕したケースは多いけれど、大陸において玉砕したケースは少なく、後述する騰越守備隊と共にその最期が知られる。

●1944.9.13 騰越(とうえつ)守備隊玉砕…北ビルマ戦線の日本軍最前線、雲南省の城郭都市・騰越(現、騰衝)は拉孟から北東60キロの町。日本軍守備隊は2025人。6月27日に中国軍の雲南遠征軍約5万人が攻撃開始。中国軍は砲撃を加えながら騰越を完全に包囲し守備隊を孤立させる。7月27日、指揮官の蔵重康美大佐は守備隊を騰越城に後退させ、なおも徹底抗戦を続けて9月13日に玉砕した。 騰越守備隊は25倍の敵を相手に2ヶ月以上も死力を尽くし戦った。
●1945.6.30 花岡事件…戦時中、秋田県大館市の花岡鉱山は、日本政府から戦争遂行のため大規模な生産量を義務づけられていた。だが、朝鮮人や米国人捕虜を動員してもまだ労働力が足りなかった。花岡以外にも日本中がこういう状態であった為、約4万人の中国人が日本に強制連行され、135カ所の事業所で労働を強要された。このうち、死者・行方不明者は8823人にのぼった。
1944年8月から3回にわけて、鹿島組中山寮に連行されてきた中国人は986人。労働条件や生活環境はあまりに劣悪だったことから、第1次連行者295人のうち、事件発生までに113人が死亡していた(死亡率38.3%!)。近隣の東亜寮に収容されていた中国人連行者の死亡率3.7%と比較すれば、中山寮の過酷さは明らか。「このままではみんな殺されてしまう」、中国人はひとつの脱走計画を立てた。中山寮の現場監督たちを殺害し、鉱山周辺に収容されているすべての外国人を解放し、彼らと連携して脱出をはかるというもの。決行当日(終戦2ヶ月前)、日本人現場監督4人を殺害し、約800人の中国人たちが中山寮から逃亡した。しかし、疲労や空腹のため体が動かず、約600人の中国人が翌朝までに逮捕された。
花岡町の外まで逃げた約200人も、各地の警察署や在郷軍人団など2万人規模の捜索によって、6日以内に逮捕された。この捜索の過程で数十人の中国人が殺害され、広場に3日間座らせ晒し者にするなど、拘禁や拷問によって命を落とす者も多数出た。見せしめのため、6日間で100人以上の中国人が拷問のあと殺害された。事件後も中山寮での生活は変わらず、敗戦後でさえ177人の死者が出た。強制連行開始から、1945年10月にアメリカ占領軍が解放するまでに、全体の約半数、418人が死亡した。
花岡事件の中国人首謀者11人は戦時騒乱罪で起訴され1人が無期懲役、他は10年以下の懲役となった。後にアメリカ占領軍の指示で無罪となったものの、1948年3月まで軟禁状態だった。2000年11月、鹿島と被害者は補償基金など和解条項の合意に達し、鹿島は中国赤十字会に5億円を寄託。中国赤十字会は「花岡平和友好基金」として強制連行された犠牲者の追悼や被害者・遺族の自立支援などに役立てた。
※この事件は当時の中国人への差別意識を象徴する事件。ハッキリ言って人間扱いしていない。内地(国内)ですらこうした状況。戦地ではさらに中国人の命が軽かったことは容易に想像できる。山東省では日本軍が軍事作戦として“労工狩り”を行った。

●1945.8.14 葛根廟(かっこんびょう)事件…8/9、対日参戦した極東ソ連軍が一斉に満州へ侵攻。西部の国境を守備していた関東軍は、日本人居留民を見捨てて8/10に撤退する。8/11夜、西部の約1200人の居留民(若い男は根こそぎ招集され9割が女性・子ども)が、葛根廟駅を目指して着の身着のままで脱出を計るも、8/14の正午頃に上空からソ連機に発見され、葛根廟付近でソ連軍第39軍第12戦車隊のT35戦車14両に襲われた。避難民は白旗を掲げたが、戦車砲と機関銃によって約1000人もの日本人婦女子が虐殺された。東満州の麻山でも退避中の開拓民約400人がソ連軍戦車隊に攻撃され集団自決し、宝清県では約1500人が行方不明になり、“仁義仏立開拓団”600人も全滅した。終戦時の在満日本人は160万人。うち開拓民は27万人で、その中の7万8500人が死亡した。引き揚げ者の中には子どもの死を恐れて、中国人家族に子どもを委ねるケースも多かった(いわゆる残留孤児)。最終的に満州に渡った民間人の死者は約24万5千人に達した。
ソ連軍に武装解除された関東軍は、各地の収容所へ入れられた後、1946年夏までに健康状態の良い者50万人以上が労働力としてシベリアに抑留された。

●1945.8.15 終戦…日本人の死者は310万人、アジアの人々の死者は1700万人以上(中国1千万、インドネシア400万、ベトナム200万、フィリピン110万、朝鮮半島20万、ミャンマー15万、シンガポール10万、タイ8万。05年8月7日・東京新聞調べ)。
外地からの民間人の引き揚げ者数は、満州が約130万人、北朝鮮が約32万人、南朝鮮が約60万人、千島・サハリンが約29万人に及ぶ。判明している民間人の死没者数は、満州が24万5千人、北朝鮮が約3万5千人、南朝鮮が約1万9千人。満州では6人に1人、北朝鮮では10人に1人、南朝鮮では30人に1人が亡くなったことになる。

〔最後に〕

“白人からのアジア解放”理論は、同じアジア人を殺害した中国では通用しない。「日本だけが悪じゃない、当時は他の国もやっていた」という意見は盗人猛々しいというか、正直ウンザリしています。親兄弟を殺された被害者がまだ生きているのに“いつまで謝まらねばならないのか”など、どうして言えるのだろうか…。加害者には過去のことでも被害者には過去になっていないんだ(しかも傷は時間に癒されるどころか、無思慮な発言で新たに傷口がエグられる)。「大陸では日本兵による残虐行為を一度も見なかった」「どの日本兵も立派だった」という人がいる。僕はその言葉を否定しない。“その人の周囲では”本当に何もなかったのだろう。その人の周囲では。
※「南京で中国兵の疑いのある奴は殺したが一般人は殺していない」というのも冷静に考えれば理不尽な話で、中国兵だって元は農民のような一般人が大半。日本軍が侵略したから仕方なく武器をとったわけで、侵略された側の国民の命の重さを兵士と一般人で分けるのは間違っている。
※保守派の論客には、「日本のために戦った先人を尊敬せよ」という一方で、実際に戦場で戦った先人が戦争の悲惨さを発言すると売国奴認定して叩く人がいる。もっと出征兵士の声を謙虚に聴くことが出来ないのか。

09年4月、ダライ・ラマは五輪後の中国政府がチベット独立派に死刑を立て続けに出していることに抗議声明を出し、またウイグル自治区での中国核実験で19万人急死、被害は129万人という調査報告も出た。報道の自由についても中国は世界最低レベル。冒頭にも書いたけど、こうした政策の誤りを中国側に指摘する時、日本軍の美化は不満を外にそらしたい中国政府の“愛国教育”に利用されるだけで、利敵行為以外の何ものでもない。
歴史を反省することについて“民族の誇りを失うからやめろ”と主張している政治家には、もっと日本に数々の素晴らしい芸術・文学があることを知って欲しい。日本文化の偉大さが分かっていないから“誇りを持てない”なんて発言が出てくる。僕は加害行為を謝罪することが“自虐”になるなんてちっとも思わないし、むしろ欧米が開き直っているにもかかわらず、真摯な対応を示し謝罪する日本の方がよっぽど誇らしいと思う。

いずれにせよ、日本にとって中国は既に世界最大の貿易相手国(20兆円規模)となっており、もはや経済的に切っても切れない関係になっている。自動車産業にとっても中国は世界一の市場となった。今これを読んでいるあなたのキーボードの裏側にもメイド・イン・チャイナの文字が刻まれているだろう。今後、間違いなく中国は民主化運動が爆発する。かの国で未来を切り開く人々とうまく付き合っていくために、歴史認識で一致点を見い出しましょう。謙虚であることと、卑屈であることは違います。この年表が謙虚という感情に繋がるものでありますように。

※文化大革命による死者の数は1966年から1976年の10年間で最大200万人といわれている。



※終戦時、日本は中国・満州だけで約170万人もの兵を展開していた

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村上春樹/領土問題エッセイ

愛国心について僕が思うこと



愛国心について僕が思うこと



愛国心について僕が思うこと
2006.12.20



06年12月15日、いわゆる“愛国心条項”を盛り込んだ改正教育基本法と防衛省昇格案が同じ日に可決された。僕は採決の前に「もっと慎重に審議すべし」とする意思を明確に表明するべきだった。より深く中身を問うべきだった。では、なぜハッキリ書かなかったのか。それは、僕自身に賛否両方の気持があったからだ。

●日本文化の魅力を伝えることに大賛成

改正教育基本法に反対する平和団体等のサイト等を見ると、「条文の“我が国と郷土を愛する態度を養う”という部分が愛国心の強制になる」と強調している。しかし、改正第2条5項の全文は『伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと』というものだ。僕はこの『他国を尊重し』という一文に感銘を受けたし(これがあるとないとで全然違う!)、歌舞伎、お能、浮世絵、和歌、俳句、邦楽など、日本文化を熱愛する自分としては、これらを後世に伝える為にも『伝統と文化を尊重し』に大賛成だ。『国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う』、これも大いに結構!

“愛国者”を自認する若い子と話したりブログを見ても、日本固有の芸術や古典文学に関する話が殆ど出てこないことが最近気になっていた。話題は他国の悪口ばかりで、万葉集の好きな歌や、お気に入りの浮世絵、日本画、歌舞伎俳優や能楽師の話で盛り上がらない(っていうか通じない)。寺や仏像の話も同じ。
しかし、これは役人や政治家も同様だ。“20世紀最大の発見”と言われる高松塚古墳の国宝壁画が、大量発生したカビでボロボロになったことについて、文化庁は温暖化が原因としていたが、実は防護服未着用(あり得ない!)の工事によってカビが侵入したり、電気スタンドを倒して壁画が傷つくなど、信じ難い初歩的ミスによる「人災」であったことが今年発覚。文化庁の役人に愛国心があるなら、国民の文化財を命懸けで保護して欲しい…!

政治家は汚職と決別して役人の天下りを廃止するなど税金の無駄遣いをやめ、日本美術の展覧会や国宝の公開は無料にするなど、もっともっと文化振興に金を回せと言いたい!古典芸能の入場料金を誰もが気安く鑑賞できるように、映画並みの値段にすべく目的を絞った補助金を増やすとか、常に上演されている歌舞伎小屋を地方に建てるとか(今、常に公演しているのは東京の歌舞伎座だけ)、本気で日本文化を愛している所を見せて欲しい!(黒澤映画は全部レンタルをタダにすべし)。
子どもたちに対して『伝統と文化を尊重し』と言う以上、政府がいかほどに「日本文化LOVE」を示してくれるのか、僕は大いに期待している。元々大陸と切り離された島国であり、徳川300年の鎖国もあってガラパゴスのように独自文化が発展した日本には、オリジナル性に富んだ素晴らしいアートが山ほどある。
※友人いわく「君はある意味“極右”やな。日本美術や古典芸能の魅力をいつも吠え、古代の天皇の古墳によく墓参しとるから」だって。なるほど(笑)。

●愛国心を“評価”したり、国家が強制することには反対

じゃあ、ここまで言ってどうして改正案に素直に賛成できないのか。ズバリ、愛国心の数値化と拡大解釈への不安だ。既に今年上半期の時点で、「国を愛する心情」を通知表に盛り込んでいる公立小学校が全国に出てきている(A~Cの3ランクに分けている学校が多い)。改正前でもそうなのに、改正後はこの流れが加速するのは目に見えている。安倍首相は愛国心について「子どもたちの態度を“評価”するのは当然だ」と国会で答えた。しかし一体どうやって愛国心をランクづけするのだろう?国家を大声で歌ったとか、国旗に最敬礼をしたとか、与党を批判しないとか、毎日「I LOVE 日本」のTシャツを着てるとか、そんなチェック項目を作っているのか?大声で国家を歌わなくても愛国心の強い者もいるし、上辺だけの“態度”の評価に何の意味があるのだろう。
心情の数値化なんて、どう考えても愛国心を履き違えてる。“愛国心”と、政府を愛する“愛政府心”は違う。愛国心があるからこそ、祖国をより良い方向にしたくて政府を批判するわけで、国が嫌いな訳じゃあない。

●拡大解釈への懸念

国旗・国歌法は「日の丸」「君が代」を単に国の歌、国の旗と認めるだけで義務・罰則規定は含まれていない。1999年に成立した際も、「内心にまで立ち入って強制はしない」と政府は繰り返し答弁した。しかし04年の卒業式・入学式で東京都教育委員会は全教職員に対し、「壇上の国旗に向かって起立し国歌を斉唱せよ」という通知を出した。そして違反者を摘発するため全式場に教育委員会の職員を配置し、各教師を番号付きの座席に座らせたうえで監視した。その結果、「君が代」斉唱に従わなかった約300名が大量に処分された(戒告処分なら実に200万も減収=30代)。
そして今年、都教委は各校長に生徒への「適正な指導(起立斉唱)」を徹底するよう“通達”を出した。以前の「通知」(=指導して下さい)が「通達」(=指導せよ)という職務命令となった。
子ども達は優しい心を持っているから、“僕が起立しないと先生が処分されてしまう”と考えて起立する。結局、学校式典での国歌斉唱・起立が事実上強制されてしまった。今回の改正でさらに圧力が強まる可能性が大きい。

僕は国旗や国歌を否定している訳ではない。ただ、過去の戦争を通してこれらに抵抗を感じている人が“歌わない”と選んだ時に、(他人の斉唱を妨害していないのに)処分してまで強制するのは間違っていると思うんだ。憲法では、思想・良心・信仰の自由を保障している。だから、教師は斉唱を指導出来ても強要は不可能。つまり、斉唱を徹底出来なかったことを理由に教師を処分することは憲法違反だ。
斉唱するしないは生徒の「心の問題」。「心の問題」は小泉前首相が他者は介入できないと常々語っていたもの。もしも心の自由が不要なら、そんな人は言論の自由がない近隣の独裁国に住めばいい。海を渡れば売国メディアはゼロ、謝罪外交もなく、全国民が為政者を賛美する究極の愛国主義国家が待っている。
※04年秋の園遊会で東京都教育委員の米長邦雄棋士が「日本中の学校に国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と述べた所、天皇陛下は「(学校現場で)くれぐれも強制にならぬようにお願いします」と異例の発言をされたことを付け加えておく。

●タウンミーティングのやらせ~政府の工作が発覚

改正案への不信感を倍増させたのは各地で開催されたタウンミーティング(TM)の“やらせ質問”事件だ。TMは教育基本法について幅広く国民の意見を聞く場なのに、反対派の人間を故意に抽選で落として参加させなかったり(出席者の思想を事前に調査!)、あらかじめ質問者や質問内容を決め、座席まで指定して議論の流れを改正賛成に誘導させ、やらせ質問者には報酬を払っていた(もちろん税金から)というトンデモ事件。この問題は同法の国会での集中審議が終わってから調査報告が発表された。僕は国会の会期末にこんな大事件が発覚した以上、TMはやり直さねばならないし、今国会での採決は消えたと思っていた。ところが与党は「一定期間の審議時間が経過した」と可決してしまった。

●愛国心は悪ではない、しかし政治家が“愛政府心”に利用するのは悪

なぜそんなに法律化を急ぐのか。歴史上の為政者は国民に不満が溜まってくると、愛国心や外国への敵対心を煽って不満をそらしてきた。今の日本政府がそんな古典的な手法を選ぶとは思えないけど、現実問題として04年の統計では「全世帯の約3分の1が年収300万円以下の生活」を送っており、4分の1の世帯は貯蓄ゼロ、自殺者は年間3万人強、失業者313万人、フリーター417万人とあり、格差社会は深刻化している。ところが、政府はこれを解決する具体案を出せないばかりか、大企業の利益優先、福祉の切捨てを続けている。こうなってくると、今後増えるであろう国や政治への不満を、愛国心で抑え込みたいのかと思ってしまう。

僕は日本が大好きだ。学校では愛国教育を受けなかったけど、めちゃくちゃ愛している。それは胸を張って世界に誇ることが出来る日本文化を知っているからだ。ゴッホもルノワールも浮世絵を愛してやまなかった。しかも、優れているのは古典芸能だけじゃない。スピルバーグは「クロサワは映像のシェイクスピアだ」と絶賛し、この国はマンガの神様・手塚治虫を生んだ。そして、宮本茂は現代ビデオゲームの父として新しい娯楽を世界に創造した。経済でも日本製品の優秀さ勤勉な国民性として受け止められている。
愛国心とは自然に湧いて来るもの。他人に強要される時点で、資本主義国家であろうと社会主義国家であろうと、それがイビツな事になぜ気づかないのか。そんな教育は自国中心主義を招くだけ。そもそも、法律で強制しなければ芽生えない愛国心に価値はあるのか。
政府は国民がおのずと愛国心を持てる様な良い政治をすれば良い。国が国民の為にしっかりと仕事をすれば自然と愛国心が育つ。その努力もせず一方的に愛国心の強要をするから反感を生む。こんな条文にすれば“日本は政府が強制しないと国民から愛されない国です”と世界に触れ回るようなものじゃないか。

数年前まで学校で愛国心が評価されるなんて考えられなかった。財政赤字が700兆円なのに役人や政治家の官製談合、贈賄、裏金作りのニュースは後を絶たない。今回のスピード採決は、政治では愛される国づくりができないから、教育を使って手っ取り早くイージーに愛国心を叩き込もうとしているようにも見える。「政治家と役人には服従しろ!」と、権力者が人々を支配する道具に愛国心を使うのではと心配している。
これらの懸念が全部「な~んだ、心配し過ぎだったなぁ」となればいいけど、愛国心=愛政府心とする政策に抵抗する人間が処罰される時世になった時、「これは06年12月15日に、大人たちの無関心&無批判が招いた結果だ」と後世の人々から糾弾されないよう、僕らは政府の動向を注視し続けなければいけない。

※一般的に保守論客は「強い日本」を唱える一方で社会的弱者に冷たい。「福祉の充実や人権を主張する奴はサヨク」と、障がい者にさえ自業自得と言わんばかりだ。基本的に富裕層は保守派が多い。保守が目指すものは従来の社会制度の維持であり、つまり自分の権益=既得権を守り続けられる社会を求めている。現在の弱者が優遇される世の中は、それだけ富裕層は自分が食べるパイが減るわけだから、そのような社会を望むわけもなく、ゆえに保守は弱者に冷たい。
一般国民は漠然と「愛国心を持つことは良い事」と思っているけど、保守支配層が“愛国心教育”で引き合いに出す“国”とは、「彼らにとって都合のいい国」だし、“国体を守る”の意味は、彼らに都合のいい支配体制を守り維持することだ。貧困層も含めた“すべての日本国民”の幸せを願ってるわけではなく、そのような愛国精神に騙されてはダメだ。僕は心底から日本を愛しているけど、僕の愛国心は保守富裕層の既得権を守るための愛国心ではない。

●追記~提言

(家庭教育について)
政府は改正第10条で家庭教育の充実を呼びかけている。大賛成。でも、実際問題として親が多忙過ぎて愛情を注ぐ時間が足りない。

日本 年間勤務時間 1800時間(残業なし)、2300時間(2時間のサビ残含む、真実の数字)
アメリカ 年間勤務時間 1800時間
イギリス 年間勤務時間 1650時間
フランス 年間勤務時間 1550時間
ドイツ 年間勤務時間 1450時間!
オランダ 年間勤務時間 1390時間!!※オランダは残業させること自体が違法。

多くの日本人にとって2時間の残業なんてザラ。その場合は2300時間になり、ドイツ、オランダ人の約1.6倍、1000時間以上も働きまくっている日本人。1000時間といえば、1日8時間労働で125日分=4ヶ月に相当する。同じ人間の人生なのに、彼らは年間に4ヶ月も多く余暇を持っている!そしてちゃんと生活も出来ている。フランスの食糧自給率は驚異の130%だ(日本は40%)。我が国はGNPが世界第2位で大企業は史上空前の黒字なのに、庶民の貧困層は増える一方。こんなに働きづめでどうやって親子で旅行したりゆっくり会話できるというのか。

子どもは大人社会を見て育つ。労働環境の異常さをこれ以上放置してはいけない。政府・経団連が推し進めているホワイトカラー・エグゼンプション(労働時間規制の撤廃)などもってのほか。大人が毎年3万人も自殺する弱肉強食の社会を、もっと優しさのある社会に変えていかねば。イジメ問題の解決策は「相手の立場になって考える想像力を育む」ことしかないのに、“勝ち組”になることが目標の殺伐とした社会では、他人の心の痛みを考える気持の余裕はなく、教育基本法の文言を幾らいじっても非情な社会に子どもの心は押し潰されてしまう。





●戦争は本当に“仕方なかった”のか?

「日本は生き残る為に戦争するしかなかった」いう意見がある。これについては戦争に反対していた石橋湛山(たんざん)のことを語りたい。湛山はジャーナリストから総理大臣になった人物!

第1次世界大戦が欧州で勃発すると、日本は欧米列強に対抗する為に、この混乱に便乗して大陸に勢力を広げようとした。世論も「これで一等国の仲間入りだ」と熱狂。でも石橋湛山は違った。湛山は“大日本主義の幻想”という題で「全ての植民地を一切捨てる覚悟をせよ」と経済誌に書いた。理由はこうだ。当時の日本とアジアの貿易額は約9億円。一方、英米との貿易額は倍の約18億円。日本が英米と衝突すればこの18億が失われるので、平和的な貿易立国を目指すべきと説いた。これは軍部が思いもしなかった主張だった。しかし1931年に満州事変が起き、大陸への進出が加速していく。世界各国から非難を受けた日本は翌々年に国際連盟を脱退。1934年、湛山は英字経済誌を創刊し、これを欧米で発行して「日本政府の政策は決して国民の総意ではない」と世界に訴えた。

彼は権力ににらまれ、1942年に同誌の記者や編集者が逮捕されて4人が拷問で獄死する。さらに紙やインクの配給も大幅に減らされた。だが、それでも湛山は絶対にペンを折らなかった。「私は自分の正しいと信ずる主張の為に今後いかなる艱難(かんなん)が身の上に降りかかってこようとも、甘んじて受けるつもりだ。良心に恥ずる事を書き、国の為にならぬ事を書かねばならぬくらいなら、雑誌をやめた方がよい」。次男が南方で戦死したと知らせを受けた湛山は日記にこう刻んだ「汝が死をば父が代わりて国の為に生かさん」。

“物量に差がありすぎ勝てるわけがない”と、山本五十六や吉田茂のほか、様々な軍人・知識人が開戦に反対していた。それを押し切って戦争をした結果どうなったのか。300万の国民が死に、国土は焼け野原になり、アジアで1700万以上もの人間の命を奪った(中国1千万、インドネシア400万、ベトナム200万、フィリピン110万、朝鮮半島20万、ミャンマー15万、シンガポール10万、タイ8万。05年8月7日・東京新聞調べ)。日本は戦後にゼロからのスタートで世界第2位の経済大国になった。資源がないのは戦前と同じ条件だ。あのまま開戦せずに平和的な貿易立国になっていれば、有能な人的資源も失われず、さらなる発展を経ていただろう。本来、生きるべき人が死ぬ必要もなかった。“しかたなかった”論で過去を総括していては、あまりに死者が救われない。

終戦後の石橋湛山の行動についても触れておこう。敗戦で人々は深い喪失感に包まれたが、湛山は違った。すぐに発行した雑誌に「更正日本の門出~前途は実に洋々たり」と載せた。翌年、吉田茂首相は湛山を大蔵大臣に抜擢。湛山は聖域とされていた進駐軍の経費削減に乗り出す。進駐軍の諸経費は広範囲で、ペット代やゴルフ代までが賠償と見なされ日本が負担していた。これら進駐軍の経費は国家予算の実に3分の1を占め、敗戦で貧困にあえぐ民衆の暮らしをさらに圧迫していた。湛山はGHQに自ら乗り込んで直談判を試み、経費の2割削減を実現させる。だがGHQの報復で彼は4年間公職から追放されてしまう。

1954年、政界に復帰した湛山は通産大臣に就任。当時の世界は、原爆・水爆の核実験ラッシュ。湛山は“経済交流が国家間に安定をもたらし平和を築く”という信念を持っており、ソ連・中国といった東側陣営との貿易も積極的に推し進めていった(米国はこれに猛反発)。1956年、鳩山首相の辞任を受け、湛山と親米派の岸信介が総裁選に出馬する。結果、湛山が見事勝利して総理大臣となった。湛山は語る「日本は世界平和全体の為にイデオロギーを超えて貿易を行う。アメリカの政策もそれに合わせてもらいたい。自分の言い分ばかり日本に押しつけるようでは困る」。

1957年、湛山は冷戦構造の打破を見据えた外交方針を国民に直接語りかける為に全国遊説を行うが、帰京後に脳梗塞で倒れてしまう。在任期間わずか65日。医者は安静を説き、湛山は総理を辞任した。1959年、台湾問題で米中が一触即発になると、湛山は麻痺の残る体で訪中し、周恩来に“日中米ソ平和同盟”という驚きの構想を提示。湛山の熱意にうたれた周恩来は「台湾に武力攻撃はしない」と伝えた。1973年、湛山は日中国交回復を見届けた後にその波乱に満ちた生涯を終えた。享年88歳。
※湛山は激動の時代にあって最初から最後まで筋を通した本物の漢。しかも、代議士の家系ではなくジャーナリスト出身。これほどの人物なのに、若い世代は知らない人が結構多いのが残念。





【あたらしいけんぽうのはなし】(新しい憲法の話)
終戦後の1947年、中学1年用社会科の教科書に載った『あたらしいけんぽうのはなし』には、とても分かりやすく日本国憲法の精神が書かれており近年話題になっている。この教科書を手に取った当時の中学一年生は、その多くが身内の誰かを戦争で失っていた。文章には、終戦2年後の熱い空気、新生日本を作り上げていこうする心意気と“もう戦争はこりごり”という思いが溢れ出ている。この時代にしか書けないような文だ。胸を打つ言葉もあったので、幾つか抜粋して紹介(現代語訳)。

●(民主主義とは)「皆さんは日本国民の1人です。しかしまだ子供です。国のことは、皆さんが二十歳になって、初めて決めてゆくことが出来るのです。国会の議員を選ぶのも、国のことについて投票するのも、皆さんが二十歳になって、初めて出来ることです。皆さんのお兄さんや、お姉さんには、二十歳以上の方もおいででしょう。その兄さんやお姉さんが、選挙の投票にゆかれるのをみて、皆さんはどんな気がしましたか。今のうちに、よく勉強して、国を治めることや憲法のことなどを、よく知っておいて下さい。もうすぐ皆さんも、お兄さんやお姉さんと一緒に、国のことを、自分で決めてゆくことが出来るのです。皆さんの考えと働きで国が治まってゆくのです。みんなが仲良く、自分で、自分の国のことをやってゆくくらい、楽しいことはありません。これが民主主義というものです」

●(戦争放棄)「皆さんの中には、今度の戦争に、お父さんや兄さんを送り出された人も多いでしょう。ご無事にお帰りになったでしょうか。それとも、とうとうお帰りにならなかったでしょうか。また、空襲で、家やうちの人を、亡くされた人も多いでしょう。今やっと戦争は終わりました。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、恐ろしい、悲しいことが、たくさん起こっただけではありませんか。戦争は人間を滅ぼすことです。世の中の良いものを壊すことです。だから、今度の戦争をしかけた国には、大きな責任があると言わなければなりません。この前の世界戦争の後でも、もう戦争は二度とやるまいと、多くの国々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争を起こしてしまったのは、誠に残念なことではありませんか。
そこで今度の憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことを決めました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、一切持たないということです。これから先日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄と言います。しかし皆さんは、けっして心細く思うことはありません。日本は正しいことを、他の国より先に行なったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
もう一つは、よその国と争いごとが起こった時、けっして戦争によって、相手を負かして、自分の言い分を通そうとしないということを決めたのです。穏やかに相談をして、決まりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、結局、自分の国を滅ぼすような羽目になるからです。また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手を脅すようなことは、一切しないことに決めたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国と仲良くして、世界中の国が、良い友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、栄えてゆけるのです」

●(基本的人権)「空襲で焼けた所へ行ってごらんなさい。焼けただれた土から、もう草が青々と生えています。みんな生きいきと茂っています。草でさえも、力強く生きてゆくのです。ましてや皆さんは人間です。生きてゆく力があるはずです。天から授かった自然の力があるのです。この力によって、人間が世の中に生きてゆくことを、誰も妨げてはなりません。しかし人間は、草木と違って、ただ生きてゆくというだけではなく、人間らしい生活をしてゆかなければなりません。この人間らしい生活には必要なものが二つあります。それは『自由』ということと、『平等』ということです」

この『あたらしいけんぽうのはなし』は、1950年に朝鮮戦争が勃発して警察予備隊(後の自衛隊)が組織されると教科書から副読本に格下げされ、1952年に保安庁が設置されると姿を消してしまった。
最後に。国会のことは以下のように輝かしく書かれていた。選挙行こうね。→「皆さん、国会の議事堂をご存知ですか。あの白い美しい建物に、日の光が差しているのをご覧なさい。あれは日本国民の力を表す所です。主権を持っている日本国民が国を治めてゆくところです」。


●検証~「大東亜戦争はアジア独立に役立った。日本は戦争を行なったが領土的野心はなかった」というのは誤った分析

アジア諸国は日本が負けたから独立できた。あのまま戦争を継続していたら、以下の「大東亜政略指導大綱」のように帝国領土に編入されていた。

〔1943.5.31天皇列席の御前会議で決定された「大東亜政略指導大綱」から〕

大綱6(イ)…「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」は帝国領土と決定し、重要資源の供給地として極力これ開発並びに民心把握に努む。
※「マライ」は現マレーシア、シンガポール。
※「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」は現インドネシア。

このように、日本政府はフィリピンとビルマの独立を容認する一方で、マレーシア、シンガポール、インドネシアという重要な資源地帯を日本領に組込むこと(領土併合)を、御前会議まで開いて決定している。
ではなぜフィリピンとビルマに限って独立を許したのか?フィリピンは先に占領していたアメリカが既に独立を約束していたので、“解放戦争”という大義名分のためにも、アメリカが約束した期日よりも早く独立させるしかなかった。
ビルマの独立を認めたのはインドに対する戦略的な工作だ。インドの隣国ビルマを独立させることで、インドが英国相手に行なっていた独立運動が激化するという打算があったからだ。しかし、この日本の下心はガンジーに見透かされていた。


★ガンジー『すべての日本人に』(1942年7月26日発表)
※インド国境に迫る日本軍に対し帝国主義戦争の停止を求めた公開状(抜粋/エンカルタ百科事典)

最初に私は、貴方がた日本人に悪意を持っている訳ではありませんが、貴方がたが中国に加えている攻撃を極度に嫌っている事を、はっきり申し上げておかなければなりません。貴方がたは崇高な高みから帝国主義的な野望にまで堕してしまわれたのです。

世界の列強と肩を並べたいというのは、貴方がたの立派な野望でありました。けれども、貴方がたの中国に対する侵略や枢軸国との同盟は、そうした野心が生んだ不当な逸脱だったのです。
貴方がたは中国の古典文芸を摂取されてきましたし、あのように古い歴史を持つ民族が貴方がたの隣人であるという事実に、私は貴方がたが誇りを感じていられるものとばかり思っていました。お互いの歴史・伝統・文芸を理解し合うことは、貴方がた両国民を友人として結びつけこそすれ、今日のように敵同士にするはずはありません。

帝国主義に対する私たちの反抗は、イギリス人に危害を加えるという意味ではありません。私たちは彼らを改心させようとしているのです。それは英国支配に対する非武装の反乱です。この闘いには、外国からの援助を必要とはしません。
もし私たちがイギリスの苦境に乗じて好機を掴もうと思っているのなら、既に三年前に大戦が勃発すると同時に行動を起こしていたはずです。インドから英国勢力の撤退を要求する私たちの運動を、どんな事があっても誤解して貰ってはなりません。

貴方がたが、もしインドから快く歓迎されるものと信じていられるなら、幻滅の悲哀を感じることになるだろうという事実について、思い違いのないようお断りしておきましょう。イギリスの撤退を要求する運動の目的と狙いは、インドを解放にすることによって、イギリスの帝国主義であろうと、ドイツのナチズムであろうと、あるいは貴方がた日本のものであろうと、一切の軍国主義的・帝国主義的野心に抵抗する準備をインドが整える事にあります。
もし私たちがそれを実行に移さなければ、私たちは、非暴力こそ軍国主義精神や野心の唯一の解毒剤であることを信じていながら、世界の軍国主義化をただ傍観しているだけの卑怯者になり果てるでありましょう。

これまで私が読んだ(日本の中国侵略に関する)全てのものは、貴方がたはいかなる訴えにも耳を傾けようとはなさらない、ただ剣にのみ耳を貸す民族だと語っています。その様に考えるのは、貴方がたを甚だしく誤解している事でありますように、そして、私が貴方がたの心の正しい琴線に触れる事が出来ますようにと、どんなにか念じている事でしょう!

ともかく、私は人間性には互いに通じ合うものがあるとの不滅の信念を抱いています。そして、貴方がたにこの訴えをするよう私をうながしたのも、他ならぬその信念です。

貴方がたの友であり、その幸いを祈る者である  M.K.ガンジー

日本政府は台湾や朝鮮など古くからの植民地を“解放”しようと一度も考えなかったことから、アジア独立の意思があったとは到底思えない。対米開戦に踏み切る前に政府が考えていたアジア政策は、占領地の住民を労働力として動員し、占領地で生産された食糧を日本軍が徴発するというもの。大本営は南方軍政が占領地の住民に“重圧”を及ぼすことを予想していたので、“重圧”は「これを忍ばしめ」(=耐えさせる)と打ち捨てている。そして「アジア解放」というバラ色の宣伝をやりすぎると現実とのギャップが大きくなるので、あまり宣伝しないようにあらかじめ決めていた。

〔開戦前の方針〕
南方占領地行政実施要領(1941.11.20 大本営政府連絡会議決定)
第1 方針
占領地に対しては差し当たり軍政を実施し治安の回復(独立運動の弾圧)、重要国防資源の急速獲得及び作戦軍の自活確保に資す。
第2 要領
7.国防資源取得と占領軍の現地自活の為、民政に及ばささるを得ざる重圧はこれを忍ばしめ、宣撫(せんぶ、民族解放の宣伝)上の要求は右目的(重圧)に反せざる限度に止むるものとす。
8.原住民に対しては皇軍に対する信頼感を助長せしむる如く指導し、その独立運動は過早(かそう)に誘発せしむることを避けるものとす。※当面独立運動は抑えておけということ。

「国際ルールを守らない」と非難され逆ギレして国連脱退→ルールを守らない国とは貿易しない、として石油止められる→逆ギレして太平洋戦争

●アジア各国は「日本のおかげで独立が早まった」と感謝している?

以下は大型掲示板でよく見かけるコピペ。

★インドネシア モハメッド・ナチール元首相
「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。」
「大東亜戦争というものは本来なら私達インドネシア人が、独立のために戦うべき戦争だったと思います。もしあの時、私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。大東亜戦争はそういう戦いだったんです。」

★インドネシア アラムシャ 元第3副首相
「我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間に亘り幾度か屍山血河の闘争を試みたがオランダの狡知なスパイ網と強靱な武力と苛酷な法律によって圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍し感謝感激したのは当然である。」

★インドネシア ブン・トモ 元情報相
「我々アジア・アフリカの有色民族はヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが全部失敗した。インドネシアの場合は、350年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみてアジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、我々がやらねばならなかった。そして実は我々の力でやりたかった。」

こうした言葉を根拠に「あれは良い戦争だった」と右派はいう。だが、彼らはサンフランシスコ対日講話条約締結(1951年)における、アジア各国首脳の発言を直視しようとしない。

■パキスタン  チャンドリイ・モハメッド・ザフルラ・カーン外相
「四年になんなんとする間に、日本の侵略の潮はアジア各国に放火と殺戮(さつりく)とを齎(もたら)したのであります。その潮がやっと堰(せ)き止められ遂(つい)に押し返されました。その跡に残りましたのは、荒廃した土地、打ちひしがれて、困苦、貧窮、屈辱に喘ぐ人々でありました。最も耐え難ったのは屈辱、人間の尊厳に対する暴行侮辱でありました。遂にその終末が参りました。そしてその幕切れはまったく突然でありました。日本の占領すなわち死の苦しみに対する熾烈(しれつ)な記憶は依然として消えずしばしば悪夢となって蘇ってくるのであります。それが生き残った者の状態であります。彼らは甘んじて許しも致しましょう。又努めて忘れようとさえ致しましょう。しかしあの無残な、苦難の下に生命を失った人々は何となりましょうか。この人々を忘れ、この人々に代って許すということは一層難しいと思われるのであります。」

■インドネシア  アーマド・スバルジョ外相
「日本人による占領期間中にインドネシアが被った損害は二重であります。第一に、約四百万名の人命の損害があり第二には数十億ドルの物質的損害があります。私はここでその数字を述べることは差し控えましょう。何故ならそうすることはこの会議の主旨にそわないでありましょうから、しかし私の政府は、具体的事実と数字をつかんでおり、それらを適当な時期に適当な場所で提出するでありましょう。」

■フィリピン  カルロス・P・ロムロ外相
「私は、ここで、日本の最も近い隣国の一つであり、不釣合いに重大な破壊を受け、日本のために損害を受けた国を代表して述べているのであります。千八百万の人口のうち、われわれは百万以上の生命を失いました。生命の損失の他に我が国民は未だに癒されない程深い精神的傷手を蒙(こうむ)りました。四年間に亘る野蛮な占領と侵略者に対する不断の抵抗の後、我が国民経済は完全に破滅し去ったのであります。フィリピンがその地域と人口に比して、アジアで最も大いなる惨禍(さんか)を受けた国であるということは意義を挟む余地のないところであります。」

■ベトナム  トラン・バン・ヒュー首相
「ヴェトナムは、アジア全民族中物資的のみならず、その人民の生命においても最大の戦禍を蒙ったものであることは誰しも否めないところであるからであります。そして占領の悲劇的環境が悲惨な結果に陥し入らしめた幾多ヴェトナム人に対し私が今日敬虔(けいけん)な思いを致さなかったならば、私は我々の死者に対する追悼の義務に欠くることなるでありましょう。我が国の蒙った物質的損失もこれに劣らず甚大であり、且つ我が経済は、今もなお困苦の裡(うち)にあります。道路、橋梁(きょうりょう)は、断たれ、村々は、破壊され、病院、学校は、損失を蒙り、港湾、鉄道は、爆破された。すべては再建させなければならず、しかも不幸にも我々が現在可能以上の資源を必要としております。」

■ラオス  サヴァン首相
「長い長期の戦争であり、そのぜい弱な資源を挙げて侵略者に抗戦したラオスは、その土壌、遺跡及びその建物に関して被害を蒙(こうむ)ったのみならず、その経済的及び道義的組織も、侵略者の課しうるすべてのものによって被害を受けたのであります。しかしながら、解放以来、ラオスはその痛手から回復し、その民主的制度はラオスをして最も進歩した国の中に列せしめたのであります。すなわち、戦争の犠牲者として、ラオスは今日自由にして且つ、民主的国家群の中にその地位を占めたのであります。」

■カンボジア  フレング外相
「極東における穀物、魚類、木材、家畜、ゴムの主要生産地の1つであるがゆえのその極めて重要な経済的潜勢力とともに、その地理的戦略的地位のために、我が国もまた、真っ先に日本によって占領されたのであります。この事のために、我が国は、今次大戦によって最も大きな被害を受けたという悲しむべき栄誉を持つ国にその名をつらねているのであります。公的私的財産の受けた大きな被害、長期にわたる占領、日本派遣部隊に対する我が国経済の犠牲による扶持(ふち)、国土の三分の一の数年にわたる毀損、これらは、要するに我が国の上にふりかかった禍(わざわい)であります。」

親日派が多いとされるインドネシアの教科書には以下の記述がある。

「日本は戦時下にインドネシアを占領した。経済諸資源は、戦争が必要とするものを支援するために動員された。そして、その行政管理の担い手は軍人たちだった。それゆえ、日本による占領期間は短かったとはいえ長期にわたったオランダ時代に受けたよりも遥かに重い苦しみをインドネシア国民は体験することとなった」
http://www.geocities.jp/indo_ka/buku_pelajaran/bahasa_jepang2.html

本当に日本がアジア諸国の独立を支援したのなら、独立の恩人=日本に感謝する為の祝日を、どこか1国でも制定してよさそうなもの。だが、そんな話は聞いたことがない。



●南京事件について~確実に虐殺はあった。否定論は利敵行為!

戦争の初期、満州でソ連と対峙していた日本政府は、戦線の不拡大方針をとっていた。しかし、軍部は中国を「一撃で倒せる」と過小評価し、日本政府の意向を無視して独断で首都・南京に進軍、なしくずし的に日本は全面戦争に突入してしまう。
南京では陥落の際に約10万もの中国兵が、軍服を脱ぎ捨てて民間人に混じってしまった。誰か敵兵なのか分からず、いつ狙撃されるか分からない。この混乱を受けて軍本部は「老人、子ども以外の男子をすべて逮捕、拘禁せよ」と指令を出す。だが、食料もなく10万の捕虜を収容する施設などない。やがて命令は「処分、殲滅(せんめつ)せよ」に変更された。

南京城内の徹底掃討を行なった第16師団長・中島今朝吾中将は、捕虜を取らず、殺害する方針を日記に書いており、南京北方の幕府山で山田支隊が捕虜約14000名を殺害したことを、山田少将が「この“処置”は上部組織からの命令であった」と記している。僕の感覚では1万4千人は大虐殺だ。30万じゃなくても。相手は投降した非武装・無抵抗の人間なのだ。しかも南京攻略に参加したのは山田支隊(約4千人)だけでなく、その50倍、総勢「約20万人」の大軍だ。その各兵士が銃剣や銃弾を持っており、相当数の市民が巻き添えになったことは想像に難くない。一例をあげると、第1師団歩兵第七連隊は6670人の捕虜を処刑したという報告書を出している。

ネットでは「日本軍は規律正しく南京事件などなかった」とする人も少なくない。僕も中国側の主張する被害者30万人は多すぎると思う。でも、“何もなかった”というのはあり得ない。否定派の疑問に答えるとすれば、(1)死体はどこへ?→揚子江に流したという証言を、日本側、中国側、居留外国人が残している(2)そんなに殺す事は不可能→1994年、ルワンダ100万人虐殺はナタやナイフだけで行なわれた。まして日本軍は銃器で武装している(3)事件後に南京の人口が増えている→陥落後も郊外で蛮行が続いており、国際安全区に人々が逃げ込んできた(4)20万都市で30万殺害は無理→そもそも“南京”の範囲が日中で違う。中国側はかなり郊外まで含めた南京一帯、日本側は城内だけを南京と見ている(5)その他、あらゆる南京事件否定派の意見は、リンク先の『南京事件FAQ』でクリアーに回答されているので、否定派の方はそちらを参照下さい。

リンク先に追加したいのは一般兵士の証言。衝撃的なものばかり。出典は証言者が匿名だったり一部の誤植から「捏造本」と批判されているが、それに対してさらに反論しているサイトもあるし、何から何まで全部嘘とは思えない。60年以上前の記憶の一部が間違っていたからといって、それを理由に全否定するのは無理がある。
いずれにせよ、「捏造」という人は原著には証言者の所属部隊名が記載されているのだから、探し当てて再取材すればいいのになって思う。

09年4月、ダライ・ラマは五輪後の中国政府がチベット独立派に死刑を立て続けに出していることに抗議声明を出し、またウイグル自治区での中国核実験で19万人急死、被害は129万人という調査報告も出た。報道の自由についても世界の最低レベルであり、とにかく中共支配は酷い状況だ。こうした政策の誤りを中国側に指摘する時、一部政治家が過去の戦争を開き直るため、「日本には言われたくない」と感情的になって聞く耳をもってもらえないのが現状だ。一部政治家が繰り返している過去の美化は、自分達への不満を外にそらしたい中国政府の“愛国教育”に利用されるだけで、利敵行為以外の何ものでもない。ホント、一党独裁をアシストし、民主化運動の足を引っ張ることは止めて欲しい。

どんな理由をつけても当時の他国の首都(南京)や各都市を100万の日本兵で軍事占領し、上海や重慶を爆撃したことは言訳できない。“白人からのアジア解放”理論は、同じアジア人を殺害した中国では通用しない。っていうか、日中戦争は1937年に始まったけど、大東亜共栄圏をスローガンにし始めたのは5年後の1942年から。どうみても、後付け。「日本だけが悪じゃない、当時は他の国もやっていた」など、厚顔無恥な意見にもウンザリ。親兄弟を殺された被害者がまだ生きているのに“いつまで謝まらねばならないのか”など、人として絶対に言ってはいけないことだ。加害者には過去のことでも被害者には過去になっていないんだ(しかも傷は時間に癒されるどころか、無思慮な発言で新たに傷口がエグられる)。

犯した罪を反省することで“民族の誇りを失う”と主張している政治家には、もっと日本に数々の素晴らしい芸術・文学があることを勉強しろと言いたい。日本文化の偉大さが分かっていないから“誇りを持てない”なんて発言が出てくる。僕は加害行為を謝罪することが“自虐”になるなんてちっとも思わないし、むしろ欧米が開き直っているにもかかわらず、真摯な対応を示し謝罪する日本の方がよっぽど誇らしいと思う。

※南京に進軍した日本兵の当時の陣中日誌(日記)や手紙を見つけたので貼っておきます。後世に回想されたものではなく、南京で記録した一次資料です。ここに書かれた死者の数だけでも相当なものです…。
歩兵65連隊兵士の日記
独立工兵第1連隊兵士の手紙
第9師団兵士の日記(この中の歩兵23連隊・宇和田弥市上等兵の日記に関しては捏造説あり)
第6師団兵士の日記

●なぜ明治天皇による『軍人勅諭』があるのに、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」で知られる戦陣訓を作る必要があったのか?

戦陣訓の作成に関わった白根孝之(陸軍の精神教育班)はこう語る。
--昭和12年(1937)に支那事変が始まってから、日清日露の戦争では見られなかった戦場での軍規、風紀の乱れが目立ち、「非違犯行」がかつてないほど増大していった。「非違犯行」というのは、上官暴行、戦場離脱、強姦、放火、略奪など不道徳、不真面目なもので、軍上層部の方でも何とか手を打たなくてはならないと真剣になっていて、担当の教育総監部、陸軍省軍務課が、部内における軍規、風紀粛清の仕事にとりかかったのである。(文芸春秋臨時増刊「太平洋戦争日本陸軍戦記」1971年4/10発行)

●検証~「ユダヤ人を助けた杉原千畝リトアニア副領事のように、日本は人種差別に反対していた。アジアで平等を実現しようとしていた」とする意見について

「八紘一宇」は“天皇の下ですべての民族は平等”という理念だが、『宣戦ノ詔書』には「八紘一宇」の言葉は出て来ない。台湾や朝鮮の住民はほとんど無権利状態で、地方行政に参加する選挙権もなければ、代表が帝国議会に議席を占めることはなく、一方で義務として徴兵まで課せられた。同じ皇民というが、実際には朝鮮人を半島人、中国人をチャンコロと呼び、決して同等の者として扱わなかった。
右派は白人帝国主義による人種差別主義を批判しているれども、1936年に防共協定を結び、1940年に軍事同盟を結んだドイツこそ、人種差別主義の最たる例。人種差別に反対するならドイツと手を切らねばならぬはず。
※杉原千畝は後に訓令違反で外務省から処分され退職に追い込まれている。つまり日本政府の方針ではなかった。

●日本軍が隠したかった毒ガス戦
日本軍は日中戦争において北支那方面軍の「晋南粛正戦」から毒ガス兵器(あか筒・あか弾)を使い始めた。「武漢攻略戦」(1938)では少なくとも375回の毒ガスを使用している。1939年以降は、修水渡河作戦、新墻河渡河作戦、奉新附近の戦闘、大洲鎮附近の戦闘、華南の翁英作戦、宣昌攻防戦などで毒ガスを使っている。翁英や宣昌ではきい剤(イペリット)が使われた。もしも連合国にこれらの毒ガス攻撃がバレると、今度は日本軍が毒ガス兵器の的になる恐れがあったので、当初この事実はひた隠しにされた。ちなみに、毒ガス攻撃は天皇の裁可を得て発せられている。(詳細リンク




【考察】福沢諭吉は差別主義者か?~いわゆる『脱亜論』について

政治系のネットでよく見かけるのが、以下の『脱亜論』コピペ。
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日本の不幸は中国と朝鮮である。
この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているが、
もともと人種的に異なるのか、教育に差があるのか、 日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。
情報がこれほど早く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、
過去に拘り続ける中国・朝鮮の精神は千年前と違わない。
国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。
もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待し てはならない。

「東アジア共同体」の一員として その繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。
日本は、大陸や半島との関係を絶ち、 欧米と共に進まなければならない。
ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならない。
この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。
悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。
私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。
福沢諭吉 「脱亜論」(明治18年)
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『学問のすゝめ』で「大名の命も人足の命も、命の重きは同様なり」と書いている諭吉と、『脱亜 論』で蔑視発言をしている諭吉が僕の中でずっと一致しなかった。そこでいろいろ調べて分かった事がある。諭吉は朝鮮や清の政府権力を批判しても、民族全体 を蔑視したことはなかった。それに原文には「国際的な紛争の場面でも“悪いのはお前の方だ”と開き直って恥じることもない」にあたる文章はない。


(1)「脱亜入欧」という言葉を諭吉の信念の如く思い込んでいる人がいるが、諭吉が「入欧」という言葉を使った事は一度もなく、「脱亜」という単語も使用されたのは「脱亜論」1編だけ。つまり「脱亜入欧」が諭吉の思想の核にあったわけではない。
(2)しかも「脱亜論」は諭吉主宰の『時事新報』(1885年3月16日付)の社説ではあるが、 あくまでも無署名であり、諭吉が書いたという証拠はない。複数の人物が社説を書いており高橋義雄など別人の起稿ではないか。その証拠に、諭吉自身は掲載の 前も後も「脱亜論」に言及したことがない。
(3)「脱亜論」掲載時、この社説は世間で全く話題になっておらず、発表から48年が経過した1933年(満州事変2年後)に、岩波『続福澤全集・第2巻』へ収録されるまで忘れられていた。
(4)さらに18年が経った1951年、戦後になって歴史学者・遠山茂樹が「脱亜論」を“発見”し、アジア侵略論の源流として紹介した。
(5)近年、「脱亜論」の原文から一部分のみを抜粋し意訳したものを右派が好んでネットに流している。
(6)諭吉自身は朝鮮人を蔑視するどころか、朝鮮近代化への大きな情熱を持っていた。慶應義塾に朝鮮人留学生を積極的に受け入れ、朝鮮文化発展の為に私財を投じて朝鮮最初の新聞を発行し、ハングル活字を鋳造させた。
(7)諭吉は朝鮮にも封建制度を終わらせる維新が必要と考え、近代化を目指す朝鮮開化派の金玉均 (きん・ぎょくきん)らを全力で支援した。1884年12月4日、朝鮮で開化派が決起し「甲申事変」が勃発。このクーデターで開化派は新政府を樹立したも のの、清軍の介入によって三日天下に終わった。
(8)金玉均など開化派の中心人物は日本に亡命し、諭吉は保護に奔走する。一方、朝鮮にいる開化派の家族は、見せしめのため三親等(曾祖父母~曾孫)まで捉えられ、恐ろしく残虐な方法で処刑された。
(9)「脱亜論」が掲載されたのは「甲申事変」のクーデター失敗から約3ヶ月後。仮に諭吉が起稿 したとすれば、文中にある「朝鮮国に人を刑するの惨酷(ざんこく)あれば」「支那人が卑屈にして恥を知らざれば」などは、開化派処刑への激しい義憤から叩 き付けたもので、差別意識から書かれたものではない。
(10)つまり、「脱亜論」は諭吉が書いたものか分からないし、また、書いたとすれば“朝鮮近代 化の夢=甲申事変の挫折”という背景を知る必要があり、その後は2度と諭吉が「脱亜論」を語っていないことからも、この社説をもって「あの諭吉も中国・朝 鮮人の愚かさを語っている」とする右派も、「諭吉は差別主義者だ」と糾弾する左派も、共に的外れとしか言いようがない。


●勝海舟は日清戦争に大反対だった

勝海舟は欧米列強のアジア進出に対抗する為に、日本、清、韓国がガッチリとスクラムを組むべきと考えていた。海舟は日本と清がアジアで戦えば欧米が喜ぶだけと思っていたんだ。海舟の談話を収録した『氷川清話』より→
「日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も食わないじゃないか。たとへ日本が勝ってもどーなる。支那はやはり(謎の)スフィンクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力がわかったら最後、欧米からドシドシ押しかけてくる。つまり欧米人が分らないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。いったい支那五億の民衆は日本にとって最大の顧客さ。また支那は昔から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。おれなどは維新前から日清韓三国合従(がっしょう)の策を主張して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものさ」。




●韓国の反日について
反日には理由がある。以下の理由を日本の保守が認めないので、余計に反日感情が燃え上がる。

・日韓併合は韓国側が望んだもの?
→条約の文面上はそう。しかし、事前に外交権を奪い、軍隊を解散させ、首都に日本軍を置き、その上で韓国の親日の利権団体“一進会”を利用して併合運動をさせた。しかも一進会が望んだのは“対等併合”。日本は日韓併合と同時に集会・結社の権利を奪い、翌月に一進会を“用済み”として散させた。

・日韓併合のおかげで人口が増えた?
→当時は医療改革、農地改革で世界的に人口増加。しかも英仏植民地の方が朝鮮の倍以上も人口が増えている。

日本の朝鮮統治 1910-1940年の人口増加率は44% 1年平均増加率は1.2%
アメリカのフィリピン統治 1903-1939年の人口増加率は110% 1年平均増加率は2%
フランスのラオス統治 1912-1940年の人口増加率は66% 1年平均増加率は1.8%
イギリスのインド統治 1877-1940年の人口増加率は50% 1年平均増加率は0.6%
フィリピンは30年ちょっとで2.2倍に増え、インドシナも1.6倍に増え、インドはイギリス統治下で1.3億人増えた。そもそも、人口増加をもって“善政を敷いた”というなら、中国共産党政府は良い政府ということになる。
中国人口の推移
1945年 5.5億人
1950年 6億人
2000年 12.7億人
・創氏改名は韓国側が望んだもの
→反対して自殺者が出ている。創氏改名の手続きが始まっても1割程度しか届け出をしないので、必死に圧力をかけた。詳細

・侵略するメリットがない
→コメを大増産させ、大量に日本に輸出させた(飢餓輸出)。併合後に田畑の面積は増えたが、韓国人一人当たりのコメ消費率は3割もダウンした。

石原都知事は、日本の韓国の統治は欧米のアジア植民地統治に比べてむしろ非常に優しくて公平なものだったという。「あいつよりは弱く叩いた!あいつより責められる筋合いはない!」と言いたいのか。

●NHK教育 ETV特集『韓国・朝鮮人戦犯の悲劇』(冒頭5分。これだけでもズシリと来る)
日本の戦争に動員され戦犯として裁かれた朝鮮半島の人々。終戦後、BC級戦犯5700人が捕虜虐待・住民虐殺の罪で裁かれ、934人が処刑になったが、23人は半島出身だった。徴兵時の建前は“募集”だったが、最初から半島の村ごとに割り当て人数が決まっていた。半島出身者は捕虜監視員をさせられた。6人で500人の捕虜を監視し、逃がすと殺された。軍では虐げられ、日本軍の二等兵にさえ敬礼させられた。
/捕虜監視員は命じられて病気の捕虜を鉄道建設の現場へ連れて行った。結果、多数の捕虜が命を落としたことから、戦争犯罪として死刑となった(日本占領地では連合軍捕虜の27%が死亡)。韓国人は死刑台の上で「独立万歳」と叫んだ。“日本兵”として扱われ、処刑される韓国人は、死に対して納得がいかなった。
/元BC級戦犯の李鶴来(イ・ハンネ)さんはタイの捕虜収容所の監視員。死刑判決を受けたが減刑され、懲役20年となった。巣鴨プリズンで刑期を終えて半島の故郷へ戻った仲間は、「戦争協力者」「対日協力者」として非難された。釈放後に2人自殺した。サンフランシスコ講和条約で日本国籍を奪われ、日本人ではないので遺族年金も何もない。63年放置され家族は崩壊した。「日本人の場合は同じ戦犯、死刑囚であっても、自分の国の為に戦って死んでいくんだという心の拠り所がある。私たちには祖国の為に尽くしたという慰めがなかった。それがすごく辛い」。

政府統計(厚労省)における「新受刑者中暴力団加入者の国籍」
「暴力団員の3割は在日」というコピペがネットに出回っている。08年の新受刑者3265人の国籍を調べると、日本3191人、韓国・朝鮮63人、中国5人、米国2人、不明4人となっており、暴力団全体の1.9%しか韓国・朝鮮人はいない。97.7%は日本国籍。受刑者データを見る限り「3割が在日」というネット情報とまったく辻褄が合わない。

“在日特権”に関するデマ…外国人全体が持っている権利を混同したデマが多い。

韓国のことわざに関するデマ…嫌韓サイトが好んで引用する、いかにも韓国人が自分勝手であるかのようなことわざは、真意がねじ曲げられていたり、実際に存在しなかったりするものが大半。日本語にも「旅の恥はかきすて」「秋茄子は嫁に食わすな」など悪意をもって紹介されそうなことわざが色々ある。

人権擁護法案に関するデマ…正確な知識を!

民団新聞に関するデマ…投稿者の名前以外は全く別の内容に変えられている。誰かが書き込んだ捏造を無批判に書き写し、自分達だけが知っている重要情報だと思い込み、世間の人を情報弱者と蔑んで自己満足に浸る構図に要注意。



〔いわゆる“ネット右翼”がばらまいてきたデマ一覧〕

・醜い韓国人の著者・朴泰赫→実は韓国人の偽名使った日本人でした
・有名人の朝鮮人認定→ほとんど嘘
・有名人の嫌韓発言→ほとんど嘘
・在日特権→捏造。ソースなし
・朝鮮進駐軍→捏造・韓国の食糞・嗜糞文化→捏造
・韓国の諺一覧→歪曲と捏造
・試し腹→捏造・日本のものでした
・恨の精神→嘘情報・勘違いしている人多し
・在日の兵役→捏造
・韓国の起源主張→歪曲・誇張
・FuckZapanが二位→捏造
・太平洋戦争はアジア解放のため→建前・開戦後
・フィリピン・インドネシアの人は感謝している→捏造
・パラオの国旗は日の丸が元→捏造。製作者が否定
・日露戦争勝利を祝う欧州諸国のエピソード→捏造
・韓国は併合を請願してきた、しかもこちらが文明化させてやった→建前
・韓国人の多くは朝鮮戦争が起こったのは日本のせいだと思っている→捏造。ほとんどはアメリカだと知っている
・親日法→捏造。そんなものはない
・ゆとり教育を主導した日教組→嘘。自民党
・戦後日本では一貫して自虐教育を行ってきた→嘘。むしろ加害をスルー
・諸外国では愛国教育・国旗国歌は当たり前・国民が自国を愛するのは当たり前→嘘

●韓国人自身による戦後の黒歴史※僕は“中韓の手先”じゃないので以下のことも記しておく。
1948年:済州島4.3事件 3万人虐殺
1950年:朝鮮戦争 400万人・民族戦争
1950年:保導連盟事件 30万人虐殺
1951年:国民防衛軍事件 10万人虐殺
1951年:居昌事件 8500人虐殺

ベトナム戦争では、韓国軍は延べ約30万名(最大兵力5万人)もの「猛虎」部隊をベトナムに派遣。これについては、後に2人の韓国大統領が直接ベトナムを訪れて謝罪し、反省している。




●靖国神社について

僕は千鳥ヶ淵戦没者墓苑、鹿児島の知覧特攻平和館、沖縄の旧海軍司令部壕、松代の大本営跡、ニューギニアやソロモン諸島などの南方の戦跡、その他各地を巡ってきた。広島の平和記念資料館や長崎の平和公園、東京都慰霊堂(大空襲の死者を慰霊)にも。日本人としてあの戦争の犠牲者を慰霊し、不戦の誓いをする為だ。同じ理由で靖国にも数回訪れている。しかし、靖国の場合、他の墓や戦跡とは異なる複雑な感情も抱いている。靖国神社は江戸時代にはまだ日本になかった。明治に入って長州藩出身の大村益次郎が戊辰戦争の官軍戦死者の為に作った歴史の浅い神社だ。日本神話とも何の関係もない。そして政府はこの神社を利用して国民にこう言う、「国の為に戦って死んだら、肉体は滅んでも魂だけはその神社に行き神様になるのだ」と。“神様になれる”と政府に突然言われても、そこに何の根拠もないし、僕にはにわかに信じ難い。死の恐怖から目をそらせる為の「戦争遂行装置」に見えてしまう。

それでも僕が靖国を訪れるのは、「靖国で会おう」と言って散っていった人の気持ちを尊重したいからだ。人間の心をマインド・コントロールした政府指導者たちは許せないが、それを信じて殉じた人の純粋な心は敬意を払うべきだ。そしてだからこそ、あの神社に戦争指導者が祀られていることが納得できない。むろん、戦争の全責任が一部の指導者だけにあるとは思っていないし、煽ったマスコミにも非がある。しかし、ミッドウェー海戦で空母が壊滅し、サイパンやグアムが陥落して日本の本土爆撃が可能になった時点で降伏していれば、その後の沖縄の悲劇も、全土の大空襲も、2発の原爆もなかった。捕虜になることを禁じ、食料・弾薬の補給を軽視し、いたずらに人命を奪った無能な作戦の数々。これらは明らかに戦争指導者の責任だ。僕は靖国に行くたびに、こうした様々な思いでやりきれない気持ちになる。(兵士達が国家神道の教義を100%信じていたわけではないにしろ、意図的に靖国という「心の拠り所」を作り、必要のない死を強要した為政者の責任は大きい)

そして自覚せねばならないのは、ここまで書いてきたことは日本国内(日本人同士)だから通用する感情ということ。侵略された側にしてみれば、ロシアの脅威があるからとか、石油がないからとか、そんな日本の事情で食料を奪われたり殺されてはたまったものじゃない。それでも戦後、中国の人は「悪いのは日本の戦争指導者であり、徴兵された日本兵もまた被害者なのだ」と思うことで、憎しみを断ち切り気持ちを前進させてきた。そうでなければ、全ての日本人を恨み続けることになるからだ。
それ故に、戦争指導者を祀る靖国に小泉首相が参拝した時に、“日本国民も被害者のハズではなかったのか”と、激しい反発が起きた。小泉首相が「不戦を誓う為に参拝した」というのは本当だと思う。しかし首相は「加害者の心の問題」だけを重視して、「被害者の心の問題」には全く耳を傾けなかった。世論は“中国は内政干渉するな”と盛り上がったけど、僕は相手が怒っている時にその理由を知ろうとしない空気に違和感を感じていた。戦争指導者が祀られてから、天皇は靖国を訪問していない(出来なくなった)。台湾や朝鮮出身の“日本兵”の遺族は「勝手に祀らないで欲しい」と訴えている。こうしたことからも、靖国側が宗旨で分祀できないなら、国が新たな追悼施設を早く作るべきだ(個人的には千鳥ヶ淵と合体するのがベストだと思う)。

アメリカは911が起きた時に、なぜイスラム側が怒っているのか理由を掘り下げて考えることを放棄し、空爆で復讐した。その結果、ますます憎悪の対象になっていった。イスラエルもなぜパレスチナからロケット弾が飛んでくるのか本当の理由を見ようとしない。相手の怒りの根本を直視しないから問題が解決しない。中国、韓国、北朝鮮の各政府・指導者は、自らの求心力を高める為に「反日」思想を利用している側面があるけど、そこに燃料を投下して反日教育をバックアップしているのが過去を美化する日本の一部政治家たち。彼らの無思慮な言動が反日教育の新たな“燃料”となって3国の政権を支える。国民の“ガス抜き”として日本叩きに利用される。日本側にも「3国はこんなに反日だ」と“向こうが嫌うならこっちも嫌ってやれ”と煽る連中が出てくる。不幸なのは憎まされる双方の国民だ。






・「もともと普通の人々は戦争したいと思っていない。運がよくてもせいぜい無傷で帰って来る位しかない戦争に、貧しい農民が命を賭けようと思うはずがない。だが、国の政策を決めるのは結局指導者であり、反対の声があろうがなかろうが、人々を指導者の望むようにするのは簡単だ。民主主義であろうと、ファシストの独裁であろうと、共産主義であろうとそれは同じだ。『我々の国が攻撃されている。愛国心のない反戦・平和主義者が国を危険にさらそうとしている』と非難しさえすればいい。この方法はすべての国で同じように上手くいく」(ヘルマン・ゲーリング)元ナチス最高幹部/秘密警察創設者

・「(終戦翌年に記す)多くの人が、今度の戦争で騙されていたという。みながみな、口を揃えて騙されてたという。私の知ってる範囲では、“俺が騙したのだ”と言った人間はまだ1人もいない。(略)“騙されていた”といって、平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でも騙されるだろう。いや、現在でもすでに別の嘘によって騙され始めているに違いないのである」(伊丹万作)※伊丹十三監督の父

・「最初にナチスが共産主義者を弾圧した時、不安に駆られたが、私は共産主義者でなかったので、何の行動も起こさなかった。次にナチスは社会主義者を弾圧した。私はさらに不安を感じたが、社会主義者ではなかったので何の抗議もしなかった。それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、その度に私の不安は増したが、それでもまだ行動に出なかった。ある日、ついにナチスは教会を弾圧してきた。そして私は牧師だった。だから立ち上がって行動に出たが、その時はもうすべてが遅かった」(マルチン・ニーメラー牧師)

《アドルフ・ヒトラーの言葉》※警句という意味で紹介

「いかなる宣伝も大衆の好まれるものでなければならず、その知的水準は宣伝の対象相手となる大衆のうちの最低レベルの人々が理解できるように調整されねばならない。それだけでなく、獲得すべき大衆の数が多くなるにつれ、宣伝の純粋の知的程度はますます低く抑えねばならない」

「大衆の受容能力はきわめて狭量であり、理解力は小さい代わりに忘却力は大きい。この事実からすれば、全ての効果的な宣伝は、要点をできるだけしぼり、それをスローガンのように継続しなければならない。この原則を犠牲にして、様々なことを取り入れようとするなら、宣伝の効果はたちまち消え失せる。大衆は提供された素材を消化することも記憶することもできないからである」

「政治の本質はフィクションだ。政治は演劇と同じ、国家が行うショーなのだ。小さな嘘はすぐばれるが、大きな嘘は真実になる。虚偽を創造する巨大なメカニズム、それが国家だ。大衆共に壮大で甘美な夢を見させてやるのが我々の務め。国家はそのためのドリームマシーンだ」

「支配者にとって人々が思考しないということは、なんたる幸運であろうか」



●中国へのODA(政府開発援助)
これはもう必要ないと思う。中国は日本が実現していない有人宇宙ロケットの打ち上げに成功しており、膨大な額のアメリカ国債を買い入れている。経済規模から言っても、対中国ODAは役目を終えたといっていい。
※ネットでは「村山政権や細川政権は安易に中韓の謝罪を受け入れ多額の賠償金(ODA)を支払った」という意見を見るけど、それは完全にデマ。この表を見れば一目瞭然。細川内閣~村山内閣の93-95年の対中国円借款の額は、他の突出した年よりも少ないくらい。88年の竹下内閣、96年の橋本内閣は1500億円オーバー、97年の橋本内閣、98年の小渕内閣、00年の森内閣に至っては2000億円超えの過去最高レベルで推移している。※細川内閣は1387億円、村山内閣では1400億円ちょい。

●60年安保闘争について
かつて、団塊の世代はなぜ大規模な安保反対運動をしたのか?岸首相(安倍首相の祖父)の実像と共に、その理由を簡単にまとめた。

(1)岸首相が強行可決のために警官500人を国会に投入して野党議員を排除した非民主的な政治手法への抗議
(2)まだ終戦から15年しか経っておらず「米軍基地の固定化に繋がる」「安保は日本をアメリカの戦争に巻き込む」と反対
(3)あの無謀な戦争に突入した東條内閣の大臣であり、A級戦犯容疑者である岸首相に対する反感(国土を廃墟にした責任を少しでも感じているのなら表舞台に出てくるなという怒り)
(4)東久邇・片山・石橋という三人の元首相が、岸首相へ退陣勧告をしたことを無視したことへの不満
(5)岸首相がデモ鎮圧に暴力団(松葉会、錦政会、住吉会)などの反社会的団体や、右翼連合組織(新日本協議会、全日本愛国者団体会議、日本郷友会他)、右翼“宗教団体”会員を導入したことが、市民の怒りにさらに火を付けた。※しかも、ヤクザを雇う金は米国政府、CIAが約8億円(今の43億円相当)も出していたとのこと(wikiより)。

僕は岸首相を全否定するのではなく、功績として安保改正時に、在日米軍基地使用に事前協議を必要とさせたこと、米国による日本防衛義務を明記させたこと、条約の期限を“10年ごとの見直し”とさせたことを高く評価している(不平等条約の改正)。しかし、新安保調印で岸首相が渡米した際に交わした密約には、「朝鮮半島有事の際は、米軍は日本政府に無断で日本の基地を使用可能」「核兵器を日本に持ち込む時に事前協議は必要なし」という驚愕の内容も含まれており、さらに米国による対日工作の公文書が公開されたことで、裏取引の出来レースだった可能性が発覚し、その「功績」もちょっと微妙に…。開戦時の商工大臣だった岸首相が3年の刑期で釈放されたのは、GHQの情報機関(G2)が岸氏の早期釈放を勧告した結果だ(この釈放からたった9年で首相となったのも、あまりにトントン拍子すぎ)。NYタイムズ(94.10/9)は岸政権時代の自民党に数百万ドルの資金(選挙資金?)がCIAから渡ったというスクープを報道しており、両者の蜜月ぶりが垣間見える。




★歴史学者(秦郁彦、保阪正康)が指摘する「田母神論文」の間違い


(1)日本の進軍〈日本は相手国の了承を得ず軍を進めたことはない〉
秦 論文の冒頭近くにある記述だが、これは思いちがいだろう。「満州事変はどうだったのか」と反問するだけで崩れてしまう論だ。満州事変は、日本の関東軍が謀略で鉄道を爆破し一方的に始めた戦争だ。謀議者から実行部隊の兵士まで、すでに関係者の多くの証言がある。当時の軍首脳も政府も追認し、予算も支出している。日中戦争も大東亜戦争も相手国の了承なしに始めた戦争だ。

保阪 史実を押さえれば、田母神論文のような解釈はできない。「国際法上合法的に中国大陸に権益を得て……」とあるが、西欧列強もアジアでの支配を合法化した。だから正しい、と言うのは歴史の見方ではない。帝国主義の支配者は被支配者より何倍も狡猾(こうかつ)だ。「多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない」とも記述しているが、子どもの言い訳に等しい。

(2)コミンテルン〈我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた〉
秦 国民党内にコミンテルンのスパイがいたから、蒋介石はコミンテルンに動かされていたなどと言うのは、「風が吹けばおけ屋がもうかる」式の強弁だ。張作霖爆殺事件も、コミンテルンの仕業だという説が「極めて有力になってきている」などと田母神論文は書くが、歴史学の世界では問題にされていない説だ。 張作霖爆殺事件が関東軍の仕業であることは、首謀者の河本大作はじめ関係者が犯行を認めた。このため田中義一内閣が倒れ、「昭和天皇独白録」でも、「事件の主謀者は河本大作大佐である」と断定されている。他にもコミンテルン謀略説が論文のあちこちに出てくるが、いずれも根拠となる確かな裏付け資料があいまいで、実証性に乏しい俗論に過ぎない。

保阪 当時の国民党の指導者に取材したことがある。共産党側の人間が国民党に入っていたのは事実だが、コミンテルンが国民党を動かしていたというのは間違いだ。日本の軍部がソ連や共産主義への危機感をあおっていた見方だ。「陰謀史観」で歴史を見るようになると、何でもそれに結びつける。「盧溝橋事件でだれが撃ったか」は本質的な問題ではない。中国で日本軍が軍事演習を行っていた背景を見なければならない。

(3)米大統領の罠〈日本はルーズベルトの罠(わな)にはまり真珠湾攻撃を決行〉
秦 これも、バージョンを変えて繰り返し出てくる「ルーズベルト陰謀説」の一種だ。ルーズベルト大統領は日本側の第一撃を誘うため真珠湾攻撃を事前に察知していたのに現地軍へ知らせなかった、という筋書きのものが多い。こうした話はミステリー小説のたぐいで、学問的には全く相手にされていない。

保阪 米国が日本に先手を打たせたかったというのは事実だろう。だが、日本外交の失策に目をつぶって共産主義者が悪いというのはおかしい。41年4月に日米交渉が始まり、7月に日本は南部仏印に進駐。それに対し、米国は日本の在米資産凍結、石油禁輸措置を決める。政府や大本営が米国を見誤った「甘さ」の方が問題だ。日本が正しくてはめられた、などという論は無責任だ。

(4)アジア諸国の評価〈多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価〉
秦 果たしてそうだろうか。田母神論文はこれに続けて「タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高い」と国名を列挙するが、日本軍が華僑虐殺をしたシンガポールでは、最近まで反日的な空気が強かったと承知している。独立国だったタイも日本軍の駐屯で被害を受けているので、感謝しているとは思えない。何より、列挙には、一番損害の大きかった中国が入っていない。満州事変に触れなかったのと同様、重要な史実からは逃げ、都合の良い話だけをつないだように見える。

保阪 インドネシア独立義勇軍に加わった何人もの元日本兵に取材した。独立のため戦死した日本兵も多い。本当に東南アジアの解放のために戦ったのはそういう人だが、国は「逃亡兵」とした。そういう事実を見もしないで、都合のいいことを語っている。

(5)侵略国家〈我が国が侵略国家だったというのは正に濡れ衣〉
秦 田母神論文は前の方で、「よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない」と書いている。そこはその通りだと思う。しかし、日本も他の国も侵略国家だったとすると、論理が合わなくなるのではないか。

保阪 「侵略国家」とは、どういう意味か。戦後、一つ一つの史実を検証したうえで「これは侵略だ」と認定してきた。中国を侵略したことは政府でさえ認めた。否定するならば論拠を示すべきだ。論文に書かれている事実はいずれも核心ではない。一部を取り出して恣意(しい)的につなぎ合わせるだけでは一面的だ。戦後、史実を実証的に積み重ね、戦争を検証してきた。論文は「60年」という時間を侮辱している。

<全体を通じて>
秦 論文というより感想文に近いが、全体として稚拙と評せざるをえない。結論はさておき、その根拠となる事実関係が誤認だらけで、論理性もない。

保阪 かつて兵士たちが生還して色々なことを知ったとき、「日本もむちゃをやった」と素朴な感慨を持った。われわれはそこからスタートしている。昔の日本に批判的なことを「自虐史観」というが、「自省史観」が必要なのだ。ナショナリズムを鼓吹した時、それは偏狭な運動になる。歴史を誇るのであれば、事実に謙虚でなければ。

(2008年11月11日朝日)


田母神氏の説はとんでもない自虐史観だけど、支持者はそれに気づいているのかな。氏は“日本軍は単なるコミンテルンの操り人形で、共産主義者の言うがままに戦争して自滅した”と…。こんなとんでもない自虐は見た事が無い。先人に対する侮辱。日本人はコミンテルン操られるほど馬鹿なのか?保守急進派は日本人が300万死んでも反省しない連中なのか。


現代史家 秦郁彦による田母神論文批判(週刊新潮より)
1.張作霖爆殺事件は関東軍河本大作大佐によるものという史実が判明している。コミンテルン説などありえない。
2.盧溝橋事件で劉少奇が外国人記者との会見で「現地指揮官は自分だった」と証言していると田母神論文には書かれているがそんな会見は存在しない。
3.事件の首謀者を中共と書いているが、論文に引用されている私(秦郁彦)の著書『盧溝橋事件の研究』では事件の首謀者=中共説をはっきり否定している。私は軍閥宗哲元率いる第29軍の兵士が偶発的に撃った銃弾と結論付けている。
4.太平洋戦争がルーズベルトの罠なんて学問的には誰も認めていない。コミンテルン陰謀説など風が吹けば桶屋がもうかる的な妄想。
5.コミンテルン謀略説の根拠とされる、スパイだと名を挙げられたハリー・ホワイトは、ハル・ノート当時は次官ですらなく財務省の一部長に過ぎない。ホワイトがハル・ノートを決めたなんて言い過ぎ。

●石破 茂~田母神・前空幕長の論文から思うこと(2008年11月5日

田母神(前)航空幕僚長の論文についてあちこちからコメントを求められますが、正直、「文民統制の無理解によるものであり、解任は当然。しかし、このような論文を書いたことは極めて残念」の一言に尽きます。同氏とは随分以前からのお付き合いで、明るい人柄と歯に衣着せぬ発言には好感を持っており、航空幕僚長として大臣の私をよくサポートしてくれていただけに、一層その感を深くします。(略)
「民族派」の特徴は彼らの立場とは異なるものをほとんど読まず、読んだとしても己の意に沿わないものを「勉強不足」「愛国心の欠如」「自虐史観」と単純に断罪し、彼らだけの自己陶酔の世界に浸るところにあるように思われます。
在野の思想家が何を言おうとご自由ですが、この「民族派」の主張は歯切れがよくて威勢がいいものだから、閉塞感のある時代においてはブームになる危険性を持ち、それに迎合する政治家が現れるのが恐いところです。
加えて、主張はそれなりに明快なのですが、それを実現させるための具体的・現実的な論考が全く無いのも特徴です。
「東京裁判は誤りだ!国際法でもそう認められている!」確かに事後法で裁くことは誤りですが、では今から「やりなおし」ができるのか。賠償も一からやり直すのか。
「日本は侵略国家ではない!」それは違うでしょう。西欧列強も侵略国家ではありましたが、だからといって日本は違う、との論拠にはなりません。「遅れて来た侵略国家」というべきでしょう。
「日本は嵌められた!」一部そのような面が無いとは断言できませんが、開戦前に何度もシミュレーションを行ない、「絶対に勝てない」との結論が政府部内では出ていたにもかかわらず、「ここまできたらやるしかない。戦うも亡国、戦わざるも亡国、戦わずして滅びるは日本人の魂まで滅ぼす真の亡国」などと言って開戦し、日本を滅亡の淵まで追いやった責任は一体どうなるのか。敗戦時に「一億総懺悔」などという愚かしい言葉が何故出るのか。何の責任も無い一般国民が何で懺悔しなければならないのか、私には全然理解が出来ません。

ここらが徹底的に検証されないまま、歴史教育を行ってきたツケは大きく、靖国問題の混乱も、根本はここにあるように思われます。
大日本帝国と兵士たちとの間の約束は「戦死者は誰でも靖国神社にお祀りされる」「天皇陛下がお参りしてくださる」の二つだったはずで、これを実現する環境を整えるのが政治家の務めなのだと考えています。総理が参拝する、とか国会議員が参拝する、などというのはことの本質ではありません。
(略)
この一件(解任)で「だから自衛官は駄目なのだ、制服と文官の混合組織を作り、自衛官を政策に関与させるなどという石破前大臣の防衛省改革案は誤りだ」との意見が高まることが予想されますが、それはむしろ逆なのだと思います。
押さえつけ、隔離すればするほど思想は内面化し、マグマのように溜まっていくでしょう。
「何にも知らない文官が」との思いが益々鬱積し、これに迎合する政治家が現れるでしょう。それこそ「いつか来た道」に他なりません。
制服組はもっと世間の風にあたり、国民やマスコミと正面から向き合うべきなのだ、それが実現してこそ、自衛隊は真に国民から信頼され、尊敬される存在になるものと信じているのです。


●戦前の児童教育・個人崇拝
・学校では毎日全体朝会がもたれ、君が代斉唱のもとに「宮城(天皇がいる所)遥拝」が行われた。
・天皇・皇后の写真「御真影」は、校舎外に作られた「奉安殿」に安置されていた。「奉安殿」は登下校の児童や一般人の礼拝対象だった。
・祭日や君が代斉唱に国旗掲場や教育勅語の朗読が加わった。これらの儀式には町村長や地域の名士が参加。号令で黙祷が始まると、燕尾服に身を包み白手袋をつけた校長が「奉安殿」の扉を開け、教育勅語を取り出して朗読。
・1933年頃、沖縄本島南部の第一大里小学校長が、御真影の件で責任をとり、割腹自殺をはかった。それくらい校長にとっては責任の重いものだった。
・学校は「国体の本義」と「臣民の道」を子どもに徹底させることが目標。国体の本義とは、「万世一系」「忠君愛国」「義勇奉公」の3つ。教育勅語の精神をいかに徹底させ得たかが、教師の評価となった。
・天皇制教育は食事の面にまで及び、「薯とらば天地御代(あめつちみよ)の御恵み君と親との御恩味わえ」(これからいただくものは天皇陛下のお恵であるから、天皇陛下と親に感謝していただきます)の歌を歌った。

★作家・山田風太郎、1960年の日記
「日本人の国民性のひとつに“無責任”ということがありはしないか。こう考えるのは、開戦時における陸海軍首脳の無責任を思い出すからだ。アメリカを相手に開戦して勝てるかと言うと、陸軍も、海軍も、自信がなかった。自信のないまま、ズルズル開戦してしまった。これが一般国民とか、一般軍人ならいい。しかし、国家の存亡を担う首脳として、あまりに無責任な考えである。彼らは海軍の名誉利害、陸軍の名誉利害ばかり考えて、日本の名誉利害を考えなかった。ようするに、日本人の無責任性が最悪の形で表れたものとしか言いようがない」

「昭和の戦争を振り返ると、日本人には“起こって欲しくないことは起こらない”と勝手に思い込むところがある。集団催眠のような状態だ」(半藤一利)作家

(注)僕はいかなる政党、政治思想団体、市民団体、宗教団体にも属していません。単純に「何があったか」、事実を知りたいだけです。

〔各種参照資料〕
15年戦争資料@wiki…史料の原文リンクなどが充実。
戦争犠牲者数…様々な元資料をまとめている。力作。
日本兵の6割が餓死…補給のことを全く考えていないずさんな作戦計画。“あの戦争は仕方なかった”論は、こんないい加減な戦略を立てた軍首脳の責任をうやむやにしてしまう。
台湾人を抑圧…結果的にチャンネル桜が日本人による台湾人差別(2等国民)を炙り出す。「チャンコロといっていじめられた」「配給は日本人が白砂糖で台湾人は黒砂糖だった」「日本人の教授から“台湾人はくさい”といっていじめられた」「(医大生時代に)日本人の助教授は台湾人の患者を見向きもしなかった」「日本人は差別とか侮辱とかやっていた」「日本やアメリカでがーがーいってる台湾人(金美鈴?)、名前は言いませんが、なんで台湾帰ってこないんだ、台湾帰ってきて民族運動やれといいたい。向こうに籍があるんだから台湾人じゃなくて日本人なんだよ」。台湾が親日なのは、日本が50年統治(1895~1945)した後に入って来た蒋介石と国府軍の統治が酷すぎたから。台湾には「犬(日本)が去って豚(国民党)が来た」という言葉がある。台湾人が「日本のおかげで発展した」というのは良い。でも日本が「我々の台湾を“発展させてあげた”」といえば傲慢になる。



「ネットで真実を知った!反日教師やマスコミに騙されていた!」と叫びつつ、別のものに騙されることがないように。

デマの検証サイト一覧…民主党、蓮舫、辻元清美、アグネス・チャン関連のデマがやたら多い。
・「マッカーサーですら大東亜戦争は自衛のための戦争と認めた」は保守派の嘘…原文では失業対策など経済問題が戦争行為の理由と言っている。
パチンコ『おぼっちゃまくん』…小林よしのりの矛盾。
・ネット右翼の書き込み活動…この人、AM5時~6時以外、常に書き込み(コピペ)続けているのか…。この集中力と持続力を汚職官僚や悪徳企業の批判、脱原発、パレスチナ難民など海外で不当に抑圧されている人の救済活動に向けてくれたらなぁ。
・ネトウヨだったころの黒歴史を語れ…「ブサヨは休日や夜になるとわらわら沸いてくる。平日の昼間はサヨがいなくなるからそれまで寝てるのがオススメ」。何の疑問もなく書き込めるところに温度差が。


★福島第一原発の事故を受けて、今後原発をどうすべきか『SAPIO』(2011年8月17日号)が保守派言論人26人に緊急アンケート。
●「無条件継続」4名
田母神俊雄(元航空幕僚長)、藤岡信勝(拓殖大学客員教授)、小堀桂一郎(東京大学名誉教授)、高山正之(ジャーナリスト)
●「条件付き継続」17名
櫻井よしこ(ジャーナリスト)、金美齢(評論家)、渡部昇一(上智大学名誉教授)、三橋貴明(経済評論家)、潮匡人(評論家)、遠藤浩一(拓殖大学大学院教授)、日下公人(評論家)、志方俊之(帝京大学教授)、田久保忠衛(杏林大学客員教授)、中西輝政(京都大学教授)、西岡力(東京基督教大学教授)、長谷川三千子(埼玉大学名誉教授)、村田晃嗣(同志社大学教授)、森本敏(拓殖大学大学院教授)、八木秀次(高崎経済大学教授)、屋山太郎(評論家)、吉崎達彦(双日総合研究所副所長・チーフエコノミスト)
●「将来的に廃炉」1名
秦郁彦(現代史家)
●「議論待ち、どちらでもない」4名※こんな大問題に対して立場を鮮明にできない人物
青山繁晴(独立総合研究所社長)、佐伯啓思(京都大学教授)、高森明勅(日本文化総合研究所代表)、西村幸祐(ジャーナリスト)
うーむ、“保守は原発推進者でならねばいけない”という強迫観念でもあるのか?安全保障の面からいえば、ひとたび攻撃を受ければ国土に人間が住めなくなる原発は危険きわまりない(しかも大半が日本海側に並んでいる!)。



※愛国を叫ぶ前に、保守であれば初歩的な日本語教育が自身に必要なのでは?

 




《ひたすら皇室を貶める“明治天皇の玄孫”竹田恒泰について》

“明治天皇の玄孫”という肩書きを前面に出してヘイトスピーチを繰り返す竹田恒泰氏(39)の言動は目にあまる。僕は基本的に政治家=社会的強者しか批判しないけど、デマを流したり人種差別を煽動する人物は別。
竹田恒泰氏の二次加害発言は枚挙にいとまがないけど、その中でも最も酷いと感じたのがリンク先のツイート「韓国が慰安婦の像を作るなら、日本は、嘘をつく老婆の像でも作ったらどうだ?口をとがらせてまくしたて、片手には札束を握りしめて、ゆすりたかりをしている感じで」。

慰安婦の悲しい運命を知っていれば、人間としてこんな発言が出来ないはず。知っていて書いているのなら正気とは思えない。竹田氏は今春、慶応大の非常勤講師をクビになった。憲法学の重鎮で保守派改憲論者の小林節・慶大名誉教授でさえ匙(さじ)を投げたのだ。
小林氏いわく「彼の天皇に関する様々な論考を見て、憲法学について勉強させるために講師にしましたが、その肩書が営業の看板に使われた。注意をしても『はい、分かりました』と言って無視をする。反省を望みましたが、あまりにもみだらな話がたくさん出てきて、そういうときに慶應の講師なんて肩書が使われて、ぞっとします。だから私が定年退職する際に、“おちゃらけタレント”みたいになった竹田君も一緒に慶應から消えてもらったんです。このような状況の原因を作ったことを恥じています」(「週刊文春」5月8日/15日号 )。

かつて竹田氏は「(女性宮家問題について)私は旧皇族の男子30名以上の方に会って意見交換をしています」と『新潮45』(2012年3月号)で語ったが、旧皇族男子=1947年10月14日の皇籍離脱まで皇族だった人物は、2012年時点で65歳を超えており、伏見宮博明王(伏見家)、邦昭王(久邇家)、北白川宮(北白川家)、文憲王(賀陽家)、宗憲王(賀陽家)、健憲王(賀陽家)、邦英王(東伏見家)、誠彦王(朝香家)、恒正王(竹田家)、恒治王(竹田家)、信彦王(東久邇家)、俊彦王(東久邇家)の12名しかいない。12名でどうやって「旧皇族の男子30名以上の方に会って意見交換」ができるのか。僕のような素人でも少し調べれば簡単に分かるウソを、臆面もなく世間に向けて語っていることに目まいすら覚える。

※竹田家は存命の恒正王、恒治王が旧皇族だけど、竹田恒泰氏の父親で2020年の東京五輪組織委員会理事の竹田恆和(つねかず)氏は、竹田家が皇室を離れた翌月に生まれているため1秒たりとも皇族ではない。つまり、子どもである恒泰氏は旧皇族でさえなくただの民間人。「殿下」「殿下」と取り巻きが持ち上げている様子に“殿下じゃないよ、みんなと同じだよ…”と脱力。




人に無理強いされた憲法だと云うが、拙者は戦争はいたしません、というのはこの一条に限って全く世界一の憲法さ(坂口安吾)作家


“時代に合わない”から憲法を変えるのではなく、憲法の理想の方へ時代を変えて行かなきゃならない




《時事コラム・コーナー》

★愛国リベラル近代史年表/日本と中国編
★愛国リベラル近代史年表/日本と韓国・朝鮮編
★愛国リベラル近代史年表/日本と台湾編
★愛国リベラル近代史年表/日本とアメリカ編
★愛国リベラル近代史年表/日本と東南アジア編
★昭和天皇かく語りき
★愛国心について僕が思うこと
★日の丸・君が代強制と内心の自由について
★アフガン・伊藤和也さんを悼む
★チベット問題について
★普天間基地を早急に撤去すべし
★映画『男たちの大和』レビュー
★マジな戦争根絶案






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愛国リベラル史観年表 日本と韓国




愛国リベラル史観年表 日本と韓国



愛国リベラル史観・近代史年表~日本と韓国・朝鮮編
~今こそ真の和解を、そしてあなたの義憤は他国にではなく日本社会の改革に!~




★この近代史年表シリーズを作った目的

作成理由はとてもシンプル。「もっと仲良くしようぜ!」ということです。
これから未来を築いていく若者には、近隣の国と友好を育んで欲しいので、歴史認識の違いがネックになって憎悪の輪が広がる現状を何とか変えたい。「中韓は反日教育をしているから許せない」と腹立たしく感じている人に、少しでもその怒りを鎮める資料になればと、昔から保守系サイトをいろいろ見て、解釈で衝突している部分が分かっているので、自分なりのコメントを入れた近代史年表を作成しました。教科書に載ってなくても個人的に重要事件と思えるものも積極的に取り入れてます。

中国共産党のチベット弾圧や北朝鮮の核・拉致、韓国政府の過激な愛国心教育、そういったものが批判されるのは当然です。でも、だからといって民衆を政府と同一視してはいけないし、現政府に腹を立てるあまり、過去の日本の行為を正当化するのは正しくない。正しくないどころか、「日本は開き直っている」「日本はまだ軍国主義だ」と、韓国には政権維持に、そして中国では民主化運動をかわす為に利用され、結果的に両政府をアシストする本末転倒なことになっています。

ネット上では中国人や韓国人を露骨な差別用語で罵っている人が少なくないです。僕のサイトのモットーは『人間は国籍・文化が違っても、相違点より共通点がはるかに多い』『愛国心とは他国を憎むことではなく、自国の文化を愛すること』。だから、中韓政府や金正日個人を批判するのではなく、「○○人はこうだ」と民族をひとくくりにして叩いている一部の動きを深く憂慮しています。
今の右派保守の若者たちは、日本という国を愛しており、日本への不当な批判を許せないという純粋な義憤(ぎふん)から、反韓、反中というスタンスに立っていると僕は思っています。だから、そのわだかまりの原因である歴史認識問題について、「相手(中韓)がそう主張したくなる背景」を説明し、少しでも「まぁ、相手の言わんとしていることも分かる」と反感をやわらげたい。保守青年は人一倍、強い正義感を持っているので、民族の誇りを奪うような外交政策の実態を知れば、“俺が相手の立場だったら同じ行動をとるだろう”と、かえって政治・歴史に興味のない若者より、共感を覚えるかも知れない。


今の日本社会には早急に解決せねばならない問題が山積しており、様々な矛盾を解決するために若者の知恵とパワーが必要です。毎年3万人も自殺者が出ている異常な社会構造、労働者の3分の1以上が非正規雇用でボーナスも退職金も有休もなく、正社員は先進国の常識ではあり得ないサービス残業をしていて、労働者の使い捨てや下請けいじめがまかり通っています。政治家と官僚のなれ合い、省の利権を守って高給が流れる天下りシステム、麻薬を流通させている暴力団、世論を原子力推進に戻そうとしている原発マフィア、こうした日々の生活により直接的にかかわる問題に、若者が中韓批判にぶつけているエネルギーが向けば、日本はさらに素晴らしい国になります。龍馬が死んだのは31歳、高杉晋作は27歳。若くたっていろんなことが成し遂げられる!
世の権力者が大昔から使ってきた古典的手法が、“国内問題から目をそらせるため外敵を作って叩かせガス抜き”させること。若者の純粋な正義感を利用して、より深刻な問題を隠そうとする大人たちは卑怯千万です。ズルすぎます。

僕の立場は、旧来の左翼、右翼の枠組みから外れているように思い、タイトルに“愛国リベラル”と入れました。なぜ左翼・右翼に当てはまらないかといえば--
●僕の右派属性
・共産主義者ではない。っていうか、20世紀の共産国は自国民を殺しすぎ。
・歴代天皇124代の墓を“すべて”墓参し(室町・北朝の天皇まで墓参)、建国記念日に奈良・橿原神宮(初代神武天皇の皇居跡)に行き、皇居で催された今上天皇御即位二十年記念特別展に大阪から足を運ぶなど、行動だけ見れば真性右翼。でも人間は生まれながらに平等で、血に優劣はないと思っているので、作られた身分制度としての皇族崇拝には反対。つまり、伝統文化を受け継ぎ、守り続けてきた一族として敬愛している。
・鹿児島・知覧(神風特攻隊基地)や靖国神社・遊就館で、ゼロ戦や人間魚雷「回天」で散った若者の遺書に涙し、ニューギニアやトラック諸島など南方戦線を訪れ戦跡(日本兵慰霊碑)で合掌し、沖縄でも海軍司令部壕や守備隊自決の地を訪れ、ロシアではシベリア抑留者墓地に墓参。
・頭山満や北一輝、二・二六事件の青年将校にも墓参(三島由紀夫には命日に)。
・田母神氏らが東京で主催した「尖閣諸島守れ&ノーベル平和賞・劉暁波さん釈放要求デモ」に参加。田母神氏の歴史観は僕と大きく異なるけれど、主張に同意できる時は協調。
・中国のチベット弾圧に反対するためダライ・ラマ法王日本代表部でいろいろ勉強。
・能や歌舞伎、文楽といった日本の伝統芸能、そして浮世絵や仏像彫刻など日本美術をこよなく愛し、様々な日本文学を愛読し、邦画では黒澤全作品を鑑賞するなど、文化・芸術面も含めて日本への愛は筋金入りと自負。
●僕の左派属性
・日本にも事情があったにせよ、中国やアジア諸国を侵略したことは正当化できない。
・日韓併合は反対派を約1万8千人も殺害して締結させており、「合法的」の一言で開き直ることはできない。
・「日本が植民地にしたから発展した」論はあまりにも傲慢な言葉。今、中国政府が全く同じ事をチベットに言ってる「チベット人は遅れた文化なので、漢民族が鉄道を通してインフラを整えてあげている」。僕は“民族の誇り>インフラ整備”と考えている。
・小林多喜二、幸徳秋水、鶴彬、石橋湛山、尾崎秀実、柳宗悦に墓参。勇気を出して戦争反対を訴え続けた人を心からリスペクト。
--つまり、右派であろうが左派であろうが、日本のことを思って行動している、その心意気に敬意を持っているのです。

既存の平和団体は、米国の核を批判しても中国の核は非難しなかったり、チベット問題に沈黙したりと、若い保守層からあまり信頼されていません。僕のひとつ上の全共闘世代は、不毛な内部対立に明け暮れ自滅してしまった。今こそ40代が、左派、右派、双方の歴史観を知った上で、自分なりの近代史年表を書き上げるべきだと、そう思い至ってキーボードを叩いた次第です。僕も人間なので時々感情的な文体になるけど、相手を論破するとか、やり込めるとか、そんな姿勢ではこの年表を作っていないことを強調しておきます。

人の感情は繊細だから、一度嫌いになったものをすぐに好きになることは出来ないと思うし、自分の国の悪口を言われたら、それが正論であっても面白くないのは当たり前です。だから、嫌韓、嫌中の人に、すぐにその気持ちを捨てて欲しいとは言いません。でも、年表を偏見抜きに見て頂けたら、身内を日本軍に殺された人がまだ存命で、過去にあれだけ日本から痛めつけられれば、反日感情が根強く残ってしまうのも分かってもらえるのではと思います。いわゆる“特定アジア”(中韓北)の反日感情は、保守論客が非難するほど決して理不尽なものではありません。調べれば調べるほど、やっぱりこちらは相当酷いことをしています。
過去の日本人を貶(おとし)めたいわけじゃないし、必要以上に自虐的になっているわけでもないです。ネット世論が「反日教育は許せない!」ではなく、「反日感情が残るのも分かるけど日本はもう昔の日本じゃない、今の日本をちゃんと見て欲しい」というスタンスになり、良い流れが出来ていくことを切望しています。

ネットには右派保守も左派リベラルも、自分に都合の良いように歴史を解釈し、一部分だけ数字(データ)を引っ張り出して自論に持って行こうとする人が多い。中にはあからさまにデマを広める人もいて、歴史認識をめぐる現状は混沌としています。僕は意識して中立的視点に立っているつもりだけど、それでも自分が信じたい情報にだけ飛びついているかも知れない。だから、当年表の事実認識に重大な誤りがあれば、遠慮なくご指摘下さい。間違いが分かった時点で訂正していきます。
この近代史年表シリーズは「韓国・朝鮮編」「中国編」「台湾編」「アメリカ編」「東南アジア編」「昭和天皇昭和天皇かく語りき」の6つで構成されています(リンクは頁末)。

★参考資料(視点が偏らないよう、保守、リベラル、両方に目を通してます)
『世界戦争犯罪辞典』(秦郁彦ほか/文藝春秋)、『教科書が教えない歴史』(藤岡信勝ほか/産経新聞社・扶桑社)、『アジアの教科書に書かれた日本の戦争』(越田稜/梨の木舎)、『戦争論』(小林よしのり/幻冬舎)、『新しい歴史教科書』(藤岡信勝/扶桑社)、『戦争案内』(高岩仁/映像文化協会)、『歴史修正主義の克服』(山田朗/高文研)、『昭和天皇語録』(講談社学術文庫)、『日本はなぜ戦争へと向かったのか』(NHK)、『シリーズ証言記録 兵士たちの戦争』(NHK)、『日中戦争~兵士は戦場で何を見たのか』(NHK)、『さかのぼり日本史 とめられなかった戦争』(NHK)、『世界人物事典』(旺文社)、『エンカルタ百科事典』(マイクロソフト)、ウィキペディア、ほか多数。

僕はいかなる政党、政治思想団体、プロ市民団体、宗教団体にも属していません。単純に「何があったか」、事実を知りたいだけです。



(ショートカット※管理人的には出来れば年表トップから順番に読んで頂きたいですが…)
閔妃暗殺 / 安重根 / 日韓併合条約 / 土地調査令 / 三・一独立運動 / 関東大震災デマ虐殺
韓国・朝鮮人戦犯 / 強制連行 / 創氏改名 / イザベラ・バード悪用 / 脱亜論の嘘 / デマ検証
いわゆる従軍慰安婦について



【近代史年表 日本と韓国/朝鮮】

●1875 朝鮮開国…明治政府は鎖国を続ける朝鮮に開国を迫り、漢城(ソウル)に近い江華島へ軍艦“雲揚”を派遣。その結果、江華島の砲台が“雲揚”を砲撃する江華島事件が起きる。翌年、日本と開戦したくなかった朝鮮は日朝修好条規(不平等条約)を受け入れ開国の道を歩む。

●1895.10.8 閔妃(ミンピ)暗殺…韓国特命全権公使・三浦梧楼(元長州藩士)は、第26代朝鮮国王・高宗(コヂヨン)の妃・閔妃がロシアに接近したことに憤慨。三浦は日本軍兵士を引き連れて王宮に乗り込み妃を暗殺した。三浦は日本人を装った朝鮮人の仕業(反閔妃派)の仕業にするつもりだったが、2人の外国人に犯行を目撃されてしまう。日本政府(伊藤博文首相)は公使が独断で一国の王妃を殺害したことに驚愕。国際批判をかわすため、朝鮮政府に圧力をかけて3人の“真犯人”(朝鮮人)を捕らえさせ、すぐに絞首刑に処して「下手人は日本人に変装した朝鮮人」という嘘をつきとおした。三浦など事件に関係した日本人48人は内地に召還され裁判にかけられたが、証拠不十分を理由に全員が無罪となった。外交官に妃を殺害された朝鮮国王は身の危険を感じ、翌年にロシア公使館に移ってしまう。日本は朝鮮をロシア南下の防波堤にしようと思っていたのに、そのロシアと朝鮮が蜜月になるという最悪の展開になる。

●1904.2.23 日韓議定書調印…日露戦争の開戦(2/10)と同時に日本は朝鮮半島を武力制圧。軍事力を背景に、韓国内の駐留権と内政干渉権を認めさせる日韓議定書に調印させた。韓国植民地化の第一歩。

●1904.8.22 第一次日韓協約調印…韓国政府は日本政府が選んだ人物を財政・外交の顧問に任命しなければならなくなった。また、外交問題は日本と協議のうえ決定しなければならない。この協約を屈辱と感じた韓国皇帝・高宗は、無効にするべく欧米諸国に密使を送った。これを知った日本は反発する。

●1905.11.17 第二次日韓協約調印…日露戦争に勝利した日本は、韓国における権益をロシアに認めさせるポーツマス条約を結ぶ(9/5)。その2ヶ月後、前年の韓国皇帝の密使の件もあり、日本はこの第二次日韓協約で韓国の外交権を奪った(第2条:韓国は今後日本の仲介無しに他国と条約や約束を交わしてはならない)。協約調印の当日、日本軍は王宮前広場で演習を行い無言の圧力をかけた。事実上の保護国とされた韓国内には反日感情が渦巻き暴動に発展、調印時の韓国側閣僚の邸宅が市民の焼き討ちにあった。

●1907.6.15 ハーグ密使事件…韓国皇帝・高宗は日韓協約の無効を訴えるべく、再び密使を欧米諸国に差し向けることを決意。密使はオランダ・ハーグの第2回国際平和会議に派遣されたが会議参加を拒否されてしまう。実は、既に日本と欧米列強は互いの植民地の既得権益を認めることで話はついており、黙殺されたのだった。

●1907.7.19 韓国皇帝譲位…韓国統監・伊藤博文は皇帝高宗の協約違反(外交権がないのにハーグで外交を行った)を責め、皇帝から退位させた。新皇帝は長男・純宗。

●1907.7.24 第三次日韓協約調印…ハーグ密使事件をうけて、日本は韓国への圧力をさらに強め、「韓国政府の官吏に日本人を登用できること」「高級官吏の任免権を日本側(韓国統監)が持つこと」などが定められる。朝鮮の内政は完全に日本の管轄下に入った。さらに韓国軍の解散、司法権と警察権の委任も定められた。

★1907.8.1-1910 義兵決起…外交権だけではなく、警察権や司法権まで奪われ、軍隊まで解散されると知った国民が、独立回復を掲げる義兵(市民軍)となって抗日決起。解体された韓国軍の元兵士たちが中心となり「義兵闘争」が始まる。反乱は全土に広がり、日本軍は日韓併合の1910年まで3年間にわたって苛烈な討伐戦を続けた。
日本側の『朝鮮暴徒討伐誌』によると、併合までの3年間で殺害された“暴徒”や義兵は1万7718人。一方、捕虜は1933人しかいない。この捕虜の少なさは異常。韓国側は正規軍ではなく、個人参加の民兵だ。戦局が不利と分かれば投降する者が多いはず。それなのに、捕虜は戦死者の約10分の1しかいない。あきらかに日本側の“鎮圧”が投降を許さない殺戮であったことを語っている。この戦いの日本側の戦死者は133人。
※韓国軍の解散式で既に交戦があった。「今日(8/1)午前9時、韓国軍に解散の命令が下ると、(韓国軍の)侍衛第一大隊長は憤激して自殺した。同隊の兵が銃をとった為、我軍応戦の末、突撃を加えて兵営を占領せり。韓兵将校以下俘虜200死傷無数。我軍戦死中隊長1名、特務曹長1名、外に死傷40名あり」(東京朝日新聞 明治40年8月3日)。
※参考にした外部サイト(詳細リンク)

●1908 反日運動の政治犯を取り締まるため西大門刑務所をソウルに建設。

●1909.10.26 伊藤博文暗殺…初代韓国統監・伊藤博文がハルビン駅で安重根(アン・ジュングン、30歳)に撃たれ絶命する。安はロシア官憲に取り押さえられ、日本側に引き渡された。安はもともと親日寄りで、日露戦争で日本が勝つと“アジアが西欧を倒した”“日本はアジアの希望”と喝采を贈っていた。ところが、日露戦争後の日本は、韓国に内政干渉し、外交権を奪い、皇帝を退位させ軍や警察まで解散させた。深く失望した安は、独立運動のためロシアへ亡命して「大韓義軍」を組織し、同志と共に薬指を切り、その血で国旗に大韓独立の文字を書き染める筋金入りの抗日活動家になった。
逮捕後、安は取り調べに際し、伊藤暗殺に至った理由を述べた。「韓国皇帝を廃位させたこと」「韓国の軍隊を解散させたこと」「義兵鎮圧に際し多数の良民を殺害させたこと」「不平等条約を結ばせたこと」「韓国の学校教科書を焼却させたこと」「韓国人民に新聞購読を禁じたこと」等々。その中には「明治天皇の父君(孝明天皇)を暗殺したことは韓国民みなが知っている」という驚愕の理由も含まれている。
翌年2月、事件から4ヶ月後に死刑判決が下る。安は母から「あなたの死はあなた一人のものではなく、韓国民の怒りを背負っている。控訴をすればそれは命乞いになってしまう」と手紙を受け取り控訴しなかった。

※安の怒りは逆の立場にすると理解しやすい→「日本の天皇を廃位させたこと」「日本の軍隊を解散させたこと」「義兵鎮圧に際し多数の良民を殺害させたこと」「不平等条約を結ばせたこと」「日本の学校教科書を焼却させたこと」「日本国民に新聞購読を禁じたこと」等々。

当初、暗殺犯の安を憎んでいた日本人看守の千葉十七(関東軍上等兵)は、安が主張する“日本の非”は韓国人からすれば筋が通っていること(幕末に異国脅威を訴え、攘夷に燃える勤王の志士と通じるものがあった)、「国の平和とは、貧しくても人々が独立して生きていけることだ」という安の信念に心を動かされ、会話を通して人柄や思想に共感を覚えた。安は旅順監獄(現・大連)で「東洋平和論」を書きあげる。
死刑執行は判決の翌月、3月26日。安は処刑直前、千葉に「為国献身軍人本分」(国の為に身を捧ぐるは軍人の本分なり)と書き贈り、最後に「東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語った。千葉は帰国後もこの書を大切にし、安の冥福を祈る日々を過ごす。
また、安は裁判担当の日本側検事をして「韓国のため実に忠君愛国の士」と感嘆せしめたほか、旅順監獄の刑務所長・栗原貞吉も安の人物に共鳴し、法院長や裁判長に“助命嘆願”を書いたり、煙草等を差し入れ、処刑前日には絹の白装束を贈っている。執行後、栗原所長は安の死に胸を痛めて故郷広島に帰ったという。
晩年の伊藤博文は日韓併合に傾いていたが、それでも政府内では併合慎重派だった。安は伊藤を暗殺したことで、結果的には併合を加速させ、処刑5カ月後に大韓帝国は地図上から消滅してしまった。
1970年、ソウル市内に安の偉業を伝える「安重根義士記念館」が建設された。
※千葉十七の墓がある宮城県栗原市の大林寺には安の顕彰碑が建立され、毎年日韓合同で安重根・千葉十七夫妻の供養が執り行われている。

●1909.12.22 韓国首相・李完用は不平等な日韓協約を締結して朝鮮民衆から“売国奴”と怒りを買っており、刺客に襲われ片肺を失う重傷を負う。

●1910.8.13 第3代韓国統監・寺内正毅が韓国併合決定を韓国政府の閣僚に伝える。韓国側は新しい国名を日本が決めることに驚き、韓国の名称を残すよう要望するが拒否される(日本が決めた新国名は“朝鮮”)。

●1910.8.22 日韓併合条約(韓国併合ニ関スル条約)調印…韓国が日本に併合される。日本はソウルに統治機関(朝鮮総督府)を置き、韓国の全政治団体を解散させ、あらゆる集会を禁止し、朝鮮語の新聞を廃刊にした。
文面上は「韓国皇帝が天皇に統治権を譲渡し、それを天皇が承諾する」という形になっている。しかし、この併合を支持していた親日派の政治結社・一進会が求めていたのは「対等合併」だった。それが蓋を開けてみれば「従属合併」になっていた。翌月、併合を推進した一進会は“用済み”となり強制解散させられた。

〔日韓併合は韓国に頼まれた、韓国皇帝が希望した、併合は国際社会が認めた、韓国の為にしてあげたという歴史認識について〕
日本側が記録した『朝鮮暴徒討伐誌』によると、1907年から10年の日韓併合までに14万人もの抗日義兵が存在していた。日清戦争における日本兵の戦死者数は約1万3千人だが、韓国の抗日義兵の犠牲者は、併合までの3年間だけで約1万8千人にのぼる。内政の人事権を奪い、外交権を奪い、軍隊を解散させ、司法権と警察権も奪い、日本軍を進駐させ、約1万8千人を殺害し、その上で併合案を認めさせた。条約の文面だけで“強制じゃなかった”というのは、僕にはエゲツなく感じる。本当に韓国側が併合を希望しているなら、なぜゆえ膨大な数の民衆が命懸けで抵抗したのか。
保守論客は「日韓併合は韓国最大の政治団体・一進会に求められた」というが、先述したように一進会が求めたものは「日韓の対等合併」だ。合併後に一進会を解散させたのは、彼らの反発を恐れてのことだろう。韓国皇帝は第一次日韓協約後も、第二次日韓協約後も、協約を無効にしたくて密使を列強に送っている。協約承認が日本側の押し付けであったのは明らか。
ペリーの黒船来航時、幕府は江戸湾に浮かぶ4隻の船と大砲を見ただけで、震え上がって不平等条約を結んだ。多くの日本人は武力の威嚇で無理強いされたと感じている。でも、ペリーは「何もしてないよ」とうそぶくだろう。日韓に置き換えてみたら分かりやすい。幕府が内政権、外交権を奪われ、すべての藩兵が武装解除され、1万8千人の攘夷派志士が殺され、江戸城の庭で米国海兵が演習している状態で、幕府は条約調印を断れるだろうか。日本はそれを韓国にやってるのに、保守論客は“強制なんかしてない”と言っている。
「国際社会が併合を認めた」というのもウラがある。列強は無条件で韓国支配を認めた訳ではない。交換条件があった。フランスの場合、インドシナの植民地支配の承認が韓国支配を認める条件だったし(日仏協約/1907)、ロシアの場合は外モンゴル&北満州の支配承認が交換条件(日露協約/1907)、英国の場合は日英同盟の更新(1905)で加えられたインド防衛の同盟義務が韓国支配承認の条件だった。こういう裏取引があったから併合が認められたんだ。
「併合で同じ“日本”になったから植民地支配ではない」と保守論客はいう。それならば問いたい。国際的にも合法なら、なぜ日本は敗戦と同時に朝鮮半島を返還したのか。“日本人と同等に扱い何らやましいことはない”のであれば、なぜ半島で暮らしていた日本人は敗戦と同時に統治を放棄して本土へ逃げ帰ったのか。そして何より、なぜ日本政府は「朝鮮半島は合法的に得た日本の領土」と戦後ただの一度も主張せず、取り返そうとしないのか?
日韓併合条約を締結した夜、初代朝鮮総督となった寺内正毅は「(秀吉軍の)小早川、加藤、小西らが世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ」と得意げに詠んだ。一方、当時24才の石川啄木は日本の強引な外交をこう憂えた「地図の上 朝鮮国に くろぐろと 墨を塗りつつ 秋風を聴く」。

●1912 土地調査令発布…朝鮮の人々が経済的に最も深刻なダメージを受けた土地調査令。土地を持っている者は申告せよ、というもの。農民の多くは文盲であったため期限を限られた複雑な登録手続きが出来ず、土地を失うことになった。総督府は所有権がハッキリしない、届け出がない、などの理由で朝鮮の全農地の40%を「合法的に」没収し、その所有者となって、今度は日本からの移住者に格安で転売した。こうして土地を失った多くの朝鮮人が日本や満州へ流れていった。併合から20年後、日本への米の輸出は倍増し、逆に朝鮮人の米の消費量は3分の1ほど減っている。生産が増えているのに食えないという飢餓輸出。
※海を渡って来た半島の人のことを「貧乏で食えないので勝手に来た」と見下げる意見をたまに聞くけど、こうした背景を知っていればそんなこと言えないと思う。


〔土地の奪取について〕
朝鮮半島・全羅北道における1920年と11年後の1931年の土地所有者の統計がエグイ。単位は町歩。
日本人所有 3,674→8,999
朝鮮人所有 4,181→3,545
国有水田や法人企業(つまり日本所有) 2,694→7,292
合計10,549→19,836
合計を見れば水田面積は約2倍になっているけど、朝鮮人所有の土地だけが減っている。日本に合併されなければ、1920年時点で丸々1万町歩が朝鮮人の田畑だった(既に1912年の土地調査令で4割奪われている)。だが、植民地化のため1931年は3545町歩しかない。水田がなくてどうやって農家が生きていけるのか。保守派がいうように朝鮮の植民地経営がバラ色なら、わざわざ国を出て日本や満州に移住した朝鮮人はもっと少なかっただろう。

●1919.3.1 三・一独立運動事件…近代朝鮮で最大の反日運動。言論の自由も選挙権も、土地という経済的基盤さえも日本に奪われた人々の間には独立の機運が高まり、3月1日に爆発する。この民衆蜂起は「独立万歳」を合言葉に、またたく間に全土に広がった(ソウルでは60万人がデモ)。当初は平和的デモ行進だった運動も、弾圧強化にともなって先鋭的になり、日本は容赦なく武力鎮圧を行った。例えば、日本軍歩兵第78連隊は4月15日に堤岩里村で“独立派の疑いあり”として15歳以上の男子24人を教会に閉じ込め、火をつけて乱射し(23名死亡、1名脱出)、証拠隠滅のため同村の33軒を焼き払い男女7人を殺害した(堤岩里事件)。三・一独立運動は逮捕、投獄、拷問、虐殺など日本側の徹底弾圧により5月にはほぼ鎮圧された。3ヶ月間の朝鮮人の犠牲者数は、朝鮮側の発表では死者7509人、負傷者15961人、逮捕者46948人。総督府の発表では死者553人、負傷者1409人。日本側の被害は官憲の死者8名、負傷者158名。この独立運動を受けて総督府は締め付けをやや緩和し、朝鮮語の新聞の発行を許可するようになった。
※“韓国のジャンヌ・ダルク”柳寛順(ユ・ガンスン)…4月2日、並川(ビョンチョン)にて日本人憲兵隊が独立運動デモ隊への無差別発砲を行い19人が射殺され、女子学生・柳寛順(15歳)は目の前で両親を失った。この日、彼女を含む600人が逮捕され、憲兵は独立運動の情報を吐かせるため激しく拷問を加えた。彼女は獄中で連日「独立万歳」と叫び続け、逮捕から1年半後、西大門刑務所の地下監獄で栄養失調により17歳11ヶ月の短い生涯を終えた。

〔民芸学者、柳宗悦(やなぎ・むねよし)の戦い〕
日本人の中にも独立運動への弾圧を批判する者がいた。東京出身、民芸学者の柳宗悦だ。父親は海軍少将。僕らが普通に使っている“民芸品”という言葉は柳の造語だ。雑誌『白樺』の創刊にかかわり、ゴッホの“ひまわり”を日本人に紹介した。柳は日韓併合から5年後、朝鮮旅行をきっかけに李朝の磁器など朝鮮工芸に魅了された。30歳の時に「三・一独立運動」が勃発。すぐさま「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と武力に頼った植民地政策を強く批判し、日本の新聞に論文『朝鮮人を思う』を寄せた。「余は朝鮮について知識のある日本の識者の思想が、深みもなく温か味もないのを知り、隣人の為にしばし涙ぐんだ。日本の古美術は朝鮮に恩を受けたのである。法隆寺や奈良の博物館を訪れた人はその事実を熟知している。我々が今国宝として海外に誇るものは、殆ど大陸の恩恵を受けないものはないだろう。しかし今日の日本は報いるのに朝鮮芸術の破壊をもってしたのである。余は世界芸術に立派な位置を占める朝鮮の名誉を保留するのが日本の行なうべき正当な人道であると思う」。これは日本国内のみならず半島でも大きな反響を呼んだ。柳は民芸学者の立場から文化の多様性を重んじ、戦時中は日本が行った強引な同化政策を批判し、勇気を込めて軍国主義の放棄を説いた。民芸品に対する愛は、朝鮮や沖縄の独自文化への敬意に昇華され、各地域の生活様式を尊重せよと生涯に渡って訴えた。40歳の時には京城(ソウル)に朝鮮民族美術館を開設している。
※現在日本で国宝に指定されている飛鳥仏の大半が朝鮮半島からの渡来人によって彫られたものであり、法隆寺の百済観音のように直接海を渡ってきた名仏も多い。

●1919-20 間島(かんとう)出兵…日本軍に追われた義兵の一部が北上して中国・間島地方に逃れたため、日本軍1万が「不逞(ふてい)鮮人討伐」を名目に間島へ出兵、住居や教会を焼き払い3千人余の朝鮮人を殺害。

●1923.9.1 関東大震災後の朝鮮人虐殺…関東大震災直後に、混乱を利用して朝鮮人独立運動家を摘発しようと考えた内務大臣・水野錬太郎、警視総監・赤池濃(あつし)、警視庁官房主事・正力松太郎(後の読売新聞社長)らは、軍と警察を通して「暴徒化した朝鮮人が井戸に毒を入れ、放火して回っている」「爆弾を持っている」というデマを日本中に流した。市民は流言を信じ、震災から4日間で3689もの自警団が組織された。軍の一部から銃剣、日本刀を貸し与えられた自警団は血眼になって朝鮮人を探した。朝鮮人は日本語の「ジュ」の発音が苦手で「チュ」と言ってしまうことから、自警団は朝鮮人らしい人間を見つけては「15円55銭」と発音させ、うまく言えなかった者をその場で処刑、又はリンチにした。
死者数は当時の東大教授・法学博士の吉野作造の調査が2613人余、半島系新聞が6661人、内務省調査が231人と、議論が分かれている。また、方言を話す地方出身の日本人や聾唖者(聴覚障害者)も、朝鮮人と誤解されて59名が殺害されており、女子・子供を含む在日中国人200余名も殺害されている。
震災時に実際に朝鮮人の犯罪が十数件あったことから、“朝鮮人暴徒はデマではない”という人がいる。その犯罪者たちは確かに悪党だ。しかし誰も「井戸に毒」なんか入れてない。朝鮮人全体と犯罪者は分けるべきであり、内務省トップや警視総監が意図的にデマを流し、朝鮮人をひとくくりにして虐殺の対象としたことが相殺される訳ではない。
詩人・萩原朔太郎(当時37歳)の言葉「朝鮮人あまた殺され その血百里の間に連なれり われ怒りて視る、何の惨虐ぞ」。

※福田村事件…震災5日後、千葉県福田村(現野田市)にて香川県の薬売り行商人15名のうち妊婦・子供を含む9名が、讃岐弁を聞き慣れない自警団によって朝鮮人と判断され虐殺された。
※藤岡事件…震災4日~5日後に群馬県藤岡市で起きた虐殺事件。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という流言を信じた旧新町(現高崎市)の土木業者が、従業員らの朝鮮人17人を旧藤岡署に収容させた。近隣住民は「警察が朝鮮人をかばっている」と暴徒化。約二千人の群衆が日本刀や猟銃を持って署内へなだれ込み、無抵抗で抱き合い、命乞いする朝鮮人を暴行。遺体にまで危害を加え、警察の現場検証で血に染まった肉塊が確認されたという。殺人容疑などで37人が摘発されたが、大半が執行猶予付きなど軽い刑だった。現場近くの成道(じょうどう)寺には慰霊碑が立つ。
※官憲や陸軍の一部は震災を好機として社会主義や自由主義の指導者を殺害しようと画策。憲兵大尉・甘粕正彦はアナキストの大杉栄、伊藤野枝を殺害。亀戸警察署では軍が社会主義者・川合義虎、労働運動指導者・平澤計七など13人を殺害。平澤は首を切り落とされた。
※朝鮮人を虐殺から懸命に救おうとした日本人もいた。横浜の鶴見警察署長・大川常吉は、朝鮮人300人を署内に保護した。興奮した千人の群衆が「朝鮮人を殺せ!」と警察署に殺到すると、大川署長は大声で一喝した「朝鮮人が毒を入れたという井戸の水を持ってこい。私が目の前で飲む。異状があれば朝鮮人は諸君に引き渡す。異状が無ければ私に預けよ!」「朝鮮人を殺す前に、まずこの大川を殺せ!」。一升ビンの井戸水を飲み干した大川の対応に、群衆は理性を取り戻して引きあげた。また、横須賀鎮守府長官の副官・草鹿龍之介大尉は、在郷軍人の武器放出要求や実弾使用申請に対し断固として許可を出さなかった。

●1932.1.8 桜田門事件…陸軍始観兵式を終え帰途についた昭和天皇の馬車が皇居・桜田門外に差し掛かった際、朝鮮独立運動の活動家・李奉昌(イ・ボンチャン)が手榴弾を投げつけ、近衛兵一人が負傷した。犬養毅首相は辞表を出したが慰留。同年10月10日、李奉昌は処刑された。終戦の翌年、在日韓国・朝鮮人らが遺骨を発掘し、朝鮮にて国民葬が行われた。李は白貞基(ペク・チョンギ)、尹奉吉(ユン・ポンギル)らと共に“義士”としてソウルの孝昌公園に埋葬された。

●1938.2.26 陸軍特別志願兵令…日中戦争が勃発した当初は、日本の外地であった朝鮮及び台湾では徴兵制が施行されていなかった。だが、戦争の長期化により1938年2月に朝鮮人に対して陸軍特別志願兵令が施行され、朝鮮人日本兵が戦線に送られることとなった。終戦時の日本軍737万人(陸軍571万、海軍166万)に対し、募集枠は初年が406人、1943年(徴兵制に切り替わる前の最後の年)が6千人と非常に少ない。これは植民地側の人間に武器を持たせることへの懸念があった為。
※1943年の志願者は30万人で倍率は50倍という高さ。この数字をどう見るか。日韓併合から約30年が経ち、多くの若者は生まれた時から既に“日本人”になっており皇民として立ち上がったのだろうか。朝鮮人日本兵の証言では「徴兵時の建前は“募集”だったが、最初から半島の村ごとに兵員の割り当て人数が決まっていた」という。隊内で反乱を起こされては大変なので、思想的に危険人物でないか、大目に志願させてふるいにかけるためではないだろうか。これについてはさらなる考察が必要。ちなみに海軍の志願兵令は1943年7月27日から。13人の朝鮮人日本兵が神風特攻隊として散った。

〔NHK教育 ETV特集『韓国・朝鮮人戦犯の悲劇』〕(冒頭5分。これだけでもズシリと来る)
日本の戦争に動員され戦犯として裁かれた朝鮮半島の人々を取材。終戦後、BC級戦犯5700人が捕虜虐待・住民虐殺の罪で裁かれ、934人が処刑になったが、23人は半島出身だった。半島出身者は捕虜監視員をさせられた。6人で500人の捕虜を監視し、逃がすと自分が殺された。軍では虐げられ、日本軍の二等兵にさえ敬礼させられた。
/捕虜監視員は命じられて病気の捕虜を鉄道建設の現場へ連れて行った。結果、多数の捕虜が命を落としたことから、戦争犯罪として死刑となった(日本占領地では連合軍捕虜の27%が死亡)。韓国人は死刑台の上で「独立万歳」と叫んだ。“日本兵”として扱われ、処刑される韓国人は、死に対して納得がいかなかった。
/元BC級戦犯の李鶴来(イ・ハンネ)さんはタイの捕虜収容所の監視員。死刑判決を受けたが減刑され、懲役20年となった。巣鴨プリズンで刑期を終えて半島の故郷へ戻った仲間は、「戦争協力者」「対日協力者」として非難された。釈放後に2人自殺した。サンフランシスコ講和条約で日本国籍を奪われ、日本人ではないので遺族年金も何もない。63年放置され家族は崩壊した。「日本人の場合は同じ戦犯、死刑囚であっても、自分の国の為に戦って死んでいくんだという心の拠り所がある。私たちには祖国の為に尽くしたという慰めがなかった。それがすごく辛い」。

●1938.5.5 国家総動員法施行…日中戦争の長期化にそなえて、軍需動員など強力な統制をはかるために立法。議会の承認をはぶいて勅令(ちょくれい、天皇の命令)だけで運用する前例のない法律であり、立法権を無視された議会は反発したが、政府は陸軍の圧力を背景に制定を強行した。総動員法の施行後は「国民徴用令」「新聞紙等掲載制限令」「価格等統制令」「生活必需物資統制令」「国民職業能力申告令」など多数の統制令がつくられ、法案の拡大解釈により思想統制、肉体労働の強制、集会・大衆運動の制限など、国民生活は軍事一色になっていく。

●1939 国民徴用令/強制労働…日本国内の労働力不足を補うため、朝鮮では「募集」という名の強制連行が開始された。企業による「募集」方式で効果があがらなかった為、1942年に朝鮮総督府が徴発業務を一元化する「官斡旋」方式が導入される。そして1944年からは「徴用」方式となり、行政機構や警察権力を動員して強制的な徴用が始まった。1939年から1945年までの6年間に強制連行された朝鮮人は、大蔵省の1947年の調査で約73万人(不況や朝鮮戦争により自分の意思で来日した人もいるけど、この73万人は国が関わった強制連行)。連行された朝鮮人の約半数の35万人強が炭鉱で働かされ、これは全炭鉱労働者の3分の1以上に相当した。連行された人々は、他に製鉄所、港湾、道路建設などで労働に従事させられた。過酷な労働環境で負傷、死亡する者も多く、逃亡や反抗事件も多発。秋田県の花岡鉱山では1年間で中国人労働者418人が死亡し蜂起事件が起きた。
また、軍要員として朝鮮からは15万人が動員された。従軍慰安婦については後述する。

●1940.2.11 創氏改名…朝鮮人の姓名を日本式の氏名に変えさせる政策。朝鮮式の姓をやめて日本式の氏にすること(創氏/義務)と、日本式の名に改めること(改名/任意)が、1940年2月11日(皇紀2600年の紀元節)に朝鮮総督令で制定された。目的は朝鮮の男系血族を中心とする家族制度を、日本の戸主を中心とする家族制度にあらため、朝鮮人を天皇制のもとに皇民化するもの。朝鮮の人々は、名前を変えること自体より、家制度の導入に抗議していた(朝鮮は夫婦別姓)。
※保守派の中に「創氏改名は強制でなかった」論がある。実際はどうなのか。当時の朝鮮人口は2300万人。登録申請期間(2/11~8/10)の初日、行政機関の職員は祝日を返上して届出を待っていた。ところが当日の届出はたった48件!日本側は朝鮮人からの「熾烈なる要望」に応えて創氏改名を実施したという立場。「天皇陛下の温かい思召しによって、朝鮮人も日本式氏を名のることが許された」という。本当にそうであれば、我先にと役所へ申請にくるはず。
創氏届出の月別統計は、戸籍総数428万2754戸のうち、2月に届け出たのは1万5746戸、つまり全体の0.36%だけ。翌月も4万5833戸で1.07%のみ。半年間の届出期間の中間日、5/20時点でも届出総戸数は32万6105戸で、総戸数の7.6%に過ぎなかった。
危機感を抱いた総督府は様々な弾圧に乗り出した。「創氏をしない者は、非国民もしくは不逞鮮人と断定して、警察手帳に登録し査察、尾行を徹底すると同時に、優先的に労務徴用の対象者にする。あるいは食料その他物資の配給対象から除外する。行政機関に一切採用しない。現職者も漸次免職」「創氏をしない者の子女に対しては各級学校へ入学、進学を拒否する。教師が叱責するなどして児童の哀訴によってその父母が創氏するようしむける」「創氏しない朝鮮人の名札がついている荷物は鉄道局や運送店が取り扱わない」「期限までに届け出なかった場合には、戸主の姓を自動的に“氏”にする(法定創氏)」等々。これによって後半3ヶ月で約300万戸を創氏させ、創氏率79.3%を達成した。

痛ましいことに、柳健永(ユ・コニョン)、薜鎮永という、命を断って抗議した者も出た。柳健永の遺書「(日韓併合で)とうに国が滅びるとき死ぬこともできず、30年間の恥辱を受けてきたが、彼らの道理にはずれ人の道に背く行いは、聞くに耐えず見るに忍びず…いまや血族の姓まで奪おうとする。(略)柳健永は、獣となって生きるよりはむしろ潔い死を選ぶ」。柳健永は、総督府、経学院、中枢院に創氏改名の抗議書を送り、毒を仰いで7/24に自決した。
麻生太郎元首相いわく「満州で仕事がしにくかったから、名字をくれと言ったのが、そもそもの始まりだ」。その言葉は、食糧配給、就職、進学で差別して申請させた実態とあまりに差がある。
※個人の名前どころか国名を「韓国」から「朝鮮」に変えたのも日本。自分の国の名前を他の国に決められるなど、それこそ愛国心に理解のある保守派なら辛さと屈辱感が分かると思う。
※参考にした外部サイト(数字はこちらから)
※参考にした外部サイト(麻生発言について)

●1941.12.8 太平洋戦争勃発…日本がイギリスやアメリカ合衆国に宣戦布告。1944年に朝鮮徴兵令施行。

●1945.8.9 ソ連軍侵攻…スターリンは1945年2月のヤルタ会談において、「ドイツ降伏から3ヶ月以内にソ連は日本に参戦する」と英米と密約を結んでいた。5/8にドイツが降伏したことから、3ヶ月後の8/8にソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦。翌8/9零時から日本支配下の満州と朝鮮に侵攻を開始した。

●1945.8.14 トルーマン米大統領が「北緯38度線で朝鮮を分割、日本軍を武装解除」とソビエトに通告、スターリンは同意した。

●1945.8.24 浮島丸事件…浮島丸は青森県大湊の海軍施設部で働いていた在日朝鮮人を帰国させるため、朝鮮人3735人、日本人乗組員255人を乗せて大湊から釜山に向けて8/22に出港した。ところが米軍総司令部から日本艦船に対し、「24日18時以降の運行禁止」命令が出たため、浮島丸は最寄りの舞鶴港に寄港することになった。舞鶴港は軍港であり、周辺はB29が港を使用不能にするために機雷を撒いていた。24日夕刻、浮島丸は触雷して沈没、朝鮮人500人以上、日本人25人が死亡した。

●1950.6.25~1953.7.27 朝鮮戦争…日本降伏後、朝鮮半島はアメリカとソ連の占領管理下に入る。1948年8月、アメリカ管理下の地域が大韓民国の樹立を宣言し、李承晩(イ・スンマン)が大統領に就任。翌月にソ連管理下の地域が北朝鮮となり、金日成(キム・イルソン)が首相に就任する。両者は米ソの支援を受けながら、祖国統一を掲げて対峙する。
1950年6月25日早朝、突如として朝鮮人民軍が“南半部を解放するため”38度線を突破、南進する。同日、国連安保理は北朝鮮非難決議を採択、27日に加盟国に韓国への軍事支援を勧告した。開戦3日後の6/28、朝鮮人民軍はソウルを陥落させた。ソウルが落ちた2日後、在日米軍が釜山に上陸し、北上を開始。沖縄駐留のB-29は北朝鮮を爆撃した。7月7日、東京の連合国軍最高司令官マッカーサーを国連軍総司令官に任命し、16カ国からなる国連軍が編成された。
だが、国連軍の参戦にもかかわらず朝鮮人民軍の猛攻が続き、開戦3ヶ月後に、国連・韓国軍は半島の片隅(釜山・大邱)に追い込まれた。9/15、国連軍がソウル近郊の港町、仁川に上陸作戦を決行、ここから起死回生の大反撃が展開され、9/26にソウルを奪回、10/1には韓国軍が38度線を突破してさらに北進した。国連総会は武力による朝鮮統一を承認、10/19にはとうとう平壌を陥落させた。
この戦況を見て、新たに中国人民義勇軍が北朝鮮を助ける為に参戦し、12/4に平壌を朝鮮人民軍と共に奪い返した。さらに翌年1月4日にソウルを再占領。戦局が目まぐるしく変化した。国連総会で中国非難決議が採択され、3/14には国連・韓国軍はソウルを再奪回した。その後、戦線は38度線を境に一進一退が繰り返され、マッカーサーは中国本土とシベリアに原爆攻撃を主張。トルーマンは4/11にマッカーサーを解任した。最前線では原爆こそ投下されなかったものの、細菌弾や毒ガス弾まで飛び交った。
1951年6月23日、ソ連が休戦を提案、関係各国はこれを受け入れ休戦交渉が始まった。2年間の交渉を経て、1953年7月27日、ようやく板門店で休戦協定が調印された。この戦争で国連・韓国軍側は50万人近い戦死者と100万人ほどの負傷者を出し、朝鮮人民軍・中国人民義勇軍側は約100万人の戦死者とほぼ同数の戦傷者を出した。民間人の死亡者、行方不明者は南北あわせて200万人以上にのぼったという。
国連軍の兵站基地となった日本は朝鮮特需で経済復興を成し遂げ、同年9月に連合国48カ国との間でサンフランシスコ講和条約に調印、主権を回復した。
※朝鮮戦争は、韓国では「六・二五動乱」、北朝鮮では「祖国解放戦争」と呼んでいる。

●1965.6.22 日韓条約…国交正常化を目指し、日韓基本条約で外交関係を樹立。同時に日韓漁業協定、賠償請求権問題の解決と経済協力に関する協定、在日韓国人の法的地位および待遇に関する協定、文化財および文化協力に関する協定などを一気に締結。対日賠償請求権は、無償贈与3億ドル、政府借款2億ドル、3億ドル以上の民間借款などの供与が確認された。この日、竹島の帰属問題は棚上げされた。


〔植民地時代に人口や耕作地が増加しているのは日本の善政の証拠?〕

●人口ついて…「日本が支配した時期に人口が増加しているのは善政の証拠」という意見がある。だが、日本の朝鮮統治による人口増加率が年平均1.2%だったことに対し、同時期の米国のフィリピン統治は倍近い2%、フランスのラオス統治も1.8%。この時代は医学の発展により、世界的に人口が増えており、半島の人口増加を善政の証明とするには無理がある。こちらのサイトでは上記データと共に、中国共産党の支配下で人口が2.1倍になったと指摘している。保守が唱えるように人口増加で植民地政策を正当化するならば、一党独裁の中共政府も評価することになるけれどそれでいいのだろうか?

●米の生産量について…朝鮮から日本へ輸出された米の量は、1912年の291万石から、1928年の740.5万石に倍以上も伸びている。ところが、朝鮮人一人当たりの米消費量は、同時期に772石から540石に減っている。増産された米が朝鮮人の腹に入っていない。「飢餓輸出」になっている。ちなみに1928年の日本人一人当たりの米消費量は1129石で朝鮮人の2倍強だ。
※参考にした外部サイト(データはこちらから)


〔イザベラ・バード『朝鮮紀行』の悪用〕

1895年に朝鮮を訪れたイザベラ・バードは感想を次のように綴った。
「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい」「推定25万人の住民は主に迷路のような道の“地べた”で暮らしている」「路地の多くは…家々から出た糞、尿の 汚物を受ける穴か溝で狭められている」「ソウルの景色のひとつは小川というか下水というか水路である。蓋のない広い水路を黒くよどんだ水がかつては砂利だった川床に堆積した排泄物や塵の間を悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく」「ソウルには芸術品がまったくなく、公園もなければ見るべき催し物も劇場もない。他の都会ならある魅力がソウルにはことごとく欠けている。古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはおよそ無関心だったため寺院もない。結果として清国や日本のどんなみすぼらしい町にでもある堂々とした宗教建築物の与える迫力がここにはない」
ネットでよく見かけるコピペだ。だが、このソウルの風景は第1回韓国訪問の記録。イザベラはその後、清国、日本を旅して、翌1896年10月に朝鮮に戻る。折しも大韓帝国では「光武改革」が進行中だった。彼女は驚嘆した。
「ソウルの多くの区域が、なかでも特に〈南大門〉と〈西大門〉の付近が文字どおり変貌していた。両脇に石積みの深い運河があり石橋のかかった、狭いところで幅五五フィートの大通りは、かつてコレラの温床となった不潔な路地のあったところである。狭かった通路は広げられ、どろどろの汚水が流れていたみぞは舗装され、道路はもはやごみの“独壇場”ではなく、自転車が広くてでこぼこのない通りを“すっ飛ばして”いく。“急行馬車”があらわれるのも間近に思われ、立地条件のすばらしいところにフランス系のホテルを建てる構想もある。正面にガラスをはめこんだ店舗は何軒も建っているし、通りにごみを捨てるのを禁止する規制も強化されている。ごみや汚物は役所の雇った掃除夫が市内から除去し、不潔さでならぶもののなかったソウルは、いまや極東でいちばん清潔な都市に変わろうとしている!」
(『朝鮮紀行』イザベラ・バード/講談社学術文庫 P543~544)
併合の18年前にソウルには韓国資本で市電が開通している。明らかに彼女は2回目の訪問の驚きを強調したいが為に、1回目の光景をあそこまで辛辣に記している文脈に見える。ただ、彼女は最後のまとめで「外部の影響によって初めて朝鮮は変革が可能となった」と指摘しているので、日本や列強の介入を批判しているわけではない。僕が言いたいのは、紀行文の主旨は2回目の感動にあるのに、1回目の方だけをネットに貼るのはちょっと違わないかということデス。
※参考にした外部サイト


〔福沢諭吉“脱亜論”の真実〕
●1885.3.16 福沢諭吉“脱亜論”…福沢諭吉は差別主義者か、そうでないのか。政治系のネットでよく見かけるのが、以下の『脱亜論』コピペ。
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日本の不幸は中国と朝鮮である。この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているが、もともと人種的に異なるのか、教育に差があるのか、 日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。情報がこれほど早く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、過去に拘り続ける中国・朝鮮の精神は千年前と違わない。国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。
「東アジア共同体」の一員として その繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。日本は、大陸や半島との関係を絶ち、 欧米と共に進まなければならない。ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならない。この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。
福沢諭吉 「脱亜論」(明治18年)
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『学問のすゝめ』で「大名の命も人足の命も、命の重きは同様なり」と書いている諭吉と、『脱亜論』で過激発言をしている諭吉が僕の中でずっと一致しなかった。そこでいろいろ調べて分かった事がある。諭吉は朝鮮や清の政府権力を批判しても、民族全体を蔑視したことはなかった。それに原文には「国際的な紛争の場面でも“悪いのはお前の方だ”と開き直って恥じることもない」にあたる文章はない。以下、気付いたことを色々。
(1)「脱亜入欧」という言葉を諭吉の信念の如く思い込んでいる人がいるけど、諭吉が「入欧」という言葉を使った事は一度もなく、「脱亜」という単語も使用されたのは「脱亜論」1編だけ。つまり「脱亜入欧」が諭吉の思想の核にあったわけではない。
(2)しかも「脱亜論」は諭吉主宰の『時事新報』(1885年3月16日付)の社説ではあるが、あくまでも無署名であり、諭吉が書いたという証拠はない。複数の人物が社説を書いており高橋義雄など別人の起稿ではないか。その証拠に、諭吉自身は掲載の前も後も「脱亜論」に言及したことがない。
(3)「脱亜論」掲載時、この社説は世間で全く話題になっておらず、発表から48年が経過した1933年(満州事変2年後)に、岩波『続福澤全集・第2巻』へ収録されるまで忘れられていた。
(4)さらに18年が経った1951年、戦後になって歴史学者・遠山茂樹が「脱亜論」を“発見”し、アジア侵略論の源流として紹介した。
(5)近年、「脱亜論」の原文から一部分のみを抜粋し意訳したものを保守が好んでネットに流している。
(6)諭吉自身は朝鮮人を蔑視するどころか、朝鮮近代化への大きな情熱を持っていた。慶應義塾に朝鮮人留学生を積極的に受け入れ、朝鮮文化発展の為に私財を投じて朝鮮最初の新聞を発行し、ハングル活字を鋳造させた。
(7)諭吉は朝鮮にも封建制度を終わらせる維新が必要と考え、近代化を目指す朝鮮開化派の金玉均(きん・ぎょくきん)らを全力で支援した。1884年12月4日、朝鮮で開化派が決起し「甲申事変」が勃発。このクーデターで開化派は新政府を樹立したものの、清軍の介入によって三日天下に終わった。
(8)金玉均など開化派の中心人物は日本に亡命し、諭吉は保護に奔走する。一方、朝鮮にいる開化派の家族は、見せしめのため三親等(曾祖父母~曾孫)まで捉えられ、恐ろしく残虐な方法で処刑された。
(9)「脱亜論」が掲載されたのは「甲申事変」のクーデター失敗から約3ヶ月後。仮に諭吉が起稿したとすれば、文中にある「朝鮮国に人を刑するの惨酷(ざんこく)あれば」「支那人が卑屈にして恥を知らざれば」などは、開化派処刑への激しい義憤から叩き付けたもので、差別意識から書かれたものではない。
(10)つまり、「脱亜論」は諭吉が書いたものか分からないし、また、書いたとすれば“朝鮮近代化の夢=甲申事変の挫折”という背景を知る必要があり、その後は2度と諭吉が「脱亜論」を語っていないことからも、この社説をもって「あの諭吉も中国・朝鮮人の愚かさを語っている」とする右派も、「諭吉は差別主義者だ」と糾弾する左派も、共に的外れとしか言いようがない。


〔いわゆる“従軍慰安婦”について〕

●“慰安婦の強制連行はなかった”と主張する安倍晋三氏は、2012年11月4日、米国の新聞に「日本軍による強制連行を裏付ける資料はなく、発見された公文書によれば強制募集や誘拐を禁じていた」とする意見広告を、“賛同者”となって掲載した。呼びかけ人は櫻井よしこ、西村幸祐、藤岡信勝などウルトラ保守“有識者”で構成された「歴史事実委員会」。
果たして“強制連行”は狭義の拉致行為だけを指すのか?
(1)“看護婦の仕事がある”“将校への給仕”“工員募集”などと、嘘の募集広告で日本人・朝鮮人の悪徳ブローカーに騙されて戦地へ連れてこられ、無理やり慰安婦にされた女性が「家に帰して」と懇願しても返さなかった。
(2)日本軍は各地域の有力者に「A村からは5人、B村からは8人の慰安婦を出させろ」と武力を背景に強要していた。
(3)女性たちが募集業者に騙されていると知りながら、移送に日本軍が直接あるいは間接に関与した。
---これらはどれも、僕にしてみれば強制連行と同義だ。1942年9月時点の陸軍専用慰安所は約400カ所で、軍当局の要請により設営された。1日に15~20人の相手をさせられ(水木しげる氏は“80人”も目撃している)、彼女たちは心身がボロボロになっても慰安所が軍の監視下にあり脱出できず、また支払われた金銭=軍票は終戦と同時に貨幣としての価値を失い紙屑同然となった。

直接日本軍が女性をトラックに詰め込んで慰安婦にした決定的な事実として、インドネシアで起きた“スマラン事件(白馬事件)”が知られている。1944年2月、民間抑留所にトラックで乗り付けた軍人たちは17歳以上の独身オランダ人女性を整列させ、16人の少女をジャワ島スマラン慰安所に連れ去った。彼女たちは高級将校専門の慰安婦にされ、軍刀で脅迫され暴行を受けた。戦後の戦犯法廷で、当事者の大久保大佐が公判中に自殺、池田大佐が発狂、岡田少佐は死刑、能崎中将が懲役12年となる。事件当時、日本の第16軍上層部はスマランの該当慰安所を閉鎖し少女たちを親元へ帰したが、この一例だけでも安倍氏が賛同した広告「日本軍による強制連行を裏付ける資料はなく…」は誤りだ。オランダ人が相手でもこのような行為をしているのに、差別用語で見下していた中国・朝鮮の女性に同様の行為をまったくしなかったなど到底考えられない。
※意見広告の「発見された公文書によれば強制募集や誘拐を禁じていた」についても、該当の公文書(陸軍通牒)にそんな文章はないと他サイトで具体的に論破していた。

そもそも若い女性が出稼ぎに追い込まれた朝鮮半島(特に農村地帯)の貧困は、日本による農地収奪が原因だ。都会でも経済を握っていたのは日系企業。保守“有識者”の中には「仕事で慰安婦を選んでおいて被害者ヅラするな」と言う人物も多いが、その意見は彼女たちが騙されて慰安婦にされたことをスルーしているうえ、なぜ彼女たちが日本の支配下でそこまで貧困に苦しんでいたのか歴史を理解しておらず神経を疑う。

ネットでは安倍氏に代表されるような「慰安婦問題はでっちあげ」とするグループに、証拠を集めて冷静に反論を試みているサイトも多い。特に説得力があるのはコチラのページ。戦後の旧日本兵の回想記ではなく、戦時中にリアルタイムで記録された生々しい兵士の手記を数多く紹介している。戦後の回想でも慰安婦問題が国際問題化する前に書かれたものが中心。衝撃的なのは、慰安所の劣悪な環境だけでなく、大量の“日本人慰安婦”の存在だ。彼女たちは日本国内から日本人ブローカーに騙されて慰安所に送られた。室町時代や江戸時代の話ではなく、ほんの数十年前の話だ。戦後になるまで、日本ではこのように奴隷交易同然のことが国家ぐるみで行われていた。従軍慰安婦の問題は韓国との関係で語られがちだけど、もっと広範囲な女性全体の人権問題として捉え直すべきものと痛感。また、日本人相手でも平気で騙すような違法ブローカーであり、何人も半島に渡って同様のことをしていのは火を見るより明らか(保守右派は朝鮮人ブローカーに全員が騙されたことにしたいようだけど)。

水木しげる氏は出征先ニューギニアの出来事をこう記している。「敵のいる前線に行くために、「ココボ」という船着場についた。ここから前線へ船が出るのだ。そういうところには必ずピー屋がある。ピー屋というのは女郎屋のことである。(略)ピー屋の前に行ったが、何とゾロゾロと大勢並んでいる。日本のピーの前には百人くらい、ナワピー(沖縄出身)は九十人くらい、朝鮮ピーは八十人くらいだった。これを一人の女性で処理するのだ。僕はその長い行列を見て、一体いつできるのだろうと思った。一人三十分としてもとても今日中にできるとは思われない、軽く一週間くらいかかるはずだ。しかし兵隊はこの世の最期だろうと思ってはなれない、しかし…いくらねばっても無駄なことだ。僕は列から離れることにした。そして朝鮮ピーの家を観察したのだ。ちょうどそのとき朝鮮ピーはトイレがしたくなったのだろう、小屋から出てきた。とてもこの世のこととは思えなかった。第一これから八十人くらいの兵隊をさばかねばならぬ。兵隊は精力ゼツリンだから大変なことだ。それはまさに「地獄の場所」だった。兵隊だって地獄に行くわけだが、それ以上に地獄ではないか。と、トイレに行った朝鮮ピーを見て思った。よく従軍慰安婦のバイショウ(賠償)のことが新聞に出たりしているが、あれは体験のない人にはわからないだろうが…やはり「地獄」だったと思う。だからバイショウはすべきだろうナ」。(参考リンク。その後、彼女たちは病院船で移動する際に潜水艦にやられ全員死亡したとのこと。賠償することさえ不可能になった)

陸軍軍医・早尾乕雄中尉が1939年に書いた報告書『戦場に於ける特殊現象と其対策』を現代文に訳。「出征者の性欲を長く抑制させることは、中国人女性への暴行に繋がると気をきかせ、兵站(へいたん、補給機関)が中国にも早速に慰安所を開設した。主な目的は性の満足により将兵の気分を和らげ、皇軍の威厳を傷つける強姦を防ぐことにあった。それでも地方での強姦数は相当あり、また前線でも多く見かける。内地(日本列島)では到底許されぬことが、敵の女だから自由になるという考えが非常に働いているために、中国の娘を見たら憑かれたようにひきつけられて行く。従って検挙された者は不運なだけで、陰にはどれ程あるか解らぬと思う。部隊長は兵の士気昂揚のためと見て知らぬ振りを通したことさえあった。日本の軍人は何故にこの様に性欲の上に理性が保てないかと、私は大陸上陸と共に直ちに痛嘆し、戦場生活1年間を通じて終始痛感した。しかし、軍当局はあえてこれを不思議とせず、さらにこの方面に対する訓戒は耳にしたことがない。軍当局は軍人の性欲を抑える事は不可能だとして、中国の女性を強姦せぬ様にと慰安所を設けた。だが、強姦は非常に盛んに行われ、中国の良民は日本軍人を見れば必ず怖れた。将校は率先して慰安所へ行き、兵にもこれをすすめ、慰安所は公用と定められた。心ある兵は慰安所の実態(騙して連れてきた)を知って、軍当局を冷笑していた位である」。

米国紙に「慰安婦問題はでっちあげ」意見広告を出した国会議員リスト37名。こういう議員のせいで「日本は戦争を反省してない」と言われ続け国益を損なってる。
【民主党/当時】柴崎正直(岐阜)、田村謙治(静岡)、花咲宏基(岡山)、福島伸享(茨城)、松原仁(東京)、三浦昇(山口)、向山好一(兵庫)、吉田泉(福島)、渡辺周(静岡)、金子洋一(神奈川/参)。長尾敬(大阪)は署名後に自民党へ!11名。
【自民党】安倍晋三(山口)、伊東良孝(北海道)、稲田朋美(福井)、金子恭之(熊本)、北村誠吾(長崎)、下村博文(東京)、新藤義孝(埼玉)、高市早苗(奈良)、竹本直一(大阪)、古屋圭司(岐阜)、松野博一(千葉)、山本有二(高知)、塚田一郎(参・新潟)、西田昌司(参・京都)、山谷えり子(参・比例)、山本順三(参・愛媛)、義家弘介(参・比例)、上野通子(参・栃木)、江藤晟一(参・比例)、岸宏一(参・山形)、岸信夫(参・山口)、有村有子(参・比例)、磯崎仁彦(参・香川)、熊谷大(参・宮城)、世耕弘成(参・和歌山)の24名。
【維新】
平沼赳夫(岡山)、中山恭子(参・比例)
頭が痛いのは、この広告に安倍氏が賛同署名をしたのは自民党総裁になってからのこと。この事実が国際的にどういうメッセージになるか。安倍氏を批判する動きは自民内部に見えない。このままでは自民の公式見解は「日本軍は“詐欺”や“人身売買”を見て見ぬ振りしただけで強制してないから我が国は謝罪しない。これが“美しい国”!」という開き直りになる。それが日本人の美徳として世界に認知されるとでも?勘弁して欲しい。でも状況を前向きに考えることも出来る。自民党は衆参両院で201人の議員がいるのに、賛同者は24人に過ぎなかった。9割の議員はサインしていない!それは希望だ。
※国連人権委員会「日本軍の慰安所制度は1926年の奴隷条約における国際慣習法に違反する性奴隷制度であり、女性への著しい人権侵害である」。
※保守論客はよく「現代の価値観で当時を裁くな」と言うけど、当時の価値観から見ても慰安婦制度は刑法第226条及び第227条、民法第90条、娼妓取締規則、婦女・児童売買を禁ずる国際条約、奴隷条約(1926)、強制労働条約第29号(1930)などに違反している。
※「いつまで過去の罪を謝罪せねばならぬのか」という意見に答えるならば、最低でも安倍氏のように戦争犯罪を否定する人物が国家の中心にいるうちはダメだろう。何万票も集めている時点で「日本人は反省してない」と受け止められて当然。「慰安婦問題は日韓基本条約で解決済み」という意見も論点ずらしというか、韓国が個別請求権を放棄した日韓基本条約は1965年に締結されたが、慰安婦問題が浮上したのは1992年。これほどの人権侵害を“後から分かった”から黙殺というのは非情すぎる。心の傷が大きすぎ、そして差別されるのが怖くて被害を名乗れなかっただけなのに…。
※御用学者の池田信夫が「慰安婦問題は朝日新聞が捏造した」「植村隆記者の誤報が騒ぎの発端」と触れ回っているが真っ赤な嘘。朝日の記事は1991年。だがそれより4年前の1887年8月14日に「読売新聞」が次の記事を掲載している「従軍慰安婦とは、旧日本軍が日中戦争と太平洋戦争下の戦場に設置した「陸軍娯楽所」で働いた女性のこと。昭和十三年から終戦の日までに、従事した女性は二十万人とも三十万人とも言われている。/「お国のためだ」と何をするのかも分からないままにだまされ、半ば強制的に動員されたおとめらも多かった。/特に昭和十七年以降「女子挺身隊」の名のもとに、日韓併合で無理やり日本人扱いをされていた朝鮮半島の娘たちが、多数強制的に徴発されて戦場に送り込まれた。彼女たちは、砲弾の飛び交う戦場の仮設小屋や塹壕(ざんごう)の中で、一日に何十人もの将兵に体をまかせた。その存在は、世界の戦史上、極めて異例とされながら、その制度と実態が明らかにされることはなかった」。(資料リンク

※保守の冷泉彰彦氏からも「河野談話」(謝罪談話)の訂正はマイナスという意見があり、氏の主張を以下に要約→
・「軍による強制連行はなかった」という訂正に成功したとしても、全く「日本の名誉回復にはならない」。一言で言えば「強制連行はしなかったが、管理売春目的の人身売買は行なっていた」という「訂正」を行なうということは、旧軍の名誉にもならないばかりか、そのように主張することで、21世紀の現在の日本という国の名誉を著しく損なう。つまり、日本という国は現在形で「女性の人権に無自覚な国」だという烙印を押されてしまう。
・「強制連行の事実」を否定できても軍人による「強姦」の汚名は晴らせない。現在の世界的な人権の感覚からすれば、「本人の意に反して家族の借金を背負って売春業者に身売りされ、業者の財産権保護の立場から身柄を事実上拘束されている女性」というのは「性奴隷」以外の何物でもないからだ。また「本人としては不本意ながら売春行為を事実上強要され、一晩に多くの男性の相手をさせられた」ということは「強姦」のカテゴリに入る。
・「米軍も日本の占領にあたっては売春婦を用意させた」とか「ベトナム戦争に参戦した韓国軍も似たような行為をした」など「20世紀の後半になっても他にも例があるではないか」という「反論」も多く見られるが、ここにも誤解がある。ここで挙げた米国や韓国の事例に関しては「大っぴらにはやっていない」のだ。
・「狭義の強制連行はなかった」という主張は、裏を返せば「当時の法制や慣行に則した広義の強要はあった」ということであり、「やっていたと堂々と認める」という話に他ならない。これは大変異様なこと。20世紀に起きた「交戦地帯における兵士相手の管理売春の強要」を21世紀の国連加盟国の政府が「狭義の強要よりは反道徳的ではない」と主張する、それも「大っぴらに主張する」というのであれば、理解される可能性は限りなくゼロに近いと考えるべき。
・「河野談話の見直しをしたい」をするなら1つだけ方法がある。それは「狭義の強制連行や強要はなかった」という事実関係の訂正をするのと同時に、「現代の価値観」に照らして、「広義の強制」つまり「事実上の人身売買であった管理売春が、派遣軍に帯同される形で行われていた」ということに関して、その反道徳性に対して厳しく批判をすること。これに加え、現代の日本は女性の人権という問題に極めて真剣に取り組んでいくという宣言を行う必要がある。女性の人権という点では、日本は実は様々な問題を抱え、先進国だけでなく中国を始めとする新興国との比較でも決して十分とは言えないのが実情(国連オブザーバーの世界経済フォーラムが2012年版の「男女格差報告」で日本は135カ国中101位、主要国最低と発表)。仮に「狭義の強制はなかった」という訂正がしたければ、こうした点を誠実に述べることで初めて国際社会は聞く耳を持つ。
・旧軍に対して過剰なまでに「名誉回復」を追求するという姿勢を続けることは、日本の「国体=国のかたち」が戦前戦後で同一であるような誤解を与える。そうなれば、「現在の日本も軍国日本と同一の枢軸ファシスト」だなどという、中国などの理不尽な批判を勢いづかせることになる。
・米国の新議会「第112議会」は女性議員の進出が目覚しく、上院では定員100名中20名、下院は定員435名中78名が女性という史上最高の人数となっている。間違っても慰安婦問題の取り扱いを誤って、現在の日本という国そのものが「女性の人権の敵」として、米議会のターゲットにされるようなことがあってはならない。



★天皇陛下のおことば/国賓 大韓民国大統領閣下及び同令夫人のための宮中晩餐(平成6年3月24日・宮殿)

このたび,金泳三大韓民国大統領閣下が令夫人とともに,国賓として,我が国を御訪問になりましたことに対し,私は心から歓迎の意を表します。御夫妻とその御一行をお迎えし,今夕を共に過ごしますことを,誠にうれしく思います。
貴国は我が国に最も近い隣国であり,人々の交流は,史書に明らかにされる以前のはるかな昔から行われておりました。そして,貴国の人々から様々な文物が我が国に伝えられ,私共の祖先は貴国の人々から多くのことを学びました。
このような両国の永く密接な交流のあいだには,我が国が朝鮮半島の人々に多大の苦難を与えた一時期がありました。私は先年,このことにつき私の深い悲しみの気持ちを表明いいたしましたが,今も変わらぬ気持ちを抱いております。戦後,我が国民は,過去の歴史に対する深い反省の上に立って,貴国国民との間にゆるがぬ信頼と友情を造り上げるべく努めて参りました。
近年,喜ばしいことに,両国の人々のたゆまぬ熱意と努力により,様々な分野で友好と協力の関係が進み,一昨年の伽耶文化展を始めとする「韓国文化通信使」の事業や昨年の大田市の国際博覧会など,両国国民を結ぶ絆は強くなってきております。あらゆる機会に,両国国民の相互理解が深まることを念願してやみません。
世界は,現在,大きな変化の波に遭遇しております。そうした中で,大統領閣下がかねてより述べていらっしゃるように,日韓両国は友好協力の関係をますます強め,手をたずさえて未来への道を切り開いていかなければなりません。(宮内庁HPより)※この陛下の気持ちを踏みにじっているのが一部の保守勢力。




〔最後に〕
「日本が支配したおかげで国土が発展した、植民地にも良い面がある」、保守論客が好んで使う言葉だ。その論拠は鉄道網を整備し、産業を発展させ、人口を倍増させた云々だ。これは甘すぎるのでは。手に入れた植民地から効率よく収奪するために生産力を高め、インフラを整えるのは、植民地政策の原則だ。日本が自分の為にやっていることを「発展させてやった」なんて僕は言えない。
そもそも、もし日本による韓国併合が半島の人々にとって良いものであるならば、なぜ「三・一独立運動」が瞬時にして全国に広がったのか。民族にとって、文化や歴史、言語をないがしろにされる「デメリット」よりも価値のある「メリット」などあるのか。建物は壊れても新しいものを作り直せるが、アイデンティティーを否定され、傷ついた心はそういうわけにはいかない。僕なら誇りを傷つけてまで発展したくない。
以前、僕はソウルの北外れにある刑務所歴史館を訪問した。そこは多数の政治犯が日本の官憲に処刑された場所だ。だが、歴史館でもらった小冊子には、一言も「日本は謝罪せよ!」なる文言はなかった。また、独立記念館の入口にある言葉は『過去の不幸な歴史の加害者を許すことは出来ますが、これらは決して忘れてはならないことです。日帝占領期の歴史を展示することは、過去の苦痛を記憶することだけが目的ではなく、共に発展的な未来を目指そうという意思の表れなのです』とある。
韓国の一般の人々は、半世紀も前のことを謝罪して欲しいというよりも、日本人が過去の歴史を学ぶことを第一に望んでいる。被害者数や法律の上での「正しさ」にこだわるあまりに、相手を嘘つき呼ばわりする態度は、過去を忘れ去ろうとする姿勢に映ってしまう。奪ったものの大きさを理解することなく、「~してやった」という発言の傲慢さが、どれほど相手を侮辱し失望させることか。日本人の美徳である謙虚さを忘れてはならない。

「(日本の行動が)真に植民地を解放するという聖者のような思想から出たものなら、まず朝鮮・台湾を解放していなければならないのです」(司馬遼太郎)



【在日問題関係のデマ検証で参考になるサイト】

政府統計(厚労省)における「新受刑者中暴力団加入者の国籍」
「暴力団員の3割は在日」というコピペがネットに出回っている。08年の新受刑者3265人の国籍を調べると、日本3191人、韓国・朝鮮63人、中国5人、米国2人、不明4人となっており、暴力団全体の1.9%しか韓国・朝鮮人はいない。97.7%は日本国籍。受刑者データを見る限り「3割が在日」というネット情報とまったく辻褄が合わない。

“在日特権”に関するデマ…外国人全体が持っている権利を混同したデマが多い。コメント欄でも論戦。

韓国のことわざに関するデマ…嫌韓派がよく引用する、韓国人が自分勝手であるかのようなことわざは、真意がねじ曲げられていたり、実際に存在しなかったりするものが大半。日本語にも「旅の恥はかきすて」「秋茄子は嫁に食わすな」など悪意をもって紹介されそうなことわざが色々ある。

人権擁護法案に関するデマ…正確な知識を!っていうか、日本の人口約1億3千万人に対して、在日は約60万人しかいない。わずか約215分の1の在日に「乗っ取られる」とか…。危機感を煽るほど、それって日本人のことを馬鹿にしているのと同じでは(汗)。

民団新聞に関するデマ…投稿者の名前以外は全く別の内容に変えられている。こういうパターンが本当に多い。誰かが書き込んだ捏造を無批判に書き写し、あちこち貼るのは要注意。