2018-12-31

愛国リベラル史観年表 日本と中国



愛国リベラル史観年表 日本と中国




愛国リベラル史観・近代史年表~日本と中国編
~今こそ真の和解を、そしてあなたの義憤は他国にではなく日本社会の改革に!~




〔はじめに~この年表のコンセプト〕

もう歴史問題に決着をつけて「仲良くしようぜ!」ということです。
中国政府はチベット弾圧、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)弾圧、格差問題、官僚腐敗、公害問題、内政に山のように問題を抱えており、対外的にはベトナム領パラセル諸島(西沙諸島)&スプラトリー諸島(南沙諸島)占領、フィリピン領ミスチーフ礁占領、尖閣をめぐっての日本との衝突など、強硬路線が軋轢を生んでいます。
天安門事件以降、愛国教育で政府への求心力を高め、民主化を求める者はノーベル平和賞受賞者であろうと国家転覆未遂で監獄へ放り込む滅茶苦茶なことをしています。
隣国日本としては「もっと国民の声に耳を傾け民主化を」と言いたいところですが、中国政府が批判をそらす為に「過去の戦争を反省してない日本に言われたくない」「靖国参拝は軍国主義の証拠」と国内世論を持っていき、こちらの言葉がうまく届きません。
僕としては、過去の中国侵略を美化したり開き直ったりする発言は、中国政府に日本叩きの口実を与えるだけなので控えて欲しい。でも、学校の授業では日本が中国大陸で何をやったのか殆ど教えてないので、「中国の歴史教育は何から何まで捏造!日本軍は悪い中国人を“懲らしめた”だけで、国際法は守ってた!」と思ってる人が少なくありません。それは正しくないし、とても危険な誤解です。

僕は以前からチベットの自治権拡大を訴えるページを作っており、共産主義の信奉者でもないので、先入観を捨てて以下の近代史年表を見て頂けると有難いです。自論に有利なデータ(数字)だけを引っ張るようなことはせず、基本的に日本軍の公式記録をもとに年表を作っています。
作成時に心がけたこと→
(1)中立的であること※参考資料後述
(2)単なる事件の列挙ではなく、昭和天皇や軍中央の言葉も数多く紹介し、歴史が動く現場を再現する
(3)文芸ジャンキーらしく、各時代の作家の言葉なども入れる
(4)従来の左派のように日本軍の戦争犯罪を糾弾するのではなく、最前線の軍医(精神科)の分析などから、“兵士の心が壊れていく過程”を描き出し、人間全体の体験として捉える
(5)南京事件、731部隊、重慶都市爆撃、毒ガス作戦、その他きわどい問題は、確定しているデータを基に語る

客観的な歴史を把握していないと、ニュースで日本批判のデモ映像が流れると「反日デモむかつく」「いつまで謝罪させる気だ」と怒りに支配され、君が代・日の丸で起立しない先生が何と戦っているのか分からず“売国教師”に見えてしまいます。
ですが、近代史を正確に知れば「反日デモは不愉快だけど彼らが(靖国参拝等に)反発している気持ちは分かる」「不起立教師の考え方には賛成しないけど、“立たない”のではなく“立てない”という心情は理解できる」と、自分と異なる意見であっても、尊重したり前向きに議論を重ねていくことができるようになります。中共政府からスケープゴートに利用されないよう、発言前に一呼吸置くことが大切です。

※年表を作成して実感したことを先に2点。
(1)昭和天皇が反戦・平和主義なのはガチ。例えば1938年の板垣陸相への怒り→「元来、陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条湖の場合といい、今回の事件(日中戦争)の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕(ちん)の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いる様なこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う」。
左派の多くは天皇を主戦派と思ってるけど大きな誤解。また、同様に右派も自分たちの行動が穏健な天皇を困らせていたことを理解していない。二・二六事件に際していわく「朕が最も信頼する老臣をことごとく殺すことは、真綿(まわた)で朕の首を締めるに等しい行為なり」。
(2)大陸の各師団長は命令無視のオンパレード。年表の途中まで何度命令違反したか数えていたけど、あまりに多すぎてカウントをやめました。一般兵が上官の命令に逆らえば「戦地抗命罪」で銃殺刑に処したのに、師団長クラスは、天皇の言葉も、軍中央(参謀本部)の命令も、政府の方針も、ことごとく無視して独断専行。執筆中、何度も絶句しました…。

★参考資料(視点が偏らないよう、保守、リベラル、両方に目を通してます)
『世界戦争犯罪辞典』(秦郁彦ほか/文藝春秋)、『教科書が教えない歴史』(藤岡信勝ほか/産経新聞社・扶桑社)、『アジアの教科書に書かれた日本の戦争』(越田稜/梨の木舎)、『戦争論』(小林よしのり/幻冬舎)、『新しい歴史教科書』(藤岡信勝/扶桑社)、『戦争案内』(高岩仁/映像文化協会)、『歴史修正主義の克服』(山田朗/高文研)、『昭和天皇語録』(講談社学術文庫)、『日本はなぜ戦争へと向かったのか』(NHK)、『シリーズ証言記録 兵士たちの戦争』(NHK)、『日中戦争~兵士は戦場で何を見たのか』(NHK)、『さかのぼり日本史 とめられなかった戦争』(NHK)、『世界人物事典』(旺文社)、『エンカルタ百科事典』(マイクロソフト)、ウィキペディア、ほか多数。

僕はいかなる政党、政治思想団体、プロ市民団体、宗教団体にも属していません。単純に「何があったか」、事実を知りたいだけです。



(ショートカット※管理人的には出来れば年表トップから順番に読んで頂きたいですが…)
勝海舟の反戦論 / 張作霖爆殺 / 満州事変 / 五・一五事件 / 熱河作戦 / 国際連盟脱退 / 二・二六事件 / 満州開拓移民 / 731部隊
盧溝橋事件 / 通州事件 / 第2次上海事変 / 南京事件 / 毒ガス戦 / 重慶爆撃 / 燼滅作戦(三光作戦) / 花岡事件


【日本と中国の近代史~日清戦争から終戦まで】

●1868 明治維新…旧幕府軍VS維新軍の戊辰(ぼしん)戦争を経て、薩長藩士が中心となった明治政府が樹立される。政治、経済、文化、すべてが大変革!

●1894.7.25 日清戦争勃発…朝鮮半島の支配権をめぐって日本と清が衝突。豊島沖の海戦をきっかけに戦端が開かれ、9月に日本軍が清国の拠点・平壌(ピョンヤン)を陥落。黄海の海戦でも大勝し、旅順を占領。翌年2月に威海衛(いかいえい)湾の北洋艦隊を壊滅させ戦局を決定づけた。

●1894.11.21-11.25 旅順虐殺事件…日清戦争の旅順陥落時に発生した事件。攻略したのは元薩摩藩士・大山巌率いる第二軍。占領2日目に旅順市内に入った国際法学者の有賀長雄いわく「市街に散在する死体の数はおよそ2千で、うち500の非戦闘員を含んでいた」。それからさらに3日間、掃討作戦が続いた。この様子は日本軍に従軍取材した複数の外国人記者から糾弾されることになる。『ニューヨーク・ワールド』特派員クルーリマンの記事「日本軍は11月21日に旅順入りし、冷酷にほとんど全ての住民を大虐殺した。無防備で非武装の住人達が自らの家で殺され、その体は言い表すことばもないぐらいに切り刻まれていた」。大本営に弁明を要求された大山は旅順住民の多くが軍関係者だったことをあげたが、記者たちは捕虜の不必要な殺害に抗議し、日本は国際社会から残虐行為を非難された。

●1895.4.17 下関条約締結…日清戦争の講和条約。日本は台湾と遼東半島(中国東北部、南満州)を清国から割譲させた。しかし、条約調印6日後にロシア・ドイツ・フランス3国の公使が外務省を訪れ、遼東半島の日本領有は東洋の平和をおびやかすとして、領有放棄を勧告した(三国干渉)。日本は圧力に屈し遼東半島を返還する。この一件で三国に借りが出来た清国は、3年後、ドイツに膠州(こうしゅう)湾の租借(そしゃく=領土の一部を貸す)を認めたのを機に、ロシアに旅順・大連を、フランスに広州湾を、イギリスに山東半島の威海衛を、次々に明け渡すことになった。
※ロシアは極東進出のため遼東半島・旅順の不凍港を必要としていた。

〔勝海舟「オレは日清戦争に大反対だった」〕
勝海舟は欧米列強のアジア進出に対抗する為に、日本、清、韓国がガッチリとスクラムを組むべきと考えていた。海舟は日本と清がアジアで戦えば欧米が喜ぶだけと思っていたんだ。
「日清戦争はオレは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も食わないじゃないか。たとえ日本が勝ってもどーなる。支那はやはり(謎の)スフィンクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力がわかったら最後、欧米からドシドシ押しかけてくる。つまり欧米人が分らないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。いったい支那五億の民衆は日本にとって最大の顧客さ。また支那は昔から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。おれなどは維新前から日清韓三国合従(がっしょう)の策を主張して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものさ」(海舟の談話を収録した『氷川清話』より)

※坂本龍馬は勝海舟の弟子。龍馬が平和的に幕府からの政権委譲(大政奉還)を実現させようとしたのは、西洋列強がアジアに進出してくるなか、国内で日本人同士が戦っている場合じゃなく、一致団結して対抗する必要性を感じていたから。その大局的な視野は海舟の影響が大きい。上記の“日清戦争反対論”も実に海舟らしい発言。欧米諸国の強大な力に対抗するにはアジアが一丸となる必要があり、アジア同士で戦って消耗している場合ではない。つけ込む隙を与えるだけだ。当時の欧米白人中心主義・植民地主義との戦いは、日本だけでは苦しいものだった。だからこそ、日中韓が互いに協力してWin-Winで国力をあげて、西洋列強から権利・独立を守るべきだった。(日清戦争は龍馬暗殺の27年後)

●1904.2.8 日露戦争勃発…日本海軍が旅順港のロシア艦隊を夜襲し、陸軍が仁川に上陸して日露戦争が始まった。後の真珠湾同様、奇襲によって当初は優位に戦局が展開する。開戦から半年後、乃木希典率いる第3軍がロシア艦隊基地・旅順の包囲戦に突入。5カ月に及ぶ激戦で6万人の死傷者を出しながら、翌年1月に“二〇三高地”を陥落させた。ついで3月に最大の陸戦となった奉天会戦を制し、5月に東郷平八郎率いる連合艦隊が日本海でバルチック艦隊を壊滅させる。日本軍は陸海に勝利したものの、兵力・弾薬共に底をつき、政府は講和を急いだ。一方、ロシア側も国内で革命運動が起きたことから、両国とも戦争継続が困難になり、アメリカの仲介で講和が成立する。日本側の戦死者は約8万4000人、戦傷者14万人以上。軍事費は国家予算の7年分にあたる18億円にのぼった。
※日露戦争で日本は戦費18億円のうち40%を英米などに日本国債(外債)を買って貰うことでまかなった。英国は南アのボーア戦争で疲弊しており、ロシアの力を削ぐため日本を後押しした。

〔幸徳秋水の日露戦争反対論〕
(開戦直前に)「世を見渡せば、ある者は戦勝の虚栄を夢想するが為に、ある者は乗じて私腹を肥やす為に、ある者は好戦の欲心を満足させんが為に、焦燥熱狂し、開戦を叫び、あたかも悪魔の咆哮に似たり。我らは断固として戦争を非認す。戦争は道徳的に恐るべき罪悪なり、経済的に恐るべき損失なり。社会の正義はこれが為に破壊され、万民の福利はこれが為に蹂躙(じゅうりん)せらる。(略)ああ愛する同胞よ、その狂熱より醒めよ。諸君が刻々と堕せんとする罪悪、損失より免がれよ。戦争は一度始まると、その結果の勝敗にかかわらず、後世の者に必ず無限の苦痛と悔恨を与える。真理の為に、正義の為に、天下万生の福利の為に、今こそ汝の良心に問え!」

●1905.9.4 ポーツマス条約締結…日露戦争の講和条約。日本は遼東半島の先端・関東州(旅順、大連)の租借権をロシアから獲得した。三国干渉で奪われたものを取り返した形。また、樺太の南半分やロシアが敷設した南満州鉄道も手に入れた。ただし賠償金は一文も貰えず。ロシアはまだ70万もの兵を温存していたが、日本はもはや戦う体力がなかったので賠償金を断念した。セオドア・ルーズベルトは講和条約成立の功績によりノーベル平和賞を受賞。
※日露戦争はあれ以上続いていたら日本が負けていたギリギリの勝利だった。国民は“一等国になった”と戦勝気分に酔っていたが、英国留学で世界を見ている漱石は内外の国力差を熟知しており、1908年に小説『三四郎』の中で「(日露戦争に勝ち)これからは日本もだんだん発展するでしょう」「滅びるね」と会話させた。

●1910.11 大逆事件…“明治天皇暗殺を計画した”という理由で、全国の多数の自由主義者・社会主義者らが検挙され、わずか2週間あまりの非公開裁判(1人の証人も出廷させず一審だけで終審)で24人に死刑判決が下り、判決6日後という異例の早さで幸徳秋水ら11人が絞首刑となった(翌日さらに1人執行)。12人が無期懲役に減刑されたが、うち5人は獄死。処刑は世界にも衝撃を与え、日本政府に諸外国の思想家から抗議が寄せられた。この後、大震災のドサクサの虐殺、治安維持法(最高刑・死刑)など、1945年の終戦まで政府による思想弾圧が続く。戦後、大逆事件に関して拷問による調書類の捏造や、被告の大半が無関係だったことが判明した。死刑を求刑した検事・平沼騏一郎は1939年に首相になっている。

〔作家・徳富蘆花、一高(現東大)の教壇から抗議〕
大逆事件による死刑の翌月、徳富蘆花(ろか)が学生たちに思想弾圧の危険を訴え、後に校長・新渡戸稲造の更迭問題に発展した。
「(明治初頭は)我らには未曾有の活力があった。誰がその潮流を導いたか。先見の目を持った志士たちである。新思想を導いた蘭学者にせよ、局面打破を事とした勤王攘夷の浪士にせよ、時の権力から言えば謀叛人であった。法律の眼から逆賊と見ても、天の眼からは彼らは乱臣でも逆賊でもない、志士である。無政府主義の何が恐い?幸徳らはさぞ笑っているであろう。何十万の陸軍、何万トンの海軍、幾万の警察力を擁する堂々たる明治政府をもってして、手も足も出ぬ者に対する怖(おび)え様も甚だしい。人間弱味がなければ滅多に恐がるものでない。幸徳ら冥福すべし。政府が君らを締め殺したその前後の慌てざまに、権力階級の器の大小は完全に暴露されてしまった。(政府は)吉田松陰に対する井伊大老になったつもりでいるかも知れない。しかしながら徳川の末年でもあることか、明治44年に12名という陛下の赤子(むろん彼らも陛下の赤子である)をいじめぬいて、謀叛人に仕立て上げ、臆面もなく絞め殺した一事に到っては、政府は断じて責任を負わねばならない。諸君、西郷も逆賊であった。しかし今日となって見れば、逆賊でないことは自明の理である。幸徳らも誤って逆賊となった。しかし百年後の世論は必ずこの事件を、この死を悲しむであろう」。

●1915.5.9 対華二十一カ条要求…前年に第1次世界大戦が勃発し、欧州列強は中国進出どころではなくなった。これを大陸への影響力拡大の好機とみた大隈重信内閣は、対中国要求を21カ条にまとめて袁世凱(えん・せいがい)大総統に提出。そこには、満州・内蒙古を日本が独占的に支配するため、日露戦争で手に入れた旅順・大連&満鉄の租借権を「99年間に延長せよ」というものを中心に、日本の軍部・財界の要求がズラリと並んでいた。日本は武力を背景に最後通牒を勧告、要求の大半を中国に受け入れさせた。これによって、中国民衆は要求をのんだ5月9日を国恥記念日と呼び、日本に対する激しい怒りが広がっていく。

●1928.6 治安維持法改正…治安維持法の最高刑が「死刑」となった(制定から3年で改正)。言論統制を強化され、国民は自由な政府批判、軍批判が困難に。これより3ヶ月前(1928年3月15日)、田中義一内閣は反共政策により全国で大検挙を行い、官憲によって左翼活動家1600名以上が一斉検挙されている。
※小林多喜二「(3/15の検挙で)雪に埋もれた人口15万に満たない北の国(小樽)から、500人以上も“引っこ抜かれて”いった。これは、ただ事ではない」。

●1928.6.4 張作霖爆殺事件…満州一帯に勢力を持っていた中国の軍閥政治家・張作霖(ちょうさくりん)が、欧米資本の提供を受けて満鉄の沿線に別の鉄道を建設し始めたことから、「このままでは日本の鉄道利権が失われる」「欧米への接近は許せぬ」と関東軍参謀・河本大作大佐は考え、1928年6月4日、張作霖を独断で列車ごと爆殺した。昭和天皇(当時28歳)は軍の独走を懸念して田中義一首相に関係者の厳罰と軍紀粛清を命じたが、陸軍の強い反対によって首相は軍法会議を開けなかった。これを立憲民政党(リベラル)は批判し、天皇も犯人不明で終わらせては帝国陸軍の綱紀を維持できぬと立腹。田中首相に「(厳罰に処すという)お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と叱責し、鈴木侍従長に「田中の言うことはちっとも判らぬ」と怒りを表明した為、翌年7月に田中内閣は総辞職した。終戦まで17年間も事件の犯人が公表されることはなかった。

※田中義一首相は天皇の叱責が相当こたえたのか、総辞職から2ヶ月後に急性狭心症で他界した。昭和天皇は自身の言葉の影響を考え「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮に自分が反対の意見を持っていても裁可を与えることに決心した」(『昭和天皇独白録』)という。内閣は選挙で選ばれた議員で構成されており、その国民の声に介入するのは(天皇の言葉一つで内閣が吹き飛ぶ)、民主主義ではなく独裁になると考えたからだ。
※関東軍…日本の植民地、満州(中国東北部)に常駐した陸軍部隊。1919年設置。旅順に司令部。日露戦争後、遼東半島の関東州租借地&南満州鉄道(満鉄)沿線の警備の為に組織された。大陸侵略の先鋒として、張作霖爆殺、柳条湖事件など様々な陰謀工作を行った。1941年の関東軍特種演習(関特演)時には約70万の大軍になった。
※一部保守論客が「張作霖爆殺はソ連・コミンテルンの陰謀」と唱えているけど、外務省・陸軍省・関東庁の「特別調査委員会」や、事件当時に現地へ派遣された峯憲兵司令官の調査で河本大佐の謀略であることが判明しており、また、鉄道大臣・小川平吉も事後処理にあたって河本大佐から直接事件の全容を聞いており、歴史学者から“コミンテルン説”は全く相手にされていない。

●1928.8.27 パリ不戦条約…国策による戦争を放棄。パリで列強15カ国が署名(最終63カ国)。日本も調印。パリ不戦条約の第一条は「締約国は国際紛争のため戦争に訴えることを非とし、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、各自の人民の名において厳粛に宣言す」。条約は自衛戦争以外の戦争、領土拡張の為の戦争や報復の為の戦争を禁止している。戦後の憲法第9条はこの法規を参考にしている。

●1930 満鉄赤字化…関東軍に暗殺された張作霖の息子・張学良は抗日を決意し、蒋介石の南京国民政府に合流する。南満洲鉄道を経営的に崩壊させるべく、満鉄のすぐ横に新しい鉄道を敷き、安価な値段で経営戦争をしかけた。満鉄は1930年11月から赤字に転落し社員3000人を解雇。張学良はさらに「盗売国土懲罰令」を制定し、日本人や朝鮮人に土地を貸し売りした者を処罰するなど、様々な方法で日本企業と対決した。

●1930.11 浜口雄幸首相狙撃…民政党(リベラル派)初代総裁として首相になり、ロンドン海軍軍縮条約を結んだ。これによって軍と関係が悪化し、東京駅で右翼に狙撃され翌年他界。浜口首相は風貌から「ライオン宰相」として親しまれていた。ロンドン海軍軍縮会議の首席全権・若槻礼次郎は、「骸骨が大砲を引っ張っても仕方がない」と国力にあった軍備を説き、若槻も右翼に糾弾された。
※民政党は協調外交方針、政友会は中国進出方針。

●1931.6.27 中村大尉事件…中国最北部をスパイ活動中の陸軍参謀・中村震太郎大尉と他3名が張学良配下の中国軍に殺害された事件。拘束された場所は、中国官憲が「盗賊が横行するので外国人(日本人)の旅行を禁止する」と通知した立入禁止区域だった(日本側は治外法権を理由に立入禁止区域設定に抗議していた)。中村大尉は農業技師と詐称していたが、多額の旅費を持っていること、所持品の測量機、地図、日記帳、ピストルから中国軍がスパイと判断し、金品没収のうえ銃殺、証拠隠滅のため遺体を焼き埋めた。4人を裁判もなく処刑したことは当然批判されるべきだが、軍部は中村大尉が軍事目的(兵要地誌調査)のため潜入していたことを“伏せて”発表した為(8/17)、日本の世論は「中国の非道許すまじ」「蛮族を征伐せよ」と憎悪で沸騰した。翌月、満州事変が起きていることから、陸軍は大尉の死を利用して対中強硬論を煽り、武力行使の環境を作ろうとしていた意図が見える。


★1931.9.18 満州事変/柳条湖事件…満州の関東軍高級参謀・板垣征四郎大佐(河本大佐の後任)と作戦主任参謀の石原莞爾(かんじ)中佐らは、豊富な石炭・鉄などの資源の確保、対ソ戦の前線基地強化、国民党政府・張学良の鉄道建設による満鉄線の貨物輸送率の激減、華人の日本商品ボイコット運動、昭和恐慌下の不景気の解決など、様々な理由から「武力による満蒙(満州と蒙古)領有計画」を立案。そして1931年9月18日夜、歩兵隊の河本末守中尉に奉天郊外の柳条湖村で満鉄線路を爆破させ(柳条湖事件)、この自作自演のテロを地元の軍閥・張学良軍の犯行とみせかけ、「中国軍の日本に対する挑発だ」として武力攻撃を開始した。
翌日、軍部の暴走に驚いた若槻礼次郎内閣は事態不拡大の方針を告げるが、事変3日後(9/21)、朝鮮にいた日本軍も独断で満州に越境した。これは国外出兵を天皇の命令なしで行った明確な違法行為。この時の朝鮮軍司令官・林銑十郎中将は“越境将軍”と呼ばれた。
その後、軍部は「自衛のため」と称してチチハル、錦州、ハルピンと次々に戦線を拡大していく。板垣(46歳)、石原(42歳)という若い急進派が起こした満州事変を、上官である関東軍司令官・本庄繁と同参謀長・三宅光治は追認した。陸軍中央も板垣、石原らを処罰するどころか論功行賞。国民は柳条湖事件が自作自演であることをずっと知らされなかった。
若槻首相は満洲国の建国工作にも反対していた為、10月に陸軍急進派が全閣僚殺害のクーデターを画策する。未遂に終わるが内閣は衝撃を受ける(十月事件)。政府運営に行き詰まった若槻内閣は12月に総辞職し、新たに犬養毅内閣が誕生した(12/13)。
満州事変以降、関東軍は(1)天皇の裁可がなくても(2)陸軍中央の許可がなくても(3)内閣が反対しても、勝手に国策を決定して実行するようになる。満州事変の独断行動を不問にしたことで、その後の手柄目当ての暴走も認めざるを得なくなった。歴史のターニング・ポイント。

※事変半年前の1931年3月、陸軍省の幹部5人--軍務局軍事課長・永田鉄山、人事局補任課長・岡村寧次、参謀本部の編制課長・山脇正隆、欧米課長・渡久雄、支那課長・重藤千秋が一年後をめどに満蒙で武力行使をおこなう旨の「満州問題解決方針の大綱」を決定している(五課長会議)。板垣、石原らは、6月頃には全満州占領の軍事行動の準備を本格化し、決行を9月下旬に決めていた。関東軍司令官・本庄繁中将、朝鮮軍司令官・林銑十郎中将、参謀本部第1部長・建川美次少将、参謀本部ロシア班長・橋本欣五郎中佐らも、この謀略に賛同していた。「中村大尉事件が事変のきっかけ」という意見は間違いで、大尉事件の前から武力行使が決まっていた。
※そもそも、爆破直後に急行列車が何事もなく通過しており、自作自演の爆破自体も非常に小規模だったことが伺える。ちなみに張作霖爆殺犯は河本大作、柳条湖の満鉄爆破は河本末守で、同じ河本だけと別人。 
※事変翌日、特務機関を運営していた甘粕正彦元大尉は、ハルピン出兵の口実作りのため、自分たちで奉天市内数カ所に爆弾を投げ込み、「居留民保護」を名目に関東軍を動かそうとした。このように、特務機関があらかじめ標的地に不穏な空気を作ってから、軍が日本人保護を理由に出兵するやり方が、当時の常套手段だった。
※昭和天皇「自分は国際信義を重んじ、世界の恒久平和の為に努力している。それがわが国運の発展をもたらし、国民に真の幸福を約束するものと信じている。しかるに軍の出先は、自分の命令もきかず、無謀にも事件を拡大し、武力をもって中華民国を圧倒せんとするのは、いかにも残念である。ひいては列強の干渉を招き、国と国民を破滅に陥れることになっては真にあいすまぬ」(文藝春秋/天皇白書)

●1932.1.28 第1次上海事変…満州事変勃発から4ヶ月後、国際社会の非難を満州からそらすため、関東軍・板垣征四郎大佐らは国際都市・上海で日中両軍を戦わせることを計画。上海公使館の陸軍武官補佐官・田中隆吉少佐に依頼して、「中国人に日本人托鉢僧を襲撃させる」という謀略工作を行った。僧侶は死亡。これがきっかけとなり10日後に海軍陸戦隊が中国の第19路軍と衝突。犬養毅内閣は上海派遣軍を増派したが中国軍の頑強な抵抗にあい、日本軍は769人の戦死者を出した。5月に停戦協定締結。中国では反日運動が盛り上がる。

●1932.3.1 満州国樹立…関東軍はわずか4ヶ月で奉天・吉林・黒竜江の3省など満州全土を武力占領。蒋介石は軍閥や共産党軍との戦いに手一杯で、関東軍と積極的に戦わなかった。同地域は中華民国からの独立を宣言し、清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を執政=国家元首とする日本の傀儡(かいらい)政権「満州国」を樹立させた。上海事変のさなかであり、外国の目を上海にひきつけて満蒙支配を狙うという板垣大佐らの目的は果たされた。満州国は建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を掲げていたが、終戦まで13年間選挙は一度も行われず、政治結社の組織も禁止されていた。
※国際連盟は日本を強く批判し、満州に調査団を派遣した。昭和天皇「いったい陸軍が馬鹿なことをするから、こんな面倒な結果になったのだ」(1932)。
※昭和天皇「日系官吏その他一般在留邦人が、いたずらに優越感を持ち、満人を圧迫するようのことなきよう、軍司令官に伝えよ」(1935)。
※満州国出身の著名人…小澤征爾、赤塚不二夫、ちばてつや、浅丘ルリ子、梅宮辰夫、加藤登紀子、草野仁、ジェームス三木、富山敬、板東英二、矢追純一。

★1932.5.15 五・一五事件…犬養毅首相(政友会総裁)は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、満州侵略に反対で、日本は中国から手を引くべきだとの持論をもっていた。それゆえ、満州国樹立から2ヶ月経っても、政府の満州国承認には慎重だった。5月15日、海軍急進派の青年将校らは総理公邸に乗り込んだ。犬養は落ち着いて応接室に案内し「話せばわかる」と語りかけたが、後から入って来た三上卓中尉の「問答無用、撃て」の一言で殺害された。息絶える前の犬養の言葉は「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」。あくまでも対話で解決しようとする民主主義と、話など聞かぬというファシズムを象徴。その後、クーデタ・グループは警視庁・日本銀行・内大臣官邸・立憲政友会本部・三菱銀行に手榴弾を投げつけた。政治家や財界人は震え上がり、軍部の発言権が増した。11日後、海軍大将・斎藤実が首相となる挙国一致内閣が成立し、政党政治はここに終焉した(1945年の敗戦まで13年間政党政治は復活しなかった)。6月14日、犬養が反対していた満洲国承認決議案が全会一致で可決された。
※反乱罪で死刑を求刑された海軍中尉の古賀清志・三上卓の判決は、首相暗殺にもかかわらず禁固15年となった。この軽い判決が、4年後の二・二六事件を起こす原因になる。
※戦前に衆議院議員で総理大臣になったのは3人だけ。全員が党首で、原敬、浜口雄幸、犬養毅の順。そして3人とも総理大臣時代にテロで殺害されている。

●1932.9.16 平頂山(へいちょうざん)事件…満州事変から1年が経過したこの頃、反日ゲリラの数は30万人にも達していた。事件前日、満鉄所有の撫順炭鉱(満州)がゲリラに襲撃され、炭鉱所長ら日本人職員など5人が殺害された。翌日、炭鉱を警備する日本軍守備隊は、近くの平頂山集落がゲリラをかくまっていると考え、“記念撮影をする”といって女性や赤ん坊を含む全村民400世帯3000人(日本側は400~800人と主張)を広場に集め、機関銃掃射で虐殺した。村民の死体はダイナマイトで崖を爆破して土石の下に埋められた。
※本当に村がゲリラと通じていたとしても、小さな子どもまで殺害するべきではない。この虐殺を主導した大尉は終戦時に服毒自殺している。



〔1933.2.20 小林多喜二の死〕
この頃の思想弾圧がどれだけ激しかったかを示すものとして、作家小林多喜二の拷問死の話をしたい。東北の貧農の家に生まれた多喜二は、1929年(26歳)、オホーツク海で家畜の様にこき使われる労働者の実態を告発した『蟹工船』を発表した。同作は、過酷な労働環境に憤ってストライキを決行した人々が、助けに来てくれたと思った帝国海軍により逆に連行されるという筋で、大財閥と帝国軍隊の癒着を強烈に告発した。読売の紙上では“1929年度上半期の最大傑作”として多くの文芸家から推されたが、天皇を頂点とする帝国軍隊を批判したことが不敬罪に問われ、『蟹工船』は発禁処分を受け、苦学して就職した銀行からは解雇通知を受け取ることになる。以降、ペンで徹底抗戦するために地下に潜って活動するが、『蟹工船』発表から4年後、密告によって特高警察に逮捕される。同日夕方、転向(思想を変えること)をあくまでも拒否した彼は拷問で虐殺された。まだ29歳の若さだった。3時間の拷問で殺されたことから、持久戦で転向させる気など特高になく、明確な殺意があったと思われる。彼の亡骸を見た者が克明に記録を残している。

「ものすごいほどに青ざめた顔は激しい苦痛の跡を印し、知っている小林の表情ではない。左のコメカミには打撲傷を中心に5、6ヶ所も傷痕があり、首には一まき、ぐるりと細引の痕がある。余程の力で絞められたらしく、くっきり深い溝になっている。だが、こんなものは、体の他の部分に較べると大したことではなかった。下腹部から左右のヒザへかけて、前も後ろも何処もかしこも、何ともいえないほどの陰惨な色で一面に覆われている。余程多量な内出血があると見えて、股の皮膚がばっちり割れそうにふくらみ上がっている。赤黒く膨れ上がった股の上には左右とも、釘を打ち込んだらしい穴の跡が15、6もあって、そこだけは皮膚が破れて、下から肉がじかに顔を出している。歯もぐらぐらになって僅かについていた。体を俯向けにすると、背中も全面的な皮下出血だ。殴る蹴るの傷の跡と皮下出血とで眼もあてられない。しかし…最も陰惨な感じで私の眼をしめつけたのは、右の人さし指の骨折だった。人さし指を反対の方向へ曲げると、らくに手の甲の上へつくのであった。作家の彼が、指が逆になるまで折られたのだ!この拷問が、いかに残虐の限りをつくしたものであるかが想像された。『ここまでやられては、むろん、腸も破れているでしょうし、腹の中は出血でいっぱいでしょう』と医者がいった」。
警察が発表した死因は心臓麻痺。母親は多喜二の身体に抱きすがった。傷痕を撫でさすりながら「どこがせつなかった?どこがせつなかった?」と泣いた。やがて涙は慟哭となった。「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか!」。特高の多喜二への憎しみは凄まじく、葬式に参列した者を式場で逮捕する徹底ぶりだった。彼の死に対して文壇では志賀直哉だけが“自分は一度小林に会って好印象を持っていた、暗澹(たん)たる気持なり”と書き記した。後年、多喜二の弟が兄の思い出を語っている「地下活動していた兄を訪ねたときに、2人でベートーヴェンを聴きました。バイオリン協奏曲です。その第一楽章のクライマックスで泣いていた兄の姿が忘れられません」。

★1933.2.23 熱河省侵攻/熱河作戦…満州の守りを固めるため、隣接する熱河(ねっか)省の張学良軍を倒そうと軍部が計画。満州西部の熱河省には約3万もの抗日軍がいた。斉藤実(まこと)首相も昭和天皇も、いったんは熱河侵攻作戦を認可したものの、侵攻が国際連盟規約に抵触することを知って首相は裁可を取り消し、また、天皇も宮中で「熱河攻略を取り消したい」と語っていた(2/8側近日記)。だが、宮中側近は天皇に“取り消してはいけません”と説得した。なぜか。もし天皇が「取り消す」と宣言した時に、それでも軍部が侵攻作戦を断行すれば、天皇の権威に傷がつくからだ。陸海軍の統帥者である天皇の権威が失われることを恐れた。
昭和天皇には関東軍の暴走を止めたいという明白な思いがあった。熱河侵攻の12日前には「“統帥最高命令によりこれを中止せしめざるや”と興奮あそばされて仰せあり」(2/11側近日記)と、大声を出すほど焦っている。だが天皇の意思は軍部に伝えられず2/23に熱河侵攻は決行された。天皇と政府・軍の中間にいた宮中側近には“大元帥・天皇が中止命令を出した時に軍が聞かなかったら大変なことになる”という思いがあった。
※ここは超重要。政府は国民を統治しやすいよう天皇の神格化を徹底する一方で、軍部は宮中を“天皇の命令に逆らうかも”と不安にさせている。要するに皇室を都合の良いよう利用しているだけ。

3月中旬、中華民国は中央軍約20万を派遣し日本軍の南下に対抗させる。激しい攻防戦を関東軍は制し5月12日には北京まで迫った。天津軍参謀長・酒井隆は同僚の中で自分だけ勲章がなく手柄を焦っており、陸軍中央に報告せず独断行動で北京市内に進駐、結果オーライで少将になった。関東軍も刺激され、中央に無断で満州を越え、華北地域(北京・天津など)へ進出を繰り返す。五・一五事件など右翼テロが吹き荒れて政治家は脅えきっており、内閣は「越境は認めないが軍の必要経費は認める」と弱腰対応になった。
※熱河作戦に際して「平津地方(華北地方)領有ノ為…作戦ヲ指導スル場合、本地方ヨリ一部ノ作戦ヲ行フノ有利ナルハ当然ニシテ…」(『熱河省兵要地誌』)と、北京や天津を“領有”すると書かれており、張学良軍討伐は口実で、ハナから土地を奪うことが狙いであると示唆している。
※昭和天皇「(すぐに軍を退くという)予の条件を承(うけたまわ)りおきながら、勝手にこれを無視たる行動を採るは、綱紀上よりするも、統帥上よりするも、穏当ならず」。

●1933.3.27 国際連盟脱退表明…熱河作戦の翌日(2/24)、国際連盟特別総会で「満州における日本の権益は容認するが満州国の建国は認めない」「満州を国際社会で共同管理する」と定めた『リットン報告書(国際連盟調査委員会報告書)』が42:1(日本)の圧倒的多数で可決された。タイは決議の時間に遅れ棄権となった。日本の権益は認められていたし、“柳条湖事件以前の状態に戻りなさい”という甘めの決議だったが、松岡洋右日本全権大使は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と抗議し、3月27日に国際連盟脱退を表明した。脱退前の日本政府は、6年間で7人も首相が交代しており、外務省、陸軍、内閣がバラバラだった。
※日本のマスコミは「国際連盟を脱退せよ!」と世論を焚きつけていたので、松岡大使が横浜に戻ってきた時に埠頭には約2000人が駆けつけ、「よくぞ日本の誇りを貫いた」「英雄、松岡」と歓声をあげた。松岡自身はジュネーブからの帰国途上で「これで日本は孤立してしまう、大変なことになった」と“敗戦将軍”の気持で落ち込んでいたので、「この非常時に私をこんなに歓迎するとは、皆の頭がどうかしていやしないか」と感じたという。

●1933.5.31 塘沽(タンクー)停戦協定…日本は中国の国民党政府と塘沽停戦協定を結び、満州支配を事実上認めさせた。これで柳条湖事件からの満州事変はいったん終息。しかし、新たに軍部は「満州国」治安維持の為に周辺の華北5省を占領する必要があると考え、やがて日中全面戦争に突入していく。
※華北分離工作…北京・天津など華北地方占領を目指した陸軍の『北支那占領地統治計画』では、占領目的を「重要資源の獲得」としている。鉄道管理、貨幣計画、重工業建設、様々な統治プランが練られているが、タテマエであるはずの「居留民保護」の文言はどこにもない。未占領地域の統治計画を事前に作っていながら“これは防衛戦争である”というのは無理がある。翌年の関係課長会議『対支政策に関する件』でも“日本の言う通りにしないと存亡の危機に陥ると脅せ”“国民党の影響を排除し地方政府の幹部を我々に都合の良い人物に置き替えさせる”と権益確保が論じられている。

★1935.8.12 永田鉄山暗殺…陸軍省軍務局長の永田鉄山は6年間の欧州駐在経験があり、日本と欧米の国力差を正確に把握していた陸軍きっての逸材。陸軍統制派の中心人物で「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と言われた英才。エリート将校40人が結集した一夕(いっせき)会のホープ。外務省が国際関係の修復に乗り出すと永田達は外務省幹部に接近した。「ソビエトと平和外交を進めようとする外務省の考えに賛成です」(永田)「できれば陸軍もそれに協力したい」(東條※この頃は東條も穏健派)。
永田達は宮中、元老、政党と支持を広げ、陸軍皇道派(急進派)を追い詰めていった。そして悲劇が起きる。8月12日、白昼の陸軍省で、永田が皇道派の相沢三郎中佐に斬殺されたのだ。発見時、刀が肺に突き刺さっていたという。
「永田が殺されていなければ日本の姿がよほど変わっていた。あるいは大東亜戦争も避けられたかもしれない」(元陸軍中将鈴木貞一)。

〔皇道派VS統制派〕
※皇道派…天皇中心の国体至上主義を信奉し、直接行動による国家改造を企てた急進派。反ソ・反共。中心人物は荒木貞夫大将、真崎甚三郎大将。
※統制派…合法的に陸軍大臣を通じて国家総力戦体制を樹立することを目指した。反英・反米。中心人物は永田鉄山、東條英機。永田の死後、全体主義色の強い軍閥に変容していく。永田さーん!!

〔陸軍と海軍の中核〕
作戦統轄機関は陸軍が「参謀本部」、海軍が「軍令部」。参謀総長と軍令部総長は内閣とは異なる独立機関(統帥部)であり首相に指揮権はなかった。
※陸軍三長官…陸軍大臣、参謀総長、教育総監。大臣は事務方のトップでしかなく、指揮をとるのは参謀総長
※海軍三長官…海軍大臣、軍令部総長、連合艦隊司令長官。こちらも指揮をとったのは軍令部総長

●1935.11 冀東(きとう)政権成立…国民政府が日本軍の圧力に屈して河北省北東部(冀東)に設立した親日的地方政権。日本は冀東を麻薬など密貿易の拠点として中国の貿易・経済を混乱させた。後の通州事件の舞台。


●1936.2.26 二・二六事件…陸軍皇道派の青年将校たち(安藤輝三、野中四郎、栗原安秀、中橋基明、磯部浅一、村中孝次他)が1483名の兵を率いて政府要人を襲撃したクーデター。「尊皇討奸」を掲げ、官僚・財界と通じる陸軍統制派を倒し、天皇に直結する政治体制をつくる「昭和維新」を計画した。国家社会主義者・北一輝の影響を受け、武力を以て元老・重臣を殺害すれば天皇親政が実現し、政治腐敗や農村の困窮が収束すると考えていた。
大雪の1936年2月26日未明に決起し、歩兵第1連隊400余名、歩兵第3連隊900余名、近衛歩兵第3連隊50余名、野戦重砲兵第7連隊10数名らが反乱に加わった。下士官兵は大半が反乱計画を知らず、命令に従って適法な出動と誤認して襲撃に加わっていた。北一輝やその弟子・西田税(みつぎ)ら右派思想家は「決起は時期尚早」といさめたが、青年将校らの満州派遣が決まったことから、決起が急がれた。

《死亡》
内大臣・斎藤実(海軍大将)…坂井直中尉、高橋太郎少尉、安田優少尉らが襲撃(約150名)。軍部穏健派で前総理。体からは四十数発もの弾丸が摘出され、なおも体内に残っていた。凄惨。
教育総監・渡辺錠太郎(陸軍大将)…斎藤殺害後に、高橋太郎少尉、安田優少尉らが襲撃。天皇機関説(国家>天皇)を支持していた。渡辺大将は自ら拳銃で応戦したが、機関銃掃射で足の骨が剥き出しになり、肉が壁一面に飛び散った様子を次女が目撃している。警護の憲兵2名も死亡。
大蔵大臣・高橋是清(これきよ)…中橋基明中尉らが襲撃(約120人名)。高橋は国民から人気があり、天皇も信頼していた名宰相。軍事費抑制を主張していたことから就寝中に射殺され、警備巡査も重傷を負う。陸軍の予算は元々海軍の10分の1しかなく、平素から陸軍は大蔵省に不満があった。
《重傷》
侍従長・鈴木貫太郎(海軍大将)…安藤輝三大尉らが襲撃(約200名)。複数の銃弾を撃ち込まれたが一命を取り留める。妻の捨て身の懇願を見た安藤大尉はトドメを刺さず敬礼をして立ち去った。
※昭和天皇にとって鈴木夫人は乳母で、鈴木夫妻はいわば両親のような存在。その父とも言うべき鈴木が殺されようとしたことが、天皇の反乱将校への怒りとなった。
《生存》
首相・岡田啓介(海軍大将)…栗原安秀中尉らが襲撃。約300名が首相官邸に踏み込む。4人の警官が応戦で殉職、容貌の似ていた義弟が誤認され射殺。
前内大臣・ 牧野伸顕…河野寿大尉らが襲撃。牧野は欧米協調主義者。警護の巡査が応戦(殉職)し脱出に成功。旅館で襲撃され民間人にも被害。
内務大臣・後藤文夫…鈴木金次郎少尉らが襲撃するも、私邸に不在で難を逃れた。治安維持担当。

警視庁は野中四郎大尉率いる約500人の襲撃部隊によって抵抗も出来ずに制圧された。陸軍省、参謀本部、東京朝日新聞も襲撃され、永田町、霞ヶ関、赤坂、三宅坂一帯が午前9時頃までに占拠された。夜が明けて事件を知った昭和天皇は、軍装に着替え、沈痛な声で「とうとうやったか」「まったく私の不徳のいたすところだ」としばらく呆然としていた。午前9時、川島陸相が天皇に拝謁して反乱軍の「決起趣意書」を読み上げた。天皇は「なにゆえそのような物を読み聞かせるのか」「速やかに事件を鎮圧せよ」と命じた。戒厳令について、警視庁・海軍は「軍政につながる恐れがある」と当初は施行に反対していたが、昭和天皇の意を受けて施行され、27日午前3時、軍人会館に戒厳司令部が設立された。東京警備司令官・香椎浩平中将が戒厳司令官に就き、早期討伐を主張した参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐が戒厳参謀に任命された。陸軍省では「陛下に直接奏上して反乱軍将兵の大赦をお願いし、その条件のもとに反乱軍を降参せしめ、軍の力で適当な革新政府を樹立して時局を収拾する」という案が出ていた。
27日午前8時20分、「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」(戒厳司令官は三宅坂付近を占拠する将校以下を早急に各原隊へ復帰させるべし)との命令が天皇裁可のうえ参謀本部から下る(この奉勅命令が反乱部隊に伝わるのはもっと後)。
侍従武官長・本庄繁は“決起した将校の精神だけでも何とか認めてもらいたい”と天皇に奏上したが、天皇は「朕ガ股肱(ココウ)ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕(ジョ)スベキモノアリヤ」(私の手足となって働く老臣を殺戮するという、このように凶暴な将校たちは、どんな理由があろうと許されはしない)と憤慨し一蹴した。※昭和天皇35歳。

午後0時45分、拝謁に訪れた川島陸相に対し、天皇は「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」(私が最も信頼する老臣をことごとく殺すことは、真綿(まわた)で私の首を締めるに等しい行為だ)、「朕自ラ近衛師団ヲ率イテ、此レガ鎮定ニ当タラン」(私が自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たる)と非常に強い怒りを表明した。午後1時過ぎ、憲兵が官邸から岡田首相を救出。午後2時、陸相官邸で皇道派の中心人物・真崎甚三郎陸軍大将など軍事参議官3人が反乱軍将校と会談を行い、真崎は青年将校らの間違いを説いて聞かせ原隊復帰をすすめた。軍上層部は同情論と討伐論で意見が分かれ、夜になっても武力鎮圧はいまだ行われず。
28日正午、山下奉文少将が「奉勅命令が出るのは時間の問題」と反乱部隊に告げる。決起部隊の栗原中尉は、反乱将校の自決の場に宮中からの勅使派遣を依頼。これを聞いた昭和天皇は「自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ」(自殺するなら勝手にすればいい。あのような連中に勅使などもってのほかだ)と激怒した。一方、青年将校らは「行動を起こせば天皇陛下はお喜びになる」と思い込んでいた。
※この凄まじいほどの気持ちのすれ違い。二・二六事件の悲劇を象徴している。なぜ暴力が天皇に肯定されると思っていたのか。僕は純粋な彼らをそのように教育した軍上層部が許せない。

午後11時、戒厳司令部が「断固、武力をもって当面の治安を回復すべし」と鎮圧の準備を命じ、クーデター部隊を「反乱部隊」と公に指定。反乱部隊兵士の父兄数百人が歩兵第3連隊司令部前に集まった。第3連隊付の天野武輔少佐が説得失敗の責任をとり29日未明に拳銃自殺。
29日午前5時10分、反乱部隊を三方向から包囲し投降の呼びかけ開始。午前8時半に攻撃開始命令が下るが、現場では師団長など上官が涙ながらに説得を続けた。投降呼びかけビラが飛行機で散布され、ラジオで「兵に告ぐ」と題した勧告が放送され、「勅命下る 軍旗に手向かうな」と記されたアドバルーンがあげられた。これらを受けて反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に復帰し、安藤大尉は自決を計ったが部下の制止で失敗した。野中大尉は自決、他の将校らも午後5時までに逮捕された。黒幕とされた超国家主義者の北一輝、西田税ら思想家も検挙された。事件9日後の3月9日、岡田内閣が総辞職。
真崎大将ら皇道派の陸軍上層部は多くが要職を解かれ予備役(引退=事実上の解雇)となり、皇道派は壊滅した。
※2月29日朝、青島謙吉中尉が自宅で切腹。妻も喉を突き自刃。同日、歩兵第一連隊岡沢兼吉軍曹も拳銃自決。3月2日、東京憲兵隊の田辺正三憲兵上等兵が拳銃自決。3月5日、河野大尉が自決を計り翌朝死亡。
※事件の余波は満州にも伝わった。当時、関東軍の憲兵司令官だった統制派の東条英機は、亡き永田鉄山の弔い合戦で満州の皇道派軍人を片っ端から監獄に送った。いわく「これで少しは胸もすいた」。
7月に開かれた特設軍法会議(弁護人なし、非公開)で、反乱罪で死刑になった青年将校らは実に17人。無期禁固は6人。“五・一五事件”では誰も死刑にならなかった為、栗原や安藤は「死刑になる人数が多すぎる」と衝撃を受けた。7月12日、磯部浅一・村中孝次を除く15名の刑が執行された。翌年8月14日に事件の首謀者とみなされた北一輝、西田税にも死刑判決が下り、5日後に、北、西田、磯部、村中に刑が執行された。

※二・二六事件については、41年が経った1977年2月26日になっても、卜部亮吾(うらべりょうご)侍従人に「治安は何もないか」と就寝前に尋ねており、事件の衝撃が脳裏に焼き付いていたことがうかがえる。

●1936 軍部大臣現役武官制導入…二・二六事件の後、新たな広田弘毅内閣は陸海軍の同意がなければ内閣が成立・維持できない状況になる。二・二六事件で皇道派を一掃した陸軍首脳の梅津美治郎、武藤章ら統制派が、“陸・海軍大臣を選ぶ時は現役の大・中将に限定する”という「軍部大臣現役武官制」を広田に認めさせたのだ。これによって、(1)軍部が気に入らない内閣であれば陸軍大臣を送らない=組閣できない(2)わざと陸相を辞任させ後任を送らないという戦法で政局を動かす、といった事態が度々起き、軍部の発言力をさらに強めた。

●1936.3 天皇機関説事件…政府が「天皇機関説」を排斥して「天皇主権説」を採る。天皇機関説とは憲法学者・美濃部達吉による明治憲法の解釈で、「天皇は国家に従う“最高機関”にすぎず、天皇は国家の統治権を持っていない。統治権は国家(法人)に属している」というもの。天皇の権限を憲法の枠内に限定し、議会が天皇の意思を拘束できるという考えは、当時多くの法学者に支持されていた。二・二六事件の翌月、政府は天皇の神格性・超越性を強調し、統治権は絶対無限であるとし天皇機関説を否定。機関説に関する書物は発禁処分となり、以降、軍部による思想統制が強化され、終戦まで「神である天皇の名で行動する軍部」への批判はいっさい禁じられた。
※天皇自身は美濃部を擁護していた。「機関説でいいではないか」「君主主権はややもすれば専制に陥りやすい。(略)美濃部のことをかれこれ言うけれども、美濃部はけっして不忠な者ではないと自分は思う。今日、美濃部ほどの人が一体何人日本におるか。ああいう学者を葬ることはすこぶる惜しいもんだ」。
※軍部や右派と戦い、戦前に思想弾圧されたリベラル派学者・思想家リスト→滝川幸辰京大教授(京大法学部教員は滝川を守るため全員辞表を出して戦うが敗北)、矢内原忠雄東大教授、加藤勘十、山川均、鈴木茂三郎、大内兵衛、有沢広巳、美濃部亮吉(美濃部達吉の長男)、津田左右吉(そうきち)、森戸辰男東大助教授、河合栄治郎東大教授など。1939年、昭和天皇は各大学総長との会食の場で「その後、京大は立ち直っているか」と語り、滝川事件に胸を痛めていたことが窺える。

●1936.5.7 斎藤隆夫の粛軍演説…二・二六事件後の帝国議会にて、陸軍大臣・寺内寿一に対して民政党・斎藤隆夫が1時間25分に及ぶ質問演説を行った。議会軽視の陸軍を批判し、また、軍部を利用せんとする政治家に対して猛烈に批判している。「いやしくも立憲政治家たる者は、国民を背景として正々堂々と民衆の前に立って、国家の為に公明正大なるところの政治上の争いをなすべきである。裏面に策動して不穏の陰謀を企てるごときは、立憲政治家として許すべからざることである。いわんや政治圏外にある所の軍部の一角と通謀して自己の野心を遂げんとするに至っては、これは政治家の恥辱であり堕落であり、また実に卑怯千万の振舞であるのである」。斉藤は1940年に日中戦争処理に関し「聖戦の美名に隠れて」無計画に戦線を拡大する軍への反軍演説を行い議会から除名された。4年後のこの演説は陸軍にとって「2個師団を失ったぐらいの打撃」であったという。

●1936 抗日運動激化…東京の陸軍中央が「軍事工作をやめろ」と言っても関東軍は聞かず、戦果を競って北支(中国北部)など領域を侵し続けた。陸軍中央は関東軍の北支進出を抑えるために、隣りの天津軍を3倍に増強するという手まで使った(天津の部隊で関東軍に睨みをきかせた)。しかし、中国に説明なく天津軍を増強したことから、現地では抗日運動が激化し全土に広がった。暴走する出先軍、あいまいな対応しかできない中央という構図が続く。

●1936.8 満州開拓移民推進計画決議…1931年の満州事変以降、国策により満州国への移民が本格化。1936年、広田弘毅内閣は“今後20年間で100万戸、500万人を移住させる”と「満州開拓移民推進計画」を決議した。実際、政府は1938年から4年間に20万人の農業青年を、そして1936年に2万人の家族移住者を送り込んでいる。移住責任者は加藤完治で「満州拓殖公社」が業務を担った。『王道楽土』『五族協和』といった言葉で大々的に開拓移民募集のキャンペーンが行われ、当時の日本、特に地方農村は昭和恐慌で困窮をきわめていたことから、多くの人々が募集に応じた。彼らは農業研修や軍事訓練を渡航前に受け「満州開拓武装移民団」として送り込まれた。
最大の問題は入植先の反日感情。これは日本側の横暴なやり方が原因だった。入植地の確保にあたって、一方的に先住農民が開墾していた土地を「無人地帯」に指定し、政府がこれらの「無人地帯」を格安で強制的に買い上げ、先住農民を新たに設定した土地(荒野)へ強制移住させ、その上で日本人開拓移民を入植させる政策をとっていた。約2000万ヘクタール(東京都の面積の約100倍)の移民用地が強制収容された。先住農民は苦労して開墾した耕作地を取り上げられる強制移住に抵抗し、衝突やトラブルに発展するケースが相次ぎ、関東軍が武力で鎮圧することもあった。1934年には中国人の日本人移民に対する武装蜂起で日本軍の連隊長が殺害される事件もおきている(土竜山事件)。

先住農民は自分たちの生活基盤を奪った存在として日本人開拓移民団を恨み、こうした反感が反日組織の拡大につながった。1942年以降は戦局の悪化で成人男性の入植が困難となり、15歳から18歳の少年で組織された「満蒙開拓青少年義勇軍」が移住のメインとなる(1938年4月に第1陣5千人が出発。最後は終戦2ヶ月前の214人。全体で86530人)。軍事上の理由でソ連国境に近い満州北部が入植先に選ばれた為、ソ連参戦時に移民団が現地住民たちに襲撃される伏線になった。戦争末期に大部分の男子が軍に召集され、残された婦女子はソ連軍による暴行や現地住民から報復的略奪にあい、集団自決や親子の生き別れ(中国残留孤児)など悲劇が起きた。青少年義勇軍を含む満州開拓移民は約32万人にのぼったが、殆どが国境地帯に取り残され、開拓民で帰国できたのは約11万人だけだった。
当時、満州開拓移民を訓練する指導者だった元第三師団上等兵・福手豊丸さん「名は開拓だったけど事実上は昔から住んでいた農家の人を強制的に国の力、軍の力で追い払った。満州の開拓政策は根本的に大きな誤りがあった」。
※「満州は今の中国人の土地でないから中国に謝罪する必要なし」というのは詭弁。当時の日本政府は、満州が中国の一部と思っていたからこそ、いろんな方便を使い「清朝・中国との交渉」を通して権益を獲得していった。
※参考にした外部サイト

●1936 第731部隊誕生…細菌兵器を人体実験で開発していた満州第731部隊。正式名称“関東軍防疫給水部”で、初代部隊長は石井四郎。陸軍内部では石井機関と呼ばれた。731部隊は中国東北部(満州)ハルビンに設置されたが、1938年に北京、1939年に南京、広東、そして1942年にはシンガポールにも関連部隊「防疫給水部」が派遣された。1939年末の総人員は10045人。このうち、組織的に人体実験を行っていたのは731部隊と南京の1644部隊。731部隊については敗戦後の米軍調査の記録が残っており概略が判明している。1943年7月までの人体実験の死者数は850人。人為的にコレラ、ペスト、赤痢、炭疽、その他様々な伝染病に感染させ、病原体ごとに「感染に必要な細菌の量」を調べて生物兵器に応用した。1940年10月27日の寧波(ニンポー)市に対する重爆撃機からの“ペストノミ”(ペスト菌を持つネズミの血を吸ったノミ)の散布は石井機関の作戦だ。1942年には戦場にコレラ菌を使った生物兵器を使用し、1万人以上を感染させたが、その全員が日本兵という大失態を犯してしまう。連絡ミスで日本軍が誤って散布地域に踏み込んでしまった為だ。1644部隊の調査では1700人以上の日本兵が主にコレラで死亡している。1944年末に米軍の捕虜となった衛生兵は「実際の死者数は1700人より多いはず。不愉快な数字は低く見積もるのが通例だから」と証言。この作戦で被害にあった日本兵は、上官から「中国の生物兵器の攻撃だ」と教えられた。
「ジュネーヴ議定書」(1925)は戦争で生物化学兵器の使用を禁じており、石井たちは生物兵器が議定書違反になることを認識していたが、戦後、帰国した部隊員は誰一人戦犯として訴追されていない。米軍が研究データを提供すれば戦犯を免責すると“取引”したからだ。
※戦後、薬害エイズ事件を引き起こしたミドリ十字の創始者は石井の片腕、内藤良一。
※陸軍が1940~42年にかけて中国で細菌兵器を使用していたことを示す陸軍軍医学校防疫研究室の極秘報告書が、2011年に国会図書館関西館で見つかった。細菌兵器の使用は1993年に発見された陸軍参謀の業務日誌にも記述があるが、研究室の公的文書でも裏付けられた。これまで日本政府は細菌戦について「証拠がない」との見解を中国人遺族らによる損害賠償訴訟で示している。態度を改めるべき時がきた。細菌戦を行ったとして記されていた場所と効果は次の通り。
  2011.10.15 朝日から

  笑顔で731号機に乗る安倍首相。あまりに無神経。普通避けるだろ…

★1937.7.7 盧溝橋(ろこうきょう)事件…牟田口歩兵第一連隊長が率いる天津軍は、連日のように国民党の精鋭部隊がいる北京郊外・盧溝橋付近で演習を繰り返した。7月7日、演習中の日本軍が何者かに数発の銃撃を受け、牟田口は国民党軍の挑発として独断で中国軍への攻撃を許可(外部サイトに詳細)。両軍が交戦に入った。日本政府は不拡大方針を打ち出し事態の早期解決を目指す。満州駐留の日本軍は強大な軍事力を持つソビエトと直接向き合っており、軍上層部も中国に戦力を割くのは危険と考えた。4日後に停戦協定成立。しかし1ヶ月後に上海で新たな武力衝突が起き、戦争が本格化してしまう。
※盧溝橋事件の時点では日本居留民に危機は迫っていない。日本側には華北5省(河北、山東、山西、綏遠(すいえん)、チャハル)を第2の満州国にしようという「華北分離論」があり、“この際事件を拡大して華北を分離し蒋介石を打倒しよう”という方向へもって行った。
※1937年から1941年に宣戦布告するまでの4年間、日本は大陸での戦いを“支那事変”と称した。この頃、アメリカには戦争当事国への戦略物資の輸出を禁止した“アメリカ中立法”があった。日本は石油や兵器の材料の多くをアメリカに依存していた。石油がなければ中国と戦えない。宣戦布告をするとアメリカが中立法を発動する恐れがあったので、“事変”であって国際法上の戦争ではないと主張し続けた。また、中国側も同様に1941年まで宣戦布告していない。

●1937.7.29 通州事件…冀東(きとう)防共自治政府(親日派)の首都・通州で起きた日本人・朝鮮人居留民虐殺事件。事件の背景は12日前に遡る。その日、中国軍と戦闘中の日本軍機が冀東政権の保安隊兵舎を誤爆。味方と思っていた日本軍に攻撃され、憤慨した保安隊が報復のため29日朝に日本守備隊や民間人を襲撃した。支那駐屯軍司令官・香月清司中将の当時の記録『支那事変回想録摘記』によると、日本人104名と朝鮮人108名、計212人が殺害された。襲ってきた保安隊は、日本軍が軍事指導していた部隊であり、飼い犬に手を咬まれたことになる。この事件が報道される際、軍部は誤爆が最初にあったことや、襲撃者が冀東政権の保安隊であることを隠し、「支那人部隊が突然やって来て虐殺した」と伝えた。当然、国民は支那人部隊=国民党政府軍と考え「鬼畜の行為」と激怒した。当時の日本政府が国民党政府を非難しなかったのは国民党が全く無関係だから。悲劇的な虐殺事件さえも反中国感情を煽る宣伝に使われた。
※元陸軍省新聞班の松村秀逸少佐いわく「橋本参謀長は“(新聞に書く時は)保安隊とせずに中国人の部隊にしてくれ”との注文だった。勿論、中国人の部隊には違いなかったが、私はものわかりのよい橋本さんが、妙なことを心配するものだと思った」。
※日本は通州を拠点に、大陸に麻薬を流す「毒化政策」を行っていた。満州でヘロインを製造した製薬会社社長・山内三郎いわく「冀東地区(通州)からヘロインを中心とする種々の麻薬が奔流のように北支那五省に流れ出していった」。
※この通州事件は当時だけでなく、今も「犯人は支那軍」と嘘をついて反中国感情を与える材料に使われている。しかも、彼らは被害者の半分以上が朝鮮人であったことや、通州にアヘン密貿易者がたくさん集まったこと、「毒化政策」に対する中国人の反感もスルーしている。民間人への無差別殺戮は絶対に許されるべきものではない。しかし、事件を意図的に政治利用するやり方は、それもまた死者に対する冒涜だ。

★1937.8.13 第2次上海事変…盧溝橋事件から続く日本軍の華北(北京など中国北部)侵略に対し、上海で激しい抗日運動が起こる。その渦中の1937年8月9日、虹橋飛行場を偵察中の海軍陸戦隊・大山勇夫中尉らが中国保安隊に射殺される事件が発生。日本政府はこれをきっかけに華北侵攻の「不拡大方針」を放棄し、「乱暴で道理に反する支那軍を懲らしめる」と積極的な武力行使に方針転換する。中国側も8月15日に総動員令を発して蒋介石を指導者とする抗日民族統一戦線を結成した。

日本側は中国の兵力を軽視していたが、中国は満州事変から盧溝橋事件に至る6年間で大きく変貌していた。ドイツから軍事顧問を招いて兵力を近代化し、屈強に生まれ変わっていた。蒋介石には30人のドイツ人軍事顧問団(リーダーはドイツ国防軍の将軍ファルケン・ハウゼン=歩兵部隊育成の第一人者)がいた。ドイツは日本と防共協定を結んでいたが、一方で中国に軍事支援を行い、大量に最新兵器(装甲車・戦闘機含む)を輸出していた。盧溝橋事件の年には前年の3倍の軍需品が中国に渡っている。ヒトラーいわく「日本との協調関係は維持する。しかし、中国への武器輸出も偽装できる限り続ける」。
一方、陸軍は日露戦争から武器がほとんど変わっていなかった。中国共産党と国民党政府は抗日意識でまとまり、中国軍はもはや清国とは異なる、手強い軍隊になっていた。

軍事顧問団ファルケン・ハウゼンは「中国の敵は日本が第一、共産党を第二」と思考、蒋介石に「今こそ対日戦に踏み切るべき、日本軍を攻撃すべし」と進言。蒋介石の日記「中国北部で戦っても世界は誰も注目しない。国際都市上海で戦争すれば世界中の関心を集め国際世論を喚起できる」。
1937年8月12日未明、中国正規軍本隊が上海まで前進、中国軍の屈指の精鋭部隊約3万人が国際共同租界の日本人区域を包囲した。上海にいた日本の海軍陸戦隊は5千人であり、6倍の勢力。そして、翌13日午前10時半頃、商務印書館付近の中国軍が日本軍陣地に対し突如として機関銃攻撃を開始した。ここから日中両軍は上海各地で戦闘に突入し、以降、8年の長きに及ぶ日中戦争が展開される。
※中国軍の先制攻撃は当然大問題だが、背景には満州占領からの北京侵攻、天津侵攻があり、「日本軍を追い出せ」と反日感情がピークになっていたことも理解しないと、「日本は何も悪くないのに当然攻撃された」と偏った視点になる。

増援の要請を受けた陸軍大臣・杉山元(はじめ)は「対ソ戦を考慮するとこれ以上中国に兵力を投入できず」としたが、陸軍強硬派の中心、参謀本部作戦課長・武藤章(あきら)は「大軍で一撃し威嚇すれば、中国はすぐに降参し事態の拡大を防げる」という“対支一撃論”を掲げ即時派兵を求めた。当時の日本では「支那兵なんて弱い」「中国に一撃を加えれば事態を収拾できる」と、軍上層部から一兵卒まで、兵隊だけじゃなく、普通の人まで支那人を侮蔑していた。海軍大臣・米内光政は長期全面戦争を強論。結局、軍の大増派が決定し、8/23に陸軍は上海へ“10万人”を上陸させる。

中国軍は日本軍の上海上陸を予測し待ち構えていた(盧溝橋事件の半年前には南京と上海の防御陣地が完成していた)。増援部隊10万が到着すると、上海戦では中国軍が装備したチェコスロバキア製のZB26軽機関銃が猛威を振るった。毎分550発。命中精度が高く当時世界最高水準の軽機関銃。これもドイツ経由で中国に売却された。
日中戦争当初、主力として活躍したのは北陸の第九師団。第九師団歩兵第七連隊戦闘詳報(当時の戦況公式報告書)によると、上海事変勃発から2週間で部隊2566人中、死者450人、負傷者905人、兵士損耗率53%。2人に1人が死傷者という壮絶な戦い。
※元第九師団歩兵第七連隊通信兵・小西輿三松は、通信兵として最前線と司令部を行き来しており、戦場の様子を逐一書き留め日記をつけていた。友軍がまさかの全滅。「1937年9月27日 部隊が反撃にあい驚いている」。“中国側の徹底抗戦など誰も予想してなかった、烏合の衆と思ってた”という。

第九師団は上陸1ヶ月で1万の兵を失った。幼友達の戦友を失った兵士(元第九師団山砲第九連隊・滝本孝之)の当日の陣中日記。「胸も張り裂けんばかりに激憤して暴支膺懲(ぼうしようちょう=支那軍の不法者を征伐して懲らしめる)の声が染みこむ」。翌日一人の中国兵を捕虜にした。「分隊兵全員で蒸し焼きにして殺せり。約30分ほどうめく」。最前線の誰もが親友や上官をやられ、中国兵への復讐心をつのらせていく。“支那兵を皆殺しにしてやる”と敵への憎悪が部隊戦隊を覆っていった。陣中日記「ある兵隊が集落で捉えたといって、真裸の男を後ろ手にくくって連行した。隊長はチラとその方を見たがすぐ新聞を頭に載せて“やっちまえ”と一言いわれた。もう一人農村青年がいることを告げると、もう一言“やっちまえ”。一言の取り調べもなく、よくその人物を見るでもなく、簡単に。2、3人“俺がやってやる”と銃をとって駆けて行った者もいる」。軍上層部の「中国は弱くすぐに降参する」という誤った認識が、末端の兵士たちを追い詰めていった。

※千葉県の浅井病院に日中戦争から太平洋戦争の間に心を病んだ兵士のカルテが8千人分も現存する。陸軍病院に勤めていた精神科医が戦場の実態を後世に伝えるべくコピーしたもの。終戦後、陸軍から焼却命令が出ていたが密かに保存された。オリジナルの記録者は当時上海の陸軍病院にいた軍医・早尾乕雄(とらお)中尉。早尾は第一次世界大戦の戦場神経症について欧州で学び、第九師団の兵士の心理状態を次のように分析、書き留めている。
「第一線で血を見た歩兵部隊ほど気分が荒々しくなっている。その有り様は狂躁状態と同じ。ここに絶大な力のエネルギーが働いて、十人斬りをやり刺殺できるようになるのである。戦友が辱められた、殺されたのを見ているから、余計に敵愾(がい)心が強くなり、思い切ったことをやった。抗日分子を全滅するには、老幼男女の別なく“支那人と見たら皆殺せ“とまで命令した部隊長さえあったくらいである。みな、これ激しき復讐心の表れである」。

戦闘開始から2ヶ月。東京の参謀本部は膠着状況を打開すべく、新たに大規模な増援部隊の派遣を決定(10/20)。同時に、軍上層部は戦いの早期終結をはかるため、戦場を上海周辺に厳しく限定した。蘇州と嘉興(かこう)を結ぶ制令線を越えて西(南京方面)に進軍することを制限した。11/5に7万の増援部隊が上海の南、杭州湾に上陸。これを機に日本軍が優位になり、11月上旬、上海は陥落した。この攻防戦は世界に伝えられ、蒋介石は欧米による日本への経済制裁を期待したが、この段階ではまだ列強は動かなかった。世界は上海のみを戦場にした局地戦と思っていたからだ。陸軍中央もこれで停戦になると考えていた。
だが!!!現地軍の司令部は敗走する中国軍を追撃するよう命じた。上海での死闘をかろうじて生き残った兵士たちは、今度は食糧など補給の遅れに苦しむことになった。日本軍はもともと「上海周辺」の限定された地域での「短期戦」を想定して補給の体制を組んでいた。追撃命令で作戦地域が拡大した結果、補給体制が破綻し始め、地元民に対する徴発(ちょうはつ=強制的に物資を取り上げること)が日常化されていった。

※前線の元第九師団歩兵・小西輿三松の陣中日記「皆、一様にもうしばらくだと語り合いながら、苦しい追撃を続行する。我々は一度交代になるべきはずなのに、次の攻撃命令が次から次と来る」「急激な追撃に後続部隊が続行できず、物品の運搬に泡を食っている」。
※元第九師団歩兵第三十六連隊・横山重(中国軍の手榴弾で右目を失う)いわく、「一週間も米粒なし。そこらの畑から取ってくるしかない。銭を払う時もあったが、無い時はどうしようもない。徴発をする。つまり泥棒だ。悪いことは分かっているがどうしようもない」。
※この頃、11/20に戦時の最高統帥機関・大本営が設置され、同時に大本営と政府の連絡機関「大本営政府連絡会議」も設けられた。

補給問題は陸軍が現地の地理を充分に調査していなかったことから深刻化した。作戦地域は船による水上運搬が適切だったのに、補給部隊の設備は陸上輸送を中心としていた。第九師団経理部は公式報告書に陸軍省に対する批判を書いている。「第一線の兵士は現地調達によって得た食糧によりかろうじて餓死を免れた」。徴発は本来、物資の対価を支払うことが軍規に定められていたが、戦闘続きでその余裕はなかった。兵士たちは徴発に奔走するようになり、上海から80kmの蘇州では、11月中旬に“部隊が百貨店になるほど”の大規模徴発があった。
11/22、蘇州における徴発で兵が鋭気を養ったと見た上海派遣軍司令官・松井石根は、東京の参謀本部に電報を打つ。「制令線(蘇州)に軍を留めていては戦機を逸する。南京に向かう追撃は可能なり」。松井は首都さえ落とせば蒋介石は屈服すると考え南京攻略を進言した。不安に包まれた軍上層部は参謀本部名で電報を返信「南京への追撃は制令線を定めた命令への逸脱行為であり断念すべし」。しかし松井ら現地軍は参謀本部の作戦部長・下村定と密かに呼応していた。
11/24、下村は御前会議で天皇に今後の作戦方針を説明することになった。下村の役割は、軍上層部が決めた“制令線を越えた進軍の予定はない”を伝えることであったが、独断で「南京その他を攻撃せしむることも考慮いたしております」と付け加えた。この発言で下村は叱責されたが何も処分されなかった。同24日、増派部隊は独断で南京への追撃を開始。第六師団は制令線の限界であった嘉興を越えて南京に出発。
11/30、蒋介石は日本軍の西進に備えて、南京郊外の農村に400カ所以上の陣地(内部に機関銃を設置したコンクリート製のトーチカ)を築き防衛ラインを引いた。トーチカが置かれた村々は日本軍を迎え撃つ“砦”となった。結果、多くの住民が戦闘に巻き込まれた。

南京事件の死者数が日中で大きく異なるのは、このように南京近郊の戦いで殺害された村民たちも中国側は南京事件の犠牲者と見なしているからであり、南京城内の死者しかカウントしていない日本側と数字が異なるのは当然のこと。どちらの数字が正確か非難しあう前に、対象にしている地域の範囲が違うことを知らねばならない。嘘の数字と批判するのは的外れ。
12/1、ここに至り、軍中央は南京攻略を正式に発令した。またしても、現地軍の独走と軍上部の追認という、満州事変と同じ構図が繰り返された。
12/7、蒋介石は南京防衛軍の兵士を残し、自らは戦線の立て直しを図るため南京を離れた。前後してドイツ軍事顧問団や国民党幹部も場外へ逃れた。南京の城内には南京在住の外国人商社員らによって難民区が設けられ、南京周辺からも戦禍を逃れた多くの民衆が集まり日本軍の攻撃から身を守ろうとしていた。

先述した第九師団担当の軍医・早尾乕雄中尉は、論文『戦闘神経症並びに犯罪について』で徴発の危険性を指摘。「実に徴発なる教えは、極めて兵卒の心を堕せしめたる結果を示せり。内地においては重罪のもとに処刑せらるべきものなり。しかるに戦場においては毫も制裁を受けず、かえってこれに痛快を感じ、ますます奨励せらるるが如き感ありき。徴発の如き、公然許されしこと、最初は躊躇(ちゅうちょ)せるものなり。ついには不必要なる物品を、自己の利欲より徴発なすに至り。実に日本軍人の堕落と言わざるべからず」。
徴発が兵士たちの倫理観を麻痺させていった。軍が公認した徴発が略奪や強奪となり軍規を崩壊させた。上海の激戦で多くの戦友を失い、復讐心をたぎらせ、飢えと疲労でギリギリの精神状態の兵士たちは、大陸上陸から4ヶ月、ついに南京へ到着した。



★1937.12.13 南京事件(注・先に「第2次上海事変」を必読。繋がっています)…蒋介石率いる国民政府の首都・南京は人口100万の大都市。日本軍は1ヶ月前に上海の激戦を制した後、7つの師団、計20万人を越える兵士が一斉に南京に進撃した。「南京を陥落すれば蒋介石は降参する」と信じ、上海から南京まで、徒歩で300km(東京~名古屋ほどの距離)を戦いながら進んだ。12/10、南京城を包囲した日本軍は総攻撃開始。南京防衛軍の司令長官は陥落が決定的になると部下を残して逃亡した。中国側の高級将校はみんな逃げた。そして、指揮系統を失った中国兵約10万人が退路を断たれて取り残された。武器も食料も尽きた。総攻撃3日後、12月13日南京陥落。日本の各師団は南京入城一番乗りの功名争い。以後、3ヶ月にわたって城内の掃討作戦が続く。

〔南京で何が起きたのか〕
いわゆる“南京大虐殺”については、当時の日本軍の作戦資料、従軍日記、外国人の証言など、様々な証拠が残されているため、実際に虐殺・強姦・放火などの残虐行為があったことは間違いない。中国側が主張する証拠写真・映像には宣伝用映画のものが数多く混じっており、それを理由に“虐殺はでっちあげだ”という意見もあるけど、当時現場で記録された膨大な第一次史料が、数々の悲劇を伝えている。

陥落の翌日に書かれた元第九師団歩兵第七連隊・小西輿三松の陣中日記「昨夜は気づかなかったが、一帯に正規兵の被服、兵器等、が多く散乱、放置してある。奴ら、便衣(べんい=民間人の平服)を着たらしい」。城内に脱ぎ捨てられた大量の中国兵の軍服。約10万もの中国兵が、軍服を脱ぎ捨てて民間人に混じってしまった。誰か敵兵なのか分からず、いつ狙撃されるか分からない。
皇族が参加する南京入城式典が3日後に控えており、不測の事態は絶対に避けねばならなかった。連隊に城内掃討命令が下る。「青壮年はすべて敗残兵、又は便衣隊と見なし、すべてこれを逮捕監禁すべし」。老人と子ども以外、すべての中国人男子を逮捕監禁せよという厳命だ。だが、“逮捕監禁”といっても、食料もなく10万の捕虜を収容する施設などない。やがて命令は「捕虜を処分、殲滅(せんめつ)せよ」に変更された。“処分”、つまり処刑だ。
再び小西の陣中日記。別部隊が、捉えた若者の中から中国兵をより分けているのを目撃。「運動場に人々を集めて、正規兵、及び嫌疑者を選り分けているのだった。肉親や妻、子ども達が哀れな声で泣きながら若い者達に飛びついてくる。憲兵達が抜刀して追い払えども、去らんとせず悲劇が展開される。“若い男はこれを全部捕虜とせよ”と聞いていたが一人一人掴んだのではきりがない」。結局殆どの若者がトラックで連行されたという。毎日新聞大阪本社にある、検閲で公開不許可になった当時の写真には「13日。避難民に紛れて逃亡せんとする正規兵約5、6千名」と書かれている。

12/15、入城式典が2日後に迫る。歩兵第七連隊に新たな掃討命令が下った。「連隊は明日16日、全力を難民地区に指向し徹底的に敗残兵を捕捉殲滅せんとす」。難民地区においても“捕捉殲滅”が行われた。
※「捕虜の始末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す 皆殺せとのことなり 各隊食料なく困窮す」(山田支隊長の日記12月15日)

12/16、入城式典前日、殲滅が続く。歩兵第65連隊第八中隊・遠藤高明少尉の陣中日誌「捕虜総数1万7025名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引き出しI(第一大隊)において射殺す。一日二合宛給養するに百俵を要し、兵自身徴発により給養しおる今日、到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるもののごとし」(十二月十六日)

元第九師団歩兵第七連隊・鍋島作二いわく「揚子江に飛び込んだ連中を機関銃で撃った兵士がいた。虐殺はあった。この目で見たし、私も一人斬った。敵の陣地に突っ込んで殺すのと全然意味が違う。それも非戦闘員かも分からん奴を。だから虐殺というふうに捉えている」。小西の陣中日記「昨夜から若者を5人ずつ縛って揚子江に連行して銃殺したそうだ」「捕虜を助けるなどという意識はまったくなかった。敵は殲滅(せんめつ)すべし、ただそれだけだ」。
軍の公式記録、歩兵第七連隊戦闘詳報によれば、小西、鍋島が所属した第七連隊の掃討は12日間続いた。刺殺、射殺した敗残兵は第七連隊だけで6670人。

他師団はどうなのか。城内の徹底掃討を行なった第16師団長・中島今朝吾中将は、捕虜を取らず、殺害する方針を日記に書いており、第16師団歩兵第33連隊は捕虜3096人を殺害している。同じく第16師団歩兵第30旅団は南京西部地区で捕らえた捕虜数千人を処刑。第114師団歩兵第66連隊は捕虜1657人を殺害。これらはすべて日本側の記録だ。南京北方の幕府山では山田支隊(歩兵第65連隊、約4千人)が捕虜約14000名を殺害したことを、山田少将が「この“処置”は上部組織からの命令であった」と記している。
数字が出ている公式記録だけで2万5千人以上。僕の感覚では2万5千人は大虐殺だ。中国が主張する30万人じゃなくても。

【幕府山事件は自衛のため?】
南京陥落翌日の12月14日、第13師団山田支隊の歩兵65連隊は揚子江岸に進軍、幕府山付近で約1万4000人の捕虜を捕らえた。“仕方なく殺した”説は次の通り。「捕虜のうち婦女子など非戦闘員約6000人を釈放し8000人を収容したが、火事騒ぎなどで当日夜に半数が逃亡、捕虜は約4000名に減った。食糧不足など大量の捕虜の処遇に苦慮した結果、17日夜に揚子江岸で釈放することにしたが、目的地に近づくと捕虜が暴動を起こしたため、自衛のため1000名を殺害、その際に日本兵7名が戦死した」、というもの。
この“自衛発砲説”の証言は連隊長や大隊長など虐殺責任が問われる指揮官クラスが後世にしたものであり、事件現場の一兵卒は誰1人として「釈放目的で河岸に集めた」と日記に書いていない。しかも「自衛説」は12月17日のことにしか触れておらず、翌日以降の大量処刑について一言も語っていない。反対に“1万人を超える捕虜大量処刑”を記した当日の従軍日誌は複数見つかっている。
※そもそも「自衛説」が載っている防衛研修所戦史室(現・防衛省防衛研究所戦史部)編の『戦史叢(そう)書・支那事変陸軍作戦1』(朝雲新聞社)は、出版されたのが戦後30年も経った1975年であり、判明している誤記は7000箇所以上。執筆者が旧軍関係者という身内による作成であり、その多くが当時参謀職であったため、「勝利をたたえ戦功を誇る」書き方が目立ち、住民を巻き込んだ戦闘などマイナス面の言及が欠けていることが指摘されている。

南京攻略に参加した日本軍は上記の部隊だけではなく、7師団約20万人の大軍団。各兵士が銃剣や銃弾を持っており、相当数の市民が巻き添えになったことは想像に難くない。城内で兵による婦女暴行や略奪が起きていると報告を受けた中支那方面軍司令官・松井石根大将の日記「日本軍の中にも不心得者もいる」。
※日本軍の名誉のために書いておくと、捕虜を殺害せず、武装解除したうえで釈放した部隊もある。第6師団歩兵第45連隊は5500人を、国崎支隊の歩兵第41連隊は2350人を解放している。

こうした状況に、難民区を運営していた南京安全区国際委員会(外国人商社員や宣教師等からなる)は、日本大使館へ360余件の強姦に関する非難報告を送り、参謀総長が軍紀風紀に関する異例の要望を発し、松井司令官が軍紀引き締めの訓示をしたことから、婦女に対する暴虐ぶりが垣間見える。また、安全区国際委員会は捕虜を国際法に従い人道的に扱うように求めた。日本は捕虜の扱いを定めた「ハーグ陸戦法規」を批准している。同法規では、兵器を捨て自衛の手段が尽きて降伏を請う敵を殺傷することは特に禁じられていた。陸軍省が現地軍の参謀長に出した通達は「日中両国は国際法上の戦争状態に入っていないため、陸戦法規の適用は不要。俘虜という名称も国際法上の戦争と見なされる恐れがあるため極力使用を避けるべし」であった。
南京駐在ドイツ外交官ゲオルク・ローゼンは30通に及ぶ報告書をドイツ本国に送った。「私は日曜日、日本軍の犯行現場と4人の犠牲者を見た。日本兵が一人の老人を銃で撃った。老人の家族や知人が彼を救おうとしたところ、日本兵はその4人全員を射殺した。日本がアジアに光明をもたらそうとするなら、まず日本は自らが持つすべての暗闇に光を当て、そこをしっかり検証しなければならない」「米国人宣教師ジョン・マギーが撮影したフィルムを(ヒトラー)総統閣下に見て頂きたい」。
※このフィルムは米国立公文書館に現存し、マギーの解説が付いている。「何千人もの民間人がロープで縛られ、川岸や池の縁、空き地に連行され、機関銃や銃剣、ライフル、手榴弾で殺された。2人の日本兵が(フィルムの)この女性の頭を斬り落とそうとし、脊椎まで首の筋肉を切断した」。南京陥落半年後に発行された写真誌『ライフ』1938年5月号でマギーのフィルムが紹介され、多くの米国市民が日本に対する批判を強めていった。そして米国の大都市を中心に日本製品の不買運動が広がり、1939年、米政府は日本との貿易を制限する政策を採り始める。

12/17、南京入城式。首都の陥落で日本国内は戦勝ムードに沸き返っていた。だが蒋介石は首都を漢口(武漢)に遷都し、漢口が陥落すると今度は重慶(四川省)に遷都させ、徹底抗戦の決意を新たにする。戦争は終わらず、戦線は南京から徐州へと拡大し、戦いが長期化していく。

12/18、歩兵65連隊第七中隊・大寺隆上等兵の陣中日記「昨夜まで殺した捕リョは約二万、揚子江に二箇所に山のように重なっているそうだ。七時だが片付け隊は帰ってこない」(十二月十八日)
※同上等兵の前日の日記には「時々(敵の)小銃弾が頭の上をかすめて行く」とあり、陥落4日後でもゲリラが出没する緊迫した状況であったと見られる。気持ちに余裕はなかった。

なぜこの虐殺が起きたのか情報を整理。
(1)数万人も捕虜をとることは物理的に不可能であったため、軍上層部から捕虜を作らない方針が下っていた。捕虜を“処分”しなければ命令違反になった(この理由が一番大きい)
(2)上海から南京に至る過程で、多くの兵士は仲間・親友を失っており敵への憎悪・復讐心が頂点に達していた
(3)中国人に対する根深い差別意識。“チャンコロ”と呼んで人間扱いしていない
(4)日本人は捕虜となることを恥じとし、同じ日本人であっても捕虜になったものを軽蔑した。まして敵軍の捕虜であれば侮蔑は凄まじいものとなった
(5)物資は現地補給方式(要するに略奪)であったため、必然的に地元農民と衝突するケースが増える
(6)12月17日に皇室参加の入城式があるのでそれまでに全ゲリラを捕らえる必要があった

※芥川賞作家の石川達三は中央公論会の特派員として、南京陥落の約20日後(1月5日)に入城し、むごたらしい有様を見て”日本人はもつと反省しなければならぬ”と痛感、小説『生きている兵隊』を発表した。結果、内容が「反軍的」として掲載された「中央公論」三月号は発禁、石川は「新聞紙法」違反で起訴され禁錮四ヵ月、執行猶予三年の判決を受けた。
昭和21年(1946)5月9日付の「読売新聞~裁かれる残虐『南京事件』」に石川の証言が載っている。
→女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、入城式におくれて正月私(石川達三)が南京へ着いたとき街上は屍累々大変なものだつた、大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた。また武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使ふのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で片ツぱしから殺害した。
戦争中の興奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合はいくら何でも無茶だと思つた、三重県からきた片山某といふ従軍僧は読経なんかそツちのけで殺人をしてあるいた、左手に数珠をかけ右手にシヤベルを持つて民衆にとびこみ、にげまどふ武器なき支那兵をたゝき殺して歩いた、その数は20名を下らない、彼の良心はそのことで少しも痛まず部隊長や師団長のところで自慢話してゐた、支那へさへ行けば簡単に人も殺せるし女も勝手にできるといふ考へが日本人全体の中に永年培はれてきたのではあるまいか。
(略)南京の大量殺害といふのは実にむごたらしいものだつた、私たちの同胞によつてこのことが行はれたことをよく反省し、その根絶のためにこんどの裁判を意義あらしめたいと思ふ。
…このように戦後一貫して南京の残虐行為を証言してきた石川だが、没後に虐殺否定派の評論家・阿羅健一は「南京での暴行は無かった」という手紙を石川氏から貰ったという、にわかには信じ難いことを言っている。真に石川の手紙か筆跡鑑定のため公開して欲しい。

※「日本軍は中国の卑怯なゲリラ戦法に手を焼いた。民間人に紛れているので仕方なく怪しい者を殺したわけで、無差別虐殺ではない」。侵略された側が抵抗するためゲリラになるのは昔からある常套手段。先の日中戦争において仮に中国軍が日本へ上陸してきて、市民に紛れてゲリラ攻撃していたのであれば大問題だけど、戦場は中国であり人々は生まれ育った土地を外敵から守っているだけだ。中国を侵略している大前提を無視して“ゲリラは卑怯”と虐殺を正当化するのはいかがなものか。捕虜ならば師団以上に設置された軍法会議、捕虜でないならば軍以上に設置された軍律会議の判決により処断すべきものであり、無抵抗で丸腰の人間を裁判なしで殺すのは文明国の所業ではない。



【南京事件まとめ】
南京占領軍への当初の命令は「青壮年はすべて敗残兵、又は便衣隊(ゲリラ)と見なし、すべてこれを逮捕監禁すべし」。つまり、老人と子ども以外の中国人男子は全員逮捕監禁せよという厳命。だが、食料もなく10万の捕虜を収容する施設もない。やがて命令は「捕虜を処分(処刑)、殲滅(せんめつ)せよ」に変わった。
ネットでは「日本軍は規律正しく南京事件などなかった」とする人も少なくない。僕も中国側の主張する被害者30万人は多すぎると思う。でも、“何もなかった”というのはあり得ない。否定派の疑問に答えるとすれば、
(1)死体はどこへ?→揚子江に流したという証言を、日本側、中国側、居留外国人が残している
(2)南京の人口20万人が陥落翌月に約25万人と5万人増えたから虐殺は無かった→20万人という数字は南京の人口ではなく、南京の中の国際安全区の人口。むしろ安全区の人口増加(避難民流入)は、区外での苛烈な残虐行為を示すものになっている
(3)20万都市で30万殺害は無理→“南京”の範囲が日中で違う。中国側はかなり郊外まで含めた南京一帯、日本側は城内だけを南京と見ている
(4)そんなに殺す事は不可能→1994年、ルワンダ100万人虐殺は3ヶ月の間にナタやナイフだけで行なわれた。まして日本軍は重火器で武装している(南京掃討作戦も同じ3ヶ月間)
(5)日支事変は国際法上の“戦争”ではないため『ハーグ陸戦協定』(捕虜殺害禁止)は当てはまらない。→ならば平時の殺人であり戦犯以前に殺人罪。
(6)難民の中に逃げ込んだ兵士は便衣兵ゲリラであり公式の捕虜ではなく『ハーグ陸戦協定』は当てはまらない。→“捕虜”でないのなら単なる非武装の「民間人」殺害であり、こちらも戦犯以前に殺人罪。そもそも、ハーグ条約に「便衣兵は捕虜資格がないため殺しても良い」という条項は存在しない。
(7)虐殺証言で登場する元日本兵は中国共産党に洗脳された中国帰国者(中帰連)。→南京戦に投入された歩兵第66連隊は捕虜にならず帰国しており、中国共産党は無関係。
(8)揚子江岸辺で捕虜が暴動を起こしたため、仕方なく銃殺した。→
(9)虐殺を見ていない海外ジャーナリストがいる。→虐殺現場は街から4キロも離れた揚子江の川岸。中心街で数万人を殺害したのではない。
(10)南京入りした後発補充部隊は「虐殺はなかったと聞いている」と証言している。→「なかった」と証言する元兵士は全員が事件後に南京市入りしている。しかも伝聞の証言であり説得力なし。何より、軍の公式記録である第66連隊の部隊記録に捕虜殺害の数が記録されており、その数は加害兵士の陣中日記や証言と一致している。
(11)米軍だって日本兵捕虜を殺害しており、どっちもどっち。→南京大虐殺と米軍による日本兵捕虜虐殺を並べるのは非論理的。中国人にとって無関係。また、米兵による捕虜殺害がある一方で、今日ガダルカナル、ペリリュー島、サイパン、テニアン、硫黄島などの激戦地で生き残った人たちが証言できるのは、捕虜として手厚く扱われたから。

その他、あらゆる南京事件否定派の意見は、リンク先の『南京事件FAQ』でクリアーに回答されているので、否定派の方はそちらを参照されたし。読む時間がない人は「南京事件 初歩の初歩」がオススメ。最低限でもこの初歩の知識を日本人として持っておきたい。
下記リンクの一般兵士の証言は衝撃的なものばかり。出典は証言者が匿名だったり一部の誤植から「捏造本」と批判されているけど、それに対してさらに反論しているサイトもあるし、何から何まで全部嘘とは思えない。70年以上前の記録の一部が間違っていたからといって、それを理由に全否定するのは無理がある。
歩兵65連隊兵士の日記
独立工兵第1連隊兵士の手紙
第6師団兵士の日記
これらは日本兵の当時の陣中日誌や手紙。後世に回想されたものではなく、南京の現場で記録した一次資料。ここに書かれた死者の数だけでも相当なもの。

〔まとめ〕南京では山田支隊1500人に対して15000人の捕虜が発生し幕府山事件が起きたように、各部隊とも自軍の10倍近くの捕虜を得て、その処理に困って殺害に至った。本来、捕虜ならば軍法会議、捕虜以外は軍律会議の判決で処断せねばならない。便衣兵が「ハーグ陸戦協定違反」であろうとなかろうと関係なく、丸腰の人間を裁判抜きで殺害するのは戦争犯罪。“南京事件否定派”の意見は国際社会で通用しない。

〔南京事件に関する第一級映像資料〕
●「日本軍の記録に残る南京大虐殺(軍命令により実施)」
http://youtu.be/20HWTlXY-Wc (7分)
●「南京大虐殺は100%あった 『兵士たちの記録 陣中日記』」
http://youtu.be/jt-9XweXSMY (32分)
●「南京大虐殺の証拠~当時の記録映像と生存者の確実な証言」
http://youtu.be/uyVeMusrS-k (32分)


他にも秀作ドキュメンタリーが多数ネットで見られる。右派は「証言者の帰還兵は中国に洗脳されている」と発言を頭から否定しているが、だったら部隊名も事件の場所も証言者も分かっているんだから、真実か嘘か自分で調査すればいい。それをすることなく、老兵達を嘘つき呼ばわりするのはどうなのか。
「中国帰還者たちの60年」(10分)
「戦犯たちの告白ー撫順・太原戦犯管理所1062人の手記」(45分)
「日本人中国抑留の記録」(45分)
「兵士たちが語ったこと」(52分)

※これは良記事。→『“men of military age”(兵役の年齢の男)を「便衣兵」と訳す秦郁彦氏に、朝日を批判する資格なんかないと思う』。南京事件の犠牲者数を低く見積もる日本の保守系学者のデマを、理性的に批判。



★外務省の公式見解
Q.「南京大虐殺」に対して、日本政府はどのように考えていますか。

(1)日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、多くの非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。
(2)しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。
(3)日本は、過去の一時期、植民地支配と侵略により、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことを率直に認識し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みつつ、戦争を二度と繰り返さず、平和国家としての道を歩んでいく決意です。


●1938.1 第1次近衛声明…南京陥落の1ヶ月後、ドイツに頼った和平工作が難航したことから、近衛文麿内閣は「今後、国民政府を相手とせず」と声明を発表。自ら国民政府とのチャンネルを閉ざし強硬路線を続ける。

●1938.5.5 国家総動員法施行…日中戦争の長期化にそなえて、軍需動員など強力な統制をはかるため立法。議会の承認をはぶいて勅令(ちょくれい、天皇の命令)だけで運用する前例のない法律であり、立法権を無視された議会は反発したが、政府は陸軍の圧力を背景に制定を強行した。総動員法の施行後は「国民徴用令」「新聞紙等掲載制限令」「価格等統制令」「生活必需物資統制令」「国民職業能力申告令」など多数の統制令がつくられ、法案の拡大解釈により思想統制、滅私奉公の肉体労働の強制、集会・大衆運動の制限など、国民生活は軍事一色になっていく。
※昭和天皇は板垣陸相と参謀総長・閑院宮(かんいんのみや)を宮中に呼びつけ「この戦争は一時も早くやめなくちゃあならんと思う」(7/4)。

●1938.7.11 張鼓峰(ちょうこほう)事件…満州・朝鮮・ソ連国境の交叉点“張鼓峰”にソ連が陣地を構築し始めたことから、日本軍がこれを攻撃し占領した。衝突10日後、陸相・板垣征四郎がさらなる武力行使の許可を天皇に上奏したところ、天皇は声を荒げて却下した。「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条湖の場合といい、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いる様なこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う」「今後は朕の命令なくして一兵でも動かすことはならん」(7/21)。ところが、現地の第19師団(師団長・尾高亀蔵/板垣陸相の同期)が「近隣にソ連兵が進出した」と独断で攻撃を開始し一帯を占領。2日後にソ連軍の大反撃を受けて壊滅寸前に追い込まれた。8/10停戦。命令違反に対する天皇の処罰は甘く、「もう積極攻撃をしないように」という注意にとどまった。
※関東軍にとって、この天皇の命令の軽さは何なんだ!?何度目の命令違反なのか、もう分からない。天皇をなめきっているとしか思えない。国民に対しては「天皇は現人神(あらひとがみ)」と畏怖させる一方で、出先の軍は平気で命令を破る。日本軍は上官の命令に逆らえば銃殺なのに、どうして師団長なら大元帥(最高司令官)天皇の命令に背いても許されるのか。


〔1938.9.14 川柳作家・鶴 彬(つる あきら)の死〕
少年期から新聞に俳句や短歌を投稿。1930年(21歳)、徴兵され金沢の第九師団歩兵第7連隊に入隊するも、陸軍記念日の態度が問題となり営倉に放り込まれる。翌年、満州事変。部隊内で反戦平和を語り“七連隊赤化事件”の主犯と判断され、治安維持法違反により1年8か月の間収監される。1937年(28歳)、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発。張り込みの特高警察に逮捕され、再び治安維持法違反に問われる。中野区の野方署に留置され、逮捕から9ヶ月後に同署で赤痢に感染し病死した。享年29歳。鶴彬はベッドに手錠で繋がれたまま絶命したらしく、憲兵によって毒(赤痢菌)を盛られたという説もある。
特筆したいのは1937年の時点で鶴彬が「葬列めいた花婿花嫁の列へ手をあげるヒットラー」「ユダヤの血を絶てば狂犬の血が残るばかり」と、第二次世界大戦開戦より2年も前に、ナチスの狂気を見抜いていること。アウシュビッツが作られるのはこの3年後だ。日本において、そういう人が市民にいたこと(外交官ではなく)、海外の情報が届いていたことに驚く。知る努力をすれば知り得たんだ。過去の戦争が語られる時、「政府にだまされた」「あの頃は何も知らなかった」という言葉をよく耳にする。実際、検閲など情報統制があったし、それも真実だろう。しかし、多喜二や鶴彬、幸徳秋水、ドイツ人でありながら反ナチ運動をして処刑された学生ゾフィー・ショル、彼らのことを思うと、「当時は仕方なかった」の一言で片付けてしまっていいのかと考えてしまう。
※鶴彬の本名“喜多 一二”は、特高警察の拷問で殺された6歳年上の作家・小林多喜二と、偶然にもよく似ている。両者は名前が似通っているばかりではなく、思想犯として数回逮捕され、拘留中に死んだ年齢が29歳というのも同じだ。びっくり。
【鶴彬の川柳10選】
・俺達の血にいろどった世界地図
・稼ぎ手を殺し勲章でだますなり
・殴られる鞭(むち)を軍馬は背負わされ
・ざん壕で読む 妹を売る手紙
・屍のいないニュース映画で勇ましい
・手と足をもいだ丸太にしてかえし
・万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た
・銃剣で奪った美田の移民村
・奪われた田をとりかえしに来て射殺され
・胎内の動き知るころ骨がつき(※遺句。赤ん坊の胎動を感じ始めた頃に夫の遺骨が届いたというもの)


●1938.11 東亜新秩序声明/第2次近衛声明…武漢陥落後、短期決戦が不可能と悟った近衛内閣は、国民政府との和平交渉の可能性を求めて対中政策を転換。「日本の戦争目的は日・満・支3国提携により東アジアに新秩序を建設すること」「東アジアから欧米勢力を駆逐する」と声明。「東亜新秩序の建設」は、後に「大東亜共栄圏」構想に発展していく。
※満州事変の前から東亜新秩序を言ってればもっと説得力があるけど…このタイミングで言っても…。あと、南京陥落後でも多くの日本国民は中国と戦争をしていると思ってなかった。戦力差が大人と子どもほどあると思っていたので、“懲らしめる”という感覚。アメリカが9.11後にアフガンやイラクに行った制裁感覚と似ている。

●1938.12.2 毒ガス戦/大陸指第345号発令…この頃、日本軍は中国で頻繁に毒ガスを使用していた。極秘にするため、“大陸指第345号”には「つとめて煙に混用し厳にガス使用の事実を秘し、その痕跡を残さざる如く注意すべし」とある。日本が毒ガスの生産を開始したのは1929年。広島県大久野島の陸軍施設で、皮膚に猛烈な炎症を起こすイペリット(マスタード・ガス)が製造された。翌年にはさっそく台湾で抗日蜂起をした原住民に“みどり弾”(塩化アセトフェノン)を使用。1937年から中国戦線で本格的に実戦投入を開始する。1939年になると大っぴらに使用するようになった。致死性の化学兵器でなくても、前線で中国軍に使用すると、戦闘中止ないし退却させることができ、容易に前進できるし苦戦から脱することが可能だった。防衛省が保管する資料によると、1937年から7年間に中国戦線で使われた化学兵器の量は次の通り。
あか弾(嘔吐、くしゃみ剤)2万発、あか筒12万8千本、みどり筒(催涙剤)2万3千本、みどり手投げ弾5発、きい弾(イペリット)2千発、投下きい弾78発、きい剤630kg。GHQ検察局の調査では使用回数1312件、中国軍の死傷者数36968人(うち死者2086人)。
日本軍による化学兵器の使用にブレーキがかかるのは、1943年6月にルーズベルト大統領が「同じ方法で報復する」と警告してから。この声明以降、大久野島での化学兵器生産は激減する。終戦時に日本軍が中国に残してきた化学兵器=“戦争廃棄物”は約70万発と見積もられている。
※日本軍は1941年12月のマレーシア・コタバル上陸戦で「チビ」と呼ばれる青酸液入りガラス玉をトーチカ攻撃に使用し、1944年にもモドブン高地で英軍戦車に歩兵第60連隊が「チビ」をぶつけて青酸ガスを発生させ、これを仕留めている。

●1938.12.26-1941.9 重慶爆撃…新首都となった重慶への大規模な戦略爆撃。航空部隊は軍事施設を目標に爆撃したが、視界不良、爆撃精度などの関係で、結果的に無差別爆撃になってしまった。特に1939年5月4日に27機が行った空襲では、死傷者5291人(うち死者1973人)を出し、前年4月にドイツ空軍が実施した、スペイン・ゲルニカへの世界最初の無差別爆撃の死者1654人を上回った。全期間(約5年間)を通じた重慶爆撃の中国側被害は死者11800人、家屋損壊17600棟。
※重慶爆撃に関して日本軍関係者で戦犯として訴追された者はいない。重慶爆撃を戦争犯罪として取り上げれば、それをはるかに上回る日本本土空襲や原爆投下が問題になるからだ。

●1939 日中泥沼化…日中戦争が始まって2年が経つと、大陸の派遣軍は当初の20万人から5倍の100万人に増加していた。組織の拡大に従って、元々は関東軍、台湾軍、朝鮮軍の3軍だったのが、現地に11の軍(北京、南京、済南、上海、武漢、張家口、太原など)を新たに組織し、20を越す司令官や参謀長クラスのポストが新設され、大臣経験者など大物軍人の栄転先となった。陸軍は組織全体の利益よりも、今自分が所属するセクションの利益を重視する巨大組織になっていった。
組織の肥大化で戦費は逼迫し、侵略戦争と非難するアメリカからの撤退要求もあり、軍務局長に就任した陸軍中将・武藤章(あきら)は危機感から派遣軍の縮小を検討し始める。交渉の矢面に立ったのが軍務局予算班・西浦進。軍備の近代化と引き換えに、段階的に現地軍の縮小を求めた。これに対し、支那派遣軍の司令官から一斉に反発の声が上がる。支那派遣軍総参謀長・板垣征四郎は帰国して縮小どころか増派を訴えた。日米通商航海条約が風前の灯に。

●1939.5.12 ノモンハン事件…満州国は西隣のモンゴルと国境問題を抱えていた。5/12、モンゴル軍が日本側の主張する国境線(ハルハ川)を越えたために満州国軍がこれを攻撃。満州国軍に日本軍第23師団が加わり、モンゴル軍にソ連軍が加わったため、日ソ両軍の戦闘となった。8/20、ソ連軍機械化部隊の総攻撃を受けて第23師団は壊滅し、戦死傷者は約1万数千名にも達した。翌月、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発。ソ連は欧州問題に集中する為これ以上の戦闘を望まず、両軍は9/15に停戦協定に調印。
※ノモンハン事件を聞いた昭和天皇「満州事変の時も陸軍は事変不拡大といいながら、かのごとき大事件となりたり」。

●1939.7.26 米が日米通商航海条約破棄…日本が中国で戦線を華南まで拡大して英米の権益を侵害し、さらに天津の英仏租界を抗日運動の拠点とみなして封鎖した為、怒ったアメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告した。

●1940.3 南京新政府樹立…親日派の汪兆銘に日本の傀儡政権を作らせる。

●1940.5 宣昌(ぎしょう)作戦…一撃を加えて和平に持ち込むことを目的に、支那派遣軍の総攻撃「宣昌作戦」開始。これによって、それまで政治に関心がなかった中国の若者が、次々と抗日に立ち上がりさらに泥沼。攻撃すればするほど中国のナショナリズムが盛り上がり和平交渉は頓挫する。国際社会の非難もどんどん吹き上がった。

●1940.7.19 荻窪会談…近衛文麿(後の首相)、松岡洋右(後の外相)、東條英機(後の陸軍大臣)、吉田善吾(後の海軍大臣)が行なった荻窪会談で、前月にフランスを征服したドイツのヨーロッパ戦勝に呼応して、「南方植民地を東亜新秩序(松岡曰く“大東亜共栄圏”)に組み込む積極的処理を行なう」とした。日独伊三国同盟に難色を示した吉田海相は“病気辞任”に追い込まれる。
※昭和天皇は軍部がしきりに“指導的地位”という言葉を掲げてアジアに進出しようとすることを批判。「指導的地位はこちらから押し付けても出来るものではない、他の国々が日本を指導者と仰ぐようになって初めて出来るのである」。

●1940.9.1 燼滅(じんめつ)作戦/三光作戦…燼滅作戦は八路軍(共産軍)を補給も休息も出来ぬように巨大な無人地帯を作る作戦。エリア内のすべての村を破壊した。その非情な内容から、中国語で「三光(さっこう)」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす)と恐れられる。9/1から開始した北支那方面軍第1軍の「晋中作戦」が最初の燼滅作戦となる。日本軍は“三光”という用語を使用したことがないため、「中国軍がやったことを日本軍に押しつけたもの」と一部の保守論客が主張しているが、1940年に内容が“三光”そのものの日本軍の作戦指令が実際に出ている。

《北支那方面軍司令部が発令した「第一期晋中作戦復行実施要領~燼滅目標及方法」》

1. 敵及び土民を仮装する敵…殺戮
2. 敵性ありと認むる住民中、16歳以上60歳までの男子…殺戮※敵国住民は普通敵性があるもの
3. 敵の隠匿する武器弾薬器具、爆薬等…押収携行できない場合は焼却
4. 敵の集積せりと認むる糧秣(りょうまつ、兵員用の食料)…同上
5. 敵の使用する文書…同上
6. 敵性部落…焼却
はっきりと「怪しげな男性はすべて殺し尽くせ」と上級司令部が命令として出している。敵国の住民は全員が潜在的には“敵性ありと認むる住民”であり、どの村も“敵性部落”の可能性を持っている。天津地域の第27師団は万里の長城に沿って、南側に幅4km、長さ約100kmの無住地帯を設定し、地域内の住民約10万人を強制移住させ、1万数千戸を焼き払って無人の大地とした。第27師団の歩兵団長鈴木啓久少将いわく「武力を用いて立ち退きを強制したが、この処置は特に住民怨嗟の的となり、三光政策だとして八路軍の宣伝に利用された」。もし三光作戦が八路軍の仕業であれば、民衆は八路軍ではなく日本軍を支持していたはずだ。

●1940.9.23 北部仏印(ベトナム)進駐…日本は「中国がずっと徹底抗戦しているのは、欧米諸国が支援しているから」と判断。日本軍は欧米から中国への補給ルートを断つため仏領インドシナ(ベトナム)北部に進駐した。

●1940.9.27 日独伊三国同盟締結…第二次大戦中の枢軸国であった日本・ドイツ・イタリア3国が締結した軍事同盟(近衛文麿内閣が締結)。ドイツと結んでアジアのヨーロッパ植民地に進出していこうとする方針。当時ヨーロッパで英国が戦っていた独と手を結んだことで、英米との関係が決定的に悪化し、太平洋戦争の要因となった。
※近衛首相や松岡外相が三国同盟にこだわったのは、ドイツとソ連が不可侵条約を結んでいる→三国同盟を通してソ連と関係が近くなれば、アメリカの対日開戦を抑制できると考えたから。結果的には米国の不信感を増大させ真逆の展開になったけれど。
※小林よしのり『戦争論』は、欧米白人列強の人種差別主義を批判しているれども、軍事同盟を結んだドイツこそ最悪の人種差別主義国家。人種差別に反対するならドイツと真っ先に手を切らねばならぬはず。戦争の大義に関わるすごく重要なとこなのに、保守論客はみんなここをスルーしている。

〔昭和天皇はずっと日独伊三国同盟に反対していた〕
締結の際の詔書(しょうしょ)には「日本とその意図を同じくする独伊と提携協力し、ここに三国間における条約の成立を見たるは、朕の深く喜ぶ所なり」と述べているが、これは全く天皇の本音ではない。ドイツと同盟すれば英米と対立することを懸念していることが成立前後の言葉からよく分かる。
・陸軍の意を受けて日独伊三国同盟を結ぼうと暗躍していた大島駐独大使と白鳥駐伊大使が、独伊に対して勝手に“独伊が第三国と戦う場合は日本も参戦する”と伝えていた。天皇は板垣陸相を激しく叱責。「出先の両大使がなんら自分と関係なく参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか」(『西園寺公と政局』)
・「参戦は絶対に不同意なり」「(中立の)米国が英に加われば、経済断交を受け、物動計画、拡充計画、したがって対ソ戦備も不可能なり」(『侍従武官長日記』)
・前年に海軍の三国同盟批判をうけて交渉がいったん打ち切りになった際「海軍がよくやってくれたおかげで、日本の国は救われた」(『岡田啓介回顧録』)
・「独伊のごとき国家とそのような緊密な同盟を結ばねばならぬようなことで、この国の前途はどうなるか、私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる」(『天皇秘録』)
・「この条約(三国同盟)は、非常に重大な条約で、このためアメリカは日本に対してすぐにも石油やくず鉄の輸出を停止するだろう。そうなったら、日本の自立はどうなるのか。こののち長年月にわたって大変な苦境と暗黒のうちにおかれることになるかもしれない。その覚悟がおまえ(近衛首相)にあるか」(『岡田啓介回顧録』)
天皇はファシズムの独伊に好感を持っておらず、民主主義の英米、特に英国に親しい感情を持っており、半月前に大英博物館がドイツのロンドン空襲で爆撃にさらされることを知った天皇は「なんとか独英両国に申し入る方法はないか」と側近・木戸幸一(木戸孝允の孫)に語っている。

●1940.10.12 大政翼賛会結成…第2次近衛文麿内閣は国民の効率的な戦争動員を目的に国民統合組織・大政翼賛会を結成。全政党が解党して同会に加わったことから、日本政治史上初めての無政党時代となった。“翼賛”とは時の権力者に協力するという意味。近衛が翼賛会の発足を天皇に報告した際、天皇は「これではまるで昔の幕府ができるようなものではないか」と批判した。


【1941年 ここから先の対米開戦は“日本とアメリカ編”に詳しく掲載】

●1941.7.2 御前会議…南方進出の為に「対英米戦を辞せず」と決定し、それに基づいて南部仏印(南ベトナム・カンボジア)に進駐し、そのために米国から石油を止められる。石油を止められたなら早く開戦した方が有利という早期開戦論が台頭。つまり、自衛の為と言うより、日中戦争に行き詰まった日本はドイツと連携して武力南進政策をとろうとし、その南進が米国の経済制裁を引き出したわけで、日本は「ABCD包囲陣を打ち破るためギリギリの選択をした」という見方は間違っている。
※三国同盟に消極的だった米内光政内閣が陸軍に倒され近衛内閣が発足。

●1941.7.28 南部仏印(ベトナム)進駐…仏印進駐に怒ったルーズベルトは、米国内の日本の資産を凍結し、石油の輸出を全面禁止にした。この対応に日本軍部はショックを受ける。石油の備蓄は2年分。石油が切れる前に戦争をすべきと考え、御前会議で「短期決戦なら勝算はある」と訴えた。
海軍省軍務局中佐・柴勝男「アメリカは欧州の戦争に関心が向いているから、東洋方面で自ら日本と事を構えることはしないだろうと。まさかそこまでは来んだろうと考えていた」。
参謀本部前作戦課長・土居昭夫「南部仏印の進駐が大東亜戦争のきっかけになると考えなかった。経済やアメリカの決意など情勢判断をできなくて進駐をやった」。
企画院総裁・鈴木貞一「あの禁輸の瞬間に戦になっていた」。

●1941.9 近衛文麿首相は米国に首脳会談の開催を訴えるなど、外交での解決を模索していた。だが、外交交渉に行き詰まり、翌10月に近衛内閣は総辞職。対米強硬派の東條英機陸軍大臣が首相になった。11月の御前会議で開戦の決意が固まる。

★1941.11.20 南方占領地行政実施要領…開戦前に大本営政府連絡会議決定が決めた占領方針。“アジアを独立させる”どころか、独立運動を封じる必要性に触れている。
南方占領地行政実施要領
第1 方針
占領地に対しては差し当たり軍政を実施し治安の回復(独立運動の弾圧)、重要国防資源の急速獲得及び作戦軍の自活確保に資す。
第2 要領
7.国防資源取得と占領軍の現地自活の為、民政に及ばささるを得ざる重圧はこれを忍ばしめ、宣撫(せんぶ、民族解放の宣伝)上の要求は右目的に反せざる限度に止むるものとす。(=資源取得と占領軍の食糧確保によって地元民にかかる重圧はこれを耐えさせ、民族解放の宣伝はこうした行動と矛盾しない程度に抑えておくように)
8.原住民に対しては皇軍に対する信頼感を助長せしむる如く指導し、その独立運動は過早(かそう)に誘発せしむることを避けるものとす。※当面独立運動は抑えておけということ。

●1941.12.8 日米開戦…日本は盧溝橋に始まった支那事変から対米戦争へと突き進んでいった。中国は一撃で倒せるという誤った見通し、軍の暴走を止めることが出来なかった国のシステム、戦線はアジア各地から太平洋へと拡大し、国民は次々と戦場へ動員された。戦争の大義が後付けの論理で二転三転し、軍も政府も戦争を収束できなかった。開戦時の日米国力差は、次のように米国が日本を圧倒している。
国民総生産12倍、鋼材17倍、自動車数160倍、石油721倍。
冷静に考えて勝ち目はないのに、軍首脳部は「日露戦争では1対10の国力差で勝てたではないか」という言葉で現実逃避し、真珠湾を奇襲した。

〔石橋湛山、魂の咆哮「日本は全ての植民地を一切捨てる覚悟をせよ」〕
「日本は生き残る為に戦争するしかなかった」いう意見がある。これについては戦争に反対していた反骨のジャーナリスト(後に首相)、石橋湛山(たんざん)のことを語りたい。第1次世界大戦が欧州で勃発すると、日本は欧米列強に対抗する為に、この混乱に便乗して大陸に勢力を広げようとした。世論も「これで一等国の仲間入りだ」と熱狂。でも石橋湛山は違った。湛山は“大日本主義の幻想”という題で「全ての植民地を一切捨てる覚悟をせよ」と経済誌に書いた。理由はこうだ。当時の日本とアジアの貿易額は約9億円。一方、英米との貿易額は倍の約18億円。日本が英米と衝突すればこの18億が失われるので、平和的な貿易立国を目指すべきと説いた。これは軍部が思いもしなかった主張だった。しかし1931年に満州事変が起き、大陸への進出が加速していく。世界各国から非難を受けた日本は翌々年に国際連盟を脱退。1934年、湛山は英字経済誌を創刊し、これを欧米で発行して「日本政府の政策は決して国民の総意ではない」と世界に訴えた。
湛山は権力ににらまれ、1942年に同誌の記者や編集者が逮捕されて4人が拷問で獄死する。さらに紙やインクの配給も大幅に減らされた。だが、それでも湛山は絶対にペンを折らなかった。「良心に恥ずる事を書き、国の為にならぬ事を書かねばならぬくらいなら、雑誌をやめた方がよい」。次男が南方で戦死したと知らせを受けた湛山は日記にこう刻んだ「汝が死をば父が代わりて国の為に生かさん」。
日本は戦後にゼロ(焼け野原)からのスタートで、わずか約20年で世界第2位の経済大国に登り詰めた。資源がないのは戦前と同じ条件だ。あのまま開戦せずに平和的な貿易立国になっていれば、有能な人的資源も失われず、さらなる発展を経ていただろう。本来、生きるべき人が死ぬ必要もなかった。“しかたなかった”論で過去を総括していては、あまりに死者が救われない。

●1942.4 翼賛選挙実施…第21回衆議院選挙は“翼賛選挙”と呼ばれ、東条内閣は体制を堅固にするため初めて候補者推薦制を導入。「政府と戦争に協力する人物」を推薦し軍事費から多額の選挙資金を与えると共に、他の非推薦候補者は警察・憲兵から激しい選挙妨害を受けた。推薦候補者で当選したのは466名のうち381名、一方、非推薦候補者は85名が当選した。政府の露骨な選挙圧力にもかかわらず、非推薦者の得票数は約419万票(得票率35%)もあった。その後、東条内閣は翼賛会に大日本婦人会や“労資一体”を掲げた大日本産業報国会などの官製国民運動団体を組込み、さらに町内会まで末端組織とし、国民生活の隅々まで国家権力による統制を実現していく。
※翼賛選挙の結果(得票率)を見ると、国民の3人に1人が強引な東条内閣に否定的感情を持っていたことが分かる。戦時中は全国民が政府を無批判に支持したイメージがあるけど、選挙データは政府とは異なる考え方を持った国民が3分の1もいたことを示している。

●1942.11.27 強制連行開始…「華人労務者内地移入に関する件」が閣議決定され、以後強制連行が始まる。約4万人の中国人が日本に連行され、死者・行方不明者は8823人にのぼった。詳細は後述(花岡事件)。

★1943.5.31 大東亜政略指導大綱…天皇列席の御前会議で決定された政略方針。いわゆる「大東亜戦争は正義の戦争で日本に領土的野心はなかった」というのが完全にまやかしと分かる最重要史料。あのまま戦争を継続していたら以下のように帝国領土に編入されていた。これは日本の戦争を「アジア解放の為の聖戦だった」と言い張る保守論客が絶対に触れようとしない史実だ。

《大東亜政略指導大綱 6(イ)》
「マライ(現マレーシア・シンガポール)」「スマトラ(現インドネシア)」「ジャワ(同左)」「ボルネオ(同左)」「セレベス(同左)」は帝国領土と決定し、重要資源の供給地として極力これ開発並びに民心把握に努む。


現マレーシア、シンガポール、インドネシアという重要な資源地帯を「日本領」にすることを、御前会議まで開いて決定している。一方、ビルマとフィリピンについては領土併合せず独立を容認した。なぜか。ビルマを独立させるのは、インドに対する戦略的工作だ。隣国ビルマを独立させることで、インドの対英独立運動に火が付くことを期待したんだ。フィリピンは戦争前から米国が既に独立を約束していたので、“解放”という大義名分の為にもアメリカが約束したよりも早く独立させるしかなかった。
日本政府は台湾や朝鮮など古くからの植民地を“解放”しようなどとは一度も考えておらず、アジア独立の意思があったとは思えない。対米開戦に踏み切る前に政府が考えていたアジア政策は、占領地の住民を労働力として動員し、占領地で生産された食糧を日本軍が徴発するというもの。大本営はこのような南方軍政が占領地住民に“重圧”を及ぼすことを予想していたので、「(重圧は)これを忍ばしめ」(=耐えさせる)と打ち捨てている。そして「アジア解放」というバラ色の宣伝をやりすぎると現実とのギャップが大きくなるので、あまり宣伝しないよう開戦前から決めていた(『南方占領地行政実施要領』1941.11.20)。最前線の日本兵には心底からアジア独立の高い理想を信じて戦い抜いた者も少なくないが、大本営においてはこれが“聖戦”の実態だった。

●1944.9.7 拉孟(らもう)守備隊玉砕…中国・雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近の拉孟には、援蒋ルート(連合国から中国への物資支援ルート)を遮断するため、1942年5月から日本軍守備隊1280人(3ヶ月前まで2800人)が警備していた。守備隊は少人数ながら堅固な防衛陣地を築きあげる。1944年6月2日、中国軍の雲南遠征軍20万のうち4万8千人の大軍が拉孟を包囲攻撃開始。蒋介石の直系の雲南遠征軍は、米軍の支援を受け近代化した精鋭部隊だった。
7月中旬、(悪名高き)辻政信参謀が、拉孟守備隊の救援作戦を発令し援軍を9月上旬に送ると約束した。既に生存兵が500人を切ってい守備隊は大いに希望を持つ。だが、直前のインパール作戦の歴史的敗北で、日本軍は食糧も兵力も涸渇し救援不可能なのが実状で、辻参謀は最初から拉孟守備隊を見捨てる気だった。8月2日、守備隊本部陣地が陥落。9月6日、指揮官の金光少佐が戦死。翌7日、全陣地が陥落し守備隊は「援軍」を待ちながら全滅した。拉孟守備隊は補給路を断たれ、撤退命令も出ず、また救援部隊もないなか、拠点死守のみを命じられ、兵力差約40倍の敵を相手に100日間も戦い抜いた。捕虜はゼロ。太平洋の孤島で守備隊が玉砕したケースは多いけれど、大陸において玉砕したケースは少なく、後述する騰越守備隊と共にその最期が知られる。

●1944.9.13 騰越(とうえつ)守備隊玉砕…北ビルマ戦線の日本軍最前線、雲南省の城郭都市・騰越(現、騰衝)は拉孟から北東60キロの町。日本軍守備隊は2025人。6月27日に中国軍の雲南遠征軍約5万人が攻撃開始。中国軍は砲撃を加えながら騰越を完全に包囲し守備隊を孤立させる。7月27日、指揮官の蔵重康美大佐は守備隊を騰越城に後退させ、なおも徹底抗戦を続けて9月13日に玉砕した。 騰越守備隊は25倍の敵を相手に2ヶ月以上も死力を尽くし戦った。
●1945.6.30 花岡事件…戦時中、秋田県大館市の花岡鉱山は、日本政府から戦争遂行のため大規模な生産量を義務づけられていた。だが、朝鮮人や米国人捕虜を動員してもまだ労働力が足りなかった。花岡以外にも日本中がこういう状態であった為、約4万人の中国人が日本に強制連行され、135カ所の事業所で労働を強要された。このうち、死者・行方不明者は8823人にのぼった。
1944年8月から3回にわけて、鹿島組中山寮に連行されてきた中国人は986人。労働条件や生活環境はあまりに劣悪だったことから、第1次連行者295人のうち、事件発生までに113人が死亡していた(死亡率38.3%!)。近隣の東亜寮に収容されていた中国人連行者の死亡率3.7%と比較すれば、中山寮の過酷さは明らか。「このままではみんな殺されてしまう」、中国人はひとつの脱走計画を立てた。中山寮の現場監督たちを殺害し、鉱山周辺に収容されているすべての外国人を解放し、彼らと連携して脱出をはかるというもの。決行当日(終戦2ヶ月前)、日本人現場監督4人を殺害し、約800人の中国人たちが中山寮から逃亡した。しかし、疲労や空腹のため体が動かず、約600人の中国人が翌朝までに逮捕された。
花岡町の外まで逃げた約200人も、各地の警察署や在郷軍人団など2万人規模の捜索によって、6日以内に逮捕された。この捜索の過程で数十人の中国人が殺害され、広場に3日間座らせ晒し者にするなど、拘禁や拷問によって命を落とす者も多数出た。見せしめのため、6日間で100人以上の中国人が拷問のあと殺害された。事件後も中山寮での生活は変わらず、敗戦後でさえ177人の死者が出た。強制連行開始から、1945年10月にアメリカ占領軍が解放するまでに、全体の約半数、418人が死亡した。
花岡事件の中国人首謀者11人は戦時騒乱罪で起訴され1人が無期懲役、他は10年以下の懲役となった。後にアメリカ占領軍の指示で無罪となったものの、1948年3月まで軟禁状態だった。2000年11月、鹿島と被害者は補償基金など和解条項の合意に達し、鹿島は中国赤十字会に5億円を寄託。中国赤十字会は「花岡平和友好基金」として強制連行された犠牲者の追悼や被害者・遺族の自立支援などに役立てた。
※この事件は当時の中国人への差別意識を象徴する事件。ハッキリ言って人間扱いしていない。内地(国内)ですらこうした状況。戦地ではさらに中国人の命が軽かったことは容易に想像できる。山東省では日本軍が軍事作戦として“労工狩り”を行った。

●1945.8.14 葛根廟(かっこんびょう)事件…8/9、対日参戦した極東ソ連軍が一斉に満州へ侵攻。西部の国境を守備していた関東軍は、日本人居留民を見捨てて8/10に撤退する。8/11夜、西部の約1200人の居留民(若い男は根こそぎ招集され9割が女性・子ども)が、葛根廟駅を目指して着の身着のままで脱出を計るも、8/14の正午頃に上空からソ連機に発見され、葛根廟付近でソ連軍第39軍第12戦車隊のT35戦車14両に襲われた。避難民は白旗を掲げたが、戦車砲と機関銃によって約1000人もの日本人婦女子が虐殺された。東満州の麻山でも退避中の開拓民約400人がソ連軍戦車隊に攻撃され集団自決し、宝清県では約1500人が行方不明になり、“仁義仏立開拓団”600人も全滅した。終戦時の在満日本人は160万人。うち開拓民は27万人で、その中の7万8500人が死亡した。引き揚げ者の中には子どもの死を恐れて、中国人家族に子どもを委ねるケースも多かった(いわゆる残留孤児)。最終的に満州に渡った民間人の死者は約24万5千人に達した。
ソ連軍に武装解除された関東軍は、各地の収容所へ入れられた後、1946年夏までに健康状態の良い者50万人以上が労働力としてシベリアに抑留された。

●1945.8.15 終戦…日本人の死者は310万人、アジアの人々の死者は1700万人以上(中国1千万、インドネシア400万、ベトナム200万、フィリピン110万、朝鮮半島20万、ミャンマー15万、シンガポール10万、タイ8万。05年8月7日・東京新聞調べ)。
外地からの民間人の引き揚げ者数は、満州が約130万人、北朝鮮が約32万人、南朝鮮が約60万人、千島・サハリンが約29万人に及ぶ。判明している民間人の死没者数は、満州が24万5千人、北朝鮮が約3万5千人、南朝鮮が約1万9千人。満州では6人に1人、北朝鮮では10人に1人、南朝鮮では30人に1人が亡くなったことになる。

〔最後に〕

“白人からのアジア解放”理論は、同じアジア人を殺害した中国では通用しない。「日本だけが悪じゃない、当時は他の国もやっていた」という意見は盗人猛々しいというか、正直ウンザリしています。親兄弟を殺された被害者がまだ生きているのに“いつまで謝まらねばならないのか”など、どうして言えるのだろうか…。加害者には過去のことでも被害者には過去になっていないんだ(しかも傷は時間に癒されるどころか、無思慮な発言で新たに傷口がエグられる)。「大陸では日本兵による残虐行為を一度も見なかった」「どの日本兵も立派だった」という人がいる。僕はその言葉を否定しない。“その人の周囲では”本当に何もなかったのだろう。その人の周囲では。
※「南京で中国兵の疑いのある奴は殺したが一般人は殺していない」というのも冷静に考えれば理不尽な話で、中国兵だって元は農民のような一般人が大半。日本軍が侵略したから仕方なく武器をとったわけで、侵略された側の国民の命の重さを兵士と一般人で分けるのは間違っている。
※保守派の論客には、「日本のために戦った先人を尊敬せよ」という一方で、実際に戦場で戦った先人が戦争の悲惨さを発言すると売国奴認定して叩く人がいる。もっと出征兵士の声を謙虚に聴くことが出来ないのか。

09年4月、ダライ・ラマは五輪後の中国政府がチベット独立派に死刑を立て続けに出していることに抗議声明を出し、またウイグル自治区での中国核実験で19万人急死、被害は129万人という調査報告も出た。報道の自由についても中国は世界最低レベル。冒頭にも書いたけど、こうした政策の誤りを中国側に指摘する時、日本軍の美化は不満を外にそらしたい中国政府の“愛国教育”に利用されるだけで、利敵行為以外の何ものでもない。
歴史を反省することについて“民族の誇りを失うからやめろ”と主張している政治家には、もっと日本に数々の素晴らしい芸術・文学があることを知って欲しい。日本文化の偉大さが分かっていないから“誇りを持てない”なんて発言が出てくる。僕は加害行為を謝罪することが“自虐”になるなんてちっとも思わないし、むしろ欧米が開き直っているにもかかわらず、真摯な対応を示し謝罪する日本の方がよっぽど誇らしいと思う。

いずれにせよ、日本にとって中国は既に世界最大の貿易相手国(20兆円規模)となっており、もはや経済的に切っても切れない関係になっている。自動車産業にとっても中国は世界一の市場となった。今これを読んでいるあなたのキーボードの裏側にもメイド・イン・チャイナの文字が刻まれているだろう。今後、間違いなく中国は民主化運動が爆発する。かの国で未来を切り開く人々とうまく付き合っていくために、歴史認識で一致点を見い出しましょう。謙虚であることと、卑屈であることは違います。この年表が謙虚という感情に繋がるものでありますように。

※文化大革命による死者の数は1966年から1976年の10年間で最大200万人といわれている。



※終戦時、日本は中国・満州だけで約170万人もの兵を展開していた

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村上春樹/領土問題エッセイ

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