戦後歴史認識の変遷を読む(全4回):第3回「中曽根康弘の時代~歴史認識問題の外交問題
化」
戦後70年という節⽬の昨年は、安倍⾸相の「70年談話」も話題となり、歴史認識について改めて考えさせられる年となりました。
そもそも「歴史認識問題」とは、これまでどのように捉えられ、語られてきたのか。また、それらに関わる国内外の状況の変化を、我々はどのよ
うに理解すればよいのか。
政治外交検証研究会は、戦後⽇本の歩みを振り返り、改めて歴史認識問題について考察していきます。
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戦後70年という節⽬の昨年は、安倍⾸相の「70年談話」も話題となり、歴史認識について改めて考えさせられる年となりました。
そもそも「歴史認識問題」とは、これまでどのように捉えられ、語られてきたのか。また、それらに関わる国内外の状況の変化を、我々はどのよ
うに理解すればよいのか。
政治外交検証研究会は、戦後⽇本の歩みを振り返り、改めて歴史認識問題について考察していきます。
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第3回「中曽根康弘の時代~歴史認識問題の外交問題化」
佐藤 晋(東京財団政治外交検証研究会メンバー/⼆松学舎⼤学教授)
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1. はじめに
中曽根康弘の個⼈的な「⼤東亜戦争」についての認識の特徴は、アジアに対しては侵略戦争であった⼀⽅で、⽶英仏に対しては国家の⽣存をかけ
ての防衛戦争であったという「⼆分法」にある。とりわけ中国に対しての侵略は、対華21ヶ条要求の延⻑線上にあるとして批判的な理解を⽰
し、満州事変など現地軍部が東京の不拡⼤⽅針に反して⾏動を拡⼤したことを、中曽根は侵略の証拠としている。東南アジアへの⾏動も「アジア
の解放」が動機ではなく資源獲得のためで「まぎれもない侵略⾏為」であったという理解である。このような認識を中曽根個⼈が持っていた結
果、⾸相在任時に靖国問題・教科書問題といった歴史認識問題が⽣じたときに、アジア諸国に対する譲歩による解決が可能となったことも事実で
あろう。
ただし、個⼈的な歴史認識が歴史認識問題をめぐる外交政策に反映したことは事実だとしても、個々の事例を追っていくと、⾃⾝の認識を超えた
次元で、その時々の国際環境を踏まえた外交的対応を採⽤したと⾔える。すなわち個⼈的な歴史認識と異なる「認識」に基づく外交が必要である
と判断し、そうした外交政策が実⾏されたこともあったであろう。本稿では、こうした⽇本側政府指導者の「表向き」の歴史認識が、いかに当時
の外交問題の沈静化に寄与したかという点について考察を⾏っていく。さらに、外交上の歴史認識問題は、当然のことながら⽇本側のなんらかの
認識が国際的に問題とされて初めて問題となるわけであるが、本稿では問題化した後の対処法の巧拙がその後の歴史認識問題の⻑期化・深刻化に
影響を与えていると考える。そこで、今⽇の歴史認識問題の⻑期化・深刻化の先駆けとなったと考えられる鈴⽊善幸内閣時の第1次歴史教科書問
題以降の⽇本政府の対応を本稿では取り上げる。
2. 歴史認識問題の「起点」 ―― 第1次歴史教科書問題
中国と第1次歴史教科書問題
1980年代は、歴史認識問題が顕在化した時代であった。しかし、それと同時に⽇中・⽇韓の友好関係が維持された時代でもあった。ここでの問
題は、この時期の歴史認識問題は2カ国間関係全体を阻害するほど深刻なものではなかったのか、または深刻な歴史認識問題を打ち消すほど⽇
中・⽇韓間に友好関係を⽣み出すべしと両国の指導者が考えるような要因があったのかというものである。この問いについても本稿では後者の⽴
場をとる。それは、⽇本側にも、中国・韓国側にも相⼿を必要とする差し迫った要因が存在したからである。それがどのような要因であったのか
順次⾒ていこう。
論考
⽇本政治・⾏政
戦後歴史認識の変遷を読む(全4回):第3回「中曽根康弘の時代~歴史認識問題の外交問題
化」
December 9, 2016
世論 ⽇中関係 外交 政治 戦後70年 東アジア 歴史
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1982年6⽉26⽇、⽇本の朝刊各紙は⾼校⽇本史教科書の⽂部省による検定結果に関して、⽇本の中国に対する「侵略」が⽂部省の検定によって
「進出」に書き換えられたと報じた。これは今⽇では「誤報」と認定されているが、中国国内では批判キャンペーンが展開され中国政府も⽇本政
府に対して激しい抗議を⾏うなどして、当時の⽇中関係は⼤きく揺さぶられた。特に5⽉から6⽉までの間に趙紫陽総理が来⽇して、鈴⽊⾸相と
の間で「平和友好」、「平等互恵」、「⻑期安定」の⽇中友好三原則に合意した直後であったため、このような中国側の対応は⽇本側を驚かせ
た。
実は中国では、益尾知佐⼦によると、この時「独⽴⾃主」の対外政策への転換が進められていた。鄧⼩平は、それまでのソ連の脅威に対抗するこ
とを優先課題として、多少の問題に⽬をつぶってもアメリカとの関係改善を追求する政策から離脱しようと考えていたのである。鄧⼩平が問題と
したのが、レーガン新政権の台湾政策、とりわけ武器売却問題であった。中国は、アメリカの⽅針に反発したものの、同年8⽉17⽇に発表される
ことになる⽶中コミュニケ交渉では⼤幅な譲歩を余儀なくされていく。そこで鄧⼩平はこの交渉が繰り広げられていた7⽉にアメリカとの提携の
解消を決断した。その姿勢の転換、すなわちアメリカへの強硬姿勢を、交渉以外の何らかの⽅法で鮮明にすることが必要とされた。そこで、アメ
リカに従属する⽇本へ向けて厳しい姿勢を打ち出すことで、内外に向けて中国の国益を擁護する強い姿勢をアピールすることが選択された。鄧⼩
平は7⽉29⽇の⽇本の歴史認識問題に関する会議で、⽇本側で⽣じた教科書問題を利⽤して、⽇本側が「過去の⾏動を侵略ではないとしてしまい
たい」という⽬的を持っているとの「観点について反駁を⾏え」と、⾃ら指⽰を出した。⼀⽅、江藤名保⼦は、⽇本が教科書問題は内政問題だと
して「他国には⼲渉されないとの点に焦点を合わせ、この⼀点をめぐって反駁を進める」との指⽰が鄧⼩平からあったとしている。台湾へのアメ
リカの武器売却を中国の内政問題として批判していた中国としては、⽇本の中に歴史教科書に⽰された歴史認識を内政問題として中国の抗議を退
けようとする動きがあることに危険を感じて、より強硬な措置を取ったとも考えられる。以上のように7⽉24⽇に突然開始されて9⽉に収束した
対⽇批判キャンペーンにはこうした背景があった。
⽇本政府の対応とその後
このような事情をつかんでいなっかたものの、⽇本政府内では9⽉の訪中を控えていた鈴⽊⾸相のイニシアティブで早期解決が図られた。教科書
再改訂に批判的な⽂部省の反対もあったものの、8⽉26⽇に宮沢喜⼀官房⻑官が、アジア近隣諸国との友好のために批判を考慮して政府の責任で
教科書の記述を是正するとの談話を発表した。これは、即時には修正に応じないが、早い時期に検定基準を⾒直し予定より繰り上げて教科書の検
定を⾏うことを意味していた。この「宮沢談話」を受けて、中国側の批判も収束していった。その後、検定基準に「近隣のアジア諸国との間の近
現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の⾒地から必要な配慮がされていること」という、いわゆる近隣諸国条項が追加された。これまで
にこの条項によって不合格となった教科書はないとされるが、この条項にそった記述となるように執筆者が配慮している可能性はある。以上のよ
うに⽇本政府内では、⽂部省を中⼼に検定制度の堅持を主張し、外国の介⼊によって教科書の内容を訂正すべきではないという勢⼒もあったが、
鈴⽊⾸相、宮沢喜⼀官房⻑官らは外務省を中⼼に近隣諸国との関係を考慮して是正を主張する勢⼒が優越し、宮沢談話に⾄ったのである。こうし
た外務省が主張する対外配慮が優先されたことで、⼀時的に問題は沈静化する。
⼀⽅、中越戦争を経験した中国は同年9⽉の党⼤会で「独⽴⾃主の対外政策」を打ち出す。江藤が⾔うように歴史教科書問題は、国内を愛国主義
でまとめ共産党⽀配の正当性を⾼めるための⼿段、対⽇歴史認識問題という良い⼿段を鄧⼩平に「発⾒」させたのかもしれない。少なくとも対外
的に⾔うと、「いつでも⽇本を牽制する状況」を作り出すことに成功したことは間違いないと思われる。その後、⽇本の「軍国主義的」な動きが
⽣じたと⾒えた場合に、歴史認識問題を発動して⽇本に継続的に「警告」を与えるという構図が固定化していく。しかし、これは単に中国側が⽇
本を追い込むためのツールというよりは、中国としても⽇中関係を維持したいために発動するものであった。この点を次節の靖国問題を通じて確
認していく。また、⽇本側も中国側の友好・親善意図を疑っておらず、⽇中関係の再調整にとって⽌むを得ない必要なプロセスと受け取っていた
と⾔える。
韓国と第1次歴史教科書問題
1980年の光州事件を⼝実に⺠主運動家の⾦⼤中に死刑判決を下した韓国政府に対して、鈴⽊政権は⾦⼤中の死刑に反対し、処刑された場合に
は、経済援助の凍結などを含む対韓関係を⾒直すと警告した。⼀⽅、全⽃煥は、⽇本の内政⼲渉を⾮難した。⽊村幹によると、全は政権発⾜当時
から「事実上の植⺠地⽀配に対する第2賠償」として60億ドル借款を求めていたという。表向きには、この時期の北朝鮮の脅威に対抗するための
援助として韓国側が求めてきたこの援助に対し、⽇本は安全保障問題と経済援助を切り離そうとした。さらに、園⽥外相が、借⾦をする⽅が威張
るのはおかしいと発⾔して、韓国側の感情的な反発も⽣じた。
そのようなときに発⽣したのが先述の第1次歴史教科書問題であった。韓国では当初ほとんど反応が⾒られなかったが、中国が7⽉下旬に激しく
抗議し始めたことが国内に知られるに及んで、韓国内でも激しい反応が引き起こされた。⽇本の経済⼤国化と軍国主義台頭の兆しを恐れていたこ
ともあり、韓国でも教科書問題が⾼い注⽬を浴びたのである。この抗議も「宮沢談話」を機に収まることになった。
1982年11⽉、中曽根康弘は⾸相に就任するやいなや元陸軍参謀で伊藤忠商事相談役であった瀬島⿓三を特使として韓国に派遣した。瀬島が細部
を詰めたのち、翌年早々、⽇本の⾸相として初めて訪韓し、全⼤統領との間で経済協⼒の規模において合意に達した。中曽根は、⼤統領主催の晩
さん会でのあいさつの⼀部を韓国語で⾏うなど、個⼈外交を演出して反⽇感情の緩和に努めた。また、1984年9⽉、全⽃煥⼤統領が来⽇した際、
昭和天皇から「不幸な過去」が存在したことについて「誠に遺憾」との表明がなされた。この「遺憾」の⾔葉を⼊れることについては、中曽根個
⼈が宮内庁⻑官に指⽰したとされる。
中曽根の考えは、ソ連からの⽇本の安全を守るためには韓国と中国の経済的強化に貢献し、北朝鮮・ソ連に対する抑えにしようというものであっ
た。いわば北東アジアに反共の「アジアの壁」を築こうというものであった。そのための⽇本からの援助が、どれだけ両国の発展に貢献したかと
いえば微量であったろうが、中曽根のこうした意図が、当時の歴史認識問題の極⼩化に貢献したことは間違いない。
3. 中曽根内閣期の歴史認識問題
中曽根⾸相の靖国神社公式参拝
鈴⽊内閣を継いだ中曽根⾸相が1985年終戦記念⽇におこなった靖国神社公式参拝はアジア諸国との間に⼤きな外交問題となった。それまでも靖
国神社には、⼤平正芳・鈴⽊両⾸相も参拝しており、これらは1978年10⽉に密かに⾏われたA級戦犯の合祀が79年4⽉に明らかとなったのちも同
様であった。また終戦記念⽇の靖国参拝も三⽊武夫が⾸相時代の1975年に⾏っていたし、鈴⽊善幸は2年続けて終戦記念⽇に参拝していた。した
がって、中曽根の参拝が問題となったのは、論理的には、これが公式参拝であったことである。もともと靖国神社は、国家のために命を落とした
兵⼠らを、その死後「英霊」として祀るための施設であり、戦地に赴く⼈々を「死後は神として祀られる」ということで「説得」する国家の装置
だったのである。したがって、中曽根は、戦後といえども公式参拝をしないことは「国家が英霊に対して契約違反をしている」と考え、⼀度は断
⾏する決意をしていた。しかし、A級戦犯合祀という現実が困難な外交状況を引き起こしていく。
江藤によれば、中曽根の終戦記念⽇の靖国神社公式参拝に対して、中国は当初はそれほど重視しない⽅針であったとされる。⽇本政府も事前に中
国ほかアジア諸国に、この公式参拝は軍国主義を⿎吹するものではないことを説明しており、中江要介駐中⼤使も「公式参拝が⽇中間の⼤問題に
なるとは誰も思わなかった」と回想している。しかし、この問題に⽕をつけたのは9⽉18⽇に⽣じた天安⾨広場における学⽣デモであった。この
⾃然発⽣的な反⽇デモが国内の権⼒闘争や歴史問題に結びつくことを恐れて、中国政府としても⽇本政府に強硬な批判を伝えざるを得なかったと
思われる。事実、胡耀邦は中江⼤使との12⽉8⽇の会談で「再度参拝があると⼤変、指導者の⽴場が極めて難しくなる。(靖国に戦犯が合祀され
た)そのままでは中国⼈を納得させられぬ」と訴えたのである。
⼀⽅、中曽根⾸相は、中国における「開明的で親⽇的」な指導者である胡耀邦が失脚することが、世界と⽇本の利益に甚⼤な影響を与えることを
危惧した。そこで中曽根周辺は、参拝前も試みていたA級戦犯の分祀を靖国神社に対して働きかけたが不⾸尾に終わった。その結果、中曽根⾸相
は、秋の例⼤祭には参拝せず、1986年以降は終戦記念⽇も含めて⾸相在任時の参拝を⾃制した。ここには折から⽣じていた第2次教科書問題も影
響していた。中国側は、1986年6⽉7⽇に⽇本政府に対して、⽇本側の⼀部勢⼒が作成し検定を通過した教科書の記述についての是正要請を⾏っ
た。この時は、外務省が中⼼となって中韓両国を満⾜させるような修正案を考案し、修正のうえ検定を通過させた。中国側もこれ以上の修正を要
求しなかったが、⽇本への不満を募らせていたのである。
胡耀邦の失脚
その後、1987年1⽉に総書記を解任されることになる胡耀邦は、靖国問題での両国の紛糾の背後に「⽇中両国を離反させようとする第三国がいる
のが問題」と、ソ連の⽇中離間⼯作を疑っていた。つまり、ソ連の脅威に対して⽇本を味⽅につけることを緊要な外交⽬標と考えていたのであ
る。このような「親⽇」すぎる姿勢が失脚の⼀員との⾒⽅も根強いが、趙によると、胡耀邦の解任は、改⾰開放以来の⾏き過ぎた思想的な⾃由主
義を取り締まるよう、鄧⼩平が「反⾃由化運動」をしばしば⽰唆したにもかかわらず、胡耀邦がこれを放置し続けたことで両者の関係が悪化した
末のものだったという。その結果、鄧⼩平が胡耀邦の解任を決めた86年夏からは胡耀邦の提案はことごとく⻑⽼に反対されて「何⼀つまともに
できない状態」になっていた。したがって、胡耀邦が親⽇的すぎると批判されている最中に、反⽇勢⼒の批判を勢いづけるような靖国参拝は避け
なければいけないと考えた中曽根の判断は正確ではなかったといえる。中曽根がどう⾏動しようとも、胡耀邦の失脚は決まっていたからである。
しかし、むしろこの誤った認識は正しい⾏動を招いたように⾒える。
中曽根・胡耀邦それぞれの情勢認識が誤っていたとはいえ、両者の認識はソ連の脅威に対抗するには⽇中提携が⽋かせないという点で⼀致してい
た。中曽根・胡耀邦の友好は、いわば中ソ対⽴を背景とした「⽇中友好」であった。先に中曽根内閣は第2次円借款供与を決定したが、ここには
従来同様、中国の改⾰開放を⽀援し、その⻄側への編⼊と穏健化を図る狙いとともに、戦争責任の清算という意味合いもあった。中曽根は1984
年3⽉の訪中時に、⽇本の対中経済協⼒について謝意を表明した胡耀邦にむかって、「かえって恐縮しており、対中協⼒は戦争により⼤きなめい
わくをかけた反省の表れであり、当然のことである」と述べていたのである。このように⻑期的な⽇中提携に向けて、過去の負の遺産を⽚付ける
必要性を中曽根も抱いていた。
第2次歴史教科書問題(1986年)
そういう背景の中、1986年5⽉に第2次教科書問題が発⽣する。まず「⽇本を守る国⺠会議」編の⾼校⽤⽇本史教科書が検定を通過したことに対
し、韓国のマスコミ・世論が強く反発した。その直後に中国政府も異議の表明を⾏った。すでに⽂部省は検定通過までに多くの訂正を要請してい
たが、中韓の批判にさらされた中曽根の指⽰を受け、追加的な修正を要求した。その⼀⽅で、外務省からは出版社に出版を断念してはどうかとの
申し⼊れがなされた。結局、検定期⽇を過ぎて以降の⽂部省による修正指⽰を執筆者側が受け⼊れて、7⽉7⽇に改めて検定通過が通知された。
中曽根⾸相が、⽂部省に再検討を指⽰し、外務省も多くの修正を⾏ったとされる事態には、ナショナリズム⾊の強い意⾒を押さえ込んで中韓両国
との関係を維持したいという政権の判断があった。
By the Same Author
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こうした異例の措置により⼀時的に問題は沈静化したが、同年7⽉に藤尾正⾏⽂部⼤⾂が東京裁判を批判するなどした、いわゆる「藤尾発⾔」問
題を引き起こし、9⽉に発⾏された『⽂藝春秋』の中で、藤尾が東京裁判批判や⽇韓併合には韓国側にも責任があったという主張を⾏うという問
題が⽣じた。これに韓国・中国は反発したが、中曽根⾸相が藤尾⽂相をすばやく罷免することで、問題は沈静化した。
しかし⽇本側がこうして必死に⽇中関係悪化の芽をつむことに注⼒していた⼀⽅で、江藤によると、鄧⼩平は1986年11⽉頃には、それまでの友
好を基調とする対⽇外交を「適度な」対⽇外交に転換することを決めていたとされる。これは翌年1⽉の胡耀邦失脚よりも先のことである。この
理由として江藤は、経済協⼒⾯における対⽇不満と度重なる歴史認識問題を通じた不信感を挙げている。さらに、当時の⽇本の経済⼤国化が軍国
主義復活の恐れと結びついていた可能性がある点も、今⽇の中国⼤国化を⾒る⽇本⼈の視点と⽐べると興味深い。⼀⽅、中曽根政権側では、胡耀
邦の失脚にもかかわらず、歴史認識問題を沈静化させた⼀連の措置で⽇中間の友好の基調は維持されたと判断していた。
4. 終わりに
以上のように本稿では、歴史認識を語ることがもはや個⼈的な⼼情の吐露ではなくなり、必然的に外交的影響を考慮せざるをえなくなった時代を
扱ってきた。鈴⽊内閣から中曽根内閣を中⼼とした80年代においては、短期的さらには中⻑期的な考慮から、⽇本政府が将来脅威となるであろ
う中国との間に紛争の種を残しておくことは好ましくないと考えて、歴史認識問題に⾃制的に対処していた。「中曽根康弘の時代」の政治家・外
交官には、そのような⾃覚があり、そのための対策も政治的に可能であり、外交上の結果もある程度は⾒込まれていた。
要するに「中曽根康弘の時代」の歴史認識問題は深刻ではあったものの、中国・韓国が未だ⽇本との友好関係を必要としていたために、適確な外
交⽅針によって解決可能であったと⾔える。その後、次第に韓国が経済成⻑を果たし、冷戦の終焉とともにソ連が崩壊した。最⼤の敵であったソ
連が消滅したと時を同じくして中国の脅威的な⾼度成⻑が始まった。その結果として両国が⽇本を必要とする度合いは著しく低下していった。こ
の時代においても、宮沢⾸相の天皇訪中への対応や細川⾸相の謝罪声明のように、アジア諸国との歴史的懸案を払拭するための努⼒が続けられ
た。いや、むしろ中国の強⼤化とともに、その必要性は⼀層認識されていた。しかし、1990年代はもはや弥縫的な対応が効果を上げるような時
代ではなくなっていく。韓国はもとより、中国においても反⽇世論の影響⼒は強まっており、政府⾸脳間の友好の確認程度では抑えきれなくなっ
ていたのである。
参考⽂献
・江藤名保⼦『中国ナショナリズムの中の⽇本』勁草書房、2014年
・⽊村幹『⽇韓歴史認識問題とは何か』ミネルヴァ書房、2014年
・益尾知佐⼦『中国政治外交の転換点』東京⼤学出版会、2010年
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