研究ノート
元慰安婦・文玉珠の軍事郵便貯金問題再考
李 昇 燁
〔抄 録〕
1990年代の慰安婦問題浮上以来、今日に至るまで、この問題は学界の論点に止まらず、社会運動、さらには日韓間の懸案問題、国際的な人権問題として熱い論争を巻き起こした。慰安婦の収入に関する事実関係についても論争が続き、各「陣営」が一歩も譲らぬ対立を露呈している。この小論では、元慰安婦・文玉珠の軍事郵便貯金に関する今までの議論について、基礎的な事実関係を確認した上で、主に東南アジアのハイパーインフレを論拠にその価値を否定する議論について批判的に検討する。
キーワード 慰安婦、軍事郵便貯金、軍票、歴史論争
はじめに
歴史研究に限らず、学問研究一般における論争は、異なる理解や解釈と向き合い、互いの主張が持つ弱点や矛盾を明らかにすることによって、共に研究のレベルを進捗させるものである。
ただし、ある種の論争は、互いに寄り合いの余地のない戦いとして展開される場合もある。それが研究者や社会集団の世界観や歴史認識の根本的な部分に深く関わっており、さらに現実の政治や運動との強い関連を持つ場合、特にそうである。
1990年代以後、日本軍慰安婦に関する研究が進捗する一方、数多くの論争も繰り広げられた。
その過程で新しい視点が提示され、新たな知見の獲得へと繋がる面も少なくなかったが、またその多くが今までの主張を繰り返すだけの、不毛の議論も少なくはなかったと言えよう。そもそも出発点から対極に立っている主張のぶつかり合いだったので、その溝が簡単に埋まることは到底望めないことかも知れない。なおかつ、この問題が持つ重さ、すなわち帝国日本の戦争や植民地支配に関する責任、戦後補償、日韓の国民感情と政治・外交、そして人権とジェンダーの問題とも絡み合い、色んな論点において一歩も譲れぬ対立が続いてきた。近年の事例として、朴裕河の『帝国の慰安婦』(2013年)(1)、李栄薫ほか『反日種族主義』(2019年)(2)、そしてJ・マーク・ラムザイヤーの論文「太平洋戦争における性契約」(2020年)(3)など、既存の主流になっていた学説に異論を唱えた著作をめぐり、日韓を跨がる、場合によってはアメリカまでもを巻き込んだ激しい論争が展開された。さらには紙上の論戦に止まらず、朴裕河に対する刑事・民事訴訟が象徴するように現実世界の行動にまで及んだ事例もある。
筆者自身、慰安婦問題を専門とする者ではなく、深い知識や理解を持っているとは言えないが、慰安婦問題を含む昨今の歴史論争を一観察者、または一読者として見てきた。その「観戦」過程で、いわば主流とも言える学説および言説にも再検討を要する部分があることに気付いたりする。激しい論戦の最中、当時の事柄に関する実証に基づいた理解の深化よりは、相手に対する攻撃や、相手の攻撃に対する防御の論理が先行するのは必然的な傾向かも知れない。その過程で、実証の名を借りた奇論、学術研究の成果というよりはプロパガンダ―に近い言説も、いわゆる「陣営」を問わず多数現れてきたと思われる。
その一つが、慰安婦の収入をめぐる問題である。特に慰安婦として莫大な金額の貯金を行った文ムン・オクチュ玉珠(1924~1996)の事例は、かつてから注目され、その解釈をめぐって激しく対立してきたところである。ただし、その議論が必ずしも実証研究に基づいているとは限らない。むしろ、当時の制度や状況に関する基本的な事項の誤認、または無理解に基づいた虚偽の言説ではなかろうかという疑いを抱いた。この小論は、かかる素朴な疑念から出発するものである。門外漢の「観戦評」としてご笑覧頂きたい。
1.経緯
1992年、郵政省・熊本貯金事務センターに保管されている、元慰安婦・文玉珠の軍事郵便貯金原簿の調書が公開された(4)。1943年 3 月から1945年 9 月まで26,145円が入金され、戦後も
1965年まで利息が付き続け、総額50,108円の残高があることが明らかになった。
貯金総額が極めて高額に達していると共に、具体的な入金年月日や金額が政府機関の公文書に記載されたものとして、一次史料の価値がある。慰安婦の収入については、元慰安婦の証言や元軍人の回顧など、様々な記録があるが、いずれも数十年が経過した後の陳述であったり、当事者でない人の記憶であったりするため、史料としての厳密性を充たしているわけではない。
それに対して、この文書は当時の政府機関によって作成された入金の記録を、原本に基づいて書き写したものであって、特に改竄や捏造を疑う余地もなく、当時のありのままの状況が窺える一次史料である。
また、同じくビルマの朝鮮人慰安婦の生活実態が記録された米軍戦時情報局心理作戦班「日本人捕虜尋問報告第49号」(5)も一次史料としての価値が高く、慰安婦が多額の収入を得ていたことが書かれているため、多くの注目を集め、激しい論争の対象になった。管見の限り、慰安婦の収入金額を具体的に記している一次史料はこの二点に限る。両方とも高収入の根拠にもなるので、主流の言説を批判する、いわゆる「歴史修正主義」陣営にとっては絶好の批判材料に他ならない。また、慰安婦の高収入を積極的に否定しようとする、いわゆる主流の方は、史料自体を否定するわけにはいかず、何らかの異なる解釈を通して、攻撃を退かせる必要に迫られたわけである。
慰安婦研究の古典とも言える吉見義明の『従軍慰安婦』で
は、多くの慰安婦が 出典: 文玉珠・森川万智子『文玉珠 ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私』 (梨の木舎、初版1996年/新装増補版2015年)206頁。
お金を貰えなかった ことを述べる一方、ちゃんとお金を貰ったケースの一つとして文玉珠の事例を紹介している(6)。
それとは対極に立っている秦郁彦も『戦場と慰安婦の性』で慰安婦として高所得を上げた事例の一つとして文玉珠の郵便貯金を取り上げている(7)。秦が概ね慰安婦が高収入であり、例外的に業者の横暴などにより搾取されたケースも認めるスタンスであることに対し、吉見は大多数がお金を受け取ることができなかったという立場であり、文玉珠の預金内容については、非常に例外的なものとしてではあるものの、素直に肯定しているのである。しかし、その後吉見の主張が一変して、文玉珠の預金額を無価値なものと見なすことになる。
慰安婦問題をめぐる議論は最初から学問的なものというよりは、社会運動のレベルで展開されてきたため、次第に陣営化していった。日本政府の責任有無、謝罪・賠償の可否などをめぐる攻防となり、同じ根拠(史料や証言)をめぐってもその真偽判断と解釈が先鋭に対立した。その中、多額の預金事実が記録されている文玉珠の野戦郵便貯金通帳は、慰安婦は戦地公娼で個人営業を行っただけであって、多額の利益を得ており、国家には責任がないという、いわば
「否定論」にとって絶好の反撃材料として利用され続けた。
ここで、吉見は以前とは異なる解釈を提示することになった。2010年に刊行された『日本軍「慰安婦」制度とは何か』では、戦地インフレを根拠に慰安婦の収入額が僅かな金額に過ぎないという論理が登場した。1941年12月の物価指数100とした場合、東京では1945年 8 月に161として、物価が1.6倍程度上昇したことに対し、ビルマのラングーンでは185,648となり、2000倍近く上昇したため、ルピー軍票(南発券)はほとんど価値がないに等しく、20,000円を超える貯金額も僅かな価値しか持たないと論じた。このような状況で、使い手のない軍票を持った軍人たちが、文さんにチップとして渡したので、一見高額に見える貯金ができたと解釈したので ある(8)。
このような新しい視点が提出された背景には、1996年文玉珠が死去したことも関連しているのではないかと推測される。本人の死亡によって郵便貯金の払い戻しが永遠に不可能となったのである。日本政府は1965年の日韓国交正常化によってすべての請求権が消滅したという立場であったため、文玉珠に対する払い戻しを頑なに拒否していたが、日本の市民グループを中心に貯金の払い戻しを求める運動が続いていた。元慰安婦を支援する立場の者としては、迂闊に戦地インフレなどを言及して貯金額の価値を下げるような言動は控えたはずである。しかし、当人が亡くなり、貯金の払い戻しができなくなった一方、批判者たちによって「慰安婦高収入」の根拠としてのみ活用されることになった以上、もはや遠慮することは何もなく、その根拠を崩す論理へと移行していったであろう。
2013年にはラジオ対談の形で吉見と秦の直接対決が行われた(9)。ここでは文玉珠の貯金額そのものは話題に上がらなかったが、ビルマの慰安婦の収入問題をめぐって論戦が交わされ、吉見は秦の「高収入」主張に対して、戦地インフレで軍票が無価値となったという論理で反撃した。色んな話題にわたって攻防が交わされたが、記録を見る限り、秦が「インフレ」論に対して反撃を試みた形跡は見当たらない。一見、吉見の判定勝ちとも言えるであろう。
2015年に刊行された『Q&A 朝鮮人「慰安婦」と植民地支配責任』で、吉見は林博史と共同執筆した「文玉珠さんはビルマで大金持ちになった?」という文章のなかで、文玉珠の貯金に対して、「ビルマで貯めた二万数千円は、その一二〇〇分の一、つまり二〇円程度の価値しかなかったです」と語るなど、インフレ要因が文の貯金額の無価値さを説明する論理として定
着するに至った(10)。同書の内容は、もともとウェブサイト「Fight
for Justice 日本軍『慰安婦』
――忘却への抵抗・未来の責任」に掲載されていたもので、日本語のみならず、英語・中国語・韓国語に翻訳されて世界に発信され、広く拡散していった(11)。それにより、吉見の「インフレ論」は、慰安婦の「高収入」論を反駁する「伝家の宝刀」となり、その後も継承されていくことになったのである。
2019年、韓国で李栄薫を代表著者とする『反日種族主義』が刊行され、すぐさま熱い論争を呼び起こした。同書は韓国のみならず、日本語にも翻訳され、大きな話題を呼んだ。同書の
「歴史修正主義」的な歴史観に対し、多くの批判が提出された。その一つが慰安婦問題であり、文玉珠の軍事郵便貯金をめぐる論争が再燃した。批判者たちは、吉見の「インフレ論」を継承して、慰安婦の「高収入」主張に対して反論したが、李は後続の著作『反日種族主義との闘争』で、今まで広く受け入れられてきた「インフレ論」に対する批判を試みた(12)。おそらく、
「インフレ論」に対する最初の反論とも言えるであろう。李は、日本円と南方占領地の軍票が変動レートではなかったこと、海外からの送金と引出、貯金の払戻に色んな制限はあったものの、1944年 5 月までは個人の数万円程度の送金・引出には大きな制約がなかったことなどを論じた(13)。ただし、文玉珠の軍事郵便貯金に関連して検討すべき論点がすべて取り上げられたわけではなく、何よりも「インフレ論」の原形である吉見説に対する検討が行われていないという点で、反論としては不十分な側面がある。
2.事実関係の確認
文玉珠の軍事郵便貯金問題を考えるに先立ち、当時の制度、すなわちビルマで使用されていた軍票の概況、そして軍事郵便貯金の仕組みについて理解しておく必要がある。たとえば、南方占領地での通貨はどうだったのか。軍人・軍属はどの通貨で給与を貰い、慰安所の利用料金(花代)を支払ったのか。軍事郵便貯金に預入した通貨、そして通帳に記載された通貨はどれだったのか、などの事実関係を確認しておかなければならない。残念ながら、今まで文玉珠の貯金額を無価値なものとして論じてきた研究者の多数が、このような基本的な事実関係に関する理解に欠けており、想像と憶測で主張を展開してきた嫌いがあるからである。
(1)軍票(南発券)
日本軍の軍票は戦地における軍事費の支払手段として、日清戦争の際に初めて登場した以後、日露戦争、青島出兵、シベリア出兵など、主な対外戦争・事変の際に発行された。日中戦争期、日本軍の軍票制度に重要な変化が生ずる。一つは、今まで軍票による支払いは軍人・軍属の俸給給与以外の軍費に限定されていたが、1938年の閣議決定により、今まで日本銀行券で支給されてきた軍人・軍属への俸給給与が軍票と変わったのである。これは日本銀行券の増発を抑制し、占領地で実施している新通貨体制を確立するのが目的であった(14)。その後、太平洋戦争では、南方戦地における日本通貨の使用を避けるため、当初から軍票による軍人・軍属の俸給給与の支払が決まっていた(15)。なお、南方占領地での日本円の使用は原則不可としており、日本より南方を旅行する場合は、日本国内で外貨軍票に引き換えて携行するよう規定された(16)。
もう一つの重要な変化は、日本軍占領地域において、軍票が軍政当局の法貨として使用されるようになったことである。香港や海南島で日本軍の円軍票が現地通貨と併用されたことが始まりである(17)。太平洋戦争勃発後、南方地域においては、日本軍政当局が発行した外貨表示軍票が、過去の植民政府が発行して使用されてきた旧通貨と併用されることになった(18)。
1943年 4 月からは南方開発金庫が発行する「南発券」が既存の軍票に代ることになるが(19)、種類や形式も従来の外貨軍票と同一で、関係事務や取り扱いも軍票を踏襲していた(以下、すべて「軍票」と表記する)(20)。
蘭領東印度ではグルデン、英領マレー・英領ボルネオとタイではドル、フィリピンではペソ、ビルマではルピー表示軍票が発行され、元来は各通貨間の換算率も、日本円との換算率も異なったにも拘わらず、すべての外貨表示軍票1単位が1日本円として換算されるよう規定された。後に英領外南洋および豪州の占領地ではポンド表示軍票が発行され、1ポンド:10円の換算率が策定されたのが唯一の例外である(21)。各占領地の軍票が外貨表示されていたにも拘わらず、日本円と1:1の交換比であることもあり、日本軍関係者の中では慣習的に円・銭という呼び方が一般的であった。
要するに、ビルマ占領地では軍人・軍属の俸給給与はすべてルピー軍票で支給され、兵営の内外を問わず、軍票が使用されていたのである。当然、慰安所の利用料金も円・銭として表示されているものの、実はルピー軍票であり、慰安婦が得る収入もすべてルピー軍票であった。
さて、慰安婦の問題を取り上げている研究者の中には、太平洋戦争期の南方における「軍票」について誤解しているように見える事例がある。たとえば、「この金は文玉珠が軍人から貰ったお金なので、軍票で受け取った額はこれよりはるかに多かったと推測される」(22)とか、
「貯金額のほとんどは軍人から貰ったチップと軍票である〔……〕それまで集めていたチップと軍票を一緒に貯金した」(23)と述べるなど、まるで貨幣(法貨)と軍票を別のものとして認識していることが窺える。先述の通り、南方占領地においては日本軍の軍票が最も重要な貨幣であり、軍人・軍属の俸給も軍票で支給され、さらには国内から持ち込んだ日本円も速やかに軍票に交換することが求められていたので、兵営内外を問わず、軍人・軍属の支払い手段は軍票しかなかった。よって、軍人たちが文玉珠に渡したチップもすべて軍票のはずである。
このような誤認の背景には、元慰安婦たちが慰安所の切符を「軍票」といったことにも原因があるかと思われる。例えば、文玉珠の回顧には、彼女自身の言葉なのか、記録者の表現なのかは定かでないが、「軍票は茶色のもので、軍人の階級によって価格が異なり〔……〕軍票はすべて管理人が自ら管理した」などの記述が登場するが(24)、これは明らかに切符のことを言っていると見られる。もしかしたら、韓国語で切符のことを「票(표)」ということに原因があるのかも知れない。
(2)軍事郵便貯金
次に軍事郵便貯金について、基本的な事実関係を確認しておこう。軍事郵便貯金とは、陸軍の野戦郵便局または海軍の海軍軍用郵便所で預入された郵便貯金のことをいう(25)。日清戦争中の1895年、「軍人軍属及軍夫の従軍者」に対する本国への送金制度として軍事郵便振替制度を設ける一方、「従軍者自らのために戦地に於て貯金をなし得る方法」として野戦郵便局における郵便貯金の扱いを開始することに端を発する(26)。以後、日露戦争期に「軍事郵便為替貯金規則」(明治37年逓信省令第 7 号)が制定され、軍事郵便貯金制度の基本となる。
さて、文玉珠の軍事郵便貯金と関連して確認しておかなければならないのは、この貯金で預入される通貨のことである。そもそも軍事郵便貯金は日銀券で俸給を支給される戦地の軍人・軍属のための制度であったため、基本的に日本円で預入するものであった。また、最初の規定では、預入だけが可能で、現地での払戻は出来ず、国内に帰還すると共に解約および払戻を行うことを前提としていたので、記帳される通貨表記は当然日本円である(27)。
太平洋戦争勃発以前も、一部現地の貨幣での入金が認められた事例がある。日露戦争当時には「円形銀塊及軍用切符」を日銀券に換算して入金することを定めたことがある(28)。1943年以後の華中・華南戦線では軍票の新規発行を中止し、南京国民政府(汪兆銘政権)下の中央儲
備銀行券(儲備券)に一本化したので(29)、儲備券100元:日銀券18円のレートで預入が行われ、通帳には円建ての金額が記帳された(30)。
要するに、ビルマ駐在の軍人・軍属はルピー軍票で支給された俸給の一部を軍事郵便貯金に預けることになるが、その軍票は預入と共に日本円となり、円建として記帳されたわけである。
南方占領地での外貨表示軍票は、開戦初期以来、終戦に至るまで日本円とのレートが固定されていたが、仮に後からレートが変動したとしても、既に預け入れている金額は円建なので、レート変動の影響は全く受けないものである。
3.
「インフレ説」の検討
(1)野戦郵便貯金に入金されている通貨
吉見は、「ビルマで貯めた二万数千円は、その一二〇〇分の一、つまり二〇円程度の価値し
かなかったです」と述べている(31)。そもそも外貨軍票と日本円の為替は固定レートだったので、ビルマの 1 ルピーは、日本の 1 円に交換できるものである。その上、文玉珠の軍事郵便貯金原簿に記載された金額は、もはやルピー軍票ではなく日本円建なので、国内で引き落とす際に金額が変わることはあり得ない。
吉見の陳述が真になるためには、いくつかの条件を充たす必要である。文玉珠がビルマ現地で貯金を現地貨幣(ルピー軍票)に引き出し、現地社会で生活や生業を営んでいくことが必要である。その場合に限り、25,000円あまりが20円の価値(購買力)しか持たないという陳述が真として成立する。しかし文玉珠は、また現地の軍人・軍属も、現地での払戻を望んだわけではなく、日本国内(朝鮮・台湾などの植民地を含む)に帰ってから引き出すことを想定していたわけなので、この仮定自体、あまりにも現実性に欠けている。南方占領地でのハイパーインフレを巧みに利用した説明は、一見妥当にも見えるが、その実は詭弁に他ならない。
吉見自身は、軍事郵便貯金の表示金額が現地通貨建とは言っていないが、大変誤解を招きやすい文面である。その結果、吉見の「インフレ説」を継承した研究者の中では、この貯金額がルピー建であると誤解することさえある。李栄薫の『反日種族主義』に対する批判として、尹明淑は「ビルマで貯金して大金を蓄えたとしても日本の円に交換することができなかった」といい、軍事郵便貯金がルピー建であると誤解している(32)。また、康誠賢も「 2 万560円は、東京では102円の価値にすぎなかった」と述べている(33)。両者とも、まるで今日のような変動レート制度下の外貨貯金のように誤解していることがわかる。もちろん、既に日本円建で預入されてている貯金を再びルピーに換算、さらに「架空のレート」で日本円に再換算することはあり得ないので、単なる憶測に過ぎない。
(2)占領地インフレと慰安婦の収入
次に、南方占領地でのインフレが、慰安婦の収入に如何なる影響を及ぼしたのかを考えてみよう。南方でのハイパーインフレ自体は紛れもない事実であるが、それがそのまま軍人・軍属の収入や生活に影響を及ぼしたわけではない。堀和生の指摘通り、「日本軍の内部経済」と「軍外の現地経済」が分離されていたため、基本的な衣食住が軍によって保証され、俸給として受け取ったルピー軍票と同額の日本円に貯金・送金ができる軍人・軍属はハイパーインフレの直撃を受けずに済むことができた。現地社会の貨幣価値が下落しても、軍人・軍属の俸給額は一定であり、慰安所の利用料金にも変動がなかったことには、このような背景があった(34)。ただし、その両者に跨っている慰安所(業者および慰安婦)は、軍を相手として得られる収入金額は伸びない反面、現地社会で生活物資を調達しなければならなかったため、インフレが進めば進むほど、生活費の圧迫に直面せざるを得なかった。要するに現地のインフレは、慰安所営業においては支出の拡大による利益減の要因として作用したわけで、「日本人捕虜尋問報告第49号」に記録されている慰安婦の高収入が、実は高い物価により相殺されたという解釈は妥当性を持つ(35)。
しかし、文玉珠の郵便貯金通帳に入金された金額は問題が異なる。現在手に持っている現金(軍票)ではなく、既に生活費などの経費を差し引いた後の利益に値するからである。言い換えれば、ハイパーインフレ状況で額面上莫大な生活費を支出しながらも、巨額の貯金ができたとしか言いようがない。果してインフレは如何に収入増の要因として作用したのか。吉見は、ビルマのハイパーインフレが最高潮に達した1945年に25,000円を超える多額の入金があったことを指摘し、次のように述べている。
文さんの回想によれば、業者は金をほとんどくれず、軍人がくれたチップがたまっていったといいます。〔……〕軍人は、軍票をもっていても価値がなく、何も買えないので、文さんにチップだといって渡したのです。しかし、そのお金は使い出がなく、貯金として積まれていったのです。(36)一見妥当に聞こえる陳述である。たしかに、「軍人たちは、自分はどうせ死ぬかもしれないのだから、とチップをはずんでくれた」(37)という文玉珠の回想もあるので、尤もらしい。しかし、ここには見落としてはいけない点が二つある。
まずは、兵営の外では何も買えない金額だったとしても、それを現地で使い切らなければならないわけではないという点である。ビルマよりはインフレの程度が激しくなかったスマトラの事例として、将校の1ヶ月分の給与が占領地のインフレによってラーメン一杯分の価値しかなくなったといっているが(38)、選択肢がラーメンかチップかの二つに限られるわけではない。同額の軍票を国内に送金すると日本円として価値は保全され、家族が1ヶ月暮らすことができる。つまり、給与全額を戦地での小遣いに当てていた軍人や軍属がいたかも知れないが、特に将校や下士官の場合、その給与で「銃後」の家族を養わなければならないのである。
下記の表は、国外から軍事郵便為替を利用して国内に送金した金額である。太平洋戦争時期に入って爆発的に増え、1944年には太平洋戦争開戦翌年1942年に比べ、4倍近くまで膨張していることが確認される。さすがに1945年には振替口数・金額ともに激減するが、1944年までは、軍事郵便振替による多額の送金が盛んに行われており、多数の軍人・軍属は留守宅に送金していたことと推察される。この中には堀和生が指摘した、貨幣価値が下落した現地通貨(軍票)を送金することによって同額の日本円を手に入れようとする高級将校たちの合法・不合法の送金が相当含まれているかも知れない(39)。
二つ目に、1945年に行われた多額の預入と同時期のビルマのインフレとの関連性についても再考すべき点がある。文玉珠自身の回想によれば、戦況の悪化によりラングーンから退却、タイのバンコクに集結し、さらにアユタヤに行かされ、従軍看護婦として働くことを命ぜられたと語っている。彼女は、アユタヤ滞在中に郵便貯金から5,000円を朝鮮の実家に送金し、残り
表:軍事郵便為替振出状況 (単位 千口・千円)
年 度 |
口 数 |
金 額 |
昭和 12 |
336 |
15,880 |
13 |
1,338 |
49,009 |
14 |
1,021 |
41,937 |
15 |
901 |
43,548 |
16 |
905 |
66,652 |
17 |
1,289 |
107,775 |
18 |
1,907 |
214,178 |
19 |
2,428 |
392,714 |
20 |
669 |
157,011 |
計 |
10,799 |
1,088,709 |
出典: 郵政省編『続逓信事業史・第 7 巻 為替貯金』
(前島会、1960年)433頁。
の貯金はそのままにしておいたと語っているが(40)、「原簿預払金調書」には、払戻しの記録はなく、むしろ 3 回にわたって 20,560円が入金されたことになっているので、何らかの記憶違いがあるのではないかと思われる。おそらくは、ビルマを退却する際に業者から今までの収益分を精算して貰い、それに手元にあったチップを合わせた現金(軍票)を持ってタイに入り、その中から5,000円を送金、残りを預入したと見た方が妥当ではなかろうか。いずれにせよ、郵便貯金に巨額を入金した時点で、彼女はもはやビルマにはいなく、かつ慰安婦
としての営業はしていなかった(41)。つまり、ハイパーインフレが極点に達した1945年に慰安婦として稼いだ分ではないと見るべきである。細かいことではあるが、1945年 4 月~ 5 月に預入された金額を、その時点での収入とみることに無理があるということだけ指摘しておきたい。
一方、堀は吉見とは異なる観点からインフレ要因を論じている。「南方の慰安所は、日本軍の内部経済とハイパーインフレのなかにある軍外の現地経済にまたがって存在していたために、慰安婦達の収入にはこのような名目上の膨張が生じた」と推測している。具体的なことは不明と断っているが、これは重要なヒントになり得る。行動の自由が制限されているため、慰安婦が現地経済の中で働いたり、商売をしたりすることは考えられない。しかし、自分の所持品を現地の市場に売る程度であれば充分可能だったろう。たとえば終戦直後、植民地や占領地など、海外に駐在していた軍人や民間人が復員・引揚げを控えて、所持品を処分して現金化したこと、そして現地のインフレによって、その金額が名目上かなりの高額になったのはよく知られている事実である。文玉珠がビルマ、またはタイ滞在中にそのような方法で多額の収入を得ることも充分可能なことであろう。彼女は実際、「このように貯めたお金〔チップ:引用者〕以外にも酒や煙草もただで貰う場合が多く、私はお金が入る度に野戦郵便局に行って貯金をした」(42)といい、軍人から貰った物品を現金化、貯金したことを仄めかす証言もしている。彼女は簡単
なビルマ語が話せて、現地の市場で買い物もしていたので(43)、充分あり得る話であろう。また、ダイヤモンドやワニ皮のハンドバッグと靴など、高価な物を買った事実もあるので(44)、そのような所持品を処分することも可能であったろう。
(3)送金・払戻に制限があったので、貯金は価値がなかったのか
大戦末期の国際送金制限および貯金払戻の制限などにより、実際に占領地などで慰安婦が稼いだ収入は全く意味がなかったという解釈について検討してみよう。吉見は次のように述べている。
文さんは日本が戦争に負けるまで、故郷に帰れなかったので、一円も引き出せませんでした。かりに、運よく戦争中に朝鮮に帰れたとしても、政府は海外の激しいインフレが日本や朝鮮に波及するのを防ぐ措置を取っていたために、額面通りには引き出せなかったでしょう。無価値な軍票をつかまされていたことになります。こうして「多額の収入をえていた」というのは事実誤認であったということになります。(45)
確かに文玉珠は、ビルマの慰安所営業で稼いだお金を手に入れることができなかった(46)。
4 年に亘る辛い労働が全く報われなくなってしまったのである。しかし、送金や貯金引出制限などの統制策は地域と時期によって大きく差があり、一般化するべきものではない。また、経済政策や国際情勢、戦況の悪化や敗戦などの外部の激変によって貯金が引き出せなくなったことと、収入が少なかったことは区別して考えなければならない。それが慰安婦営業の配分金であれ、客からのチップであれ、「多額の収入」があったことは事実として認めなければならない。
戦後、軍事郵便貯金の払戻ができかなったのは慰安婦だけではない。朝鮮人・台湾人は日本統治の終焉と共に払戻ができなくなり、のち台湾とは「日華平和条約」(1952年)による特別取極が締結されないまま国交断絶となり(1972年)、韓国とは「日韓基本条約」(1965年)により請求権を放棄することとみなされ、払戻が不可能となった。(47)内地人の場合も払戻しが制限され、最終的には1954年に「軍事郵便貯金等特別処理法」によって解決されるが、戦後日本のハイパーインフレによって、貨幣価値が下落し、手に入れることができたのは僅かな価値のものに過ぎなかった。だといって、戦時期の軍人・軍属が俸給を貰ってなかったとも、収入がなかったとも言えない。たとえば、朝鮮在住日本人は引揚の際に
1 ,000円を限度に個人財産の携行を許可されたため、大多数は長年掛けて蓄積した財産を手放して帰るしかなかったが、にも拘わらず彼等が朝鮮で財産形成をしなかったとは言えないのである。
むすびにかえて
外村大の表現を借りると文玉珠の軍事郵便貯金記録は、吉見をはじめとする一群の研究者には「都合の悪い史料」であったろう(48)。問題はこれをどう処理するかである。少なくとも無視しなかったことは評価すべきであるが、研究としてしっかり取り上げられたとは言い難い。おそらくは、この史料を武器にして迫ってくる攻撃を躱すための論理を案出することが第一の課題となったであったろう。その結果、当時の軍票制度や軍事郵便貯金、軍事郵便振替などに関する基本的な理解を欠如、もしくは無視したまま、安易にインフレを論拠に対応しようとし、終には奇怪な論理を作り出すことに至ったのである。「慰安婦の収入 2 万数千円が緬甸方面軍司令官(陸軍中将)の年俸5,800円よりも高い」という言説を撃破するため、インフレ率1200 倍を適用して、 2 万数千円を20円にしたことには成功したが、慰安婦の収入を縮小することのみに没頭し、同じ計算をした場合、陸軍中将の年俸が
4 円83銭になることには目を配ることができなかった。慰安婦一人の貯金が持つ価値を否定するため、南方軍全体を貧乏にしてしまったことになる。
もちろん、幾つかの事例を一般化して、慰安婦はすべて「高収入」であったという言説の反論として提示された背景については充分理解しているつもりである。しかし、それは他の史料を駆使して実証するか、別の論理を案出することで克服すべき問題であって、決して存在する史料の内容を無理矢理に否定することで達せられるものではない。いわゆる「歴史修正主義」を批判するため、事実関係までねじ曲げるのは決して正しい解法ではなく、それ自体、ある目的のために行った「歴史否定」になりかねない。最後に、小論で解決できなかった課題について言及しておきたい。軍事郵便貯金は、基本的な仕組みは国内の郵便貯金の規定に従っている。郵便貯金は庶民が対象であり、民間金融機関への圧迫になることを避けるため、制度制定当初から預入金額に制限が設けられていた。1942 年 4 月に改正された「郵便貯金法」(昭和17年法律第81号)では5,000円を限度としている(49)。文玉珠の郵便貯金が1943年 3 月から翌年
3 月まで続き、その後しばらく中断された背景には、この預金額制限の問題があったからも知れない。もちろん、1944年 2 月16日付の預入をもって総額5,000円を超えてしまったので、規則通りにはいかなかった模様である。預金総額の超過状態は、同年 5 月、
6 月の払戻をもって解消されたと見られる。
吉見は1945年(昭和20)
4 月、 5 月に巨額の入金があったことを、この時期にインフレによって巨額のチップを稼いだとみたが、既に述べたように、これはこの時期の収入金ではない。むしろ、この時期になって軍事郵便貯金の預金額制限を緩和する何らかの特別措置が行われ、それまで預入ができず、やむなく所持せざるを得なかった分を入金したのではなかろうかと推測する。ただし、残念ながらそれを裏付ける根拠は見付かっていない。終戦後のことであるが、中国戦線では復員・引揚げの際に現金の携行が制限されるため、現地で所持している金円を郵便貯金に預入する必要が生じ、総額制限以上の預金(単身者
1 万円、家族同伴者 2 万円)許可を求める遣り取り行われたことが確認される(50)。終戦前のビルマ、またはタイにおける類似の措置が取られたかを確認することは、今後の課題にしておきたい。
〔注〕
( 1 )박유하『제국의 위안부:식민지지배와 기억의 투쟁』(뿌리와이파리、2013년)。日本語訳:朴裕河『帝国の慰安婦 : 植民地支配と記憶の闘い』(朝日新聞出版、2014年)。
( 2 )이영훈 외『반일종족주의:대한민국 위기의 근원』(미래사、2019년)。日本語訳:李栄薫『反日種族主義 : 日韓危機の根源』(文藝春秋、2019年)。
( 3 )J. Mark Ramseyer ,“ Contracting for sex in the Pacific War”,
International Review of Law and
Economics,
vol. 65, March 2021. 論争が始まったのは、紙媒体の雑誌刊行以前、同論文がオンライン公開された2020年12月のことである。
( 4 )文玉珠・森川万智子『文玉珠 ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私』(梨の木舎、初版1996
年/新装増補版2015年)246~248頁。
( 5 )この史料は、吉見義明編『従軍慰安婦資料集』(大月書店、1992年)に日本語訳が収録され、女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成⑤』(龍溪書舎、1998 年)に原文が復刻された。また、この史料の作成経緯に関しては、下記の書物で詳しく解説している。康誠賢(古橋綾訳)『歴史否定とポスト真実の時代―日韓「合作」の「反日種族主義」現象』(大月書店、2020年)108~111頁。原著:강성현『탈진실의 시대, 역사 부정을 묻는다』
(푸른역사、2020년)。
( 6 )吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書、1995年)146~147頁。
( 7 )秦郁彦『戦場と慰安婦の性』(新潮社、1999年)392頁。
( 8 )吉見義明『日本軍「慰安婦」制度とは何か』(岩波書店、2010年)50~51頁。
( 9 )対談の記録は、以下のブログを参照した。https://zames-maki.hatenablog.com/entry/20130615/
p 1
(10) 日本軍「慰安婦」問題webサイト製作実行委員会編『Q&A 朝鮮人「慰安婦」と植民地支配責任』(御茶の水書房、2015年)45頁。
(11) https://fightforjustice.info/?page_id=2391
(12) 이영훈 외『반일 종족주의와의 투쟁』(미래사、2020년)。日本語訳:李栄薫『反日種族主義との闘争』(文藝春秋、2020年)。
(13) 李栄薫、前掲『反日種族主義との闘争』、76~77頁(原著、77~78頁)。
(14) 岩武照彦「日本軍票の貨幣史的考察(二)」『アジア研究』第27巻第 2 号(1980年
7 月)53~54頁。
(15) 岩武、前掲論文、68頁。ただし、日中戦争前にも例外的に青島守備軍において軍票を個人給与の支払い手段として利用した事例がある。「軍票を個人給与の仕払に使用の件」(大正
4 年 2 月 24日)、JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.C03024478200、軍票を個人給与の仕払に使用の件(防衛省防衛研究所)。
(16) 「外貨軍票引換実施要領」(昭和17年 5 月 9 日閣議決定)『軍票に関する特別参考書』(1943年)、
JACAR Ref.A17110682800、軍票に関する特別参考書(国立公文書館)。
(17) 日本銀行調査局編『図録 日本の貨幣10:外地通貨の発行(1)』(東洋経済新報社、1974年)
279頁。
(18) 日本銀行調査局編、前掲書、314~315頁。
(19) 同上、318頁。
(20) 岩武、前掲論文、78頁。
(21) 日本銀行調査局編、前掲書、302頁。
(22) 호사카 유지『신친일파』(봄이아트북스、2020年)215頁。
(23) 康誠賢、前掲書、94頁、96頁(原著、119~120頁)。
(24) 한국정신대문제대책협의회・한국정신대연구소 편『강제로 끌려간 조선인 군위안부들』(한울、
1996年〔수정판〕)158頁。
(25) 郵政省編『続逓信事業史・第 7 巻 為替貯金』(前島会、1960年)141頁。
(26) 逓信省編『逓信事業史』第五巻(逓信協会、1940年)92頁。
(27) 1937年 6 月から陸軍、1939年
3 月から海軍の郵便貯金払戻が可能となった。郵政省編、前掲書、
142頁。
(28) (貯秘第330号、大正 3 年12月)「野戦局ニ於テ円銀及軍票受入ニ関スル件」、JACAR
Ref.
A09051351000、野戦局ニ於テ円銀及軍票受入ニ関スル件(国立公文書館)。
(29) 日本銀行調査局編、前掲書、268~269頁。
(30) (陸亜普第469号、昭和18年 4 月11日)陸軍次官富永恭次より逓信次官手島兼宛て「軍事郵便為替貯金ノ取扱ニ儲備券使用ニ関スル件通牒」、JACAR
Ref.A09051362200、在中南支軍人軍属宛為替送金ニ関スル件(儲備券使用ノ件)(国立公文書館)。
(31) 吉見・林、前掲書、45頁。
(32) 尹明淑「돈벌이 좋은 개인 영업자라니…일본군 위안소 제도 만들고 소녀들 짓밟은 건 누구인 가」『한겨레』2019年 9
月 5 日付。
(33) 康誠賢、前掲書、94頁(原著、119頁)。なお、同じ貯金額に対して、吉見と康の換算額が異なるのは、吉見は1945年 8 月時点での物価指数を、康は同年 6 月時点での物価指数を基準としているからである。康の方が実際に預金が行われた時点を重視したとも言えるが、どちらも意味のない換算であるには違いない。
(34) 堀和生「東アジア歴史認識の壁」『京大東アジアセンターニュースレター』第555号(2015年 2月)12頁。
(35) 吉見・林、前掲書、43頁。
(36) 吉見、前掲『日本軍「慰安婦」制度とは何か』51頁。
(37) 文・森川、前掲書、59頁。
(38) 吉見・林、前掲書、45~46頁。
(39) 堀、前掲論文、11頁。
(40) 文・森川、前掲書、138頁。한국정신대문제대책협의회・한국정신대연구소 편、前掲書、161~
162頁。
(41) 森川はこの預入がタイではなく、ラングーン脱出後ビルマのモールメンで行われた可能性について言及している。同上書、256頁。
(42) 한국정신대문제대책협의회・한국정신대연구소 편、前掲書、162頁。
(43) 文・森川、前掲書、77頁、107頁。
(44) 同上書、107頁、115頁。
(45) 吉見、前掲『日本軍「慰安婦」制度とは何か』51頁。
(46) ただし、森川は1944年 4 月と 5 月、2回にわたって貯金を引き出していると見ているので 、その解釈に従えば、「一円も引き出せ」なかったというのは事実ではない。文・森川、前掲書、
253頁。また、通帳から引き出したのではないが、文玉珠自身、ビルマとタイで1回ずつ実家に送金しているといい、実家には全額届いたと語っているので、稼いだ全額が無価値になったわけでもない。文・森川、前掲書、138頁、258頁。한국정신대문제대책협의회・한국정신대연구 소 편、前掲書、161頁。
(47) 台湾に関しては、村山富市内閣で行われた戦後処理の一環として、軍事郵便貯金を含む「確定債務」に対して、元金額面の120倍で補償することが決定され、1995年から2000年にかけて支払いが行われた。松田康博「台湾の民主化と新たな日台関係の模索:一九八八-九四年」(川島真ほか)『日台関係史:1945-2008』(東京大学出版会、2009年)168頁。
(48) 外村大「慰安婦をめぐる歴史研究を深めるために」浅野豊美ほか編『対話のために:「帝国の慰安婦」という問いをひらく』(クレイン、2017年)52頁。
(49) 郵政省編、前掲書、75頁。
(50) 「軍事郵便貯金預入額制限に関する件(昭和20年 8 月20日)」、JACAR
Ref.A17110600100、軍事郵便貯金預入額制限に関する件(国立公文書館)。
(い すんよぷ 歴史学科)
2021年11月15日受理
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