2022-03-29

日本統治時代の景福宮域再編事業

 



 

 

京都大学

博士(文学)

宮﨑涼子

論文題目

日本統治時代の景福宮域再編事業               

公園化計画および公開状況の変遷を中心として

(論文内容の要旨)

本研究は、日本統治時代の景福宮(キョンボックン)における宮域公園化計画の推移、および宮域の公開状況の変遷を明らかにすることを目的とする。

三度の日韓協約締結を経て、日本は、景福宮をはじめとする朝鮮王朝の財産に対する実質的権限を手にする。そして、韓国併合後は景福宮の全域を正式に管轄下に置き、総督府新庁舎の建設をはじめとする大規模な土木工事を行っていく。先行研究においてはしばしば、併合に先駆けた宮内の一般公開(1908年)や、宮内における朝鮮総督府博物館の開館(1916年)といった事実に基づき、かつては朝鮮王朝の正宮であった景福宮が公園のような空間に改造されたことを植民地主義のあらわれだったと強く批判されてきた。また、韓国・国家記録院所蔵の図面(「景福宮敷地平面図」と「景福宮内敷地及官邸配置図」)が提示され、新庁舎建設計画に着手した1910年代に総督府内において宮域の公園化が構想されていたことが示唆されもしてきた。

だが、景福宮の公園化が官民双方で議論され、また、その実現に向けた動きが本格化するのは、実のところ、総督府新庁舎の竣工が近づいた1920年代前半期以降のことである。そして、博物館が開館し宮内が既に公開されているにもかかわらず、景福宮の公園化が議論されるという、一見矛盾する事象が生じたのには、1910年代中頃に宮域が三つに区画されたことが関係していると考えられる。宮域の公開状況について論じるうえでは、宮内におけるエリアの違いに留意し、どのエリアが公開されていたのか(そして公開されていなかったのか)を把握する必要がある。

また、上に挙げた国家記録院所蔵の図面では、宮内の公園化が構想されるのみならず、総督府庁舎や官邸・官舎の建設も計画されているが、平面形状や建設敷地は、図面ごとに異なっている。これら計画図面を詳しく分析し、比較することで、それぞれの計画がどのように推移したのかを整理することが可能となる。特に、総督・政務総監の官邸や総督府官吏の官舎を新設する計画が1910年代に存在していたかどうかは当時の新聞等の文献(文字)資料からは確認できないことであり、それを究明するには、これら図面の分析が必須である。

また、先行研究においては、庁舎竣工後の景福宮の具体的状況がほとんど把握されないまま、庁舎竣工までに既に大きく変容している景福宮には、庁舎竣工後、更に大きく変化する余地はなかったという漠然とした認識が共有されている状況であると言

 

える。これはおそらく、庁舎竣工後の景福宮の実態を明確に捉え得るまとまった記録が残されていないという実情によるものと思われるが、日本統治時代の総督府による宮域再編事業の全貌を明らかにするには、1920年代中頃以降本格化した宮域の公園化についての議論や展開が、同年代以降の景福宮にどのような変化を及ぼしたのかまで把握することが肝要である。国家記録院に所蔵される、1920年代以降作成された景福宮およびその周辺を描写対象とする図面、当時刊行された地図や撮影された写真等は、宮域およびその周辺の実際の状況や計画の存在・進行状況等を把握するうえで有用な資料と言える。さらに、当時刊行された新聞や雑誌等の刊行物を地道に調査することにより、これまでほぼ空白のまま残されていた庁舎竣工後の宮内の物理的変化や公開状況の変化を把握することが可能となる。

以上の認識に基づき、本論文は、景福宮公園化に対する議論が本格化した1923年頃を区切りとして、それ以前と以後の景福宮およびその周辺の物理的変化と公開状況の変化を捉えることを目標としている。

 

第1章では、先行研究の成果に依拠しつつ、まずは朝鮮王朝時代末期以降の景福宮の処遇や所管の推移を辿り、また、新聞等の刊行物、共進会報告書や会場平面図、朝鮮総督府博物館関連資料や博物館案内図、総督府新庁舎建設計画に関する土木局技師の証言等を手がかりとして、1920年代前半期までの間の景福宮内の物理的変化と公開状況(区画が生じた後は、エリアごとの公開状況)の変化を確認している。

1896年の露館播遷を契機とし、景福宮には、大韓帝国宮内府から観覧を許可された外国人が数多く訪れるようになる。そして1907年、日本は景福宮をはじめとする大韓皇室の財産管理権を実質的に掌握する。早くもその翌年には、景福宮の一般公開が始まるが、当時宮内府から提示された須知(公開にあたっての注意事項)には服装に関する項目も見られるなど、その内容は厳格である。また、「見学」や「観覧」の代わりに「拝観」という語が使用されていることからは、実質的には権限を掌握しているものの、正式には大韓皇室の財産である景福宮を重んじる日本人官吏側の意識が見て取れる。

韓国併合直前の1910年5月に行われた殿閣競売により、宮内は空き地が目立つ状態となる。そして、翌1911年5月の景福宮全域の総督府への引き渡し決定にともない、総督府新庁舎の建設敷地を景福宮とすることが正式に決定し、翌1912年度より、朝鮮神宮の建設計画と並行して、その建設準備が進められていく。

景福宮という既存の王室所有地を開放しての公園造成事業着手、そして、公園事業と神社事業を一対とした計画の進行は、それまで居留地において内地の公園造成事業を基準として行われていた方針を、そのまま踏襲したものと言える。そしてこの流れは、1936年に至り、京城市街地計画に着手されるまで続く。

日本人をはじめとする外国人居留民が京城(漢城)での自由な居住を認められたのは、19世紀末のことであるが、以後、京城の南に位置する南山北麓の倭城台において、日本人町が形成されていく。そこは、京城を横断する清渓川北の朝鮮人居住地区(「北村」)との対比で「南村」とも呼ばれるようになる。総督府庁舎の景福宮(北村に位置する)への建設決定は、それまで京城の南を主な拠点としていた日本が、新たに京城の北に進出することを示すものであったと言える。また、1920年代末に至る過程で、京城の都市軸は、南は朝鮮神宮を、北は総督府新庁舎を端点として形成され、その軸に多くの政府庁舎や公共建築が再配置されていくこととなる。

 なお、1912年度以降も、景福宮の庁舎建設予定敷地では、在京城日本人のためのさまざまな催しが開催されているのが確認できる。

1915年の始政五年記念朝鮮物産共進会開催にともなう会場準備の開始とともに、1914年7月、二度目の殿閣売却が行われる。

共進会の会場とされたのは、庁舎建設敷地を含む宮域南半分であり、宮域の北半分の敷地は除外される。その会場準備には、翌年から着手される新庁舎建設の敷地準備が兼ねられていた。そして、この共進会開催と同年12月の朝鮮総督府博物館開館、翌年の総督府庁舎新築工事着手を経て、宮域の区画はさらに、総督府新庁舎建設敷地、博物館エリア、宮域北エリアの三つに細分化される(ただ、璿源殿一帯の南方の四殿閣は、これら三区画のいずれにも属さず、特殊な処遇下に置かれる)。当時の新聞においては、工事開始以後も、京城を訪れた内地の視察団や軍人、外国人武官らが「景福宮」を訪れたとする記事がいくつか見られるが、記事からは、彼らが一般に公開されている博物館エリアにのみ立ち入ったのか、あるいは庁舎建設敷地にも立ち入ることができたのかを判断することができない。

なお、宮域の三区画のうち、宮域北エリアに関しては、1920年代の中頃に至るまで、具体的にどのような状況下に置かれたのかを把握することができない。同エリアは、1915年に開催された朝鮮物産共進会の会場からも、1923年に開催された朝鮮副業品共進会の会場からも除外され、また、平常時の状況が窺い知れるような資料も、ほとんど存在しない。このことからも、同エリアへの人の立ち入りは、原則として禁じられていたものと推測される。

始政五年記念朝鮮物産共進会時、東宮一帯跡地に設けられた美術館は、共進会終了後の1915年12月、朝鮮総督府博物館として開館する。開館当時、総督府御用新聞の『毎日申報』に掲載された規定もまた、1908 年の須知と同様、厳格な内容ではあるが、ここで「観覧」という語が用いられるようになったことは、景福宮が朝鮮王朝の正宮から、総督府所管の空間に移り変わったこと(景福宮を当局の所有物と見なす関係者の意識の表れ)を象徴する変化と言えよう。

博物館開館当時の状況が把握できる資料は見出せないが、1920年代前半期の資料からは、景福宮の南端にある光化門が出入口とされ、同じエリアに残された殿閣も併せて公開されていたことがわかる。また、同エリアにある慶会楼の蓮池は、冬季に寒さで凍結するため、遅くとも1920年代初めにはスケート場として一般に開放されている。だが、1920年代後半

に至り、使用が総督府関係者に限られる状況が続いた可能性もある。

 

第2章では、日本当局による景福宮域再編事業への着手時期に関するこれまでの認識の妥当性について、2010年に発見された資料「京城都市構想図」(「構想図」)の中に描かれる景福宮域再編計画案の立案時期の割り出しを通じ、再検討を行っている。

「構想図」は、日本統治時代の韓国・ソウルを鳥瞰した都市図を写真撮影したものである。図につけられた半透明のかぶせ紙には㊙印が押され、図の中の道路や建物などの名称が印字されている。この資料を所持していた倉富勇三郎は、韓国政府法部次官・統監府参与として渡韓した後、総督府司法部長官を務めた人物であり、京城の市区改正の審議にあたっていた朝鮮総督府土木会議にも委員として参与する。この資料が倉富の手に渡ることになったのは、おそらくは同会議の席上、委員に配布される等のことがあったためであろうと推測される。

図の作成経緯等を調査するため、京城都市構想図研究会が立ち上げられ、論者もそれに参加した。

「構想図」には、博物館や、総督府庁舎と思われる建物などの新設が計画されている。だが、実際に竣工したこれら施設の建設敷地や形状は、「構想図」の中のものとは異なる。また、図の中の宮内北部には「総督官舎」や「政務総監官舎」とされる建築物も置かれているが、これらは、実際には宮内に建設されなかったものである。

日本統治時代の総督府新庁舎建設に関しては、計画に携わった技師・岩井長三郎が、「計画には、1912年度に総督府嘱託となったドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデが携わり、計画は同年度に新設された土木局において進行した」との証言を残している。新庁舎建設計画に関する先行研究は、岩井のこの証言に依拠するものがほとんどであることからも、研究会ではまず、図の中の景福宮内およびその周辺に描かれているものは、1912年度以降進められた総督府新庁舎等の建設計画が実施案として確定するより前に立案された計画だとの推測を共有した。

さらに「構想図」の右下には、デ・ラランデの名前の頭文字を組み合わせた落款のようなものが押され、図の中の「ホテル」とされる施設は、デ・ラランデが設計を手掛け1914年に完成する朝鮮ホテルと同じ敷地に描かれており、研究会はこれらを、図の作成へのデ・ラランデの関与を窺わせる証拠と捉えた。また、庁舎の建設敷地の確定とともに1912年度中に移動が決定されたと岩井長三郎が語る禁川が、「構想図」では元来の位置に描かれることなどから、研究会では、図面の作成者および宮内の計画の立案者は、1912年度以降顧問として新庁舎計画に携わったデ・ラランデであり、宮内の計画の立案時期および図面の作成時期は、朝鮮ホテルの建設地が該当敷地にほぼ定まったと新聞紙上で伝えられる1912年5月以降であろうと推測するに至った。

ただ、新庁舎計画の初期段階における作成が推測される国家記録院所蔵図面「景福宮敷地平面図」においても、禁川は元来の場所に残され、庁舎はその南に描かれている。すなわち、「構想図」の計画と「景福宮敷地平面図」はどちらも、1912年度を以て計画が始められてから、同年度中に庁舎の建設敷地が確定したことにより、禁川の移動が決定するまでの過程で作成されたものということになるが、それぞれの計画案に見られる庁舎の平面形状は全く異なる(さらに言えば、「景福宮敷地平面図」の中の庁舎は、それより後に作成された「景福宮内敷地及官邸配置図」等に描かれる竣工した庁舎と同じ日の字形ではあるが、形状は少し異なる)。これについては、デ・ラランデの嘱託に対し、日本人技師側の反発があったらしいことをほのめかす技手・小川敬吉の証言や、1912年度にデ・ラランデが手掛けたものを基礎としつつ、それとは別の庁舎の略設計が翌1913年度に遂行されたとする資料(『京城府史』)が存在することから、研究会は、1912年度からのデ・ラランデによる庁舎設計と並行して、日本人技師が独自の設計を行い、同年度にデ・ラランデが完了した略設計(「構想図」中に見られる庁舎)とは別の略設計(「景福宮敷地平面図」中に見られる庁舎)を、翌1913年度に完了させるに至ったものと思われる、と結論付けた。

一方、博物館計画に関しては、新たに、「初代朝鮮総督・寺内正毅に博物館計画を依頼されたデ・ラランデが、景福宮内の既存建築物や伝統的風致を活かし、かつ共進会美術館を正面玄関としたうえで、後に増築の手を加え、景福宮内を『博物館であると共に自然の公園』とする計画を立て、それは彼の生前に完成していたが、実施されなかった」とする元総督府博物館主任・藤田亮策による複数証言を見出すことになる。これが正しければ、デ・ラランデは新庁舎という一建築物の設計のみを任されていたのではなく、景福宮のさらに広範囲を網羅するような計画を任されていたということになる。だが、藤田の語る計画内容は、「構想図」のものと一致しない。また、計画に直に接していない彼の計画についての認識には曖昧な点も多く、研究会では彼の証言による研究上の進展は望めないと判断した。

以上の研究会における推測は、一見、何の矛盾もきたさないもののように思われるかもしれない。だが、上記の技手・小川敬吉の証言をより注意深く読むならば、それは、デ・ラランデが総督府嘱託となり、1912年度以降携わった計画が進行するよりも前に、デ・ラランデが別の新庁舎計画を立てていたと読めるものである。そのうえで改めて確認すると、図の中には、たとえそれが描かれた時期が1912年5月以降であったとしても、立案されたのはそれより前であったと考えざるを得ない施設も描かれている。また、景福宮全域が李王家から総督府に引き渡されることが正式に決定したのは1911年5月であるが、日本は1907年の段階で既に、景福宮を始めとする大韓皇室の財産を実質的に掌握している。そして1910年5月には、既存殿閣の競売が行われ、宮内は空き地が目立つ状態となる。このようなことからも論者は、「構想図」の景福宮部分の計画は(たとえ図に描かれたのが1912年度以降だとしても、)1912年度より前に立案されていたものである可能性もあると考え、使用した証言資料の再検証を独自に行うことにした。

まず、庁舎建設計画に携わった技師・岩井長三郎の証言には、1912年度以降の計画の進行について語る箇所の前に、その前に存在した計画について語る箇所がある。それは、総督府会計局では1910年度に、翌1911年度予算への新庁舎建築費計上が図られたが認められず、計画は1911年度半ばまで継続されていたが、旧統監府庁舎の増築が完成したことにより、庁舎の新築を急ぐ必要がなくなったため、新築は、1912年度以降さらに慎重なる研究調査を行ってから、ということとされ、そのための調査準備費が1912年度予算に計上された、というものである(また、証言のニュアンスからは、岩井自身はこの計画に関わっていなかったことが窺われる)。ここで語られる計画の流れは、小川敬吉の証言の流れと一致する。また、『東京朝日新聞』1910年10月30日付記事では、総督府内ではこの時、新庁舎の設計が既に完成している旨が伝えられている。これら資料を総合的に判断すれば、1910年度から翌年度にかけて存在したという新庁舎計画に携わり、設計を手掛けたのはデ・ラランデということになる。また、『京城府史』の記録は、「景福宮敷地平面図」に見られる1912年度に略設計を完了した庁舎を基礎とした略設計が、翌年度に改めて行われた(その結果、庁舎の形状は竣工時の形状にほぼ定まった)ことを示すものと捉えられる。

一方、博物館計画に関する藤田亮策の複数の証言には、デ・ラランデの計画について語った後で、1912年度から進行した新庁舎計画のことを語る、という規則性が見られる。彼は、計画の内容については詳細に把握していないが、寺内がデ・ラランデに依頼し、計画が立てられていたという事実があったこと、そしてそれは1912年度以前のことであるということだけは正確に認識していたと考えられる。

日本統治時代の景福宮域再編計画に関する従来の研究においては、新庁舎計画に関する岩井技師の証言のうち、1912年度以降の新庁舎建設計画の進行に関する部分だけが取り上げられていたことにより、総督府による宮域再編への着手時期も同年度以降のことと認識されていたといえる。だが、実際のところ、計画は韓国併合前後から、第三代韓国統監(初代朝鮮総督)寺内正毅ら一部の高官とドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデによって進められていたと考えられる。そしてそれを証明するのが、「構想図」の中の景福宮域再編計画案ではないかと思われる。

 

第3章では、いずれも1910年代前半期に立案されたものと推測される宮域再編計画(「京城都市構想図」の景福宮域再編計画案、韓国国家記録院所蔵の「景福宮敷地平面図」と「景福宮内敷地及官邸配置図」)の分析を行い、それぞれの特徴を確認するとともに、他の計画案との違いや計画の背景について考察し、そのうえで、1910年代前半期における景福宮域公園化計画と官邸・官舎建設計画の推移を辿っている。

「京城都市構想図」に見られる景福宮域再編計画案は、第三代韓国統監(後に初代朝鮮総督)・寺内正毅の依頼を受けたゲオルグ・デ・ラランデにより、1910年から翌年にかけて構想されていた総督府新庁舎計画および宮域公園化計画を反映したものと推測される。図の宮内に描かれる建築物は、1910年5月に行われた宮内殿閣競売後に宮内に残されたものよりも、さらに減ぜられている。

宮内には新たに、宮域南方から「総督府〔庁舎〕)、「博物館」の設置が検討される。また、宮域北西部および北東部に広がる緑樹帯(おそらく松林)のすぐ南には、「総督官舎」および「政務総監官舎」(おそらくは官邸)も描かれるが、その建物の規模は大きく、宮域北部のかなりの面積を占めるものとなっている。

宮内にはさらに、曲線的な苑路が、宮域をほぼ一周するように巡らされている。その苑路は、「総督府〔庁舎〕」の中庭から東西に延び、北へ向かい、「博物館」や慶会楼の脇を通過し、香遠池の北を通り、「総督官舎」の北にある噴水のような施設の前で合流している。苑路はまた、交泰殿の北東と香遠池の東から支線を伸ばし、それは「政務総監官邸」につながっている。すなわち、この苑路は、宮内南部の「総督府

〔庁舎〕」・「博物館」と、宮内北部の二つの官舎とをつなぐものとなっている。

この「構想図」の景福宮域再編計画案と他の計画図面との違いとしては、景福宮南端に位置する正門・光化門が元来の場所に残されていることが挙げられる。光化門は 1922 年、撤去されることが発表される。それは、土木局における議論の結果、同門が宮内の既存建築物と軸を揃えて建設されているため、太平通に軸を揃えた総督府新庁舎とともに前面から眺めると、向きの違いが目立ち、見た目に美しくないと判断されたためとされる。だが実際のところ、この決定は、光化門が庁舎の姿を隠すように立っていることが、土木局関係者の間で問題視されるようになったことによるものと推測される。

なお、「構想図」中の庁舎の軸は、景福宮の既存建築物の中心軸と光化門通の中心軸の中間を採ったようなものになっている。図中の計画が実行されたならば、やはり、庁舎と光化門は前方から見て、やや向きがずれることになったであろう。図の庁舎計画の立案者であり、かつ「構想図」の作成者と推測されるデ・ラランデは、このことを把握していたはずである。それにもかかわらず、なお光化門をその本来の場所残すことにしたのは、デ・ラランデが同門を、京城に欠かせないランドマークと見なしていたためではないかと推測される。

「景福宮敷地平面図」(1912年度内)は、1910年5月に行われた一度目の宮内殿閣競売から、1914年7月に行われた二度目の殿閣競売までの間に作成されたものと考えられるが、「構想図」の計画案と同じく、景福宮内に描かれる建築物は、1910年5月の競売後に宮内に残された建築物よりも、さらに減ぜられている宮内には、「構想図」と同じく、苑路が設けられているのが確認できる。ただ、「構想図」の苑路が曲線的なものであるのとは対照的に、図面の苑路は直線的である。また「構想図」の苑路が宮域の南北のつながりを意識したものであるのに対し、「景福宮敷地平面図」の苑路は縦横に延びており、南北だけでなく、東西のつながりも意識されている。

図面において、庁舎の建設敷地は禁川の南に設定されており、その都合上、南端の城壁を撤去し、宮域を元来よりもさらに南に張り出すような計画となっている。この措置にともない、光化門と東十字閣も外来の場所から撤去され、宮内の別の場所に移築する計画とされている。

また、「構想図」の中で「総督官舎」が置かれている場所には、総督官邸と思しき建築物(ただし、規模は「構想図」の「総督官舎」の約四分の一)が置かれている一方、「構想図」の中で「政務総監官舎」が置かれている場所では、官邸の新築が計画されず、そこに元来存在した璿源殿一帯の殿閣を残す計画となっている。さらに、璿源殿のすぐ南にはコの字型が描かれており(ただし描写は未完)、図面作成当時、この一帯の敷地の活用について、方針が一つに定まっていなかったことが窺われる。

徐東帝は、璿源殿が残されているのは、政務総監の官邸として利用する計画であったからであるとする。また、宮域東方の区域を博物館とする計画があったとする藤田亮策の証言を根拠として、未完のコの字型は、博物館計画があった可能性を指摘するが、図面には、藤田の語る計画において不可欠である共進会美術館(後の朝鮮総督府博物館)が反映されておらず、彼の証言どおりの博物館計画が存在した(それがこの

「景福宮敷地平面図」に反映されている)ことの実証には至っていない。

徐はまた、「構想図」の計画では、一般人も出入りできる博物館と、当時の朝鮮の最高統治機関である庁舎や最高統治者の官邸が、区画なしに計画されているのに対し、「景福宮敷地平面図」では、塀や川(御溝)、門により、これらがそれぞれ区画されていることを指摘している。それは、「景福宮内敷地及官邸配置図」にも見られない特徴である。図面には他にも、元々松林が存在したところ(「構想図」と「景福宮内敷地及官邸配置図」ではそのまま残す計画とされている)が、花壇のようなものに変えられているといった特徴も見られる。

「景福宮内敷地及官邸配置図」(1910年代中頃)は、1914年7月に行われた二度目の宮内殿閣競売の後も宮内に残されたわずかな建築物等を、さらに減ずるものとなっている(なお、図面において撤去される殿閣のほとんどは、その後も宮内に残されることとなる)。

図面の神武門外は区画化され、「局部長官舎」との名称が付され、また、そのさらに北には、南の官舎区画とは明らかに別格に見える二つの大きな建築物の輪郭が描かれている。図の名称からして、これらは総督や政務総監の官邸であることが推測される。この判断が正しければ、「構想図」の景福宮域再編計画案、および「景福宮敷地平面図」においては宮内への建設を計画していた官邸が、「景福宮内敷地及官邸配置図」では宮外に移す計画とされていることになる。二度の殿閣競売を経て残していた宮内の僅かな建築物をさらに撤去する計画となっていることと併せて考えると、官邸敷地を宮外に移すというのは、宮内における公園面積の拡張とその機能の充実を図るために考え出された案であることが推測される。

図面の宮内にはやはり、苑路が張り巡らされている。さらに、「動物舎」、「噴水」、「花壇」、「温室」、「奏楽堂」など、他の二つの計画案にはなかった施設も設置されている。先行研究では、この図面の計画は、日比谷公園の影響を受けたものであろうとの指摘が見られるが、図面の宮内は全体として、日比谷公園そのものというよりも、同公園とよく似た(そして当時の日本の空間造成における趨勢である)西洋風の整形庭園に再編されている。また、設置される施設にも共通性が見られる。ただ、苑路については、日比谷公園の苑路が曲線的なものであるのに対し、図面の苑路は、宮域南部は直線的なものに、北部は曲線的なものに仕上げられている。図面の計画では、宮域における公園敷地と庁舎敷地の区別が意識されているが、これら敷地の違いが、苑路の形状によって表現されているものと推測される。

この図面にはまた、1915年に景福宮で開催される始政五年記念朝鮮物産共進会の会場計画との共通点も見出される。博覧会場とした敷地を、博覧会終了後に公園に転用するという事例は、内地における日本大博覧会構想の際にも見られたものであり、図面の計画もまた、同共進会の会場計画が実施案に定まっていない時期に、共進会終了後、そのまま公園とすることを想定して立案されたものである可能性が考えられる。

なお、同共進会は、植民地統治のみならず、依然として近代化自体に反感を持っていた朝鮮の支配民たちを教化しようという目的により、会場の景福宮内は、既存のものを残しつつも全体として西洋風が目立つよう演出されたとされる。既述のとおり、この図面に見られる幾何学式庭園・公園の造園形式は、当時の日本の空間造成において流行していたものであり、この計画は、その流行りに乗じたものと捉えることもできるが、共進会の意義を考えるとき、この計画からは、朝鮮の伝統を象徴する空間である景福宮内を、共進会終了後も引き続き、過去との断絶と総督府統治による近代化を印象付ける場にしようという、総督府側の意図を感じ取ることができる。

以上のように、三つの計画にはそれぞれ特徴が見られるが、いずれの計画も、立案当時宮内に残されていた殿閣をさらに撤去したうえで宮域を再編する構想であり、また、苑路や広場等、公園を構成する要素が含まれる点で共通している。すなわち、これら計画はいずれも、宮域の公園化を構想したものと判断できる。だが、こうした共通点にもかかわらず、それぞれの計画の宮内の様相は、全く異なるものとなっている。

その違いを印象付ける決定的要素はおそらく、苑路の形状であろう。「構想図」の苑路は曲線的であり、「景福宮敷地平面図」の苑路は直線的、「景福宮内敷地及官邸配置図」は、宮域南部(庁舎敷地)は直線的、宮域北部(公園敷地)は曲線的なものとなっている。

朝鮮において景福宮域の再編(公園化)が検討されていたのとほぼ同時期、内地では明治神宮外苑構想が進行している。そこでは、苑路や配置計画、記念物のあり方を巡り、多くの議論があったとされるが、中でも、外苑の主要苑路をいかにするかを巡って紛糾したことが知られる。こうした例からも、宮域再編計画の過程においては、苑路の形状をいかにするかということが重要な検討課題とされたことがわかる。そしてそれが、1910年代前半期に少なくとも三つの計画が立て続けに立案された要因の一つであったのかもしれない。

また、三つの宮域公園化計画案には、総督らの官邸計画が(「景福宮内敷地及官邸配置図」には官舎計画も)含まれているが、その内容はそれぞれ大きく異なっている。

 「構想図」の計画では、かなり大きな規模の総督・政務総監官邸が宮域北エリアに設けられており、それは苑路により、宮域南部の「総督府〔庁舎〕」や「博物館」とつなげられている。「景福宮敷地平面図」の計画では、「構想図」において「総督官舎」が置かれる場所に、総督官邸が計画されている(建物の規模は「構想図」の四分の一に縮小)が、政務総監官邸は計画されず、既存建築物が残される。そして、官邸の領域とその他の領域が区画されている。「景福宮内敷地及官邸配置図」の計画では、官邸と思われる二つの建築物は、官舎区画と同じ神武門外(宮外)に計画されている。このように、官邸・官舎計画に関する検討が繰り返されたことも、短い期間に三つの計画が生じた要因の一つであろうことが推測される。

時期的により後に立案された計画において、官邸の敷地が宮内の他の敷地と区画されたり、宮外への建設が考案されたりしているのは、総督や政務総監の官邸という特殊な建築物のあり方を巡って検討が重ねられる中で、安全面が考慮されるようになった結果であろうと推測される。また、官邸の建設敷地として新たに宮外が候補地とされるようになったことには、セキュリティー面の問題を解決するという目的のみならず、宮内における公園面積を十分に確保し、公園としての機能の充実を図る目的もあると思われる。

また、「景福宮内敷地及官邸配置図」において、「構想図」の計画案および「景福宮敷地平面図」には見られなかった官舎計画が見られることからは、総督府内において、総督と政務総監の官邸を検討する過程で、総督府官吏達の官舎も、総督府新庁舎近くに建設しようという検討が生じたことが窺われる。1910年代後半以降、一時的に棚上げされていたと推測される景福宮域の公園化、および宮内(あるいは宮外)への官邸・官舎建設計画は、1920年代前半期に至り、再び動きを見せることとなる。第4章では、当時の新聞に掲載された記事により計画の内容を把握し、計画が再始動に至った背景について考察するとともに、京城都市計画史の研究成果に依拠しつつ、当時の新聞、雑誌等の刊行物や国家記録院所蔵の図面、地図等を手がかりとして、1940年頃に至るまでの両計画の推移とその結末を追っている。

総督府庁舎の竣工を間近に控えた1923年5月、当時の政務総監・有吉忠一が、御用新聞の『京城日報』および『毎日申報』において、談話を発表する。その内容は、総督府内には、総督と政務総監の官邸を宮内に新築しようという計画があるとしたうえで、「総督の承諾をいただいていない私一人の意見に過ぎないものですが」と前置きしつつ、自身は官邸の建設敷地は宮外に移してでも、景福宮の公園化を実現すべきだと考えている、というものである。同じ年の11月にはさらに、同じく御用新聞にて、京城市民(在京日本人)や京城府の間では以前から、人口に比して京城に公園が不足していることが問題とされていたことが述べられる。同記事ではまた、景福宮域のうち、既に公開されている博物館エリアに加え、宮域北エリアの公開を市民側が望んでいることが伝えられる。この時既に、博物館エリアが公開されているにもかかわらず、彼らが景福宮の公園化を求めたのはこのためであり、彼らが景福宮が公園化されたと認識するには、原則として立ち入りが禁じられていた宮域北エリアの公開が不可欠であったことが窺われる。ただ、そこは官邸建設予定地であるため、総督府内においては、景福宮の公園化と宮内への官邸建設は併存しえない計画と認識されていたようである。このため、市民と同じく、景福宮の公園化を実現すべきだと考える有吉忠一は、官邸の建設敷地は(官舎と同じく)神武門外に移すべきと考えていたと思われる。

その後、1925年5月には御用新聞上にて、当局においてこれら二つの計画を実行に移すことがほぼ決まったとの報道が、初めて明確になされることとなる。この時、官邸建設候補地として三つの案が示されるが、そのうち二つは宮内の敷地である。これはおそらく、建設敷地を当初の予定よりさらに北に移動させたことで、たとえ官邸の建設敷地を宮内としても、これら二つの計画の両立は可能であると見なされるようになったものと推測される。また、有吉らが主張した神武門外も、官邸の建設候補地の一つとされている。

総督府側のこの決定は、実質的には在京日本人側の要望を斟酌したものであるが、朝鮮人居住区の整備がおろそかであることに不満を抱いていた朝鮮人側に対する当局側の考慮の結果であることを示す狙いもあったものと思われる。だが、この一連の動きが『東亜日報』等、朝鮮人主体の新聞紙上で報じられることはなく、彼らが景福宮の公園化に期待や関心を寄せた様子は見られない(批判の声すら挙げられていない)。朝鮮人側としても、今後行われるであろう京城都市計画自体には関心があったが、景福宮の開放というのは、彼らが当時抱えていた問題の実際的解決策ではなかったため、この時は黙殺されることになったのではないかと推測される。

計画の実行が伝えられた後も、財政上の都合により延期された官邸・官舎建設であったが、1926年度には、神武門外に官舎街を設け、その北方に官邸を建設し、また、宮域北西隅にも官舎建設予定区画を設けた計画図面(「神武門外官舎配置図」)が作成されている。図面からはさらに、神武門外西方と宮域北西端においては既に、その計画案に沿い、官舎建設工事が始まっていたことが窺われる。ただ、その後もやはり財政的問題に阻まれ、工事を進めることができたのは計画区画のほんの一部に過ぎず、「神武門外官舎配置図」に見られるような官舎街が神武門外に完成することはなかった。その代わり、璿源殿(1932年の移築後はその一帯に設けられた複数の小規模建築物)と、その南方に点在する既存殿閣を官舎として使用するという方策が採られたようである。

官邸計画に関しては、おそらくは「神武門外官舎配置図」の計画に沿い、1920年までに、神武門外の該当敷地附近に存在した殿閣の撤去が行われたが、その後も財政難により工事に着手することができずにいたようである。そうこうしているうちに、総督府施政二十五周年が近づいたことから、その記念事業として、総合博物館の建設とともに、いよいよ計画を実行することが期される。この際、総合博物館の建設予定敷地となっていた宮域北エリアへの官邸建設案が再び浮上したようであるが、宮域北端の敷地は予定通り総合博物館(1939年3月に美術館建物のみが完成し、朝鮮総督府美術館として開館)に充てられることとなる。こうして1939年11月、神武門外に総督官邸のみが完成し、政務総監官邸は新築されないまま、韓国併合当時から検討が続けられたと思われる官邸建設計画は幕を閉じる。

一方の景福宮の公園化に関しては、1920年代後半に至り、朝鮮総督府と京城府双方において、都市計画公園の整備に向けた具体的な動きが見られ、1930年、朝鮮総督府内務部土木課が刊行した『京城都市計画書』において、初めてまとまった案が提示される。そして、同書において発表された 38 の計画公園地の筆頭には、「景福公園」が挙げられる。

計画の進行は、その前年に始まった世界恐慌の影響により滞るが、1934 6 月の「朝鮮市街地計画令」の制定と公布、1936 年末の京城市街地計画案の確定を経て、京城府当局は京城市街地計画公園案の策定を進める。その案の筆頭には当初、「景福公園」が挙げられていたが、1939 5 4 日の総督府から京城府会への諮問と、6 3 日の京城府会の答申までの間に、「景福公園」は公園案から除外される。その詳しい経緯や理由は明らかではない。だが、『京城都市計画書』の計画公園地には挙げられず、京城市街地計画公園案には含まれることになった三清公園、および、景福宮と同じく『京城都市計画書』の計画公園地には挙げられていたが、京城市街地計画公園案からは除外された昌慶苑・徳寿宮の事例から判断するに、景福宮を京城市街地計画公園地の一つとするには、敷地を払い下げる(あるいは貸下げる)等の手段により、その所管を総督府から京城府に移す必要があったと思われるが、それが実現不可能とされたことにより、景福宮は最終的に京城市街地計画公園案から除外されることになったのではないかと推測される。そしてそれは、1939年3月に至り、宮域北エリアに美術館建物が完成したことで、景福宮域のうち博物館エリアと宮域北エリアが、既に総督府所管の公園と化したことによるものと推測される。

 

第1章で確認したとおり、宮域北エリアは、宮域の三区画が確定した1910年代中頃以降、1920年代前半期に至るまで、共進会の会場からも除外され、そこに人が立ち入ったことを窺わせる資料もほとんど存在しないことから、一般人の立ち入りは原則として禁じられていたと推測される。そしてその方針は、その後も基本的に維持されたようで、同エリアの状況については、1930年代に至っても、「此の園は固より禁苑なれば、容易に観るを得ざれども」、「普通の人は決して入ることができないところ」などと言及されている。だが、第4章で確認した1920年代前半期以降の景福宮公園化をめぐる動きは、同エリアの内部や公開状況にも確実に変化をもたらした様子が窺われる。第5章では、1920年代中頃以降の同エリアにおいて見られた様々な変化を確認している。

1920年代中頃以降の同エリアへの人の立ち入りを示す出来事としては、まず、柳宗悦らが1924年、同エリアの緝敬堂と咸和堂を使用して朝鮮民族美術館を開設したことが挙げられる。これは、1920年以降の文化政治への転換や、柳と当時の総督・斎藤実とのつながり、斎藤自身が景福宮の開放に肯定的であったことなどが相俟って実現したことであろう。

ただ、同美術館での展覧会開催は不定期であり、また、訪れる人は決して多くなかったと思われる。1930年代に入っても、同美術館の収蔵品が緝敬堂に収められていたのは間違いないと思われるが、美術館としての機能が維持されていたか否かについては疑問である。

宮域北エリア開放の傾向はその後も継続され、1929年の朝鮮博覧会においては、同エリアと神武門外が会場敷地に組み込まれたことが確認できる。1915年の朝鮮物産共進会時に会場とされたのが、翌年から進められる総督府新庁舎の建設敷地であったように、総督府は、宮内で大規模な建設工事を行う前に、その準備を兼ねて建設敷地を博覧会場として使用するという手段をとっている。第4章で確認したとおり、神武門外は官舎街を造成する計画が存在した場所であり、宮域北エリアも、官邸の建設か、あるいは総合博物館の建設が検討された場所である。この時も、博覧会場の会場準備はその後の土木工事の実施を見越して行われたことが推測される。

同エリアではさらに、1930年以降、朝鮮美術展覧会が開催されるようになる。その会場とされたのは、璿源殿南に移築された「旧共進会建物」である。なお、同展覧会への出品を希望する者は、鮮展開催期間に先立ち、願書等を展覧会事務局に提出し、その後、作品を同事務所に搬入する。作品納入期間開始以降、同事務局はこの「旧共進会建物」に置かれたため、少なくとも出品者はこの期間に宮域北エリアに立ち入ることになったといえる。朴霧児なる人物は、1931年5月16日、同エリアに立ち入ったとする日記を残す(『東亜日報』掲載)が、それはちょうど、同年に開催された第10回鮮展の作品納入期間にあたる。彼の記録からは、この時、展展覧会関係者とは思えない人々が同エリアにいたことがわかる(朴自身も、作品納入等の目的により同エリアに立ち入ったとは記していない)。このことからも、少なくとも展覧会の作品納入期間および展覧会開催期間の間、同エリアは誰もが足を踏み入れることができる状態だったのではないかと推測される。

本多辰次郎は、1933年10月18日、「小田氏の厚意により」、「景福宮の禁苑を観」たとの記録を残している。また、この時、「同じく観覧する者二十余人」がいたとする。この記録からは、博覧会や展覧会の開催期間以外にも、総督府につてのある人物の口利きによって同エリアへの入場が許された人々に、観覧を許可するということが行われていたことが窺われる。

1935年と1936年には、当時の総督・宇垣一成の提唱により、桜の開花時期のみ一般府民の(無料での)入場が許可されたことが、新聞記事により確認できる。桜の木は慶会楼附近だけでなく、璿源殿南の「旧共進会建物」周辺にもあったこと、出入口が光化門と神武門とされたことからも、花見客は、博物館エリアと宮域北エリア双方の桜を見物することが許されたものと考えられる。

1935年と1936年にはまた、東亜日報社が主催した「婦人古宮巡礼団」や、同社と関連の深い「家庭婦人協会」の宮域北エリアへの入場が特別に許可されるという出来事もあった。これらの出来事を伝える同紙記事の中には、「ここは普通の人が決して入ることができないところですが、この度は特別に本社の頼みが聞き入れられ、皆さんの休憩と園遊の場所となりました」との言及が見られることからも、東亜日報社関係者と総督府関係者との間にパイプが存在したことが窺われる。だが、1936年8月には、いわゆる「日章旗抹消事件」が起こる。東亜日報社およびその関連団体の景福宮訪問は、1936年7月を最後に確認できなくなるが、それは、同事件の影響にもよるのではないかと推測される。

1937年末から同エリアで始まった博物館建設工事は、途中中断を余儀なくされつつ、1939年3月、美術館建物だけが完成し、朝鮮総督府美術館として開館する。旧共進会建物で行われていた鮮展は、この年から1944年に至るまで、この美術館で行われることとなり、また、一般人による個人展や団体展等も開催される。総督府美術館の内部の状況を把握できる資料は乏しいが、総督府博物館が同じエリア内にある慶会楼などを併せて公開していたのと同じく、おそらくは美術館建物のすぐ南に位置する香遠亭などを併せて公開することとなったと考えられる。

なお、この総督府美術館の開館により、京城市民が1920年代前半期から求めていた宮域北エリアの開放が事実上実現されたと言えるが、彼らが同美術館に入場し、周辺を散策した等の記録は、今のところ見出せていない。それは時局柄、そうした記録を残すことが憚られるような風潮下にあったからかもしれない。実際、1941年12月の太平洋戦争開戦後、同美術館で行われた展覧会の多くが、戦時色の濃いものであり、他にも、慶会楼附近にあった桜が、農園拡張のため切り払われたりしている。市民達の望み通り、宮域北エリアは開放はされたものの、当局の統制下に置かれていたといえ、彼らが希望していたような憩いの場とはならなかったのではないかと推測される。

 

約10年の歳月を経て、総督府新庁舎がようやく竣工を迎えた1920年代中頃以降、新庁舎エリアではそれに呼応する変化があったことが推測される。また、既に一般に開放されていた博物館エリアにおいてはその後、どのような変化が生じたのか。第6章では、1926年の新庁舎竣工後の同エリアと博物館エリアの変化を確認するとともに、1920年代後半期以降、両エリアにまたがって計画された運動施設設置の過程やその背景を確認している。

新庁舎の竣工を機とし、博物館エリアの庭園の一部は新庁舎エリアに組み込まれる。完成した庁舎は、京城を訪れる視察団や観光団、修学旅行生達の観光スポットとなり、人々は庁舎を外から眺めるだけでなく、庁内を参観することも許されていた。参観者達が新庁舎エリアのどの範囲にまで立ち入ったのかは確認できないが、完成した庁舎周辺で造園工事が行われたことからすれば、一般人にもその周辺を散策することが許されていたものと推測される。

そして、万年人手不足の状況が続いていた影響で、1926年以降、博物館の陳列室とされていた勤政殿や思政殿が、「監視人不足の為め臨時閉鎖」される。だが、1932年11月には、制限付きながら観覧が再開され、1935年7月には観覧制限が解除される。同時に、第一土曜日に限り、博物館の観覧料が引き下げられた(軍人と団体は無料)とされる。

新たに新庁舎エリアに組み込まれた敷地には、1928年6月、テニスコートや野球兼陸上グラウンドが完成する。『京城日報』記事では、それは総督府体育会の人が使用するためのものだと伝えられる。総督府体育会とは、総督直属の部局である「本府」の職員のみにより構成される団体であり、1926年8月に設立される。その背景としてはまず、当時の内地(特に実業界)におけるスポーツ奨励の風潮が朝鮮にも波及していたことが挙げられる。また、同じ総督府内の所属官署に属する鉄道局において既に行われていたスポーツの集合的実践による離職防止策を、新庁舎の完成により京城各地から本府職員たちが集結したのを機に、本府でも正式に取り入れようとの


意図にもよるものと考えられる。

 当時の新聞記事からは、総督府体育会内には、設立当時常設とされた三つの部(陸上競技部・庭球部・野球部)のほか、卓球部やラグビー部も増設されたことがわかる。また、体育会設立当初、その目的は「運動競技の選手を養成することではなく、会員の親睦を図ること」とされていたが、1920年代末頃からは、対外試合を積極的に行うなど、各競技部の活動が活発化し、競技部のチームや所属選手が好成績を収めた様子も見られる。

 韓国・国家記録院に所蔵される「景福宮内配置図」の宮内には、1928年6月に完成したものよりも多くの運動施設が描かれており、1928年6月以降、運動施設の増設が検討されたことが推測される。実際、新聞記事や国家記録院所蔵図面「朝鮮総督府(景福宮)敷地平面図」等の情報を総合すると、当初は新庁舎エリアに限り造成されていた運動施設が、博物館エリアにまで設けられた(少なくとも運動ができる程度の状態にされていた)らしいことが窺われる。

 運動施設の使用は、当初新聞で伝えられたとおり、主に総督府体育会員が練習用に使用したようだが、テニスやラグビーに関しては、総督府体育会内の競技会のみならず、体育会が関与しない競技会でも使用された例も見受けられる。その時期は、1935年頃に集中している。ラグビーに関しては、1935年と翌年に、朝鮮人教育機関である培材高等普通学校のチームが総督府チームや他の教育機関のチームと宮内で試合を行っていることが着目される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(論文審査の結果の要旨)   帝国主義研究、ないし植民地主義研究は、今日の人文・社会科学分野において、最重要課題のひとつだと考えられつづけている。その最大の理由は、植民地化および植民地統治の過程で生起したさまざまな事象が、脱植民地化がほぼ完了した今日の時代にあっても、文化・社会・経済・政治・国際関係の多方面で、大きな影響をふるっているからだろう。現代世界は、まさしくポスト・コロニアル(植民地支配後という意味ではポストであり、その影響が続いているという意味ではコロニアル)な世界であり、こうした現状が、多くの研究者の関心をひきつけてやまない。

 日本および大韓民国においても、日本による朝鮮半島(韓半島)の植民地支配に関する研究は蓄積が多い。なかでも、第二次世界大戦終結直後から植民地収奪論が公共圏で大きな制約なく語られるようになり、それが学界においても支持を集めた。ところが、1980年代に入ると、おもに韓国人の経済史家たちから、収奪を事実として認めたうえで、日本による植民地統治が大戦後の大韓民国において経済発展など近代化実現の糧になった側面もあったとする、植民地近代化論が提起されるようになった。そして収奪論者からは、近代化論への批判が寄せられることになる。いわく、近代化論は植民地主義の正当化につながる。日本の植民地統治は、朝鮮半島での自立的な近代化の芽を摘んだのではないか。

 こうした批判を巻きおこした一方で、植民地近代化論は、おもに新進の研究者たちに、イデオロギーではなく資料に基づき植民地統治の実態を究明しようという動きを、あらためてうながした。朝鮮王朝の正宮であった景福宮の、植民地期における景観変化を跡づける本論文は、こうした実証的植民地主義研究の流れに棹さすものである。

  資料実証主義に忠実な本論文の姿勢は、まず、題目そのものに如実に表れている。植民地期に、景福宮域の建物の多くが解体されてその用材が売却されたこと、朝鮮総督府庁舎が宮域内に新設されたこと、景福宮の正門である光化門が移設されたこと、そして宮域が公園化されたことなどを、収奪論に拠る先行研究は、破壊を意味する「毀損」などの言葉でもって説明してきた。こうした宮域の改変には朝鮮文化を破壊する意図があった、というのが、先行研究の大方の解釈である。だが本論文は、資料ではこうした意図の存在を肯定も否定もできないという立場から、より中立的な「再編」という言葉でもって、宮域の改変過程を綿密に究明するのである。

 使用資料の面でも、本論文は先行研究に比して網羅的かつ新鮮味がある。日韓の公文書館所蔵資料、当時の新聞、そして、おなじく当時の技師らの証言など、現時点でアクセスできるすべての資料に目を通したうえで、本論文は執筆された。また、文字資料だけでなく、宮域再編計画図も複数検討した点で、本論文はいたって斬新である。

 第1章では、1907年に朝鮮王朝から日本側(統監府)に所管が移った景福宮に

 

ついて、その一般公開(1908年開始)が論じられる。本章で論者が重視するのは、韓国併合(1910年)から5年後に日本側は「観覧」という言葉を使用して公開を許可するが、併合以前は、敬意を内包する「拝観」という言葉が公開にあたって用いられていたという事実である。公文書の注意深い読みによって発見されたこの差異の意味するところは、1910年以前の日本側は景福宮が朝鮮王室財産であることへの配慮を示していた、ということである。国際法など、法令遵守の外形を整えながら朝鮮統治を進めようとした日本側の姿勢が、ここにはよく窺える。

 本論文の、さらに重要な研究史上の貢献は、2010年に日本で発見された新資料「京城都市構想図」(制作年不記載)の分析を通じて、第三代韓国統監(1910年から初代朝鮮総督)の寺内正毅ら高官のあいだで、はやくも韓国併合前後の時期に、景福宮域の改変が検討されていたことを究明したことである。従来の研究は、それよりも遅い1912年度以降に検討が開始されたと考えてきた。本論文により、実際には、直接的な朝鮮統治の開始にあたって、旧支配層である朝鮮王室の力が誇示されてきた空間を、新支配者である日本の力を顕示する場に改変しようとする計画が、周到に準備されていたことが明らかになったのである。

 くわえて論者は、「京城都市構想図」と、韓国の公文書館に収蔵されている二種類の図版(「景福宮内敷地及官邸配置図」1910年代中頃制作と、「景福宮敷地平面図」1912年度制作)とを対照させ、総督府内で1910年代から、景福宮域をひろく西洋風の公園へと変えていく計画が論議されていたことを示したうえで、日本人向けと朝鮮人向けの新聞それぞれを渉猟しながら、そうした都市空間の「近代化」計画に対して、京城在住日本人は大きな関心を寄せつつ歓迎していたが、同地の朝鮮人住民はまったく関心を寄せなかった実情を解明した。そして、朝鮮人側のこうした姿勢は、近代化そのものへの無関心というよりも、かれらにとっての喫緊の課題、そして植民地期には実現されなかった課題が、日本人居住区(京城の南部)よりも衛生面で劣悪だった自分たちの居住区(京城の北部)の改善すなわち「近代化」にあったことが明らかにされる。

 このように本論文は、朝鮮文化を破壊するものであったと語られるだけで実際にはその過程の実証がなおざりにされてきた景福宮の景観改変を、資料に基づいて緻密に検証した。今後につづくだろう景福宮景観研究にとって、参照不可欠の基本文献となりうるものだと評価できる。

 以上、審査したところにより、本論文は博士(文学)の学位論文として価値あるものと認められる。2019年2月6日、調査委員3名が論文内容とそれに関連した事柄について口頭試問を行った結果、合格と認めた。

 なお、本論文は、京都大学学位規程第14条第2項に該当するものと判断し、公表に際しては、当分の間、当該論文の全文に代えてその内容を要約したものとすることを認める。

 

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