境界線上の文学をめぐって――二つの文化の狭間から
これからの比較文学を考える――周作人と金素雲の創作を読む
(日本比較文学第67回全国大会シンポジウム 2005, 6, 19) 比較文学の危機が話題になったのは決して今日はじめてのことではない。この学問の問題点、あり方、未来の可能性についての議論が過去に幾たびもありました。比較的によく知られているものといえば、例えばフランスのエチアンブルの急進的主張が二十世紀の六十年代に提示されました。つまり比較文学研究は狭い歴史実証主義に囚われることなく、またヨーロッパ中心主義から脱却して、もっと開かれた視野をもたなければならない、そして韻律学や文体論など多彩な方法論を援用しながら、その他の学問分野との連携も試み、書斎の学問から現代の政治的、イデオロギー的諸問題に直接関与しうるものへと変容することの必要性を強調したものでした。数十年経った今、振り返ってみると、これらの主張はかなり多くの研究者によって受け入れられ、また地域の差があろうが、研究の現場で多かれ少なかれ実践されてきました。それにもかかわらず、この問題意識は今日依然として研究者の大半が共有し、同じ議論が繰り返されているのが現状です。そしてエドワード・W・サイードの批評などが示しているように、比較文学研究を批評の形式と融合させて、「文化論」の構築へと展開していくというような試みについて、賛否両論があり、見解が分かれたところです。
われわれを取り囲む世界はつねに変わりつつある。従来比較研究にとって自明の前提であった国家、文化、民族、言語なる概念の再検討が必要となった現代において、比較文学はどうあるべきか、を見直さなければならないと思います。ただ僕自身は理論に関しては無頓着で、この学問全体のあるべき姿を論ずるビジョンもなければ、それにふさわしい学識もない。ここでは二人の作家の事例を取り上げ、複数の文化の狭間に生きた彼らの創作実践を検討することによって、文化融合の意味を考えてみたい。境界線が引けるところは同時に新たな融合の可能性もはぐくまれているように思われます。さらにこうした具体例の分析、議論から、何か普遍的意味のある視点を見いだして、新たな時代の比較文学の方法論の模索にいささか示唆を与えることを期待しています。
一 周作人(1885-1967)の創作について まずこの人物について、簡単に紹介します。周氏は中国浙江省紹興出身、若き頃兄の魯迅とともに日本に留学、法政大学や立教大学で学びました。帰国後、北京大学、燕京大学の教授を歴任しました。一九一九年「五・四」運動の時から新文学の創作をはじめ、数多くの新体詩、文芸理論、翻訳作品を発表するほか、大量の小品散文を作り、新文学運動に大きな影響を与えました。周作人は実兄の魯迅とともに、近代中国が生んだ最もすぐれた散文作家です。
周作人は中国の近代文学史において、卓越した散文作家として記憶されてはいるが、創作活動を始めた比較的早い段階に、新体詩の創作に力を入れた時期がありました。そしてある時期のある種の感触、心境の記録として、旧体詩の漢詩も数多く作りました。今日は主にその新旧の詩作を取り上げます。
近代中国における新体詩、「白話詩」とも呼ばれますが、つまり口語による散文詩は、十九世紀末欧米の文芸思潮と清末以来の中国の思想解放運動とが交錯し、呼応しあった産物です。一九一九年二月『新青年』第六巻第二号に、周作人は新体詩「小川」*1(原題は小河)を発表しました。発表当時から、これは「新体詩の初めての傑作」と評価され、後世の文学史家もほぼ同じ見解を示しています。この散文詩が公刊された当初、作品の冒頭には、短い端書きがあります。それを紹介しましょう。
この詩はいったいどういうスタイルのものか、とある人に聞かれましたが、私自身でさえ答えられなかった。フランスのボードレールが提唱したところの散文詩と幾分似ているように思います。ただし彼は散文形式を用いるのですが、私の場合、行を分けて書きました。
草創期の新体詩とヨーロッパの象徴派詩人との関わりをほのめかしている言葉です。同じ年(1919)の七月に雑誌『少年中国』が創刊されました。海外の詩歌の翻訳、紹介に相当力を入れました。アメリカのホイットマン、イギリスのブレイク、ロシアのプーシキン、インドのタゴールを次々に取り上げたのです。こうした広い視野をもつとともに、この雑誌の一つの特色として、フランス詩歌の歴史と現状の分析、評価にスポットをあてたことは注目に値する。特に象徴派詩人のマラルメ、ボードレール、ヴェルレーヌ、ランボーなどについて系統的な論述が展開されています。
一方、二十世紀初頭のアメリカでは、詩歌の分野において、いわゆる「アメリカ・ルネッサンス」と呼ばれる新詩運動が起こりました。ちょうどその頃にアメリカのコネール大学に留学していた胡適はこの文芸の「新潮」に敏感に反応したのです。後に胡適は「文学改良」と「白話文学」の旗手として中国の近代文化史に名を残すことになる。欧米の文芸新潮に接して受けた示唆といえば、まず「形式の変革」でした。つまり「文学革命」はまず「文体の革命」でなければならない。文学の改良を国語の改造と結びつけなければならない。胡適の主張は「国語的文学、文学的国語」の一言に尽きると思います。
新しい口語体の詩歌には、刹那の感触を歌い上げる、洗練されている短い「小詩」があります。この「小詩」も新体詩の一種として外国文芸の影響を受けて栄えたのです。その影響とは主として日本の俳句、短歌それにインド詩人タゴールの創作から由来しています。周作人は「小詩」の発生についてこう語っています。
中国の新詩は各方面においてヨーロッパの影響を受けましたが、ただ小詩だけは一つの例外のようです。なにしろその起源は東洋にあり、その中にさらに二つの流れがあります。それはすなわちインドと日本です。
俳句の発見については、二十世紀の初め、フランスやイギリスでの俳句紹介・伝播に刺激されたということも考えられないわけでもないが、情報源はやはり直接に日本からだったと考えていいと思います。そして俳諧の紹介及び小詩の提唱について大きな役割を果たしたのは周作人でした。小林一茶の句作や小泉八雲の俳諧論、また与謝野晶子や石川啄木の短歌に注目して周作人は一九二0年代の初頭から、日本の小詩――俳句・短歌を紹介する文章を次々に発表し、理論と実作の両面から小詩の創作を指導しました。こうした活動が彼自身の新詩にも反映されていることはいうまでもない。
作家として周作人生涯の創作、つまりその思想・学問・文章を考える場合は、「知」「情」「意」の三つの要素があります。「知」とは知識、哲理の領域に属するもの、情とは情趣、美意識、そして意とは人生観、価値観を意味するように思われます。周作人によれば、知は主として西洋から受け取り、情は大抵日本から吸収していたが、意の方面に至っては、完全に中国的なもので、外来の感化を受けるがため変わったことはかつてないという。彼の思想と文学の全体を言う場合、妥当な見方ではあるが、創作の個々の時期、あるいは個々のテキストの製作にあたっては、かなり事情が違う。一九二0年代前半、周作人は集中して新体詩を作っていました。これはちょうど武者小路実篤の「新しき村」に惹かれ、白樺派作家との交友を深めた時期と重なります。実際彼が日本語で書いた詩とエッセイのいくつかを白樺派の雑誌『生長する星の群』に寄せたのです。日本語で作品を発表したのは、この時期だけでした。その実例を見てみよう。「過ぎ去った生命」「蠅」などは一九二一年四月に書かれたもので、雑誌創刊第一年の九月号に、「子供」という詩は一九二一年五月と八月の作で、雑誌の十月号に載っていました。*2
白樺派の文学は大正デモクラシーにはぐくまれた産物です。ヒューマニズム、人類愛、コスモポリタニズムなどを標榜し、欧化された口語体はその文体の特徴です。これは「バラ色の夢」を持っていた頃の周作人が追い求めたものでもありました。読んでみると分かりますように、作品の思想も、言葉使いも、雰囲気まで悉く白樺的色彩に彩られています。「子供への祈り」という詩は有島武郎の「小さき者へ」を彷彿させて、その作品の一節ではないか、という錯覚さえ覚える。これは周作人の作品にしてはかなり異色のものです。このような作品が何故創られたのだろうか。テキストは作者の手から一旦離れると、ある種の独立の性格を持ちます。しかし、テキストは製作された当時の状況に制約されているのも事実です。サイードの表現で言えば、すなわち作者を取り囲む「世界内現実」のことではないかと思います。僕は専門用語が苦手で、訳の分からない術語やタームなどをなるべく避けたいのですが、私理解では、この「世界内現実」を言い換えると、「歴史と現実とが交錯し、共存している」状況のことです。歴史研究の立場から言えば、「世界内現実」はいわば歴史のもっとも基本的要素――個人の体験です。後ほど比較研究の方法論を検討する際、またこの問題を議論しましょう。
二 金素雲(1908-81)の翻訳について まず一言断っておきたいのですが、私はハングルが読めません。これから論ずる韓国詩の原作についての知識はすべて林容澤(イム・ヨンテク)氏の『金素雲――朝鮮詩集の世界』(中公新書)に依拠しています。周知のように、金素雲は朝鮮民衆の唄、すぐれた近代詩を見事な日本語に訳したことで広く知られている翻訳家、随筆家です。数年前に、あるシンポジウムに参加し、東アジアの随筆伝統という文脈で金素雲を論じたことがありますが、その自伝的エッセイである『天の涯に生くるとも』は実にインパクトがあって、人間洞察の鋭い作家です。ただ今日は詩の翻訳のことのみを取り上げます。
まず訳詩の一つを掲げよう。「野菊」という作品を原作、金の訳詩、さらに金自身による逐語訳の順で並べます。*3
林さんが指摘したように、口語体の自由律である原詩は五・七調の典雅な文語に置き換えられ、明治か大正始め頃の日本の抒情詩を思わせます。金素雲が「韓国の上田敏」と呼ばれる故もここにあると思います。林さんの研究によれば、これは金素雲の訳詩の全体に共通して認められる特徴で、一種の「創作的翻訳」です。場合によっては原作の改変も試みたのです。そこで当然ながらこれは原作に対する僭越、越権なのか、それとも二つの言語の「落差」を埋め、作品の芸術的完成度を高めた名訳なのか、という議論が起こります。私の関心は訳者の金素雲は何故このような方法、戦略を取ったのかというところにあります。それは作品製作当時の作者の帰属意識に絡んでいるように思われます。金素雲自身の言葉を引かせて頂きましょう。
交錯する十字路の中間に位置しながら、私は祖国と日本を半々に生きて来た。いうなれば冷・温浴を交互に反復する西式健康法のように、それが私の人生を培い、焦点深度を深めてくれた。簿記に「複式」があり、トンボの目玉を「複眼」というが、さしずめ私の人生もこれに類するのであろうか。(「近く遙かな国から)
まさに二つの文化の狭間を生きた人間の告白です。朝鮮民衆の哀楽を日本人に分かってもらうためには、まず日本語の書き手として、自分の技量を認めてもらう以外に道はない。金素雲はそう思ったのだろうか。この際、「自分は何者か」という問いは無意味かもしれない。日本語で書くと、ごく自然に日本語で生きた人生のすべてが作品ににじみ出るわけです。いわば帰属意識が揺らいで、流動している。一種の曖昧さはかえって訳詩の成功をもたらしたのではないかと思います。
三 いささかの理論的思索 以上の実例を踏まえながら、これからの比較文学研究にとって示唆となる視点を整理してみたい。
まず、帰属意識の問題。比較文学は複数の国家・民族・言語にまたがる文学現象を追求する学問だから、当然アイデンティティの問題、ナショナリズムの問題、帰属意識などが検討の対象となります。エドワード・W・サイードはエルサレム生まれのパレスティナ人で、後にアメリカで文芸批評家となる。エルサレムとカイロの二つの町で少年期を過ごしました。家族はパレスティナ系でありながら、イギリス国教徒で、後にアメリカに移住します。サイードは自意識についてこう語っています。
複数の文化の狭間にいる感覚が私にはきわめて強くなってきている。この感覚は自分の生涯を貫いている唯一の、かつもっとも強烈な流れであると、言ってよかろう。つまり私はつねに事物の中に入ったり出たりして特定の一つのものに長く帰属することが現実にはけっしてできない人間なのである。
この帰属意識については、実は個人によって千差万別であります。最近の例ですが、リービ英雄のように、アメリカ人で台北と香港に少年時代を過ごし、来日したあと日本語の作家として活躍する。そして日本語で中国大陸を題材に小説を書き、話題をよんだ。このようなケースは、昔から英語圏、フランス語圏においてありましたし、これからのグローバリゼーションの進行、移民・旅行・貿易などの人間の移動の多様化によってますます増えるでしょう。こうした作家の作品を比較文学の対象として扱う場合、国籍、民族、言語などといった、従来の概念の枠組みでは確かに無理がある。もちろん現状ではケースバイケースで、一概に既存のパラダイムを否定する訳にはいかないでしょう。森鴎外の作品を読む時、明治ナショナリズムという視角は依然として有効性をもっていると思います。ただサイードの告白が示しているように、アイデンティティ、帰属意識の漂流と言いましょうか、その曖昧さはこれからいっそうクローズアップされてくるだろう。どう対処すればよいのか、私が思うには、概念枠ではなく、個人体験の次元でそれを考察し、把握していくほかはないと思います。
次に個人体験の考察、及び言語の重要性について話しましょう。
広い意味でいうと、比較文学研究は歴史研究の範疇に入っています。歴史とは人間活動の記録です。それをさまざまな事件の堆積と見ても良いのですが、しかし歴史のもっとも基本的要素は個人の体験です。無数にある個人の体験です。有り体に言えば、日本の近代史には、明治維新という事件は存在しない。かつてあったのはさまざまな人間――公家、大名、下層の武士、外国の使臣、浪人、芸者、名もない草野の民の体験です。たとえばアーネスト・サトウが記録したような個人の経歴でした。それらの体験は記録され、検証されてわれわれの歴史知識として、常識として残る場合もあるし、神話として語られる場合もある。文学のテキストはまぎれもなくこうした体験に参与し、組み込まれ、個人体験の一部となっています。だからサイードが「テキストは世界内的なものであり、テキストはある程度は事件である」と言ったのはこういう意味なのです。そのテキストを作者を取り囲む「個人体験」の具体性と関連づけて考察し、「世界内現実」に還元させること、その両者の間の回路を突き止めるのが比較文学研究の作業であり、われわれの批評行為そのものであると思います。当たり前かもしれないが、ここで言語の重要性を強調したい。
最近『ある学問の死』という書物の書評を読みました。(東大の「比較文学研究」第85号に掲載)著者のスピヴァクによれば、アメリカにおいて、比較文学という一つの学問が死にゆくのを予感している。何故かというと、いまのアメリカでは、「世界文学」の名のもとに、英語に訳された各地域の文学のアンソロジーが次々に作られているという状況がある。このような事態が進行すれば、一方的に固定的なイメージを生み出しかねない。そして対話が途切れ、文化的越境が不可能になってしまうのではないかという。それはそれで正論ですが、それに世界文学の翻訳、選集をつくるということはアメリカ人の教養を高め、文学知識の増加に貢献していると思うし、この作業と比較文学の死とは何の関係があるのか最初分からなかった。そもそも原文ではなく翻訳のみにたよって比較研究ができるでしょうか。私は保守的かも分からないが、比較文学という学問はこれからどう変わろうが、
研究者が自分の扱う作品を原典で読み解く能力を持たなければならないということは大前提ではないでしょうか。理由は単純です。翻訳ではテキスト生成のプロセスが判らないし、
個人体験に通ずる回路には入れないからです。
最後に、境界線上の創作と文化融合の意味を考えてみたい。
文化の境界線上を彷徨っている作家の創作は大いに文化融合の意味を持っています。周作人の新体詩の話に戻りますが、彼は後に白樺風の日本語の詩を自ら中国語に翻訳し、自分の詩集に入れました。その詩の出来映えはともかく、欧化された中国語はすでに一種の混血言語です。兄の魯迅もそうですが、二人は作家活動を始めた当初から、外国の文芸の紹介、導入に力をいれました。彼らは「翻訳」を国語改造の手段に生かすよう、大声で呼びかけました。魯迅は「直訳」の手法を唱え、新しい内容を輸入すると同時に、新しい表現法を輸入することの意義を力説しました。周作人の「国語改造の意見」はさらに詳しい青写真を示しています。彼が描いた現代国語とは、国民が誰でも理解し、運用でき、あらゆる崇高な思想と繊細な感情を表し、しかも芸術と学問の道具となりうるような、古今東西の要素を合わせ持つ中国語のことです。彼の創作は、――日本語の詩作はその一例ですが――自らの主張を実践したといっていい。
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