2021-04-09

インタビュー 帰国者が語る北朝鮮の記憶 第2-3回 | 一般社団法人 「北朝鮮帰国者」の記憶を記録する会

インタビュー 帰国者が語る北朝鮮の記憶 第2回 | 一般社団法人 「北朝鮮帰国者」の記憶を記録する会



連載「帰国者が語る北朝鮮の記憶」
インタビュー 帰国者が語る北朝鮮の記憶 第2回
2021年1月7日


14歳で帰国船に乗った石川学さん
北朝鮮での30年とは何だったのか?
第2回 帰国前夜
◆「朝鮮は考えているほど良い国じゃないよ」と言った友人

前回お話ししたように、兄が「大村」から韓国に強制送還されることが決まった時期と、姉の北朝鮮へ行きたいという思った時期が重なったため、兄、姉、そして私、兄弟三人での北朝鮮への渡航が決まりました。決まったのは船が出る一週間前。急な出来事でした。

当時14歳だった私は栃木県の朝鮮小中学校に通っていて、クラスの中で帰国をする人は私以外いなかったと記憶しています。しかし、学校全体でみると、後に同じ帰国船に乗ることになる、私より年下の少年一人もちょうど同じ時期に帰国をするようでした。

帰国することを朝鮮学校で伝えたら、「お前、本当に朝鮮に帰るのか? お前ね、北朝鮮はお前が考えているほど良い国じゃないよ」と、同級生が私に言いました。

「地上の楽園」だと大々的に宣言されていましたが、先に北朝鮮へ渡っていた人たちは、向こうでの不自由な生活に耐えられなくなって、日本にいる親族に仕送りしてほしいとしばしば頼んでいました。ですから、「北朝鮮はそんなに良い国じゃない」と私に言った同級生の親戚も、おそらく既に北朝鮮に帰国していたのでしょう。そして、彼は親戚を通じて知った北朝鮮の実情を私に伝えようとしたのです。
◆セイコーの時計10個を餞別にもらう

同じ頃、私たち兄弟の帰国を懸念する人がもう一人いました。当時姉が勤めていた朝鮮新報社の社宅に住んでいた方です。その方の夫は朝鮮新報社の幹部でしたから、北朝鮮の実際の暮らしは、宣伝されている「地上の楽園」ではなくて大変だということをよく知っていたようです。

姉は当時朝鮮新報社の社宅に住んでいましたが、その方と社宅にいた人、皆でセイコーの時計を10個買って私たち兄弟に渡してくれました。北朝鮮への仕送りでは、セイコーの時計、ネッカチーフ、ナイロンの生地と味の素をよく頼まれるみたいで、中でもとりわけセイコーの時計が人気のようでした。なぜなら、向こうでは、セイコーの時計が高く売れ、生活の足しになるからです。

一方、仕送りがある間は良い生活ができていても、それが途絶えた途端に苦しくなり、貧困に陥る人も多いようでした。

では、北朝鮮の暮らしが、宣伝されているような「地上の楽園」ではないと分かっているのに、なぜ周囲の大人たちは私たち兄弟の帰国を止めなかったのかでしょうか? それはやはり、兄と姉の北朝鮮への思いが強かったからなのです。お話したように、私の兄は素行不良で少年院に行き、そして「大村」に収容されていました。兄は、北朝鮮での暮らしは宣伝されるような「楽園」ではないと薄々気づいていたものの、少年院の暮らしよりはマシだろうから、行っても構わないと考えていました。

姉は朝鮮へ行けば大学へ行ける、皆が平等に働き、生活をし、病気になっても無料で治療を受けられると信じていました。だから、そんな二人を見て、周りは止めることができなかったのです。

私はというと、朝鮮学校で受けた教育で北朝鮮は良い所だと思っていたのと、姉が「もし朝鮮へついて来なかったら、誰がお前の面倒を見るんだ?」と私に言っていたこともあって、14歳でしたが、納得した形で付いていくことになりました。


「帰還専用」列車の窓から顔を出す帰国予定の在日。新潟駅に到着した時のカットか。1962年3月、小島晴則さん撮影
◆新潟行きの列車に乗る

帰国することが決まるやいなや、私の姉は荷物をまとめて朝鮮新報社の社宅から出て行きました。私のもう一人の兄も朝鮮新報に勤めていて姉と住んでいましたが、私たち兄弟三人の帰国をきっかけに仕事をやめ、ずっと夢に見ていた音楽の道に進むことにしたんです。後になって、私たちは、帰国せずに芸術団に入ることを選択したこの兄からの仕送りに頼ることになります。

8月のある真夏日、半そでのポロシャツを着た私はスーツケースを提げて、帰国船に乗るために、姉と一緒に東京から新潟へ向かう列車に乗り込みました。むせるような暑い気温の中、空にはひとかけらの雲も見えません。今でもその日の強い陽差しが印象に残っています。

スーツケースには当分の着替え、洗面道具、そして姉の会社の方からもらったセイコーの時計が入っていました。学校で送別会を開いてもらっていた時には、まだ帰国の実感が湧かなかった私も、さすがにこの時には、いよいよ本当に帰国をするんだなと思うようになりました。すっかり「地上の楽園」だと思い込んでいたものですから、少し不安もあったものの、私は列車の中で駅弁を食べながら、これから行く祖国への期待を膨らませました。新潟に着いたのは夕方でした。(続く)

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インタビュー 帰国者が語る北朝鮮の記憶 第3回
2021年1月16日


14歳で帰国船に乗った石川学さん
北朝鮮での30年とは何だったのか?
第3回 8月の暑い新潟でのこと


◆ホテルに缶詰めで待機

貸し切りだったかどうかは覚えていませんが、私と姉は新潟へ向かう列車に乗りました。帰国者たちを載せたその列車には一般客も乗っていましたが、国の旗振る人たちに見送られながら東京駅から発ったのです。私たちの親戚はいなかったのですが、姉の勤めていた朝鮮新報社から何人か見送りに来ていました。そして、真夏の何もかもが溶けてしまうような熱気の中、私と姉を載せた列車は新潟駅に到着しました。

帰国船が出港するまで過ごす予定になっているホテルまで姉と二人で歩きました。ホテルの前には既に人だかりが出来ていました。朝鮮総連の人たちが帰国者一人ひとりに名前と出身地を聞いて名簿に記録していました。

その中で、私は同い年くらいの子と出会いました。彼は別の朝鮮学校から来た子みたいで「お前、外に出たら捕まるぞ」なんて冗談を交わすうちにすっかり友達になりました。きっと子供がこんな冗談を言っていたのは、実際に逃げようとした人たちがいたからなんでしょうね。親戚が先に朝鮮へ帰国し、向こうの事情を既に知っていながら帰国する人や、家族の都合で仕方なくついて来た子どもたちもいました。
◆帰国を嫌がる娘を連れた父親も

私と同じ船に乗る人たちの中で、ひと際目立つケンカをする親子がいました。話に耳をそばだてていると、何やら娘2人は新潟まで父に無理やり連れて来られたようでした。帰国しようとする朝鮮総連の父に対し、日本人である母は反対して娘二人を引き取って離婚したにもかかわらず、父は帰国を嫌がる娘たちを新潟に連れてきてしまったようです。その娘たちは私より少し年上で、新潟から清津(チョンジン)(図)に着いた後も、日本に帰りたいと言いながらすすり泣いていました。それはもう気の毒でしたね。



ホテルから逃げたいという人たちもいる中で、14歳の少年だった私はというと、今から「祖国」に行くんだというワクワクで胸がいっぱいでした。見知らぬ土地に行く「旅行」のような気分で帰国の時を待っていました。

ホテルから外出しようすると朝鮮総連の人たちに止められました。仕方ないので、私たち子供はホテル中にあったプールで仲良くなった子らと遊んでいました。ホテル内にいるのは、皆帰国者たちでしたから、「お前、どこの学校だ?」なんて聞き合ったりしてくうちに打ち解けました。

その時に帰国する人の数はというと、ホテルを丸ごと借り切っても入りきらない大人数でした。そのため私と姉は別館に泊まっていたほどです。
◆出港直前に合流した兄、そして母の姿

忘れもしない1972年8月24日。ホテルで2日間を過ごした後、私は兄、姉と共に、まだ見ぬ祖国を目指して帰国165船へ乗り込みました。これまでお話してきたように、姉は北朝鮮では皆が平等に働いて生活し、何の心配もない「地上の楽園」であると信じていました。そのため、「朝鮮に日本円なんて持って行ってどうする?」と総連の人に言われて、乗船前に持っていた所持金10万円をすべて朝鮮総連に寄付してしまいました。お金なんて無くても幸せに暮らしていけると、本気で信じていたんでしょうね。

私と姉が警察に護送された兄と合流したのは帰国船に乗る直前でした。兄が遠くから警察官に連れられてやってくるのが見えました。父と二番目の兄は見送りに来ましたが、母の姿はまだ見えません。しかし、出発の時間は迫るばかりです。船から“ポーポー”と空気を裂くような汽笛の音があたり一面に響き渡りました。いよいよ出発の時が来たのです。

暑い夏の昼下がりに、帰国船はまるで滑り出るようにゆっくりと動き出しました。その動きに合わせてテープが一斉に切れ、金日成将軍の歌を歌う人々の声、汽笛の音、そして別れを惜しむ人たちの声と、様々な声や響きが交差しました。


新潟港で帰国船を見送る人たち。日の丸を振るのは日本人家族だろうか? それとも日朝協会のメンバーだろうか?      1964年10月、小島晴則さん撮影



ちょうどその時、見送りで埋め尽くされた埠頭の人だかりをかき分け、必死に走ってくる母の姿が見えたのです。いつもきれいに着物を着こなしていた母ですが、その時ばかりはクリーム色の着物姿は少し乱れていました。その姿を見て私は、「ああ、母と会えるのはこれが最後なんだな」と思いました。

母は末っ子である私を特別にかわいがってくれました。お使いの後は、おつりをいつも私にくれましたっけ。最後に私たち兄弟を一目見ようと走ってくる母の姿を見て、私は幼い頃の出来事を思い出し涙が溢れました。兄と姉も泣いていました。「母は日本人だからもう二度と会えないかもしれない」と、私たちは覚悟していました。懸命に走ってくる愛しい母の姿…帰国前に見た最後の光景でした。

翌朝6時*、清津の港が霧の中から少しずつ見えてきました。私は出港後、母の事を想い泣きました。そして海の荒波による船酔いでひどく苦しみ続けました。ようやく清津の港に降り立つことができたのは霧が完全に消えた朝9時でした。やっと休めるという気持ちで下船した私たちを待ち受けていたのは、衝撃の光景でした。(続く)

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