2019-04-17

映画「地の塩」山室軍平 公式サイト



映画「地の塩」山室軍平 公式サイト




予告編



森岡 龍 我妻三輪子 辰巳琢郎 伊嵜充則 水澤紳吾 小柳 心 芹澤興人 兒玉宣勝 髙澤父母道 おかやまはじめ KONTA 堀内正美 渡辺 梓
監督=東條政利

ゼネラルプロデューサー=上野 有 協力プロデューサー=河本 隆 脚本=我妻正義・東條政利 撮影監督=髙間賢治(JSC) 照明=上保正道 録音=中村雅光 美術=小出 憲 装飾=極並浩史 衣裳=手塚 勇・村島恵子 メイク=宇都圭史 編集・CG =伊藤拓也  タイトルロゴ= MalpuDesign 佐野佳子
制作=現代ぷろだくしょん
製作=山室軍平の映画を作る会
企画協力= Breath 配給=アルゴ・ピクチャーズ
2016 /日本/カラー/ DCP / 1 時間47分
© 山室軍平の映画を作る会




時代は明治。欧米から様々な風俗、思想が入り社会は大きく変動していた。
まだ社会福祉という言葉もなかった時代、人を救う事に生涯を捧げた山室軍平。
時に迷いもがきながら、その情熱に生きた軍平と、その同志たちを描いた歴史ドラマ。格差社会と言われ、若者の夢や希望がない社会と言われる昨今の日本に、情熱と普遍的な愛の尊さを伝える作品の登場だ。

主演の山室軍平に『エミアビのはじまりとはじまり」の森岡龍。今年『ろんぐ・ぐっどばい~探偵 古井栗之助~』や『密使と番人』と、主演作が相次いで公開され、「明後日プロデュース Vol.2芝居噺『名人長二』」で初舞台に挑戦するなど、のりにのっている。 武士の娘として生まれ山室軍平の同志であり妻・山室機恵子役に、我妻三輪子(「とと姉ちゃん」「100万円の女たち」)。山室の先輩であり岡山孤児院を創設し三千人もの孤児を救った石井十次役に、子役時代から演技派として名高い伊嵜充則(『八月の狂詩曲』『群青色の、とおり道』)。「八重の桜」にも登場した、同志社大の創設者・新島襄役に辰巳琢郎。他に、『ぼっちゃん』の水澤紳吾、「おんな城主 直虎」の芹澤興人、堀内正美、渡辺梓など実力派が揃った。 監督は『9/10 ジュウブンノキュウ』『カフェ代官山〜それぞれの明日〜』の東條政利。企画段階から関わり、重厚な群像劇を完成させた。










明治5年に岡山の貧しい農家に生まれた軍平は、母の愛によって育った。その母の願いは無事に軍平が無事に育って人の役に立つ人となって欲しいということ。だが貧しさから9歳の時に質屋に養子に出され、質屋を継ぎたくない軍平は、15歳の時に義父の家を飛び出してしまう。夢を追い求めて、東京で一人で生きることになった軍平は、印刷工として働きながら欧米から入って来た新しい学問を学ぶ。そして、キリスト教と出会い、これこそ人を救うためのものだと確信し、新島襄を慕い同志社に進学する。  貧しさの中、夢は常に追い続けた。その激しい情熱により、多くの人を惹きつけた山室軍平を、友人たちが支えた。そのお陰もあり、迷いや苦難を乗り越え、自分の道に向かって進み続けた。そして、救世軍に入り、苦しむ人たちを救おうと戦いが始まるのだった…。
「地の塩」について

この映画のタイトルは「地の塩 山室軍平」である。「地の塩」はキリスト教の聖書の中にある言葉だ。映画のタイトルは色々と悩んだ。そして、キリスト教を知らない人たちにはあまりなじみのないこの「地の塩」をタイトルにすることにした。 「地」とは「天と地」の「地」、私たちの生きている世界のことだ。 塩は白い。だが、塩にとって大切なのはその白さより塩辛さだ。人は、見た目よりも、中身が大切だということだ。人の見た目とはどういうことでしょうか。容貌はもちろんそうですが、男か女か、若いか年取っているか、金持ちか貧乏か、見た目で様々なことを人は感じる。そういったもの一切を含めて、それらよりも、その人の中身つまり精神が大事ということだ。また、塩は大根など他の食べ物に入ることによって役に立つ。野菜で漬物を作ったり、料理の時に調味料として使ったり、他の食べ物に入っていくことで塩は役立つ。同じように、人は周りの人々の中に入ることで初めて役に立つ。 聖書では「あなたがたは地の塩である」と書かれている。イエスが弟子たちに言った言葉だ。地の塩であろうとすることは、見かけでだからはなく自分の精神を大切にし、社会の中に入って役に立つような存在であろうとすることだ。 人のために尽くそうと思い、社会に入って自分のできることを精一杯頑張った山室軍平の生き様、「地の塩」はいい言葉だと思う。山室軍平の生き方をこの映画で見ていただければ、「地の塩」という言葉に例え馴染みがなかっととしても、この言葉で彼の生き様を感じていただけると思う。

母の愛に支えられて

山室軍平は人に役立つ人になりたいと思い、生涯をその思いに捧げた。
山室軍平は多くの愛に支えられて生きたが、その中で、最も大きな心の支えの一つとなったのは母の愛であった。母の愛は、軍平の思いを生涯支え続けた。
山室家は長男の善太郎は長い病気にかかり、そのため田畑を売り、貧しくなっていた。軍平はその八番目の末っ子として生まれた。母は、貧しさゆえに満足に育てられるか心配した。頼るもののない母は神様に祈った。 「神様。どうかこの赤ん坊が無事に育ちますように。無事に育って大人になって、人様にご迷惑をかけず、ちいとでもええことをするものになりますように」
母はその願いのために、卵を一切食べないことを神様と約束した。山陽山陰の背骨に近い山間にあった村は、海の魚などとうてい来るはずもなく、ご馳走といえば、川魚と野菜を除けば鶏の卵くらいのものだった。
軍平は小さい頃から、自分のために母が卵を食べないのを見て育った。しかし、貧しさのため、軍平は9歳のとき、質屋の伯父のところに養子に出された。軍平は、学校にも行かせてもらい、勉学に励むが、15歳のとき、質屋を継がずにもっと勉強がしたいと家出をして東京に行く。
一人で生きて行く決心をした軍平は印刷工として働きながら勉強をする。義父には縁を切られ、孤独で寂しかっただろう。まだ15歳の少年だ。やがて、キリスト教と出会い、新島襄を知り同志社に行くこととなった軍平は、先輩について岡山の高梁に伝道に行くこととなる。その時に本郷村の父母のもとに行き、本当に久しぶりに家族と会った。九年ぶりに会った母は変わらず卵を食べていなかった。母は、軍平がいない九年間もずっと、息子のことを思い続け卵を食べずにいたのだった。子供の頃は母に愛されるなんてことはあたり前に感じていたと思う。私もそうだった。私も親と離れて、親のありがたみを感じるようになった。ずっと一人で生きようとした軍平。母の愛が身に沁みただろう。
「ちいとでもええことをするものになりますように」
この母の願いも、強く心に響いただろう。
軍平は母の願いの通り、人の幸せのために生きようとする。軍平はやがて救世軍に入り、その活躍が全国に知られることとなる。軍平は故郷に帰り、「もう安心して卵を食べてください。栄養のあるものを食べて長生きして私の行く末を見守ってください」と母に言った。しかし、母は三十年間、死ぬまで食べず生涯を閉じた。



山室軍平

山室軍平は1872年(明治5年)、岡山県阿哲郡本郷村(現在の新見市)の貧しい農家の三男として生まれる。体の弱かった息子を心配した母は、無事に成人しますように、人様に迷惑をかけず少しでも人様の役に立つものになりますようにと祈り、好物である卵を生涯食べないことを誓った。母の愛の中、軍平は育つが、9歳の時、貧しさのためは親戚の質屋に養子に出される。だが15歳の時に、もっと勉強をしたいという思いから、家出をして、一人東京に出る。

義父からは縁を切られ、一人で生きることとなった軍平は、活版工として働きながら、欧米から入って来た新しい学問を学ぶ。ある日、キリスト教が精神の世界で人を救うと知り、新島襄を慕い、京都にある同志社に入学。在学中に出会った岡山孤児院の石井十次に強い影響を受け、濃尾地震での孤児の救済など熱心に関わる。新島襄の死後、近代科学の発展の影響がキリスト教にも及ぶ。聖書を客観的に検討しようとする自由主義神学の影響を同志社は受け、軍平は自分にとってキリスト教について悩みを抱え、学問の神学よりも人を救うキリスト教を実践しようと、1894年(明治27年)に同志社を去る。

岡山の高梁で伝道活動や、石井十次の孤児院で働きながら自分の道について考える軍平。その頃、イギリスから救世軍が日本に来て活動を始めた。信仰による救いの前に、実生活を救おうとする救世軍は、まさに軍平の目指す理想であった。救世軍に入隊した軍平は水を得た魚のように、歴史的な活動を始める。
日本人最初の士官(伝道者)となり、わかりやすい例えで聖書の教えを書いた『平民の福音』を刊行。キリスト教伝道者として、大衆に分かりやすい福音宣教に情熱を傾ける。
まだ社会福祉という言葉のなかった時代、苦しむ人がいたらまず手を差し伸べて行動に移す軍平の社会事業は多岐に渡った。貧しさ故に親に遊郭に売られた少女たちを救い出そうとする娼妓の自由廃業運動をはじめとして、職がない人たちのための労働紹介所の設置、歳末慈善鍋(社会鍋)の開始、児童虐待防止運動の開始、結核療養、婦人・児童保護、貧困者医療なども携わり、また救世軍ブース記念病院、救世軍結核療養所を開設した。
その後も、1924年(大正13年)、勲六等瑞宝章を受賞。1926年(大正15年)には、救世軍日本司令官となる。1940年(昭和15年)、急性肺炎のため死去。
山室 機恵子

1874年(明治7年)、岩手県花巻の川口村の佐藤家に生まれる。佐藤家は南部藩に代々仕えた家柄で、生家の家風は「世のため身を捨てて尽くす」であった。機恵子はこの使命感を持って、18歳で上京し、明治女学校に進み、一番町協会で植村正久より洗礼を受けキリスト者となった。卒業後、矯風会の活動に参加、救世軍の外国人たちに日本の行儀作法を教えることがきっかけで山室軍平と知り合う。多くの縁談を断り、「山室となら世のために尽くすという信念を実現できる」と決心し、1899年6月結婚。 8人の子を生み育てながら、貧民救済・廃娼運動・東北凶作地子女救済・結核療養所設立などの先駆的社会事業のために尽くした。1916年(大正5年)、結核療養所設立の募金活動の中で倒れ、「私が救世軍に投じた精神は、武士道をもってキリスト教を受け入れ、これをもって世に尽くすことにありました。お金や地位を求める生活を送らなかったことを満足に思っています。幸福はただ十字架の傍にあります」と遺言して帰天した。
吉田清太郎

1863年松山城下玉川町に生まれ,12才のとき吉田家の養子となる。近藤南洋の塾に通い,松山中学校に学ぶ。その間,漢文の旧約聖書と『天路溯源』を読む。のち,同志社に遊学。在学中明治22年貧困のゆえ勉学を続けかねていた山室軍平に会い,彼の非凡さを見抜いて授業料生活費を代わって支払い,自らは木の実や死猫を食べたという逸話は有名。松山では松山女学校の経営危機を再三にわたって救い,また,松山監獄に囚人と寝起きして神の愛を説き、松山での廃娼運動を行う。上京後,千駄木教会の牧師となり、救世軍と一兵士として、生涯を伝道生活に捧げる。1950年1月22日死去
石井十次

1865年に高鍋藩の藩士石井萬吉の長男として、現在の宮崎県高鍋町に生まれる。16歳で内埜品子と結婚。1882年17歳の時に、岡山に移住し、岡山県甲種医学校(現 岡山大学医学部)に入学。1884年、岡山キリスト教会牧師の金森通倫から洗礼を受ける。金森は後に山室が同志社に入学した時の同志社の校長となる人物であった。1887年、夫に先立たれた女の男児を1人預かったのをきっかけに、孤児救済事業を始める。これをきっかけに岡山孤児院を創設し、のべ3000人もの孤児を救った。  
1914年1月30日、初孫の知らせを聞いた十次は、その日に持病が悪化し、志なかばにして倒れる。48歳であった。
新島襄

天保14年(1843年)、上州安中藩の江戸藩邸で生まれる。友人から借りて読んだアメリカ合衆国についての漢文の本を読んで、大統領選挙、授業料無料の公立学校、救貧院などを知って脳みそが頭からとろけ出そうになるほど驚く。
「ああ、日本の将軍よ、なぜあなたは我々を犬や豚のように抑圧するのか。我々は日本の人民だ。仮にも我々を支配するのならば、あなたは我々を我が子のように愛さなくてはならない」
そして鎖国中の江戸時代に命がけで、函館から上海行きのアメリカ船に乗り込むことに成功し、アメリカに密入国する。アメリカ入国後は支援を得て、大学で学び日本人最初の学士となる。明治維新後、日本に戻り、同志社を設立し、一国の良心となる人を育成することに生涯を捧げる。明治23年(1890年)没。




森岡龍山室軍平

1988年生まれ、東京都出身。『茶の味』(04/石井克人監督)で映画デビュー。以降、『グミ・チョコレート・パイン』(07/ケラリーノ・サンドロヴィッチ監督)、『ハッピーフライト』(08/矢口史靖監督)、『色即ぜねれいしょん』(09/田口トモロヲ監督)、『あぜ道のダンディ』(11/石井裕也監督)、『舟を編む』(13/石井裕也監督)、『イニシエーション・ラブ』(15/堤幸彦監督)、『エミアビのはじまりとはじまり』(16/渡辺謙作監督)などに出演。2017年は本作の他、『ろんぐ・ぐっどばい〜探偵 古井栗之助〜』(いまおかしんじ監督)、『密使と番人』(三宅唱監督)と主演作が続く。また、明後日プロデュースVol.2 芝居噺「名人長二」で初舞台を踏むなど、活躍の場を広げている。


我妻三輪子山室機恵子

1991年生まれ、東京都出身。ファッション雑誌「ニコラ」の第6回モデルオーディションでグランプリを受賞。以降モデルとしてだけでなく、映画、ドラマ、舞台、CMなど女優として幅広く活躍している。主な出演作品に『さよなら歌舞伎町』(15/廣木隆一監督)、『ヒロイン失格』(15/英勉監督)、NHK『とと姉ちゃん』(16)、TX『銀と金』(17)、TX『100万円の女たち』(17)などがある。また、三弥(みや)名義で作詞家としても活躍している。


辰巳琢郎新島襄

1958年生まれ。大阪市出身。京都大学在学中に『劇団そとばこまち』を主宰し、学生演劇ブームの立役者となる。卒業と同時に『ロマンス』(84/NHK)にてヒロインの相手役に抜擢され、全国区デビュー。 以降、主な映画出演作品に『橋のない川』(92/東陽一監督)、『ゴジラVSデストロイヤ』(95/大河原孝夫監督)、『レディ・ジョーカー』(04/平山秀幸監督)、『龍三と七人の子分たち』(15/北野武監督)、『S -最後の警官- 奪還 RECOVERY OF OUR FUTURE』(15/平野俊一監督)などがある。 食通、ワイン通としても知られ、知性・品格・遊び心の三拍子揃った俳優として様々なジャンルで活躍中。


伊嵜充則石井十次

1977年生まれ、東京都出身。10歳のときに『親子ジグザグ』(87/TBS)にて俳優デビューし、翌年には『木村家の人びと(88/滝田洋二郎監督)にて映画デビュー。『夢 〜Dreams〜』(90)、『八月の狂詩曲』(91)と、黒澤明監督作品に立て続けに出演し、世間の注目を集める。以降、『出口のない海』(06)、『夕凪の街 桜の国石川旭』(07)、『ツレがうつになりまして。』(11)など、佐々部清監督作品に多数出演。今年の公開映画作品に、主演『牧水〜あくがれのみなかみ〜』(17/櫻井顕監督)、『TAP THE LAST SHOW』(17/水谷豊監督)がある。


水澤紳吾吉田清太郎

1976年生まれ、宮城県出身。ヒットシリーズになった入江悠監督作品『SR サイタマノラッパー』(09-12)、テレビ東京「SRサイタマノラッパー〜マイクの細道〜」にレギュラー出演。『ぼっちゃん』(13/大森立嗣監督)で日本プロフェッショナル大賞新進男優賞を受賞。主な出演作品に『『まほろ駅前狂騒曲』(14/大森立嗣監督)、『怒り』(16/李相日監督)、『闇金ウシジマくんPart3』(16/山口雅俊監督)、『ろんぐ・ぐっどばい〜探偵古井栗之助〜』(17/いまおかしんじ監督)など。公開待機作に『幼な子われらに生まれ』(17/三島有紀子監督)、『ミスター・ロン』(17/SABU監督)、『羊の木』(18/吉田大八監督)がある。


小柳心矢吹幸太郎

俳優・作家。1987年、東京都生まれ。TVドラマ『ごくせん 第3シリーズ』(日本テレビ)で俳優デビュー。『ヒストリーボーイズ』(2014年)、『マーキュリー・ファー』(2015年)、『銀河英雄伝説 星々の軌跡』(2015年)、つかこうへい七回忌追悼特別公演『リング・リング・リング2016』、『Take me out』(2016年)など多くの舞台で活躍。さらに小柳友と兄弟ユニット『Gus4』を結成。Gus4プロデュース公演『アサヤケズブロッカ』(2015年)と『イツカテレカ』(2016年)では役者のみならず脚本も担当。『相棒season14』(EX)、『怪盗山猫』(NTV)などの映像作品へも多数出演。


芹澤興人高城丑五郎

1980年生まれ、静岡県出身。『稀人』(04/清水崇監督)にて映画デビュー。以降多くの作品でその存在感を発揮し、近年は出演作が絶えない。『最低』(09/今泉力哉監督)にて第10回AMA NEW WAVEコンペティションベスト男優賞受賞。『死神ターニャ』(13/塩出大志監督)にて福岡インディペンデント映画祭2014コンペティション俳優賞受賞。その他の主な出演作品に『ソーローなんてくだらない』(11/吉田浩太監督)、『バンクーバーの朝日』 (14/石井裕也監督)、『福福荘の福ちゃん』(14/藤田容介監督)、『リップヴァンウィンクルの花嫁』(16/岩井俊二監督)などがある。


兒玉宣勝政吉

1981年生まれ、京都府出身。2005年柳町光男監督の『カミュなんて知らない』に出演し頭角を現す。主な映画出演作に『9/10 ジュウブンノキュウ』(06/東條政利監督)、『引き出しの中のラブレター』(09/三城真一監督)、『ボックス!』(10/李闘士男監督)、『カイジ2 人生奪回ゲーム』(11/佐藤東弥監督)、『鍵泥棒のメソッド』(12/内田けんじ監督)など。脚本家の顔も持ち、映画『スラッカーズ』(09/村松正浩監督)やテレビドラマNHK「PTAグランパ!」などを手がけている。


おかやまはじめ山室佐八(軍平の父)

1964年生まれ、宮城県出身。劇団ラッパ屋に入団後、1987年『星空のチャーリーパーカー』より、ほぼ全ての公演に出演。映画、ドラマ、舞台など俳優としてだけでなく、CM、ナレーション、バラエティなど、その活躍は多岐に渡る。主な出演作品に『ALWAYS三丁目の夕日』(05/山﨑貴監督)、『プリンセストヨトミ』(11/鈴木雅之監督)、『泣き虫ピエロの結婚式』(16/御法川修監督)などがある。


KONTA杉本弥太郎(軍平の叔父)

BARBEE BOYSのヴォーカル兼サックスとしてデビュー。解散後、ミュージシャン、パフォーマー、俳優、ナレーター、声優など、多彩な活動を行う。主な出演作品に『・ふ・た・り・ぼ・っ・ち・』(88/榎戸耕史監督)『レディ!レディREADY!LADY』(89/太田圭監督)、『乱死怒町より愛を吐いて』(15/島田角栄監督)などがある。


堀内正美楼主

1950年生まれ、東京都出身。大学在学中、清水邦夫氏に劇作を、蛭川幸雄氏に演出を学ぶ。『わが愛』(73/TBS)にて俳優デビュー。その後、ウルトラシリーズなど実相寺昭雄監督作品に多数出演し、個性的な役柄を演じる。最近ではNHK朝ドラ「べっぴんさん」などテレビ、映画、ラジオ、CMなどで活躍している。主な出演作品に『行き止まりの挽歌 ブレイクアウト』(88/村川透監督)、『乱歩地獄「鏡地獄」』(05/実相寺昭雄監督)、『リップ・ヴァン・ウインクルの花嫁』(16/岩井俊二監督)などがある。


渡辺梓山室登毛(軍平の母)

1969年生まれ、静岡県出身。高校卒業後、仲代達矢が主宰する俳優養成所「無名塾」に入団。その後『和っこの金メダル』(89/NHK)のヒロインに抜擢され、世間から注目を浴びる。現在は舞台、ドラマを中心に活躍。主なドラマ出演作品に『逢いたい時にあなたはいない…』(91/フジテレビ)、『いのちの器』(91/東海テレビ)など。主な映画出演作品に『どら平太』(00/市川崑監督)、『望郷の鐘 -満豪開拓団の落日-」(15/山田火砂子監督)などがある。

監督:東條政利

1968年生まれ、新潟県長岡市出身。同志社大学社会学科卒業。KYOTO映画塾ディレクターコースを卒業後、1996年『ピーター・グリナウェイの枕草子』(伊・仏・蘭合作、ピーター・グリーナウェイ監督)に参加。その後、助監督として数々の作品に携わる。2006年『9/10 ジュウブンノキュウ』で監督デビュー。他の監督作品に『カフェ代官山〜それぞれの明日〜』(09)など。

プロデューサー:上野有

東京都出身。株式会社現代ぷろだくしょん所属。「大地の詩 留岡幸助物語」、「望郷の鐘 満蒙開拓団の落日」で製作助手を務める。本作が初プロデュース作品。

製作:現代ぷろだくしょん

1951年、山田典吾、山村聰、森雅之、夏川静江らを中心に俳優集団を旗揚げし、現代ぷろだくしょんの基礎となる。以後、社会のためになる映画を作り続ける。

主な作品: 「蟹工船」(監督:山村聰 1953年)、「真昼の暗黒」(脚本:橋本忍 監督:今井正 1956年)
「はだしのゲン」(監督:山田典吾 1976年)、「春男の翔んだ空」(監督:山田典吾 1978年)
「茗荷村見聞録」(監督:山田典吾 1979年)、「裸の大将放浪記 ~山下清物語~」(監督:山田典吾 1981年)
「死線を越えて 賀川豊彦物語」(監督:山田典吾 1988年)
「石井のおとうさんありがとう」(監督:山田火砂子 2004年)
「筆子・その愛 -天使のピアノ-」(監督:山田火砂子 2007年)
「大地の詩 -留岡幸助物語-」(監督:山田火砂子 2011年)
「望郷の鐘」(監督:山田火砂子 2014年)、「母 小林多喜二の母の物語」(監督:山田火砂子 2017年)



『地の塩 山室軍平』森岡龍(主演)×東條政利(監督)対談インタビュー
―山室軍平という人物の生涯にスポットを当てた映画はどのように生まれたのでしょうか?

東條:この映画を制作した現代ぷろだくしょんは、孤児院を作って3000人もの孤児を救った石井十次、家庭学校を作った留岡幸助といった社会福祉の先駆者たちの映画を作ってきました。これらの方々に続き、山室軍平も映画化しようということになったんです。それで、山室軍平について勉強していく中で、彼には様々な功績があるのですが、そういった彼の功績を描くよりも、人々を救いたいという熱い情熱や人間に魅力を感じました。だから、山室軍平のそういった所を描いた映画になりました。
―森岡さんは実在の人を演じるのが初めてだったそうですね。

森岡:史実から逸れすぎず、映画としての面白さをどこまで優先するか、本や資料を読んで勉強しながら、自分の中で山室軍平さんという人と対話をしつつ役に向き合っていきました。果たして本当に彼みたいにストイックに生きられるんだろうか、本当にあんな風に人を救えるのかといったように、自分の中で育てた山室軍平と格闘しながらの作業でもありましたね。ただ、僕も映画を作ることや芝居をすることで夢を与えたい、何かを伝えたいという思いがあるので、そこにはシンパシーを覚えました。何かを信じる信仰心や情熱みたいなところで、自分の中にあるものと軍平さんの中にあるものがぴったり重なった感じがあったんです。


東條:山室軍平は不器用で、人づき合いも下手で、ちょっと変わった感じの人(笑)じゃないかと思ったんです。思い立ったらすぐ行動するタイプなんですけど、その情熱の強さゆえに、在籍していた同志社大学や働いていた印刷工場でも浮いていたんじゃないかなと。そんな彼ですが、彼のそばには彼を支える人が必ずいます。彼の思いや情熱というのは、支えてくれる友達や理解者がいてこそ実現されたんです。自分の情熱にまっすぐ向かっていく不器用な人間なんですが、そこに強く人を惹きつけるところがあるんだなと思いました。

森岡:最初はウイットに富んだ面白い人物にしようかとも思ったんですけどそれは違うなと。不器用ゆえにある種のコミカルさをともなった、突っ走りすぎて周りが「おいおい!」と突っ込むような、だけどもなぜかみんなが放っておけない真っ直ぐさを持って演じようと思いました。軍平さんはお酒を飲まない人だったから撮影中は僕もお酒断ちをしたり(笑)。

東條:地方の撮影では、終わった後にみんなと飲んだりした日もあったんですけど、森岡くんは一回も来なかったですね。



森岡:撮影中はお酒そのものも断っていたし、他人ともそんなに話したくなかったし、携帯電話もほとんど見ていなくて。だからすごい変わったヤツだと思われていたかも(笑)。俗世間みたいなものからできるだけ遠ざかって心をキレイにキレイに保って、美しくあろうとしていたというか。欲みたいなものをなるべく排除していくことを意識してましたね。

東條:そのせいか、撮影前からストイックな印象があった。森岡君とはこの作品で初めて出会ったので、もともとそういう人なのかと思ってました(笑)。

森岡:英語のセリフや聖書の文章を読み上げるところも多くて、あまり余裕がなかったんですけど、それが軍平さんの真っ直ぐさにつながっていけばいいなと思っていました。撮影でも殴られたり、蹴られたり、土下座したり、体を張って少女をかばったりしましたけど、どんなに大変な目に遭っても信念をぶらさずにたくましく回復していくんですよね。山室軍平の周りにいる人たちも様々な人間性を見せていて、彼らの中にいるから軍平が存在できるような映画になっていると思います。

東條:山室軍平の伝記を読むと、印刷工時代、友達と一緒に酒に飲みに行ったとか、すき焼き屋でお酒を飲まされて翌日吐きながら仕事をしたというエピソードも出てくるんですよ。ただ、友達の具体像はなかったので、山室軍平とつき合うんだったらどんなタイプの男かな、どういう人だったら山室軍平と友達づき合いができるのかなと考えながら、キャラクターを作っていきました。逆に水澤紳吾さんの演じた同志社の先輩の吉田清太郎さんなんかは実在の方ですね。彼は山室軍平以上に変わった人だったかもしれません。


森岡:同志社の学生時代に知り合って、軍平さんのために学費を出してくれたんですよね。

東條:彼が自分の学費を軍平に与えてしまって、お金がなくて、死んだ猫を拾って鍋を作って食べるエピソードも実話なんですよ。

森岡:あれは本当に美味かった!(注:映画で使用した鍋は猫の肉ではありません)


東條:実際、吉田清太郎は七日間食べずにいたんですが、水澤君も撮影前の3日間は何も食べずにいたと聞きました。本人ではなく、石井十次役の伊嵜君からですが。

森岡:目に見えて痩せてましたもんね。軍平さんを取り巻く人たちというと、我妻三輪子さんの演じた奥さんとの新婚旅行のエピソードも印象に残っています。軍平さんの最初の著書である「平民の福音」は新婚旅行中に書かれたそうなんですけど、奥さんにとっては新婚旅行というより、一冊の本を書き上げる共同作業でしたよね。

東條:映画では描いていないんですけど、新婚旅行に行くために二週間休みをとったから本を書こうと言って、旅行中は奥さんがずっとその清書をしてたんですよ(笑)。だから奥さんは結婚生活で本当に振り回されたと思いますけど、ずっと軍平を信じてついていくんですよね。
―遊郭のシーンは東映京都撮影所のオープンセットで撮影されたとか。


森岡:娼妓自由廃業運動というのはやはり軍平さんのやってきたことの中ではかなり大きな功績になるんでしょうか? 。

東條:失業者の職業のあっせんや、災害時の救済活動など今日の福祉につながる多くのことをしていますが、売られた少女たちを廓から救い出すということは、暴力との戦いでもありました。本当に命がけで、社会福祉という言葉だけでは収まらないものだと思います。軍平の激しい情熱がほとばしるところだと思います。

―山室軍平の人生を通して、今の若い人たちに届けたいメッセージとは?

森岡:軍平さんが一途に何かを信じてひとつの時代を駆け抜けた、しかもそれが人を巻き込んで世の中を変えた、その熱量が伝わればいいなと思います。世の中を変えようとか、自分でも何かをやってみようとか、そういう情熱を抱くきっかけになればいいなと。自分の信念を貫いてそのために生涯を捧げた軍平さんの熱い生き様を楽しんでいただけたらと思います。

東條:人が喜ぶことに喜びを感じる、そんな軍平が人のために何かしようと、情熱を真っ直ぐにぶつけて、それを貫き通して生き抜いたことこそが魅力です。彼のような人生も素敵な人生だときっと感じてもらえたると思います。

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