インタビュー 帰国者が語る北朝鮮の記憶 第4回
2021年1月24日
14歳で帰国船に乗った石川学さん
北朝鮮での30年とは何だったのか?
第4回 清津に降りる…強烈な匂いと違和感
◆「やばいとこに来たなあ」、清津の衝撃
朝の6時。清津の港は霧に包まれ、曇った空がどんよりと広がっていました。新潟を出発した時の澄んだ青空とは一変、今思えばまるで帰国者たちの運命を暗示しているかのような空でした。
停泊した万景峰(マンギョンボン)号で待機することおよそ3時間、「マンセー(万歳)! マンセー!」の歓喜の声が埠頭に響く中を、私たち帰国者はようやく霧が消えた清津の港に降り立ちました。
しかし、船から降りた瞬間に子どもだった私でも、「あ!やばいとこに来たなあ」という考えが頭をよぎりました。はっきりと何が「やばい」と感じたのかを説明するのは難しいのですが、全体的に見て、目の前に広がる光景、ドス黒いブラウスを着た歓迎に動員された人々の姿が、生まれ育った日本のそれとはまるっきり違っていたのです。
当時の私は、生まれてこの方日本という国を出たことがなかったから、初めて見た日本と違う北朝鮮の光景に物凄く衝撃を受けたという記憶が今でも残っています。

石川学さん 2019年11月東京にて(撮影 合田創)
◆強烈な匂い
景色の衝撃に加えて、もう一つ忘れられない記憶は清津の港に満ちている匂いでした。それは海から漂う生臭い匂いだったのかもしれませんが、北朝鮮の人々とすれ違う度に、ツーンと、もう何とも言えない海の潮の匂いとは違う強烈な匂いがしていました。
その人たちから発せられる息がむせるほど臭い匂いは、今でも忘れられません。後で知ったことですが、当時の北朝鮮では洗濯用石けんはソ連から輸入した高級品しかなく、一般庶民には到底手の届くものではありませんでした。そのため、人々は国産のイワシの油で作った石けんを使って洗濯をしたり体を洗ったりしていました。そりゃ生臭い匂いがするわけです。
加えて、当時の北朝鮮の人が言う「お風呂に入ってない」というのは一日二日のことではありません。だいたい一カ月ほどのことを指しますので、帰国者歓迎のために動員されて来てひしめく人たちから漂う匂いも加わって、8月の清津の港は異臭に満ちていました。
ショックを受けたのは私たち帰国者だけではなかったようです。歓迎のために近くの学校から集められた生徒たちは「日本で差別を受けた貧しくて可哀そうな人たちがやってくる」と聞かされていたそうです。てっきりボロの服を着た乞食のような人たちが降りてくると思っていたのに、ボロどころか、自分たちよりもずっと清潔できれいな服を着た人たちが降りてくるではありませんか。帰国者の中にはチマチョゴリに着替えて船を降りた人もいましたが、「綺麗だ」と言われ、服を触られたりしていましたね。*1
下船後、迎えのバスが来ました。一般庶民が乗ることのない高級車だったそうですが、これもまた車体が錆びてボロボロで、今にも壊れそうなバスでした。そのバスに乗って、清津市内のデコボコな道を進んでいくと、牛車が車道を進んでいるではありませんか。私たち子供は大興奮!「ここは自然動物園じゃないか!」と、東京育ちで自然に触れる機会の少なかった少年の私は、目の前の光景に驚いてしまいました。
◆招待所に入る
バスに乗って現地の人たちから清津市内の名所や工場を案内された後、私たち一行はお昼過ぎに「招待所」に到着しました。帰国者たちが配置される居住地と職場が決まるまで過ごす施設です。
私が乗った帰国船は、本来技術者集団を集めた船でしたが、私たち兄弟のように、それと関係のない人たちも乗っていたため、少し定員をオーバーしていました。配置先が既に決まっている技術者たちをよそに、私たち兄弟は配置先が決まるまで一か月近く招待所で過ごしました。招待所は3階建てで壁はタイル張りの、当時の清津ではとても立派な建物でした。シャワーはなく、共同のトイレと洗面所があり、一家族一部屋を当てがわれました。
14歳だった私は兄と姉の配属先が決まるまでの間、僑胞総局*2からやってきた指導員たちによって教育を受けさせられました。朝鮮語が分からない人たちは一か所へ集められ朝鮮語の授業を受けることもありました。私の姉は教育係を一時期担っていました。
◆手鼻かむ若い女性にカルチャーショック
勉強の日々が続くと少し嫌になるものです。まだまだ遊びたい盛りの少年だった私は、時々授業をサボって招待所で仲良くなった友達や兄と近くの動物園にこっそり出かけるようになりました。動物園に向かっていく道の途中で、私はカルチャーショックともいえる出来事に遭遇します。私たち方に歩いて来た19、20歳くらいの女の子たちが、手で鼻をかんで、鼻水を電柱になすりつけたのです。そんなことをするのは、自分の親父くらいだと思っていたので、その時はとても驚きましたね。
さらに衝撃の日々は続きます。(続く)
<<インタビュー 帰国者が語る北朝鮮の記憶 第3回
インタビュー 帰国者が語る北朝鮮の記憶 第5回>>
*1北朝鮮の住民たちが、清津の港に降り立った在日が立派な服装であることに驚いたという60年代初めの証言が数多くある。石川さんが帰国した72年8月であり、「在日はボロを着ていない」は、少なくとも清津市では「常識」になっていたと思われ、石川さんが後日に現地住民から聞いた60年代の衝撃譚と自身の清津到着時の記憶が混じった可能性がある。
*2在日をはじめとした海外僑胞を担当する行政組織。
インタビュー 帰国者が語る北朝鮮の記憶 第5回
2021年2月8日
14歳で帰国船に乗った石川学さん
北朝鮮での30年とは何だったのか?
第5回 清津招待所での1カ月
清津に降り立った瞬間から、「地上の楽園」とは程遠い光景に衝撃を受け続けました。どこまでも続く殺伐とした光景、みすぼらしい人々の姿…。配置されるまで待機する招待所での暮らしもまた、日本との違いに戸惑いばかりでしたが、振り返って今思えば、仲間と工夫して過ごした楽しい日々だったように思います。
◆招待所での慣れない食事
私たち帰国者一行には毎日、白米で炊かれたご飯と4種のおかずとデザートが出されました。でも、その白米からはどうにも変な匂いがして、とても食えたもんじゃない。北朝鮮では新米は軍部に優先して配られていて、庶民は軍部が5年に1度、米の入れ替えをした後に出てくる古い米しか食べられません。
時には7年間も軍部で保管されたものを一般庶民が口にすることもあるんです。劣化し切ったボロボロの米はもうひどい古米臭です。招待所で出されたお米はそこまで古くなかったのかもしれませんが、それでも変な匂いがしてどうしても食えませんでした。
あと、同じ野菜や味噌でも、北朝鮮と日本では味が違うんだなという気づきがありましたね。例えば白菜。北朝鮮の白菜は味が濃くて、日本で食べていた物よりもおいしいなと感じました。でも、調理の方法がどうも日本とは違いすぎて、いくら白菜がおいしくて、おかずがたくさんあっても、美味しいとは感じませんでしたね。
ある日、晩ご飯がカレーだと聞いた私はワクワクしながら食堂へ行きました。いざ料理が出されてみると、想像していた日本式のカレーとは違って、スパイスを使って作った本格インドカレーでした。「こんなのカレーじゃない!こんなもん食えるか!」と不満を漏らしたこともありました。
帰国者の友達の一人が「まずくて食えない」と言い出すと、他の子たちも「まずいや。こんなもん食えないね」などとこぞって不満を吐きましたが、私たちは当時食べ盛りの少年だったので、10日も過ぎると腹が減ってそんなことも言っていられなくなりました。そこで夜に皆でこっそり鶏小屋に忍び込んで鳥を一羽盗んで蒸して食べたり、倉庫に保管されている松茸を炭火焼にして食べたりしました。
「これ、日本の醤油があればうまいのにな」なんて、食事中に話出す者がいれば、「おう!俺持ってきたよ」なんて反応する者もいました。「本当か? 持って来い、持って来い!」なんて言い合って、調味料を分け合って食べることもありました。家族単位で北朝鮮に帰国した人や、先に親戚が帰国しているような人は荷物に余裕があったのでしょう。セイコーの時計やネッカチーフのようなものだけでなく、日用品も荷物に入れる余裕があったようで、日本の醤油や味噌などの食品を持ってきていました。
やはり同じ日本で生まれ育ち、同じ背景を持つ者同士なのですぐに打ち解け、私たちは助け合って日々過ごしていました。招待所での暮らしは慣れないことばかりで大変でしたが、仲間のおかげで、ある意味楽しい日々だったように思います。
◆嫌でたまらなかった学習時間
招待所での勉強は本当に嫌で、なかなか慣れませんでした。毎朝5時に皆起こされて、体操をし、金日成元帥に関する学習をさせられました。金日成元帥がどれほど偉大なのか、北朝鮮に対して忠実でなければならないなどの勉強を、映像や講演等を通した勉強が続くのです。
最初の頃はまじめに聞かずに寝てしまっている人もちらほら見られました。でも時間が経つにつれ、
「思想の面で引っかかったら一家だけじゃない、親戚も全滅させられちまうぞ」、
「絶対に口を滑らせて思想に関する文句を言ってはだめだ」
という噂が回るようになって、それからは、皆真面目に勉強するフリだけでもするようになりました。
招待所には、先に帰国した在日たちが面会のため訪れます。この人たちから、
「おい、この招待所は天国なんだぞ。お前もきっと配置された後にはこんないい飯食えないし、こんなに自由もないぞ」と言われることもあって、
「冗談じゃない!この生活のどこが自由なんだ?」と思わずにはいられませんでした。
意外にも、招待所での生活に一番適応したのは私の兄でした。
少年院での生活の経験が活きたようで、朝の5時に起こしに来る担当者よりも先に起きて、私たちを起こしてくれていました。
こんな日々を招待所で1カ月ほど過ごし、いよいよ私たち兄弟3人に、配置される日がやってきました。(続く)
<<インタビュー 帰国者が語る北朝鮮の記憶 第4回
インタビュー 帰国者が語る北朝鮮の記憶 第6回>>
インタビュー 帰国者が語る北朝鮮の記憶 第4回
2021年1月24日
14歳で帰国船に乗った石川学さん
北朝鮮での30年とは何だったのか?
第4回 清津に降りる…強烈な匂いと違和感
◆「やばいとこに来たなあ」、清津の衝撃
朝の6時。清津の港は霧に包まれ、曇った空がどんよりと広がっていました。新潟を出発した時の澄んだ青空とは一変、今思えばまるで帰国者たちの運命を暗示しているかのような空でした。
停泊した万景峰(マンギョンボン)号で待機することおよそ3時間、「マンセー(万歳)! マンセー!」の歓喜の声が埠頭に響く中を、私たち帰国者はようやく霧が消えた清津の港に降り立ちました。
しかし、船から降りた瞬間に子どもだった私でも、「あ!やばいとこに来たなあ」という考えが頭をよぎりました。はっきりと何が「やばい」と感じたのかを説明するのは難しいのですが、全体的に見て、目の前に広がる光景、ドス黒いブラウスを着た歓迎に動員された人々の姿が、生まれ育った日本のそれとはまるっきり違っていたのです。
当時の私は、生まれてこの方日本という国を出たことがなかったから、初めて見た日本と違う北朝鮮の光景に物凄く衝撃を受けたという記憶が今でも残っています。

石川学さん 2019年11月東京にて(撮影 合田創)
◆強烈な匂い
景色の衝撃に加えて、もう一つ忘れられない記憶は清津の港に満ちている匂いでした。それは海から漂う生臭い匂いだったのかもしれませんが、北朝鮮の人々とすれ違う度に、ツーンと、もう何とも言えない海の潮の匂いとは違う強烈な匂いがしていました。
その人たちから発せられる息がむせるほど臭い匂いは、今でも忘れられません。後で知ったことですが、当時の北朝鮮では洗濯用石けんはソ連から輸入した高級品しかなく、一般庶民には到底手の届くものではありませんでした。そのため、人々は国産のイワシの油で作った石けんを使って洗濯をしたり体を洗ったりしていました。そりゃ生臭い匂いがするわけです。
加えて、当時の北朝鮮の人が言う「お風呂に入ってない」というのは一日二日のことではありません。だいたい一カ月ほどのことを指しますので、帰国者歓迎のために動員されて来てひしめく人たちから漂う匂いも加わって、8月の清津の港は異臭に満ちていました。
ショックを受けたのは私たち帰国者だけではなかったようです。歓迎のために近くの学校から集められた生徒たちは「日本で差別を受けた貧しくて可哀そうな人たちがやってくる」と聞かされていたそうです。てっきりボロの服を着た乞食のような人たちが降りてくると思っていたのに、ボロどころか、自分たちよりもずっと清潔できれいな服を着た人たちが降りてくるではありませんか。帰国者の中にはチマチョゴリに着替えて船を降りた人もいましたが、「綺麗だ」と言われ、服を触られたりしていましたね。*1
下船後、迎えのバスが来ました。一般庶民が乗ることのない高級車だったそうですが、これもまた車体が錆びてボロボロで、今にも壊れそうなバスでした。そのバスに乗って、清津市内のデコボコな道を進んでいくと、牛車が車道を進んでいるではありませんか。私たち子供は大興奮!「ここは自然動物園じゃないか!」と、東京育ちで自然に触れる機会の少なかった少年の私は、目の前の光景に驚いてしまいました。
◆招待所に入る
バスに乗って現地の人たちから清津市内の名所や工場を案内された後、私たち一行はお昼過ぎに「招待所」に到着しました。帰国者たちが配置される居住地と職場が決まるまで過ごす施設です。
私が乗った帰国船は、本来技術者集団を集めた船でしたが、私たち兄弟のように、それと関係のない人たちも乗っていたため、少し定員をオーバーしていました。配置先が既に決まっている技術者たちをよそに、私たち兄弟は配置先が決まるまで一か月近く招待所で過ごしました。招待所は3階建てで壁はタイル張りの、当時の清津ではとても立派な建物でした。シャワーはなく、共同のトイレと洗面所があり、一家族一部屋を当てがわれました。
14歳だった私は兄と姉の配属先が決まるまでの間、僑胞総局*2からやってきた指導員たちによって教育を受けさせられました。朝鮮語が分からない人たちは一か所へ集められ朝鮮語の授業を受けることもありました。私の姉は教育係を一時期担っていました。
◆手鼻かむ若い女性にカルチャーショック
勉強の日々が続くと少し嫌になるものです。まだまだ遊びたい盛りの少年だった私は、時々授業をサボって招待所で仲良くなった友達や兄と近くの動物園にこっそり出かけるようになりました。動物園に向かっていく道の途中で、私はカルチャーショックともいえる出来事に遭遇します。私たち方に歩いて来た19、20歳くらいの女の子たちが、手で鼻をかんで、鼻水を電柱になすりつけたのです。そんなことをするのは、自分の親父くらいだと思っていたので、その時はとても驚きましたね。
さらに衝撃の日々は続きます。(続く)
<<インタビュー 帰国者が語る北朝鮮の記憶 第3回
インタビュー 帰国者が語る北朝鮮の記憶 第5回>>
*1北朝鮮の住民たちが、清津の港に降り立った在日が立派な服装であることに驚いたという60年代初めの証言が数多くある。石川さんが帰国した72年8月であり、「在日はボロを着ていない」は、少なくとも清津市では「常識」になっていたと思われ、石川さんが後日に現地住民から聞いた60年代の衝撃譚と自身の清津到着時の記憶が混じった可能性がある。
*2在日をはじめとした海外僑胞を担当する行政組織。
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