インタビュー 帰国者が語る北朝鮮の記憶 第7回
2021年3月1日
14歳で帰国船に乗った石川学さん
北朝鮮での30年とは何だったのか?
第7回 恵山での暮らしが始まる 〜セイコーの時計が兄弟を救う〜
◆新生活早々の受難
北朝鮮へ着いてからの2か月間、落ち着かない暮らしが続いていましたが、ようやく住む家が決まり、「祖国」で新しい生活を始めることになりました。
兄は製紙工場に配置され、引っ越し当日は兄の仕事先からも何人か来て荷物運びを手伝ってくれました。私たちは日本からテレビ、冷蔵庫、洗濯機、自転車といった電化製品を持ってきていましたが、恵山市からも引越しのお祝いとして、家具を数点と白米30kgを頂きました。
まだ10月の恵山ですが、日本と違い空気がしんと冷えていて、冬を思い起こさせるような冷たさでした。私たちにあてがわれた部屋は八畳一間で、トイレはありませんでした。
新しい環境で、そのうえ日本とは比べものにならないほど寒い場所での慣れない暮らしのため、私たち兄弟は揃って大腸炎にかかってしまいました。血便が出て、もう死ぬのではないかと思うほど苦しんでいた時、姉が日本で勤めていた朝鮮新報社の人から貰ったセイコーの時計が、ここに来て役に立ったのです。
その時計を北朝鮮の幹部たちが使うような薬と交換してもらい、なんとか命拾いしました。もしその時計がなかったら、私たちは、今もう生きていないかもしれません。薬をくれた人は、私たちが治った後も、時計と薬の交換じゃ割に合わないだろうからと、蜂蜜と朝鮮人参を持ってきて食べ方を教えてくれました。
住み慣れた日本から北朝鮮へやって来て、思い描いていた暮らしと全然違っていた衝撃と、母に会いたいホームシックもあって、私は気持ちが滅入っていましたが、この時は人の優しさに触れて嬉しかったのを覚えています。
日本から持ってきたものがいくらくらいで売れるかと言いますと、セイコーの腕時計、3万円で買った自転車が、朝鮮のお金で800ウォンほどで売れました。意外にも価値が低かったのはテレビです。当時8万円で買った白黒テレビを日本から持ってきていたのですが、帰国した1972年当時の北朝鮮では、まだテレビの電波が行き届いておらず、電源を入れても「砂嵐」しか映りませんでした。そのためでしょう、250ウォン程度でしか売れませんでした。セイコーの時計は10個携えて来ましたが、いざという時のために残しておきました。たとえ配給が足りなくとも、出費を切り詰めたり、我慢したりして乗り越えました。
こうして、帰国船に乗った時から2か月以上経って、ようやく私たちは落ち着くことができました。そして私たち3人は配置されてから兄が結婚するまでの約4年間をそのアパートで過ごします。
木枯らしが吹きつける恵山の寒い冬は、12月になると零下40度まで下がることがあります。10月でも既に水が凍るような気温でしたので、10月に新しい家で生活を始めた私たちはキムチを漬ける時期を逃してしまいました。ですが、兄が働いていた製紙工場の人たちが「これで冬を過ごして」と、各家庭からキムチを一キロずつ出し合って、私たちにくれました。
帰国者は基本的には一番下の階級と見られていました。当時、「地上の楽園」だと信じて北朝鮮へやってきた帰国者たちは理想とかけ離れた現実に落胆し、北朝鮮の思想教育や政治体制を口に出して批判しました。普段から政府に対する批判を口にしてはいけない、祖国を敬うべきだという現地の人たちの考え方とはかけ離れていたこともあり、帰国者たちは現地の人たちにとって異質な存在として扱われました。
しかし、先に述べたように現地の人々の優しさに触れることも数多くあったのです。私たち兄弟は北朝鮮へ来る前から思想について教育を受けていたこともあって北朝鮮的な考え方を受け入れやすかったせいか、現地の人たちに珍しいと思われることはあっても、特段差別を受けることはなかったように思います。
◆姉の叶えられなかった夢
何度も話の中に登場しますが、私の姉の目標は北朝鮮で大学に進学することでした。しかし兄が製紙工場に配置されたのとほぼ同時に、姉は両江日報という新聞社の編集部に配置されました。姉は本当に勉強がしたかったので、金日成総合大学の通信制の学部に入学し、年に二回ほど平壌にあるキャンパスに通いましたが、途中から病気になってしまい卒業できませんでした。姉の病気については、後に詳しく話したいと思います。
そのこともあり、姉は自分が大学に行けなかった代わりに、弟である私を何とか大学に入れてくれないかと市の行政委員会(地方政府)に懇願しました。日本では授業中もっぱら寝ることしかしていなかった私は、一転して猛勉強をするようになり、テストで満点を取ることもできるようになったのです。(続く)
2014年5月に中国側から撮影した恵山市(カン・ジウォン)
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インタビュー 帰国者が語る北朝鮮の記憶 第8回
2021年3月15日
14歳で帰国船に乗った石川学さん
北朝鮮での30年とは何だったのか?
第8回 帰国後の学生生活
◆同級生にからかわれる北での学生時代
帰国した頃の私はまだ14歳だったので、恵山に来てすぐ恵山高等中学校に入学することになりました。
北朝鮮での義務教育の編成は日本と異なり、小学校4年間、中学校5年間です。*注 私は日本にいた時中学3年生だったので、本来ならば中学5年生として転入すべきなのですが、教科書を読んでも朝鮮語で書かれている内容が全く理解できなかったため、一つ下の中学4年生に転入することとなりました。
中学への転校初日はいつになく緊張したのを覚えています。当時を振り返ってみると、日本とは全く異なる社会環境に入ったこともあって、ずっと神経が張り詰めた状態で生活していたんでしょうね。
一学年200人ほどの生徒のうち、帰国者が5、6人いました。帰国者の生徒たちは珍しがられ、馴染めず、私の学校生活も順調に始まったわけではありませんでした。
私の朝鮮語の発音は日本訛りだったので、何かを話すたびに同級生たちに笑われました。サッカー部の活動では、着替えに持参した日本のズボンを周りから取り上げられたたこともありました。
バカにされて悔しい気持ちでいっぱいでしたが、今振り返ると、まだ子どもでしたし、仕方ないことだったのかもしれませんね。
◆勉強に燃えた中学時代
何より一番大変だったのは勉強に付いていくことでした。日本にいた頃の私は、両親の離婚を言い訳にして、勉強なんてしなくてもいいんだ! なんて開き直っていました。
学校にはただ寝るために通っていたと言っても過言ではないでしょう。両親の離婚で私の毎日は不幸なのだから、勉強している場合じゃないんだと思い込んでいました。
そんな私でしたが、帰国が決まってからは違いました。皆が平等に学びたいだけ学べる「祖国」では言い訳は通用しないだろう、勉強するんだ、自分を変えなければ! そう私は決意し覚悟を決めました。
日本ではテストの時、いつも白紙状態で出してしまうほど勉強しなかった私でしたが、帰国後は自分なりに一生懸命努力しました。
しかし努力も虚しく、恵山の言葉は標準語ではなく訛りが強かったこともあって、先生の説明を必死に聞いても、内容がほとんど理解できませんでした。「それでも自分は心を入れ替えたんだ、頑張って勉強しなければ…」 理解できなくとも、一度決めた決心を曲げることはありませんでした。
そこで、3つ年上の帰国者の友人から日本語の参考書を借り、授業で習った内容の復習を始めました。授業中は朝鮮語で説明されるため理解できなかった部分も、日本語で書かれている説明文を読むと「なるほど、先生が言っていたのはこのことか!」と、だんだん分かるようになりました。次第に分かることが増えていき、ついに満点を取れるようにまでなりました。
私の姉はずっと大学進学を夢見ていましたが、帰国してもその夢は叶わず、二人の弟のために尽くしました。日本にいた時、姉は離婚した両親に代わって私たち兄弟の面倒を見るために就職したので、自分の夢をずっと犠牲にしてきたようなものでした。そんな姉は、自分が大学に入れなかった代わりに、市の委員会に弟をなんとか大学に入れてくれないかと頼んで回りました。
毎日の勉強の積み重ねと、姉が市の委員会に頼んでくれたことが功を奏し、卒業時には金策工業大学の推薦をもらえたのですが、残念なことに時期が悪く、大学が新入生削減した時期と重なってしまったため、私は不合格となりました。
証言集会で帰国者としての体験を語る石川学さん 2019年11月東京にて(撮影 合田創)
◆大学を諦め高校へ
残念ではありましたが、中学を卒業後、大学は諦めて恵山高等機械学校(日本の高校にあたる)に入学しました。そこでの担任は私と同じ帰国者でした。同じ出自だったのですが、先生は私に対して一切特別扱いをせずに厳しく接してくれました。
今振り返ると、日本と北朝鮮の両方の学校で過ごした私は、いろんな違いと差を痛感したように思います。教育制度の違いはもちろんですが、両国の一番の違いは子どもたちの「生活マナーの差」だと思いましたね。例えば、北朝鮮の学校でできたある私の友達は、勉強がすごくできましたが、万年筆のインクが切れた時はペン先に向かってペッと唾を吐いて、髪の毛でこすってインクを出そうとしていました。北朝鮮の子どもたちは賢いのに、日本の子らと違って生活をしていく上で必要な常識、マナーに欠けているなと感じましたね。
恵山高等機械学校に進学する頃、姉は精神病を患ってしまい、入院することとなります。当時の診断は「分裂症」でした。この悲しい出来事については、後に詳しく話したいと思いますが、姉が病気になった原因はきっと、帰国当初「祖国」に抱いていた理想と現実のあまりにも大きなギャップのせいでしょう。姉は希望し続けていた大学進学の願いも叶わず、配置先や住む場所に関する希望も何一つ叶いませんでしたから。
姉の入院を機に、私は、兄と兄の妻(現地の人)の3人で暮らすようになりました。私は当時からぶっきらぼうな性格で「ご苦労様です」の一言すら自分からなかなか言えないような青年でしたから、兄の妻とは良い関係を築くことができず、高校時代は毎日の暮らしが辛かったですね。
こうした日々を送っていくうちに、恵山高等機械学校を卒業しました。
私はいよいよ働くことになります。(続く)
*注 20201年時点の北朝鮮の義務教育は、幼稚園1年、小学校5年、初級中学校3年、高級中学校3年の計12年。
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インタビュー 帰国者が語る北朝鮮の記憶 第9回
2021年4月7日
14歳で帰国船に乗った石川学さん
北朝鮮での30年とは何だったのか?
第9回 監視下に置かれた帰国者たちのささやかな楽しみ
前回は北朝鮮での学生生活を中心に述べました。今回は帰国の窮屈な暮らしについて話しましょう。
日本という自由な社会から、いきなり北朝鮮という統制国家に来て暮らすこととなった帰国者たちは、はけ口のない、なんとも言い難い圧迫感に苦しむことになりました。差別と貧困に苦しんだ日本を離れて帰ってきた「祖国」だったにもかかわらず、政府から常に監視されることになったのです。
私が1972年に帰国する以前に北朝鮮に来た人たちは、一度配置されると原則としてその地域から移動することは許されませんでした。監視しやすいように、一か所にまとめて居住させられ、帰国者部落と呼ばれる集落を形成したケースもあったようです。けれど私が帰国した頃には、帰国者たちが集まると政治に関する話をするなど社会に悪影響を与えると懸念されて、バラバラに配置されるようになります。帰国者同士が出会うことは難しくなってしまいました。
そのため、初めて会った相手が同じ帰国者だと分かると、
「親が帰国者なんだ。自分はよく覚えてはないんだけど、子どもの時に来たんだ!」
「そうか!よろしくな!」
「俺の家は近くだから遊びに来いよ!」
そんな風に会話が弾んで、すぐに親しくなったものです。同じ日本で育ったという親近感と、日本時代を一緒に懐かしむことができることが、何よりも嬉しかったのです。
監視と社会統制の厳しい日常でしたが、まれに帰国者同士で集まって日本の歌を歌うこともありました。しかし、私の場合は大人になって北朝鮮社会である程度の信用を受けるようになった党員になってからの話です。人の目をはばかりながらも、私たち帰国者は気心の知れた仲間との会話を楽しんで、お互いを支え合いました。
帰国者らの変化
日本に戻って来て、私はよく、次のような質問を受けます、「帰国した人の中で、とても真面目だった人が非行に走ったり、喧嘩ばかりしたりするようになったという話をよく聞くのですが、石川さんはなぜしっかり勉強しようと思ったのですか?」
私の場合、祖国に来たからにはしっかり勉強しなくてはと思いました。悪い方に走る人もいましたが、人それぞれ理由があったんだと思います。例えば、私の兄の友達は日本にいた時からずっと秀才で、帰国した後も勉強を続けて金策工業大学を卒業しました。もちろん、その人だって北朝鮮社会に対して色々と思うことはあったでしょう。しかし彼や私の場合、真面目に勉強する道を選ばざるを得なかったのです。
私の兄も、あの厳しい環境の中でよく頑張っていました。日本で少年院や刑務所での暮らしが長かった兄は、逆にそのおかげで北朝鮮での生活になんとか耐え抜くことができたのです。とっくに成人していた兄でしたが、仕事で疲れ果てて、寝ている間におねしょをしてしまうこともありました。
兄は配置先の製紙工場から私たちが一緒に暮らす六畳の部屋に帰宅し、服も脱がず「あー疲れた」と言って倒れるようにそのまま寝床に着いていました。食事もせず寝入ってしまった兄はいくら起こしても起きなかったですね。それで次の朝起きると、おねしょしてしまっていて…。それほど職場の毎日が過酷だったのでしょう。
兄も、帰国したからには真面目に自分自身を変えようとしているようでした。日本では何か不満があれば暴れていた兄だったので、その変化は見違えるほどでした。兄は姉のように北朝鮮が「地上の楽園」だと信じていたわけではなかったので、帰国する前からある程度の苦労は覚悟していたようです。
姉の場合は「地上の楽園」で皆が平等の国だと信じていただけに、「裏切られた」という想いは計り知れず、帰国してからわずか2年で精神病にかかってしまいました。この事については後述します。私たち姉兄弟3人、日本が恋しくて布団の中で泣く日もありましたが、私を北朝鮮に連れて行ったは兄や姉を責めたいと思ったことは一度もありませんでした。
中国側から鴨緑江を挟んですぐ間近に見える恵山市内の家屋。2014年5月にカン・ジウォン氏撮影
北朝鮮の配給事情
ご存知の通り北朝鮮は社会主義の国です。基本的に食糧は自分が働いている工場や事務所から配給票というものをもらい、決まった量の食糧や副食品を居住地域から受け取ることになっています。たとえば秋、キムチを漬ける季節になると白菜や大根、唐辛子、にんにくなどの配給を受けます。
配給される食糧の量は仕事によって決まっていて、大体大人1人、1日に700g(重労働をしている人は800g)の食糧を雑穀やコメで受け取ります。祝日や主席の誕生日などには、卵、豚肉1kg、焼酎1本なんかが人民班から配られるという具合です。
家庭があって子どもがいると、受け取る白菜や大根の量は多くなりますが、世帯主ではない独身者は麻袋に入れて抱えられるくらいの量しかなく、特別な行事がない限り、唐辛子やにんにくは手に入りませんでした。(続く)
<<インタビュー 帰国者が語る北朝鮮の記憶 第8回
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