https://wam-peace.org/ianjo/resource/a-4154/
기재 내용
곧 제1, 제2소대는 섬의 중앙에 해당하는 후타코의 동진공사 농장지로 옮겨갔다.여기는 전기가 없고 램프여서 밤에 일찍 잤다.후타코는 오우기우라로부터 10분 정도의 거리로, 고원상을 하고 후타코산의 조망이 있고, 바나나 밭, 타마나라고 불리는 테리하복나무 숲 등 널찍해서 좋았다. ···
같은 지치시마에서 소집돼 온 병사들은 일요일 외출하더라도 6시에는 귀대해야 했다.이 병사들은 내가 주번사관 시절 특히 10시까지 연각을 인정해 주었다.
오기 포구의 조금 앞에 있는 골짜기에 위안소가 3채 정도 서서 20명 가까운 위안부가 왔다고 해서 한번 견학했다.작은 막사 건물 앞에 위안부들이 머물렀고 있었다.뭔가 어색하고 두 번 다시 갈 마음이 나지 않았다.사단 관리부의 장교로 내지에서 온 기녀들을 장교용, 하사관병용으로 선별하는 담당이 있다고 나이 든 준위가 말했다.
또 위안소가 없으면 멀쩡한 군사는 광포해져서 싸움만 하고, 얌전한 군사는 신경쇠약에 걸려 울적하다고들 했는데, 사실인지 어쨌건 위안소가 생기고, 군인이 외출해도 놀릴 곳이 생겨 재미는 하나 늘어난 셈이었다.
주의: 19p 「부지마요도」에서 센포와 후타고야마의 위치를 확인할 수 있다.위안부가 국내에서 온 상세한 시기는 쓰지 않았으며, 1942년이다.이 후 야마다 세이 키치는 우한 병참 사령부로 이동하는 위안소 계장에 임명된다.
資料の詳細
| 出典種別 | 兵士の回想録等 |
|---|---|
| 現在の地域情報 | 東京都 小笠原村 父島 |
| 資料にある地域情報 | 父島、扇浦の少し手前の谷間 |
| 慰安所があった時期 | 1942年 |
| 記載内容 | まもなく第1、第2小隊は、島の中央にあたる二子の東進公司の農場跡へ移った。ここは電気がなく、ランプだったので夜は早くねた。二子は扇浦から10分位のところで、高原状をして二子山の眺望あり、バナナの畑、タマナと呼ばれるテリハボクの林など広々としてよかった。・・・ 同じ父島から召集されてきた兵は、日曜日外出しても、6時には帰隊しなければならなかった。この兵たちは私は週番士官の時、特に10時まで延刻を認めてやった。扇浦の少し手前にある谷間に、慰安所が3軒ほど建って、20人近い慰安婦が来たというので一度見学してみた。小さなバラックの建物の前に慰安婦たちがたむろしていた。何か違和感がして2度と行く気がしなかった。師団の管理部の将校で、内地から来た妓たちを将校用、下士官兵用と選別する係があると、年をとった准尉が話していた。また慰安所がないと、元気のよい兵は、狂暴になって喧嘩ばかりするし、おとなしい兵は、神経衰弱になってメソメソしているといわれたが、本当かどうか、ともかく慰安所ができて、兵が外出してもひやかすところができて楽しみが、一つふえたわけであった。 注:19p「父島要図」で扇浦と二子山の位置が確認できる。慰安婦が内地から来た詳細な時期は記されていないが、1942年である。この後山田清吉は武漢兵站司令部に移動し慰安所係長に任命される。 |
| 証言者 | 山田清吉 |
| 証言者属性 | 少尉・第一小隊長 |
| 部隊名 | 第143要塞歩兵隊 |
| 資料タイトル | 武漢兵站 |
| 著者、公文書発信者など | 山田清吉 |
| 公文書宛先 | |
| 発行日 | 197812.25 |
| 発行所 | |
| ページ | |
| 出典備考 | |
| 備考 | 東京南方の小笠原村に父島がある。扇浦は父島の西海岸沿いにある。 |
| 記載内容 | まもなく第1、第2小隊は、島の中央にあたる二子の東進公司の農場跡へ移った。ここは電気がなく、ランプだったので夜は早くねた。二子は扇浦から10分位のところで、高原状をして二子山の眺望あり、バナナの畑、タマナと呼ばれるテリハボクの林など広々としてよかった。・・・ 同じ父島から召集されてきた兵は、日曜日外出しても、6時には帰隊しなければならなかった。この兵たちは私は週番士官の時、特に10時まで延刻を認めてやった。扇浦の少し手前にある谷間に、慰安所が3軒ほど建って、20人近い慰安婦が来たというので一度見学してみた。小さなバラックの建物の前に慰安婦たちがたむろしていた。何か違和感がして2度と行く気がしなかった。師団の管理部の将校で、内地から来た妓たちを将校用、下士官兵用と選別する係があると、年をとった准尉が話していた。また慰安所がないと、元気のよい兵は、狂暴になって喧嘩ばかりするし、おとなしい兵は、神経衰弱になってメソメソしているといわれたが、本当かどうか、ともかく慰安所ができて、兵が外出してもひやかすところができて楽しみが、一つふえたわけであった。 注:19p「父島要図」で扇浦と二子山の位置が確認できる。慰安婦が内地から来た詳細な時期は記されていないが、1942年である。この後山田清吉は武漢兵站司令部に移動し慰安所係長に任命される。 |
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