2021-04-08

朝鮮植民二世の意識構造―植民二世出身作家を中心に

21世紀東アジア社会学2018-第9号

朝鮮植民二世の意識構造―植民二世出身作家を中心に* 1


The Colonial Experience of Second Generation Japanese Settlers in Colonial Korea 
李秀烈

Studies on Japanese settlers in colonial Korea are taking on a new aspect. Recent studies,at the least, are assuming a different standpoint from existing researches, which view Japanese settlers as 'spearheads of invasion.' Simply put, studies of colonial era are welcoming a turning point, breaking away from the dichotomous frame of determining 'either exploitation or modernization.' The purpose of this study is to classify Japanese settlers in colonial Korea by generation and to specifically investigate the experience and awareness of the second generation settlers through literature and stories they left behind. The second generation settlers refer to Japanese people who immigrated to the colony when they were young or were born in the colony. Most of them returned to Japan after Japan's defeat in World War II. Their mental structure formed in the midst of dynamic experiences of the time show complicated aspects. 

The second generation settlers who had returned to Japan after the 1945 defeat started to publish memoirs and stories since the 1970s. Examining these literature, it was found that the sense of incompatibility among the second generation settlers for the post-war Japanese society, which seemed to have healed over with the rapid economic growth of Japan that began right after the post-war famine, was still prevalent among these generation. Muramatsu Takeshi, a poet and a third generation of colonial Korea, described such identity of second generation settlers of colonial Korea as 'half Japanese-half Korean.' These second generation Japanese settlers of colonial Korea are people who revive the colonial memory that post-war Japan have been neglecting. In other words, they act as a bridge between the Imperial Japan and the Japan today. This is the very reason why the present study underlines the history and consciousness structure of the second generation Japanese settlers of colonial Korea.

Key words: Second Generation Japanese Settlers in Colonial Korea, Colonial Experience, Colonial City, Memory, Identity

*This work was supported by the National Research Foundation of Korea Grant fund ed by the Korean Government(NRF-2008-3610B00001).
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1. 在朝日本人研究の現段階と本稿の目的 近代における在朝日本人に関する研究が新しい局面を迎えつつある。釜山居住の日本人
についての研究に限ってみても、「開港場を支配と被支配、収奪と被収奪の関係のみなら ず多様な出身の人々が出会い、また混ざり合う「混交の空間」として」理解する車喆旭・ 梁興淑の問題関心(車・梁 2012)は、在朝日本人の研究を単に「異邦人の研究ではなく、 私たち自身に対する研究」として位置づける金勝の立場(金 2012)とともに、少なくと も在朝日本人を「侵略の尖兵」としてのみながめる従来の研究とは観点を異にしている。 こうした問題意識は高崎宗治の『植民地朝鮮の日本人』(高崎 2002)においても同じで ある。植民地支配を底辺において支えていた人々の生の声を通して、「草の根の侵略」・ 「草の根の植民地支配」の全体像に近づこうとする高崎の作品は、日本人植民者を「大国 主義的侵略者」ということばのなかに解消してしまうことに対して警戒を表明する。要す るに植民地時期の研究は、「収奪か、近代化か」といった二分法的な枠組みから抜け出し、 新しい転機を迎えつつあるのである。

1 119 - 119 -本稿は在朝日本人を世代的に区分し、そのなかでも主に植民二世たちが残した文学作品
や回想記を通して、彼らの生涯や意識構造などについて考えることを目的とする1
いう植民二世とは、幼いころ植民地に移住しそこで成長した人や、植民地で生まれ育った
人を指すことばで、彼らの大部分は敗戦とともに日本に帰っていった2
。ここで
。本稿が植民一世と二世を区分する理由は、二つの世代の間にみえる意識の差に注目するからである。戦後、中国近現代思想史の研究者として著名な西順蔵は、1942年京城帝国大学に赴任し、三年間京城で生活したことがあったが、彼は後日、朝鮮での日々を回想しながら次のように述べていた。
彼(西の下宿の近くに住んでいた「朝鮮で生れ育った、当時でいう内地人の学生」
―引用者)の親の出身地は鹿児島で時どき「帰郷」した。夏休みが終って船が釜山に
近づき山々のすがたが見えると、心が休まって帰ってきたとなつかしいのだ、といっ
た。びっくりすることはないがぼくはびっくりした。ぼく自身は、休暇で下関に着き
山陽線を走る車窓のながめに、丁度この学生のことばと同じ思いをしていたのである。
そして帰任して釜山に着いてからの景観には心が孤立し、じっさいのところそれを貧
弱と見なし且つ嫌悪していたのである。こんなことはすべて、後にぼくの心を責める
ことになった(西 1983:104)。
植民地の風景をながめる一世と二世の視線は克明な対照をみせていた。西と「彼」が年
齢的にどれほど離れていたかは知ることができないが、日本で生まれ育って朝鮮に渡って
いった西が植民地の風景をみていだく違和感は植民一世たちの一般的な感情でもあったと
思われる。それでも西は、遠からず自身の帰属意識と風景との間の乖離感から逃れること
ができたはずである。たとえ国家の敗戦という高価な代償を払った後のことではあったが、
ともかく故郷・日本に帰ることができたからである。それに比し、今度、乖離感に悩まさ
れることになるのは朝鮮で生まれ育った「内地人の学生」のほうであったろう。敗戦後、
「彼」がどのような生涯を送ったか確認することはできないが、もし日本に帰っていった
なら、その植民二世出身の「内地人の学生」は、日本の風景に違和感を覚えながら生きて
いったに違いない。ダイナミックな歴史経験のなかで形成された植民二世たちの意識構造
は複雑な様相を呈していた。1924年に京城に生まれた植民三世出身の詩人・村松武司は、
自身のアイデンティティーを次のように語っていた。
わたしは現在四七歳で年齢の前半を植民地・朝鮮で生きてきた。そして後半を日本
で送った。だからといって、わたしの前半を朝鮮人的、後半を日本人的であるというこ
とはおかしい。そのような言い方をするならば次のように言うのが正直だ。「わたしは
朝鮮で生まれてから、自分は日本人でありたいと思っていた。しかし日本に帰ったとき、
はじめて自分が日本人でないことを自覚するようになった」。つまり、昔もいまも半日
本人・半朝鮮人である(村松 1972:12)。
植民地支配の責任分担者としての強烈な使命感と帝国意識に満ち溢れていた植民一世が
帰ってゆく祖国をもっていたに対し、植民地で生まれ育った二世にとって、故国は幻想の
なかに存在する「意識的な」ものであるにすぎなかった。彼らは日本人でありながら日本
を知らなかった。他者によって囲まれた、「殺風景で不潔な」植民地に住んでいることに
コンプレックスを感じていた。植民二世は生まれながらの故郷喪失者であり境界人だった
のである。故郷喪失者としての意識と植民地的な差別と収奪の上に存在する彼らの生活は
植民二世を無能でひ弱い世代とさせていった。
植民二世の境界人としての生は、敗戦以降、彼らが祖国・日本に帰ってきてからも変わ
りがなかった。自分たちを植民地帰りの「非国民」ほどにながめる冷たい視線のなかで、
彼らの「戦後」ははじまった。1970年代になって出現しはじめた植民二世たちによる回想
120
- 120 -記や経験談は、敗戦直後の飢餓状況やまもなくはじまった高度経済成長のなかに消えてし
まったかにみえた、戦後日本社会に対する植民二世たちの違和感が依然として存在し続け
ていることを物語っていた。前に紹介した村松武司は、そうした境界人としてのアイデン
ティティーを意識的に選択し、「半朝鮮人」の立場に立って帝国日本を告発し、「半日本
人」の立場から戦後日本を批判した。
日本帝国主義の負の遺産である植民二世は、戦後日本社会が忘却してきた植民地の記憶
を甦らす、いいかえれば、帝国日本と現代日本を架橋する身体である。本稿が在朝日本人
二世の歴史に注目する理由はここにある3
2. 一世と二世
日本人植民者数の増減が当該地域と日本の政治的な関係によって影響を受けるのは当然
なことであった。高崎の『植民地朝鮮の日本人』などが明らかにしているように、朝鮮の
場合も、日露戦争後の保護条約を機に在朝日本人の数が急増した。在朝日本人の人口の増
加の主な原因が自然増加より社会的要因による場合が多いことからも想像できるように、
初期の移住者たちは、「朝鮮では、内地人ひとりひとりが朝鮮統治の責任分担者であると
考え、一視同仁、内鮮融和の聖旨を奉じ」(高崎 2002:ⅱより再引用)4
云々の発言にみ
られるような、強靭な帝国意識の所有者である場合が多かった。植民一世たちによくみら
れる植民支配に対する強烈な責任感や、国家と自身を同一視する態度などは、彼らの生活
の安定を保証する究極的な根拠が植民地権力の暴力に存するかぎり、自然な現象でもあっ
た。
このような植民権力との一体感は、初期における植民者が政治家、植民地官僚、御用商
人、一攫千金を狙う冒険商人などを除いて、ほとんど九州周辺出身の貧民ないし貧農であ
った点5
を考えると、本国での剥奪感を植民地の地において補おうとする心理と連鎖してい
たと考えられる。村松武司は自身の母方の祖父であり、「朝鮮植民者」だった浦尾文蔵に
とっての植民地の意味をこのようにいう。
長兄たちから侮辱され続けていたひとりの小男が、脱出をはかる。そこに植民地があ
る。――それは偶然ではない。長いあいだ、おずおずと暮していたもっとも気の弱い誰
某でさえも、植民地へはいると、自分の威光を意識することができたのだ。誰も彼もそ
うであった。例外はなかった。ひとりの日本人にとって、朝鮮とはこのような意味で、
息を吹きかえす場所、舞台であった。開国したばかりの日本が、飛躍と光栄とを意識す
る舞台が、この世界のほかのどこにあったであろうか(村松 1972:102)。
植民地は、「文蔵ここに在」ることを確認できる場所であり、「暗黒は光栄に変わる」
(村松 1972:102)再生の地であった。在朝日本人の80%が都市生活者であったという事
実(尹 1990:8)、現地の人々に対する露骨な差別6
や生活・教育・文化空間の日常的な
分離(この点に関しては後述)があった点などは、そうした補償心理の結果でもあった。
しかし、支配の安定とともに、植民地がもつ機会の地としての魅力は徐々に消えていった。
1927年朝鮮南部の普州に生まれた小林勝は、小説『無名の旗手たち』のなかで、植民地社
会を次のように描いた。
友人たちの多くは、気さくで小心な、野心をうしなってしまった男たちだった。彼
等も私同様、若くして故郷を飛び出していた。その頃は多分、未知なる世界へとびこん
いって、自分の力を試してみようという勇気と、形のない、それでも希望としかよびよ
うのないものを抱いていたにちがいない。が、渡航してきてみると、なるほどそこは生
れてはじめて見る朝鮮であり、言語風俗から風景にいたるまで一変していてすべては広
大な未知の世界のように思われたけれども、力を試してみるべき世界などというものは
もうどこにも残されていないことを知ったのだった。政治経済の巨大な骨組みはがっし
121
- 121 -りとかためられていた。商人たちも町の大小を問わずいちはやく乗りこみ、ゆるぎない
地盤は築かれてしまっていた(小林 1970:103)。
坂本悠一と木村健二の共同研究『近代植民地都市 釜山』は、『昭和五年朝鮮国勢調査
報告』の分析を通して、1930年当時、釜山に在留する日本人のなかに朝鮮出生者が約30%
を占める、いわゆる「二世の時代」がはじまっていたことを明らかにしている。植民二世
たちの誕生とともに、朝鮮は「飛躍と光栄とを意識する」(村松 1972:102)ダイナミ
ックな機会の地から、高利貸しを業としながら「安月給でもとにかく女中をつかってのん
びり気兼なく生きていける」(小林 1970:115)小市民の生活空間へと変化していった。
小林勝が描写したのは植民支配が安定したのちの、「がっしりと固められた」植民地朝鮮
の地方社会であった。小林は同じ小説のなかで植民二世についてこのようにいっていた。
町の日本人の子供たちの大半は、朝鮮で生れている。彼等には自分の親や先祖が働く
者であったことがわからなくなっていた。無理もなかった。体を使ってせねばならない
仕事はすべて、いくら安くても現金の欲しい朝鮮人によっておこなわれていたのだ。
(中略)名実ともに植民地二世が誕生していたのだ。将来この子供たちはどういう人間
に育っていくのか、私には見当もつかない思いだった(小林 1970:111-112)。
植民二世の生活者としての弱さが彼らを囲む生活環境に起因していたのはいうまでもな
いことである。小林勝が指摘しているように、多くの日本人家庭が「女中」や「下女」を
雇う理由は、賃金が安いということもさることながら、「朝鮮人の女中を使う快感と近所
への見栄」(小林 1970:110)が作用していたからである。このことについてはすでに
多くの証言が存在するが、たとえば高崎宗司も、井黒美佳の未発表論文「植民地体験を省
みて」(1985)に依拠しながら、元在朝日本人の家庭を分析した結果、そのうち多くの家
庭が朝鮮人「使用人」を雇っており、その大部分はまるで「人格を持たない道具、ロボッ
ト的な存在」(高崎 2002:186)として扱われていた事実を紹介している。現地社会の
上に寄生する植民者の姿は、朝鮮大邱に生まれ、幼い時期を金泉と慶州で過ごした森崎和
江の回想のなかにも見出すことができる。
わたしたちの会話には、家でも学校でも、田畠に関するものはなく、米を作ってい
る家庭の子弟は友人にひとりもいなかったし、田畠の作業は暮らしとかかわりがないば
かりでなく、子どもの四季感ともまるで関連してはいなかった。あおあおとした田植え
後の田を見ながら、それを米とも麦とも知らずにいるふしぎさが、わたしの幼時を色ど
っている(森崎 1991:71)。
このようにして育った植民二世たちは「ついに、労働者とはなり得なかった」(村松
。1933年に京城で生まれ、戦後日本社会においてジャーナリストとして活動
した本田靖春は、敗戦後、はじめて祖国をみたときのことを次のように回想している。
もう一つの驚きというのは、馬の口をとる男たちが一人残らず日本人だったことであ
る。それはとても信じられないことであった。改めて周囲を見渡すと、われわれを目当
に露店をひろげる女たちも、荷役に忙しく立ち働く港湾労務者も、いるかぎりの人間が
日本人なのである。私は母親にたずねた。「本当にこの人たち、日本人? みな日本人
なの?」京城では、町中で“体を使う仕事”をするのはすべて朝鮮人であった。(中略)
母はいった。「そうですよ。ここは日本ですから。ホッとするわね。どこを見ても日本
人ばかりで」(本田 1984:156-157)8。
植民地社会は、頂点に植民地官僚と国策会社の関係者、その下に民間企業の者や植民地
で成功を収めた資産家、そのまた下に高利貸しなどを含む一般中小商工業者、そして最底
122
- 122 -
1972:104)7辺に朝鮮人の労働者が存在する、ピラミッド型構造をなしていた。「再生の地」としての
植民地は、一世たちに「光栄と飛躍」をもたらしてくれたが、収奪と抑圧の上に寄生する
植民地社会を所与の条件として成長した二世たちをひ弱い存在に造形していった。
植民二世は生活者としてのみならず植民者としても弱い世代であった。すでに言及した
ように、一世たちが帰ってゆく祖国をもっていたに対し、植民地で生まれ育った二世にと
って、日本は「いつかは帰るべき土地、植民者を酔わせる美しい故郷。それはここにはな
いが、彼方に存在するひとつの神聖な土地」(村松 1972:108)であった。二世たちに
おける祖国・日本は、幻想のなかに存在する「意識的な」ものであったにすぎなかったの
である。村松武司はいう。
「わたしは日本人に囲まれていたが、日本を知らなかった。朝鮮人の友人はまことに
少なかったが、朝鮮だけに住んでいた。」このような立場の日本人は、自分の幸福や運
命が、遠くはなれた祖国によってのみ保証されていることを、つねに自分に言いきかせ
ておかなければならない。そして祖国からの保護が実証されないときには、自分が祖国
に替って、自分自身を励まさないではいられない。祖国を知らず、祖国が遠いために、
自分の観念が祖国と同化するのである。(中略)だから、わたしたちは、日本人である
ことについて、より意識的、強調的であった。しばしばわたしたちにとって、祖国とは、
仮設であり、理想であり、誇張であった(村松 1972:182-183)。
見知らぬ「東京への憧れ」をいだく植民二世は、「日本人でありながら、日本を全く知
らず殺風景で不潔な植民地」(小林 1975:109)に住んでいる現実を悲しんだ。祖国を
知らない二世たちは強烈な帝国意識で武装した一世たちを恐れ、「“支配者”となり得な
い自分を恥じた」(村松 1972:50)。
3. 植民地の風景
よく知られていることであるが、戦後日本社会で朝鮮史研究を牽引した歴史家・旗田巍
も、1908年に朝鮮南部の都市である馬山で生まれ、馬山小学校、釜山中学校を卒業した、
植民二世出身の知識人の一人である9
。彼は幼いころの記憶を以下のように述べている。
子供のときのことを考えると、美しい山河とともに肉親や友達を思いだす。当時の
友人で今も交際しているのはごく少数で、大部分は死んだり消息不明になっているが、
それでも何人かの顔は思い浮かべることが出来る。しかし、それはみな日本人の子供の
顔であって、朝鮮人の子供の顔ではない。私は朝鮮で育ったが、朝鮮人の子供との親し
いつきあいはなかった。凧あげや海水浴などで偶然一緒になって遊んだものはいたが、
親しくつきあったものはいなかった。私たち日本人の子供と朝鮮人の子供は離れて育っ
たのである(旗田 1983:320-321)。
旗田が住んでいた馬山は、日本人と朝鮮人の住居空間が画然と分離されている都市であ
った。日露戦争のころから開発されはじめた新馬山には日本人が住んでおり、旧馬山には
朝鮮人たちが生活していた。教育現場においても状況は同じであった。日本人の子供と朝
鮮人の子供はおのおの小学校と普通学校に分離されたまま教育を受けた。旗田は次のよう
に回想する。
私は朝鮮で育ったとはいうものの、日本人街に住み、日本人だけの小学校に通い、
日本風の生活様式のなかにいた。こういう環境であったから、朝鮮人の子供と親しくな
る機会は乏しかった。しかも私たちは朝鮮について無知であった。朝鮮については目に
うつることを感覚的に知るだけで、まとまった知識として学ぶことはなかった。学校で
は完全な日本式教育を授かるだけで、朝鮮の言葉はもとより歴史も地理も歌も習わなか
った(旗田 1983:321)。
123
- 123 -教育現場での差別的な状況は生活空間においても変わりがなかった。本田靖春は子供の
とき次のような経験をした。ある日、隣に住んでいる両班出身の朝鮮人・「金さん」(彼
は日本人居住地に住む唯一の朝鮮人であった)の家からキムチのお土産が届いた。本田の
母親は、丁重に礼をいって金家の使いを帰したあと、そのキムチをゴミ箱に捨ててしまう。
本田はこうした類の経験談をいくつか紹介したあと次のように述べる。
それにしても、こうして「京城」で生まれ育った私は、「朝鮮にいた」といえるので
あろうか。基本的に私たちは“招かれざる訪問者”であった。三十六年の歴史の虚構は、
私に十二年半のうつろな時間と、そこの民衆から隔絶された根ざすことのない空間を与
えただけではなかったのか(本田 1984:34)。
植民地は共存しながらも交流しない二重社会であった。森崎和江はそのような植民地の
姿をこう描写していた。
ごく幼いころの住いは日本人ばかりの、それも陸軍の聯隊長や将校だけが住んでいる
丘の上に、数軒の民間人として加わっていた。裏の林のむこうへ下った所には、朝鮮人
の町があるようであったが、行ったことはなかった。しかし、いつでも、自分のくらし
のまわりには自分とは生活様式を異にする人びとが、それぞれ家族とともに生活を営ん
でいるのだという、異質な価値観との共存世界がこの世だとの思いがあった(森崎 2
007:94-95)。
いう10
教育者の妻であった森崎の母は、登下校のとき、朝鮮人村を避けて通ることを勧めたと
。日本人植民者にとって、朝鮮人や朝鮮人社会は、自分たちの存在基盤を揺り動か
しかねない異質な他者であった。町で見かける朝鮮人、登下校時顔をあわせる同じ年頃の
朝鮮人の子供たち、日本人社会に働く朝鮮人労働者、「林の向こう」の朝鮮人村等々は、
植民二世たちが日常生活のなかで接する異質的存在の具体的な姿であった。小林の小説
『無名の旗手たち』のなかには、朝鮮人の顔についての描写が類出する。洪水があったに
もかかわらず感情の変化をみせない農夫たちの顔(小林 1970:108-109)や、「大人の
ような複雑な笑い」を含む「何次孝」という名の朝鮮人学生の「薄気味のわるい」顔(小
林 1970:126-127)などは、理解不能な異質的な他者に対する不安感を象徴していた11
しかし、植民地の不安は、その社会のなかで少数として存在するかぎり避けられないこと
でもあった。植民地少年・安岡章太郎は京城での不安感を次のように描いた。
子供の頃、私は零下二十度近い真冬の本町の舗道に自分と同じ年頃の朝鮮人の子供が、
素肌に南京袋みたいなものをまとっただけで、イモムシみたいになって寝転がっている
のを見ると、憐れみや同情よりも、そのふてぶてしさが端的に怖ろしかった。店舗の前
をふさがれると客が寄りつかなくなるので、ときどき店員が出て来て、その子の着てい
る南京袋を摑んでズルズルと他の場所へ引き摺って行く。子供はまるで死んだようにグ
ッタリとされるままになっているが、店員がひっこむとたんに立ち上って、また同じ店
の前へ行って半裸の体をゴロリと横たえる。そんな動作が、たしかに生きものとして慄
然となるようなものを、子供の私に感じさせた。(中略)私は、そういう朝鮮人の子供
が他にも多数いて、寄り集っては自分たちの知らない地下でモグラモチみたいに体を寝
そべらせながら、せっせとメチャクチャに大きな穴を掘りつづけているような気がして、
気味悪かった(安岡 1977:44-45)。
たとえ祖国が「仮設であり、理想であり、誇張」であっても、植民二世は国家との一体
感を強く意識するしかなかった。自分たちの生活が植民地的差別と抑圧の上に成立し、そ
れゆえに周囲の朝鮮人が植民二世の生活の安定を根こそぎ破壊しかねない可能性を常に保
124
- 124 -持しているかぎり、在朝日本人の生を究極的に保障しうる存在が植民地帝国・日本以外に
ないことを、彼らもおぼろげながら認識していたからである。
植民二世にとって朝鮮は共感しえない異質的他者によって囲まれた暗鬱な故郷であった。
それだけに彼らが回想する植民地の風景は成功談や武勇伝が幅を利かせる一世たちのそれ
とは様子を異にしていた。二世たちが表明する小国民としての自負も、一世たちのような
実感を伴った自信感の発露ではなく、植民地社会に対する恐怖心の反証であるにすぎなか
った。
4. 戦後日本社会と植民二世
アジア太平洋戦争の末期、九州大学病院で行われた連合国捕虜たちに対する生体実験を
素材にした遠藤周作の小説『海と毒薬』になかには、主人公が住む街の平凡な隣人として、
生体実験に加担した町医者、中国戦線で女性をレイプしたことがあるガソリンスタンドの
社長、南京で憲兵をしていた洋服店の主人などが登場する。このような設定を通して遠藤
が告発しようとしたことは、日本社会の凡神論的性格とそれがもたらす原罪意識の欠如で
あったが、作品のなかで描かれる、日常性の裏に潜んでいる戦時暴力は、戦後日本社会に
おいて戦争責任の問題がなんらの法的・思想的「清算」なしに、高度経済成長のなかに解
消されてしまったことを間接的に物語っている12
遠藤がいう原罪が超越的存在である神に対する人間の罪を意味したのに対し、森崎和江
は慶尚北道大邱府三笠町に生れた「自分の出生」それ自体を「罪」(森崎 1970:178)
として考え続けながら戦後を生きた。彼女は戦後日本社会において植民二世として歩んで
きた自身の思想的道程を次のようにいう。
敗戦以来ずっと、いつの日かは訪問するにふさわしい日本人になっていたいと、その
ことのために生きた。どうころんでも他民族を食い物にしてしまう弱肉強食の日本社会
の体質がわたしにも流れていると感じられた。わたしはそのような日本ではない日本が
欲しかった。そうではない日本人になりたかったし、その核を自分の中に見つけたかっ
た。また他人の中に感じとりたかった(森崎 1991:203)。
敗戦は植民二世にそれまで自分たちが生活していた空間が植民地に他ならなかった事実
を知らしめる出来事であった13
地においては戦争を実感する機会が少なかったし14
た15。それだけに敗戦による衝撃と虚脱感は大きかった。まもなくはじまった「引揚」16
「帰郷」は、二世たちが夢見た祖国と同胞なるものが一つの神話であるにすぎないことを
見せつける契機となった。森崎は自分たちを「朝鮮帰りの非国民」17
視線を感じながら次のように考えた。
。戦時とはいえ、空襲や実質的な戦闘行為がなかった植民
、物資状況も「内地」より豊かであっ
とみる母国の冷たい
日本に住みはじめた私は、日本の風土への嫌悪感に苦しんだ。自民族に自足している
者の匂いは、太陽がのぼるところも、しずむところも、自分の情念の野面だと信じてい
るので内にこもってしまうのである。異質の文化を認める力が弱々しいのである。むし
ろそれを排斥するのである。私はさみしかった。こんな風土が母国なのか。近隣諸民族
を軽蔑するばかりではない、国の中で同質が寄りそってたがいに扉を閉ざしあう。これ
では植民二世の私よりも劣っているではないか(森崎 2007:96-97)。
敗戦以後、植民二世たちが経験した母国は、もう一つの異質的な差別空間であるにすぎ
なかった。母国への幻想は現実によって破壊されたが、その過程のなかで植民二世が日本
社会に対してもつ違和感は、植民地における異質感と類似なものであった。二世たちによ
る植民地学習がはじめられ、「半日本人・半朝鮮人」という新しいアイデンティティが誕
生するのはそうした状況のなかにおいてであった18。
125
- 125 -二世たちによる植民地学習は、事後的に、現在と過去を行きかう形で行われた。思考は、
現在を出発し、過去を経て、再び現在に戻ってくる回路を通じて行われた。朝鮮北部の元
山で敗戦を迎えた後藤明生は、小説『夢かたり』の「後記」で、そうした作業を「過去か
ら現在へ向う時間と、現在から過去へ向う時間の複合」(後藤 1976:373)と表現した。
本田靖春がいう「理性的出発」とは、そうした現在と過去を行きかう思考の通路を通して
到達した一つの識見であった。
自分のおろかさをいうことにしかならないが、私にとっての故郷は朝鮮だという思い
が、つねにあった。しかし、そこには、私を待つ友が一人もいなければ、私が訪ねる旧
知の人も皆無だったのである。いったい、語り合い、懐かしみ合う友を持たない土地を、
故郷と呼べるのであろうか。私が愛してきたのは、自分が生まれ育った「京城」であっ
て、朝鮮あるいは朝鮮人ではなかったのである。自分をそう見定めることによって、こ
の隣人との新しい関係の出発点に、私は初めて立つことができるかもしれない。それを
私は「理性的出発」と呼びたいと思う(本田 1984:185-186)。
本田が思うに、朝鮮との新しい出会いのためには、他者としての朝鮮と植民者としての
自己を認識する作業が前提されなければならなかった。彼がいう「理性的出発」は、その
ような前提条件が満たされてはじめて到達しうる「新しい関係の出発点」を意味した。森
崎和江はそれをもっと端的かつ簡明に、「わたしたちの生活が、そのまま侵略なのであっ
た」(森崎 1991:45)と述べた19。
1970年代に入って、日本社会においては、植民二世たちによる望郷の歌が聞こえるよう
になった。大連出身の植民二世作家・清岡卓行の作品『アカシヤの大連』が異国の地にお
いてきた故郷に対する郷愁を描いて、第62回芥川賞を受賞したのも同じころの出来事であ
った。このような現象の原因としては、敗戦以降の一定の物理的時間の経過、戦後日本社
会の経済的安定、そして植民二世当事者の肉体的年齢などといった理由が考えられる。し
かし二世たちの懐かしさは、「私ももう一度、人生を繰り返すチャンスがあれば、再びア
カシヤの花の香り漂う京城の街に住み」(高崎 2002:204より再引用)20云々の一方通
行的な望郷歌にすぎない場合が多かった。たとえば『アカシヤの大連』は、次のようには
じまる。
かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない大連をも
う一度見たいかと尋ねられたら、彼は長い間ためらったあとで、首を静かに横に振るだ
ろう。見たくないのではない。見ることが不安なのである。もしももう一度、あの懐か
しい通りの中にたったら、おろおろして歩くことさえできなくなるのではないかと、密
かに自分を怖れるのだ(清岡 1988:71)。
川村湊は『アカシヤの大連』を評して、大連という街をまるで一人の女性のように愛し
た一種の「恋愛小説」(川村 1990:80)だといったことがある。川村がこのようにい
うのは、清岡にとっての大連が「現実の都市というより観念の中の故郷であって、ついに
は虚構と追憶という二つの非現実的な世界の中のものでしかない」(川村 1990:91)
ことを指摘するためであった。たしかに、清岡は、自身の幼青年期と大連の美しい自然を
懐かしむだけで、その裏面に存在するはずの帝国主義の歴史に対してはほとんど無関心で
一貫した。彼の作品のなかで列強の圧力の下に呻吟する中国人や中国社会が単に背景的な
存在としてのみ描かれる理由もそこにあった21。
こうした意味で、『アカシヤの大連』と同じ年に刊行された小林勝の『チョッパリ』は、
清岡が看過した歴史の問題を直視する点において、大きな対照をみせていた。本を終える
に際し、小林は、自分の文学における「朝鮮」の意味を述べて、「私自身の魂の深みにお
そらく執念深くひそんでいるであろう差別意識をひきずり出して、文学の中にその醜悪な
126
- 126 -実体を形象化し、うち倒す現実の道に光をあてる」(小林 1970:293)ものとして位置
づけていた。小林において朝鮮は一つの方法として存在していたのである。彼はこういう。
私にとって朝鮮とは何か、という問題を考える時、私は、私がかつての「植民地朝鮮」
で生まれ、軍の学校へ入校するまでの十六年間をそこで過ごしたという直接体験を含む
「過去」の問題としてそれを捉えようとするわけではありません。もちろん、日本およ
び日本人の歴史にとって、朝鮮および中国に対するその「過去」は、現在の日本と日本
人形成について考える場合にぬきさしならない重要なものではありますが、私は、それ
を、すでに終ったもの、完了したもの、断絶したものと考えることが出来ません。いや
むしろ私は日本にとっての朝鮮と中国とは、その「過去」から「現在」へ、現在から未
来へと連続して生きつづける一つの生きた総体と考えるのです(小林 1970:295)。
過去をただ「ふりかえる
、、、、、
のではなく、その原点に立って、そこから未来を見透していこ
う」(小林 1970:296)とする小林の姿勢は、次に掲げる村松武司のそれとともに、現
代の私たちが忘れかけようとしている重要な問題を想起させてやまない。
ここでわたしが意図するのは、祖父の歴史とわたしの現在とを区別しないこと。過去
を過ぎ去ったものとして葬らず、ふたたび墓場から引き出すことである。したがって、
これは日本の過去の植民史ではない。現在の植民主義的状況を示す(村松 1972:
3)。
植民二世としての自らの存在が帝国日本と現代日本を架橋する身体であることを自覚し
つつ、そうした自己の否定を通して戦後日本の脱帝国化を試みようとする小林や村松の考
えが依然として有効な方法であることは、いまも変わりない。

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1 本稿は主に在朝日本人二世出身の作家を分析対象とするが、文中ではそれ以外の地域、
たとえば中国の大連出身の作家たちの作品をも取り上げる予定である。
2
1945年当時、70万人を超えていた在朝日本人の数は、敗戦後急激に減少し一気に消滅し
た。この点については、尹健次「植民地日本人の精神構造」(尹 1990)を参照。
3
「植民地と日本人」(梶村 1992)からも多くの示唆を受けた。
4
978、龍渓書舎)。
5
在朝日本人二世については、高崎宗司、尹健次などの研究がある。本稿は、梶村秀樹
1918年に東洋拓殖株式会社に入社した猪又正一の発言。猪又正一『私の東拓回顧録』(1
この点に関しては、高崎宗司の前掲書、木村健二『在朝日本人の社会史』(1989、未来
社)などを参照。植民一世の移住者たちは、日本国内における農民層の分解過程のなかで
発生した棄民(「過剰人口」)の性格が強かった。一言に、国内的矛盾の外部的解消とし
て植民一世の移住があったのである。
6
写がある。
7
一例として、在日文学者である金達寿の自伝『わがアリランの歌』のなかには、「手に
猟銃を持ち、猟犬を引きつれて集落」(金 1977:8)に姿を現す日本人の高利貸しの描
村松はほかの著作で、「植民地において日本人労働者階級に会うことがなく、戦後、日
本においてはじめて発見した」(村松 1979:238)経験を紹介している。在朝日本人の
職業別人口のなかで、農業や牧畜業人口の比率が非常に低かったことについては、梶村秀
樹の「植民地と日本人」などが指摘している。
8
中国の大連で生まれ、戦後、作家として活動した千田夏光も、自身の中国経験を述べた
『植民地少年ノート』のなかで、引揚船が日本の港に着いたとき、千田の妹が発した第一
声が「あらあらっ、あそこで日本人が働いている」(千田 1980:161)ということばで
127
- 127 -あったと書いている。
9
旗田については、高吉嬉の研究(高 2001)が詳しい。
10 森崎は回想する。「「行ってはいけない」時間や場所がなんと私たちには多かったこと
だろう」(森崎 1970:216)。
11
ここで朝鮮人学生の名が「何次孝」であることについて若干言及すると次のようである。
旗田巍の証言からもわかるように、当時植民二世の大部分は学校で朝鮮語を習わなかった
し、習っても形式的なものであったにすぎなかった。したがって二世たちは、朝鮮語を発
音として憶えている場合が多い。「何次孝」という朝鮮人らしからぬ人名が登場するのも、
多分そういう理由からであろう。
12
周知のとおり、遠藤周作も幼いころ中国の大連で暮らしたことがある植民二世出身作家
の一人である。しかし大連は、遠藤の作品世界のなかで重要なテーマとなることはついに
なかったようである。『海と毒薬』には、生体実験に加担した看護婦が登場するが、彼女
は25才のとき満鉄社員と結婚し大連に渡ったが、夫の浮気を理由に日本に戻り、九大病院
で働く人物として描写されている。遠藤の作品のなかで大連と関連がある人物は、管見の
かぎり、『犀鳥』(『文芸春秋』1973年 2月)の主人公である「小説家」や、『深い河』
(1993、講談社)の「沼田」くらいである。両親の離婚という個人的経験が作用したせい
か、遠藤が描く大連は暗鬱で孤独な心象風景がほとんどである。
13
梶山季之の一連の朝鮮関連小説である「性欲のある風景」、「米軍進駐」、「闇船」
(三作品すべて、(梶山 2002)に収録)は、敗戦直後の京城を舞台にしたもので、具体
的な地名とともに時間が経過するにつれ、国家の敗戦と朝鮮の解放を徐々に認知してゆく
日本人植民者の心理が描写されていて興味深い。梶山の朝鮮認識がもつ問題点については、
同小説集の川村湊の解説「梶山季之「朝鮮小説」の世界」を参照。
14
それだけに、植民地の日本人にとって敗戦は「突然な出来事」だったようである。たと
えば、梶山の『さらば京城』のなかには、敗戦当時、18才の「康子」が「京城は、たった
の一度も、空襲を受けていない。大本営は、本土決戦、本土決戦と叫んでいたではないか。
私たちは、みんな五体満足なのに、これが何故、負けたと云うことになるのだろう?」
(梶山 2002:205-206)と、敗戦に疑問を表する場面が出てくる。
15
風」(千田 1980:158)だったようである。
16
千田夏光の証言によると、戦時下の大連では、「形は配給制になったが、口にするもの
はいぜんと変わらない。日本内地の食糧欠乏、肉なし砂糖なし酒なしの生活などどこ吹く
村松武司は、「「引揚げ」させられたという受動的な言葉のなかには、個々の無辜の悲
劇がこめられているかもしれないが、やはり相手の民族に対する無視が、心理の底に横た
わっている。わたしたちは、歴史的に「植民者」以外の何者でもなかった」(村松 197
2:244)といった。こうした発言は、現代日本でよく見受けられる犠牲者的な「引揚」体
験談のもつ陥穽を指摘する卓見である。
17
があった。
18
当時使われた差別的な表現として、「朝鮮帰り」、「満州帰り」、「植民地帰り」など
「コロニイ出身の流れ者」という本田靖春の自己規定も同じ文脈での話しである(本田
1984:239.生島治郎「解説」)。 植民二世出身の知識人の思想を考えるとき、植民地
経験がもつ意味はいくら強調しても過ぎることはない。日野啓三『あの夕陽』(日野 19
74)は、朝鮮半島と植民二世出身者との切っても切れない宿命的関係を描いた小説だが、
作品のなかの、主人公と植民地経験をもたない妻「令子」との間のすれ違いは、そのまま
戦後日本に対する植民二世の違和感を象徴している。
19
森崎はこのようにもいった。「戦後はなばなしく動き出した帝国主義批判ふうの思潮に
も、心をよせることはできなかった。なぜなら、私は政治的に朝鮮を侵略したのではなく、
より深く侵していた。」(森崎 2007:95)。私は植民地支配に対するこれ以上の省察を
128
- 128 -発見することができない。
20
21
京城三坂小学校記念文集編集委員会編『鉄石と千草』(1983、三坂会事務局)。
清岡の大連認識がもつ問題点については、「支配と郷愁 近現代日本の大連表象」(李
2011)で論じたことがある。
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参照文献

尹健次、1990、「植民地日本人の精神構造」尹健次『孤絶の歴史意識 日本国家と日本人』
岩波書店.
遠藤周作、1958、『海と毒薬』文芸春秋新社.
梶村秀樹、1992、「植民地と日本人」『梶村秀樹著作集 第一巻』明石書店.
梶山季之、2002、川村湊編『李朝残影 梶山季之朝鮮小説集』インパクト出版.
川村湊、1990、『異郷の昭和文学 「満州」と近代日本』岩波新書.
木村健二、1989、『在朝日本人の社会史』未来社.
清岡卓行、1988、『アカシヤの大連』講談社文芸文庫(初出、1970年).
金達寿、1977、『わがアリランの歌』中公新書.
高吉嬉、2001、『「在朝日本人二世」のアイデンティティ形成 旗田魏と朝鮮・日本』桐
書房.
後藤明生、1976、『夢かたり』中央公論社.
小林勝、1970、『チョッパリ』三省堂.
―――、1975、『小林勝作品集 第一巻』白川書院(初出、1957年).
坂本悠一・木村健二、2007、『近代植民地都市 釜山』桜井書店.
千田夏光、1980、『植民地少年ノート』日中出版.
高崎宗司、2002、『植民地朝鮮の日本人』岩波新書.
西順蔵、1983、『日本と朝鮮の間 京城生活の断片、その他』影書房.
旗田魏、1983、『朝鮮と日本人』勁草書房.
日野啓三、1974、『あの夕陽』『新潮』1974年9月.
本田靖春、1984、『私のなかの朝鮮人』文春文庫(初出、1974年).
村松武司、1972、『朝鮮植民者 ある明治人の生涯』三省堂.
――――、1979、『遥かなる故郷 ライと朝鮮の文学』皓星社.
森崎和江、1970、『ははのくにとの幻想婚』現代思潮社.
――――、1991、『慶州は母の呼び声』ちくま文庫(初出、1984年).
――――、2007、『草の上の舞踊 日本と朝鮮半島の間に生きて』藤原書店.
安岡章太郎、1977、『自叙伝旅行』角川文庫(初出、1973年).
金勝、2012、「개항 이후 부산의 일본거류지 사회와 일본인 자치기구의 활동(開港以
降釜山の日本居留地社会と日本人自治機構の活動)」仁荷大学韓国学研究所編『동아시아
개항도시의 형성과 네트워크(東アジア開港都市の形成とネットワーク)』グローバルコ
ンテンツ.
車喆旭・梁興淑、2012、「개항기 부산항의 조선인과 일본인의 관계 형성(開港時期に
おける釜山港の朝鮮人と日本人の関係形成)」仁荷大学韓国学研究所編『東アジア開港都
市の形成とネットワーク』グローバルコンテンツ.
李秀烈、2011、「지배와 향수(支配と郷愁 近現代日本の大連表象)」『日語日文学』
50.
(付記)この研究は、李秀烈「재조일본인 2세의 식민지 경험(在朝日本人2世の植民地
経験)」(『韓国民族文化』50、2014年)を加筆・修正したものである。


129
- 129 -(Lee Soo Yeol/韓国海洋大学)

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