津田左右吉
| 人物情報 | |
|---|---|
| 生誕 | 1873年10月3日 (現・美濃加茂市下米田町東栃井) |
| 死没 | 1961年12月4日(88歳没) |
| 国籍 | |
| 出身校 | 東京専門学校 |
| 学問 | |
| 時代 | 大正・昭和 |
| 研究分野 | 東洋史学 東洋哲学 |
| 研究機関 | 早稲田大学 |
| 主な業績 | 上代史と東洋史の研究 |
| 主要な作品 | 『文学に現はれたる我が国民思想の硏究』 『古事記及び日本書紀の研究』 『神代史の研究』 『日本上代史研究』 『上代日本の社会及思想』など |
| 影響を受けた人物 | 白鳥庫吉 |
| 影響を与えた人物 | 家永三郎 |
| 主な受賞歴 | 朝日賞(1960年) |
津田 左右吉(つだ そうきち、1873年〈明治6年〉10月3日 - 1961年〈昭和36年〉12月4日)は、日本の歴史学者・思想史家[1]。早稲田大学文学部教授。記紀を史料批判の観点から古代史研究したことで知られ[注 1]、日本における実証史学の第一人者。1947年帝国学士院会員選出。1949年(昭和24年)に文化勲章受章。従三位勲一等。
概要
1913年(大正2年)の『神代史の新しい研究』、1919年(大正8年)の『古事記及び日本書紀の新研究』を刊行(のちに、それぞれ1924年(大正13年)に『神代史の研究』、『古事記及び日本書紀の研究』として補訂再刊)が代表的な初期の研究成果である[3]。それらの研究では、記紀神話の記述について神話と歴史とを峻別し、古典に対する徹底した史料批判を通して歴史的事実を考察した[3]。
津田は記紀神話から神武天皇、欠史八代から第14代仲哀天皇とその后の神功皇后まで、つまり第15代応神天皇よりも前の天皇は系譜も含めて、史実ではなく、後世において作られた物語であるとした[3]。これらの部分は後年の大和朝廷の官人の政治的目的による造作の所産であり、記紀神話は皇室に政治的威権を持たせるという思想を前提に、それを物語として展開していったもので、神武東征もその一部であるとした。また、第23代天皇顕宗天皇、第24代仁賢天皇らの発見物語も典型的な貴種流離譚であって実在しないとしている。発見譚に関わった第22代清寧天皇も、第24代仁賢天皇の皇子の第25代武烈天皇も実在しないと主張した。これらの主張は1939年(昭和14年)頃から批判を受けるようになり、翌年に著作が発禁処分となったり、一部削除を命じられたりした[3]。しかし津田には、自説と唱えることに皇室の尊厳を冒涜する意識は全くなく、皇室の尊厳は、神話や政治的威権に基づくものではないという信念があった[3]。
津田説は、戦後ながらく通説として扱われてきたが、考古学の進歩などにより批判的に取り上げられる場合も多くなった。
生涯
- 生い立ち
1873年(明治6年)10月3日、岐阜県加茂郡栃井村(現・美濃加茂市下米田町東栃井)に士族・津田藤馬の長男として生まれた[3]。津田家は尾張藩の附家老である竹腰家の家臣で、明治維新の後に竹腰家より命じられて同地へ移住した[4]。
1886年(明治19年)に文明小学校(美濃加茂市立下米田小学校)を卒業。文明小学校では、士族の子として、校長の森達(もり とおる)から漢籍などの指導を受けた。小学校卒業後は名古屋の私塾を転々とした後、大谷派普通学校(現在の名古屋大谷高等学校)に入学したが、翌年に中退して故郷の東栃井に戻り、東京専門学校(後の早稲田大学)の校外生として講義録で学んだ。
1890年(明治23年)に上京し、邦語政治科に編入。翌1891年(明治24年)、東京専門学校邦語政治科(現在の早稲田大学政治経済学部)を卒業[5]。
- 中学教師ならびに歴史研究者となる
東京専門学校卒業後は、個人的に白鳥庫吉の指導を受けた。1896年(明治29年)8月から群馬県立旧制前橋中学校(現在の県立前橋高校)で歴史担当助教諭となった。国史・東洋史・西洋史を専門別に分けて担当せず、一人の教師が教授すべきであると考えていた津田は「つらつら思うに、学校も愉快に堪えず」、そして「最も不愉快なるは受持科目なりけり」と日記に書いた(出典:前橋高校同窓会会報第47号、2020年5月)。その後、翌1897年4月に千葉県立旧制千葉中学校の教員に就任、校長は白鳥庫吉の文科大学の後輩、菊池謙二郎であった。就職に際し、白鳥が菊池の動静について津田に語っている記録が残り、白鳥による菊池への推挙があった事、採用には白鳥の影響があったことが分かる。津田も菊池校長を高く評価していた[6]。1901年(明治34年)、28歳で『新撰東洋史』を刊行。
- 満鉄東京支社 満鮮地理歴史調査室の研究員となる
1908年(明治41年)、中学校教員を退職し、満鉄東京支社嘱託・満鮮地理歴史調査室研究員となった。研究室長は白鳥庫吉であった。満鉄調査部の満州朝鮮歴史地理調査部門には、その他に松井等、稲葉岩吉、池内宏らがいた[7]。津田はこの調査部で「渤海考」「勿吉考」をテーマとした東洋史研究調査を行った[注 2]。1913年(大正2年)には、岩波書店から『神代史の新しい研究』を刊行。同機関は、1914年(大正3年)に東京帝国大学文科大学に移管されるが、移管時まで所属した。
- 満鉄退社、大学教員となる
1917年(大正6年)には『文学に現われたる我が国民思想の研究』の第1巻を刊行し、1921年まで刊行を続けた。1918年(大正7年)、早稲田大学講師に就任[3]。東洋史、東洋哲学を教えた[1]。翌1919年(大正8年)、『古事記及び日本書紀の新研究』を発表。1920年(大正9年)、早稲田大学法学部・文学部教授に昇格。
51歳の1924年(大正13年)、『古事記及び日本書紀の新研究』と『神代史の新しい研究』を補訂した『古事記及び日本書紀の研究』、『神代史の研究』を再刊[3]。神武天皇以前の神代史を研究の対象にし、史料批判を行ったものであった。1927年、『道家の思想と其の開展』を発表。1930年(昭和5年)には『日本上代史研究』、1933年には『上代日本の社会及び思想』、1935年(昭和10年)には『左伝の思想史的研究』、1937年(昭和12年)には、小著『支那思想と日本』、1938年(昭和13年)には『儒教の実践道徳』『蕃山・益軒』と旺盛に執筆活動を続けた。1939年(昭和14年)、東京帝国大学法学部講師を兼任し、東洋政治思想史の講座を受け持った。
- 津田事件(1939年)
1939年、津田事件と呼ばれる発禁事件が起こった。津田は歴史研究者としての立場から記紀に記載された内容の文献学的考証を行い、記紀神話や『日本書紀』における聖徳太子関連記述について、その実在性を含めて批判的に考察した。津田が指摘したのは、おおよそ次の諸点である[8]。
- 古事記と日本書紀の元になったのは、皇室系譜の「帝紀」、宮廷で伝わってきた説話の集合体の「旧辞」である。
- 帝紀と旧辞が成立したのは、6世紀の継体天皇~欽明天皇の時期である。
- 帝紀の系譜は全て史実ではなく、少なくとも15代応神天皇より以前(14代仲哀天皇や13代成務天皇以前)の天皇は創作された非実在の人物である。
- 旧辞の大部分、特に神話の部分は、6世紀の宮廷官人が、上古より天皇が国土を治めていたことを説く為に造作されたもので、史実的な資料価値は全く無い。
特に問題とされたのは、津田が執筆した『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』の2冊で、文献的批判を行ったことが神典とされてきた記紀を否定する行為であるととらえられた。蓑田胸喜や三井甲之らは、津田を「日本精神東洋文化抹殺論に帰着する悪魔的虚無主義の無比凶悪思想家」であって、不敬罪にあたると攻撃した[9][10]。これを受けて内務省は、1940年2月10日に『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』の2冊を発禁処分とし、『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の2冊は一部削除を命じた[3][注 3]。事件の発生と同じ頃、津田は文部省の要求で早稲田大学教授についても辞職させられ、3月に出版元の岩波茂雄と共に東京地方検事局の取り調べを受けた。検察側の起訴理由は以下の通りで、津田の主張を明確に表している。
『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の中に次のような内容が含まれている。
- 神武天皇(初代)から仲哀天皇(14代)までの歴代天皇の存在を否定する記事がある。
- 神武東征及び景行天皇の筑紫巡行・熊襲親征、日本武尊の熊襲征伐・東国経略、神功皇后の三韓征討など、上代における皇室の事蹟を、全て否定している。
- 現人神である天皇の地位は祭祀を行う役割に由来するものとしている。
- 天照大神は神代史作者が観念上、創作したものとしている。
- 天照大神を始めとする皇室系譜上の神々は、朝廷による支配を正当化するための政治的目的で創作された存在としている。
- 皇極天皇以前の神勅、詔勅は、全てのちの人が創作したものとしている。
- 仲哀天皇以前の皇統譜には、意図的に手が加えられているとしている。
- 仁徳天皇の仁政は、中国の思想をもとに創作された物語としている。
- 皇室系譜の神々は、天皇の統治権を確立し、皇室の権威の由来を説明するために、創作された物語上の存在であるとしている。
- 天照大神からニニギノミコトに賜った神勅には、中国の思想を含み、かつ日本書紀編者の手が加わっているとしている。
やがて津田は3月8日に起訴、不拘束のまま予審に回附された[12]。以後21回にわたる公判が非公開のうちにおこなわれ、1942年(昭和17年)5月に禁錮3か月、岩波は1か月、ともに執行猶予2年の判決を受けた[3]。起訴理由のすべてが有罪にならなかったため控訴した検事側に対して津田側も控訴したが、審理が行われないまま、1944年(昭和19年)11月4日に時効により免訴となった[3][13][注 4]。
この裁判について津田はのちに、「官憲による弾圧ではない」と歴史学者の大久保利謙に述べており、法廷ではまるで学問の講義をしているつもりであったという。その主張の核心は次のように要約される。そもそも天上に国土があるはずがなく、天から人が降りてくるはずもないから、これは説話である。説話を歴史的事実の記録とすることは『古事記』の精神を破壊してしまうことになる。自分は、従来の学者が殺した古典を生かそうとしたのであって、学問的真実を明らかにすることで、尊厳なる国体、わが皇室の地位がますます強固になる、というものであった[15]。第19回公判に証人として出廷した和辻哲郎は、津田の研究は皇室の尊厳を冒涜するどころか、かえって皇室に対する尊崇を増すほどで、どんな合理的議論に対してもびくともしない学説の基礎を立てているとして、大変よいことと陳述している[16]。検事側の論告内容を5つに要約したなかで有罪とされたのは、仲哀天皇以前の天皇の存在を肯定する記述がなかった部分についてのみで、当時の時代背景を考えても冷静な裁判が行われ、理性的な判決が下されたといえる[17]。
- 戦後
戦後、津田は戦前の弾圧の経験があったことから、逆に好意的に学界に迎えられた。津田は歴史を政略の具にするべきでないとして、儒教、仏教、神道、国学などによる歴史観に反対し、また左翼思想にも同様に反対した[18]。一貫して共産主義には否定的であり[19]、戦後の共産主義の流行についても批判的であった。当時東京大学法学部の助手であった丸山眞男によると、「先秦政治思想史」の最終講義の終わりに津田を講師控室に導いた際に大勢の人々が押しかけて来て、その中の1人が「津田先生の立場は唯物史観ではないか」と迫った際には、津田は素早く「唯物史観は学問なんかじゃありません」と一蹴したという[2]。
1946年(昭和21年)、雑誌『世界』第4号に発表した論文「建国の事情と万世一系の思想」では、「天皇制は時勢の変化に応じて変化しており、民主主義と天皇制は矛盾しない」と天皇制維持を論じた[20]。津田のこの姿勢は、天皇制廃止論者達からは「津田は戦前の思想から変節した」と批判された[21]が、津田の「天皇制を立憲君主制に発展させるべき」との考え方は戦前から一貫したものであり、戦後になって変化したわけではない。論文を掲載した『世界』の編集者は、津田に対して皇室擁護の記述の再考を求めたが、津田は30年来の持論であるとしてこれに応じなかった[22]。実際、33年前の大正2年に出版した自著『神代史の新しい研究』において、「わが国の皇室は、上代の少数の氏族すべての宗家であり…其の間の関係は血縁で維(つな)がれた一家の親(したし)みであつて、威力から生ずる圧服と服従とではないといふのである。皇室の万世一系である根本的理由はここにあるので国民的団結の核心であるからこそ、国民と共に、国家と共に、永久なのである。さうして、皇室の真の威厳がここにある」と主張している[22]。
1947年(昭和22年)、帝国学士院会員に選出された[注 5][23]。
1952年(昭和27年)にも津田は、天皇と国民が政治的権力において対立の関係であったかのような「誤った見解」を広めているジャーナリズムを批判し、「天皇が権力を以て国民に臨まれたことは昔から無かった」と述べている[24][25]。
天皇が権力を以て国民に臨まれたことは昔から無かった。天皇はどこまでも日本国家の統治者であられたけれども、歴史的事実の明かに知られる時代になってからは、実際に政治の局に当られたことは、一二の例外を除けば、全く無いといってもよく、(中略)昔から権力を以て国民に臨んだのはかかる権家であったのである。従ってまた国民は、皇室に権力があるものとして、それに対して畏怖もしくは反抗の念を抱いた、というようなことはただの一度も無い。それと争おうとしたというようなことに至ってはなおさらである。— 津田左右吉「日本の皇室」[24]
津田は、「天皇制」に対し批判的な左派論者が恣意的な歴史像を提示して自国の歴史を嘲笑的に取り扱いながら日本人の過去の生活を醜悪で無価値であるかのように論じることを強く批判していた[3]。
受賞・栄典
研究業績
古代史研究:記紀への問い
『古事記』や『日本書紀』、特に神話関係の部分は後世の潤色が著しいとして史料批判を行った。その方法は津田の創始ではなく、明治以降の近代実証主義を日本古代史に当てはめ、記紀の成立過程についてひとつの相当程度合理的な説明を行った側面が大きい[注 6]。
ただし、同様の原則を古代史に適用することは、直接皇室の歴史を疑うことにつながるゆえに、禁忌とされてきた。それを初めて破って、著書の中で近代的な史料批判を全面的に記紀に適用したのが津田だった。
それゆえ津田が従前の歴史学から離れた立場にあったわけではないが、津田の業績を基本的に承認・利用しつつ、その核心部分を肯定する文章を自ら書き下ろすことは避けようとする態度が他の学者にはあった[27]。
津田の個々具体的な主張には、かなり印象論的なものも多く、批判もあった。日本史の坂本太郎や井上光貞は、津田らの研究が「主観的合理主義」に過ぎないという主旨の批判を行っている[注 7]。歴史学界の外部からは、津田が歴史史料以外を信用せず、考古学や民俗学の知見を無視したことに批判がある[注 8]。
ただし、坂本や井上をはじめ戦後の文献史学者の多くは、津田の文献批判の基本的な構図を受け入れており、一般に継体天皇以前の記紀の記述については「単独では証拠力に乏しい」と見ている。
- 津田が主張した記紀への指摘
- 記紀神話は天皇の日本支配を正当化するため、6世紀中頃(継体から欽明朝)に作り出された説話である。
- 6世紀に作り出された説話は、様々な潤色をされ、8世紀初頭に現在の記紀神話になった。
- 初代天皇である神武天皇は大和王朝の起源を説明する為に作り出された人物で史実ではない。
- 神武から9代目の開化天皇(欠史八代)までは、記紀編纂時に挿入された創作の人物である。
- 最初に実在した可能性のある天皇は10代目の崇神天皇である。
- 13代成務天皇、14代仲哀天皇とその后の神功皇后は実在しない創作の人物である[28][29]。
このほかに広く受け入れられている津田の説として、『日本書紀』の25代武烈天皇の暴虐記事がある。不可解な武烈の暴虐記事が捏造だと初めて指摘したのが津田であった。皇統の断絶を起こし、継体天皇を招く事になった理由として、「記紀の編纂者が『尚書』『韓非子』『呂氏春秋』『史記』などに登場し王朝最後の暴君とされる桀や紂を参考にして、暴虐記事を書いた」としたのである。この説も、歴史学者からは広く支持されている[30]。
このように、記紀神話の研究を飛躍的に進めた点は高く評価されており、津田史観は現在の歴史学では定説になっている[31]。
「東洋」への批判
日中印に共同の生活がなく、共同の歴史が無いとして「東洋」という区分に否定的だった[32]。津田は日本の思想形成における中国思想の影響については、否定的もしくは消極的な立場をとり、日本文化の独自性を主張した[19]。中国思想等についての実証研究でも影響を与えたが、儒教は人間性を無視しているとして、中国思想は「特殊な否定的なもの」であるとして、批判的であった[19]。また、近代西洋文化に対しては肯定的な近代主義者でもあった。「明治人に特有な脱亜論的ナショナリズム」を体現していたとも評価される[19][33]。
日本思想史に関しても、『文学に現はれたる我が国民思想の研究』(全4巻)の大著があり、現在は岩波文庫全8巻に納められている。古代から江戸時代末期までが扱われており、未完に終わったが、『維新の思想史』などでその後の展開を知ることができる。
上代ですら日韓に親近感がなかったのは明白として、韓国併合にも否定的だった[34]。
津田の指導を受けた李丙燾(り へいとう、イ・ビョンド、1896年 - 1989年)は、朝鮮総督府朝鮮史編纂委員会委員を経て1934年に震檀学会理事長に就任し、1945年には京城帝国大学文理科教授となるが、戦後も引き続き、韓国文教部長官、韓国学術院院長を歴任し、韓国の歴史学を主導した[35]。李丙燾は津田の方法論を受け継ぎ、実証的な研究を牽引した。一方このような李丙燾に対して朝鮮民族史観からは、植民史観として批判をうけ、李丙燾及び津田左右吉の史観(例えば任那日本府に関する見解、『三国史記』初期記録不信論、漢四郡は朝鮮半島に存在したという見解)も批判されている[36]。

指導学生
津田左右吉博士記念館
2001年(平成13年)3月に、津田の遺徳と業績の顕彰を目的として、遺品、研究資料、著書等を管理、公開する施設「津田左右吉博士記念館」が開館した。
著作
- 単著
- 『新撰東洋史』宝永館 1901
- 『朝鮮歷史地理』南満洲鉄道 1913
- 『神代史の新しい硏究』二松堂書店 1913
- 『文學に現はれたる我が國民思想の硏究』洛陽堂(全4巻)1917-21
- 『古事記及び日本書紀の新硏究』洛陽堂 1919
- 毎日ワンズ 2012年
- 新書版 2018年
- 『神代史の硏究』岩波書店 1924
- 『道家の思想と其の開展』東洋文庫〈東洋文庫論叢〉 1927
- 『日本上代史硏究』岩波書店 1930
- 新版 1979年
- 『上代日本の社会及び思想』岩波書店、1933
- 『左伝の思想史的硏究』東洋文庫〈東洋文庫論叢 第22〉1935
- 『支那思想と日本』(岩波新書 赤版 1937
- 度々復刊
- 岩波書店「岩波新書」大判 1984年
- 『儒敎の實踐道德』岩波書店 1938
- 『蕃山・益軒』岩波書店〈大教育家文庫〉 1938
- 復刊 1984年
- 『論語と孔子の思想』岩波書店 1946
- 復刊 1974年
- 『歴史の矛盾性』大洋出版社 1947
- 『日本上代史の研究』岩波書店 1947
- 『ニホン人の思想的態度』中央公論社、1948
- 『学問の本質と現代の思想』岩波書店、1948
- 『日本古典の研究』岩波書店 1948-50
- 『日本の神道』岩波書店 1949
- クレス出版〈神道研究選集第6巻〉2014
- 『おもひだすまゝ』岩波書店 1949
- 『必然・偶然・自由』角川新書、1950
- 『儒教の研究』岩波書店(全3巻)1950-56
- 『諸民族における人間概念』国連出版社 1951
- 『日本の皇室』早稲田大学出版部 1952
- 『日本文芸の研究』岩波書店 1953
- 『歴史の扱ひ方 歴史教育と歴史学』中央公論社 1953
- 『シナ仏教の研究』岩波書店 1957
- 『歴史学と歴史教育』岩波書店 1959
- 『思想・文芸・日本語』岩波書店 1961
- 著作選集
- 『津田左右吉セレクション1 津田史学の思想』(書肆心水、2012年)
- 『津田左右吉セレクション2 日本文化と外来思想』(書肆心水、2012年)
- 『津田左右吉セレクション3 記紀の構造・思想・記法』(書肆心水、2012年)
- 著作全集
『津田左右吉全集』(岩波書店(全28巻、別巻5冊)1963 - 1966年
- 『第1巻 (日本古典の研究 上)』1963年。
- 『第2巻 (日本古典の研究 下)』1963年。
- 『第3巻 (日本上代史の研究)』1963年。
- 『第4巻 (文学に現はれたる国民思想の研究 第1)』1964年。
- 『第5巻 (文学に現はれたる国民思想の研究 第2)』1964年。
- 『第6巻 (文学に現はれたる国民思想の研究 第3)』1964年。
- 『第7巻 (文学に現はれたる国民思想の研究 第4)』1964年。
- 『第8巻 (文学に現はれたる国民思想の研究 第5)』1964年。
- 『第9巻 (日本の神道)』1964年。
- 『第10巻 (日本文芸の研究)』1964年。
- 『第11巻 (満鮮歴史地理研究 第1)』1964年。
- 『第12巻 (満鮮歴史地理研究 第2)』1964年。
- 『第13巻 (道家の思想とその展開)』1964年。
- 『第14巻 (論語と孔子の思想)』1964年。
- 『第15巻 (左伝の思想史的研究)』1964年。
- 『第16巻 (儒教の研究 第1)』1965年。
- 『第17巻 (儒教の研究 第2)』1965年。
- 『第18巻 (儒教の研究 第3)』1965年。
- 『第19巻 (シナ仏教の研究)』1965年。
- 『第20巻 (歴史学と歴史教育)』1965年。
- 『第21巻 (思想・文芸・日本語)』1965年。
- 『第22巻 (論叢 第1)』1965年。
- 『第23巻 (論叢 第2)』1965年。
- 『第24巻(自叙伝 他)』1965年。
- 『第25巻 (日記 第1)』1965年。
- 『第26巻 (日記 第2)』1965年。
- 『第27巻 (日信)』1965年。
- 『第28巻 (日本・シナ思想の研究)』1965年。
- 『別巻 第1 (神代史の新しい研究,古事記及び日本書紀の新研究)』1966年。
- 『別巻 第1 (神代史の新しい研究,古事記及び日本書紀の新研究)』1989年。
- 『別巻 第2 (文学に現はれたる我が国民思想の研究-貴族文学の時代)』1966年。
- 『別巻 第3 (文学に現はれたる我が国民思想の研究-武士文学の時代)』1966年。
- 『別巻 第4 (文学に現はれたる我が国民思想の研究-平民文学の時代 上)』1966年。
- 『別巻 第5 (文学に現はれたる我が国民思想の研究-平民文学の時代 中)』1966年。
- 『補巻1(書簡)』1989年。
- 『補巻2(書簡・補遺)』1989年。
津田左右吉に関する研究・伝記
- 家永三郎『津田左右吉の思想史的研究』岩波書店、1972年。
- 上田正昭 編『津田左右吉 人と思想』三一書房、1974年。
- 大室幹雄『アジアンタム頌 津田左右吉の生と情調』新曜社、1983年。
- 鈴木瑞枝『黄昏の人 津田左右吉』八雲書房、1994年。
- 赤座憲久著、岩淵慶造絵『歴史学者津田左右吉 歴史は未来をひらく』小峰書店〈新こみね創作児童文学〉、1998年。 - 児童文学
- 新川登亀男・早川万年編『史料としての『日本書紀』 津田左右吉を読みなおす』(勉誠出版 2011)
- 大井健輔『津田左右吉、大日本帝国との対決』(勉誠出版、2015年)
脚注
注釈
- 津田はよく記紀を「否定」したともされるが、津田自身は「誤解である」としていた。また、津田自身は皇室に対して誰にも負けないほど熱烈な敬愛の念を抱いていた[2]。
- のち1915年に『満鮮地理歴史研究報告書』として刊行
- 裁判の経過は向坂逸郎 編『嵐のなかの百年 学問弾圧小史』(勁草書房、1952年[要ページ番号])や家永三郎『津田左右吉の思想史的研究』(岩波書店、1988年)の第五編「記紀批判への刑事弾圧と津田の対応」に詳しい。
- この裁判について、多くは「恐るべき弾圧である」としているが、津田自身は「弾圧ではない」と述べており、事件の実態について研究が進められている[14]。
- 同年中に日本学士院と改称。
- 明治以後の近代史学では「歴史の再構成は古文書、日記等の同時代史料によるべきであって、たとえば『平家物語』や『太平記』を史料批判なくして同時代史料に優先して歴史の再構成に使用してはならない」という原則が、広く受け入れられていた。
- 井上光貞『日本古代史の諸問題』(思索社、1972年[要ページ番号])ほか
- 梅原猛『日本の伝統とは何か』(ミネルヴァ書房、2009年[要ページ番号])ほか。
出典
- 土田健次郎 (2011年). “津田左右吉の学問と姿勢—没後五十年津田左右吉展に際して—”. yab.yomiuri.co.jp. 読売新聞・早稲田大学. 2020年7月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月9日閲覧。
- 長部日出雄『「古事記」の真実』文春文庫、2015年、p119
- 真辺将之「戦後『象徴天皇』の出発と津田左右吉」(津田 2019, pp. 5–16)
- “美濃加茂市観光協会”. minokamo-kanko.jp. 2021年8月4日閲覧。
- 『会員名簿 昭和2年11月』早稲田大学校友会、1937年、p.4
- 国立国会図書館送信サービス『津田左右吉全集 第25巻 (日記 第1)』岩波書店 1965
- 桜沢亜伊「「満鮮史観」の再検討 : 「満鮮歴史地理調査部」と稲葉岩吉を中心として」『現代社会文化研究』第39巻、新潟大学大学院現代社会文化研究科、2007年7月、19-36頁、ISSN 1345-8485、NAID 120006740147。
- 井上光貞『日本の歴史』中公文庫、P14-15
- 蓑田胸喜「津田左右吉氏の大逆思想」(『原理日本』臨時増刊号、1939年12月)
- 石井公成「聖徳太子論争はなぜ熱くなるのか」(『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』40号、2007年5月)
- 『津田左右吉 その人と時代』美濃加茂市民ミュージアム、平成16年、p.20
- 出版法違反で岩波茂雄とともに起訴『東京日日新聞』(昭和15年3月9日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p490 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- 長部日出雄『天皇はどこから来たか』新潮社、1996年、129頁。
- 新川登亀男・早川万年編『史料としての『日本書紀』 津田左右吉を読みなおす』勉誠出版、2011年。
- 長部日出雄『天皇はどこから来たか』新潮社、1996年、119、120頁。
- 長部日出雄『天皇はどこから来たか』新潮社、1996年、121頁。
- 長部日出雄『天皇はどこから来たか』新潮社、1996年、128、129頁。
- 津田左右吉 日本歴史の研究に於ける科学的態度
- 津田左右吉 ∼建国神話を批判した異端の史学者∼ (PDF)
- 遠山茂樹『戦後の歴史学と歴史意識』p34-43
- 西義之『変節の知識人たち』PHP[要ページ番号]
- 長部日出雄『天皇はどこから来たか』新潮社、1996年、99頁。
- 日本学士院(物故会員)
- 「日本の皇室」(中央公論 1952年7月号)。「第一 日本の皇室」(津田 2019, pp. 7–31)の中のpp.7-16
- 「付章 津田左右吉の戦後の卓見、天皇制という語は使わない方がよい」(松藤 2007, pp. 218–220)
- 『朝日新聞』1961年12月4日付夕刊7面
- 井上光貞『神話から歴史へ 日本の歴史1』中央公論社〈中公文庫〉p4-5(初版1973年、第14版1982年)
- 神話と歴史 (歴史文化セレクション) 直木 孝次郎 2006/5/1 吉川弘文館 P6、7、11、63
- 直木孝次郎古代を語る〈3〉神話と古事記・日本書紀 2008 直木孝次郎 吉川弘文館
- 古代天皇家の物語 2009 加藤蕙 P226 新人物文庫
- 神話と歴史 (歴史文化セレクション) 直木 孝次郎 2006/5/1 吉川弘文館 P6、7
- 津田左右吉 東洋文化、東洋思想、東洋史
- 田尻祐一郎「国民という思想-津田左右吉をめぐって」、「季刊日本思想史63」ぺりかん社、2003年
- 津田左右吉 陳言套語
- 「震檀学会と朝鮮学運動」〈朝鮮史から民族を考える 22〉 植民地期の朝鮮人史学者たち㊦康成銀朝鮮大学校教授記事。朝鮮新報 2008年7月7日記事
- イ・ドギル (2009年5月15日). “現在進行形 歴史わい曲の後には ‘津田・イ・ビョンド 濃厚な影’”. ハンギョレ. 2018年5月7日時点のオリジナルよりアーカイブ.
- 真辺将之が解説を担当している。
参考文献
- 津田左右吉『日本の皇室』中央公論新社〈中公クラシックス J69〉、2019年1月。ISBN 978-4-12-160182-7。 – 初刊(早稲田大学出版部)は1952年10月 NCID BN08938750
- 松藤竹二郎『三島由紀夫「残された手帳」』毎日ワンズ、2007年7月。ISBN 978-4-901622-24-0。
外部リンク
- 津田 左右吉:作家別作品リスト - 青空文庫
- 津田 黄昏:作家別作品リスト - 青空文庫
- 小竹 主:作家別作品リスト - 青空文庫
- 早稲田人名データベース 津田左右吉
- 津田左右吉の学問と姿勢—没後五十年津田左右吉展に際して—:文化:教育×WASEDA ONLINE
- 津田左右吉 ∼建国神話を批判した異端の史学者∼ (PDF) - 神奈川県立の図書館
- 美濃加茂の人物|津田左右吉 - みのかも文化の森・美濃加茂市民ミュージアム
- 早稲田と文学(津田左右吉) - ウェイバックマシン(2010年10月29日アーカイブ分) [リンク切れ] - 早稲田大学
- 津田左右吉博士顕彰会と津田博士記念館[リンク切れ](美濃加茂市民ミュージアムサイトから)
쓰다 소키치
쓰다 소키치 津田 左右吉 | |
|---|---|
| 로마자 표기 | Tsuda Sōkichi |
| 출생 | 1873년 10월 3일 |
| 사망 | 1961년 12월 4일 |
| 성별 | 남성 |
| 국적 | 일본 |
| 직업 | 역사학자 |
| 상훈 | 종3위 훈1등 서보장, 문화훈장 |
쓰다 소키치(일본어:
생애
1891년(메이지 24년) 도쿄전문학교(와세다 대학의 전신) 방어정치학과 졸업.[1] 졸업 이후 시라토리 구라키치의 지도를 받았다. 1901년 28세로 『신찬동양사』를 간행했다. 1908년까지 치바중학교 등지에서 교사로 재직했다.
1908년부터 남만주철도(만철) 도쿄지사 촉탁으로 만선지리역사조사실 연구원이 된다. 연구장은 지도교수였던 시라토리였다. 그 외에도 만철조사부의 만선역사지리조사실에는 이나바 이와키치·이케우치 히로시 등이 있었다.[2] 여기서 쓰다는 『발해고』, 『물길고』 등 고대 동양사를 연구조사했다. 이 기관은 1914년 도쿄제국대학 문과대학에 이관되는데, 그때까지 근무했다. 1913년(다이쇼 2년)에는 이와나미 서점에서 『신대사의 새로운 연구』를 간행했다.
1917년 『문학에 나타난 다가오는 우리 국민사상 연구』를 간행, 1921년까지 속간했다. 1918년(다이쇼 7년) 와세다 대학 강사로 취임, 동양사와 동양철학을 가르쳤다. 이듬해 『고사기와 일본서기의 새로운 연구』를 발표했다. 1920년(다이쇼 9년) 와세다 대학 문학부 교수로 임용된다.
1924년(다이쇼 13년) 51세에 『신대사의 연구』를 발표, 전저들과 마찬가지로 진무 천황까지의 신화시대 역사를 연구대상으로 사료비판을 가했다.
1927년 『도가의 사상과 그 개전』, 1930년 『일본상대사연구』, 1933년 『상대 일본의 사회 및 사상』, 1935년 『좌전의 사상사적 연구』, 1937년 『지나사상과 일본』, 1938년 『유교의 실천도덕』을 간행하며 왕성하게 집필활동을 했다.
1939년 도쿄제대 법학부 동양정치사상사 강사를 겸임했다.
츠다 사건
1939년(쇼와 14년), 『일본서기』의 쇼토쿠 태자 관련 기술에 대하여, 그 실재성 자체를 비판적으로 고찰한 것에 관해 미노다 무네키·미츠이 코우시에게 “일본정신 동양문화 말살론에 귀착하는 악마적 허무주의 무쌍흉악사상가”라고 공격당했다.[3] 1940년(쇼와 15년) 1월 문부성에 의해 와세다 교수직을 사임했다. 동년 2월 10일 『고사기 및 일본서기의 연구』, 『신대사의 연구』, 『일본상대사연구』, 『상대 일본의 사회 및 사상』 4책이 발매금지 처분되었다. 쓰다 및 쓰다의 책을 출판한 이와나미 시게오는 동년 3월 “황실의 존엄을 모독”한 죄로 출판법 제26조 위반으로 기소되었다. 1942년(쇼와 17년) 5월 츠다는 금고 3개월 집행유예 2년, 이와나미는 2개월 집유 2년 판결을 받았다. 쓰다는 항소했으나 1944년(쇼와 19년) 시효에 의해 면소되었다. 쓰다 자신은 후에 “탄압당한 것이 아니다”라고 말한 바 있어 사건의 실태에 관한 연구는 아직도 진행 중이다.[4]
전후
일본 제국이 패망하면서 전후에는 황국사관을 부정하는 "쓰다 사관"이 오히려 주류가 되었다.
쓰다는 반공주의자로서 전후 공산주의 유행에 비판적이었다.[5]
1946년(쇼와 21년) 잡지 『세계』 제4호에 「건국의 사정과 만세일계의 사상」에서 “천황제는 시세의 변화에 따라 변화하고, 민주주의와 천황제는 모순되지 않는다”며 천황제 유지를 논했다.[6] 그래서 천황제 폐지론자들에게 변절자라고 비판당했다.[7] 하지만 쓰다는 원래 천황제를 입헌군주제로 발전시켜야 한다고 일관되게 생각했기에 딱히 변절한 것은 아니었다.
1947년(쇼와 22년) 제국학술원(동년 일본학사원으로 개칭) 회원으로 선출되었다. 1949년(쇼와 24년) 문화훈장 수훈. 1960년(쇼와 35년)에는 미노카모시 명예시민 제1호로 선정되었다.
평가
쓰다는 『고사기』와 『일본서기』가 후세의 윤색이 현저하다고 문헌비판했다. 이것은 메이지 유신 이후 유입된 근대실증주의를 일본 고대사에 적용하여 기기의 성립 과정에 대해 합리적인 설명을 가한 것이다. 딱히 쓰다가 일본에서 사료비판을 최초로 한 사람인 것은 아니다. 현대 역사학에서 역사의 재구성은 동시대 사료를 우선해야 하며, 후세에 쓰인 『헤이케모노가타리』, 『태평기』 같은 것을 사료비판 없이 사용해서는 안 된다는 것이 상식적 원칙이다. 그러나 이런 원칙을 고대사에 적용하는 것은 황실의 역사를 의심하는 것으로 자연스럽게 연결되기에 금기시되었다. 그것을 처음 때리고 고대사에도 사료비판을 전면적으로 적용한 데 그의 의의가 있다.[8]
하지만 쓰다가 기기를 완전히 부정한 것은 아니었으며, 천황제를 부정한 것도 아니었다. 쓰다는 일본의 사상 형성에서 중국사상의 영향에 소극적인 입장을 취하고 일본 문화의 독자성을 주장했다.[5]
쓰다의 개별 주장 중에는 인상론적인 것도 많아서 후대의 사카모토 타로, 이노우에 미츠사다 등에게 비판받았다.[9] 하지만 그들을 포함한 전후 문헌사학자들은 쓰다의 문헌비판의 기본적 구도를 받아들이고 있으며, 게이타이 천황 이전의 일본 측 기록은 한국이나 중국 사료에 같은 기록이 없으면 증거능력이 부족한 것으로 여겨지고 있다. 그 밖에는 쓰다가 사료만을 신용하여 고고학이나 민속학적 지식을 무시했다는 비판이 있다.[10]
중국사에 대한 실증연구에도 영향을 주었지만 유교가 인간성을 무시한다고 생각하고 중국사상은 “특수하게 부정적인 것”이라고 여겼다. 동시에 서양 문화에 대해 긍정적인 근대주의자였다. 따라서 메이지 시대 인물 특유의 탈아론적 국민주의를 구현했다고 평가된다.[5][11]
한국사에 관해서도 일본사와 마찬가지로 『삼국사기』의 초기기록은 신뢰할 수 없다고 판단했다. 또한 임나일본부설을 긍정적으로 검토했다. 그래서 한국에서는 식민사학자로 여겨져 평가가 박하다.[12] 이병도의 지도교수였다.
각주
- 『会員名簿 昭和2年11月』早稲田大学校友会、1937年、p.4
- 桜沢亜伊「満鮮史観の再検討」 보관됨 2016-10-24 - 웨이백 머신新潟大学大学院現代社会文化研究科、新潟大学学術リポジトリ2007年7月
- 蓑田胸喜「津田左右吉氏の大逆思想」。石井公成「聖徳太子論争はなぜ熱くなるのか」(『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』40号、2007年5月)
- 新川登亀男・早川万年編『史料としての『日本書紀』 津田左右吉を読みなおす』勉誠出版、2011年。 보관됨 2016-03-05 - 웨이백 머신
- 津田左右吉 ∼建国神話を批判した異端の史学者∼
- 遠山茂樹『戦後の歴史学と歴史意識』(p34-43)
- 西義之『変節の知識人たち』PHP
- 井上光貞『神話から歴史へ 日本の歴史1』、(4-5頁、中央公論社:中公文庫、初版1973年、第14版1982年)。
- 井上光貞『日本古代史の諸問題』(思索社、1972年)ほか。
- 梅原猛『日本の伝統とは何か』(ミネルヴァ書房、2009年
- 田尻祐一郎「国民という思想-津田左右吉をめぐって」、「季刊日本思想史63」ぺりかん社、2003年
- イ・ドギル (2009년 5월 15일). “現在進行形 歴史わい曲の後には ‘津田・イ・ビョンド 濃厚な影’”. ハンギョレ日本語版.
쓰다 좌우길
| 인물 정보 | |
|---|---|
| 탄생 | 1873년 10월 3 일 일본 기후현 가모 군 도치이 무라 |
| 사망 | 1961년 12월 4일 (88세몰) 일본 · 도쿄도 무사시노시 |
| 국적 | |
| 출신 학교 | 도쿄전문학교 |
| 학문 | |
| 시대 | 다이쇼・쇼와 |
| 연구분야 | 동양사학 동양 철학 |
| 연구기관 | 와세다대학 |
| 주요 실적 | 상대사와 동양사 의 연구 |
| 주요 작품 | 『문학에 나타나는 우리 국민사상의 연구』 『고사기 및 일본서기의 연구』 『신대사의 연구』 『일본상대사연구』 『상대일본의 사회급사상』 등 |
| 영향받은 사람 | 시라토리 고요시 |
| 영향준 인물 | 이에나가 사부로 |
| 주요 수상 경력 | 아사히상 (1960년) |
쓰다 좌우 길(츠다 소키치, 1873년 <메이지 6년> 10월 3일 - 1961년 <쇼와 36년> 12월 4일 )은 일본 의 역사학자 · 사상사가 [ 1 ] . 와세다대학 문학부 교수 . 기기 를 사료비판 의 관점에서 고대사 연구한 것으로 알려져 [ 주 1 ] 일본에서의 실증사학 의 제일인자. 1947년 제국학사원 회원 선출. 1949년(쇼와 24년)에 문화 훈장 수장. 종삼위 훈이치 등 .
개요
1913년(다이쇼 2년)의 『신대사의 새로운 연구』, 1919년(다이쇼 8년)의 『고사기 및 일본서기 의 신연구』를 간행(나중에, 각각 1924년(다이쇼 13 년 )에 『신대사의 연구』, 『고사기 및 일본서기의 연구』로 보정재간 ) 가 대표적인 초기 . 그 연구에서는 기기 신화 의 기술에 대해 신화와 역사를 판별하고 고전에 대한 철저한 사료 비판을 통해 역사적 사실을 고찰했다 [ 3 ] .
쓰다는 기기신화부터 진무천황 , 결사 8대 부터 제14대 중애천황 과 그 후의 신공황후 까지, 즉 제15대 응신천황 보다 이전의 천황은 계보도 포함해, 사실이 아니라 후세에서 만들어진 이야기라고 했다 [ 3 ] . 이들 부분은 후년의 야마토 조정 의 관인 의 정치적 목적에 의한 제작의 소산이며, 기기신화는 황실 에 정치적 위권을 갖게 한다는 사상을 전제로, 그것을 이야기로서 전개해 가는 것으로, 신부 동정 도 그 일부라고 했다. 또, 제23대 천황 현종 천황 , 제24대 인현 천황 등의 발견 이야기도 전형적인 귀종 유리 담으로 실재하지 않는다고 하고 있다. 발견담에 관련된 제22대 청녕 천황 도, 제24대 인현천황의 황자인 제25 대 무열천황 도 실재하지 않는다고 주장했다. 이러한 주장은 1939년(쇼와 14년)경부터 비판을 받게 되어, 다음 해에 저작이 발금처분이 되거나 일부 삭제를 명령받기도 했다 [ 3 ] . 그러나 쓰다에는 자설이라고 주장하는 것에 황실의 존엄을 모독하는 의식은 전혀 없고, 황실의 존엄은 신화나 정치적 위권에 근거하지 않는다는 신념이 있었다 [ 3 ] .
쓰다설은, 전후 치고는 통설로서 다루어져 왔지만, 고고학의 진보 등에 의해 비판적으로 다루어지는 경우도 많아졌다.
평생
- 살아남다
1873년(메이지 6년) 10월 3일, 기후현 가모군 도치이 무라 (현 미노 가모시 시모 메다초 히가시 도치이)에 사족 ·쓰다 후지마의 장남으로서 태어났다 [ 3 ] . 쓰다가는 오와리번의 부가 로인 죽 요가 의 가신으로, 메이지유신 후에 죽요가로부터 명령받아 동지에 이주했다 [ 4 ] .
1886년(메이지 19년)에 문명 초등학교( 미노 카모 시립 시모메다 초등학교 )를 졸업. 문명초등학교에서는 사족의 아들로서 교장의 숲들(모리토오루)로부터 한적 등의 지도를 받았다. 초등학교 졸업 후에는 나고야의 사학원을 전전한 후, 오타니파 보통학교(현재의 나고야 오타니 고등학교 )에 입학했지만, 다음 해에 중퇴해 고향의 토치이로 돌아와, 도쿄 전문학교 (후의 와세다대학 )의 교외생으로서 강의록에서 배웠다.
1890년(메이지 23년)에 상경해, 일본어 정치과에 편입. 다음 1891년(메이지 24년), 도쿄 전문학교 방어 정치과(현재의 와세다 대학 정치 경제학부 )를 졸업 [ 5 ] .
- 중학교사 및 역사연구자가 되
도쿄전문학교 졸업 후 개인적으로 백조고요시 의 지도를 받았다. 1896년(메이지 29년) 8월부터 군마현립 구제 마에바시 중학교(현재의 현립 마에바시 고등학교)에서 역사 담당 조교사가 되었다. 국사·동양사·서양사를 전문별로 나누어 담당하지 않고, 한 명의 교사가 교수해야 한다고 생각하고 있던 츠다는 “힘들게 생각하기 위해, 학교도 유쾌하게 견디지 못하고”, 그리고 “가장 불쾌해지는 수용 과목 나리리”라고 일기에 썼다(출전:마에바시 고등학교 동창 그 후, 다음 1897년 4월에 지바현립 구제 지바 중학교의 교원으로 취임, 교장은 시라토리고요시의 문과대학의 후배, 기쿠치 켄지 로였다. 취직시에, 백조가 기쿠치의 동정에 대해 쓰다에게 말하고 있는 기록이 남아, 백조에 의한 기쿠치에의 추거가 있었던 일, 채용에는 백조의 영향이 있었던 것을 알 수 있다. 쓰다도 기쿠치 교장을 높이 평가하고 있었다 [ 6 ] . 1901년(메이지 34년), 28세에 「신선 동양사」를 간행.
- 만철 도쿄 지사 만선 지리 역사 조사실의 연구원이된다
1908년(메이지 41년), 중학교 교원을 퇴직해, 만철 도쿄 지사 촉탁 ·만선 지리 역사 조사실 연구원이 되었다. 연구실장은 백조 고길이었다. 만철조사부 의 만주조선역사지리조사부문에는 그 밖에 마쓰이 등 , 이나바 이와요시 , 이케우치 히로시 등 이 있었다 [ 7 ] . 쓰다는 이 조사부에서 '발해고', '가시요시고'를 주제로 한 동양사 연구조사를 실시했다 [ 주2 ] . 1913년(다이쇼 2년)에는 이와나미 서점 에서 『신다이사의 새로운 연구』를 간행. 이 기관은 1914년(타이쇼 3년)에 도쿄제국대학 문과대학 으로 이관되지만 이관시까지 소속됐다.
- 만철 퇴사, 대학 교사가 됨
1917년(다이쇼 6년)에는 『문학에 나타나는 우리 국민사상의 연구』의 제1권을 간행하고, 1921년까지 간행을 계속했다. 1918년(타이쇼 7년), 와세다대학 강사 로 취임 [ 3 ] . 동양사 , 동양철학 을 가르쳤다 [ 1 ] . 다음 1919년(다이쇼 8년), 『고사기 및 일본서기의 신연구』를 발표. 1920년(타이쇼 9년), 와세다대학 법학부 · 문학부 교수 로 승격.
51세의 1924년(다이쇼 13년), 『고사기 및 일본서기의 신연구』와 『신대사의 새로운 연구』를 보정한 『고사기 및 일본서기의 연구』, 『신대사의 연구』를 재간 [ 3 ] . 신무 천황 이전의 신대사 를 연구의 대상으로 하고, 사료 비판 을 실시한 것이었다. 1927년, 「도가의 사상과 그 개전」을 발표. 1930년(쇼와 5년)에는 『일본 상대사 연구』, 1933년에는 『상대 일본의 사회 및 사상』, 1935년(쇼와 10년)에는 『좌전 의 사상사적 연구』, 1937년(쇼와 12년)에는, 소저 『시나 사상과 일본』, 1938년(쇼와 13년)에는 『유교의 실천도덕』 『아오야마・익처』와 왕성하게 집필 활동을 계속했다. 1939년(쇼와 14년), 도쿄 제국 대학 법학부 강사를 겸임해, 동양 정치 사상사의 강좌를 받아들였다.
- 쓰다 사건(1939년)
1939년 쓰다 사건이라 불리는 발금 사건이 일어났다. 쓰다는 역사 연구자로서의 입장으로부터 기기 에 기재된 내용의 문헌학적 고증을 실시해, 기기 신화나 「일본 서기」에 있어서의 성덕 태자 관련 기술에 대해서, 그 실재성을 포함해 비판적으로 고찰했다. 쓰다가 지적한 것은, 대략 다음의 여러 점이다 [ 8 ] .
- 고사기와 일본 서기 의 바탕이 된 것은, 황실계보의 「제기」, 궁정에서 전해져 온 설화의 집합체의 「구사」이다.
- 제기와 구사가 성립한 것은 6세기 계체천황 ~ 기명천황 의 시기이다.
- 제기의 계보는 모두 사실이 아니고, 적어도 15대 응신 천황 보다 이전(14대 중애 천황 이나 13 대 성무 천황 이전)의 천황은 창작된 비실재의 인물이다.
- 구사의 대부분, 특히 신화의 부분은, 6세기의 궁정 관인이, 상고보다 천황이 국토를 다스렸다는 것을 설득하기 위해서 제작된 것으로, 사실적인 자료 가치는 전혀 없다.
특히 문제로 여겨진 것은, 쓰다가 집필한 「고사기 및 일본서기의 연구」 「신대사의 연구」의 2권으로, 문헌적 비판을 실시한 것이 신전 으로 여겨져 온 기기를 부정하는 행위라고 여겨졌다. 요시다 유키나 미쓰이 코유키 등은, 쓰다를 「일본 정신 동양 문화 말살론에 귀착하는 악마 적 허무주의 의 무비흉악 사상가」로서, 불경죄 에 해당한다고 공격했다 [ 9 ] [ 10 ] . 이에 따라 내무성은 1940년 2월 10일에 '고사기 및 일본서기의 연구' '신대사의 연구'의 2권을 발금처분으로 하였으며 '일본상대사연구' '상대일본의 사회급사상'의 2권은 일부 삭제를 명령했다 [ 3 ] [ 주3 ] . 사건 발생과 같은 무렵, 쓰다는 문부성 의 요구로 와세다대학 교수에 대해서도 사직시켜, 3월에 출판원의 이와 나미 시게오 와 함께 도쿄 지방 검사국의 조사를 받았다. 검찰측의 기소 이유는 아래와 같이 쓰다의 주장을 명확하게 나타내고 있다.
'고사기 및 일본서기의 연구' '신대사의 연구' '일본상대사연구' '상대일본의 사회급사상' 중에 다음과 같은 내용이 포함되어 있다.
- 신무 천황 (초대)부터 중애 천황(14대)까지의 역대 천황의 존재를 부정하는 기사가 있다.
- 진무 동정 및 경행 천황 의 치쿠시 순행·구마습 친정, 일본 무존 의 구마습 정벌·동국 경략, 신공 황후의 삼한 정토 등, 상대에 있어서의 황실의 사정을 모두 부정하고 있다.
- 현인신인 천황의 지위는 제사를 하는 역할에 유래하는 것으로 하고 있다.
- 아마테루 오가미 는 신대사 작자가 관념상 창작한 것으로 하고 있다.
- 천조대신을 비롯한 황실계보상의 신들은 조정에 의한 지배를 정당화하기 위한 정치적 목적으로 창작된 존재로 하고 있다.
- 황극천황 이전의 신칙, 사위는, 모든 사람이 창작한 것으로 하고 있다.
- 중애천황 이전의 황통보에는 의도적으로 손이 가해지고 있다고 한다.
- 인덕천황 의 인정은 중국의 사상을 바탕으로 창작된 이야기로 하고 있다.
- 황실계보의 신들은 천황의 통치권을 확립하고 황실의 권위의 유래를 설명하기 위해 창작된 이야기상의 존재라고 한다.
- 아마테라 오가미에서 니니기노미코토 에 받은 神苅에는 중국의 사상을 포함하고 일본 서기 편자의 손이 더해지고 있다고 한다.
이윽고 츠다는 3월 8일에 기소, 불구속 그대로 예심에 회부되었다 [ 12 ] . 이후 21회에 걸친 공판이 비공개 가운데 행해져 1942년(쇼와 17년) 5월에 금고 3개월, 이와나미는 1개월, 모두 집행 유예 2년의 판결을 받았다 [ 3 ] . 기소 이유의 모든 것이 유죄가 되지 않았기 때문에 항소한 검사측에 대해 쓰다측도 항소했지만, 심리가 이루어지지 않은 채, 1944년(쇼와 19년) 11월 4일에 시효 에 의해 면소가 되었다 [ 3 ] [ 13 ] [ 주4 ] .
이 재판에 대해 쓰다는 나중에 「관헌에 의한 탄압이 아니다」라고 역사학자의 오쿠 보리 겸 에게 말하고 있어 법정에서는 마치 학문의 강의를 하고 있을 생각이었다고 한다. 그 주장의 핵심은 다음과 같이 요약된다. 원래 천상에 국토가 있을 리가 없고 하늘에서 사람이 내려올 리가 없기 때문에 이것은 설화이다. 설화를 역사적 사실의 기록으로 삼는 것은 『고사기』의 정신을 파괴하게 된다. 자신은 종래의 학자가 죽인 고전을 살리려고 했고, 학문적 진실을 밝히는 것으로, 존엄한 국체, 우리 황실의 지위가 점점 견고해진다는 것이었다 [ 15 ] . 제19회 공판에 증인으로 출정한 와쓰지 테츠로 는 쓰다의 연구는 황실의 존엄을 모독하는 대신, 오히려 황실에 대한 존경을 늘릴 정도로 어떤 합리적 논의 에 대해서도 엄청나지 않는 학설의 기초를 세우고 있다고 대단히 좋다고 진술했다 . 검사측의 논고 내용을 5개로 요약한 가운데 유죄로 여겨진 것은, 중애천황 이전의 천황의 존재를 긍정하는 기술이 없었던 부분에 대해서만으로, 당시의 시대 배경을 생각해도 냉정한 재판이 행해져, 이성적인 판결이 내려졌다고 할 수 있다 [ 17 ] .
- 전후
전후, 츠다는 전전의 탄압 경험이 있었기 때문에, 반대로 호의적으로 학계에 맞이했다. 쓰다는 역사를 정략의 도구로 해서는 안 된다고 유교 , 불교 , 신도 , 국학 등에 의한 역사관에 반대하고, 또 좌익 사상에도 마찬가지로 반대했다 [ 18 ] . 일관되게 공산주의 에는 부정적이었고 [ 19 ] , 전후의 공산주의의 유행에 대해서도 비판적이었다. 당시 도쿄 대학 법학부의 조수였던 마루야마 마사오 에 의하면, 「선진 정치 사상사」의 최종 강의의 끝에 쓰다를 강사 대기실로 이끌 때 많은 사람들이 밀어 온 그 중 한 명이 "쓰다 선생님의 입장은 유물 사관이 아닐까"라고 다가 갔을 때, 츠다는 재빠르게 "유물 사관은 학문 따위가 아닙니다"라고 일축했다고한다 [ 2 ] .
1946년(쇼와 21년), 잡지 『세계』 제4호에 발표한 논문 「건국의 사정과 만세일계 의 사상」에서는, 「천황제 는 시세의 변화에 따라 변화하고 있어, 민주주의 와 천황제는 모순되지 않는다」라고 천황제 유지를 논했다 [ 20 ] . 쓰다의 이 자세는, 천황제 폐지론자들 로부터는 「쓰다는 전전의 사상으로부터 변절했다」라고 비판되었다 [ 21 ] 가, 츠다의 「천황제를 입헌군주제 로 발전시켜야 한다」라고 하는 생각은 전전으로부터 일관한 것이고, 전후가 되어 변화한 것은 아니다. 논문을 게재한 『세계』의 편집자는, 쓰다에 대해 황실옹호의 기술의 재고를 요구했지만, 츠다는 30년래의 지론이라고 해서 이것에 응하지 않았다 [ 22 ] . 실제로, 33년 전의 다이쇼 2년에 출판한 자저 「신대사의 새로운 연구」에 있어서, 「우리 나라의 황실은, 상대의 소수의 씨족 모든 종가이며… 옷과 복종이 아니라면 황실의 만세일계인 근본적 이유는 여기에 있기 때문에 국민적 단결의 핵심이기 때문에 국민과 함께 국가와 함께 영구적인 것이다 . 22 ] .
1947년(쇼와 22년), 제국학사원 회원으로 선출된 [ 주 5 ] [ 23 ] .
1952년(쇼와 27년)에도 쓰다는 천황과 국민이 정치적 권력에서 갈등의 관계였던 것 같은 '잘못된 견해'를 퍼뜨리고 있는 저널리즘을 비판하고, '천황이 권력으로 국민에게 임한 것은 옛날부터 없었다 ' 고 말했다 [ 24 ] .
천황이 권력으로 국민에게 임한 것은 옛날부터 없었다. 천황은 어디까지나 일본 국가의 통치자이었지만, 역사적 사실의 명백하게 알려진 시대가 되고 나서는, 실제로 정치의 국에 당한 것은, 12의 예외를 제외하면, 전혀 없다고 해도 좋고, (중략) 옛부터 권력을 가지고 국민에게 임한 것은 걸리는 권가였다. 따라서 또 국민은, 황실에 권력이 있는 것으로서, 그에 대해 두려움 혹은 반항의 염을 안았다, 라고 하는 것은 단 한번도 없다. 그것과 싸우려고 했다는 것에 이르러는 더욱더다.- 쓰다 좌우길 “일본의 황실” [ 24 ]
쓰다는 '천황제'에 대해 비판적인 좌파론자가 자의적인 역사상을 제시하고 자국의 역사를 조소적으로 취급하면서 일본인의 과거의 생활을 추악하고 무가치인 것처럼 논하는 것을 강하게 비판하고 있었다 [ 3 ] .
1961년(쇼와 36년) 12월 4일, 노쇠 때문에 도쿄도 무사시노시 경의 자택에서 사망 [ 26 ] . 묘소는 신자시 평림사 에 있다.
수상·영전
연구 실적
고대사 연구 : 기기에 대한 질문
' 고사기 '와 ' 일본서기 ', 특히 신화 관계 부분은 후세의 윤색이 현저하다며 사료비판 을 했다. 그 방법은 쓰다의 창시가 아니라, 메이지 이후의 근대 실증주의 를 일본 고대사에 적용해, 기기의 성립 과정에 대해 하나의 상당 정도 합리적인 설명을 실시한 측면이 크다 [ 주6 ] .
다만, 유사한 원칙을 고대사에 적용하는 것은 직접 황실 의 역사를 의심하는 것으로 이어지므로 금기 로 여겨져 왔다. 그것을 처음 깨고 저서 속에서 현대적인 사료 비판을 전면적으로 기기에 적용한 것이 쓰다였다.
그러므로 쓰다가 종전의 역사학에서 떨어진 입장에 있었던 것은 아니지만, 쓰다의 업적을 기본적으로 승인·이용하면서, 그 핵심 부분을 긍정하는 문장을 스스로 신고하는 것은 피하려고 하는 태도가 다른 학자에게는 있었다 [ 27 ] .
쓰다의 개별 구체적인 주장에는 상당히 인상론적인 것도 많아 비판도 있었다. 일본사의 사카모토 타로 와 이노우에 코다테 는, 쓰다 등의 연구가 「주관적 합리주의」에 지나지 않는다는 주지의 비판을 실시하고 있다 [ 주7 ] . 역사학계의 외부로부터는, 쓰다가 역사사료 이외를 신용하지 않고, 고고학 이나 민속학 의 지견을 무시한 것에 비판이 있다 [ 주8 ] .
다만, 사카모토나 이노우에를 비롯해 전후의 문헌사학자의 대부분은, 쓰다의 문헌 비판의 기본적인 구도를 받아들이고 있어, 일반적으로 계체 천황 이전의 기기의 기술에 대해서는 「단독으로는 증거력이 부족하다」라고 보고 있다.
- 쓰다가 주장한 기기에 대한 지적
- 기기신화는 천황의 일본 지배를 정당화하기 위해 6세기 중반( 계체 에서 킨메이 아침)에 만들어진 설화이다.
- 6세기에 만들어진 설화는 다양한 윤색을 받고 8세기 초에 현재의 기기신화가 되었다.
- 초대 천황인 신부 천황 은 야마토 왕조의 기원을 설명하기 위해 만들어진 인물로 사실이 아니다.
- 진무로부터 9대째의 개화 천황 ( 결사 야쓰시로 )까지는, 기기 편찬시에 삽입된 창작의 인물이다.
- 최초로 실재했을 가능성이 있는 천황은 10대째의 숭신 천황 이다.
- 13 대 성무 천황 , 14대 중애천황 과 그 후의 신공황후 는 실재하지 않는 창작의 인물이다 [ 28 ] [ 29 ] .
이 밖에 널리 받아들여지고 있는 쓰다의 설으로서 『일본서기』의 25 대 천황 의 폭학기사가 있다. 불가해한 무열의 폭학 기사가 날조라고 처음 지적한 것이 쓰다였다. 황통의 단절을 일으켜 계체천황을 초래하게 된 이유로 "기기의 편찬자가 '상서', '한비자', '로씨 춘추', '사기' 등에 등장해 왕조 마지막 폭군이 되는 담과 견을 참고 로 하여 폭학 기사 를 썼다. 이 설도 역사학자로부터는 널리 지지되고 있다 [ 30 ] .
이와 같이 기기신화의 연구를 비약적으로 진행한 점은 높게 평가되고 있으며, 쓰다사관은 현재의 역사학에서는 정설이 되고 있다 [ 31 ] .
'동양'에 대한 비판
일중표에 공동의 생활이 없고, 공동의 역사가 없다고 해서 「동양」이라고 하는 구분에 부정적이었다 [ 32 ] . 쓰다는 일본의 사상 형성에 있어서의 중국 사상 의 영향에 대해서는, 부정적 혹은 소극적인 입장을 취해, 일본 문화 의 독자성을 주장했다 [ 19 ] . 중국 사상 등에 대한 실증 연구에서도 영향을 주었지만 유교 는 인간성을 무시하고 있다고 중국 사상은 「특수한 부정적인 것」이라고 비판적이었다 [ 19 ] . 또 근대 서양문화 에 대해서는 긍정적인 근대주의자 이기도 했다. 「메이지인에 특유한 탈아론적 내셔널리즘」을 구현하고 있었다고도 평가된다 [ 19 ] [ 33 ] .
일본 사상사 에 관해서도 『문학에 나타나는 우리 국민사상의 연구』(전 4권)의 대저가 있고, 현재는 이와나미 문고 전 8권에 납입되고 있다. 고대부터 에도 시대 말기까지가 다루어지고 있어 미완에 끝났지만, 『유신의 사상사』 등으로 그 후의 전개를 알 수 있다.
상대조차 한일에 친근감이 없었던 것은 명백해 한국 병합 에도 부정적이었다 [ 34 ] .
받은 이병읍 동, 이병도, 1896년 1989년)은 조선총독부 조선사 편찬위원회 위원을 거쳐 1934년 진단학회 이사장으로 취임하고, 1945년에는 경성 제국대학 문리과 교수가 되지만 전후에도 이어 한국문교부장관, 한국학술원원장을 역임하여 한국 의 역사학을 역임했다 .李丙燾은 쓰다의 방법론을 계승해 실증적인 연구를 견인했다. 한편 이러한 이병주에 대해 조선민족사관 에서는 식민사관 으로 비판을 받고 이병읍 및 쓰다 좌우길의 사관(예를 들면 임나 일본부 에 관한 견해, ' 삼국사기 ' 초기 기록불신론, 한4군은 한반도에 존재했다는 견해 ) 도 비판되었다 .

지도 학생
쓰다 좌우길 박사 기념관
2001년(헤세이 13년) 3월에, 쓰다의 유덕과 실적의 현창을 목적으로, 유품, 연구 자료, 저서 등을 관리, 공개하는 시설 「쓰다 좌우길 박사 기념관」이 개관했다.
저작
- 단독
- 『신선 동양사』다카나가칸 1901
- 『조선 歷史地理』南満洲鉄道1913
- 『신대사의 새로운 학구』니마츠도 서점 1913
- 『문학에 나타난 우리국민사상의 연구』낙양당 (전 4권) 1917-21
- 『고사기 및 일본서기의 신구구』 낙양당 1919
- 매일 원스 2012년
- 신서판 2018년
- 「신대사의 연구」 이와나미 서점 1924
- 『도가 의 사상과 그 개전』동양문고 <동양문고논총> 1927
- 『일본 가미요시 사구구』 이와나미 서점 1930
- 신판 1979년
- '상대 일본의 사회 및 사상' 이와나미 서점 , 1933
- 『좌전 의 사상사적 연구』동양문고 <동양문고논총 제22> 1935
- 「시나 사상과 일본」( 이와나미 신서 적판 1937
- 종종 복간
- 이와나미 서점 「이와나미 신서」대형 1984 년
- 『유감 의 과일도도』이와나미서점 1938
- ' 소산 · 익처 ' 이와나미 서점 <대교육가 문고> 1938
- 복간 1984년
- 『논어와 공자의 사상』 이와나미 서점 1946
- 복간 1974년
- 『역사의 모순성』대양 출판사 1947
- 『일본상대사의 연구』 이와나미 서점 1947
- 『일본인의 사상적 태도』 중앙공론사, 1948
- 『학문의 본질과 현대의 사상』 이와나미 서점, 1948
- 「일본 고전의 연구」이와나미 서점 1948-50
- 『일본의 신도』 이와나미 서점 1949
- 크레스 출판 <신도 연구 선집 제6권> 2014
- 『오모히다스마ゝ』 이와나미 서점 1949
- '필연·우연·자유' 카도카와 신서 , 1950
- 『유교의 연구』이와나미 서점 (전 3권) 1950-56
- '제민족의 인간 개념' 유엔 출판사 1951
- 『일본의 황실』와세다대학 출판부 1952
- 「일본 문예의 연구」이와나미 서점 1953
- 『역사의 취급편 역사교육과 역사학』 중앙공론사 1953
- 「중국 불교의 연구」 이와나미 서점 1957
- 『역사학과 역사교육』 이와나미 서점 1959
- 「사상・문예・일본어」이와나미 서점 1961
- 저작선집
- 『쓰다 좌우길 셀렉션 1 쓰다 사학의 사상』
- 『쓰다 좌우길 셀렉션 2 일본 문화와 외래 사상』( 서고심수 , 2012년)
- 『쓰다 좌우길 셀렉션 3 기기의 구조·사상·기법』( 서고심수 , 2012년)
- 저작 전집
『쓰다 좌우길 전집』( 이와 나미 서점 (전 28권, 별권 5권) 1963~1966년
- 『제1권(일본 고전의 연구상)』 1963년 .
- 『제2권(일본 고전의 연구 하)』 1963년 .
- 『제3권(일본상대사의 연구)』 1963년 .
- 『제4권(문학에 나타난 국민사상의 연구 제1)』 1964년 .
- 『제5권(문학에 나타난 국민사상의 연구 제2)』 1964년 .
- 『제6권(문학에 나타난 국민사상의 연구 제3)』 1964년 .
- 『제7권(문학에 나타난 국민사상의 연구 제4)』 1964년 .
- 『제8권(문학에 나타난 국민사상의 연구 제5)』 1964년 .
- 『제9권(일본의 신도)』 1964년 .
- 『제10권(일본 문예의 연구)』 1964년 .
- 『제11권(만선 역사지리연구 제1)』1964년 .
- 『제12권(만선 역사지리연구 제2)』1964년 .
- 『제13권(도가의 사상과 그 전개)』 1964년 .
- 『제14권(논어와 공자의 사상)』 1964년 .
- 『제15권(좌전의 사상사적 연구)』 1964년 .
- 『제16권(유교의 연구 제1)』 1965년 .
- 『제17권(유교의 연구 제2)』 1965년 .
- 『제18권(유교의 연구 제3)』 1965년 .
- 『제19권(중국불교의 연구)』 1965년 .
- 『제20권(역사학과 역사교육)』 1965년 .
- 『제21권(사상・문예・일본어)』 1965년 .
- 『제22권(논총 제1)』1965년 .
- 『제23권(논총 제2)』1965년 .
- 『제24권(자서전 외)』 1965년 .
- 『제25권(일기 제1)』 1965년 .
- 『제26권(일기 제2)』 1965년 .
- 『제27권(닛신)』1965년 .
- 『제28권(일본·중국 사상의 연구)』 1965년 .
- 『별권 제1(신대사의 새로운 연구, 고사기 및 일본서기의 신연구)』 1966년 .
- 『별권 제1(신대사의 새로운 연구, 고사기 및 일본서기의 신연구)』 1989년 .
- 『별권 제2(문학에 나타나는 우리 국민사상의 연구-귀족문학의 시대)』 1966년 .
- 『별권 제2(문학에 나타나는 우리 국민사상의 연구-귀족문학의 시대)』 1989년 .
- 『별권 제3(문학에 나타나는 우리 국민사상의 연구-무사 문학의 시대)』 1966년 .
- 『별권 제3(문학에 나타나는 우리 국민사상의 연구-무사 문학의 시대)』 1989년 .
- 『별권 제4(문학에 나타나는 우리 국민사상의 연구-평민문학의 시대상)』 1966년 .
- 『별권 제4(문학에 나타나는 우리 국민사상의 연구-평민문학의 시대상)』 1989년 .
- 『별권 제5(문학에 나타나는 우리 국민사상의 연구-평민문학의 시대 중)』 1966년 .
- 『별권 제5(문학에 나타나는 우리 국민사상의 연구-평민문학의 시대 중)』 1989년 .
- 『보권 1(서간)』 1989년 .
- 『보권2(서간·부록)』 1989년 .
쓰다 좌우길에 관한 연구·전기
- 이에나가 사부로『쓰다 좌우길의 사상사적 연구』 이와나미 서점, 1972년 .
- 우에다 마사아키 편 “ 쓰다 좌우길 사람과 사상 ” 삼일 서방 , 1974년 .
- 오무로 간오『아시안 탐보 츠다 좌우길의 생과 정조』신요샤 , 1983년 .
- 스즈키 미즈에다「황혼의 사람 츠다 좌우길」야쿠모 서방 , 1994년 .
- 아카자 헌 구저, 이와부치 게이조 그림 『역사학자 쓰다 좌우길 역사는 미래를 일으킨다』코미네 서점 <신코미네 창작 아동 문학>, 1998년. - 아동 문학
- 신카와토카메오 ·하야카와 만년편 “사료로서의 “일본 서기” 쓰다 좌우길을 다시 읽는다”( 공부 출판 2011)
- 오이 켄스케 『쓰다 좌우길, 대일본 제국과의 대결』(공부 출판, 2015년)
각주
주석
- 쓰다는 자주 기기를 '부정'했다고도 하지만, 쓰다 자신은 '오해이다'라고 했다. 또, 쓰다 자신은 황실 에 대해 누구에게도 지지 않을 정도로 열렬한 경애의 마음을 안고 있었다 [ 2 ] .
- 이후 1915년에 「만선지리역사연구보고서」로서 간행
- 재판의 경과는 무카사카 이치로편『아라시노나카의 백년 학문 탄압 소사』( 경초 서방 , 1952년 [ 요점 페이지 번호 ] )나 이에나가 사부로『쓰다 좌우길의 사상사적 연구』( 이와나미 서점 , 1988년)의 제5편 「기기 비판에의 형사 탄압과 츠다의.
- 이 재판에 대해 대부분은 「무서운 탄압 이다」라고 하고 있지만, 쓰다 자신은 「탄압이 아니다」라고 말하고 있어, 사건의 실태에 대해서 연구가 진행되고 있다 [ 14 ] .
- 같은 해에 일본 학사 원으로 개칭.
- 메이지 이후의 근대사학 에서는 「역사의 재구성은 고문서 , 일기 등의 동시대 사료 에 의한 것이어야 하고, 예를 들면 「헤이케 이야기」나 「태평기」를 사료 비판 없이 동시대 사료에 우선해서 역사의 재구성에 사용해서는 안 된다」는 원칙이 널리 받아들여지고 있었다.
- 이노우에 코다이 「일본 고대사의 여러 문제」( 사색사 , 1972년 [ 요점 페이지 번호 ] ) 외
- 우메하라 맹「일본의 전통이란 무엇인가」( 미네르바 서방 , 2009년 [ 요점 번호 ] ) 외.
출처
- 쓰다 켄지로 ( 2011년). “ 쓰다 좌우길의 학문과 자세—몰후 50년 쓰다 좌우길전에 즈음해— ” . yab.yomiuri.co.jp . 요미우리 신문 · 와세다 대학 . 2020년 7월 9일에 확인함.
- 장부 히데오 「『고사기』의 진실」 분춘 문고, 2015년, p119
- 마나베 마사유키「전후 「상징 천황」의 출발과 쓰다 좌우길」( 쓰다 2019 , pp. 5–16 )
- “ 미노 카모시 관광 협회 ”. minokamo-kanko.jp . 2021년 8월 4일에 확인함.
- 『회원 명부 쇼와 2년 11월』 와세다대학교 우회, 1937년, p.4
- 국립 국회 도서관 송신 서비스 “쓰다 좌우길 전집 제25권 (일기 제1)” 이와나미 서점 1965
- 사쿠라자와 아이 「「만물사관」의 재검토 : 「만물역사지리조사부」와 이나바 이와요시를 중심으로 하여 「현대 사회 문화연구」제 39 권
- 이노우에 고다다시 「일본의 역사」중공문고, P14-15
- 츠네다 유키 「쓰다 좌우길씨의 대역사상」(『원리 일본』 임시 증간호, 1939년 12월)
- 이시이 공성「성덕 태자 논쟁은 왜 뜨거워지는 것인가」(『코마 자와대학 대학원 불교학 연구회 연보』 40호, 2007년 5월)
- 『쓰다 좌우길 그 사람과 시대』 미노 카모 시민 박물관, 2004년, p.20
- 출판법 위반으로 이와나미 시게오와 함께 기소 “도쿄 일일 신문”(쇼와 15년 3월 9일) “쇼와 뉴스 사전 7권 쇼와 14년-쇼와 16년” p490
- 장부 히데오「천황은 어디에서 왔는가」신시오샤 , 1996년, 129쪽.
- 신카와토카메오·하야카와 만년편 『사료로서의 『일본서기』 쓰다 좌우길을 다시 읽는다』공부 출판, 2011년.
- 장부 히데오 「천황은 어디에서 왔는가」신시오샤, 1996년, 119, 120페이지.
- 장부 히데오 『천황은 어디에서 왔는가』 신시오샤, 1996년, 121쪽.
- 장부 히데오 「천황은 어디에서 왔는가」신시오샤, 1996년, 128, 129페이지.
- 쓰다 좌우길 일본 역사의 연구에 있어서의 과학적 태도
- 쓰다 좌우길 ~건국신화를 비판한 이단의 사학자~ ( PDF )
- 토야마 시게키「전후의 역사학과 역사 의식」p34-43
- 니시요시유키「변절의 지식인들」PHP [ 요페이지 번호 ]
- 장부 히데오 「천황은 어디에서 왔는가」신시오샤, 1996년, 99쪽.
- 일본 학사원(물고 회원)
- 「일본의 황실」( 중앙 공론 1952년 7월호). 「제일 일본의 황실」( 쓰다 2019 , pp. 7–31 )안의 pp.7-16
- 「부장 쓰다 좌우길의 전후의 탁견, 천황제라는 말은 사용하지 않는 것이 좋다」( 마츠토 2007 , pp. 218–220 )
- 『아사히신문』 1961년 12월 4일자 석간 7면
- 이노우에 코다이 「신화에서 역사로 일본의 역사 1」중앙 공론사 < 중공 문고 > p4-5(초판 1973년, 제14판 1982년)
- 신화와 역사 (역사 문화 선택) 나오키 효지로 2006/5/1
- 나오키 타카지로 고대를 말한다<3>신화와 고사기·일본서기 2008 나오키 타카지로 요시카와 히로후미칸
- 고대 천황가의 이야기 2009 가토 蕙 P226 신인물 문고
- 신화와 역사 (역사 문화 선택) 나오키 효지로 2006/5/1
- 쓰다 좌우길 동양문화, 동양사상, 동양사
- 다지리 유이치로 “국민이라는 사상-쓰다 좌우길을 둘러싸고”, “계간 일본 사상사 63” 페리칸사 , 2003년
- 츠다 좌우길 진언
- 「진단학회와 조선학운동」〈조선사로부터 민족을 생각한다 22〉 식민지기의 조선인사학자들 강성은 조선대학교 교수기사. 조선신보 2008년 7월 7일 기사
- 이드길 (2009년 5월 15일).한겨레 . 2018년 5월 7일 시점의 오리지널 보다 아카이브 .
- 마나베 마사유키 가 해설을 담당하고 있다.
참고문헌
- 쓰다 좌우길 “일본의 황실” 중앙 공론 신사 <중공 클래식 J69>, 2019년 1월. ISBN 978-4-12-160182-7. – 초간(와세다대학 출판부)은 1952년 10월 NCID BN08938750
- 마츠 토 타케지로 “미시마 유키오 “남겨진 수첩”” 매일 원즈 , 2007년 7월. ISBN 978-4-901622-24-0.
외부 링크
- 쓰다 좌우길:작가별 작품 리스트 - 아오카라 문고
- 쓰다 황혼 : 작가별 작품 리스트 - 푸른 하늘 문고
- 코타케 주:작가별 작품 리스트 - 아오카라 문고
- 와세다 사람 이름 데이터베이스 쓰다 좌우길
- 쓰다 좌우길의 학문과 자세—몰후 50년 쓰다 좌우길전에 즈음해—:문화:교육×WASEDA ONLINE
- 쓰다 좌우길 ~건국 신화를 비판한 이단의 사학자~ ( PDF ) - 가나가와 현립의 도서관
- 미노 가모의 인물 | 쓰다 좌우길
- 와세다와 문학(쓰다 좌우길) - 웨이백 머신 (2010년 10월 29일 아카이브분) [ 링크 끊어짐 ]- 와세다대학
- 쓰다 좌우길 박사 현창회와 쓰다 박사 기념관 [ 링크 끊어짐 ](미노 카모 시민 뮤지엄 사이트로부터)
Tsuda Sōkichi

Tsuda Sōkichi[1] (津田 左右吉?, Tsuda Sōkichi; prefettura di Gifu, 3 ottobre 1873 – Musashino, 4 dicembre 1961) è stato uno storico e docente giapponese, specialista dell'antico Giappone.
Carriera
Formatosi alla Scuola specializzata di Tōkyō (Tōkyō senmon gakkō), antenata dell'Università Waseda, Tsuda dovette attendere l'età di 47 anni prima di ottenere una cattedra all'università. Nel 1920, fu infatti nominato professore all'Università Waseda. Divenne poco dopo uno degli storici di punta delle Edizioni Iwanami, fondate nel 1913.
Caso Tsuda
Nel 1939, Minoda Muneki e altri intellettualmente di estrema destra lanciarono una campagna contro Tsuda per il motivo che le sue tesi «nichiliste» macchiavano l'istituzione imperiale[2]. Nel 1940, Tsuda fu incolpato, quattro delle sue opere furono proibite ed egli fu costretto alle dimissioni dal suo posto all'università. Nel 1942, fu condannato a tre mesi di prigione effettivae due anni con la sospensione condizionale della pena. Il suo tentativo di appello non riuscirà.
Reintegrato nelle sue funzioni alla fine della guerra, fu eletto nel 1946 presidente dell'università, ma rifiutò il posto.
Opere
Fin dal suo primo libro nel 1901, Tsuda adottò il metodo che lo caratterizza, vale a dire un'analisi storica critica dei testi letterari. Egli fu sotto questo aspetto uno dei pionieri della storia culturale del Giappone. I suoi lavori più conosciuti vertono sugli Annali del Giappone (Nihon shoki) e la Cronaca dei fatti antichi (Kojiki), i testi mitologici fondatori dell'istituzione imperiale. Pubblicate tra il 1913 e il 1933, esse lo condussero a rimettere in discussione l'idea di una origine divina della stirpe imperiale[3].
Principali pubblicazioni
In giapponese:
- 新撰東洋史 (La storia dell'Oriente: nuova selezione), Hōeikan, 1901.
- 朝鮮歴史地理 (Storia e geografia della Corea), 2 voll., Minami Manshū tetsudō, 1913.
- 神代史の新しい研究 (Nuovo studio sulla storia nell'Età degli dei), Nishōdō shoten, 1913.
- 文学に現われたる我が国民思想の研究 (Studio sul pensiero del nostro popolo attraverso la letteratura), 8 voll., Rakuyōdō, 1917-1921.
- 古事記及び日本書紀の新研究 (Nuovo studio della Cronaca dei fatti antichi e degli Annali del Giappone), Rakuyōdō, 1919.
- 上代日本の社会及び思想 (Società e pensiero del Giappone antico), Iwanami shoten, 1933.
- 支那思想と日本 (Il pensiero cinese e il Giappone), Iwanami shoten, 1937.
- 日本の神道 (La Via degli dei del Giappone), Iwanami shoten, 1937.
- 儒教の研究 (Studio sul confucianesimo), 3 voll., Iwanami shoten, 1950-1956.
- 日本の皇室 (La Casa imperiale del Giappone), Waseda daigaku shuppanbu, 1952.
- 歴史学と歴史教育 (Lo studio della storia e l'insegnamento della storia), Iwanami shoten, 1959.
In inglese:
- An Inquiry into the Japanese Mind as Mirrored in Literature: the flowering period of common people literature (Indagine sulla mente giapponese riflessa nella letteratura: il periodo della fioritura della letteratura comune del popolo), JSPS, 1970.
- What is the Oriental Culture? (Che cos'è la cultura orientale?), Hokuseidō Press, 1955.
Note
- Per i biografati giapponesi nati prima del periodo Meiji si usano le convenzioni classiche dell'onomastica giapponese, secondo cui il cognome precede il nome. "Tsuda" è il cognome.
- John S. Brownlee, Japanese Historians and the National Myths, 1600-1945: The Age of the Gods and Emperor Jinmu, UBC Press, 1997, p. 186-201.
- Pierre-François Souyri, Nouvelle Histoire du Japon, Perrin, 2010, p. 136.
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