Masahiko Nishi - 文学とオーラルヒストリー(9)
Masahiko Nishi
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文学とオーラルヒストリー(9)
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Uneasinesses in plural
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[VII-072]Tuesday
『葦舟、飛んだ』(2011)の津島佑子さん(1947-2016)は、キム・スムさん(1974- )の『ひとり』한명(2016;岡裕美訳、三一書房、2018)が世に出るのを待つことなく他界されたが、『葦舟、飛んだ』は、福岡県の二日市療養所で強制人工中絶を強いられた日本人女性以外にも、中国東北部に残った元内地人や、ハルビンのロシア人などがたどった、さまざまな「引揚・追放・残留」の軌跡に肉迫を試みた作品だった。
ただ、もしも『ひとり』を手にされていたら、それこそ「満洲」の慰安所で過酷な性奴隷制度の犠牲者でありながら、生き延びた女性たちの「帰郷」に思いを馳せるという、もうひとつの課題を自分に課されていたかもしれないなと思う。
『ひとり』の主人公である「彼女」は、架空の元慰安婦だが、そこには日本が戦争に敗北してから「彼女」が郷里に戻る(本当の「郷里」には戻りつけないままだが)までの遍歴もまた「仮構」(世に出された数々の「証言」に部分部分でもたれかかりながら)されている。
《満洲の慰安所から逃げる時、彼女は四人の少女と一緒だった。〔中略〕皆も一緒に逃げたかったが、その子たちは陰部が腫れて歩くのがやっとだった。》
しかも四人のうちの一人は《慰安所の鉄条網から出るやいなあオトウサン〔=慰安所のっ主人〕が撃った拳銃の弾を受けて倒れた。つんのめるその子を置いて、少女たちは必死で走った。慰安所から逃げ出して最初に隠れたのは、一面に広がった野生のキビ畑だった》(pp. 147-8)という。
しかし《いつの間にか少女たちは離れ離れに》なり、《慰安所かを逃げ出してから五日も経たずにひとりになった彼女は、中国人の家に入り込んだ。〔中略〕そこには男やもめがひとりで住んで》いて、《その男は自分と一緒に暮らさなければ日本兵に告げ口すると言い〔中略〕しかたなくその家に住み着いた。》(p. 148)
年を経て、彼女は《夢の中ででもいいか男に会いたい》と、その男への執着を示し、ソウルの家の《たんすの中には、男に渡そうと準備した肌着が入ってい》さえする(p. 150)。その《男の手ほど汚く、醜い手に彼女は生きてきて初めて出会った》と記憶しているのだが、慰安所ですれ違ったどの男たちの手よりも《人間らしい手》(p. 149)をしていたというのが、おそらくは彼女がその中国人の記憶にもたれかかろうとする理由なのだろう。
しかし、《優しくて、〔彼女〕を娘のように扱ってくれた》男に「嘘」をついてまで、そこを逃げ出したのは《母にどうしても会いたかった》からだった(p. 150)
しかし、彼女が思いを果たすまでには、まだまだ数々の試練が待っていたのだった。《日本兵が消え》た後は《ソ連の軍人が現れ》、彼らは《少女たちを見るとどんな畑にも分け入》り、《畑から〔中略〕出られなかった少女もいた》(p. 151)という。
また、ようやく《朝鮮語を話す人に会》い、《どうか朝鮮に連れていってください》と《哀願》するのだが、その一群にも見放され(同前)、《中国人の男やもめの家から逃げ出してから五ヶ月後に》ようやくたどり着いた「豆満江」を越えるのも一苦労だった。
日本軍慰安婦たちの苦労は、「解放」後もこのようにして続いたのだった。それはまだまだ結束の固かった「日本人」の「引揚げ」とは、かなり違った苦労を含んでいたのだ。そして、旧「満洲」地域の朝鮮人の多くは、そのまま中国に残ったわけでもあり、「引揚・追放・残留」のあり方も、大きく違っていたのが、日本人(=旧内地人)と朝鮮半島出身者だった。
◆以下は、4年ほど前に、浅野豊美さん(1964- )の監修された写真集『故郷へ/帝国日本の解体・米軍が見た日本人と朝鮮人の引揚げ』現代史料出版、2005)を紹介した一文である。参考までに引いておく。
浅野さんは、現在、早稲田大学の国際和解学研究所の所長で、科研費の「新学術領域:和解学の創成――正義ある和解を求めて」のリーダーをつとめておられる。
[III-006]Monday
1945年8月、外地(=植民地)や占領地では、約650万人の日本人(内地籍保有者)が「敗戦」の報を受けた。彼ら彼女らは、その後、「復員」もしくは「引揚げ」の途につき、博多や仙崎や舞鶴の港に帰り着くのだが、この記憶は、大空襲や原爆被災、またシベリア抑留と同じく、日本人の被害者経験として長らく語り継がれてきた。しかし、戦争終結とともに、民族大移動の途についたのは、日本人ばかりではなかったのである。
2005年に出版された写真集『故郷へ/帝国日本の解体・米軍が見た日本人と朝鮮人の引揚げ』(浅野豊美・監修、現代史料出版、2005)は、朝鮮半島から日本へと向かった「引揚げ」のみならず、中国北部から南朝鮮へといった朝鮮人の「引揚げ」の実態をもまた映し出した米軍資料を一冊にまとめたもので、まさに「帝国日本の解体」とともに、朝鮮半島には住めなくなった日本人と、中国にはおれなくなった朝鮮人の「強制退去」evacuationを、「帰国=引揚げ」repatriationとして捉え、この一連の人口移動を「極東アジア」の歴史として提示しようとする作りになっている。
同じように大規模な人口移動は、同時期の東欧地域でも進行し、そこには「ホロコースト」を生き延びたユダヤ人も含まれていたから、そうした「戦争難民」の「再定住先」をめぐってもまた難問が積み重なっていたのだが、極東アジアの場合にも、朝鮮の南北分断(米ソによる分割占領)があったため、北から南へ、南から北へという朝鮮人の流れもあり、むろん、「強制徴用」で内地に渡った朝鮮人の「再移動」という流れもあった。
同写真集の意義のひとつが《朝鮮人の引揚と日本人の引揚がいかに連動していたのかという重要な視点を提示している点》とされる浅野さんは、「解説」の最後で、戦後の日本の空気を捉えて、《戦後的価値と照応する「悲惨な引揚体験」のみが強調される構図が定着し、一国平和主義を戦争全体の被害経験へと収斂していった》と要約しつつ、かたや同じく帝国日本の崩壊後に「引揚げ」を選択肢のひとつとして与えられながら、長らく「自由と民主主義」などという「戦後的価値」の恩恵には浴することができず、その上、朝鮮戦争をまで闘わなければならなかった朝鮮人のその後にも思いを馳せておられる。要するに、日本人にとっては「戦後」の風景のひとつだったものが、朝鮮人にとっては「戦争前夜」の歴史のひとこまであったのだ。そういうまさに(私流に言えば)「複数の胸騒ぎ」へと差し向けられた写真集なのである。
《この日本人の少年は、痛いのをヤセ我慢しながら、朝鮮人のきれいな看護婦さんからコレラの予防注射をうってもらっていた》との説明が施された少年の写真(p. 18)は、目にこびりついて離れない。その少年と、若い看護婦が再会することは二度となかっただろう。そして、その後、日本人の少年と朝鮮人の看護婦の運命は、かけ離れたものになっていったのだ。
この本を出された後、浅野豊美さんは、この「解説」のなかでもすでに重視されている引揚げ日本人が現地に置き捨ててきた《在外財産》をめぐる《その返還や政府による補償を求める運動》の行方、そしてこの問題に終止符を打った、1965年の「日韓基本条約」の評価へと、その後の研究対象を拡大していかれた。日本側と韓国側の「請求権」を「相殺」にした、結果的にはさまざまな意味で禍根を残すことになった条約についてである。浅野さんは、日韓の資料に留まらず、米国に残されている資料などにもあたられ、その後の成果として、編著『戦後日本の賠償問題と東アジア地域再編』(慈学社、2013)などを、相次いで世に問われている。
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