「平和主義のメッキが剥がれてきている」戦後日本が抱え続けた“平和主義と日米安保の矛盾”の歴史を解説【話者:白井聡】
2018年8月10日 (金) 12:00
「平和主義のメッキが剥がれてきている」戦後日本が抱え続けた“平和主義と日米安保の矛盾”の歴史を解説【話者:白井聡】
6月17日放送の『日本国防論~宮台・白井・伊勢崎・孫崎・伊藤インタビュー集~』。
1948年に軍隊を廃止したコスタリカは、軍事予算をゼロにしたことで、教育や医療や環境に予算を充て、国民の幸福度を最大化する道を選びました。独自の安全保障体制で平和国家を構築したコスタリカに、私たちが学べることは何なのか。
そして、「日本の国防のかたち」とは、どうあるべきなのか。政治学者であり、京都精華大学人文学部専任講師である白井聡氏へ、日本が目指すべき「国防」のかたちについてインタビューを実施しました。
コスタリカが平和国家を構築するまでの軌跡を描いたドキュメンタリー映画『コスタリカの奇跡~積極的平和国家のつくり方~』
(画像はAmazonより)
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文学、映像、絵本……日本の文化の柱は「戦争体験の表現方法」白井聡氏。
白井:
非常に勉強になりましたし、やはりあれを見ると我が国の有様を振り返って非常に反省をさせられるという気がしますね。コスタリカも日本も平和国家だということを看板にしてるわけですよね。しかし、その内実が何なのかと言うと、コスタリカの平和主義には芯がある。
それは一朝一夕にできるものではないし、長い苦難、革命がまずあり、そしてピンチもあったけれどそれを一生懸命守り抜くという形で、幾つもの山を乗り越えながら保持してきたものなのだ、と。この社会に共有されて政治的に確立された理念である、と。だからこそ強いわけですね。それに対して日本の戦後の平和主義ってどうなんだろう? と自省を迫られます。
戦後日本の平和主義が政治的にはあやふやなものでありつつも、一応それは支えられてきたわけで、その柱が、戦争体験ということだろうと思うんですよね。戦争体験をベースにして、ある意味、戦後日本の文学であれ、映像であれ、漫画・アニメ、絵本であれ、あの経験をどう捉えるのかということが、戦後日本の文化の柱を支えてきたんですよね。しかし、その世代が今、次々と鬼籍に入って退場しつつある。
そうなると今、日本の平和主義って何だったんだろうかってことが本当に問われてきてますね。で、実はその実質はなかった、あるいはあまりにも巨大な矛盾をはらんだものだったということが、明らかになっちゃってきてると思うんですよね。そういう意味で非常に日本の有様について反省させられる番組だったと思いますね。
(画像はAmazonより)
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白井:
非常に勉強になりましたし、やはりあれを見ると我が国の有様を振り返って非常に反省をさせられるという気がしますね。コスタリカも日本も平和国家だということを看板にしてるわけですよね。しかし、その内実が何なのかと言うと、コスタリカの平和主義には芯がある。
それは一朝一夕にできるものではないし、長い苦難、革命がまずあり、そしてピンチもあったけれどそれを一生懸命守り抜くという形で、幾つもの山を乗り越えながら保持してきたものなのだ、と。この社会に共有されて政治的に確立された理念である、と。だからこそ強いわけですね。それに対して日本の戦後の平和主義ってどうなんだろう? と自省を迫られます。
戦後日本の平和主義が政治的にはあやふやなものでありつつも、一応それは支えられてきたわけで、その柱が、戦争体験ということだろうと思うんですよね。戦争体験をベースにして、ある意味、戦後日本の文学であれ、映像であれ、漫画・アニメ、絵本であれ、あの経験をどう捉えるのかということが、戦後日本の文化の柱を支えてきたんですよね。しかし、その世代が今、次々と鬼籍に入って退場しつつある。
そうなると今、日本の平和主義って何だったんだろうかってことが本当に問われてきてますね。で、実はその実質はなかった、あるいはあまりにも巨大な矛盾をはらんだものだったということが、明らかになっちゃってきてると思うんですよね。そういう意味で非常に日本の有様について反省させられる番組だったと思いますね。
コスタリカから日本が学べること
やはり人口規模が大きく違うので前提条件が違うところがあり、また産業構造もかなり違うでしょうから、当然(コスタリカの考え方を)直輸入できるかっていうと、そうできない部分もいろいろあるとは思います。ですが、ドキュメンタリーでも強調されてた部分だと思うんですけど、どれだけ国民が理念を内面化してるかというところ、これが最も学ぶべき点じゃないかと思いますね。
今般の日本の現状は本当に、戦後の日本人が平和主義を本当に内面化してきたの? かということが非常に鋭く問われる状況になってきてると思うんですよね。例えば、僕が出した『国体論』という本には「戦後日本の平和主義というのも結局、ある意味では誤魔化しによって始まったものだよ」と。「今、それが誤魔化せない状況になって、メッキが剥がれてきちゃってるんだよ」ということを書いてるわけなんですけどね。
そこで問題は、どこに誤魔化しの核心があるかということなわけです。歴史的起源から言うと、平和主義の象徴であり核心をなす憲法9条は、何のために導入されたのか。それはいろんな要因があるわけなんですけど、非常に大きかったのが、いかにして天皇制を守るか、つまり国体護持を実現する手段であったわけです。そのことは即座に大変な矛盾を生むことになったんですよね。
どうやって天皇制を維持するのかが問われる場面で、一方で(終戦時に昭和天皇は)退位すらしないわけですよね。これは諸外国から見ると、あるいはアメリカの世論からも、非常に厳しい視線があったんです。そんな中で、マッカーサーをはじめとする対日政策を直接適用する立場にあった人々は、なんとかして昭和天皇および皇室の存続を守り抜きたいと考え、日本の支配層もそれに賛同した。そのとき、要するに、「もう完全非武装の国になりますよ」というところまでやらなければ、これは世界中のみなさんが納得してくれない、ということだったわけです。
だから、憲法9条は天皇を守り抜くために必要とされたという文脈があったわけですよね。だから、最初のコンセプトとしては、自衛権すら完全に放棄してるっていうことなんですね。吉田茂【※】が国会で当時はっきりそういう答弁をしてます。「これはひどいじゃないかと、一方的に侵略される場合にはどうするんだ?」という野党側の質問に対して、「これまで自衛権の名のもとに軍拡競争が行われ、結局のところ侵略的な戦争が行われてきたんだ」、と。
※吉田茂
東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、1946年に内閣総理大臣に就任。
「だから、我が国は率先してこの自衛権を否定すると、放棄するんだっていうところにこの憲法の画期的な新しさがあるんだ」ということを吉田茂は答弁で言ってるわけなんです。だから、明らかに憲法9条の最初の考え方はそのようなものだったんです。かつ同時に、当時は国際連合によるグローバルな安全保障体制ができる、つまり各国は自発的に自衛権を放棄して主権国家間の戦争が廃絶されるだろう、という楽観的な展望が見えていた。日本はそうした流れの先駆けになりうると考えられていたわけです。
しかし、世界の趨勢(すうせい)はそうならなかった。つまり、東西対立が厳しくなってくる。そういう中で、共産主義の脅威が日本の戦後の体制にとっての脅威だと、日米の支配層は強く感じるようになってきたわけですね。
その脅威に対して何が必要なのか、日米安保体制が必要だって話になったわけですね。つまり、サンフランシスコ平和条約とともに占領が終わって、米軍がいなくなってしまう。となったときに、いわゆる共産主義勢力の直接的な侵略は無理にせよ、日本の左翼勢力を通じた、間接的な侵略の企みが起こることを、天皇をはじめ、保守支配層が恐れたんですね。そのための抑えとして、米軍がずっと居続けることが必要だということで、だから、サンフランシスコ講和条約とワンセットで日米安保条約が結ばれたわけです。
ここに大変な矛盾が生じるっていうことなんですよ。どういうことかというと、戦前からかなりの程度連続してるところの、保守支配層、つまりあの軍国主義の体制を担った勢力が、日本の権力の中枢に居続ける。このことが国体護持の実質的内容です。そしてそのシンボルが、昭和天皇の引き続きの在位だったと言えますけれども、そのためには一方で絶対平和主義が必要だったわけですよね。こんなに改心してますと。他方で、この体制を支えるために日米安保体制も必要となった。絶対的な平和主義と日米安保体制が相互補完的に共存する状況が生まれたわけですが、それが長い年月を経て結局どういうものになっていったのか。とにかく米軍というものは、第二次世界大戦後も常に戦争をし続けるわけですよね。冷戦体制下においても大中小の戦争をやり続けたわけですし、冷戦が終わってもやはり、様々な紛争に主体的に関与し続けるわけですね。
まさにこのドキュメンタリーでは「(アメリカは)中米で一体何をやってきましたか?」っていう話がかなり強調されてますけど、要するに地球上のいろんなところで間断なく戦争をやっている。そして、地球の少なく見積もっても3分の1くらいのエリアのアメリカの作戦は、日本における広大な米軍基地を抜きにしては絶対にできるはずがないんですよね。
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平和と戦争の狭間にいる日本
白井:
だから、もっと端的に言えば、日本はアメリカによる戦争の片棒を積極的に担いでますよね。だからここに赤裸々な矛盾があるわけです。憲法9条をいただく平和国家で絶対平和の国であるということと、世界最強の四六時中戦争をやってる国の大変重要な協力者であると。この矛盾ですよね。こんな矛盾を抱え込まざるを得なかったのは、言って見れば国体護持のためだったっていうことなんですよね。
今、その矛盾が赤裸々に現れてきていて、結局のところ、どっちが大事なの、ということが問われている。アメリカの重要な協力者ですよっていうことと、絶対平和を国家理念にしてますよっていうこと、どっちが大事なの? という問いです。結局、アメリカの協力者であることの方が断然大事だよねっていう本音が前景化している。だけども、これはもとから権力支配層はそうだったんですよ。
しかし、大半の国民はこの矛盾に無自覚なまま、何となくこの本音の方が日本社会の全体のコンセンサス【※】にいつの間にかなりつつある。この矛盾を誤魔化してきた戦後の親米保守支配層は非常にうまかったわけですよね。例えば、吉田茂は三枚腰で考えてたわけです。どういうことかと言うと、最初に「完全非武装でいきなさい」とアメリカから言われて、困ったなって思ったわけだけれども、天皇を守るためには仕方ないかと思ったわけですよね。
※コンセンサス
複数の人による合意・意見の一致。
これくらい反省してます、っていう姿勢を、世界に対して見せないとやばいなということで、国会でも「自衛権すら、もう、ないんだ」と断言した。でもそれは吉田の本音じゃないんですよね。そのうちほとぼりが冷めたら再軍備することになるだろうという考えがあるわけです。で、そのタイミングは早くも朝鮮戦争が起こることによって、訪れる。アメリカが命じてくるわけですよね。
「おい、お前らにも手伝ってもらわないと困る」と。で、本格的な再軍備をアメリカは求めてくるわけですけれども、吉田茂はこれを断るわけです。警察予備隊【※】でもってお茶を濁す。吉田からすれば、今はとてもじゃないけれども、そんな本格的な再軍備をやるようなお金はないし、大東亜戦争をやった軍人どもが大手を振って復権することも、吉田は嫌悪していました。
※警察予備隊
1950年8月10日にGHQのポツダム政令の一つである「警察予備隊令」(昭和25年政令第260号)により設置された武装組織。1952年10月15日に保安隊(現在の陸上自衛隊)に改組されて発展的解消をした。警察予備隊。
(画像はWikipediaより)
だから、吉田の考えでは、ここでのアメリカの要求は、のらりくらりとかわさなきゃいけないなと。だけれども、ずっと永久に軽武装っていうことでいけばいいかというと必ずしもそうは考えてはいないですから、本当に、二枚腰、三枚腰だったわけですね。いずれにせよ、吉田茂のような人物は、完全な非武装に基づく絶対平和の理念というものとは何の関係もなかったわけです。
そういうわけで、少なくとも、政治や官僚、あるいは財界の世界といった、戦後日本の主流派の集団において、国家理念としての戦後の平和主義をどう真剣に捉えて、どう実現していくのかっていうことは、実はただの一度も真剣に検討されたことはないんじゃないか? というのが、今、突きつけられている現実だと思いますね。
なぜ戦後、何十年も検討されないままなのか
なんでそんなことになったのか。あの戦争を極めていい加減な処理しかしていないから。改憲問題にしても、なぜ決着がつかないのか。1955年に自民党がいわゆる保守合同によって結成されて、改憲するということを党の根本的な綱領として掲げて結党されてるんですね。
そして現在に至るまで、例外的な一時期を除いてずっと自民党は政権の座にいるわけです。にもかかわらず、憲法改正は今の所実現してないんですよね。これは誠に驚くべきことだと思います。何回か、本気でやろうとはしてるんです。一番改憲の機運が高まったのは50年代ですね。改憲問題をめぐる吉田茂と鳩山一郎【※】の対立関係ってよく言われますけど、僕に言わせれば根本的には対立していないのです。
※鳩山一郎
1954年、内閣総理大臣在任中に自由民主党の初代総裁となり、日本とソビエト連邦の国交回復を実現。
鳩山一郎は原則的な改憲派であって、再軍備をなし崩し的にやっていくのはよくないと思っていた。吉田茂はある意味、それに比べて現実派というべきか、ゆくゆくは改憲することになるだろうけれども、とりあえずこんな感じでいいんじゃないかと。表立って改憲するとアメリカからもっと軍事的な役割を果たせって言われるし……というようなスタンスです。ある種のバランス感覚の話ですけども、結局どっちも再軍備派なんですよね。
それも正式な形で再軍備をいつかするべきである、それが早いか遅いかの違いであって、大差はないってことなんです。こういう具合に、戦後日本の政治の中心的指導者、岸信介【※】なんかもそのあとに続いてくるわけですけど、その考え方が本質的な部分で一致していたにもかかわらず、なんで改憲ができなかったかってことなんですよ。
※岸信介
自由民主党初代幹事長。内閣総理大臣就任後は、日米安保体制の成立に尽力。
それは結局、彼らが信頼を得ることができなかったからなんです。特に50年代に戦われた改憲論争的な文脈と、選挙での結果、結局できなかったわけですが、そこにおいて改憲問題を当時の保守支配勢力が堂々と提起できなかったんです。正面切って提起するたびに、彼らは失言したんですね。
つまり、戦前の権威主義をそのままに引き継いだような発言をぽろぽろとやって、その度に、世論の間ではものすごい警戒感が広がりました。戦争が終わってからわずか10年くらいしか経っていない時期ですからね。「また、あいつらあんなこと言ってるよ」と。だから、結局彼らはこの空気のために改憲することができなかったということが50年代の状況でしたよね。そして、60年安保闘争が起こる。あの混乱は支配層にとってはトラウマ的な事態であって、自民党は以後長い間改憲を言い出せなくなりました。
60年安保も岸信介の経歴とキャラクターに対する反感が最大の要因であったわけだから、いつも問題になってきたのは戦前の亡霊なんですよね。未だにある意味同じことを反復してるわけなんです。今、改憲を一番頑張ってる人たちは誰かと言うと、日本会議なわけですよね。日本会議は何なの? って言うと、彼らは憲法9条と同時に、同じかよりそれ以上に戦後憲法における個人主義を非常に憎んでるんですよね。
個人主義が家族を、いわば戦後の日本の家族という社会のベースを破壊し、おかしな国にしてしまったという考え、価値観に凝り固まっているわけです。だから、なんでこういうパターンになっちゃうのかな? っていう話なんですよね。改憲を一生懸命やろうとしてる人たちは、常にこういう露骨な復古主義丸を持ち出してきて、そして、顰蹙(ひんしゅく)を買って……そして結局のところ、必要な再検討は行われないままに今日に至ってしまいましたよね。
右翼と左翼のねじれ
実は、戦後直後の左翼は、平和憲法を全然評価してなかったんです。当時は、(米ソの)二大陣営の対立の中で、どちらかと言うとソ連の陣営に立ちながら、世界中に共産主義革命を広げていくべきなんだっていう立場に立つのが、言わばオーソドックスな左翼の考え方だったわけです。
その時に、どうやって革命をやるかと言うと、暴力革命の可能性は排除されていなかった。だから暴力を使うことを全然否定してなかったわけであって、世界革命を目指す共産主義者から見れば憲法9条なんていうのはナンセンスだったんですね。本来左翼はそうした価値観に立っていたはずなんです。ところがいつの間にか、共産党も社会党も、護憲の党、ということになってくるわけなんですよね。
他方で先ほど言ったように、そもそも憲法を変えたいはずの自民党が万年与党として君臨する中で、つまり、左翼は決して権力は握れないという状況の中で、自民党が本当にやりたいことだけは絶対にさせないぞというのが、いわば野党の存在意義になっていったという感はありますよね。そういうなかで、護憲か改憲かという単純な二項対立が形成されていった感じがありますね。
ただし、こうした構造が固まった55年体制の安定期においては、自民党の中のかなりの部分も護憲派になっていたんです。例えば、先年亡くなった野中広務【※】さんは自民党の中でもかなりはっきりした護憲派だったわけですよね。自民党の中にはほとんど極右という考え方から、憲法に関する見解に関してはほとんど左派に近い人まで、相当広いグラデーションがあったわけです。これが、ここ5年、10年くらいにおいて、安倍さん的な考え方に純化されてきたなっていうのが現在の情勢ですね。
※野中広務
自由民主党幹事長、自由民主党行政改革推進本部長などを歴任
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米国の「自発的隷属」である日本
白井:
55年体制を作った立役者のような人たち、それこそ岸信介の世代ですが、あの人たちはある意味、アメリカに取り入ることによって、首の皮一枚繋がって、それで戦後復権できた。だから彼らは、自分の命と引き換えに戦後日本をアメリカの忠良なる属国にしていったんだと。そういう意味だと「売国奴じゃないか」という見方もできるわけだけれども。
しかし、複雑な面もあります。焼け野原からどうやって復興したらいいんだというときに、現実的にはアメリカの力を借りることは最も現実的な選択だった。だから、最大限好意的に見れば、対米従属を通じた対米事実という、難しいゲームを彼らは演じたとも言える。
少なくとも言えることは、戦後当初の対米従属には目的があったんですよね。復興であり、いつか自立したいと。そのためにはとりあえず今、従属するしかないと。それとの対比で、「今の対米従属って、それによって何を目指しているですか?」 ということが問題です。対米従属の戦後レジーム【※】によってできあがった権力構造、ある種の利権の構造、これを要するに守るためだけに従属してるんですよね。だから、完全に自己目的化していますね。
※戦後レジーム
第二次世界大戦後に確立された世界秩序の体制、制度。
それを続けるためにいわば「自発的隷属」っていうことをやっている。それを長年続けてきて、すっかり心が壊れちゃった人たちっていうのが今、大量に出てきてるというのが、僕の見方ですね。
日本に米軍が多いのは第二次世界大戦で負けた懲罰である
ポスト対米従属路線の具体的な方法としては、とにかく敵を減らすしかないですよね。政策的な結論として、どういう結論になるのかっていうことは僕はあまり重要じゃないって思ってるんですよね。なぜなら、選択肢の数は多くないし、答えはわかりきっているからです。それ以上に、もっと重要なことがある。それはマインドセット【※】の問題なんですよね。
※マインドセット
組織、個人の両側における考え方の基本的な枠組みのこと。
要するにあらゆる可能性を検討・検証して、そしてその結果として、日米同盟みたいなものが最も合理的であるという結論になるんだったら、これはおかしなことではないですよ。ところが現実はそうじゃないわけなんですよね。
まずは日米安保体制っていうのは疑ってはならない前提であり、だからそれは戦後の国体なのです。初めに国体ありきであって、それを守るためにこれが合理的であるっていう理屈を後付けしていくっていうのが、現在のマインドセットです。
米軍を全部追い出すのは簡単なことではありません。なぜなら、端的に言って、米軍がこんなに日本にたくさんいるのは、第二次世界大戦で負けたことに対する懲罰だからです。ドイツを見てごらんなさい、イタリアを見てごらんなさいっていうことですね。だから、そう簡単に追い出せるものではない。追い出せないからにはどうやって付き合うのかということにもなるんでしょうけども。
そうすると米軍の駐留がなんらかの形で続くのかもしれない。だけど、大事なのはその結論に至るプロセスなんですよね。そして、そのプロセスを生むマインドセットであるところを入れ替えないと、僕はどうしようもないと思いますね。
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