世界文学重層 – 2026
西成彦 (著)
膨張主義のもと列強が争った帝国主義戦争は、国境、そして言語圏をまたいだ大規模な人的移動を引き起こした。世界各地の地域語の話者とともに、大小さまざまの〈語圏〉もまた、網目をなすように地球を覆い、重なり合ってゆく。
租界時代の上海――上海語、北京語、広東語などの中国語に、英語、フランス語、日本語、ドイツ語、ロシア語、ポーランド語、韓国語にイディッシュ語までが入り混じっていた上海で、非日本語との不断の接触・隣接関係の中から生まれた「外地の日本語文学」には、その多言語的状況が否応なく映し出されている。
朝鮮半島に出処を持つ作家たちが日本語で書く作品がそうであるように、南北アメリカのコリアン作家の作品は、英語やポルトガル語で書かれていたとしても「韓国=朝鮮=高麗語圏文学」の名に値するばかりか、ときに「他者の言語」でありながら一種の「母語(的なもの)」であった「日本語圏」の層を抱えこむ。
言語の数だけ存在し、それでいて単なる言語割・国民文学割の各国文学の総和を意味しない文学、複数の〈語圏〉の重層性に支えられた、〈世界文学〉としか名づけようのない文学の豊かさがここにある。
目 次
世界文学と日本語――まえがきに代えて
多言語都市・上海(2018年夏の「日録」より)
帝国日本のバイリンガルたち(2017年春の「日録」より)
戦後日本でだれが〈異邦人〉だったのか?
日本の・カミュ・たち
日本語文学のなかの異邦人たち
植民地の異邦人
「エトランジェの文学」の時代
マイノリティのあいだの分断
だれが「ムルソー」か?
イーハトヴの多言語性に関する覚書
賢治の日本語と異言語
日本語文学と方言、あるいは「るび/ルビ」の効用
賢治童話のなかの東北方言
人間語(国語)をあやつる二級国民たち
労使間の言語使用と種族間の言語使用
日本文学はシベリア出兵をどう受け止めたか
堀田善衞と「シベリア出兵」
宮澤賢治と「シベリア出兵」
黒島傳治と「シベリア出兵」
おわりに
世界文学と日本語の居場所
サンパウロの韓国人
「セニョール・カイーシャ」こと李箱
南米のジャパニーズとコリアン
コリアン・アメリカン文学の勢い
植民地主義と養子縁組
トラウマと物神
日本語という伏流水
棄郷者たち
語圏と文学
おわりに
あとがき
이 책은 니시 마사히코(西成彦)가 지은 '세계문학중층(世界文学重層)'입니다.
저자: 니시 마사히코 (Masahiko Nishi)
출판사: 미스즈쇼보 (みすず書房)
주요 내용: 특정 국민 문학이나 언어권에 속하지 않고, 여러 언어의 교차점에서 탄생한 문학을 '다언어성'이라는 관점에서 분석한 책입니다.
특징: 비교문학자이자 포스트콜로니얼 평론가인 저자가 언어권(언어 영역) 간의 갈등 속에서 태어난 문학을 다룹니다.
新刊紹介
世界文学は何語で書かれるか
新刊紹介
世界文学は何語で書かれるか
西成彦『世界文学重層』
2026年4月16日
2018年に刊行され、翌年に第70回読売文学賞〈随筆・紀行賞〉を受賞した『外地巡礼――「越境的日本語文学論」』を受け継ぐ一冊が、ついに登場する。
世界文学重層――自身の文学探究の旅は「複数言語のせめぎ合いのなかから生まれた文学に照準を当てるところから始まった」と振り返る著者が、「重層」という言葉にこめたものはいったい何なのだろうか。
2019年の6月10日、「国際日本研究コンソーシアム」主催の「グローバル・ヒストリーと世界文学」と題された国際ワークショップに招かれた際の講演「世界文学は何語で書かれるか」のなかで、私はこんな比喩を用いた――《いくつもの「語圏」という名のクレープが、いくつも重なり合ってミルクレープのような形で作り上げられているのが「世界文学」》だと。(本書7頁)
比較文学者である著者は、ポストコロニアル批評の分野で「英語圏アングロフォン文学」「フランス語圏フランコフォン文学」「ポルトガル語圏ルゾフォン文学」というときの「語圏」という言葉の用法に「ずっと違和感をおぼえてきた」という。
ここで用いられている「語圏」という言葉は、「帝国」の「支配圏」なるものとの親和性がきわめて高いことになる。
ただ、私が『外地巡礼』を書きながら考えていたのは、「日本語圏」は、かならずしも帝国日本の版図にかぎられるわけではなく、南北アメリカの日本人移住地もまた「日本語圏」の「飛び地」だということだった。
それらの地域では、世代交代とともに日本語の使用範囲が局限されることになるし、かりに移民第二世代が文学創作に挑むとしても英語やポルトガル語あるいはスペイン語にすがるしかなくなっていく。しかし、そこには日本語圏の一翼をになっていた日本人居住地の「共通語」(ブラジルでは、ポルトガル語まじりのそれを「コロニア語」の名で呼ぶ)の響きや香りが染みついている。(……)
つまり「語圏」という言葉は、そもそも「その言語が話されている」(-phone)を意味するのであって、「英語圏アングロフォン文学」や「フランス語圏フランコフォン文学」は、大半が「元・帝国の言語」で書かれるとはいえ、出身地の「母語(的なもの)」をたずさえて労働移民として世界に散らばったディアスポラの民は、その「母語(的なもの)」を居住国が「国語」として認定していようといまいと、「帝国」の「語圏」の担い手であると同時に、そうした「異なる語圏」の構成員でもありつづけるのである。
その意味では、南北アメリカのコリアン作家たちが英語やスペイン語やポルトガル語で書き、旧ソ連邦の「高麗人コリョサラム」がロシア語で書き、なにより在日コリアンの作家が日本語で書く豊かな作品群は、韓国=朝鮮語で書かれていないからといって「韓国=朝鮮=高麗語圏コレアノフォン文学」の名に値しないと考えるべきではない。(本書260-261頁)
『外地巡礼』からも、引いてみる。
そもそもイェジー・コシンスキの『ペインティッド・バード』(The Painted Bird, 1965)あたりは言うまでもないが、カーツェトニク135633(イェヒェル・デヌール)の『人形の家』(בית הבובות ,1953)も、エリ・ヴィーゼルの『夜』(La Nuit, 1958)も、プリモ・レーヴィの『休戦』(La tregua, 1963)も、ケルテース・イムレの『運命ではなく』(Sorstalansag, 1975)も、それらはすべて「ポーランド文学」の名前で読んでいいものだと私は思っている。それぞれの作品のなかでポーランドが「決定的な事件」と切っても切り離せない場所であるかぎりにおいて、それが何語で書かれたかは問題ではない。(142頁)
「外地」へと進出していった移住者・入植者、あるいは派遣されたり、取材を目的として渡航した作家たちによる「外地の日本語文学」。
植民地に生まれ育ち、引揚げによって外地が「故郷」から「異郷」へと化した内地人作家の文学。
出兵経験を経て書かれた、復員者たちの文学。
文学的企図をもって、あえて宗主国の言語で書くことを選びとった旧植民地作家の文学。
朝鮮半島、台湾から海を越えて合衆国や南米、そして日本へ渡り、移住地の言語で表現する作家たちの文学……
固有の言語・文化とともに人が地球上を移動し、異なる「語圏」との接触を積み重ねて、「二重、三重、四重の「語圏」を渡りあるく、思考のサーフィンともいうべき生」をいきる。こうした生を常態として書かれた作品の作者自身が「多言語話者ポリグロット」であるかどうかを、本書は問題にしない。登場人物たちが話す言葉が、あるひとつの言語だけだったとしても、「異言語との不断の接触・隣接関係が個々の作品のなかでどのように描かれるかを問うことによって、はじめてその作品の全貌が明らかになってくる」ような作品でさえあるなら、それはここで読み、論じられる対象となる。
他言語・異文化との境界上に花開く「異邦人の文学」が、単一言語主義モノリンガリズムに支配された「国民文学」の垣根を越えていくとき、それらは、国境線で切り分けられた「各国文学」の寄せ集めではなく、複数の「語圏」が重なり合う、文字通りの〈世界文学〉へと姿を変える。西成彦『世界文学重層』の目次ほか詳しい書誌情報はこちら
読売文学賞〈随筆・紀行賞〉受賞 西成彦『外地巡礼――「越境的日本語文学論」』はこちら
西成彦『死者は生者のために――ホロコーストの考古学』はこちら
西成彦の本はこちら(以上みすず書房ウェブサイト)



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