金擎天
| 金擎天 | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| ハングル: | 김경천 |
| 漢字: | 金擎天 |
| 発音: | キム・ギョンチョン |
| 日本語読み: | きん けいてん |
| ローマ字: | Kim Kyeong-Cheon |
| 各種表記(本名) | |
| ハングル: | 김현충 |
| 漢字: | 金顕忠 |
| 発音: | キム・ヒョンチュン |
| 日本語読み: | きん けんちゅう |
金 擎天(キム・ギョンチョン、朝: 김경천、露: Кёнчхон Ким、1888年6月5日 - 1942年1月2日)は、朝鮮の独立運動家。
本名は金顕忠[1] (キム・ヒョンチュン、김현충)だが、朝鮮独立運動では金光瑞(キム・ガンソ、김광서)、あるいは金擎天と名乗った。陸軍中央幼年学校・陸軍士官学校に留学して、大日本帝国陸軍騎兵中尉となったが、脱走して独立運動に身を投じ、大正年間は主にシベリアで活動した。ソ連国籍となり、スターリンの大粛清で獄死したとされている。金日成将軍伝説のモデルの一人とされる[2][3]。
名前について
[編集]1909年(明治42年)の陸軍中央幼年学校の卒業時の名前は、金顕忠である[4]。 在学中、日韓併合に際して金光瑞と改名し、1912年には京城において戸籍名も光瑞で届けでている。独立運動時代に金擎天と名乗ったため、この変名の方が有名になり、「擎天 金将軍(경천 김장군)」と呼ばれた。
金日成と名乗ったことはないが、陸士54期卒の金貞烈は、「父(陸士26期卒の金埈元)から金光瑞が伝説の金日成将軍だと聞かされていた」と語った。
金日成(金成柱)が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に姿を現したとき、多くの人々が「若すぎる」と疑問をもったことについては数々の証言があり[5]、陸軍士官学校に留学していたこと、白馬に乗って独立闘争をしていたこと、金将軍と呼ばれていたことなどから、金日成将軍伝説のモデルの一人であったのではないか、とされている。
経歴
[編集]家族と少年期
[編集]1888年6月5日、咸鏡南道北青郡新昌邑昇坪里で、金鼎禹を父、尹玉蓮を母として生を受けた。五男一女の末子である。本貫は金海金氏で、両班のうち武班の家柄であり、代々武官を勤めて裕福だったという。
擎天の本籍は漢城であり、少年期から漢城で育った。一族がみな武官で、擎天も軍人をめざした。書店でナポレオン伝を読み、憧れたという。父親の影響もあり、日本留学を志し、京城学堂(大日本海外教育会が経営する日本語学校)に進学した。
父の鼎禹は、1895年に日本に留学し、慶應義塾、順天求合社、東京工業学校に学び、東京砲兵工廠で銃弾など武器製造の研修を受けた。帰国後は大韓帝国軍の高官となっていて、息子を陸軍士官学校留学に送り出したのである。叔父が陸士留学経験者であり、その斡旋もあったといわれる。
1909年、擎天は日本留学の一週間前に、柳桂俊の娘・柳貞(유정、戸籍名、1892年 - 1971年)、通称ユ・ジョンファと結婚した。妻にピアノを習うことを勧めて、単身留学した。
日本留学
[編集]東京に留学し、1909年(明治42年)に陸軍中央幼年学校を卒業し、陸軍士官学校第23期生となる[4]。 当時、士官学校に留学していた韓国人は擎天一人だったが、陸軍幼年学校には、洪思翊や池青天など複数の留学生がいた。翌1910年の日韓併合に際しては、全員が衝撃を受け、脱走抗日を口にする者も多かった。擎天は洪思翊とともに、「吸収するべきものを吸収して時期をみよう」と自重を促したという。
1911年の5月、士官学校を卒業し、同年に任官[6]。陸軍騎兵学校に進む前後に妻を呼びよせたものとみえ、二人がもうけた二男四女のうち、上の二人の娘は千葉で生まれている。
1919年(大正8年)、擎天は騎兵第一連隊所属の日本陸軍中尉として東京にいて、李光洙など留日朝鮮人学生たちの二・八独立宣言に接する。ただちに休暇をとり、妻子を伴って京城に帰った。
独立運動
[編集]
京城において、三・一独立運動を目前にした擎天は、抗日独立運動への参加を決意し、陸士後輩の池青天とともに国境を越え、満洲へ向かった。とりあえず落ち着いた先は、南満州の新興武官学校である。これにより陸軍騎兵中尉を免本官、従七位返上を命じられる[7]。
新興武官学校は、義兵闘争時代からある独立運動武装団体の私塾だったが、この前年の凶作で、閉鎖に近い状態に陥っていた。そこへ、各地から優れた人材が集まり教官となったことで、たちまち数百人の生徒が集まった。その教官の中でも、日本陸軍の現役将校だった擎天と青天の名声は高く、旧大韓帝国軍官学校出身の将校だった申東天とともに「南満の三天」と称えられた。
しかし、擎天が教官を務めた期間は、半年ほどだった。1920年のはじめには、ハルビンにいて、ウラジオストクの抗日同志と連絡をとっていたことが、日本側の探索資料に見える[8]。擎天は、独立運動の舞台をシベリアに移した。
第一次世界大戦の最中、1917年に勃発したロシア革命により、当時のシベリアは混乱状態にあった。十月革命後、フランスとイギリスの介入で、シベリアにいたチェコ軍団が白軍に荷担し、その救援ということで、日本を中心とする連合国が シベリア出兵を行っていたのである。しかし、大戦の終結にともなって、チェコ軍団は戦闘を停止し[9]、白軍は劣勢となって、日本をのぞく連合国は撤兵を決めていた。
沿海州を中心に、シベリアには高麗人が多かったが、ロシア国籍をもつ移民ばかりではなく、抗日を志して運動をくりひろげる亡命者も多数いた。そのリーダー格の李東輝が、上海臨時政府の国務総理になっていて、レーニンの民族自決論に共鳴していた。擎天がシベリアに移った時期には、レーニンに資金援助を求める指針が決定され、在満州(間島)、シベリアの抗日朝鮮人集団は、赤軍に荷担する運びとなっていく。
ウラジオストクに駐留する日本軍は、間島と沿海州の抗日集団が行ききし、武装闘争をめざしていることを見とがめ、ちょうど擎天が連絡をとった時期、間島での現金強盗殺人事件[10]をきっかけに、大規模なウラジオストクの新韓村手入れを始めた。
擎天は、ウラジオストクに入ったものの、手入れを避けて郊外の山中に逃れ、スーチャンのタウデミ村でパルチザン部隊を結成し、韓昌傑[11]部隊、サビツキー部隊とともに、中国人馬賊部隊(古山グループ)と交戦し、これを退けた。擎天は、この馬賊退治で名を挙げ、金将軍と呼ばれるようになった。このころスーチャンでは、300人ほどのオリガ地区パルチザン連合部隊が組織されたが、擎天はこれを指揮し、1921年の春ころ、アヌチノにおいて、カッペリ兵団(コルチャーク軍の残党)との戦いに参加した。
スーチャンは、当時、非常に治安が乱れていて、擎天は民生を鄭在寛[12]に任せて、軍政をしいたと伝えられる。
擎天が指揮したスーチャンのパルチザン部隊は、際だって規律が高く、一旗組も多かった他のパルチザンとはちがっていた。赤軍指導者も「(スーチャンの)朝鮮人部隊は規律、大義への専心と敬愛の模範を示していた。……朝鮮人のあいだでは規律への不服従、命令不履行、ましてや泥酔といったケースをわれわれは知らない」と絶賛した[13]。
ところで、以前から、ウスリースクの近郊に地盤を置く朝鮮人武装団体の血誠団があったが、これが中心となってパルチザンが結集し、1921年のはじめころにはスーチャン高麗義兵団が結成された。擎天は司令官として招かれ、相当数の兵力を率いることとなった。このころから、擎天は光瑞の名で、日本側の探索資料にも登場するようになるが、それによれば、1922年半ばころには、およそ600人を率いていた。
1921年から1922年にかけて、擎天は主にイマン近辺を舞台に、赤軍に協力して白軍と戦闘をくりひろげた。1922年の夏には、沿海州革命軍事委員会が、擎天をポシェト軍区パルチザン連合部隊長に任命したともいう。
シベリアにおける当時の擎天の活躍は、朝鮮半島において発行されていた民族系の新聞、東亜日報や朝鮮日報などでも盛んに報じられ、1923年7月29日付の東亜日報は、1ページを使って擎天のインタビュー記事を載せた。この中で擎天は、「1922年1月2日のイマンにおける戦闘では、司令官の降伏で指揮官を失ったソビエト赤軍の指揮までとり、弾丸が降り注ぐ中を、白馬にまたがって指揮をとり続け、ついにイマン占領に成功した」といったことを語っている。1920年代、朝鮮半島の新聞紙上でもっとも多く報じられた独立運動家は擎天であり、インタビュー記事まで載ったのは彼一人だという。
しかし、すでにこの時期、満州、シベリアの独立武装団体は分裂し、1921年6月の黒河事変では同士討ちをくりひろげ、レーニンに頼ろうとした李東輝は影響力を失っていた。さらに1922年の10月、ウラジオストクが陥落し、日本は北サハリンをのぞいたシベリア全域から撤退を完了した。白軍の残党や迫害を恐れたロシア人たちは亡命を志してシベリアを脱出し、緩衝国として暫定的にシベリアに樹立されていた極東共和国も役目を終え、ソビエト共産党が政権を掌握した。1922年いっぱいでロシア内戦は終結したわけで、朝鮮人の抗日パルチザンもまた役目を終えた。ソビエト政権は、日本との関係修復のためにも、独立運動団体の武装活動を見逃すわけにはいかなくなっていた。
擎天は、武装独立闘争の継続を願って、1923年1月3日より、上海で行われた大韓民国臨時政府の国民代表会議に出席した。しかし、主導権をめぐる対立で臨時政府は分裂崩壊し、シベリアの高麗共産党(イルクーツク派)を中心とした勢力のみが残って、「朝鮮共和国」を名乗る組織となった。その国務委員には池青天がいて、擎天もこれを支持していたとみられる。
高麗人として
[編集]1923年8月末、朝鮮共和国の組織は、ソ連政府の庇護を期待してウラジオストクへ移り、独立宣言を発して、コミンテルンの承認を待った。翌1924年、コミンテルンは否承認の回答を出し、国外退去を迫って、組織は四散した。擎天はシベリアに残ることを選び、ここで池青天と道が分かれた。翌1925年、朝鮮半島の毎日申報は「金光瑞は亡命運動家たちを引き具して、共産主義者たちと決別した」と報じたが、誤報だった。
武装独立運動の夢を捨てきれなかった擎天は、沿海州各地で軍事指導を務める一方、武官学校の設立を画策し、ウラジオストク韓族軍人クラブを組織したりもした。また、朝鮮師範大学(在ウラジオストク)の日本語と軍事学の講師を務め、一時期、佐官級の待遇で極東ソ連当局に招かれ、軍事専門家として、シベリア各地で軍隊の組織整備に知識を貸していたともされている。
朝鮮人の日本陸軍士官学校卒業生は、当時、全誼会という親睦組織をもっていて、会報を残している。洪思翊を中心に、彼らは現役の日本軍将校でありながら、独立運動に身を投じた擎天と池青天の消息を気にかけ、京城に残された二人の妻子を援助していた。擎天の妻、ユ・ジョンファは、1923年の冬、多額の負債によって所有する家屋を処分し、自らも3人の子をかかえて困窮しながら、より生活に困っていた池夫人に100円を寄付したという。
1925年、擎天は妻子を、ウラジオストクに呼びよせた。全誼会会報には、この妻子の旅立ちまで記録されていて、彼らは擎天がシベリアに残ったことまでは、知っていたものとみられる。しかし、これを最後に、擎天の消息は載らなくなる。

1930年代の半ばから、スターリンの大粛清の一環で、ソビエト共産党や公的機関の要職にあった朝鮮人指導者、知識人に弾圧の手がのびた。1936年、擎天もスパイ容疑で逮捕され、3年の刑を受けた。
翌1937年、沿海州に住む高麗人(朝鮮人)20万人は、すべてが強制移住の対象となり、短期間のうちに中央アジアへ移送された。擎天の妻子もカザフスタンのカラガンダに送られ、「人民の敵」のレッテルのもと辛酸をなめていた。擎天は1939年に釈放され、家族のもとにたどり着いたが、ともに過ごせたのはほんの一月で、同年に再逮捕された。今度は8年の刑を受け、カラガンダのラーゲリに収容されたが、1941年、独ソ戦の勃発とともに移監され、1942年、アルハンゲリスクのラーゲリで心臓疾患により死亡したとされる。しかし、正確な死亡日時、場所、死亡原因は、いまなお不明である。
スターリンが死亡した後、1959年2月16日、擎天は名誉回復され、遺族も復権した。
没後の評価
[編集]金擎天の事跡は、闘争の舞台が主にシベリアであったために、独立後の大韓民国において長らく忘れ去られていた。その理由としては、李承晩政権にはじまる韓国の極端な反共主義が挙げられる。シベリアに残ったということは、共産主義者になったということと同義だった。
1974年、李命英が、ソウルで発行した『金日成列伝』によって、自身が子供の頃に父から聞かされていた金日成伝説が「陸士に留学していた人物」というものであったことから、伝説のモデルとして初めて掘り起こした。しかし、当時の韓国はソ連と外交関係がなく、また反共的な価値判断もあって、シベリア残留は考慮されず、1920年代後半以降の消息は不明とされていた。
1982年、北朝鮮からソ連へ亡命した許真(ホ・ジン)が、林隠というペンネームで書いた『北朝鮮王朝成立秘史ー金日成正伝ー』(日本語)が、東京で出版された。ここで、ソ連にいた高麗人たちの著作や証言によって、擎天がソ連に留まり、大粛清の犠牲になったことが明らかにされたが、当時のソ連は高麗人が自由に口をきける状況になく、粛清に関しての情報は正確さを欠いていた。また韓国において、広範な関心がよせられることもなかった。
状況が変わったのは、1990年の韓国とソ連の国交回復以降である。その翌91年冬にソビエト連邦の崩壊が起き、韓国と中央アジアの高麗人との交流が活発になり、高麗人の独立運動家が韓国で注目されるようになった。
1998年、韓国政府は金擎天に建国勲章を追敍した。その式典に際し、生存していた擎天の末娘であるキム・ジヒ(1928年 - )と末の息子にあたるキム・キボム(1932年 - )が韓国を訪れ、詳しい事跡が知られるようになった。
参考文献
[編集]- 李命英『金日成は四人いた』成甲書房、2000年。ISBN 4-88086-108-1
- 東アジア問題研究会 編『アルバム・謎の金日成 : 写真で捉えたその正体』成甲書房、1977年9月。NDLJP:12224066。
- 東アジア問題研究会 編『アルバム・謎の金日成 : 写真で捉えたその正体 増補』成甲書房、1978年1月。NDLJP:12283134。
- 山本七平『洪思翊中将の処刑』文藝春秋、昭和61年。ISBN 4-16-340210-1
- 林隠『北朝鮮王朝成立秘史 : 金日成正伝』自由社、1982年4月1日。NDLJP:12172309。
- 佐々木春隆『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』国書刊行会、1985年4月20日。NDLJP:12173181。
- 姜徳相『呂運亨評伝2 上海臨時政府』新幹社、2005年。ISBN 4-88400-033-1
- 半谷史郎・岡奈津子『中央アジアの朝鮮人ー父祖の地を遠く離れてー』(ユーラシア・ブックレットNo.93)東洋書店、2006年。ISBN 4-88595-633-1
- 萩原遼『朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀』文藝春秋、1993年。ISBN 4-16-348310-1
- 原暉之『シベリア出兵 革命と干渉1917-1922』筑摩書房、1989年。ISBN 4-480-85486-X
- 『擎天兒日錄』학고방、2012年。ISBN 9788960712386。金炳學・整理及び現代語訳
脚注
[編集]- ^ 陸軍中央幼年学校本科第八期卒業生徒人名表(明治四十二年五月)
- ^ “初代”金日成は旧陸軍士官学校出身 卒業名簿に本名記載、伝説的抗日運動家、政権が名声利用,編集委員 大野敏明
- ^ 다시쓰는 독립운동列傳 Ⅲ러시아편-5. 시베리아 항일영웅 김경천、《경향신문》 (2005.9.5)
- ^ a b https://www.sankei.com/article/20161030-65TT3QTXCJJDRE27FE3IEMJ25Q/
- ^ 例えば、萩原遼著『朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀』に詳しい。金日成のロシア語の通訳を務めていた高麗人の兪成哲(ユ・ソンチョル)は、金日成お披露目の会場にいて、「にせ者だ」「ありゃ子どもじゃないか。なにが金日成将軍なもんか」という民衆の声を聞いたと語っている。また、事実上の北朝鮮の国歌である『金日成将軍の歌』の作詞者が、当時金日成を称えて書いた『歓迎・金日成将軍』という詩にも「将軍がもどって来られることは誰も知らなかったが、将軍がもどって来られたことは誰もが知った。ー中略ー 誰もが将軍は若いという。そのとおり、将軍は若い」とある。
- ^ 陸軍士官学校・騎兵 23期卒業:朝鮮學生 金顯忠 【官報. 1911年05月31日】明治44年 p.6/18 (國會 圖書館)
- ^ 官報 1920年1月17日 二七六頁
- ^ 大正九年一月二十三日高警第一五三五号 秘 国外情報 不逞鮮人ノ行動(浦潮派遣員報告)「哈爾賓埠頭区十三道街居住金擎天ナル者ヨリ、目下浦潮ニ居住セル元平安南道平壌鎮衛隊下士ニシテ暴徒派不逞鮮人金燦五、及元咸鏡南道北青鎮衛隊下士崔元吉、並海牙密使事件ノ張本人李儁ノ実子李鏞等十二名ニ宛テ、陰十二月十五日(陽暦二月四日)愈々前進ノ予定ナルヲ以テ各位ハ二十人長トシテ部下ヲ引率シ同日迄ニ哈爾賓ニ集合セラレ度シトノ書面ノ発送シ来レリト謂フ」
- ^ もっとも、チェコ軍団を指揮下においたフランスが、大戦終結後も一年間ほど滞留を長引かせ戦闘を引き延ばした。
- ^ 密第一〇二号其七〇五 軍事第六〇号 秘 大正九年二月二日 高警第二八三二号(鮮銀被害事件犯人逮捕ニ関スル件)「一月四日咸鏡北道会寧朝鮮銀行出張所ヨリ間島龍井村同銀行出張所ニ銀行券十五万円現送途中午後六時頃龍井村ノ南方約二里梁於口ニ於テ銃器ヲ携帯セル不逞鮮人ト覚シキ十数名ノ一団ハ之ヲ襲ヒ警衛巡査長友嘉相次同行者朝鮮人陳吉豊ヲ殺害シ銀行券全部ヲ奪取セリ依テ間島派遣員及咸鏡北道ニ於テハ領事官ヲ援助シ極力捜査中ノ処朝鮮銀行龍井村出張所書記全洪@ハ予メ不逞者ト通牒シ銀行券現送ノコトヲ密告セシモノナルコト判明セシヲ以テ逮捕ノ上会寧警察署ニ於テ取調中本件ハ間島ノ居住不逞鮮人尹駿@、林國禎、崔@雪、金剛、韓相@、李龍範ナルコト畧ホ判明シタルモ彼等ハ間島奥地若ハ露領方面ニ逸走セシモノノ如ク更ニ其ノ踪跡ヲ得サリシカ廿八日ニ至り林國禎、金夏錫ノ両名ハ該銀行券を携ヘ浦塩ニ潜入シ仝地居住鮮人ニ対シ軍銃二千挺至急購入方ヲ依頼シ多額ノ報酬ヲ約シタルコトヲ仝地木祿本府派遣員ニ於テ察知シ尓来之カ逮捕ニ腐心中三十一日午前三時本件犯人ノ逮捕ヲ計画シ仝地憲兵分隊ノ応援ヲ求メ新韓村(高麗人街)ニ於けケル彼等ノ巣窟ヲ襲ヒ林國禎、尹駿@、韓相@、呉益均、崔ヒリツ、ノ五名ヲ逮捕シ現金約十三萬円及拳銃弾薬鞄等ヲ発見押収スルヲ得タリ然ルニ崔@雪ハ現場ヨリ迯@シ且ツ金夏錫ハ之ヲ発見セサリシヲ以テ目下手配中」
- ^ 韓昌傑はハン・グレゴリーとも呼ばれる。ニコリスク生まれの高麗人。ロシア国籍を持ち、大戦勃発による徴兵で対独戦を経験。キエフの士官学校に学んだ。共産党に入党し、パルチザン部隊を結成。内戦終結後、公的機関に在職したが、1930年代の後半に粛清された。
- ^ 鄭在寛はアメリカで独立運動をしていたが、ハーグ密使事件にかかわって失望。ウラジオストクに移り、勧業会設立の中心人物となり、勧業新聞を創刊するなどの独立啓蒙運動をしていた。
- ^ 原暉之『シベリア出兵 革命と干渉 1917-1922』486-487ページより「」内の訳文を引用。
김경천
| 김경천 | |
|---|---|
| 각종 표기 | |
| 한글 : | 김경천 |
| 한자 : | 김경천 |
| 발음: | 김경천 |
| 일본어 읽기: | 미안해. |
| 로마자 : | 김경천 |
| 각종 표기(본명) | |
| 한글 : | 김현충 |
| 한자 : | 김현충 |
| 발음: | 김현춘 |
| 일본어 읽기: | 킨 켄츄 |
金擎天(김경천, 아침 : 김경천 , 이슬 : 쿤쿤 김 , 1888년 6월 5일 - 1942년 1월 2일 )은 조선 의 독립운동가 .
본명은 김현충 [ 1 ] (김현춘, 김현충 )이지만 조선 독립운동 에서는 김광서 (김강서 , 김광서 ) ) 혹은 김연천 이란 이름 을 붙였다 . 3 ] .
이름 정보
[ 편집 ]1909년 ( 메이지 42년)의 육군 중앙 유년학교 의 졸업시의 이름은 김현 충이다 . [ 4 ] 1912년 에는 경성 에서 호적명도 광서 로 전해지고 있다 .
김일성이라고 자칭한 적은 없지만, 육사 54기 졸업장인 김정열 은 “아버지(육사 26기 졸업장인 김장원 )로부터 김광서가 전설의 김일성 장군이라고 들려왔다”고 말했다.
김일성(김성주)이 조선 민주주의 인민공화국(북한)에 모습을 드러냈을 때 많은 사람들이 '너무 젊다'고 의문을 품은 것에 대해서는 수많은 증언이 있다 [ 5 ] , 육군사관학교에 유학하고 있던 것, 백마를 타고 독립투쟁을 하고 있던 것, 김장군이라고 불리고 있던 것 등으로부터, 김일성장군 전설의 모델의 한 사람이었던 것이 아닌가, 라고 되어 있다.
경력
[ 편집 ]가족과 소년기
[ 편집 ]1888 년 6월 5일 함경남도 북청군 신창 읍 승 평리 에서 김북우를 아버지, 윤옥련을 어머니로 하여 생을 받았다 .
서천의 본적은 한성 이었고 , 소년기부터 한성에서 자랐다. 일족이 모두 무관으로 서천도 군인을 목표로 했다 .
아버지의 鼎禹은 1895년 에 일본에 유학해 게이오 기주쿠 , 순천구합사, 도쿄공업학교 에 배우고 도쿄포병공창에서 총탄 등 무기제조 연수를 받았다 . 제국군 의 고관이 되어 있어 아들을 육군사관학교 유학에 내보낸 것이다.
1909년 , 은천은 일본 유학 일주일 전에 야나기 슌의 딸 야나기 다다시( 유정 , 호적명, 1892년 -1971 년 ), 통칭 유정화와 결혼했다.
일본유학
[ 편집 ]도쿄에 유학해, 1909년 ( 메이지 42년)에 육군 중앙 유년학교 를 졸업해, 육군 사관학교 제23기생이 된다 [ 4 ] . 당시 사관학교에 유학하고 있던 한국인은 옹천일명이었지만, 육군 유년학교 에는 홍사준 과 연못청천 등 여러 유학생이 있었다 . 는 전원이 충격을 받고 탈주항일을 입으로 하는 자도 많았다.
1911년 5월, 사관학교를 졸업하고, 같은 해에 임관 [ 6 ] . 육군기병학교 로 가기 전후에 아내를 불러일으킨 것으로 보이고, 두 사람이 벌인 2남 4녀 중 위 두 딸은 지바에서 태어났다.
1919년 (타이쇼 8년), 은천은 기병 제일연대 소속의 일본 육군 중위로서 도쿄에 있어 이광수 등 유일조선인 학생들의 2·8 독립선언 에 접한다.
독립운동
[ 편집 ]
경성에서 삼·일 독립운동 을 눈앞에 둔 여천은 항일독립운동에 참가하기로 결심하고 육사 후배 의 연못 청천 과 함께 국경 을 넘어 만주 로 향했다 .
신흥무관학교는, 의병투쟁 시대부터 있는 독립운동무장단체의 사학원이었지만, 이 전년의 흉작으로, 폐쇄에 가까운 상태에 빠져 있었다. 거기에, 각지로부터 뛰어난 인재가 모여 교관이 된 것으로, 치마치 수백명의 학생이 모였다. 그 교관 중에서도 일본 육군의 현역 장교였던 은천과 청천의 명성은 높았고, 구대 제국 군관학교 출신의 장교였던 신동천과 함께 '남만의 삼천' 이라고 불렸다.
그러나 은천 이 교관 을 맡은 기간 은 반년 정도 였다 .
제1차 세계대전 중, 1917 년 에 발발 한 러시아 혁명 에 의해 , 당시 의 시베리아 는 혼란 상태 에 있었다 . 9 ] , 백군은 열세가 되어, 일본을 들여다본 연합국은 철병을 결정하고 있었다.
연해주 를 중심으로 시베리아에는 고려인 이 많았지 만 러시아 국적 을 가진 이민뿐 아니라 항일을 뜻하며 운동을 펼치는 망명자도 다수 있었다 . 라고 레닌 의 민족자 결론에 공명하고 있었다. 은천이 시베리아로 옮겨진 시기에는 레닌에 자금원조를 요구하는 지침이 결정되어 재만주( 간도 ), 시베리아의 항일조선인 집단은 적군 에 하담하는 운송이 된다.
블라디보스토크에 주둔하는 일본군은, 간도와 연해주의 항일집단이 가서 무장투쟁을 목표로 하고 있는 것을 보면서, 그냥 은천이 연락을 취한 시기, 간도에서의 현금 강도살인 사건 [ 10 ] 을 계기로, 대규모 블라디보스토크
은천은 블라디보스토크에 들어갔지만 손질을 피하고 교외 산속으로 도망쳐 수창의 타우데미 마을에서 파르티잔 부대를 결성해 한창걸 [ 11] ] 부대, 사비츠키 부대와 함께 중국인 말적 부대 (고산 그룹)와 교전해 이를 물리쳤다. 은천은 이 말적 퇴치로 이름을 들고 김 장군 으로 불리게 되었다 . 1921년 봄 무렵, 안티노에서 카펠리 병단( 콜처크 군의 잔당)과의 싸움에 참가했다.
수찬은 당시 매우 치안이 흐트러져 있고, 은천은 민생을 정재관 [ 12 ] 에 맡기고 군정을 했다고 전해진다.
은천이 지휘한 수찬의 파르티잔 부대는 때때로 규율이 높고 한 깃발도 많았던 다른 파르티잔과는 달랐다. 규율, 대의에 대한 전심과 경애의 모범을 나타내고 있었다 . 13 ] .
그런데, 이전부터, 우슬리스크의 근교에 지반을 두는 조선인 무장 단체의 혈성단이 있었지만, 이것이 중심이 되어 파르티잔이 결집해, 1921년 초반에는 수찬 고려의 병단이 결성되었다. 은천은 사령관으로 초대되어 상당수의 병력을 이끌게 되었다. 1922년 중반 무렵에는 약 600명을 이끌고 있었다.
1921년부터 1922년에 걸쳐, 은천은 주로 이만 근처 를 무대로, 적군에 협력해 백군 과 전투를 펼쳤다. 1922년 여름에는 연해주혁명군사위원회가 옹천을 포 셰트 군구 파르티잔 연합부대장으로 임명했다고도 한다.
시베리아에서 당시 의 은천의 활약은 한반도에서 발행되고 있던 민족계의 신문, 동아일보나 조선일보 등에서 도 활발히 보도되고 , 1923년 7월 29일자의 동아일보는 1페이지를 사용하여 톈천의 인터뷰 기사를 올렸다 . 안을, 백마에 걸쳐 지휘를 계속해, 드디어 이만 점령에 성공했다」라고 하는 것을 말하고 있다.
그러나 이미 이 시기 만주, 시베리아의 독립무장단체는 분열하고, 1921년 6월의 쿠로카와 사변에서는끼리 토벌 을 풀고, 레닌에 의지하려고 한 이동휘는 영향력을 잃고 또한 1922년 10월, 블라디보스토크가 함락되어 일본은 북사할린을 들여다본 시베리아 전역 에서 철수를 완료했다. 뜻 하고 시베리아를 탈출, 완충국으로 잠정적으로 시베리아에 수립된 극동 공화국도 역할 을 마치고, 소련 공산당이 정권을 장악했다. 결론으로 조선인의 항일 파르티잔 역시 역할 을 마쳤다.
은천은 무장독립투쟁의 계속을 바라며 1923년 1월 3일부터 상하이 에서 열린 대한민국 임시정부 의 국민대표회의에 참석했다. (이르쿠츠크파)를 중심으로 한 세력만 남아 ‘조선공화국’을 자칭하는 조직이 됐다.
고려인으로서
[ 편집 ]1923 년 8월 말 조선공화국 조직은 소련정부의 비호를 기대해 블라디보스토크로 옮겨 독립선언을 내고 코민테른의 승인 을 기다렸다 . 조직은 사산했다. 은천은 시베리아에 남기로 했고, 이곳에서 연못 청천과 길이 나뉘 었다 .
무장독립운동의 꿈을 버리지 못한 옹천은 연해주 각지에서 군사지도를 맡는 한편 무관학교 설립을 획책하고 블라디보스토크 한족군인클럽을 조직하기도 했다. 블라디보스토크)의 일본어와 군사학 강사를 맡아 한때 사관급의 대우로 극동 소련 당국에 초대되어 군사 전문가로서 시베리아 각지에서 군대의 조직 정비에 지식을 빌려주고 있었다고도 한다.
조선인의 일본육군사관학교 졸업생은 당시 전함회라는 친목조직을 갖고 있어 회보를 남기고 있다. 2명의 처자를 원조하고 있었다. 은천의 아내 유정화는 1923년 겨울, 다액의 부채에 의해 소유하는 가옥을 처분해, 스스로도 3명의 아이를 돌려 곤궁하면서, 보다 생활에 곤란하고 있던 이케 부인에게 100엔을 기부했다고 한다.
1925년 , 톈천은 처자를 블라디보스토크에게 부르게 했다.

1930 년대 중반부터 스탈린의 대숙청의 일환으로 소련 공산당이나 공적기관의 요직에 있던 조선인 지도자, 지식인에게 탄압의 손이 흩어졌다 .
이듬해 1937년 연해주 에 사는 고려인(조선인) 20만명은 모두 강제이주 대상이 되어 단기간에 중앙아시아로 이송 됐다 . 아래 신산을 핥고 있었다. 은천은 1939년 에 석방되어 가족 아래로 도착했지만, 함께 보낼 수 있었던 것은 겨우 1월로, 같은 해에 재체포 되었다 . 1941년 , 독소전의 발발 과 함께 이감되어, 1942년 , 알한게리스크의 라게리로 심장 질환에 의해 사망했다고 한다. 그러나, 정확한 사망 일시 , 장소, 사망 원인은, 아직 불명하다.
스탈린이 사망한 후, 1959년 2월 16일, 은천은 명예회복되어 유족도 복권했다.
몰후 평가
[ 편집 ]김경천 의 사적은 투쟁 무대가 주로 시베리아 였기 때문에 독립 후 대한민국 에서 오랫동안 잊혀져 있었다 .
1974년 이명영이 서울에서 발행한 '김일성열전'에 의해 자신이 어린 시절에 아버지로부터 듣고 있던 김일성 전설이 '육사에 유학하던 인물'이라는 것이었기 때문에 전설의 모 델로서 처음 파고들었다. 그러나 당시 한국은 소련과 외교관계가 없고, 또 반공적인 가치 판단도 있었고, 시베리아 잔류는 고려되지 않았고, 1920년대 후반 이후의 소식은 불명으로 여겨졌다.
1982년 북한에서 소련으로 망명한 허진이 림숨 이라는 펜네임으로 쓴 '북한 왕조 성립 비사-김일성정전'(일본어)이 도쿄에서 출판됐다. 하늘이 소련에 머물러 대숙청의 희생이 된 것으로 밝혀졌지만 당시 소련은 고려인이 자유롭게 입을 벌 수 있는 상황이 아니었고, 숙청에 관한 정보는 정확성이 부족했다.
상황이 바뀐 것은 1990년 한국과 소련의 국교회복 이후이다. 그 다음 91년 겨울에 소련의 붕괴 가 일어나 한국과 중앙아시아 의 고려인과의 교류가 활발해져 고려인의 독립운동가가 한국에서 주목받게 되었다.
1998 년 한국 정부는 김경천에 건국 훈장을 추모 했다 .
참고문헌
[ 편집 ]- 이명영 ' 김일성 은 4명이었다' 성갑서방, 2000년.
- 동아시아문제연구회 편 ' 앨범·수수께끼 의 김일성 : 사진으로 잡은 그 정체' 성갑서방 , 1977년 9월 .
- 동아시아문제연구회 편 ' 앨범·수수께끼의 김일성 : 사진으로 잡은 그 정체 증보' 성갑서방 , 1978 년 1월 .
- 야마모토 칠평『홍사준 중장의 처형』문예 춘추 , 1975년.
- 임 은 『 북한 왕조성립비사 : 김일성정전』자유사 , 1982 년 4월 1일 .
- 사사키 하루 다카시 『 조선 전쟁 전사로서의 한국 독립 운동의 연구』국서 간행회 , 1985년 4월 20 일 .
- 강덕 상 『로운 료평전 2 상하이 임시정부』 신간사, 2005년 ISBN 4-88400-033-1
- 반곡 시로·오카 나즈 코 “중앙 아시아의 조선인-부조의 땅을 멀리 떨어져”(유라시아·소책자 No.93) 동양 서점, 2006년.
- 하기와라 요 『조선전쟁-김일성과 맥아더의 음모』 문예 춘추, 1993년 .
- 하라 요시유키『시베리아 출병 혁명과 간섭 1917-1922』쓰쿠마 서방 , 1989년.
- 『擎天兒日錄』학고방, 2012년.
각주
[ 편집 ]- ↑ 육군 중앙 유년 학교 본과 제8기 졸업 학생 명표(메이지 42년 5월)
- ↑ “초대” 김일성은 구 육군 사관학교 출신 졸업 명부에 본명 기재, 전설적 항일 운동가, 정권이 명성 이용 , 편집 위원 오노 토시아키
- ^ 다시쓰는 독립운동열전 Ⅲ러시아편-5. 시베리아 항일영웅 김경천《경향신문》 (2005.9.5)
- ^ a b https://www.sankei.com/article/20161030-65TT3QTXCJJDRE27FE3IEMJ25Q/
- ↑예 를 들어, 하기와라 료저 『조선전쟁 김일성과 맥아더의 음모에 익숙 하다 . 또, 사실상 북한의 국가인 '김일성 장군의 노래'의 작사자가 당시 김일성을 기리며 쓴 '환영·김일성 장군'이라는 시에도 '장군이 돌아오는 것은 아무도 몰랐지만, 장군이 돌아온 것은 누구나 알았다. 모두가 장군은 젊다고 한다. 그대로, 장군은 젊다.
- ^ 육군사관학교·기병 23기 졸업:조선 숙생 김현충 [관보. 1911년 05월 31일】메이지 44년 p.6/18 (국회 국서관)
- ↑ 관보 1920년 1월 17일 276페이지
- ↑ 다이쇼 9년 1월 23일 고경 제1535호 비 국외 정보 불신인 노 행동(우라시오 파견원 보고) “야샤 빈 부두구 13도 거리 거주 김재천 나루자 요리, 메시라 우라시오니 거주 셀 전 헤이안 남도 평양 진위대 하사 니시테 폭도파 불신선인 금쇳오, 오이토 함경 남도 북청 진위대 하사 최모토요시, 병해아밀 사사건 노하리 본인 이수노 実子 이주 등 12명 니에게 태, 음 12월 15일(양력 2월 4일) 어쩌면 전진 노 예정 나루ㅲ이테 각위 하 20인장 토시테부하 오인율 시 같은 날까지
- ^ 무엇보다, 체코 군단을 지휘하던 프랑스가, 대전 종결 후도 1년간 정도 체류를 장력시켜 전투를 늘렸다.
- ^ 밀 제102호 其七〇五 군사 제60호 비 고경 제2832호(선은 피해 사건 범인 체포 니세키 술건) 니은행권 150,000엔 히 경위 순찰 나가 토모카 시게타 동행자 조선인 첸요시 토요오 살해시 은행권 전부 ヲ 탈취 세리에테 간지마 파견원 오함경 북도 니대 태하 영사관 ヲ 원조시 극력 수사 중 노처 조선은행 류이무라 출장소 서기 전홍 태 체포 노상 회녕 경찰서 니모테 취조 중 본건 하마지마 노 거주 불신인 윤성 @, 임국, 최 @ 눈, 금강, 한상 @ 이룡범 나루코토 畧판명 시타르모그들은 하마지마 오쿠와카하로 영방면 하 해당 은행권을 휴대해 우라시오 니 잠입 시 센지 거주민 니 대 시 군총 2천정 지급 구입 방법 ㈲ 의뢰시 견원 니대태 검지 시 아오유키 카 체포 니 부심 중 31일 오전 3시 본건 범인 노 체포 ヲ 계획 시 센지 헌병 분대 노 응원 오구메 신한촌 (고려인가) 니모이케루그등노소굴ヲ습히림국,윤윤@, 한상@, 우익균, 최히리츠, 노5명〲체포시 현금 약 13만원 오권 총탄약 가방 등 ヲ 발견 압수 술㈲득 타리연 루니 최@유키하 현장 요리 봉@시 그리고 츠카네 여름 주석 하유ヲ 발견 세사리시오이테 눈하 주문중」
- ^ 한창 걸은 한그레고리라고도 불린다. 니콜리스크 태생의 고려인.
- ^ 정재관은 미국에서 독립운동을 하고 있었지만, 헤이그 밀사사건 과 관련해 실망.
- ↑ 하라 유키유키『시베리아 출병 혁명과 간섭 1917-1922』486-487페이지에서 「」내의 번역문을 인용.

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